我を捨て去るとき心眼は開く
では、そのように自分を磨くには、具体的に何をどうしたらいいのか。
それは、ひとことでいうならこれの気負いや我力を捨てて、虚心坦懐に徹することである。自分を虚しくすることである。我をなくすことである。金銭欲をなくして、水晶のように澄みきることである。
「俺が、この霊を追い払ってやるのだ」「自分の霊力で除霊してやろう!」
こう思っている限り、行者霊などの高度な表象能力のある霊は見破れない。「俺が、俺が」という想念が心眼を曇らせてしまうのである。
いかに、自分を捨てることができるか。これが全てを決定する。
「この人を助け、この憑依霊を救うためなら、自分の命など要らない。憑依霊の霊力のほうが強く、自分の力不足のためにいますぐ死んだとしても、それで本望だ」
このように、名誉も地位も財産も全て捨てきり、自分の命までも神にあずける心境に達したときに、心眼が開き、全てが見えてくるのである。
「相手に勝ってやるぞ!」
「相手を見破ってやるぞ!」
こう思えば思うほど、ますます心が曇り、見えるものまで見えなくなってしまう。
逆に、「真心の限りを尽くして敗れるなら、それも本望、どうかこの人とこの憑依霊を救いたまえ」という、我利我欲を捨て去った心境になったとき、真実が見えてくるのである。見破ろう!見破ろう!と思うと見えなくなり、見破れなくても結構と思うと見えてくる。
神霊世界とは、まさしく人為の逆世界なのである。
いかにして無念無想の境地に達するか。仏道にせよ修験道にせよ、あるいは剣道、柔道にしても、およそ求道者と名のつく限り、誰もがこの無念無想一切放下の境地を求めて、古来、修行に励んできたのである。除霊もこれと同じである。
柳生宗矩が叫んだ「あなたこそ達人だ!」
これにまつわる面白いエピソードがあるので、ちょっとご紹介してみよう。エピソードの主人公は、徳川将軍家指南役まで務めた剣の達人、柳生但馬守宗矩である。
あるとき、宗矩は道端で一人の侍と出会った。この侍をひと目見るなり、ハッ!と感じるものがあり、宗矩は思わず問いかけた。
「ムムッ、見たところ、あなたはひとつの流派をなしている達人に違いないと察し申しあげるが、いかがかな」
「いえ、私はそのような人間ではありません」
侍は答えた。
「いやいや、そんなはずはない。私の目はごまかせない。あなたは一流一派をなしている人に違いない」
「いやあ、私にはそんな覚えはありませんが……」
「いや、いくら隠しても私にはわかる。こう見えても私は、新陰流の達人といわれる人間。これまで何人もの武芸者に会い、それなりに道を極めてきたのだ。それゆえ、一見しただけでどの程度の人物か全てわかるのだ。あなたは必ずや、ひとかどの流派をなしているに違いない。私の目に狂いはない」
「いいえ、違います。そんなにおっしゃっていただくと、何となくうれしい気持ちになりますが、私は平凡な武士にすぎません。何かのお間違いではないでしょうか」
その侍には、嘘をいっている様子が見られない。とうとう宗矩は、
「おかしいなあ。私の目に狂いはないはずなのだが……」と首をかしげてしまった。しかし、それでも宗矩はあきらめない。
「それではお伺いするが、あなたは毎日、どのように生きておられますか」
「いやあ、私はとりたてて剣術が強いというわけではありませんし、また真剣に習っているわけでもありません。ただ、いやしくも主君に仕える武士として、いついかなるときでも、一朝ことあるときには、喜んで死ねるよう心掛けてはいるつもりです。
毎朝登城するときには、今日死んでもいいと、常に死の覚悟をしてからお城に行くようにしております。まあ、違っているといえば、そのくらいでしょうか」
「それだ!」
宗矩は思わず叫んだ。
「その死の覚悟、それこそがあなたの胆を練っているのだ!あなたこそ本当の達人だ。私の目に狂いはなかったのだ」
このエピソードは無念無想一切放下の境地、達人の域に至る極意を教えているようで、非常に面白い。
つまり、無念無想一切放下の境地に達するには、全ての想い、すなわち地位、名誉、財産、家族、そして命に至るまでの、ありとあらゆるものに対する執着心を捨て、大死一番、越えて勇に出でんとする玄境が要るのである―このように、このエピソードは教えていると思うのだ。
真剣の使い手、近藤勇の秘密
もうひとつご紹介しよう。今度の主人公は、ご存じ新撰組隊長・近藤勇。
彼は、ひとたび真剣を握れば、鬼神もこれを避けるというほどの剣の達人であった。
だが、竹刀での稽古では意外なほど弱かった、ということはあまり知られていない。彼は、新撰組局長になる直前まで、天然理心流を流派とする試衛館の道場主であったのだが、このころから、門弟の土方歳三や沖田総司らにコロコロと負かされていたという。
ところが、上洛して新撰組局長となってからというもの急激に腕が上達し、またたく間に達人の域に達してしまったのである。
もっとも、稽古では相変わらず弱かったのだが、ひとたび真剣を握って敵と対峙するや全くの別人と化し、当たるを幸い、敵をバッタバッタと斬り倒し、勤皇の志士たちから蛇蝎の如く忌み嫌われたというのだ。
稽古では弱いのに本番では強い――いったい何が彼を豹変させたのか。思うに、近藤勇は命を捨てる名人だったのであろう。
「俺の命は徳川将軍様のものだ。だから、将軍のためならいつ死んでもいい」
このこだわりのない気持ちが、近藤勇の剣をして無類の冴えを見せたものと想像される。
真剣を握っての勝負は、文字どおり殺るか殺られるかの真剣勝負である。竹刀での稽古とはワケが違う。
何かひとつでも心にひっかかるものがあれば、真剣勝負など、とてもじゃないが、できやしない。命が惜しい、死が恐ろしい、家族が気になる・・・・・・こんな想いが少しでも脳裏をかすめると、それは即座に臆する心となって現われ、剣を鈍らせてしまうのだ。
これに対して、死を覚悟して、さらに、はるかにこの覚悟することさえも越える魂力で相手に立ち向かえば、自ずから気迫が違ってくる。
この気迫には、多少の技量の劣勢を補って余りあるものがある。真剣勝負では、この気迫が大切なのだ。そして、この気迫を引き出すには、明鏡止水の如きこだわりのない心境になるしかないのである。
「俺の腕をもってすれば、敗れることは絶対あるまい」などと、自分を過信してもいけないし、
「負けるかもしれない。負けたらどうしよう」と臆してもいけない。
あくまでも明鏡止水、無念無想に徹して、ことごとに当たる。これをなし得る人を、達人というのである。
除霊もこれと同じである。いや、除霊をするには、もっともっと澄みきった心境に至らなければならないといえるだろう。
考えてもみよう。憑依霊たちは何百年、あるいはそれ以上の長きにわたって怨み続けているのである。
その積もり積もった怨念は山よりも高く、海よりも深い。それを悔悟、改心させるのに、「自分の霊能力で組み伏せてやろう」
という気持ちで立ち向かって、果たして怨念霊は悔悟、改心するであろうか。
もちろん、怨みの浅いものであれば、去ることもあろう。
だが、怨みが深く、しかも生前かなりの霊能力を体得した霊ともなると、おとなしく改心することはない。それどころか、逆に霊力でやられてしまうのがおちである。
だから、霊能力と霊能力、術と術とで戦っていたのでは、本当の除霊はできないのだ。
おわかりいただけたであろうか。本当の除霊をするには、神に対する揺ぎない信仰心と人々に対する強い愛念、そして、我を取り去った明鏡止水の境地、この三つの要素が必要にして不可欠なのである。
それゆえ、除霊を承る方々は、真の求道者でなければならないと思う。生まれながらにして天より授かった霊能力を駆使しているだけではいけないのだと私は考える。
日常生活の一瞬一瞬を修行と心得て、誰よりも御魂を磨く努力をする。これが、除霊を承る霊能者に課せられた使命ではなかろうか。
学問を積んで独善を防ぐ
ところで、除霊をするにはこれを虚しうして、明鏡止水の如き澄みきった境地に至ればそれだけでいいのかというと、決してそうではない。
どうしてもやらなければならないことが、もうひとつ残っているのだ。
それは、学問の研鑽である。
先ほど、真の除霊をするための要素として信仰心、愛念、明鏡止水の境地を挙げたが、このうち最も大切なのは信仰心である。
なぜなら、神に通じる心がなければ普遍的な愛念はあり得ないし、神に全てをゆだねきるだけの絶対的信仰心がなければ、明鏡止水の境地に至ることができないからである。
それゆえ、除霊を承る限りは、何よりもまず神仏に対する信を全うしなければならないのである。
だが、無知であっては、神仏を信仰しようにも信仰心など湧き起こらないのが現実。
また、たとえ信仰心が湧き上がったとしても、心を磨き、己を省みて真理に根ざしていなければ、とかく誤った方向に流れやすい。だからこそ、学問を研鑽して真理を探究しなければならないのである。
これが、学問を積まなくてはならない大きな理由であるが、もう一つ、もっと現実的な理由がある。
それは、仏教、神道、あるいはキリスト教など各宗教の奥義を会得していなければ、ときとして除霊できないことがある、ということである。
除霊をなさる方ならおわかりになると思うが、憑依霊の中には生前、神仏に帰依するばかりでなく、教理教論を驚くほど学び、宗門宗派の奥義を知り尽くしている霊も少なくない。
それほどまで学問を積んだ人がどうして人に憑依などするのか、理解に苦しむところではある。
だが、現実にいるのだ。そして、こういう霊に限って、真心と愛念の光を当てただけでは悔悟しようとしないのである。
真心を尽くすと同時に、教理教論の奥義を語って悟らせなければ、なかなか改心しようとしないのである。
とくに、私のところには、日本中の霊能者や宗教をめぐりめぐって、それでもだめだった人が来るケースが多いので、難解な除霊が多いのであろう。全体からいえば、ごくまれなケースなのかも知れない。
だが、こんな場合、除霊する側に、彼ら以上の真理に根ざした知識がなければ、まず除霊はできない。
したがって、除霊をするには、学問も必要となってくるのである。
たとえば、箱根神社の中興の祖といわれている萬巻上人である。
芦之湖に斎られている九頭龍神社の祭神は、元は極悪な毒龍だったのである。七日七夜の霊術合戦の末、とうとう毒龍は改心して、箱根神社の有力な眷属九頭龍大神となったのである。
このときの萬巻上人の最後の切り札は、経文の力であり、学問の力であった。教説を発して説得するときのまばゆいばかりの経言の極光に、毒龍も胸打たれたのである。
ところが、まことに僭越ではあるが、この際いわせていただくと、一般の霊能者はあまりにも自分の経験だけに頼りすぎていて、知性と教養と宗教哲学が著しく欠如しているように思えてならない。
自分の目に見える霊界だけを見ていると、独善に陥ってしまう危険性があるのだ。現に、経験主義的な女性霊媒師などの多くがそうなっているといわざるを得ない。
自分の経験だけに頼るのではなく、先人の遺した功績と叡智を学び、それらが真理であるかどうか自分の経験を踏まえて研究し、確実なものは確実としていくという具合に、学問を積んでいかなければならないのである。
さて、その勉強の内容だが、日本霊界に霊籍を置く限り、最低でも「古事記」「日本書紀」「古語拾遺』「宣命」などの神典、および六国史は学んでいただきたい。
また、仏教系の霊能者であるならば、宗門宗派に偏ることなく、釈尊の真愛を深く、広く、大きく汲みとる研鑽を重ねていただきたい。
とくに密教系の場合は、弘法大師のあの幅広く厚い教養あっての真言密教であったことをお忘れにならないでほしい。
とにかく、霊能者といえども、否、霊能者だからこそ、古今の文献に通じ、幅広く見識を求める必要があるのである。
霊能者が、直接的に人々の運命に対する忠言、忠告を与え、また、人生の指針を与える立場に立つ場合が多いことを考え合わせれば、なおのこと勉強する必要があるといえよう。
母親の異常な言動に悩む娘さんのケース
ここでひとつ、除霊の体験談をお話することにしよう。
いつごろのことだったろうか。もうしばらく前のことになるが、一人の娘さんが来られた。仮にA子さんとしておこう。
「実は、お母さんのことで相談したいんですが・・・・・・。お母さんが変なんです。お母さんといっても本当のお母さんじゃないんですけれど、様子がおかしいんです」と深刻な表情で悩みごとを語り始めた。
彼女の話によると、現在のお母さんは二度目のお母さんで、実母の妹に当たる人だという。実母が死んだので、その妹が後妻として家に入ったわけだ。よくあるケースである。だが、実母の死に方は尋常ではなかった。
殺されたのである。あるとき、ご主人つまりA子さんのお父さんが出勤したあと、隣りの屋根の修理をしていた大工に殺されたのである。
その大工が自供したところによると、屋根を修理している最中、A子さんのお母さん
「私の家の屋根も、ついでに修理してくださいませんか」と頼まれたという。
そして、隣りの屋根の修理を終えてから、A子さんの家に入ると、どういうわけか急に劣情を催し、自分でもわけがわからないうちに襲いかかっていた。
が、激しく抵抗され、しばらくもみ合ううちに気がついたら、A子さんのお母さんはぐったりしていた。首を諦めていたのである。
我に返った彼は、蘇生させるべく必死になって手を尽くしたが、時すでに遅く、彼女のお母さんは不帰の人となってしまったのだという。
それからしばらくして、亡くなったお母さんの妹さんが後妻として家に入ってきた。ところが、この二度目のお母さんが彼女をひどく悩ませることになったのである。再婚後、ほどなくして、
「あなたは私を殺そうとしている!私はあなたに殺される!」と、A子さんをののしり始めたというのだ。全く身に覚えのない彼女は、いったい何のことか解しかねていた。
が、お母さんの異常な言動は次第にエスカレートし、ついには、
「A子さん!あなたは、夜、私が眠っている間に殺すつもりなのね。私には全てわかるのよ。でもね、そんなこと絶対にさせやしないから!」と、自分の部屋の四隅に、どこから買ってきたのか、出刃包丁を一本ずつ置くようになったという。
それでも、精神が錯乱しているんだ。しばらくすれば治るだろう。どうしても治らなければ、精神病院に連れていかねば……と、お父さんと話し合っていたのだとか。
だが、ある朝、信じられないようなことが起きたのだ。
「A子さん!あなたは昨夜、本当に私を殺そうとしたのね!」というお母さんの叫び声で、あわてて部屋へ飛んでいくと、部屋の壁に何か鋭い爪のようなもので引っかいた跡があった。
最初は、お母さんが出刃包丁で引っかいたのではないかと思ったが、よくよく見ると、出刃包丁でできるような痕跡ではなかった。
なんとなく薄気味悪くなってきた。
そして翌朝、今度は、「キャーッ!」という叫び声が聞こえた。急ぎ部屋に行くと、ホウキの先が直角に一部だけ切られていた。これは相当鋭利な刃物でなければ切れない。しかも素人にはできない芸当である。
こうして、いよいよ薄気味悪くなったA子さんは友人に相談し、その友人の紹介で、急ぎ私のところへ来たわけである。
一部、記憶違いがあるかもしれないが、彼女が語った内容は、だいたい以上のようなものだったと思う。
何百匹の犬の霊が邪悪な念を送っていた
A子さんのお話を聞き終えて、早速除霊を始めることにした。
『神界からの神通力」でご紹介したように、私の除霊は言霊除霊である。
パワーや光エネルギーで霊を追い払うのではなく、神霊世界の秩序や人を怨み続けることの誤りなどを歌い込んだ和歌や長歌を数首、数十首、ときには数百首詠い続けることにより、憑依霊を心から悟らせ、ご神霊のお許しをいただき、本来居るべき霊界へ送るのである。
このときも、いつものように言霊で除霊をしようとした。だが、言霊が出てこないのだ。「いったいどうしたんだ」
私にも理解できない。もう一度やり直そう。祝詞をあげて始めよう。今度は出た。だが、全くわけのわからない祝詞である。
「きのうのお寿司、うまかった」
「宇宙の先に犬がいる」
「あたしお掃除しようかな」
自分でも何を言おうとしているのかわからない。ただ、意味不明の言葉が、私の口か次々と出てくるのである。つまり、思考能力を完全に奪われてしまったのだ。
長いこと除霊をしてきたが、こんなことは全く初めてであった。そこで私は、十分ほ小休止することにした。
「そんなことはないと思うが、もしかしたら我利我欲が出ているのかもしれない。虚心懐に徹せねば……」
神に祈り直したあと、再びA子さんと対座した。だが、やはりうまくいかない。
今度は何も考えられないのだ。私は全くの無の空間に置かれ、何も考えることができなくなってしまったのである。そればかりではない。全身の血の気が引いて、もんどり打って、椅子から倒れてしまったのだ。
そこで、再び、十分ばかり小休止をすることにした。
「いったい何が憑依しているのだ。これはただ者ではないぞ。もの凄く手強い相手だ」だが、降参するわけにはいかない。この十分間の小休止の間に、ある秘法を思い出した。
「そうだ、自分が怨念霊になりきって、相手の内に飛んでいけば正体がわかるはず」この秘法についてはまだ明かすわけにはいかないが、一時的に相手の霊波に自分の霊波を合わせることによって相手を見破るという、ひとつの術である。
三たびA子さんに対座した私は、憑依霊の霊波に自分のチャンネルを合わせ、相手の中に飛び込んで行った。
そこにはなんと、何百匹もの犬がいたのである。いずれも凶悪な姿をしており、邪悪な念を送り続けている。
「なるほど、これだったのか。犬神だったのか」
これで謎が解けた。A子さんの家の壁が鋭い爪のようなもので削られたのも、全て犬神の祟りによるものだったのだ。
犬神の祟り初めて耳にする方がいらっしゃるかもしれない。あるいは、聞いたことはあるものの、実際にそのようなことがあるとは信じていない方が多いかもしれない。
だが、犬神の祟りは決して想像上の話などではなく、実際にあるのだ。一部で言われている地ねずみの霊などでは決してない。
本当の犬神の真相はそうではないのである。これは昔、忍者が使った暗殺の術のひとつで、とくに四国地方に多いのが特徴となっている。
まず、犬の首から下を全部地面に埋める。そして数日間はエサを与えるが、それ以後はエサを犬の鼻先からちょっとずらして置き、食べたくても食べられないようにする。
すると、犬は鼻をクンクンさせる。だが決して食べさせない。
これを数日間続けると、飢えと渇きで犬の顔は凄惨な形相となる。そして、いよいよ飢え死にするというとき、
「お前をこんなに苦しい目に遭わせたのは、どこどこの誰々だ。そいつに仕返ししろ!」という強い念と言葉を送りながら、犬の首を刎ねる。
すると、犬はもの凄い犬の亡者となって教えられた人のところへ行き、何代にもわたって復讐することになる。
このように、断末魔の犬の念を使って人を殺す。これが、犬神の祟りである。
犬神を使う行者に狙われて殺された人には、胸に咬み傷がある。また、ある朝目覚めたら胸に咬み傷があり、高熱を発して二、三日後に死んでしまったなどというのも、犬神の仕業である。
とにかく、犬神の祟りは並の怨念霊などよりはるかに恐ろしいのである。
犬の悪霊は真言密教の大僧正の化身だった
さて、何百匹という犬神を前にした私だが、即座に一匹だけ異質な波動を出している犬神がいるのを発見した。姿かたちは他の犬神たちと何ひとつとして異なるところはないが、どうも念が異質なのである。これが、犬神をあやつっているらしい。
「お前は犬神ではないな。人間だろう!」
犬神は微動だにしない。再度私は言った。
「お前は犬神ではない。人間だ!」
これでも反応はない。そのとき、神様が教えて下さった。
「当時、弘法大師に匹敵すると言われて遠近に誉れ高かった、真言宗の大僧正である」
私は三たびいった。
「観念しなさい。私にはもうわかっている。あなたは、当時、弘法大師に匹敵するといわれた大僧正・普明殿であろう。犬神を使って、さらにその犬神の一匹になり、思念を滅却するとは、さすが大したテクニックですなあ」と、突然、「見破られたあ!」
天地が裂けんばかりの大声で絶叫したかと思うと、その犬神はパッとひとりの人間の姿に変身した。
僧侶である。それもただの僧侶ではない。生前、かなりの位にあって相当高度な霊能力を体得した僧侶らしい。なにしろ、これだけの犬神を自由自在にあやつるのである。並大抵の霊能者であるわけがない。
やはり、ただの僧侶ではなかった。神様が申されたとおりの霊威と偉大なすごみがあったのである。天眼通力に映じた彼は立派な衣を着ている大僧正だった。
真言密教の大僧正だったのだ。彼は生前、弘法大師にも匹敵するとの評価を得たほどの人物であり、同時にたいへん高度な霊能力を体得していたが、政争に巻き込まれたらしく、
「霊能力で呪いかけ、殺そうとしているのだろう」との嫌疑をかけられた。
そして獄につながれ拷問されたうえ、殺されたのである。いうまでもなく、彼を死に追いやったのがA子さんの先祖であり、そのため、代々呪われてきたのである。
彼女の実のお母さんが強姦されそうになって殺されたのも、二度目のお母さんが精神に異常をきたしたのも、そして家の壁に爪跡を残したりホウキの先を切断したのも、彼の仕業だったのだ。彼は霊界にさまよう犬神たちを集め、人霊や雑狐なども総動員して、これを使って復讐していたわけである。
いつものように私は、ご神霊より来る愛念と真心で接すると同時に、神霊世界の真相を説きながら、怨み呪い続けるのは霊界の法則に反することと悟らせようとした。
だが、相手は生涯を仏教世界で通した人である。神霊世界のあり様を説いてもなかなか理解できないらしく、納得しようとしない。
そこで、仏教の角度からこれを解くことにした。
「仏教を何と心得ているか?」
「真言密教の神髄はいかに?」
「人生の本義は?」
私は「大日経」「金剛頂経」「菩提心論」などの奥義をティベートしながら、人としてのあり方、死後の想念の持ち方、神霊世界の真相とその人の前世よりの宿命と因果を説いていった。
その結果、「なるほど、そなたの言うとおりだ」と、大僧正は改心した。
だが、本当は改心していなかった。改心したように装っておきながら、私がスキを見せるのをうかがっていたのである。
並みの怨念霊では滅多にないことだが、行者霊や霊能者霊、あるいは尋常ならざる深い怨みを抱いた霊ともなると、ときとして除霊者をだまそうとすることがあるのだ。
「私が間違っておりました。もう呪ったりしません」と、さも改心したように見せておいて除霊者を油断させ、そのスキをとらえて、様々術をかけてくるわけである。
「霊界に帰ります」といって絶対に返らない稲荷狐と同じである。
それゆえ、除霊の大詰めのこのときにあっても、憑依霊の語る内容や素振りだけで判断するのではなく、霊の境地を全て見破ってあげて、本当に改心しているのかどうかを判断しなくてはならないのである。
私は、大僧正が改心していないことに気づいていた。だが、彼は私の心の中まで見通せないらしい。
私がワナにかかったとでも思ったのであろう。いきなり金縛りの術をかけてきた。
今度は不動金縛りである。不動明王の不動力を使った金縛りの術である。これは強烈だ。並みの金縛りとはワケが違う。普通の人なら、落命することにもなろう。
相手が秘術を尽くしてくるなら、とりあえずこちらも秘術を尽くして応じるしかない。私は不動金縛り破りの術でこれを解いた。だが、除霊は術ではない。真心の限りを尽くして行うほかないのである。
「あなたは立派な僧侶なんだから、もう怨むのはやめて帰ろう。すばらしい世界があるのだから、そこへ帰ろう」
知識と理論と術で勝って、最後にこのように真心を尽くして、圧倒的に大きな神霊の光輝に包んで説得した。大僧正は本心から改心し、本来居るべき霊界へ帰って行ったのである。
邪悪な霊軍団が次々と送り込まれ・・・・・・
私はこれまで数限りないほど除霊を行ってきたが、以上お話した除霊は、その中でも最も難しいもののひとつにかぞえられると思う。
では、どうして難しいといえるのか。その第一は、相手の憑依霊に、霊界をさまよう邪悪な霊を集め、かつこれを自由自在に使う能力があったことである。
先の場合でいうなら、犬神の大軍をあやつり、あたかも犬神の祟りであるかの如く見せていたこと、これがそれに相当するのだが、使われる邪悪な霊は犬神だけとは限らない。ありとあらゆる凶悪霊を使うのである。
その中でも比較的多く使われる霊としては、邪神界に堕ちた蛇、稲荷狐、木霊などがあげられる。
これらを前面に押し立て、たくみにあやつりながら復讐を遂げていくわけだ。
それゆえ、このような場合には、目の前に現われる霊を除霊しただけでは本当の除霊はできない。犬神を除霊すれば蛇を、蛇を除霊すれば稲荷狐をといった具合に、次から次へと邪悪な霊軍団を遣わすからである。だから、それらを背後であやつっている張本人をみごとに見破り、これを除霊しなければ、本当の除霊はできないのである。
難しいという第二の理由は、相手に表象能力、つまり化身能力があったことである。
とくにズバ抜けた霊能者の場合、気配も念も完全に消し、姿が出ているものに間違いないと除霊師を思わせる、思念操作も行うので手強い。高次元の神霊が守護していないと、とうてい見破れないのだ。
以上の二点、つまり、他の邪気邪霊をたくみにあやつり、同時に自分も化身する能力のある霊が憑依している場合の除霊は、たいへん難しいのである。
だがしかし、考えてみれば、これくらいならまだまだ簡単な方といえよう。なぜなら、霊障を具体的な形で現しているからである。
どういうわけか病人が続出する、なぜか事故が絶えない、奇怪なことばかりが連続して起こる…………このように、霊障が具体的な形となって現れれば、
「何か祟りでもあるんじゃないか」
供養したり霊能者のところへ行って除霊を受けるようになる。先のA子さんにしても、壁に爪跡が残っていたりホウキの先が切断されたのを見て初めて、
「どうも薄気味悪い。やはり何かありそうだ」と思うようになり、私のところへ来て除霊を受けたわけである。
除霊を受けるこれは、憑依霊にしてみれば復讐を邪魔されることであり、はなはだ不都合なことであるに違いない。
それゆえ、霊障を具体的に現して、当人に供養させたり除霊を受けさせるような霊は、たとえ様々な術を駆使しようとも、まだまだ簡単な方といえるのだ。
順風満帆な人を一撃で倒す怨念霊
これに対して、本当に恐ろしい、ある意味では超大物というべき怨念霊は、決して尻尾を出すようなことはしない。普段は陰に隠れていて、ここぞという時になってパッと現れて一発で仕留める。
これが、最も恐ろしい怨念霊の手口なのである。
たとえば、人もうらやむほど家庭運、金銭運、仕事運に恵まれ、まさしく順風満帆の人生を歩んでいた人が急逝することがよくあるが、これなど、最も凶悪な怨念霊の仕業であることが多いのだ。とにかく、何の前ぶれもなく、一撃で人を倒す。これが最も恐ろしい怨念霊なのである。秀吉の配下にやられた「山家の霊」や智謀抜群の軍略家の霊が指揮する霊団などである。
そして、こういう霊は、除霊のときもジッと陰に隠れていて、たくみに逃れようとする。
以前、まだ二十歳にもならない若いお嬢さんが除霊を受けに来たことがあった。いかにも若々しい、明るく元気なお嬢さんである。霊的にも軽く、家の因縁もたいして深くなさそうに見えた。
「あなた、どこか悪いところでもあるんですか?」
「いいえ、別にどこといって悪いところはないんですけど、前々から除霊というものに興味があって、一度受けてみたいと思っていたんです」
「そうですか。じゃあ、除霊をしましょうかね。でも、見たところとても明るいから、すぐ終わるでしょう」
こうして、除霊に入った。天眼通力で見ると、予想したとおり、ちょっとした怨念霊が数体と救われていない先祖霊が数体いるだけで、これといった問題はなさそうに思えた。
だが、いたのである。凶悪な霊がいたのである。隅のほうで小さくなっていたため、あやうく見逃すところだったが、もの凄い怨念を抱いた武士の霊がいたのである。
見たところおとなしそうで、たいした怨念霊とは思えない。だが、ときどき作り笑いのポーカーフェイスをしたりするうちにも邪悪な念がビンビン伝わってくる。
彼はあくまでシラをきるつもりらしく、隅のほうで小さくなったままである。
私は気づかないふりをした。そして、他の憑依霊を次々と救済し、「さあ、除霊は終わりましたよ」と彼女に告げ、立ちあがろうとした。と、そのときである。
それまで隅のほうで小さくなっていたその邪悪な武士の霊が、サッと彼女の背後に回ったのである。
私はこの一瞬を待っていたのだ。油断して姿を現すのを待っていたのだ。
「見破ったぞ!」
突然の私の声に、彼は激しく動揺したらしい。そして、先ほどのように恭順を装うか、一挙に本性を現そうか迷っているように見えた。
「もう見破られたのだから観念しなさい。あなたが、この娘を呪っているのは、わかっているのです」
このようにして、この凶悪な霊をも救済除霊をしたのであるが、彼が語ったところによれば、半年後に命運が少し弱くなり、守護霊も気力も少し弱まるので、そのとき、交通事故で殺すつもりであったという。
すでに、殺人スケジュールを組んでいたのである。これでおわかりいただけたことと思う。
最も恐ろしい怨念霊は、みだりに霊障を現し自分の存在を知らせるようなことはしないのである。
普段は何ごともないかのように静かにしておきながら、ここ一番というときになると突然現れて、一発で死に至らしめる。これが最も恐るべき怨念霊の所業といえよう。
それゆえ、そのような怨念霊は見ただけではなかなかわからない。非常におとなしくしているので、ついつい見逃してしまうのである。
これを見逃さずにキャッチできるようにならなければ、本当の除霊とはいえない。
荒々しく霊障を現しているならば、霊的世界の基礎知識がある人なら誰でも、「ああ、可哀そうに。相当凶悪な霊にとりつかれているな」
「かなり因縁が深いんだな」と気づく。だが、繊細にして微妙な霊の世界になるとなかなか見破れないのである。では、どのようにしたら見破れるようになるのか。
それには、これまでくり返し述べてきたように、何よりも無私無欲、虚心坦懐に徹するしかない。自分の心が真心の一点において澄み切っていなければ、見破ることは難しいのだ。
「私の霊能力でどうにかしよう」
「自分が救ってやるんだ」というような我力我欲が出れば負けてしまうのである。
もとより、憑依霊を許し救済するというのは、人間にできることではない。それは、神様しかできないことである。だから、自分が除霊をするのではなく、あくまでも神様が自分を遣って除霊をされるのだという境地に立つこと、これが肝心なのである。
そういう境地に立つには、我をなくすことが最も大切。
もちろん、各憑依霊それぞれの霊的レベルに対応できるだけの具体的な霊的パワーや術は必要である。
しかし、それらは単なるひとつの手段にすぎないのであって、より本質的なものは、揺らぐことのない神に対する信仰心と大いなる愛念パワー、そして明鏡止水の如き境地である。
では、どのようにすればその境地に入ることができるのか、その具体的な方法につい章を改めてご説明することにしよう。
第四章 正しい霊能力を体得する法
霊能力と神力の違いとは
人生の本義に目覚めてください。無私無欲に徹して生きましょう。そうしなければ、霊界の邪気邪霊にごまかされかねませんよこれまで私は、人としての誠の道を生きる大切さをくどいくらい訴えてきた。
しかし、読者の皆様の中には、いわんとすることは何となく理解できるが、具体的にはどうもよくわからない、という方がたくさんいらっしゃることと思う。
そこでこの章では、どのようにしたら人としての誠の道を生きることができるか、神人合一するにはどうしたらいいのか、正しい霊能力を体得するにはどのような修行をしたらいいのか、などについて少しお話しようと思う。
さて、本題に入る前に、霊能力と神力の違いについて簡単にふれておきたい。
霊能力――これは前章で詳しくご説明したとおり、霊界にいる存在である守護霊、龍、天狗、狐、蛇、あるいは邪神界を横行する兇党霊団などのバックアップを得て現す能力である。
これに対して神力とは、そのような媒介を一切通さず、神様に直接働いていただく力のことをいう。たとえていうなら、富士山頂に坐すご神霊と直接感応し合える力のことである。
神様が直接働かれる神力は、中間役を媒介とする霊能力よりもはるかに次元が高い。そして、神力を体得すれば神霊世界のすみずみまで見通せるようになり、邪気邪霊にごまかされることもなくなる。
それゆえ、霊能を得たいと願うなら、媒介に頼るのではなく、神様に直接働いていただけるよう努めるべきである。
必要とあらば、その神様が適宜ご眷属にお命じになって、神秘の力も現わされるのである。
では、どのようにしたら神力を体得できるのか。過去、神力を体得した人物が何人かいるので、それらの人々を例に出しながらご説明することにしよう。
神力は先天の修行で会得する
さて、神力を体得した人物とは誰か。日本では天理教の中山みき、大本教の出口ナオ、ヨーロッパではジャンヌ・ダルクなどがそれである。
この人たちに共通していることは、修行らしい修行をせずに、たぐい稀な神通力を体 66 得したことである。
たとえば中山みき。彼女が神通力を得ようとして滝に打たれたという話は聞いたことがない。中山家に嫁いでから、ただひたすら夫への貞操、舅姑への孝行を尽くしているうち、突然、「世の人々を救え」といって、天理王の命が降ったのである。
また、出口ナオ。彼女も決して修行などしなかった。貧しい生活にもめげることなく、真心を貫き通しているとき、突如として、「三千世界一度に開く梅の花・・・・・・」と国常立尊がいらっしゃったのである。
あるいはジャンヌ・ダルク。わずか十三歳の若さで啓示を受け、百年戦争を勝利に導いたフランスの救国の少女も、山にこもって修行をしたわけでも白魔術の訓練を受けたわけでもなかった。
ただひたすらフランスの平安を祈り続けている最中、突然、「ジャンヌ・ダルクよ、フランスを救え!」と天啓が降ったのである。
そして、わずか二百の軍勢でオルレアンを解放するなど、驚異的な神通力を発揮したのであった。
これらの人々は、修行らしい修行を全くしないで、霊能力や超能力を得たのである。ただ純粋で親孝行で、人の道において苦労していただけなのである。
つまり、「神の社となるに足る人物だ。愛と誠をもって人々を救済してくれる人だなあ」という神様の目に適うだけの、人の道での苦労をしてきたのである。
では、その人の道での苦労とは何か。それは、ひとことで言うなら捨てる修行である。
我欲や人欲を捨てる修行である。霊能力を得たい、超能力を得たいなどという気持ちは一切もたず、人が良くなり世の中が良くなるためなら、自分の命を捨てても構わないという気持ちで日常生活を精いっぱい生きていたわけである。
その気持ちに神様が感応して、神様の方から訪ねてきてくれたわけである。
たとえば先のジャンヌ・ダルクにしても、「フランスを救え!」という神託が降ったとき、
「そうですか、わかりました。私にはこれだけの神通力があるので、仰せのとおりフランスを救いましょう」というのではなかった。
「こんな私にそんな大きなことができるのでしょうか。でも、神様がおっしゃるのでしたら、この命を捨ててでも神様の命令に忠実に生きたいと思います」という純粋な気持ちで応えたのである。
だからこそ、わずか十三歳の少女が、以後、艱難辛苦を越えてあれだけの大業を成し遂げることができたのである。
これがもし、
「自分の実力でフランスを救ってやるのだ」
という気持ちでやっていたとしたならば、とてもじゃないが、あれだけのことはできなかったに違いない。なぜなら、それは我力だからである。
たとえどんなに驚異的な霊能力や超能力があったにせよ、我力は我力。所詮、タカが知れているのである。
ジャンヌ・ダルクがあれだけの大きな仕事を成し得たのは、結局、神がかかるに充分なほど、無私無欲で捨て身の純粋さに徹したからにほかならない。
中山みき、出口ナオにしても同様である。彼女らはみな一様に、自分のことよりも、家族のこと、社会のこと、国のことを優先して考えていたのである。
その心に神様が感応して、病気治しなどの様々な神通力を与えたのである。
これが神力である。神力とはいわば、神様に川上に引き上げていただき、その川上か川下へと下るなかで身につける神通力といえる。そして、神様に引きあげていただけるよう、常日ごろから自分を捨てる努力を続けることを、先天の修行という。
ところで、明治天皇様の御製の中に、「天地も動かすばかり言の葉の誠の道をきわめてしがな」というのがある。
まさに、この先天の修行の極意を物語っている歌であり、私の大好きな歌のひとつである。
「神様、どうぞこの子の病気を治してやってください」と祈る言葉は、中山みきや出口ナオと、読者の皆様が同じであったとする。
かたや二人とも大奇跡を現し、読者の皆様は、いい病院があったことをパッと思い出した、というぐらいの差であろうか。それもない読者の方は論外である。
同じ言葉でも、天地を動かす神力を出す人と、何の霊力も、人々に対する影響力もない人がいる。前者は、まさに真実の言霊となり、後者は単なる言の葉なのである。
どこが違うのか。答えは、それを発する人の日々の生活の中で、誠の道をどの程極めているか否かの相違である。
ところで、前述の歌の中にある「てしがな」は、”そうありたいものだ”という願望を表わす言葉であるが、明治陛下が、日常どういう御心で過ごされていたか、また、如何に素晴らしい境涯に立たれていたかが窺える、清々の言霊歌の一首であるといえる。
我々も、是非これを見習って、先天の修行の範としたい。
苦労のわりに実りの少ない後天の修行
これに対して、
「どうにか霊能力を得たい、超能力を体得したい」と、難行苦行を実践していくのを後天の修行という。
後天の修行とは、人間の持っている後天的能力を磨きあげることで、神様に近づこうというものである。
いわば、先天の修行が川上から川下へ下っていくのに対し、川下か川上へ自力で上っていくようなものといえよう。
過去、後天の修行を行った人は、数えきれないほど多い。
たとえば、滝に打たれたり断食をする人は今日でも多いが、その人たちは皆、後天の修行を行っている人である。またヨガや神道の禊なども後天の修行といえる。
この人たちは、水の汚れた川下から少しずつ上っていき、山の頂上の、清らかで純粋な水がコンコンと湧き出る泉に辿り着こうと、必死の努力を傾けているのである。
だがしかし、この修行によっては、清らかな泉のような神様にはなかなか出会えないといわざるを得ない。
なぜなら、山の頂上に至るまでの間には、中間役の神や邪気邪霊が雲霞の如く待ち構えているからである。
よほど心が澄みきっていれば別だが、「とにかく霊能力がほしい。超能力を得たい」という気持ちで行に励んでいると、その気持ちに感応する邪気邪霊がとりついてしまうのである。
それゆえ、この後天の修行は苦労の割には実りが少なく、危険ばかりが多いと言えるわけである。
とはいえ、後天の修行によっては絶対にご神霊に出会うことができないかというと、決してそうではない。先ほども少しふれたように、修行に臨む人の心が愛念と真心から発しているならば、稀に出会うことができるのである。
人たとえば加賀の白山を開いた泰澄。彼などは、後天の修行によって最高峯まで登りつめた人といえよう。
そして、行基も彼のことを大いに称えていたと史書に著されている。あるいは修験道を開いた役小角。彼もやはり、後天の修行で本当の神霊世界を垣間見た人である。そして行基菩薩、弘法大師もまた然りである。
ところで、黒住教の黒住宗忠公や出口王仁三郎氏は、どうであろうか。
彼らは、天界の特別任務のあった特殊ケースといえる方々である。先天修行をベースにして、後天修行も行った人であり、先天と後天が十字に組んだ先後合一修行を行った方たちなのである。
だが、彼らは例外中の例外であって、ほとんどの修行者は良くて中間役の神、悪い場合は邪気邪霊にとりつかれているのが現実である。
なぜなら、修行をする動機に少しでも我利我欲が含まれているならば、高級神霊は絶対に感応しないからである。
「世の中のために役立ちたい。そのためには自分をより磨かなければならない。だから修行をするのだ」
この動機は一見善に見える。しかし、もしこの裏に、「世のため人のために生きたいのだが、今の自分の地位ではたいしたことはできない。霊能力や超能力があれば人も集まるだろうし、大きな仕事ができるに違いない。
そのためにはまず修行だ」という気持ちが潜んでいるとしたならば、完全に引っかかってしまう。
高級神霊は絶対にかからないと断言しても差しつかえない。今の自分の地位は、常識人として人一倍努力して確立させ、霊能力は、望まずしておのずから至誠によりて備わる”のが本当である。
そういう人でなければ、これからの時代、現実に世の中を良くする神の使徒にはなれないのである。
それほど、神霊世界では細かいところまで問題とされるわけである。
我利我欲の一切を捨てきって、ただひたすら人々と世の中の幸福を願い、人としての努力を惜しまない人でなければ、本当のご神霊は降りられないのである。
