絶対運(Vol.4)

第二章 自力運と他力運で強くなる

自力運の限界で他力運が開けてくる

ツキを呼ぶとか、運がいいといった言葉が一般に使われているときには、想念の力とか、神仏に祈願することで幸運を呼び込むといった意味合いが強い。

しかし、もしかりにそのような形でツキや運は呼べたにしても、ちょっとしたきっかけでたちまちツキを失い、運を逃がしてしまうこともあるから、本当の実力が伸びたことにはならないとするのが私の立場である。

ツキやラッキーは、真の強運とはいえないのである。

真の強運とは、たんなる射倖心をそそるようなものではない。賭博的な要素がからみ合い「あるときにはツキ」「あるときはツカない」といった不安定きわまりないものをいうのではない。

つねに一定レベルの強さを維持してはじめて強運というのである。

たとえば、上杉謙信公。

生涯、七十幾度戦って一度も敗北を知らなかった。宿敵、武田信玄の陣営の民が米塩に欠乏して苦しんでいるとき、貴重な塩を送った謙信公である。

強敵、信玄が病死すると、謙信公は嘆いた。

「・・・・・・敵なき国は亡ぶという。・・・・・・信玄ほどの大才を敵として、それに敗られまじ、それに打克たんと不断に己を磨く目標はいまやこの世になくなった。惜しい。庭にさびしい」

と、敵城・海津の城まで重臣を遣って、篤く信玄の死を弔わしめた。
(吉川英治「上杉謙信」)

その謙信公も、信玄死後五年目、また忽然と世を去った。つい最近、私は米沢の上杉神社に行ってきたが、白檀で作った陣笠やその武具にふれて、剣魂歌心、剣禅一如の香り高い心境に深い感動を新たにしたものである。

その生涯はつねに”大死一番、絶後に蘇る”ことであり、“大義”そのものに生命を賭した一生であった。

一度も敗れたことのない戦国武将、謙信は単にツキによって勝利を得たとは誰もいわないだろう。真に己を高め、それに打克たんと不断に己を磨く目標を持ち続けた生涯であり、大死一番、絶後によみがえるほど、自己の限界まできわめ、そして邪念を捨 てきっていたからこそ、天は謙信公に味方したのだ。

すなわち、ツキがあるなしで表現されるような軟弱なものではない。真の自力運をギリギリまできわめて、そして得られる絶大なる他力運が加わったからこそ、無常、有為転変の下克上の時代に不敗を誇ったのである。

われわれがもし強運を自分のものにしようとするなら、まず、自力運を限界まできわめることが第一歩である。

その方法はこれまでいろいろと紹介してきたから、自分流にアレンジして実行してもらいたい。と、なんならをギリギリまで自分の力の限界に挑むとき、そのときはじめて他力があと押しをする。

そうなると、努力・精進は楽しみに変わっていく。そこに到るまで頑張ることだ。たとえば、マラソン。

セカンドウインドという言葉がある。走っているうちに苦しくなるが、それをすごすと楽になることをいう。

トレーニングの前に軽いランニングをする。そして、だんだんスピードをあげていく。

すると息切れがし、心臓の鼓動が激しくなり、がんがんと耳の奥で鳴りはじめて苦しい。

だが、がまんしてそれを乗り越えると、どっと汗がふき出て、今度はわずかながら呼吸が楽になってくる。これがセカンドウインドであり、最初の苦しいときをデッドポイントという。

ふつう、われわれは、デッドポイントに達したときか、あるいはその直前でやめてしまう。そうなると、何事でも峠を越す直前で投げ出す習慣がついてしまって、成就の快感を味わうことがない。

登山家も同じ経験を持つことがあるそうだ。自己の限界に挑戦するというのは、少なくともデッドポイントを超すということである。

そこを過ぎれば、やがてセカンドウインドを迎える。そしてそれ以降は、顕在意識がパチンと切れてしまって、眠っていた潜在意識が出てくる。

つまり内側に抑圧されていた自力が表にどんどん出てくるのだ。これが才能開発につながっていくのである。記録は伸びるし、自分の新しい才能が芽を吹きだす。

こういう状態のときには他力が確実に動きだし、その人のあと押しをはじめる。とたんに実力は何倍も伸び、運勢は二十倍、三十倍と強くなる。

では、その他力とは何かをみる前に、これまでふれなかった自力の正体を詳しくみておこう。

これが他力運を呼ぶ自力運の正体

表に出ている自力だけが自力のすべてでないことを、あなたはもうご存じである。

顕在している自力のほかに、潜在し眠っている自力があるのだ。

眠っている自力とは、一般にいわれているように潜在能力のことであるが、これはふたつの流れから成り立っている。

ひとつは、親から受けている素質(遺伝)。

もうひとつは、前世から後世へと積み重ねられてきた能力である。

このふたつが合体したのがわれわれの自力という能力である。さまざまな能力開発のテクニックが引き出そうとしているのも、こうした潜在している自力である。

この能力を啓発し成長させるものが、外部からの環境の刺激であることは前にも説明したが、これは唯一の基本ルールでもあるのだ。

つまり適切な刺激によってのみ、前世の自分が表面化してくるのだ。すぐ前の前世の才能・素質・カルマが顕在意識の壁を破って現れてくるのである。

こうした素質・能カ・カルマ・性格というのは、即前世が一番強く、次にその前の前世、さらには前々の前世と、時代をさかのぼるにつれて弱くなるが、四十回も五十回も転生しているので、その分だけの才能や資質が積み重ねられているのである。

才能が豊かであるということは、生まれかわりと死にかわりを数多く経験し、その間に錬磨した量が多いということになる。

こんな人物は意図的に避けたほうがいい

外部からの刺激とは、具体的には前にもふれた、まず人との出会いである。前にもふれた人との出会いについて、別の角度からみてみよう。

あるホテルのボーイが、たまたま酒場に来ていたある出版社の編集者と知り合った。「へえ、なるほど面白い体験をしてるんだな、君は」

編集者がグラスを無雑作に空にすると、カタンとカウンターに置く。

「いいえ、ぼくなんかの体験って底が知れてます。もっとスゴイ奴がゴロゴロいますよ」

ボーイは謙遜しながら、新しいピカピカのグラスと取り替えて酒を注ぐ。その眼差しと手つきには、編集者への尊敬と真心とが込められている。ボーイの気配りもなかなかいい。

「私が言いたいのは、同じ体験でもその受けとめる角度なんだよ。角度に何か新鮮さというかユニークさがある。そこがいいんだよ!」

編集者は己の鋭い感覚と酒に心地よく酔っている。

「君、書いてみたまえ。それを君のことばで書いてみるんだ。ウン、そうだ、ぜひ書いてみたまえ」

「そ、そんな、ほくなんか文才なんてありません」

「君、一度も字を書いたことないの」

「いいえ、それはあります。ホテルの従業員からラブレターの代作は今でも頼ますから。でも、その程度です」

「OK。それで十分だ。あとは私に任せなさい。じゃ、明日ここに電話を頼む」

カウンターに残された一枚の名刺。

それが彼の運命を決めたのである。編集者は、はじめて本を書く彼をしごきにしごき、ついに脱稿させる。素人のボーイにとっては何が何だかわからない。ただベテラン編集者の言うままに、無我夢中で書き続け直され続けてきただけである。

出版された本は評判がいい。新鮮な感覚の文体である。リズムがある。若さがある。「キミ、なかなかの才筆だよ」

はじめてキザな編集者が優しい声をだした。彼はうれしかった。

「そういえば、祖父が何かモノを書いていたようですし、母方の先祖で歌人がいるらしいですよ」

「ウム、やっぱりそうか、私の目に狂いはなかったんだよ。君はもっと伸びる。精進するんですね。これからはもう”センセ”だからな(笑)」

ベテラン編集者も満足であった。

人との出会いが、その人の眠っている前世の記憶を呼びさますのである。会った人は、ときとして強引であったりうるさかったりするかも知れないが、あなたの眠っている才能や素質に火をつけてくれる人物であるかもしれないのだ。

そういう人はまた、前世でお互いの何かの縁で近くにいた人、親しかった人であることが多い。

幸運をもたらす人との出会いというのは、とくに前世ですばらしい環境で、内面的にも経済的にも恵まれた生活をしていたときに築きあげられた関係の友人の生まれ変わりの場合が多いのである。

だから、今生でそういう人物に会うと、心楽しく、意識の奥の奥にしまわれているその当時の素質や才能やパーソナリティが表に出てくるのである。出会いという外からの刺激がそうした資質を引き出してくれるのだ。

むろん逆の場合もあるが、これは恐ろしい結果につながる。

ある人物と会うと暗くなる。なんとなく生きていく勇気が挫けて死にたくなるそれはオーバーにしても、人生がすべて灰色に見えてくるという場合もある。

あるいは無性に腹がたってきたりイライラしたりする。

そんなケースは前世に何かの因縁があると考えるべきだ。たとえば落城の折にともに割腹自殺をした仲間であったり、つねに対立していた敵同士であったなんてこともある。

前章で「とにかく運のいい人物とつきあうこと」とすすめたが、その人物は強運であると同時に、自分の良さをも引き出してくれる人であることがベストである。

客観的にはたしかに運のいい人なのだが、その人物に会うと苦境時代の前世や最悪だった前世の記憶を呼びさまされてしまうという場合は、気をつけなければならない。

潜在している自力のマイナス面を引き出す人物には、意識的に会わないようにすることである。

面白いことにそういう人とは縁が深く、離れようとしても、なんだかんだとつきあいが続いてしまう。会わないでいようとすると、

「やあ、近くまで来たんだ。よく冷えてるぞ。一杯やるか」とビールを持ってきたり、

「おいおい、これちょっと教えてくれよ。お前ならこれについて詳しいだろうと思って」と上がり込んでくる。くされ縁である。

その人は運勢がよくても、あなたとの前世が最悪の時代の縁であったり、最低のときの欠点を引き出すような相手であれば、少なくともあなたにとっては意図的に避けなければならない人物である。ゆるがぬ実力と運気が確実に自分のものになるまでは意図的に会わないようにすべきである。

では、どうしたらそういう人物を見分けることができるのだろうか。

相性がいいから強運になるとは限らない

相性を判断する方法としては西洋占星術、四柱推命、血液型、九星術、手相、人相、姓名判断易占から、その時々にブームになる○○占星術とか××開運術と称するものまでいろいろあって、なかにはちゃんとした企業の社長や人事担当者が、これらを採用しているものもあるぐらいである。

仕事上の相性恋愛や結婚の相性など、心理学的手法を使ったものから、今挙げた占いに属するものまで、何十種類もある。しかし、それぞれが独自な方法でやっているので、A氏とB子の相性は最高によいなどという同一結果が出ることはまずない。

ホロスコープでは最高の組み合わせと出たのに、東洋の九星術でやると最悪のカップルというような場合が多い。血液型ではピッタリでも四柱推命では悪いということもざらにあって、どれが当たっているかはなかなかつかめないのだ。

なぜなのか。すべてが正しく相性を判断できるわけではないし、また、単純に相性がいいからといっても、よい結果をもたらすとは限らないからだ。

相性のいい組み合わせだが、仕事をはじめると次々に挫折していったり、いい相性だからと結婚したら、それまでのツキが落ちて男としての運勢がどんどん下降していく、ということも少なくない。

反対に占いや血液型の先生にあまりいい相性ではないといわれながら、実際にはいい家庭を築いたり、仕事がどんどん発展していくということも珍しくない。

したがって、いろいろな相性占いで変な先入観を持つよりも、まずその人間がどんなイメージや雰囲気をもたらすかを自分の感性で素直にとらえるほうがベターである。そんな感覚は自分にないという人は、相手を今までよりちょっと注意して観察するようにすればいい。

その人と会ったときに明るく発展的な話ができるかどうか、そして出会った後の自分の状態をしばらくチェックしてみる。といっても大ゲサに考える必要はない。

あなた自身がその人物に会ったあと、何事に関してもプラスの面を評価しようとしているのか、マイナスの方向に注意が向きがちであるかを振り返ればいいのだ。

さらにもうひとつ秘伝を公開しよう。

相手の守護霊に「彼(彼女)がどんな方であるかどうぞ教えてください」と、真心からお願いすれば、その当のご本人の口を通しておのずと答えが得られる。

問わず語りに相手がこんなことを話しだす。

「不思議なのよね、私の友達とか恋人ってみんな不幸になるのよ、ヘンでしょう」

ご本人はほとんど何も考えずに、ポロッと言うだろう。

「自慢じゃないが、オレがおつきあいさせてもらっている人って、たいてい世に出て活躍するんだよな。アパートで一緒にゴロゴロしてたと思ったのに、今じゃあいつ一躍スターだもんね。あいつならスターになってもおかしくはないけどさ」

感情的に少しぐらい対立しても、一緒に組めば仕事は必ず成就するというのも発展的な関係といってよい。

結婚も同じだ。

ケンカをしたり感情的にこじれることがあっても、奥さんの運気でご主人の良さが伸ばされるケースもあるし、最初の奥さんと離婚し、自分では相性がいいと信じた女性と再婚したとたん、がくんと運勢が悪くなり、能力が伸びなくなった男性もいる。

気持ちが合う合わないだけの感情的な相性だけにひきずられると、いろいろな結果を招きやすい。

やはり、少しぐらい厳しいつきあいであれ、自分の素質や能力が伸び、磨かれていく上昇の運気を持つ人とのつきあいのほうがよい。究極的には、そのほうが幸福を得ることができるのだ。

パワーコールで爆発的な強運を得る

正しくは”神霊界パワーコール”、略してパワーコールという方法があるが、これまで出してきた私の著書のどれかに目を通された方なら、もう説明はいらないだろう。

そうでない方のためにここで簡単に紹介しておく。

パワーコールとは何か。

簡単にいえば、呪文のことだと思えば理解が早い。クワバラクワバラとか、ナンマイダナンマイダというのも、魔除け的な呪文として広く知られている。

パワーコールと、その力を簡単に引き出し高めるためのマーク(神界幸運ロゴと称する)は、そうした民間伝承のなかから集めたものではなく、私がアンドロメダ天界から授けられたものである。

アンドロメダ天界の主宰神から、「本人の魂の潜在能力を高め、正しい神霊界の神気や波動をもたらすコンピュータ言語、あるいは合図のようなものだと思って使うとよい」と教えられ、授けられたものである。

正しい神霊界=正神界という言葉に注意していただきたい。

正しいとわざわざ断ってあるからには、正しくない神霊界もあるということである。

またこの世には、どんなに科学的ムードをほどこしても、逆にいかに神秘的雰囲気を演出しても、たんに霊的要素を含んだ能力開発や運勢向上・開運のための宗教的儀式にすぎないものもあるから、よくよく気をつけなければならない。

これらは正神界とはまったく関係ない次元での方法が多く、努力や費用のわりに効果がなかったり、逆に病気、事故、破産、精神的異常や行きづまりなどの不幸の原因となることもままあるからだ。

そのあたりのことは、拙著「神界からの神通力」や「神霊界」(共にたちばな出版刊) に詳しい。

いまやさまざまな宗教がおこり、さまざまなメディテーションが流行し、いろいろな霊能者たちが活躍し、それらをまた報道するジャーナリズムも盛んになってきた。

何が真で何がそうでないかのオーソドックスな知識を正面からとりあげたのが、前二著である。

社会のそうした現象に迷い、不安になる場合は、前著をひもといていただきたい。さて、パワーコールのことである。

たとえば、金しばりの体験。あなたも一度や二度あるだろう。自分に体験がなくても、よく金しばりにあう友人、知人がいるはずである。

もし、金しばりにあった場合、金しばり解除のパワーコールが威力を発揮する。こん呪文である。

「オンサー ベンダラヤー ソワカ」である。これは簡単な悪魔払いのパワーコールで、蔵王権現の真言である。これは金しばりには絶対の効果を持つ。

もっと積極的なパワーコールもいろいろある。そのうちのひとつをあげると、 

「ハルチ ウムチ ツツチ」

はじめての人はとまどうかも知れない。私の著書の読者や会員のみなさんには、逆になじみ深く、お手紙やお電話によれば、毎日毎日このパワーコールでヤル気が満ち満ち、さまざまな幸運を授かっているという。

このパワーコールは、災いを消し幸運を呼び込むものであり、同時に生き方も前向きとなり、心身ともにハツラツ、クヨクヨしない自分になれる。さらに、動物や草木の善なる精霊すらもなびかせることができるのだ。

ちょっと舌をかみそうなパワーコールだが、これを三十六回声に出して唱える。

まもなくあなたの守護霊を中心に善霊や幸運の気が大集合し、あなたは大きな力で守護される。

ついで、自分自身と守護霊が合体し、霊感が鋭く研ぎ澄まされてくる。これらが総合された結果、あなたの意欲は何十倍にもふくれあがり、内側の眠っている力もしだいに引き出されてきて、やがて爆発的な運気となるのだ。

文字どおり自力運と他力運とが合体した強運・実力の発揮ということになる。

「なーんだ、バカらしい」と思わずに、とにかくこの呪文を唱えてみることだ。パワー コールは、真心こめて唱え、天界からの神霊パワーが降り注がれているのだと確信すること。

そう確信すればするほど効果は絶大になる。

本人の確信→パワーコール→神霊界霊界→本人

こうした流れが成立することによって強力な神霊パワーが得られるのだ。

しかし、はじめての読者には、こういった事実をにわかには信じることはできないだろう。これまでの常識や先入観が邪魔をしているからだ。

もしそうならば、少し歴史をふりかえってみてほしい。

幸福になりたい、苦しみから救われたいというとき、解答を出そうとするのが宗教家である。

日蓮をみるといい。

親鸞をみるといい。

むろん、最澄、空海、道元、白隠… 偉大な宗教家が存在したが、わかり易い例としてポピュラーな親鸞と日蓮をあげた。このふたりは何を説いたか。

衆生を救済するために簡単なパワーコールを紹介した」と言えば、世の識者からヒンシュクをかうだろうか。

だが、私流に率直にいえばそうなる。たとえば、

南無阿弥陀仏。

親鸞は、民衆に仏教の教えを説いた法然と同じく、「小むずかしくてくだらん漢訳仏典なんか読まなくてもいい」と言った。「ただひたすら仏様におすがりし、南無阿弥陀仏と唱え続けるだけでよい、それで人々は救われる」というのが、親鸞の教えなのだ。

日蓮もしかり。

南無妙法蓮華経。

これを唱えてひたすら信じることで救われるとしたし、実際に救済された人も多かったのである。

南無阿弥陀仏も、南無妙法蓮華経も、それなりに哲学的な解釈もでき漢訳した意味をもつかむことができようが、最終の目的は、衆生が救われることにある。救われなければ、どんな哲理も空理空論、ひまな人たちの知的ゲームではあっても、苦しむ人々にとってはへのツッパリにもならない。

そこで、法然であれ、親鸞であれ、日蓮であれ、それらの経典を凝縮した形での称名を唱えることによって衆生を救おうとしたのである。

その称名は、角度を変えていえば、仏に帰一して浄土に往生するという一種の真言であり、パワーコールでもあり、呪文でもある。

幸いに私は、まったくの常識人としてここ二十年近くも教育事業や商社を運営に携わり成功させる一方、霊界、神界へ通ずる能力と知識とを授けていただいているため、その正しい神霊界の知識とそこから得られるパワーを、常識人としての私が厳しく吟味し、試し、その結果、現実界に役立つものばかりを紹介しているのである。

パワーコールもそのひとつであり、神界ロゴもそうである。

神界ロゴとは、神霊界に存在する霊的な作用を発する記号であり、神霊界パワーを地上で受信する装置の一種だと思えばよい。

これまでいろいろ発表してきたロゴは、私がアンドロメダ天界や他の惑星に魂の旅行をしたときに、神様から直接教えられたものばかりであり、そのパワー効果を実際に確認したものばかりである。本書では、そのごく一部をとりあげた。

神界ロゴを用いる心構えは次の通りだ。

●効果を確信する…神界ロゴはそれを使う人の確信する力に応じて反応する。

●身近に置くだけでもよい―神界ロゴは金・銀製品のペンダント形式もあるが、置物となっているものもあるので、居間、書斎、会議室、社長室、玄関など適当なところに置いたり、あるいはマークはコピーして手帳や財布に入れておいてもよい。

●ただし、すべてをパワーコール、ロゴのみに頼らないようにする。これが鉄則である。自力運を高めるための努力・精進をしながらこれらを併用するとき、大きな効果が出る。

●また、遊び半分の気持ちで用いることは危険である。神界ロゴは強烈なパワーを持っているため、たとえ軽いイタズラ心であれ他人のマイナス、不幸になるような使い方をすると、その通りの結果になる。

また他人を損なうような使い方をすれば、自分も何倍もの形でダメージを受けることを知っておいてほしい。

“われもよし、他人もよし、そして神霊界にもプラスになりますように”といった信念のもとに使用したとき、爆発的な強運への転換が行えるのである。

正しい使い方さえすれば、自力運は何倍も強化されるのだ。

コンプレックスの原因はどこにあるのか

周辺が大卒者ばかりというとき、「自分は中学校卒業だ」、「高校卒業だから」とヒケ目に感じたり気おくれする人がいる。しかし、こういう気持ちを抱く人は自力運も伸びないし、いわんや他力運も伸びはしない。

ヒケ目や気おくれなどのコンプレックスをはじきとばして、「負けるものか!」と根性で頑張れば、他力運の開発につながる。しかし、よほどの人でない限り、「よしヤルぞ、負けるものか!」という勢いを持続させることはむずかしい。

なぜ持続できないか。何か屈辱的な刺激を受けたときには瞬間的に発憤して、あとはまたすぐしりつほみになるのはなぜだろうか。

それは、ただ一時の感情や反発心に動かされているだけだからだ。感情や反発心は大切な起爆剤であり貴重なものであるが、それに持続性と方向性とを持たせるためには、ちょっとした知恵が必要である。

根性だけで、むやみやたらにただ頑張るぞというのでは半日ももたない。ここでも、先に述べた具体的な目標を持つことがポイントになってくる。

その目標を達成するプロセスとその成就によって、あなたは“自信”を持つ。その自信が反対のベクトルである コンプレックスをふきとばすのだ。

一見、“自信”と”コンプレックス”とは別々のエネルギーを持っているように思えるが、心の働きからいえば同じ根、同じ源なのである。負のほうへ心の力が働けばコンプレックスとなり、肯定的な明るい方向へ向けば自信となる。

心が愛に満たされているとき、憎悪の感情はどこにもない。それと同じことだ。

学歴コンプレックスをふきとばすには、具体的にどうするか。

それはそうだが、まだそれではボンヤリとし過ぎている。そこで大卒者とそうでない人との違いは何かをみてみる。

●大卒者よりも、中・高卒者は”我見”が強い傾向にある

●大卒者のほうが論述力がある

●大卒者のほうが専門書を読む力がある

大きくみて、以上の三点だろう。私も十余年の教育事業に携わってきて、いろいろな生徒や学生や若者たちに学んできた。その結果、個人差はいろいろあっても総体的にみればこの三点に集約される。

もし、あなたが大卒者でないとすれば、この三点を乗り越えることだ。その結果、有能で、しかも自力運・他力運ともに恵まれた人物として、どの分野においても大いなる力を発揮し、自分の願望を達成できるだろう。

ところでなぜ大学を出ていない人のほうが我見が強いのだろうか。

こんな”我見”が可能性をダメにしてしまう

大学の四年間、あるいはそれ以上の人もいるだろうが、勉強しようとすまいと、また優等生であろうと劣等生であろうと、そんなこととは無関係に、大学生活は集団生活であるということに着目してほしい。

どんな形のサークルであれ、クラブ活動であれ、いろいろな地域出身者がさまざまな方言を使ったりする。また習慣や考え方がまったく違う学生とも仲間づきあいをするということになる。ここに学生生活の本当の意味があるのだ。

コンパやテート、テニスや麻雀など、男女集まって飲んだり、ダベッたり、たまに授業に出たりと、遊び、勉強会、サークル活動・・・・・・、多くの人との出会いがある。

出会いがあれば必ず会話がある。会話があるということは、それぞれの好み、主張、意見が飛び交うということである。彼らの生態をみていると、三時間、四時間集まってひとつ事をやっているのは当り前で、若さにまかせて夜を徹するということも珍しくない。

じつは、この雑多な出会いや会話、一見ムダにみえる集まりに費やす時間がたいへんに貴重なのである。

「なるほどネェ、人間にはいろいろな考え方があるんだな」

「そうなの。わたしはまるで逆だと思ってたのにネ。そんな見方もできるんだ。ひとつかしこくなったわ」と素直に、他人のものの見方・考え方を聞いて学ぶ。

同じ学び方でも、「お前の意見や生き方なんかに、オレは絶対賛成できないよ!そういう考え方もあるんだっていうことはよくわかったさ、だけどお前なんかキライだよ!好きになれねえや」

「そうはいってもお前はわざわざオレんところへ来たんだ。どっかオレに好意を持ってるんだよ。ま、とりあえず飲みなよ」といったパターンもある。

これはどこか文豪同士のやりとり、たとえば太宰治を訪ね若き日の三島由紀夫とのやりとりに似ているが、いずれにしても、自分の意見のみならず、多種多様な価値観と意見と主張とがあることを、在学中に学んでいくわけである。

これはたいへん大切な体験である。我見というのは、自分が正しいと思い込む”独善”につながり、別の角度からものごとを見るという習慣がなく、視野が狭い。

あるひとつの小さな技術だけにこだわり、頑固な職人気質をつくりあげて、若いのに発想も固く柔軟性がなく、結果は全体の見通しのきかない人間で終わってしまう。

狭い分野しかものを見ることができず、「これでよいのだ」とか、その裏返しとして「自分にはこれしかできないのだ」とかの自己限定は、頑固な”我見”の現れであり、それが将来への大きな可能性や成長をはばむもととなってしまうのだ。

マンガと専門書の併用が大切なのだ

大卒者のメリットは、どんなダメ学生であれ、いやおうなく在学中に専門書”を何冊か読まざるを得ないということである。

すべてが理解できなくても、何らかの専門書”を読んだということは、まがりなりにもその分読解力”が鍛えられたということである。

読解力とは、仕事であれ友人・同僚・先輩や家庭における人間関係、あるいは、人生や芸術や学問や、仕事のしかたや取引関係など、この世のすべてのことがらに対する理解力、把握力でもある。

理解し、次にそれを自分のものにして表現していく能力、それを総称して私は”咀嚼力”と呼んでいるが、この咀嚼力のない人は、どの分野のどん仕事においても自分を百パーセント伸ばすことは不可能である。

したがってまずわれわれは、咀嚼力を身につけなければならない。その身近な方法が専門書を読むということだ。

また、専門書を読破することは咀嚼力を鍛えると同時に、専門知識も得られるというメリットがある。

大学生が読む専門書を手に入れる、あるいは自分の仕事につながる書籍、広告関係ならば、広告論、心理学、マーケティング・・・・・・などなど。

飲食店ならば、食堂経営から、栄養学、調理の研究書、といった具合いに、法律、政治、経済、文化、芸術、科学・・・・どの分野であれ専門書はあふれている。はじめはとっつきにくくて読みくだく速度は遅いが、そこでサジを投げず、辞書をひきながらでもとにかみすすむことだ。

一冊でも征服すればあとはそれほど苦しくない。

名作「宮本武蔵」や「私本太平記」などで知られる国民的作家、吉川英治は、小学校卒業で職業を転々としたのち作家になり、日本文学史に大きな足跡を残した人である。晩年には文化勲章も受賞した。

吉川英治の勉強法は、あの「国民百科大辞典」を全巻くり返しくり返し読み、不明なことばや概念が存在しなくなるまで読み続けるという方法であった。

マンガや週刊誌や劇画に熱中しようと構わないが、一方では専門書によって見識を高めることも知性の錬磨に役立つ。意識的に密度の濃い考え方に慣れるようにすることが大切である。

”論述力”の訓練が運を開く

大卒者の次のメリットは、どんな大学でも試験があることだ。

試験があれば、まず何々について述べよという論述をしなければならないし、いやおうなしに文章を書かなければならない。

また、もし試験がなくても必ずレポートを提出しなければならないことだ。平成四年に留年なしに早稲田大学を卒業した人たちは、四回の期末試験のうち、二回が学園ストで中止となったため、レポート提出で単位を取得した。そういった事態でなくても、論述にせよレポートにせよ、前期・後期合わせて一年間に四十単位ほどの学問を四年間やれば、少なくとも合計百回ぐらいの論述やレポートを書かざるを得ない。

当事者たちは、いやいやながらであったり、手抜きしながらであるかもしれないが、何十回も自分の意見を、人にわかるように論述させられることはじつに貴重な体験であるし、たいへんな訓練を行っていることでもある。

当人たちはそんな意識は毛頭ないかもしれないが、結果的には、論理的に自分の考えの要旨をまとめるという訓練をしているのである。

社会に出れば、たえず一般的な手紙から儀礼的手紙やレポート、稟議書から契約書な必ず文書で表現しなければならない。

ところが大学生活を経験しない人は、訓練されてないために文書作りがきわめて下手であり、それが具体的な弱みとしても出てくる。

さらに論述力というのは、考えを要約し発表するという能力であるから、冷静にものごとを観察し、その意味をよく理解、咀嚼して、さらに自分なりに再構成するという知的能力がいやおうなく鍛えられるのである。

よく仕事ができるという評価を得、責任ある地位につくことができるのは、この要約力、読解力、掌握力が備わっているからだ。

したがって、大学生身分でない人は、まずこの論述力を伸ばす訓練をすることである。またもしあなたが大卒者であっても、この能力を鍛え磨きをかけ続けることは非常に大切である。

日記、手紙、恋文、何でもいい。まず書くという練習をおっくうがらないことだ。仕事場に限らず、私生活の中にも訓練の材料はいくらでもある。

稟議書・企画書・案内書・広告文案。無論、新聞の社説などを要約するとか、関心のあることがらの資料を集めて研究レポートを作るとか、練習と実践の機会はゴロゴロある。

意識的かつ積極的に練習する。映画好き、音楽好きならその評を書くノートを一冊準備し、どんどん書く。あらすじをまとめる、感想を記す……、材料も方法も際限なく存在する。

言うまでもないが、学歴に関係なくスゴイ能力の持ち主は世の中にいくらでもいる。たとえば大阪国際ホテルの有名なシェフの西村さんがそのひとりである。

大阪司厨士協会の理事長であり、ロータリークラブの役員もしている氏は、テレビの料理番組でも活躍し、パリの料理コンテストに団長として参加し、金メダルを獲得したりする人物だが、この人の学歴は中学卒である。

氏は調理という自分の専門技術の勉強はもちろんだが、加えて一日三十分以上の読書を欠かすことがない。洋書も読みこなせる。もちろん原稿も書く。

そして、じつによくいろいろな分野の人の話を聴き、その意見を冷静に分析しよく咀嚼している。

私はある縁で西村さんから紙をいただいたことがあるが、群を抜くすばらしい文章に驚かされたことがある。

またどんな場にあってもつねに堂々とした立派な内容のスピーチをする。

料理の業界という立場からの高く深い見識、専門知識や技術、そしてそれをしっかり支えている広い知性と教養の厚みに脱帽したものだ。

さまざまな情報を集めながら、寸暇を惜しんでフランス語の勉強を続けるという精進も自信につながっているのだろう。

その高い技術や広い教養が類い希な人格を形成し、人々の尊敬の念を一身に集めている。

中卒だというコンプレックスなどどこにもない。功なり名をとげた人には、ひねくれた思いやひがみ根性など存在しないのだ。

西村さんも修業時代は、熱い湯をぶっかけられたり、包丁の背で殴られたり、足で蹴られたりという厳しい毎日の中で、たゆまぬ努力をし生き残ってきた人でもある。西村さんが読書を欠かさないというのは、職人気質の世界の中で、ともすれば「我「見」に陥りやすいことを自戒し、人の意見を聞く姿勢を持ち続けるためであろう。

我見”や”我〟の強さ、あるいは頑固さは教養と知性のなさが原因である。己の見識、考え方は正しいかも知れないが、それだけが正しいのではない。もっとすばらしいより優れた見識があるかも知れない…。

そういう視野の広さや柔軟性は学問によって培われる。「論語」にこうある。

学びて思わざれば則ち罔し。思いて学ばざれば則ち始うし。

前段の意味は、いろいろと学び知識はあって、自分で考え思わなかったら、つまり咀嚼しなかったらものの本質が見えない、知識ばかりであって内面性やものの本質に暗い。

すなわち聡明でないということだ。

しかし、その反対に“思いて学ばざれば則ち殆うし”である。いろいろと自分なりに思い、考えているけれども、学ぶということをしないために我見が出る。

独善の弊害といってもいい。それが殆うしの言葉に象徴されている。これが後段の意味だ。

その人物が立派で説得性があり、協調性に富んで、しかも見識があるとき、人はがあるとは言わない。だから〝殆うくない”のである。

頑固というのはときとして必要だが、しかし、たいてい知性と教養の厚みに欠けているために、我〟と〝慢心”とがブレンドされた場合が多い。

中卒、高卒の人、あるいは職人さんが気をつけなければならぬのは、頑固で職人気質に陥らないことである。そのためには、これまで述べてきた、

●我見をなくす努力
●論述力の養成
●専門書を読む読解力

を身につけること。そうすれば、学歴コンプレックスをはねとばし、さらに大卒者を上まわる活躍の可能性が広がってくる。

もちろん、大卒者であっても自分にはこの三要素が弱いと思ったならば、さっそく計画的にこれらを目標に実践し続けることである。自力運が伸びだすとともに、他力運もぐいぐいと身についてくる。

この五法則がツキを呼ぶキッカケになる

自力を伸ばすべく努力を続けていると、それにともなって他力も加わってくる――これが運の原則であるところが面白い。

このどこが面白いかといえば、ツキというのはたんなる偶然ではなく、ツクべくしてツクものだからである。

ツキというのは、幸運、ラッキーのことであり、それを私は他力運と称している。そのことはこれまで何回か説明してきているが、自力運・他力運とわざわざ使い分けをしているのは、ツキとか幸運とか不運という漠然としてとらえどころのないものを、ツキを呼ぶ、すなわち運を強めるというかたちで確実に体得するためである。

他力運があるということは、ツキがあり強運につながることであり、それは自力運をあと押ししてくれる守護霊たちの働きが強いということでもある。

そして、ここで話は原則にもどるのだが、守護霊たちの大いなるあと押し、つまりツキを得るのは、結局、自分自身の精進・努力と正しい方向性の結果であるということである。

そこをとらえて、「天は自ら助くる者を助く」と言わしめているのであり、さらに、「天道、人を殺さず」とも表現されている。

奇しくも洋の東西を問わず、同じ意味のことをちゃんととらえているのは、それがまさに真理だからである。

ツイているか、ツイてないか。他力運があるかないか。

それは、すべてあなた自身の内にある。他力運を得ようとするならば、自力運をまず強めなければならない。自力運を開発していくことが、即運勢をよくしていくプロセスでもある。

ではここで、自力運と他力運とでより強力な運を獲得するための方法をまとめておこう。

①善なる待機
②日々、時々刻々の充実…ただ今に生きる
③目標を持つさしあたり、とりあえずの目標でよい
④こだわりの無い心
⑤日々新たに

以上の五法則を身につけよう。そうすれば必ずあなたの運勢は三十倍、四十倍、いやそれ以上にアップするはずである。

五法則がなぜツキを呼ぶか

ツキ・運といわれるものは、棚からボタモチがいつか落ちてくるのをぼんやりと待っているものではない。

偶然の形で舞い込んでくるツキや運も、長い一生のうち一度や二度はあるだろう。だが、そういう偶然を期待し続ける限り、あなたの自力運も他力運も、ほとんど力を発揮しないままの一生になってしまう。

ツキとか運は自ら呼び込み、つくりあげるものだということ。この発想をまず徹底して自分に納得させよう。

さて、以上を前提として次にすすむ。

なぜ五つの法則が、自力運と他力運の組み合わせで強大な運を呼び込むことができるのだろうか――

善なる待機。

これについてはもうすでにふれたから意味はご承知のはずである。

けれども、いましがた、ツキはぼんやり待っているものではない、つかみとるものであると言ったばかりではないか、それを待機せよとはどういうことか、と疑問になるところだろう。

もっともだが、ここはポイントであるからぜひ誤解のないようにしたい。

善なる待機とは、こういうことである。

「何かイイコト起きないかなあ」

「五千万円ぐらい、どこからか降ってこないかなあ。五百万円でもいいけど・・・・・・」

「ステキな男性が突然目の前に現れて、プロポーズしてくれないかなあ」

「係長をとびこして、突然課長の椅子がころがり込んでこないかなあ」

「会社の社長令嬢が養子に迎えにこないかなあ」

こう並べていくとキリがないが、こんなシンデレラガール、シンデレラボーイ願望を持ったにしても、それはたんなる夢想であって、けっしてツキを呼び込まないということである。

このような”棚ボタ”式に都合のいい甘い夢想にふけっていつまでも天井を眺めていても、降ってくるのはつもったホコリか、少し手ごたえあってもせいぜいゴキブリか、ネズミのオシッコぐらいなものだ。

そうではなくて、再三再四述べてきたように、ツキや幸運を招くべく工夫をし、努かして、そして然るのちに待て。これが”善なる待機〟である。

〝果報は寝て待て”というが、何もしないでただ待つのを”阿呆は寝て待つ”という。本当の意味は、”人事を尽くして天命を待つ”ということなのだ。

きちっと目標を定めて努力を続ける、そうすると時期がきて果実が実るようにチャンスがくるし、幸運が訪れる。それまでジタバタするな、あせるなということである。ジタバタしてあせりまくれば、ツキや幸運は遠のくだけなのだ。だから待機せよというのである。

ツキとか運というものは、まず自分が走ったあとからついてくるものと理解するとよい。自分が走るとは、自力を出すということであり、定めた目標に努力を続けるということである。

そうすればツキや運、つまり他力運はあとからついてきて、やがてその自力運と他力運は合体し、爆発的な力を生むようになるのだ。

だから、運やツキを求めてあせり、ジタバタさわぐな、愚痴るな、というのである。

ジタバタし、あせり、愚痴を言いだすと、走る方向が見えなくなる。チャンスがきてもそれがチャンスだと見分ける能力がないので、せっかく応援しようとしている守護霊たちの力を弱めてしまうからだ。

守護霊たちは、清らかな気、美しいオーラであればあるほどそれに感応して、あなたのあと押しをする。そのあと押しの力が他力運であり、それがチャンスを生み、ツキや運を呼び込むのである。

これが自力運・他力運を発動させるコツ

ただ今に生きよ”とか”とりあえず目標を持て〟という言葉は、やる気がなく無気力になる状態や、不安やあせりや自信のなさから脱出する具体的な方法論であり、かつ実際的な知識や技術をも身につけるという効用があることを、十分に理解していただけたと思う。

別のことばで言えば、〝暇〟をつくらないようにするということだ。

小人閑居して不善をなす。

と孔子も言っている。暇になるとロクなことを考えないし、才能や魂の進歩・向上にプラスになるようなことをしないどころか、逆にそれを腐らせるようなことになる。

だが、そうした何らかの活動や行動をする人はまだ立派である。しかし、ひたすら何もしないで、過去のこと、失敗したできごと、かつて言われた悪口、叱られたこと、別れた人のことなどを、ウジウジとくり返し心の中で思い続けることは、最悪のパターンで、もっとも自分の魂を傷つけることなのだ。

それぐらいなら外へ飛び出して、酒でも飲んでウサ晴らしでもしたほうがいい。

競馬にでも競輪にでも行って、大勢の人々の熱気とともに時を過ごすべきである。

ウィンドショッピングであれ、買物であれ、映画であれ、パチンコであれ、気のすむようなことを何でもやればよいのだ。

公園、海、山、・・・・・・、好きなところに行って、大声で思いきってわめいてくればいい。 18 でなければ、せっせと机の中を整理したり自動車を洗ったり、自転車をピカピカに磨いてみるのもいいだろう。

ともかく、何もしないでボンヤリしているよりは、ガールハントにでも出かけたほうがはるかに身心ともに好影響を及ぼす。

孔子はこう言っている。

「さいころ遊びや碁・将棋みたいなものがあるだろう、何もしないよりは、そんな遊びでもするほうがよいのだ」と――。

もっとも今では、碁・将棋は知的で高級な趣味になっているから、誰にでもできるものではない。孔子が今生きていたなら、ファミコンや麻雀、パチンコ、競馬、あるいは AVなどを例にあげるかもしれないが、いずれにせよ、心をボンヤリさせたり、マイナス方向に向けるよりは、生命がもっと生き生きすることにふり向けることが大切だ。

よどんだ水のように腐敗するのを待つのではなく、少しぐらい汚れていても流れる水であったほうがよい。

それが自力運を発動させるきっかけになるからであり、自力運がじわりじわり動き出すと他力運もそれにつれて動き出す。

「けっして閑居することなかれ」と言いたい。

思い込んでいてはチャンスが見えない

自力運・他力運を合体させて強運とする法則の四番目は、「こだわりのない心」である。これはいかにも出家した禅僧が言いそうな心境である。

だが、なに、そうむずかしく考えることはない。われわれは、仕事や家庭生活や複雑人間関係の中で、この境地を体得することができるのである。

”こだわりのない心”はけっして出家した者とか、坐禅や瞑想の実践者だけの専売特許ではない。

むしろビジネス戦線の第一線で闘い、悪妻に悩まされ、あるいは夫や子供に泣かされる立場のあなたのほうが、本物の境地を体得する可能性が高い。

なぜならわれわれのような生活実践者は、出家した人たちと違って二十四時間すべて、ナマの修業そのもので鍛えられているからである。

とりあえずの目標を立てた。その達成のために、ただ今だけに集中し実行する。たとえ、その結果大きな成果がすぐにあがらなくても”善なる待機”で待つ。

さあ、ここまできたらしめたものだ。自動的にチャンスは必ずくるのである。

だが、もし、そこまでまだ進んでない、といった場合どうするか。

そういうあなたにひとつ質問をしよう。

そして次の段階。

あなたは、本書をここまで読んだとき、ただちに、「今すべき」あるいは「今自分に実行可能」な〝とりあえず”の目標を本当に立てましたか?

頭の中だけで立てたのではダメである。とりあえずやれることを、白紙いっぱいにかたっぱしから書いてみる。

あれこれ考え込まずひたすら思いつくままに、二十項目でも三十項目でも書き出す。まだ何か書き残したという気分があるなら、ひとまず机から離れて食事でもし、風呂でも浴びるか、あるいは散歩なりデートでもしたあとで、さらに書き足すといい。

書き出された項目を、今度は自分に今どれがピッタリ合っているか、しかも実行可能かをピックアップする。不要なものはどんどん消していけばよい。

残った”とりあえず”の目標が何であるのかをはっきりと具体的に、新しい紙に清書する。

つまり、何を、どんなふうに、何日間あるいは何週間やるといった形に明確にするのである。

ここまでできたらあとは実践するだけだ。

できないはずはない。なぜならできることを目標にしたはずだからだ。できないとすれば、できないことを目標にしたからいけないのである。

さあ、どうだろうか。できないとは言えまい。「そんな簡単なこと」と小バカにしないで素直に手順に追って目標を作って実行してみることだ。

さて、なぜこんなことを延々と書いたか、といえば、じつはこだわりのない心”を持つことと、この行為とが密接につながっているからである。

とりあえずの目標を立てて、その一瞬一瞬に集中しているとき、こだわりのない心が生まれているからである。

禅で得られる柔軟でこだわりのない心境が、ただ今、ただ今に生きているときに体得できてしまうからだ。

目前のやるべきこと”に集中しないで、心をぼんやりと遊ばせておくと、われわれの欲望に根ざしたさまざまな妄想、雑念が次から次に湧き出て、「ああしたい、こうもしたい……それなのになぜダメなのだろう」とか、「どうしても社長令嬢と養子縁組みするのだ。

そうすれば今度の人事で課長の椅子がまわってくるはずだ」、「私ぐらいの美貌ならスターになれる。きっとスカウトがくるだろう」、「私が夫と別れさえしたら郷ひろみも別れて私と結婚してくれる、前世からのそれが因縁なのだ」といった具合いに思い込む。いろいろな思い込みかたがあるが、いずれもそれは強い執着の現れである。執着。

激しいこだわりがマイナスなのはなぜか。

ひとつのことに執着すると、その他の一切の事象が見えなくなるからだ。こうだと思い込むと、他のことが理解できなくなる。

しかも、執着しこだわっている限り、そこに心が縛られているために解放されることなく、思いが手に入らないことからくる欲求不満、怒り、あせり、失望、ジェラシーといった否定的な面がどんどん拡大されていくばかりだからである。

こうなると自力も伸びないし、もとより他力も発動することはない。

いや、あなたを守護する守護霊は、つねにプラスの方向、善なる方向へあなたを向かわせようと、二十四時間気を配っているのだが、否定的な心情でマイナスの気を発散し続けている限り、守護霊の力もあなたに届きにくい。

守護霊もまたあなたが心を明るい方向へ転ずるのを忍耐強く待っているのである。

こだわりのない心は、目標に向かって明るく、ただ今、ただ今に全力を注ぐとき、おのずからそうした心境になっている。

やわらかでこだわらない態度が培われるとき、あなたの目には、いろいろな現象がありのままの姿で映るはずである。

そうすると、運命という列車の走り具合がよくわかり、「ここがチャンス。さあ、乗ろう」と決断でき、迷わず幸運列車の乗客となれるはずだ。善なる待機が生きてくるときである。