絶対運(Vol,6)

第四章 運・不運はどこで分かれるか

人生は列車の走行によく似ている

人の一生の運・不運は、列車の走行と同じように見える。

駅から出発するとき、その車輪は、ゆっくりと回転しはじめる。このとき、レールにちょっとした石ころがあっても、かなりの抵抗を受け、場合によっては列車は止まってしまう。

だが、出発してしばらくたつと、列車はかなりのスピードをあげ、やがて八〇キロ、百キロと加速していく。新幹線なら270キロものスピードが出る。

かなりのスピードが出ているときに、さっきと同じような石ころやレンガがレール上にあったところで、わけなくはじき飛ばすか、粉々に砕いて何ごともなかったかのように走り続けるだろう。

人生も同様で、将来の目標が決まり、加速度もついて全力で走りだしてしまえば、世の中に少々問題があったり、ちょっとした障害があってもそれらをものともせずに、快適にただ驀進するだけだ。

ヤッカミやジェラシーや悪意にみちた中傷が両手を広げて進行の邪魔をしようとも、へのカッパ、むしろいよいよ加速度がついて、それらの障害をはじき飛ばす快感に燃えて猛進撃を続けるだろう。

この場合の加速度が、人間の運気であり、運の勢いであるといってよい。スピードをあげて走っているときこそ、まさに盛運そのものである。しかし、駅に着けば列車は停まらなければならない。

停車中に、乗客の乗降、水や燃料の補給、あるいは車体の整備・点検、食堂車用にさまざまな食物の積み込み、場合によっては乗務員の交替などをする。

いわば、これが不運期である。たとえば厄年であったり、天中殺や大殺界がそれで人生の転換期にあたるふし目というものだ。

スピードをゆっくり落として停車し、時間がくるとゆっくり動きだして、しだいにスピードをあげていく。厄年を駅とすれば、前厄があって本厄をむかえ、やがて後厄となる。

前厄も後厄も、完全停止の状態ではないが、かなりスピードが落ちて徐行運転をしている状態である。こういうときには、車輪とレールとの摩擦係数が大きいために、わずかな、ちょっとした障害でも大きな影響を受け、停車してしまうかもしれない。

したがって不運期には、小さなミスも用心深く目を光らせることが大切である。

陰のとき、陽のときには何をすればいいか

ここで断っておかなければならないことがある。厄年や天中殺、大殺界などと書いたが、こういった占いの類いでいう不運の時期は誰にでもあてはまるというわけではない。

占いや相学家の言う不運期が、宇宙の定理のようにぴたりとあてはまるものであるというのではないのだ。

占いは、ときと場合によって当たるが、ときと場合によってはずれる。そういう不確かなものに、貴重な人生のすべてを賭けてはいけない。

もともと、不運期とか盛運期とかいうのは、人間の目からみた尺度にすぎない。人間という立場をはなれれば、また意味が違ってくるのである。

では、人間の立場をはなれるとはどんなことだろうか。

宇宙の立場である。わざわざ宇宙ということばを持ち出したのは、神界・霊界を含むわれわれの一切の世界を宇宙が象徴するからであり、角度を変えれば、神霊界から見た尺度と言い換えてもよい。

そのような尺度で万象をながめるとき、あらゆる事柄が陰と陽に集約されていることがわかる。

腸を人の生活レベルでとらえると、家の外、社会生活での活躍の舞台や活動ということができる。

陰とは、それとは逆に家の内の世界、あるいは人間の内面的な精神世界であり、自分を見つめ錬磨し、才能やエネルギーを充実させることだ。

したがって、神霊的な立場でいえば、盛運期は陽のときであり、自分を家の外において、それまで貯えた知識や技術、あるいは磨いた人徳をもって精いっぱいに表現することのできる時期なのだ。

つまり、社会の表舞台に立って大いに活動することであり、それによって目標が成就し、その結果、収入、名声、地位などを手に入れることができる。

こうした陽のときにも落とし穴がある。調子に乗り過ぎて慢心し、態度が大きくなって天狗になりやすく、その結果、ともすれば人やものごとを侮りがちになり、へたをす

ると顰蹙をかい、信用も失いかねない。そんな状態に陥れば、せっかくの強運もしだいに衰えて、不運に転じてしまうのである。

もう一方の不運期とは、陰のときである。

陰の場合に人が行うべきことは何か、神様がわれわれに何を望まれるのかを知ることだ。

くり返し述べたように、神様が求めているのは「内面を充実させよ」ということである。

家族とか身内、企業ならば社内、そうした内部の整備にエネルギーを集中し、「実 力を内側に貯えなさい」というときである。

個人ならば、「自分の内面性をいかに豊かにし、才能を鍛えあげるか」といったことに集中すべきなのだ。

にもかかわらず、外へ外へと気持ちが向いて、内側がととのわないのに活動のみに気をとられていると、ミスが多発し、大きくなる。

その結果、当然、落ち込みが激しくなる。

「ああ、ツイてないなあ、オレは、やっぱりだめなんじゃないかなあ」

自信をなくし、愚痴が多くなり、いよいよ傷口は大きくなるばかりである。

恋人や家族との運がよくなるつきあい方

失恋したり、離婚する、あるいはそうならないまでも、親しい間柄や肉親との間でつ

ねにトラブルがあるということは、幸運に恵まれている状態とはいえない。

社会的に活躍するためにも、その基盤となるべき近しい人たちとの運のいいつきあい方をするべきである。

恋人や妻や夫との人間関係がおかしくなったから、霊能者にみてもらおうとか、占い

師に占ってもらおう、あるいは宗教へとすがろうとする前に、まずあなたの自力運と他力運で解決してみたらどうだろうか。

うかつに第三者のところに行って自分自身を委ねようとすると、すでに述べたように、のっぴきならぬ事態に陥りかねないからだ。

そんな危険をさけて、家族や恋人など親しい人たちとのいい人間関係を作るコツとは何か。まず第一に「自分に近しい人に一番気を遣え」ということである。

もっとも遠く離れた人には「堂々と、そしてもっとも親しみを込めてつきあう」ということがポインとなる。

夫や妻や恋人に対しては、その関係が長ければ長いほど、どうしても押れが生じる。その結果、ついつい自分の立場からだけの厳しい要求をしがちになるし、ことば遣いにも思いやりが欠け、荒々しさが出てしまう。

夫婦や恋人同士も、もともとは赤の他人だったはずだ。その他人同士が時間の流れという狎れ”の中でお互いに我を主張しあえば、対立するのは自然ななりゆきである。

したがって、親しければ親しいほど、その人物に気を遣わなければならない。相手の存在を考えた上でエチケットを守るべきなのだ。

たとえば、帰宅して妻にこう言う。

「ほう、ちょっと化粧を変えると、また別の魅力が出るんだね、キミは。今まで気がつかなかったが」

これでぷっとふくれる妻であれば、これはもう相当の悪妻だから、もう人間と思わず、また妻と思うことを一切あきらめて、ブタを一匹家に飼っていると達観することだ。

長所や美点を角度を変えてとりあげることは、けっして天の道にはずれない。むしろ、相手の魂に喜びを与えることは惟神の道にそい、幸運を呼び込む善徳をすら積んでいることになるのだ。

たとえばしょげかえって帰宅した夫を、かも。

「あなたの髪の薄いのを誰が笑ったんですって、放っといてちょうだいよね!私はあなたのその円満なところが気に入ってるんですからね、失礼ね、そいつ!」と嘘でもいいからハゲまして勇気づけてあげる女房を、神様はニコニコして見守り、何かあれば援助の手を差しのべてくださる。

欠点や短所を追及し、相手の性格や外見を無理矢理変えようとすれば、対立・抗争しかなく、ともに傷つき疲れきって運気も弱くなる。しかもケンカし傷つけ合って、損するのは結局自分自身なのである。夫婦であれ、恋人であれ、相手を変えようと思ってはならない。変えるべきは自分である。己の態度・ことばを変えさえすればそれに応じてしだいに相手も変化してくる。

その上で、本人にわからぬよう、相手の守護霊様にこう祈るのである。

「妻に対して、私のこういうところがまずかったと反省し、改めます。どうぞ、妻の守護霊様、妻のイライラ、ヒステリーがおさまり、円満な家庭が築けますよう、ご守護のほど、よろしくお願いします」

こういったことを、自分の状況に合わせて口に出し、誠意を込めて祈ると、しだいに夫婦の関係もよくなってくる。

上司とも運のよくなるつきあい方

職場での人間関係がうまくいくだけで、「ツイてる」、と思うだろうし、うまくいかなければ、「どうして俺はこうなんだ。すぐ衝突するし、そうでなければなんだかんだと誤解され、実力を認めてもらえない。考えてみたら、ぜんぜん実力のないY君なんかがどうしてあんなに調子よくいくんだ。どうみたって力はオレのほうが上なのに。ツイてねえな」

なぜこうなるのかと、ただ不運のみを嘆いてしまう。

単純にいえば、職場での人間関係がまずいからである。そして、それがうまくいかないのは、真心と愛が足りないか、その表現がへたであるためだ。

そしてまた、人間関係がうまくいかない人は、自分の心のなかに、どこか偏りと歪みとを持っているからである。

相手に好意を持てば相手からも好意を持たれるし、憎めば憎み返される。

善因善果・悪因悪果という。善を積めば善の結果が生まれ、悪因を積めば悪い作用があるというのが自然の法則なのであり、そしてまた、神様の掟はどんな場合でも通用するのである。

いかなる場合でも、至誠と愛の念を貫くとき、そこに大きな他力が動くものである。自力とともに他力が働かないとすれば、それは至誠ではなく愛でもない、別の要素が心を占めているからであろう。

職場における人間関係も原則は同じだ。だが、そこには会得しておくべきちょっとしたコツがある。

まず、「叱られたときにどうするか」である。理不尽に叱られるということは、組織では珍しいことではない。そんなとき、

「ばかやろう、お前なんかに叱られるのは筋違いだ。ふざけるなよ!」などと口に出してしまったらおしまいである。

とてもじゃないが、これでは愛念どころではなくなる。だから、まず、口に出してモノを言うことは絶対にさけることだ。

喉もとまで出かかってもことばをそこでピタッと止める。必殺水際作戦を展開するのである。

言葉に出せば、憎悪の念が一層吹き出してくるので、水際でピタッと止めてしまうのだ。水際で止めようとしないで「部長なんかくそくらえ!」とことばに出すと、それが結局は自分の運気を損なうことにもなるのである。

さらに、「こんちくしょう」という腹立ちの念が吹き出すのを水際で止める努力をする一方で、別の角度からの部長の立場を並行して想うようにする。

「部長の奥さんってヒドイ悪妻だから、ゆうべ何かの理由でヒステリーを起こされたに違いない。お陰で今日はご機嫌が悪いんだ。そうでなければ社内のお偉いさんに怒られたんだろう。たしかにぼくも売り上げを伸ばす努力が足りなかったしな。もともと部長ってお人好しだし、そういえばこの間も、ヤキトリ屋でおごってくれたし、残業してたら「おい一杯飲ろう」って誘ってもくれたしな。気の毒なのは部長のほうかもしれない」

こう思い、口の中でぶつぶつ言い続けているうちに、当初の憎悪の念は姿を消し、やがてわずかずつながら、愛の念が心に広がっていく。

次第に気持ちが穏やかになり、反省すべきは反省して、相手の立場を理解し、また相手の良さに目を向け、それをくりかえし口の中でも心の内でも話し続けているうちに、自分の怒りを自分で溶かし、愛がわき出てくることに気づくだろう。

そうなるともうしめたものである。それまでは憎悪の念が吹き出て近寄れなかった守護霊が、愛念とともに前面に出てきて働きだすからである。

どんなに叱られても、すぐ立ち直ってニコニコしながら相手と対応することができるようになれば、あなたの評判も高まっていく。

「あいつはなかなか打たれ強いね。少し何か言われても、ケロッとして笑顔をとりもど情緒が安定している。心にバネがあってすぐ立ち直る。どんどん伸びる人物だよ」

自分の心を愛念で満たす訓練をしていると、怒りとか憎悪がわいてもすぐ消えていき、オーラも暗い色から、オレンジ色、ピンク色に変わって輝きを増していく。

そこで守護霊が感応しやすくなって本人のために全力を尽くすようになる。

そしてあなたの守護霊が相手の守護霊にも働きかけるので、怒った部長もそのうち「悪かったな、もっと穏やかに言えばよかったな」と反省し、

「いや、あのときは私もイライラしてすまなかったね、これからもよろしく頼むよ」と、わざわざ声をかけてくれたりする。

さて次に、無愛想で意地の悪い上司にはどう対応するか、である。

基本は同じであるが、あなたのほうがもっと積極的に相手に愛の念を送るのである。「課長、私は課長を愛してやみません」

これじゃ、同性愛者ではないかと思われて、即クビになるかも知れない。愛念の表現にはひと工夫しなくてはならない。

やりにくい上司には、まず、明るい笑顔で誰よりも先に挨拶する。次に、その上司の美点・長所を探しまわって、会話の冒頭に必ずそれを先に言う。

「課長、となりの課の女性が課長の声がとてもセクシーだって、うっとりしてました」

「くだらんこというな、仕事しろ仕事!」

「ハイ、課長」

仕様のない奴だな・・・・・、などと思いつつも、課長は窓際に立ってひとりニンマリしているものだ。

形容詞や枕詞をよく研究して、相手の長所・美点に即応する使い方に慣れておくと、そのことばに乗って情感も出るようになり、愛の念が本物になって流れ出すのだ。

それはちょうど神社に行き参拝するときの祝詞と同じである。祝詞とは、意を乗せる、情感を乗せてご神霊と一体化するためにあるものなのだ。

その祝詞だが、ご神霊への至誠や愛の念を乗せるために、どんなオンボロのお社に行っても、「もの古りたるこの社」とか言って素朴な良さを誉めたたえることからはじめるのである。

樹木をたたえ、社のすばらしさをほめるというのは、その情感のなかに、自分の意を乗せて祈るためであり、その祈りがご神霊に届くようにしてもらうためなの

枕詞とか序詞というのは、たとえば「ひかり」とぶっきらぼうに表現するのを避けて、「久方のひかりのどけき」などと情感・美しさを表現するためにあるものであって、これは人間関係にも活用できる日本人の知恵なのである。

家の因縁は結婚によって出てくる

建築専門誌の記者が前世鑑定にいらしたときの話である。

彼が三十歳近くになって、そろそろ結婚と思ったときに、取引先の常務がすばらしい話を持ってきてくれた。

相手の女性は二十三歳、某一流銀行の受付嬢で、全国美人コンテストで上位入賞した人。チャーミングで、声よし、スタイルよし、しかもマナーがよく清楚で、気配りも満点で、非のうちどころがない。

彼は、さっそくOKを出し、婚前交渉を含めた交際をして結婚にふみきった。人生バラ色の時間が流れ、いよいよ一週間後に結婚式といったころから、ちょっとヘンな感じを彼女に持つようになった。何がどうとはいえないが奇妙な違和感があったと彼はあとに言う。

ついに結婚式前夜、彼は彼女におかしな約束をさせられた。

一つ、当分、夜は床をともにしない。

一つ、朝食は作らない。掃除・洗濯・食事など、すべて自分のことは自分でする。

一つ、お互いに自由で、干渉しないこと。

その三つを約束させられて、何も知らない彼は「へえ、結婚ってそんなものか」と考えて、不承不承その条件を受け入れた。

結婚して、いよいよ新生活がはじまった。

新妻はたしかに約束どおりの三つを守っている。婚前交渉はあったのに、なぜか結婚したとたん別々のベッドで寝るようになり、彼のために一切の食事は作らない。本人は一日中寝ているかと思うと外出したりの気ままな生活である。

夕食も、彼は、仕事から帰りがけに外食ですます。これが結婚生活っていうものかなあと不審に思っているうちに、帰宅するとやがて、その新妻は悪口雑言を浴びせかけるようになった。

「あんたなんか、男としてサイテイよ」

「あんたのようなデブが、よくこの世に生きてるわね」

とても他人には聞かせられないことばが彼女の口から吐かれだしたのである。

彼は帰宅するのが苦痛になり、やがて意を決して、仲介の労をとった常務に実情を打ちあけた。驚いたのは常務のほうで、さっそく彼女を呼んでどうなのかを確かめた。彼女は、

「ええ、そのとおりです」

とはっきり認める。常務は彼に謝った。

「これじゃ君が可哀相すぎる。こんな結婚をすすめ、すまなかった」

彼は父親にも相談し、先方の父親にも会って奥さんとの件を打ちあけた。先方の父親も飛び上がるほど驚き、娘に確かめた。

「ナニ、ほんとにそうなのか!」

父親は激怒し、親子の縁を切って当したという。

彼と離婚した彼女は、職場の銀行で相変わらず受付嬢をやり、今でも皆さんから、美人でチャーミング、上品なマナーのいい娘さんという目で見られている。

彼はいい娘さんを射とめたねと周りから羨ましがられていた婚約当時や、それとまるで正反対な結婚生活とが、まるで悪夢のような気がすると私に語った。しかし、私には理由がわかった。

これは家代々の持つ深い因縁が結婚、入籍をきっかけに表面に出てきたという典型である。とくに、代々続いた古い家柄とか、長男、長女の場合には、家代々の業が表面化してきて、家運に影響を与える。

仕事運やその他の運気がよくても、結婚生活によって活動の基礎となる家庭運が最悪であれば、その不運なほうへとすべてが足を引っ張られてしまうのだ。

したがってこれから結婚する人は、相手の表面だけでなく、家代々の因縁をよく見る必要がある。家運が劣悪であれば、少々の個人の努力などではどうしようもなくなるかである。

ではおおまかにいって結婚相手としてふさわしい場合とはどんなときか、簡単に列挙しておこう。

●明るい雰囲気。
●相手の家系が乱れておらず、離婚経験者のご両親がいない。
●当人が正当な理由なく職業を幾つも替えていない。
●十年以上続けている趣味、特技、職業がある。あるいはその可能性がある。

では、すでに結婚してしまっている人で、家庭運がどうもうまくいっていないという人はどうするか。

●不運は因縁解消であることを理解する。

●徳分を積むことに励む。

●正しい救霊(除霊)を受ける。

●正しい先祖供養をする。

以上の四つを並行して実践することであろう。しかし、これらは、自分ひとりで処理できることではないから、神霊世界に対する正しい知識と正神界と正しく交流のできる能力を持つ人物から指導を受けることだ。

何が邪で何が正であるかという神霊界についての知識は、拙著『神界からの神通力」「神霊界』(ともにたちばな出版刊)を参考にしていただきたい。

では、不運の因縁解消についてふれる前に、運・不運のしくみをまず頭に入れておこう。

運・不運はこのようにしておきる

生まれながらにして、ある人は運がよく、ある人は不運であることは事実たしかにある。そして生活していくうちにやがていつの間にか逆転している場合もよくあることだ。ひと口に運・不運というが、それは、大きく三つの要素から成り立っている。

●本人の境地と(後天的)精進・努力
●本人の前世におけるカルマ
●家代々の因縁

世の霊能者や超能力者の多くは、ツキを呼ぶとか、運をよくしようといったテクニックを駆使し、本人の精進努力のみをあつかう。

でなければ、本人の前世も家系の因縁も一緒くたにしてカルマで考えようとする。

だが、神霊界の実相をよく見て、守護霊を鑑定して、何百年、場合によっては何千年も何万年も時代をさかのぼったり、逆に未来を見たりし、また、救霊(除霊)によって、さまざまな霊たちと接触してきた私からいえば、ひとりの人のカルマ(業)は、さきに

あげた三つの要素によって動いていくということなのである。

いわば、それが命を運ぶこと、すなわち運命ということになるのだ。

「なぜ、あなたがいま幸運なのか」、「なぜ不運に泣いているのか」といえば、ひとつは、あなたが前世で何を為したか、どんな原因を作ったか、何の種子を播いたかによる。

人を苦しめ、いたぶり、物品のみに価値を置いて生きた前世であったのか、また次から次と女人を漁り、酒池肉林のなかであけくれていなかったか、あるいは逆に人々を救い、困窮にあえぐ人に手をさしのべたか・・・・・・、などなど、前世の生き方によって決められた今生のあなたのカルマと、あなたが縁あって生まれてきた父母の家代々のカルマとがからみ合って人の運は変わる。

つまり、個人と家の因縁が組み合わさるわけだ。したがって、本当に運命を改善しようとすれば、それらをよく知って、自分の前世のカルマと、家代々受け継がれてきたカルマという借金の合計額をつかんで、その返済に励むことが必要である。

人間は輪廻転生をくりかえし、あるときは善徳が花開く麗しい人生を送ったり、あるときは過去世の苦渋に満ちた悪因のために、ひたすら忍従の一生であったり、それぞれのサイクルの中で試練を受け、あがないをしつつ、御魂を向上させていく。

「積善の家には必ず余慶あり、積不善の家には必ず余映あり」というように、個人の魂の成長は、家という因縁の織りなすカルマとさけがたく、共にあるのだ。

では、そうした運命は変えられないのか。

いや、変えられるから、命を運ぶことを運命というのだ。

我々は、運命を改善しようというのである。なぜなら運命は改善されることを待っているのである。

我々の御魂は向上することを期待し、そのチャンスを待っている。なぜなら、それが宇宙創造の神の御心だからだ。

したがって私はあえてふたたび言う。

「人間は誰でも強運であり、幸福になる義務がある」と。

因縁を解消するにはこの二つの方法がある

運命は改善できるというからには、カルマ・因縁を解消することができなければならない。それには二つの方法がある

●消極的因縁解消法
●積極的因縁解消法

善因善果・悪因悪果は、くり返すのがこの宇宙の絶対の法則である。

泣いても笑っても、播いた種子はいつか自分が刈りとらねばならない。

それが神様がお決めになった法則なのである。したがって、この世のどんな不運も、それはかつてあなたが作った原因によるものだと腹をくくることだ。逃げるわけにはいかないのである。

では、消極的因縁解消法とは何か。

不運になることである。むろん自ら不運になることではなく、もし、今あなたが不運ならば、そのこと自体がすでにカルマの解消を行っているということなのだ。

不運であるそのこと自体が、消極的、すなわち受身の形でカルマを解消しているのである。借金を自分から返済しているのではなく、かつて借金をしたことを忘れていて、借金取りに訪ねて来られていやいや返済しているようなものだ。

どれくらいの借金か、どれくらい深い因縁かは、不運の度合いによってはかれる。それを重い順に列挙してみよう。

NO.1… 死
NO.2… 貧窮・貧乏のどん底
NO.3… 病気・事故
NO.4… 不運な人間関係
NO.5…適性のない仕事

二番目の貧乏と三番目の病気は、その度合いによって順位が入れ換わる場合がある。

不運な人間関係とは、職場であれ家庭であれ、信頼されないとか、悪評に泣くとか、あるいはいつも同僚と対立し孤独であるとか、家庭でつねにいざこざがあり夫婦ゲンカ、親子ゲンカが絶えないといったことだ。

この中でもっとも軽いのは、好きでもない仕事に就き、仕方なく生活のために働くという場合である。

こういう不運に見舞われたとき、もし自暴自棄になったり、己の不運を呪い、周囲を憎んだとすれば最悪である。せっかくその不運によって過去のカルマが清算されるという絶好のチャンスに否定的になってしまっては、まったくの逆効果であるからだ。

ひとつの不運がきたら、「あ、昔の借金の返済ができた、何もしないのに有難いことだ」と、感謝するぐらいでなければならない。そのためには、カルマ=業の仕組みをよく自分に納得させておくことだ。

そして、「災難に遇う時期には災難に遇うがよく候死ぬる時期には死ぬるがよく候」という良寛和尚のことばを、もう一度よくかみしめたい。

カルマ解消には業を上回る徳を積め

では、積極的因縁解消法とは何か。
それは、業と同じくらいの徳を積極的に積むことである。

不運とは、自分が苦しんで業をあがなうという消極的なものであったが、もう一方で、徳分を次から次に積むことでカルマを早いスピードで解消し、場合によっては、福徳というおつりをいただけるようになる。

そうなるとしめたもので、運命の歯車は幸運のほうへ大きく回転しだして、いよいよ加速度がつき、爆発的な、しかも本物の強運となる。徳分は三つの方法で積む。

●体施
●物施
●法施

施すこと、布施をすることは耳新しいことではないと思うが、少々説明しておこう。体施とは、体を使って労働奉仕をすることである。

たとえば上野公園の出入口や駅前の広場をせっせと掃除をしてきれいにするとか、新宿の公衆便所を毎日毎日、きれいに磨きあげるといったことを、一年間とか二年間とかの期間中、続けて行うことである。

隣りの寝たきり老人の食事を作ったり下の世話を二、三年、無報酬で、しかも人に自慢することなく黙々と続けるのも体施であり、徳分が確実に積みあげられていく。

しかし、仕事を持ち家庭もあったりすれば、そういう気持ちはあっても、実際にはなかなか体施などできないのが現実である。

そんなときは、一番簡単な物施をやればいい。物施とは、お金や物品で施しをすることである。忙しくて身体を使った徳積みができない場合には、自分の収入の中から、お玉串とかお布施をするのがそれである。

この物施は、体施よりも実行しやすいが、しかし、それほど徳分にならない場合がある。たとえば神様にお捧げするお玉串を審神してみるとわかるのだが、「この程度の金を包んでおけばいいだろう」とか、「これだけ包むのだからちゃんと功徳も大きいんだろうな」とか、ひどいときには「どうせ金儲けなんだろ、つきあいで恵んでやろうか」といった気持ちが込められていたりする。気の毒だが、こういう物施はほとんど徳分にならないのである。

そこには神様への真心と愛念がひとかけらも込められていないからだ。

布施ということばに象徴される神仏に対するあり方を理解できないからだろうが、神仏や相手に恵んでやるという気持ちがあるとき、もはや布施ではなくなる。そうではなくて、捧げさせていただくと考えなければならないのだ。

功徳を積ませていただくのである。

カルマを解消させていただくのである。

恵んでやる態度と徳を積ませていただく姿勢とでは、雲泥の差がある。

法施とは、神仏や真理の道を説くことによる施しである。

和顔愛語。

これも施しのひとつである。いつもなごやかで優しい表情で人を迎え、愛念に満ちた

ことばで他人に接する。接した人は心なごみ、ことばによって勇気づけられる。これであなたはひとりの人をささやかながら救ったことになる。

真の施しの行為のなかには、神と人に対する至誠・愛念とともに、つねに感謝の心が込められているのである。

だから、つねに強運の人は感謝に生き、不運のひとは怨嗟に生きている。

運・不運の分かれ道は、日常のそういうところにはっきりとあらわれてくるものだ。

霊障で不運になっている場合も多い

救霊や先祖供養についての正しい理解がないのは、人間は死によってすべてが終わりだと思い込んでいて、それ以後の世界がこの世と同じように続いていることがわかっていないからである。

死後、肉体という衣を脱ぎ捨てた霊がどのように生きていくかがはっきりとわかれば、それらの霊にどう対応すればよいかも理解できるはずだ。

だが惜しいことに、現代人は目先の物質的世界の繁栄のみにとらわれて、感性を鈍らせてしまっている。

じつは、その物質的繁栄も正しい神霊界のあり方につながっていて、もしあなたが不運であるとすれば、霊的な障害が原因であることも多いのである。

そのために救霊と先祖供養が必要になる。

つまり、死後、霊界で迷い続けていたり、あるいは神の道、人の道にはずれたり、他に迷惑や不幸をもたらす生き方をしたために地獄界で苦行している先祖や、事故死・変死によって霊界に行けずこの地上にとどまり苦しんでいる霊たちが、子孫であるあなた、あるいは血縁関係の有無にかかわらずあなたについて救いを求めている場合がある。これが霊障である。

こうした霊障を除き、しかも苦しんでいる霊を救うために救霊活動が存在し、先祖の供養があるのだ。

しかし、救霊や供養の目的に気をつけなければならない。苦しんで人々に災いをもたらしている霊を救い、さとして霊界に送ることを救霊の目的としなければならないのだ。

霊能者が霊力をもって追い払うだけの除霊は一時的なものであり、けっして真の霊の救済にならないのである。

そうした霊の救済のひとつである先祖の供養は、墓地よりも仏壇を中心に考え、まつり方の法則にしたがう。

死後三十年以上たった人は、何々家先祖の霊位という位の中に、三十年未満の場合は先祖のそれよりやや小さな位牌に戒名(法名)を、黒地金文字で書く。

またご主人のほうの仏壇に、奥さんのほうの先祖を一緒にまつるようなことはやめるべきだ。奥さんの実家がまつってないためどうしても位牌を作る必要があるならば、仏壇を別々にすることである。

一緒の仏壇にすると、奥さんのほうは居そうろうの気分になり、ご主人のほうは迷惑がるからだ。

夫婦関係、家族関係の悪化や体調の不調も、正しいまつり方をしないための先祖の戒告であったり、前に述べた浮かばれない霊や浮遊霊やたたり霊による障りである場合が 多いのである。

根気がなくいらいらする、人生がはかなく感じられて死にたい、努力・向上・意欲などという前向き、発展的な気持ちが起きないといったことも、不運であるとともに霊障が原因である場合が多いので、正しい神霊能力を持った人たちに相談してみるほうがいい。

霊界や神界にも通用する財産とは何か

あなたが自力運をつけ、同時に他力運も呼び込んで強運になったとしよう。そんなあなたに対して「一体何をしたいのか」と問うたとき、どう答えるか。

地位・財産・名誉・あるいはもっと美味しいものを食べ、自由に性欲を満たし、いい服を着て、すばらしい家に住みたい。そんなもろもろの欲望を満足させて幸福になるため、と答えはいろいろあるかもしれない。

だが、これらの欲望のすべてを達成したとき、人は虚無を感じるはずである。

その一方で、その虚無を一生に一度でよいからたっぷり味わってみたいと熱望する方もおられよう。

それはそれでよい。そのために強運を身につけるさまざまなことを、本書でとりあげているのだ。

しかし、私が自力運・他力運といった二極から強運を説いてきたのは、それなりの私の願いがあってのことなのである。

それは何か。長続きする幸せを得てほしいと思う気持ちである。長続きする真の幸せとは何かをとらえながら、ここで私は私の秘かなる思いを今あなたにはっきりお伝えしなければと思う。

人間が生きるということは、現実の世界・霊界・神界の三極が深く相互にかかわりあっているのだから、この三極に通用する幸福を築きあげるべきではないか、ということだ。

現実も幸せであり、霊界でも幸せというのが長続きする幸福である。

そして、生まれ変わり死に変わりして輪廻転生をくり返すとき、魂が本当に喜び、また現実のこの世に受け継がれてくる永遠の財産、宝物は何かといえば、学問・芸術・信仰の三つである。

生まれながらにして芸術的感覚の鋭い人もいれば、信仰に篤い人もいて、真理の探求 に深い喜びを見いだす人もいる。

モーツァルトがわずか四、五歳で作曲したという例を引くまでもなく、人々は天賦の才を持つ。それは前生での才能の錬磨の賜物なのだ。

生まれつき「歌がうまい」「絵に天分がある」、あるいは「霊感が鋭い」などというのは、すべてその本人が他生でなしとげ獲得した能力なのである。

現実の世界で何かの刺激を受け、あるいは訓練して、それらが花開くとすれば、それは魂の世界の記憶と経験が才能の根源となっているということである。

地位・名誉・財産や肉体などは一時的なものであり、霊界にまで持っていくことはできないが、あなたが錬磨・修練して得た学問・芸術・信仰する力などは、そのまま霊界に財産として持っていくことができる。

強運になるためには、「まず自力をつけよ」「自力運を高めよ」と言ったのは、自力によって得られる学問・芸術・信仰の力が長続きするものであり、それらが本当の高級神霊界、つまり天に通じて天運そのものをいただけるからだ。

それが本物の幸運であり、幸福でもある。

自力と他力が完全一体化するとどうなるか

日ごろから私は、「霊能力や超能力の時代は終わった!これからは、すばらしい万能の人となる、神人合一の時代だ!神人合一をして、あなたも日本と世界を良くしよう!」と書いたり、語ったりしている。

わずかばかりの霊視ができたり、ちょっとした予知能力を自慢してみたり、金属を曲げたり、体を浮かせたりが騒がれる時代ではもはやない。今は人類救済、文明文化創造の大神力、大弘通力を発揮する能力を持つ人の時代だと言いたいのである。

それが神人合一した人の能力である。それはけっして、禅でいう性成仏”のレベルのそれでもなく、密教系のいう”即身成仏”のレベルでいう神人合一でもなく、ましてやメディテーションなどでいう“宇宙意識”といったレベルではない。

たとえば、天津神、国津神、仏界、ヨーロッパ神界、インド神界、中国神仙界、あるいは極微神界など、大宇宙のあらゆる次元の神々と合一したレベルであり、かつてのモーゼや出口王仁三郎、弘法大師、日蓮上人、聖徳太子といった人たちのように、それぞれの時代を切りひらいていく偉大な霊的能力と現実的能力を兼ね備えていなければならないのだ。

そうした神人合一の道をめざす第一歩が、まず自力をつけることにあったのである。先にもふれたが”タナボタ”式のツキや幸運を説いても、神人合一の道からみれば害こそあれ益するところは何もないのだ。

だから、つらくとも、少々時間がかかろうとも、本物であり、それだからこそ永続性も確実性もその効果も大きい“自力運”の重要性を強調し、その自力が動きだすと同時に働きはじめる”他力”を説いたのである。

自力と他力がそれぞれの力を出しきり、がっちり四つに組まれた形で錬磨され、向上していき、極まったとき、はじめて一体となれるのである。

神様が自分か、自分が神様か、といった状態で万能の人となる。それは、自力のなかに他力があり、他力のなかに自力が発揮されるのと同じ状態である。

それはまた、陰極と陽極の両極を乗り越えた世界でもある。陰とは仏教でいう胎蔵界にあって己を磨き実力を貯えるということであり、陽とはそれを社会に向けて活用し人びとに役立てようという金剛界の働きのことだ。

人間としての実力(陰の修業・胎蔵界・自力)があればあるほど、世のため人のために役立つレベル(陽の修業・金剛界・他力運の働き)が、大きくなるわけである。

つまり陰陽の両方を極め、そして両方を越えた世界に神人合一が完成されるのだ。

「赤肉団上に一無位の真人あり。常に汝等諸人の面門より出入す。未だ証拠せざる者は看看よ」

これは臨済義玄の言葉だが、そこに顕れる気魄は壮絶である。

人は誰でも何ものにもとらわれない絶対自由で純粋なもうひとりの自分、真人がいるはずだ。

それがお前の面から出入しているのがわからぬか、まだわからぬならしっかりと君よ、君と吠えている。

神人合一を目指して進む道に、社長も社員もない。金持ちも貧乏もない。地位も名誉も男女、年齢の区別すらなく、一切のこだわり、とらわれを捨てきって、至誠と愛念の純粋な内なる真人と一体とならなければならないのだ。

あらゆる虚飾を捨て、切れば血の出る生身の奥の魂と一体となって自力を磨きだすとき、すでに他力は働きかけようと待機しているのである。

人は皆勇気を持って進むことだ。はじめは時間が少しかかろうとも、必ず運は開けてくる。

あなたがもし十代、二十代、三十代前半であれば、少々、我と慢心が顕れ出ようとも勇猛をもって自力を引き出すことに専念せよ。

しかし、三十代後半、四十代以降となれば、築きあげた自力運を見極めながら、他力運の開発に力を注ぐことだ。謙虚で愛念に満ち、そして、体施・物施・法施のうち自分に一番ぴったりの徳分を積むことに意を払うべきだろう。

そうすれば、おのずから強運を自分のものにすることができるのである。

自力運が即他力運となり、その他力運のなかに自力運がしっかりと溶け込んだ真の強運が身についたとき、あなたは、絶対的な運の持ち主として現世の社会のあらゆる難関を打ち破ることができ、また死してからも、玄妙に輝く魂となって神のもとにつかえることができるのである。

おわりに

絶対的な運を得るには、まず十二分な自力をつけ、他力を築き、自らの運、すなわち自力運と、他者の運、すなわち他力運とを十文字に組み合わせればよいということがおわかりになったと思う。

しかし、自力をつけるには、相当な努力とそれに見合う年月を要する。

ある日、渾然として絶対運への道に目覚めたとしても、自力をつける時間を要するために、目前に迫った困難に対処できないという場合もある。

また、長時間にわたる火を吐くような努力には、もはや精神的、肉体的に耐えられそうもないという人もいるだろう。

このような人は、あたら不運にまみれたままの生涯を過ごさなければならないのだろうか。そんなことはない。

神々、そして仏たちは、つねに慈愛あふれた眼差しを、あまねく人間界にふりそそいでおられる。

そしてまた、弱き者も強き者も、ともに生きる権利を認められ、その権利を侵害する者が存在すれば、それを断固排除しようとなさるのである。

したがって、今、ただちに強い運を得ねばならないという状況に追い込まれた者に対しても、温かい手を差し伸べてくださるのだ。

その手に人々はどのようにしてすがればいいのか。霊力の強い神社に、自らのエネルギーのすべてを投入して祈りを捧げることが、見えざる神の手にすがり、神の愛とご加護を受けることなのだ。

では、どの神社が強い霊力を持つのだろうか。このことについては、拙著『神社で奇跡の開運」「全国の開運神社案内」(ともにたちばな出版刊)に詳述してあるから参照していただくとして、ここではいくつかの例をあげておこう。

一願成就、すなわち試験に合格する、あるいは人生の岐路にあって破滅を避けたいというせっぱつまった思いを叶えさせてくれるのは、関東では箱根神社、関西では熊野本宮大社である。

また、中部地方の方々は熱田神宮、九州の方々は宇佐八幡という、その地をしろしめす神の社に詣でるとよい。

もし、金のやりくりでギブアップというときには、奈良県の三輪神社、何をやってもうまくいかない、もはやどん詰まりといった状況を切り抜けさせてくれるのは和歌山県の熊野権現である。

これらの神々に詣でるときは、自らの願いを明確にする印として、相応のお玉串料を用意し、いずまいを正して正式な参拝をするべきであって、間違ってもGパンにスニーカースタイルで、ポケットからバラ銭をつかみ出して賽銭箱に放り込むようなことをしてはならない。

神々は、本人がどれほどに真剣であるかを観察されているのである。

もし、たんに「困ったときの神頼み」レベルであるのなら、神々は、あなたの願いをなかなかお聞き届けくださらないであろう。

人事を尽くして天命を待つという言葉があるが、とことん、神におすがりすることにエネルギーを費やせば、そのエネルギーの数十倍、数百倍の神のパワーを受けることができるはずである。