大天運(Vol.2)

プロローグ 運のいい人生を送るために

天運をつかめ!

世の中には、運のいい人もいれば悪い人もいる。何をやってもスイスイとうまくいく人がいる反面、何をやってもダメな人もいる。

その違いはどうして生じるのか。運のない人はどうしたら運を呼び込むことができるのか。これらについては、拙著「強運」(たちばな出版刊)でかなり詳しく述べた。

しかし、正直なところ、「強運」では本質的な部分については語ることができなかった。強運を招く心のもち方、あるいはパワーコールなどの強運を呼び込む秘法に関しては紹介できたが、本当の意味での強運、いわば天運をつかむ方法までは語ることができなかった。

というのも、「強運」は、あくまでも宗教好きでない方にも読んでいただくようにという気持ちで、書かれたものであるからだ。

そこで本書では、絶対的な強運である天運をつかむ方法について、神霊世界の本質的なところから説き起こしたいと思う。

だが、それにはどうしても、宗教的色彩が濃くならざるを得ない。もちろん、随所に面白い話もちりばめておくつもりだが、あらかじめ覚悟して読み進んでいただきたいと思う。

では、早速、本題に入ろう。

運のいい人と悪い人との違いは、一体どこにあるのか、神霊世界から見た運の善し悪しの原因はどこにあるのかといえば、はっきりいって徳積みの違いにある。

前世におい徳を積んだ人、あるいは徳を積んだ先祖をもつ人は、今世で運に恵まれ、その逆の場合は、運に見放されるのである。

では、徳とは何か。それについてはのちほど詳しく述べるが、ひと言でいえば、どれだけ人に益することをしたか、である。たとえば、自分の財産を投げ出して貧しい人々を助けるとか、病人を命がけで看病することなどが、それである。

要するに、そのような善行を実践した人が先祖にいたり、または前世において自ら実践した人は、今世、天運に恵まれるのである。このように書くと、

「それじゃあ、今からじたばたしたって、もう遅い。前世だか何だか知らないが、善行を実践してない人や、立派な祖先をもっていない人は、何をやっても運なんか巡ってこないじゃないか」

と思う人がいるかもしれない。だが、諦めるのはまだ早い。今からでも天運はつかめるのだ。

これまで、自分のことばかり考えてきた人。他人の幸せなんか、考えることさえなかった人。

こういう人は、今すぐ気持ちを切り換えることだ。少しでも世の中の人々が幸せになるようにと、想念を一八〇度転換することである。そして、できるなら実践に移すことである。そうすれば天運が巡ってくるのだ。

だが、そうはいっても、いきなり、

「どうぞ、世の中の人々が幸せになるように」などというのでは、あまりにも漠然とし過ぎていて、念じることもできないだろうし、ましてや実践することはできないに違いない。

そこで、最初はまず、自分の家族、そして親戚、さらには隣近所、地域社会へと広げていったらいいのだ。

そのようにして、少しずつ想念を転換し、善を実践していけば、必ずや運が開けてくるはずである。とにかく、現在、運がいい悪いにかかわらず、世のため人のためという気持ちで、善を実践していったらいいのだ。そうすれば、運に恵まれている人はますます恵まれ、運の悪い人も運に恵まれるようになるのである。

ところが、ひと口に世のため人のためといっても、これがまた難しいのだ。そこで、プロローグでは、この問題について少し考えてみることにしよう。

まず自分自身を幸福に

さて、ここにひとりの若者がいたとする。彼は物心ついたころから人としていかに生きるべきかを考え、ついに、利他愛に徹して生きるのが最上の道と悟り得た。そこで相談にやってきた。とりあえず何から始めたらいいのでしょうか、と。

このとき、私たちは彼にどんなアドバイスを贈ったらいいのだろうか。

「それは君、ボランティア団体に入って福祉活動に邁進すべきだよ。何たって、社会に役立つには、困っている人を助けるのが一番なんだから」と助言すべきだろうか。もしくは、

「是非、政治家になりたまえ。都議や県議、あるいは区議、市議でもいい。何でもいいから政治家を目指すべきだよ。何たって、最も大きく社会に貢献できる職業は、政治家をおいてほかにはないんだから」

「君、宗教団体に入って、悩める多くの人々を救いたまえ。それが一番世のため人のためになるんだよ」とアドバイスすべきであろうか。

それもいいだろう。ボランティア活動や政治活動は社会に役立つ直接的手段であるし、宗教団体に入って教えを広めることも、世に役立つひとつの方法でもあるのだから。

しかし、そうした具体的な行動を考える前に、あるいは行動しながらでもいいから、まずやっておかねばならないことがあるのだ。

それは何か。ひと言で表現すれば、己を磨く、ということである。人間としての実力を磨き、他人様の手を借りずとも、物心両面にわたって自分自身を幸せにも豊かにもでき、さらには自己の因縁も家の因縁もすべて自分の手で清算し、運気をも盛り上げられるようになること。

これが己を磨くということである。簡単にいえば、最低でも自分のことは自分自身で解決できるようになることである。

自分のことはすべて自分ででき、幸せになれるこれは一見、簡単そうに思えるが、実際にはなかなか難しいことである。

だが、世のため人のために生き、天運をつかもうとする限り、これを避けて通ることはできないのだ。

考えてもみよう。自分のことすら満足にできない人間が、果たして他人を幸せにし、社会をよくすることができるだろうか。

たとえば仮に、どこかの宗教団体に入って熱心に布教活動をしている人が、健全な肉体と精神をもちながら、布教で多忙なために働けないからといって生活保護を受けているとしたら(実際に、ある宗教団体ではそういう人がいたのである)、その布教活動は真に人々に役立っているといえるであろうか。答えは明々白々である。

私たちは、日ごろ気軽に世のため人のため、という言葉を使う。だが、よくよく考えてみれば、世の一号、人々の一号は自分自身をおいてほかにはないのだ。

自分自身こそが最も身近な“世”であり”人々”なのだ。

だから、世の中をよくしたい、人々を幸せにしたいと願うならば、何よりもまず自分自身を立派にすべく、真剣な努力と研鑽を始めるべきなのである。これが、人徳という最初の徳を積む一歩でもあり、神様より見れば、立派な善行のひとつなのである。

修身斉家、治国平天下

ところで、孔子の説いた儒教の目的は、聖人に至る道を学び、仁義礼智、信を善くすることであった。

そして、聖人が天下に道を広める場合、どういう順序をとるかというと、「修身斉家、治国平天下」という言葉に集約される順序であった。この言葉の由来は「大学」という書物の冒頭の部分にあるのだが、そこにはこう書かれてある。

「明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、先ず其の国を治む。其の国を治めんと欲する者は、先ず其の家を斉う。其の家を斉えんと欲する者は、先ず其の身を修む」

「明徳を天下に明らかにせんと欲する者」とは、徳を以て天下を平らかならしめんとする者という意味だが、読者の皆様のように、世のため人のために生きたい、世の中を少しでもよくしたいと願っている人と解釈してもいいだろう。

そのような人は何を為すべきかというと、まず自分の国を治めるがよい。自分の国を治めようとするなら、まず自分の家をえよ。自分の家を斉えようとするなら、まず自分の身を修めよ。

つまり、世のために生きたい、世の中をよくしたいという志を立てた者は何よりもまず自分自身を修め、それができたら家、国、天下という順に考えるべきだというわけである。これが「修身斉家、治国平天下」の意味である。

まったくそのとおりだと思う。どんなに立派な理想を抱き、どれほど世に役立ちたいと願ったとしても、自分自身を修めることができなければ、それは単なる画餅にすぎない。

いや、それどころか、逆に人々にやっかいをかけることにだってなりかねない。

だから、世のため人のために生きたいと願うなら、何よりもまず、己を磨くことに努めるべきなのである。

その努力を怠っていて、世のため人のためにと考えるのは、本末転倒しているといわざるを得ない。ましてや、「今の仕事に厭きたから、いっそ仕事をやめてどこかの宗教団体にでも入ろうか」というのは論外である。

とにかく、まず、己自身を修めることである。そうして、自己を修め得たなら、あるいは修身に励みながら、世に役立つ具体的な方法を考えたらいい。だが、ひとたびそこに至れば、その人は即、世に有為なる人としての一歩を踏み出しているのであるから、決して焦る必要はない。

そして、自己を修めた人間は神様が放っておかない。神様ご自身が、その人の資質に合った道へと導いて下さるはずである。もちろん直接導くのは守護神、守護霊様であるが…。

その道は、あるいは政界かもしれない。あるいは経済界、宗教界かもしれない。そのいずれかは本人の資質によるが、世に大いなる貢献ができるように、最も適したところへと導いてくださるはずである。

だから、世のため人のためにという大いなる心をもちながら、日々修身に励んでいくのが結局、最も運のいい生き方であり、天運をつかみ、かつ、神人合一の道の門に入ったということになるのである。

内外の実力を養うのが天の願い

ここで、講演会などでよくお話しする「あるミミズの物語」を語ってみよう。

あるところに、世のために生きるんだ、社会に役立つように生きるんだと決意した一匹のミミズがおりました。

そのミミズは、「徳を積むぞーっ!少しでも世の中に役立つように頑張るぞーっ!神ミミズ合一を目指すんだあ!」と、必死の決意を固めました。けれど、具体的に何をしていいのかよくわかりません。そこで考えました。果たして、自分には何ができるのであろうか、と。

しばらくすると、何か妙案でも浮かんだのか、

「そうだ!」と叫ぶや否や、猛然と地面の下で腐っている葉っぱを食べ始めました。必死の思いで腐り葉っぱを食べ、食べて食べて食べまくり、

ついに、栄養豊かなフンを大量に出すことに成功しました。そして、そのフンのおかげで、一輪のみごとなチューリップを庭に咲かせました。その美しく咲いたチューリップを見て、

「われながら、たいしたものだ。自分の徳も偉大なものだ。わがアン闘努力の結果だなあ」と、ミミズはしばらく悦に入っておりました。しかし、ふと考えました。

「まてよ。偉大だといっても、たかだかチューリップ一輪咲かせただけじゃないか。こんなことで満足してはいられない。もっと徳を積み、世に偉大な功績を残すのだ!」

と決意を新たにしたミミズは、捨身の覚悟で地面の上に出ていきました。ちょうどそこには、釣りエサを探している最中の親子がいました。

「ほう、なかなかでかい肥満ミミズがいるじゃないか。かなり葉っぱを食べたな。これなら大きな魚が釣れるだろう」

その親子はミミズをつかまえると、早速、近くの海へ出かけていきました。そうして釣り針にブスリとかけられたミミズは、全身に走る激痛に耐えながら、魅力的なエサであるよう精一杯演技力を駆使し、頑張り続けました。

「ゴカイの奴になんか負けるものか。エサ道を極めるのだ!」

その涙ぐましいまでの自己犠牲の心と努力に、神様も心打たれ、ミミズは神がかりミミズとなりました。全身を金色に輝かせているミミズ。白檀の香りさえします。

これを見て、魚たちがたくさん寄ってきました。アジもいます。サバもいます。イシダイもマダイも寄ってきました。

その魚たちをしばらくながめていたかと思うと、ミミズは渾身の力を込めて、一番大きなイシダイのところへポンと身を投げ出しました。

こうして、自己犠牲の愛のかたまりとなったミミズは、親子に大きなイシダイをプレゼントすることで、その生涯の幕を閉じたのでした。

以上が、「あるミミズの物語」である。この物語で私が何をいいたいのか、賢明な読者の皆様はすでにおわかりのことと思うが、少し解説を加えておこう。

この物語に登場するミミズは、普通のミミズよりはるかに立派なミミズである。世のために生きようと決心し、それを生涯貫き通すことはなかなかできることではない。

しかし、どんなに頑張ってもしょせん、ミミズはミミズにしかすぎないのである。

世に役立つべく志を立てて、神がかるほどに自己犠牲に徹しても、できることといえば、せいぜい花壇の土を肥やしたり、魚に食べられることによって人間に貢献する程度である。

これに対して、もっと、知恵を磨き、御魂を磨き、努力して社会的実力を身につけた人間に神がかったとしたらどうだろうか。

たとえば、総理大臣に神がかったとしたらどうであろうか。より大きく世に役立ち、より大きな善を国政に活かすことができるのは、いうまでもあるまい。

総理大臣でなくてもいい。小さな会社の社長、町内会長でもいい。十人の社員を抱える会社の社長に神がかれば、十人の社員に善の影響を与えることができるのである。

ミミズでも決して悪いわけではないが、御魂と社会的実力、内外の実力が向上すればするほど、より大きく、広く世の中に貢献できるのである。

だから、世のため人のために生きたいと願うのならば、自己の精神を修養すると同時に、知恵も磨き、社会的実力をも養っていかねばならないのである。

なぜこのようなことをいうのかというと、神様の道に生きるべく発願するや、知恵を磨くことを忘れ、社会的実力を養うことを忘れる宗教的人物が少なくないからである。

読者の皆様の周りにも、いるのではないだろうか。どこかの宗教団体に入ったとたん、学業や職業を放棄してしまったり、宗教哲学を学ぶのに熱心なあまり、現世的な実力を養うことを忘れてしまう人たちが。

もちろん、純粋な意味における宗教の聖職者は別である。

だが、前者は神仏が真に願うことではない。宗教や神霊界に関心のある人でも、いや、そういう人であればなおさらのこと、常識人としての教養と社会的にも通用する実力を身につけ、神様から見て、社会に役立つより大きな器となるべく、努力しなくてはならないのである。

もちろん、すでに述べたように、あくまでも自己の内面を修めることが主で、社会的な実力をつけることは従である。この主従の関係を忘れてしまっては、結局、世に役立つこともできないし、天運をつかむこともできないのだ。

とにかく、世を思う大誠と人々を幸せにする大志をもちながら、自己の内外の実力を日々に養うことが大切なのである。

五冊の著書に書き著した神霊世界の真髄

だいぶ前置きが長くなった。今度は、自己を修めるにはどうすべきか、天運をつかむにはどうすべきか、というテーマについて、もう少し掘り下げてみたい。だが、すでに私は、これらについて書いているのである。

これまでに私は「神界からの神通力」、「神霊界」、「強運」、「恋の守護霊」、「大金運」(いずれもたちばな出版刊)などの本を著したが、これらの著書の中で、宇宙の森羅万象の真髄と、人間いかに生くべきかを、随所にちりばめて書いておいたのである。

「神界からの神通力」では六大神通力の正体や霊界の実相を説き、「神霊界」では除霊の奥義や神仕組み、また本来あるべき霊的修業の方法などを述べた。

そして、あまり宗教的でない方にも神霊界の真実を知っていただくようにと、「強運」では、神霊法則の日常生活への応用方法を抹香臭くならないように書き、「恋の守護霊」では、良縁・結婚運を高める方法をユーモアを基調にしながら語った。

さらに「大金運」では、経営者やお金で困っている人のために、正神界パワーで善なる金運を呼び込む秘法をご紹介したのである。この五冊で、だいたいの入門レベルはご理解いただけたはずである。

ところで、この五冊をすべて読んだ読者の中には、これこそ神霊世界の真相真理と人生のあり方が融通無碍、千変万化に展開された精華の妙であると高評してくださる人がいる一方、「一体どれが本当なのか。本当にひとりの人が書いているのか」と、首をかしげる人もいるらしい。

そう思うのも無理はないかもしれない。

たしかに、神霊世界の真相に真っ正面から取り組み、まじめ一筋に書いた「神界からの神通力」および「神霊界」と、ユーモアを交えながら書いた「強運」とでは、だいぶ趣が異なるし、ましてや「恋の守護霊」ともなると、そのくだけた筆致は「神界からの神通力」のそれとは天地ほどの違いがある。それは事実である。

だがしかし、この五冊すべて、本当に私自身が精魂込めて書いたのである。

決して代筆させたものではない。むろん、原稿をとりまとめる編集者が介在しているのはたしかだが、文章のスタイルから句読点に至るすべてに、私の息吹きや霊性を潜ませたつもりだし、私の生命が宿っているはずである。それは、霊性の高い人ならずとも、感じていただけるのではないかと思う。

それはさておき、読者の皆様の中には、高いものというのは気品があって誠一途であり、真剣なものである、と考えていらっしゃる方も多いことと思う。

たしかに、それはそれで正しい。いい加減なものでは、崇高であるべくもない。ましてや下品なものでは、高低を論ずるまでもないであろう。

しかし、まじめに道を探求し続けるのが常に高いとはいえないのである。

今、日本の歴代僧侶の中で、最も高い霊位にあるのは臨済宗中興の祖といわれる白隠禅師であるが、彼の著作群を見れば一目瞭然である。また「易経」にも、次のような言葉がある。「陰極まりて陽、陽極まりて陰」

つまり、何ごとも極まると逆転してしまう、というわけだ。

潜かに、我に向かって道を極める求道心、これは陰極である。だが、真に道を極めていくならば、遂に求道を忘れて観自在、融通無碍の陽極へと転じ、春風駘蕩として天地とともに大楽をすることになる。

そうして、再び新たなる妙境への求道が始まるのだ。まさに、「陰極まりて陽、陽極まりて陰」なのである。

実は、私の著書もこのとおりなのだ。最初は「神界からの神通力」で陰の至高を求め、次に「強運」で陽の広がりを試みた。

そして「神霊界」で再び陰の極致を探求し、 そのあとは、面白さ、楽しさを前面に打ち出した「恋の守護霊」と相成る。さらに今度は、陰陽融合を図った「大金運」を書き下ろしたわけである。

これは偶然ではない。著作を進めるうちに自然にこうなったものでもない。そうなるように書いたのである、私の修業のひとつとして。

これでおわかりいただけたことと思う。私の本は、それぞれタイトルと筆致を異にしてはいるものの、その根底に流れるテーマは一貫しているのである。

相手に合わせて語るのが本当の真心

ここまでご説明しても、中には、「どれが本当なのか、まだわからない。「神界からの神通力』では金銭欲などの世俗的欲望を否定しておきながら、「恋の守護霊」や「大金運」では肯定しているのは、一体どういうことだろうか」と、理解に苦しんでいる方もいらっしゃるかもしれない。

前者は、神霊の道に生きようとする人のために、欲望の善用について書いたものであり、後者は、明るく豊かな人生を送ろうとしている人のために書かれたからなのであるが、よくわからないという人のために、こんなお話をしよう。

また孔子の話になってしまうが、孔子は弟子たちから、「仁とは何ですか」と尋ねられると、ある弟子には、「親不孝をしないこと、これが仁だよ」と答えたかと思うと、別の弟子には、「ときには親不孝をしてでも真剣に道を極めて、親を無視してでも信じた道をいく。これが仁である」と答えた(実際には、そうはいっていないが、現代流に合わせた私の意訳である)。

あるいはまた、「暴力を振るわないことが仁だよ」と答えたかと思うと、「相手を殴ってでも戒めることが仁だよ」と答えるなど、相手によって答えがバラバラであった。そこで弟子たちは集まって話し合った。

「孔子様は公私混同しているのではないか」

「そのときどきの気分でいっているのではないか」

「先生の話を聞いていると、一体何が本当なのかさっぱりわからなくなってしまう」いろいろ意見は出たものの、結局、納得できる結論に到達しない。

そこで、「兄弟子の曾参さん、孔子様の話は矛盾してはいないか、どれが本当なのか、一度先生に尋ねてみてください」ということに相成った。

この曾参という人物は、毎日必ず三度反省した(「三省」という言葉の語源になっている)というほど立派な人で、孔子の高弟である。

その曾参が、「実は、弟子たちがいろいろと迷っておりまして・・・・・・」と尋ねると、孔子は、

「我が道は是れ一を以て貫けり(私のいっていることは一つのことで貫いている)。お前にはわかるな」と答えただけであった。だが、さすがは高弟の曾参。たったこれだけの答えでも、はたとヒザを打った。

「そうか、それでわかった」

そこで早速、ほかの弟子たちに伝えてやった。

「先生のおっしゃっていることは決して矛盾していない。それどころか、一つのことで貫かれています」

だが、弟子たちにはわからない。

「それは何ですか。その一つとは一体何ですか」

「一とは忠恕たり」

この曾参の説明を聞いて、初めて孔子のいっていることが理解できた。

以上のような話が残っているが、孔子が真にいいたかったのはこうである。

すなわち、本来親には孝を尽くさねばならないのだが、親のいうことばかり聞いてい大道に徹底できない人間には、ときには親不孝をしてでも、礼や義に徹しなければならないことを教えてやり、暴力はいけないことだが、殴られなければわからない人間には、ときには殴ってでも正して道を教えてやる。

これが忠恕。つまり、本当の真心と思いやりなのだというわけである。このあたりのニュアンスは『孟子」にもっと詳しく説かれているので、参照されたい。

人間、みな同じ魂と同じ心の状態でいるならば、同じ教理、教諭をくり返していても、それは生きるだろう。だが、人間は一人ひとり違うのである。

求めているところ、足りないところ、それぞれのレベル、すべて異なっているのである。

その多種多様である人々に真心と思いやりをもって対するならば、どうしても形の上では矛盾することをいわねばならない。

つまり、厳しくしなければならないときには厳しく、やさしくするときにはやさしくといった具合に、それぞれの時と場合、あるいは相手の個性に合わせて、真心と思いやりを表す以外にはないのである。

これが仁であり、釈迦のいう「人を見て法を説け」と同じ慈悲と知恵の行いなのである。ところが、これが策略や欲望で為されると、金毛九尾の狐や大理の姿となって、霊界では写るわけだ。

「我が道は是れ一を以て貫けり」

実にすばらしい言葉である。

私も、本を著すにあたり、同じ気持ちで机に向かった。自分自身を孔子になぞらえるつもりなど毛頭ないが、いずれの本を読んでも、神霊世界の真相と人生の本義を理解できるよう配慮しておいたつもりである。

したがって、いかに己を磨き、神霊界の法則にかなった天運のある人生を送るか、という本書のテーマも、私の著書を読めば、おおむね理解できることと思う。

だが、それでももっとよく理解したい、もっと深く学びたいという人が少なくないので、本書ではさまざまな角度から、さらに掘り下げ、掘り広げてみたいと思う。

第一章 天運招来の極意をつかめ

真髄とは何か

さて、いよいよ天運をつかむには具体的にどうすればよいか、というお話に移りたいと思う。が、その前に、真髄とは何か、神とは何かについて少し語っておきたい。少々抽象的な話になるが、非常に大切なことなので、しっかり理解していただきたいと思う。

ところで、私は定期的に講演会を催しているが、その講演会で常に質問用紙を配布して、参加者からの質問を承ることにしている。その質問の中で、比較的多く見られるのは、次のような類のものである。

「私は長い間、真実とは何か、正しい神の道とは何かを探し求めてまいりました。いろいろと宗教を遍歴しましたが、どれをとっても納得できるものがありません。

一体、何が本当の教えで、どこが正しい道で、真実の神なのでしょうか。何卒、ご教示ください」

読者の皆様も、一度はこういう疑問に遭遇されたことがあるのではないだろうか。真髄とは何か。正しい道とはどれか。真実の神とは何か。宗教遍歴を重ね、書物を読めば読むほどわからなくなってくるのではないだろうか。

どの宗教、どの本を見ても、皆一様に自分のところが最高であるかの如くいい、また書いている。

だから、純粋に、真剣に求めれば求めるほど、わからなくなってくるのではないかと思う。そこで、第一章では、この大きな疑問に対して明解にお答えしたいと思う。

まずは真髄について。

多くの人々が真髄を求めてさまよい歩くのには、理由がある。それは、真髄とはすなわち、形ある教理や教えの中にあると思っているからである。

ここに気がつかない限り、永遠に魂はさまよい歩くことになるだろう。たとえ私の主宰するワールドメイトに入会されたとしても、それは同じことである。

では、その迷える魂の旅路に終止符を打つにはどうすべきか。

それには何よりもまず、「真髄とは無形のものであり、体得するものであり、知性ではないところで実感するものである」ということを悟る必要がある。

たとえば、絵の真髄とは何か、と疑問を発して、いろいろな人に尋ね歩いたとする。

その結果、会う人ごとに、「それは線だ」、「いや構図だ」、「いや色彩だ」、「全体の感覚だ」とかいわれたとして、果たして真髄が明確になるだろうか。わかったような、わからないような感じがするだけであろう。

そんな言葉による解説を聞くより、レンブラントやコローが心血を注いで描いた本物を、じっくり見てみることだ。理屈を越えた魂の感動が伝わるに違いない。

それが真髄なのである。だから、絵の真髄とは何かを体得したければ、実際に絵筆を取ってみればいいのだ。下手でもいい。

技術が未熟でもいい。どんなに時間がかかってもいいから、自分なりの絵を楽しんで、技術的にも美的にもレンブラントやコローの感動に向かって、一歩一歩向上し続けたらいいのである。

浅くてもいいから芸術的感動を体得し続けていくことが、真髄を織っていくことなのだ。

これが、魂の芸術としてとらえる絵画である。絵画の道ともいえるものなのだ。これは絵画に限ったことではない。書でも音楽でも、およそ芸術と名のつくものは、すべてそうなのである。

それがわかれば、美術大学や師というものは、刻々に広がり、高まっていく自分にとっての真髄掌握の媒介にしかすぎないことが明確になる。と同時に、真髄掌握の進歩発展を大切にするから、媒介である美大の授業や師との交流も尊重するようになる。

ところが、初めから絵画の真髄を美術大学や美術の本、あるいは美術の師に求めるからわからなくなるのである。そして、美大に入学してから理想と違うことに気がついて、ガッカリしてしまうのである。

真髄を求めて宗教団体をわたり歩き、良き師や本を求めて訪ね歩き、しばらくそこに留まったのち、内部のアラや矛盾を垣間見てガッカリしてしまうのも、このたとえに似ていると思えないだろうか。

世界中のすべての宗教団体と師を巡ってみても、真髄に巡り会えるわけがない。また、矛盾のまったくない組織や師、書物があるわけはないのである。

形あるものはすべて、無形の真髄を自分自身が体得し、実感するための媒介にしかすぎないからだ。だから、どこからでも吸収し、何からでも体得できる自分を確立することが大切なのである。

忘我の境地の一瞬一瞬のうちに真髄はある

以上で、真髄というものの性質がご理解いただけたことと思う。

ここでもうひとつ、よく犯す真髄についての誤解をなくすために語っておきたい。というのも、真髄とは到達するものだ、と思い込んでいる人が多いからである。

そうではない。真髄とは到達するものではないのだ。

結論からいえば、真髄とはこの世に生まれる前から自己に内在しているものであり、ただ、それを自覚できていないだけなのだ。

だから、月刊「少年ジャンプ」や「月刊ワールドメイト」の連載マンガをワクワクしながら読むときのように、何かに触れて初めて、内在する真髄が共鳴して出てくるのだ。

すなわち真髄とは、御魂の世界に没入したときの感触ともいえる。マンガをむさぼり読んで時を忘れ、我を忘れて、ハラハラドキドキしているその瞬間、瞬間に真髄は浮き出ているのだ。

真髄とは、到達して得られるものでは決してないのである。それゆえ、本にたとえるならば、クライマックスに到達するまで読み続けていく連載小説や連載マンガではなく、「毎回感動の読み切り、次回ご期待!」でなければならないのだ。

これが、真髄というものに対する正しい向かい方なのである。

マンガの好きな人は、「少年サンデー」を読んでも感動し、「チャンピオン」や「少女フレンド」、「マーガレット」を読んでも胸を躍らせるだろう。

あるいは、昔なつかしい「のらくろ」や「冒険ダン吉」を読んでも、感動の涙を流すかもしれない。書物を遍歴し、新しい著者の個性に触れることが、楽しくて面白いはずだ。誰が、

「「少女フレンド」にも真髄はなかった。「少年サンデー」にも「少年マガジン」にもなかった。

一体、真髄はどの出版社の、どのマンガ家の、どの作品にあるんだあ・・・・・・」と迷ったり、悩んだりするものだろうか。マンガは毎回感動して、味わって楽しめばそれでよいものだ。神様の道も本当はそれでよいのである。そして、少しずつでも進歩が伴えば、さらに善しなのだ。

本当の名著や古典もこれと同じである。具体的にああしろ、こうしろというハウツーものの本のように、情報と知性だけに訴える古典、名著は少ない。

古典や名著には具体的な答え、ハウツーが書かれていないことのほうが多い。たいてい、このときにこういった、あのときにああいったという言行録であったり、エッセーや「古事記」のような物語形式であったり、あるいはまた仏教、儒教、キリスト教の聖典のように“如是我聞”つまり「是の如く、我れ聞けり」であったりするのだ。

だから、何度読んでも感動があり、読むごとに新たなる発見があるのだ。感動と発見のない古典、名著はないはずである。映画の名作でもそうであろう。

だから、これらも「毎回感動の読み切り、次回ご期待!」の形になっているのであ

たとえが少し変だったかもしれないが、とにかく、真髄とは到達するものでなく、没我の境地の一瞬一瞬にあって、感動しながら楽しみ、学び、向上し続けている自分自身に生きているのだということを理解していただきたい。

絶対神と顕現神

今度は、真実の神の道について語ってみたい。

まず結論から先にいえば、宇宙創造の主神とは、真を極めれば科学や法、理に通じ、善を極めれば宗教や道徳、倫理に通じ、美を極めれば芸術に通じるものなのである。

この真、善、美すべてが主神の一部であり、あまりにも広大無辺であって、人智をまったく超えているのが実体である。

無限絶対無始無終、至大至小、至剛柔であって、全智全能を内包しておられるのが宇宙創造の主神である。

だから、人間がその頭脳や知性で完全に掌握したり、体得できるものではないのである。たかだか垣間見た霊界や神仏の姿が、たとえ本当のものであっても、どれほどのことがあろう。

神様から見れば、塵一つにも足りぬほどの、わずかな部分にすぎないのだ。

これが本当の神というものなのである。神が形ある有限なものならば、やがて真髄や真理、真実の神に到達することができるかもしれない。

しかし、本当の神は無形かつ無限なのである。だから、有形で有限の人間が、どんなに知覚力を駆使したとしても、絶対神のすべてをとらえることなど、初めからできるはずがないのである。

このように書くと、「では、神人合一とは一体どういうことなんだ。人間が神を知り、体得できないとするならば、神人合一なんて初めからできっこないじゃないか。矛盾しているじゃないか」という声が飛んできそうだ。だが、そう早まらないでいただきたい。

たしかに、絶対神は無限絶対無始無終である。だから、たとえどんなに努力しても、これを知ったり体得することはできない。その限りでは、神と人間との間には永遠の溝があるといえる。

だが、神は人間にわかりやすくするために、無限極から有限の仮の姿となってお出ましになるのである。これが、神霊とか顕現神と呼ばれるものなのである。

この神霊や顕現神から、知ることができるし、体得することもできる。

たとえば、「旧約聖書」を見ても、アダムが神と語ったり、モーゼがヤーウェと対話したりしているが、あのヤーウェの神は絶対神ではなく、絶対的なの権限を与えられた顕現神なのである。あるいは、日本の天照大御神や国常立命、または、守護神などもすべて顕現神なのである。

さらにいえば、

「神様の光が見えた」

「神様の霊気を感じた」

「神様の声を聞いた」という場合の神も、すべて顕現神であって、決して絶対神ではない。無形、無限の絶対神が光や霊気を放ったり、声を出すことなど絶対にないからである。

だから、神人合一という場合の神も、顕現神のことをいうのである。無限極から仮の姿をとって有限の世界に現れた顕現神と一体となり、そこを基点として、さらに高く、広く、大きく、自らの御魂と霊性と実力とを発展させ、絶対神に無限に近づいていこうというのが、神人合一の道なのである。

ちなみにいえば、世の多くの宗教者や霊能者、とりわけ開祖、教祖といわれる人々が、傲慢になって道を誤る大きな原因は、この絶対神と顕現神の違いについて、明確に理解できていないことにある。

自分が見た神、自分が聞いた神の声こそが絶対であって、他はすべて偽りであると確信する。

こうして、次第に傲慢になっていき、ついには神の願いからもはずれてしまうのである。

何度もいうように、人間が感知できる神は顕現神である。だから、どんなに真実の神に思えたり見えたとしても、それは、絶対神のごくごく一部でしかないのだ。

この一点をしっかり理解していれば、「我こそ、生ける神なり」

「我こそ絶対なり」などといったりはしないはずである。むしろ、神を体験すればするほど、ますます謙虚に、より大らかに、より明るくなっていくはずだ。

しかし現実には、絶対神と顕現神との違いがわからないため、多くの宗教者が唯我独尊に陥ってしまい、その結果、それぞれの宗門宗派の間で醜い争いをしているのである。悲しいことというほかない。

素朴で素直な人間が天運をつかむ

少し話が横道にそれた。では、そうした無形、無限の神に向かっていくには、どうしたらいいのだろうか。

それにはまず、自分の中にある無形の部分で無形なものを感じ、真に、善に、美に、永遠に、広く、高く、深く、繊細に、濃く、無限に向けて進歩発展していったらいいのである。

それを、神様は人間に対して望んでおられるのである。その過程で目前に現れる神は、宇宙森羅万象を統率される唯一絶対神のごく一部だとわかった上で、謙虚にこれを味わい、楽しみ、進歩発展と幸せのために活用していったらいいのである。それが、ご神意にかなっているのだ。

神様から見れば、人間とは有形、有限であるとともに、未完成であり、不完全なものである。それをはっきり認識して、素直で謙虚で、しかもひとつわかっては味わい楽しみ、ひとつ実感して感動しては、味わい楽しんで幸せであれば、それでいいのである。

絶対者であられる神様は、人間がこのようにして絶えず進歩発展し、常に幸福であることを何よりも望んでおられるのである。これが、人として正しい道であり、神の道にかなう人のあり方なのだ。

おわかりいただけたであろうか。わかったようなことをいって、ふんぞり返っている宗教者や霊能者より、「少年ジャンプ」を夢中で読んで、「ボクも北斗神拳のケンシロウのように、正義のために武術をやろう」と、目を輝かせている少年のほうを神様はより好まれる。また、庭に咲く一輪の菊に素直に感動して、「この菊の美しさを、ぜひ描いてみたい」

夢中で写生している老画家のほうを、より真実と、真髄と、正しい道に近い人であるとして、神様は評価しておられるのである。

有形の宝と無形の宝

だから、「毎回読み切り、次回ご期待!」、「毎日充実、明日ご期待!」、「今世幸福、来世ご期待!」という調子で、何でもやればいい。

毎日、毎日、人生と道を完結させ、進歩と発展の余地を残しておけば、もうそれ以上考える必要はない。森羅万象、人事百般、すべてから学び続け、それを神様の一部として会得し、感謝感動して、幸せに日々生きているならば、これ以上、神意にかなうすばらしい人生はないのである。

だから、そんな人には、天運がこぞってお出ましになるのである。

今度は、己を磨いて天運をつかみ、自他ともに幸せな人生を歩む方法について、もっと別の角度から、重要ポイントを解明していきたい。

その第一歩として、この章のメインテーマである”無形の宝”について述べてみたいと思う。

さて、私たち人間にはいろいろな宝がある。金銀財宝、地位名誉。田地田畑、株式国債。子供も子宝というくらいだから、宝かもしれない。また金のわらじをはいてでも探せというひとつ年上の女房も宝といえよう。

また、いちいちかぞえあげたらキリがないが、これら、通常私たちが宝と呼ぶもの 18 は、現実界の宝、つまり形のある宝である。

金銀財宝にせよ、あるいは田地田畑にせよ、いずれも有形なものであって、この三次元世界に肉体をもって生きている間は所有できても、死後の世界にまではもっていけるものではない。

その意味では、きわめて刹那的な宝ということができる。

そのへんをとらえて、古来、「有形の宝は空しいだけ。有形の宝を追ってはいけない。無形の実相や天国にこそ真実があるのだ」と教えてきたのが宗教である。

中でも、これを強調しているのが般若心経で、この世の執着心を捨てて、此岸から彼岸へ渡れ、つまり、

羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆加」といっているのは周知のとおりである。

しかし、有形の宝、この世の宝が悪かというと、決してそうではない。有形の宝も必要なのだ。

なぜなら、有形の宝と無形の宝の両方を与えて、人間を物心両面に幸福にしようとなさるのが主神の御心だからである。それゆえ、これまでの宗教がいうように、有形のものは空しいというわけでは決してない。

ただし、有形の宝には大きな問題があるのもまた事実。それは、有形の宝ばかりを追求していると、執着心が生まれ、妄念妄想がわいてくることである。

それが、霊的にも現世的にも不幸の種となるからである。あまりに財産ばかり追い求めると、ついには物欲のとりこになって、心の中が地獄と化してしまう。

これが問題なのだ。だからこそ、古来、多くの宗教が有形の宝に対する欲を捨てるように教えてきたのである。

たとえば法華経を見ても、「地獄とは、妄念妄想これ正体なり」といっている。すなわち、有形の宝に執着して、妄念妄想を出すことによって心の中が地獄界になるというわけだ。が、心の中が地獄界になるだけならまだいい。

これが、死後の霊界の位置を決定してしまうのだ。

さらにはその妄念妄執が心の外にまで出ていき、悪念波や生霊となって他人との争いや葛藤、いがみ合い、果ては殺し合いにまで発展することさえある。これが娑婆即地獄というわけだ。

これに対して、心の中が無執念、無執着になると、平和で安らかな恍惚とした世界となる。これが仏教でいう、安心立命であり、阿耨多羅三藐三菩提である。

要するに、これまでの宗教は、有形の宝のもたらす悪い面ばかりを強調するあまり、これを全面的に否定することで、心の中に平安を見いだそうとしたわけだ。

もちろん、これは一般論であり、もっとうがった見解を示している宗教もあるが……。

よく考えてみれば、社会全体が貧しかった時代では、求めても所詮得られなかったので、こういう説き方のほうが当を得ていたのかもしれない。

しかし、物の豊かな現代にはどうだろうか。社会的制約も少なくなり、身分差別や極貧の人たちも少なくなってきた現代において、これで、人々の幸福実現が可能であろうか。

そうとは思えない。無理にそれらを強要したら、どこか、いびつな現代人になるのではないだろうか。現代は、主神の本来のお気持ちを、そのまま伝えても納得のいく時代になってきているのだ。

今、昔風に、深山幽谷で瞑想にふけっていれば、争いも葛藤もないだろう。だが、それは主神の本来の願いではない。

またそれが真の幸福につながらないことは、私たちの心が一番よく知っている。

物質的にも恵まれ、同時に心が平安なときに、私たちは真に幸福を感じるのである。だから、肉体をもって生まれてきた以上、有形の宝も必要なのだ。

ただ、私たちの心の置きどころが有形の世界にのみ偏してしまうからダメなのである。財産、地位、名誉・・・・・・、これらに対して執着心をもつから地獄界になってしまうのである。

では、そうならないためにはどうしたらいいかというと、心を無形の宝に向けるのである。

有形の宝ではなく、無形の宝を積むように心を向かわせれば、有形の世界に偏するのを避けられるはずである。詳しくは後述するが、この無形の宝を正しく掌握して心を向かわせれば、やがてそれが有形の宝となって、身に備わるようになるのである。

この一点が非常に大切なのである。この一点を忘れると、自己の修養もできないし、世のため人のために生きることもできなくなってしまう。

そして、天運もつかめなくなってしまう。少なくとも、己を磨こうという人、あるいは信仰の道に生きようという人、神霊世界を探究しようという人は、絶対にこの点を忘れてはならない。

もし仮に、無形の宝を無視して有形の宝にばかり心を奪われている宗教者がいるとしたら、その人は、天地自然のことが何ひとつとしてわかっていないということになる。

もっとはっきりいえば、無形の世界に心が向かない人は、信仰しているとはいえないのである。たとえば、

「お金がもうかりますように」

「入学試験に合格しますように」ということばかり祈願して手を合わせることは、まさに”お陰信仰”以外の何ものでもなく、決して正しい信仰とはいえないのである。

しかし、無形の宝だけでいいかというと、決してそうではない。

何度もいうように、有形無形、両方の宝が大事なのだが、無形の宝が主で有形の宝が従とならなければ本当ではない。

有形の宝には一切執着せず、絶えず無形の宝を積んでいくことで、結果的に、有形の宝も生み出されていく。そして、この生み出された有形の宝に執着せず、さらに無形の宝を積もうと努める。こういう姿勢が大切なのである。天運とは、こういう積み重ねの結果、もたらされるものなのである。

「化する働き」の原理

では、無形の宝とは一体何であろうか。これをご説明する前に、「変化」という言葉について述べてみたいと思う。

私たちはよく、「最近の国際情勢は変化が激しく……」とか、「若者の意識も昔に比べるとだいぶ変化して……」などと、「変化」という言葉を使う。

実は、無形の何かが有形なものになっていくの「化する働き」といい、有形のものが無形のものになっていくのを「変ずる」というのであって、この二つの意味を合わせた言葉が「変化」というわけだ。だから、ものの順序からいえば本来、「化変」というべきであって、「変化」というのは有形のほうにウエートをおいた言葉といえる。

それはさておき、「化する働き」とは具体的にはどのようなものをいうのかというと、一例として雨がある。雨は周知のとおり、空気中の水蒸気が凝結して水滴となって落ちてくるわけだが、水蒸気のときは無形である。この無形の水蒸気が凝結して、有形の雨になることを「化」というわけだ。

これとは反対に、氷が溶けて水となり、さらに水が蒸発して水蒸気となって消えていくのを「変」という。

無形の宝とは何かを理解するために、この「化」と「変」と、しっかり頭に入れておいていただきたい。

仏教思想に見える消極的姿勢

さて、話は突然変わるが、ここでしばらく、仏教の話をしたいと思う。仏教については『神霊界」で詳しく書いたが、読んでいない方のために、もう一度お話ししたい。

仏教は、難しく考えればとてつもなく難しくなるが、簡単に考えれば「三法印」に要約できる。つまり、「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」の三法印である。

「諸行無常」とは、常なるものは一つとしてなく、世の中は変わり続けるという意味だ。これは「涅槃経』に見られる、釈迦の遺言でもあって、こんな話がつたわっている。

八〇歳近くなったあるとき、釈迦は風邪をひいた。そこで弟子たちは、高齢のことだからもう亡くなるのではないかと心配したが、幸いにも元気を回復した。

そのとき、弟子の一人である阿難尊者が、「ああ、よかった。もし、お釈迦様がお亡くなりになられたら、私たちは一体どうしたらいいのでしょう。ご病気が治って本当によかった」といった。すると、釈迦は答えていった。

「阿難よ。諸行無常、世の中は変わり続けていくんだよ。

いつまでも私がいると思ってはいけない。自らを灯とし、私の説いた法を灯として生きていかねばならない。精進を怠るでない」

これが有名な「自灯明法灯明」という、入滅する前の釈迦の遺言である。釈迦がこの世にいるのはわずかの間で、いつまでもいるわけではない。

釈迦がいるときはいるときで精進に励み、いないときはいないときで精進に励む。形あるものはやがてこわれ、生命あるものは生命を失い、すべて刻々に変化していくというわけである。

二番目の「諸法無我」とは、諸々の形あるものは我がない。つまり実体がないということ。形のあるものは、やがて形を失い、水蒸気のように消えてしまう、という意味である。だから、永遠に変わらない無形の実相を見つめよう、という意味も含まれてい

「変化」という側面から見れば、「変」について語っているといえよう。

三番目の「涅槃寂静」は、一度死んで永遠に幸せな世界にいったら、二度と生まれ変わって苦しまなくてもいい、という意味。また、涅槃の境に入って、永遠の安心立命である寂静を得ようとも解される。

以上の三つで釈迦の教えは要約され、一般に「三法印」と呼ぶわけだが、「四法印」をもって釈迦の教えを要約することもある。その場合には、先の「三法印」に「一切皆「苦」をつけ加えることになる。

世の中はすべて苦しみだ、人生は苦しみだ、というのが「一切皆苦」である。そして、苦しみとは何か(「苦諦」)、なぜ苦しみは集まるのか(「集諦」)、どうすれば苦しみをなくすことができるのか(「減諦」)、どうすれば苦しみをなくし続けることができるのか(「道諦」)ということから、「苦集滅道」となる。

これが「四諦」であり、苦楽の道である人生を物語っている。

そして、それらを、改善する方法が「八正道」となるのである。これらをまとめて「四諦八正道」と呼ぶ場合が多い。

以上が「四法印」の「一切皆苦」の概略だが、これらあくまでも四番目であって、釈迦の教えのエッセンスはやはり「三法印」にある。

こう考えれば、あの膨大な大蔵法典もわかりやすいのではないだろうか。

さて、これまでの説明で、仏教のだいたいの趣を感じ取っていただけたことと思うが、仏教は先ほどの「変化」という面から見れば、「変」のほうに重点を置いていることがおわかりいただけたろうか。

それは、「三法印」の二番目、形あるものはやがて形を失って無形の世界に還っていくという「諸法無我」に集約されているのだが、この仏教の思想はあまりにも消極的であるといわざるを得ない。

「どうせ、形あるものは無に帰するのだから、何をやっても空しい……」。仏教思想にとりつかれると、どうしてもこういう傾向が現れてくる。そうしてついには、生きていること自体にも空しさを覚えるようになる。

むろん、真正の釈迦の教えはもっと明るく、積極的である。ただ、インドという社会と風土、中国という社会と風土を経て、日本に伝わるまでの間に、こう色づけされたのである。

ところで、霊界で見た釈迦と弟子たちとの交流は、絶えずユーモアと笑いに満ちていて、楽しくかつ真剣なものであった。ただ、釈迦は聖者扱いされていたので、

「……と、釈尊は曼陀羅華を降らしながら、富楼那尊者のジョークに対して、地面に手を叩きつけながら笑いころげた。

そして、あまりに笑いすぎたため、しばらく頬がひきつり、得意の説法ができなかったのである」という場合の描写が、仏典結集、すなわち入滅後、間もなく行われた仏典の編纂のときに、採用されなかったのである。

ついでながらいえば、イエスのそういう面もバイブルには載っていない。

当然のことだと思う。私が編集責任委員だったとしても、やはり権威が下がるので、採用しなかったであろう。

しかし愚鈍な周梨槃特のような人物や、無教養な底辺の人々に、釈迦がまじめくさった高尚な説法ばかりをしていたとは考えられない。もっと、高低や剛柔の説法大自在であったはずだ。

それはともかく、一般的な仏教思想に見られる、因縁だ、業、形あるものは消えるんだという、消極的で空しさが漂うムードは、惟神の国日本、現代に生きる人たちにふさわしいとはいえない。

これではいけない。私たちが本来目指すべきは、「変」ではなく「化する働き」のほうである。

つまり、無形の宝を積んでいくと、やがて有形の宝となって現れるという側面に視点を置いて、ますます無形の宝を積むことに努めなければならないのだ。

形あるものはやがて無に帰する、だから空しいのだという「諸法無我」は、執着心や煩悩にとらわれている人間や崇り霊、地縛霊、浮遊霊などを救霊するとき、あるいは死んだ人間を悟らせるとき、これを説かねばならないが、生きている私たちが「諸法無「我」などと聞くと、何事も空しくなってしまい、やる気、勇気が出てこなくなってしまう。

だから私たちは、「化する働き」のほうをより中心的に見て、大和魂を発動させるようにしなければならないわけである。

そのように、「化する働き」を心のメインに置きながら無形の宝を積んでいくと、有形の宝は自ずと整うようになる。

有形の宝ばかりを追い求めると執着心が出てくるが、無形の宝を積んでいけば、執着心が出てこないばかりか、有形の宝も自然と備わるというわけである。

このあたりをとらえて、孔子は次のようにいっている。

「君子は本を務む」

と。すなわち、立派な人物は枝葉末節の結果などには目もくれず、つねに本になることに一生懸命励んでいる、というわけだ。

では、「本」とか何か。「本」とは本質であり、無形の宝である。

つまり、立派な人物は、学問や道や徳などの無形の宝を積み重ねることに熱心で、財産や地位、名誉などの枝葉末節には無関心であるが、その人間としての価値を認める周囲の人々によって、有形の宝である地位や名誉も自然に備わる、というのがこの言葉の意味なのである。

これからもわかるように、孔子は決して地位や名誉、財産を否定してはいない。ただ、そういうものに心を向けないで、本を見なければいけないというのである。

このへんの孔子の咀嚼力については、偉大としかいいようがない。