現代に生きる”かぐや姫”・山口小夜子(モデル)
山口小夜子さんは、いうまでもなくその存在を世界に知られたトップモデル。女性なら誰もが憧れる現代の”かぐや姫”である。
山口さんの守護霊は、月世界の美人コンテストに優勝するほどの美貌の持ち主、月天使「ふさこ姫の命」である。役小角の母堂だった霊であるらしい。
奇魂が月光菩薩、最近出された写真集のタイトルが「月」、名前が小夜子と、まったくみごとに月づくしである。
これほど多くの証が出るのも、彼女に鋭いキャッチ力、霊力が備わっているからである。
事実、写真集のタイトルを「月」と決めたのも山口さん自身だし、またブルース・リーの命日の前日、壁の中に彼が現れ、炎の中でカンフーをやっているのを霊視したこともある。
彼女が落ち込んだとき、どこからか大丈夫だよ”という子供の声が聞こえてくるという。これは、まさしくご本霊である月光菩薩の声である。
ご自身の一部である奇魂が山口さんに送ってきたメッセージは次のとおり。人生を一〇倍楽しくする方法は、
一、面白い人とつき合う
一、新しい事を行い続ける
一、精一杯やること
一、人から学ぶ心を絶やさないこと
一、自然の美に親しみて心と体と気を遊ばせること
一、美装、美芸、美声、美曲、美味の試みを絶やさざること
一、集中して休み、依頼して己の最善を尽くし、尽くして頼られ、陰にして陽である呼吸とタイミングを保ち続けること
一、故郷は空のかなたにあることを忘れないこと
一、シチリアに太古の思い出があるぞ
★ 神に感応しながら恍惚の世界に引き入れる
前世は、「出雲阿国」。謎多き女性霊能者であり、「かぶき踊り」の創始者でこれを全盛に導いた人。一六〇七年、江戸城中興業を最後に、日本芸能史上不滅の名を残し消息を絶った。
巫子であった阿国が、神に感応しながらくり広げる神秘の芸術・・・・・・想像するだけでも、私たちを恍惚の世界に引き入れずにはおかない。モデルとしての山口さんの姿とみごとにオーバーラップしてくる。美貌の歌舞伎役者名古屋山三郎との恋も、その一生にきらびやかな彩りをそえている。
また阿国は「ややこおどり」という独自のおどりを舞っていたことがわかった。
今世、山口さんは「チャンゴ舞」という独特なおどりを舞っておられるという。不思議な符合に、私たちも驚かされた次第である。
このように、前世も今世も、その世界の頂点に立つ人とは、その名声や地位などに溺れることなく、ひたすら研鑽し、実践し、また霊的にもその重要性を悟り、御魂の向上を怠らず、精進努力してきた人である。また我欲を捨て、世のため人のために真の道を貫いた人でもある。
今世、山口さんの人生において守護霊がどのような形で応援するのであろうか。大いに期待したいところだ。
二七歳で守護霊が交代・小林麻美(タレント)
都会派センスをもつタレントとして、つとに有名な小林麻美さん。モデル、女優、写真家、エッセイストとして幅広く活躍するかたわら、テレビのコマーシャルでもおなじみだ。漂う洗練された気品は、どうやら前世からのものだったようである。
麻美さんの前世は、カトリーヌ・ド・メディシス。世界史に詳しい人なら、おそらく耳にしたことがあるだろう。
カトリーヌはイタリアの大富豪メディチ家の娘として生まれ、後にフランス国王アンリ二世に嫁いだ女性。嫁入りのときの付き人が三〇〇人もいて、才能もあった。イタリア料理をフランス人の口に合うようにした人、つまりフランス料理の原型をつくった人なのである。しかし、結婚は政治的色合いが強いので、カトリーヌは幸せではなかった。
麻美さんの気品や、その中に漂うもの悲しいムードは、前世の面影である。ヨーロッパに興味があり、特に冬の雪化粧をした荘重な雰囲気が好きだというのも、前世カトリーヌ王妃の思いが潜在意識の中で、脈々と息づいていることをうかがわせる。
私もたくさんの女優、男優と親しくしているが、本当の意味での信仰に目覚めている人の数は多くない。
小林麻美さんは数少ない篤信家のひとりなのである。
前世の徳のストックもあり、「事を為せば三ヶ月で芽が出て、それが一〇年以上も続く」という徳の持ち主である。誰からも好かれる気さくなところが、徳明のよさである。
★ 七つの大病から危篤を救ってくれた守護霊
いろいろとお話を聞くと、麻美さんは二五歳ごろから、曼陀羅や写経に興味を抱き始めたそうだ。実際に、写経千巻をめざして筆を走らせたこともあるという。
「どういうわけか神仏の世界に流れていくんですよね。まあ、私自身今までトントン拍子でここまできたんですけど、他人に対して正直すぎて、それで裏切られてしまうことも多く、そういう辛い想いが神仏の世界へと目を向けさせたのかもしれませんが・・・・・・」と、自己分析をしてくれたのである。
私は深く目をつむり、
「ウーン、二七歳、このときに守護霊様が交代していますね。麻美さんが宗教的、内面的世界にめざめたころです。守護霊様はお坊さんのようです」と語りながら、さっそく守護霊様の姿を描き始めた。
守護霊は今から五〇〇年ほど前の真言宗のお坊さんであった。すぐにその守護霊様か捨てるべきは捨てる、そうしなければ新しいものが現れてこない。ときどき人の好意を期待して裏切られてしまうが、大丈夫〟とのメッセージが届いた。
守護霊様の姿を描き終わったところで、「ワァー、なんだか目のところが私に似てる。そういえば母親にも似てる。もしかしたら、母系のご先祖様かしらね」と麻美さん、驚きの声をあげた。
事実、麻美さんが感じたとおり母親系のご先祖様。守護霊様は全部で三〇人、真言宗のお坊さんはその中のチーフ格であった。
聞くところによれば、麻美さんの母親の親類に天台宗のお坊さんや尼さんがおられるとのこと。やはり、お坊さんとは浅からぬ因縁があったのである。
また麻美さんは芸能界にスカウトされた一七歳のとき、なんと七つの大病を一時期に連続して患ったが、どうにか危機を脱することができたという。実はこのときも、守護霊様の強い守りがあったのである。
ところで守護霊様は一生のうちで、だいたい三度ないし四度交代するのが普通である。なぜかといえば、本人の志の高さや必要とするパワー、あるいは能力といったものが、年齢とともに変化していくからだ。
神霊界では、こういう本人の志などを考慮して、最もふさわしい守護ができるよう、適材適所に守護霊人事異動”を行うわけである。
守護霊様の背後には守護神様がおられるが、この方が前世、今世、来世をトータルに見ておられ、守護霊人事異動の権限を神様から託されているのである。
私が守護霊様に確かめたところによると、七三歳まで麻美さんを守ろうと語っていた。そのあとは足腰を鍛練すれば大丈夫とのことだ。
昭和六二年春から好調気運となり、信念さえ揺るがなければ運気も持続できる。
鑑定が終わると、「今日はなんだか、夢のような一日でした」と、少々上気した顔で前世と守護霊様の絵を抱いて家路についた麻美さんであった。
(編集部註…平成三年、小林麻美さんは、深見先生の予言どおり、幸せな結婚をなさいました)
第五章 前世の因果を乗り越え神人合一に至る道
他力に頼ることを知れ
ここまで、前世の因縁、そして家代々に伝わる因縁をどのようにとらえ、これを解決するにはどのように対処すべきかということを中心に、かなり詳しく述べてみた。これで、だいたいのところはおわかりいただけたのではないかと思う。
「前世の因縁なのか、何をやってもうまくいかなくて……」
「どうも家の因縁が深くて……」などと悩んでこられた方も、どうしたら因縁を乗り越えられるかが、かなり明確になったのではないかと思う。
しかし、今までの話は当たり前のことなのである。世のため人のために生きたい、社会に役立ちたいという志をもっていなくても、人として生まれてきた限り、誰もが理解し、心がけるべき内容なのだ。いわば、因縁因果に対する基礎の解説であるといえよう。
本当に私のいいたいことは、これから始まるのである。世に益する人生を送りたい、真実の道を歩みたいという人は、これから述べる内容を理解して神人合一の道を極めていただきたいのである。
では、どうしたら神人合一の道を極めることができるのであろうか。それにはまず、他力に半分頼ることを知る必要がある。
すでに第二章で述べたように、現在、一部で盛んに行われている想念術とか阿頼耶識論、あるいは密教でいう瑜伽論や眠っている大脳を呼び起こそうという大脳生理学などは、すべて自力本願である。
眠っている宝をメディテーションすることで呼び覚ますという点において、自力本願、別のいい方をすれば我力の強化であるといえる。
だが、これは人間が到達しなければならない理想の状態である神人合一ではない。想することで宇宙の生命とひとつになるなどといってはいるが、決してそれは神人合一ではない。あくまでも、自力で自分の潜在能力を引き出そうとしているにすぎないのである。
神は私たち人間の中にも内在している。その神を発見するという点では、先にあげたいくつかの方法も間違いではない。
だが、神は内在しているだけではないのだ。天地自然にも神霊があり、宇宙も神が創造したものなのである。だから、神とひとつになるには、自分以外の力、つまり他力に頼る要素も必要となるのである。
神人合一というと、瞑想や荒行をして人間のほうから神に近づいていくものと考えられがちだが、決してそうではない。あくまでも、神様から見て、
「こいつは立派な人間だ」
「この人を通して、少しでも世の中をよくしたい」と映るよう、自己を修養していく。これが神人合一の道の修道なのだ。
いわば、日々の生活の中で虚心坦懐に徹し、私心と我欲を捨てる修業をして、誠の道を極めることが神とひとつになる大切な方法なのだが、これについては「神霊界」で詳説しておいたので参照していただきたい。
ともかく、このような心構えで日々を過ごし、同時に信仰心を保っていけば、いつか必ず神がかるようになる。
いわば、他力、絶対力が出てくるわけだ。その他力の根源は宇宙の創造神であったり、天照大御神、産土の神、あるいは守護神、守護霊、荒神であったりするが、そのいずれかは別として、それぞれの次元界の神々が、その働きと役割に応じて力を貸してくださるわけだ。
たとえば、結婚や就職などの身近な問題の場合は守護神や守護霊、産土の神、お金のことならば三宝荒神といった具合である。
このような多種類の他力を自由自在に活用する、言葉が悪ければ働いていただくことが大切なのである。だから、
「自分は今、どうも調子が出ないな。運勢が落ちているな」と思うときは、神様に半分よりかかるような気分でいればいいのだ。いや、そうしなければならないのだ。なぜなら、他力に頼る姿勢がないと、我と慢心の凝結を作ってしまうからである。
人間関係で葛藤した場合、「絶対、負けるものか。何としても自力で打ち破ってみせる」というのはたくましくて力強い。
だが、常にそのような姿勢でいると我の強い協調性のない人間になってしまう。
また、微妙、繊細なる柔軟性を失ってしまうことになる。御魂の粒子が荒くなり、霊妙の境が乱れるのである。
そして強度の場合は、死後、天狗界や修羅道などの独得の世界に入り込むことになり、正神界には入れなくなってしまうのだ。
その意味で、自力的な修業方法である想念術や阿頼耶識活用術などは、片手落ちであるといわざるを得ないのである。
一方、他力本願にも問題がある。他力ばかりに頼り過ぎるのも、やはり偏しているといわざるを得ない。前にも少しふれたように、他力、他力といっても、自分に合った他力しか出てこないのだ。
自分自身が磨いた内面性と外面的な実力、この内外の実力に合わせた形でしか、他力は活用、応用、運用できないのである。このへんが、過剰な拝み信仰の弊害なのである。
自力と他力が十字に組むのが理想
自力と他力に関していうならば、この二つが十字に組むことが大切である。何度もいうように、眠っている潜在意識を想念術や阿頼耶識、大脳生理学などで引き出していくというのは片手落ちなのである。
神人合一の道においては、他力を動かす、あわよくば絶対力を動かすだけの自力を生み出していくこと、角度を変えていえば、川下にいる自分を、神様が川上から引っ張り上げてくれるようにもっていくことが大切なのだ。
それはいわば、先天の修業と後天の修業が十字に組んでいることであり、これをみごとにやり遂げたのが、「神霊界」でも述べたように、出口王仁三郎や黒住宗忠、日蓮上などなのである。
とにかく、自力と他力とが十字に組むことが非常に重要なわけだが、さらに詳しくいえば、自力の中に他力があり、他力の中に自力があるのである。
自力、自力というが、実際はその自力の阿頼耶識の中に出ている自分に、守護神や守護霊などの神々が、目に見えない形でこっそりと助けてくれているのである。
また、他力を動かすというものの、自分自身の努力で愛と真心を貫き、眠っている宝をいかに奮い起こすかによって、他力の出方も違ってくるのである。
だから、自力の中にも他力が入っており、他力の中にも自力が入っているのだ。
そのパーセンテージの違いによって、現実には自力であったり他力であったりと定義するわけである。
そして、その自力と他力がピタッと十字に組んで「中」にはまっている状態、つまり、ツボにはまっていてどちらにも偏ることなくバランスがとれている状態が神人合一の状態であり、中庸の「中」に帰結していて正極を得ているのである。
「中」を得れば善となる
ところで、ものごとの善悪はどこで判断するのか。何が正しくて、何が誤りなのだろうか。結論をいえば、「中」ならば正なのである。
四書五経の「中庸」には、このように記されている。
「中は喜怒哀楽の発する前にして、ひとたび発して節に中る」
「中」というのは、右に寄らず左に寄らず、まん中という意味ではない。人間の喜怒哀楽の発する前にあるのだが、ひとたび発して節に中るのが「中」なのだ。
具体的にいえば、無形のうちにあって、強いときには強く、弱いときには弱く、どうでもいいときにはどうでもよくしているタイミングや呼吸が「中」であり、ツボにはまった生き方のことなのである。これが正なのだ。
反対に、強く出なければならないときに弱かったり、弱くなければならないときに強く出たり、あるいは頑張らなくてはならないときに怠けたりするのは正しくない。
「正」とは「一で止まる」と書き、一番大切な原点である「中」や先天や太極に止まって事を為す状態のことなのだ。
このように正とは、キリスト教でいう善悪の観念や宗教倫理に合致していることではない。
それよりも、中国思想に照らし合わせるならば、すべての行いにおいて「中」にあること、すなわちツボにはまっていることが正なのである。
この中正こそが道を行う原点であり、すばらしい極意だといえるものなのだ。
ちなみにいえば、台湾の故蒋介石総統の雅号は「中正」であった。
この一事だけを見ても、彼が日々何を心がけていたのかがわかる。また、蒋介石がいかに深い学問と高い教養をもっていたか、おわかりになると思う。
とにかく、宗教にしても学問、芸術にしても、この「中」を得ていれば正しいのである。
この原則は、神人合一の道においても、何ら異なるところはない。
他力と自力を考えた場合、想念術、阿頼耶識などというのは、自力のほうに偏り過ぎている。他力の世界を完全に無視してしまっている。
神はすべて内在していると思い込んでしまっている。反対に南無阿弥陀仏とかキリスト教、あるいは拝み信仰、お陰信仰というのは、何でも他力に帰結させてしまう。
神様だ、守護霊だ、おキツネ様だ、ご先祖様だと、自分の意識の外のものばかりを見てしまっている。これは他力過剰、甘え過ぎ、依頼心が強すぎるといわざるを得ない。
では、正しいのは何なのかとなると、中正。くり返すが、他力と自力が十字に組んで「中」に止まる。これが正しいのである。
他力の中に自力あり、自力の中に他力あり、自力のときは自力、他力のときは他力という具合に活自在になって初めて、神人合一の妙境を行じることができるのである。
このように中正ということの深い意味を理解し、かつ掌握すれば、それはすなわち、正しく神を掌握したことになる。と同時にそれは、神人合一していることになるのである。
そして、これらのことが完璧にマスターできるようになるまでのプロセスを神人合一の道と呼ぶわけである。
そうして、そのプロセスがある程度まで進むと、人間か神か、神か人間かわからなくなる。それくらい、すばらしい人間になれるのである。
神人合一して初めて、本当の意味での聖人にもなれるのだ。
そして、その際には、驚異的な霊能力や超能力などの有無は一切関係ない。霊能力があろうがなかろうが、そんなことは関係ない。驚異的な霊能力があることが神人合一では決してないのである。
もちろん、世に役立つ霊能力、超能力が身に備わっていれば、それに越したことはない。
だが、たとえどんなにすばらしい霊能力があろうと、自分のことや現世的な精進努力ができず、万人から愛され親しまれるだけの徳の輝きがなければ、神人合一とはいえないのである。
神の如き人、人の如き神の顕現が理想だからだ。たとえていうならば、聖徳太子や楠木正成、上杉謙信のように、神の如く無私無欲に徹し、しかも智、仁、勇兼備して、世に抜群の功を残せば、それでよいのである。
そうして、神霊能力も活自在だったらさらによい、ということになる。
神人合一のレベルと観音の働き
ところで、一口に神人合一といっても、さまざまなレベルがある。最初のレベルは、悟りを開くことによって、肉体は人間であっても内面が仏様のようになる状態。すなわち、禅でいう「見性成仏」レベルの神人合一がそれである。
次のレベルは、内は禅定であって身、口、意と揃い、働き自在のみ仏と合体する状態。すなわち、台密、東密で知られる密教系の「即身成仏」レベルの神人合一である。
そして、この上のレベルが、本当の惟神の道における神人合一であって、天津神、国津神、八百萬の神々、仏界、ヨーロッパ神界、インド神界、中国神仙界、および極微神界大宇宙のすべての次元の神々と合一して、人類救済、文明文化創造の大神力と大弘通力を発揮するのである。
モーゼや出口王仁三郎、弘法大師、日蓮上人、聖徳太子、さらには明治天皇や神武天皇、日本武尊、神功皇后を初めとする古代の天皇たちは、多かれ少なかれ、皆、このレベルで神人合一しており、それぞれの時代を切り開いてきたのである。
ところで、これらすべての神々の働きを総称して何というかというと、
の観音大自在の大御働き」と申し上げるのである。
観音とは、宇宙創造の大元である主神ともいえるが、
の神が、お姿を顕現されたときの状態を総称して申し上げるのである。
すべての天神の次元に、瞬間のうちに化身できるのが「正観音」(六次元)。すべての地神の次元に化身できるのが「聖観音」(五次元)。すべての仏の次元に化身できるのが「観世音菩薩」(四次元)と申し奉る。
これを神式に置き換えれば、「木花開耶姫」の神様と同体異名である。
この場合も、「木花開耶姫之大神」から「木花開耶姫之尊」となり、さらに「木花開耶姫之命」となって、次元界をスライドしておりてこられるのだ。
だから、神霊研究グループ・ワールドメイトが製作し、私が真を入れさせていただいている観音像も「聖観音」なのである。
それは、必ずしも次元界の高い神様が目前の苦しみを救ってくださる最高の神仏とは限らないからだ。
むしろ、私たちの悩み事を直接助けてくださるのは、次元界におりられた神仏のご活動である場合が多い。前著「大金運」で詳説した「大黒天」や「三宝荒神」などがそれである。
だから、わざわざ「正観音」ではなく「聖観音」様にきていただいているのである。また、「観世音菩薩」様にしない理由は、「神と仏」の両方が活用できないからだ。
菩薩となって現れ、四次元霊界に深く入り込み過ぎると、霊障を引っ張り出したり、守護神、産土神、天照大御神などの、日本神界中枢の神々たちとの間に距離ができる。
ところが「聖観音」様だと、自動的に必要なときには四次元界にもおりてくださって即応できるし、神道の有力神霊とも交流がすみやかなのである。
ちなみにいえば、巷に「聖観音」と称する仏像を安置する寺院は多いが、本当の意味での「聖観音」の神霊がいらっしゃるところは少ない。関東では浅草観音その他数カ所くらいで、あとはすべて「菩薩」様である。
だが、決して「菩薩」様自体が悪いわけではない。幅広い次元転換の法則が納得できる人しか、この「聖観音」様の真価を体得できないからである。
それ以外は「菩薩」様のほうが一般であり、霊験もたしかに体験できるかもしれない。
ところで、今までのどの本を見ても、このように観音のことが万物の創造主自らのご化身であると明言しているものはない。
それゆえ、ちょっと密教の知識のある人ならば、素朴な疑問が湧いてくるに違いない。
つまり、「胎蔵界、金剛界を統率し、三千大世界の法界を治めている主神なり、元神は、ビルシャナ大日如来である。代表者であると同時に、仏を構成している因子であるともいわれている。
この仏様こそが最高至尊の本仏であり、観音とは、観音院を主宰している仏様にすぎないのではないか」と。
なるほど、弘法大師の代表作である「秘蔵宝鑰」にも天台宗の教えは観音院の教えであり、大日如来を仰ぐ密教を一〇番目とすれば、八番目のランクにしかすぎないとあるくらいだから、そう思うのは無理ないかもしれない。
あるいはまた、「西方浄土にあっても、阿弥陀仏が最高、最貴、最至尊のみ仏であり、観世音菩薩は、勢至菩薩とともに、その脇仏にすぎないのではないか」といわれるかもしれない。
たしかに、そのとおりである。しかし、神霊界より見れば、これにはちゃんとわけがあるのである。
つまり、元の最高神は、無限絶対極の神なのであるが、仏界である胎蔵界、金剛界においては、会社にたとえるなら代表取締役権を大日如来に委譲し、自身はその配下にへり下って、最もかわいいわが子である衆生の救済のために、粉骨砕身のご活動をしておられるのである。
これはちょうど、創業者の初代社長が代表取締役の座をわが息子に譲り、自身は取締役会長に退くのに似ている。
松下電器産業にたとえていうならば、創業者の松下幸之助氏が相談役に退いて、千変万化の働きをしておられるようなものである。
号令一下、全社員を自由自在に動かす権限は、代表取締役のようにはもっていないが、人々の人気は最高であり、三十三相なんにでも通じておられて化身し、上から下までオールラウンドな救済力を発揮されるのである。
絶対神だからこそ、何にでもなれ大自在神力を発揮されるのである。
では、西方浄土の場合はどうか。
それは、子会社の代表取締役に阿弥陀如来様を任じて、ご自身は脇士となられて、いとしき衆生の救済のために、気軽にお手伝いにきておられるのが真相なのである。
宇宙最高の親神が正体だからこそへり下り、大自在であって、最も親しい存在であることが可能なのである。最高なるがゆえに、大愛極まりて、最低にまで下られるからである。
おわかりいただけたであろうか。
ところでなぜ、日本人は昔から観音様が好きなのであろうか。
それは、最高の
の神様でありながら、何にでも姿を変えることができ、私たちの最も身近なところにまできてくださって、その上、どんな願いでもかなえてくださるからにほかならない。
ちょうど、アラジンの魔法のランプをこすると巨人が現れて、何でも願いをかなえてくれるのに似ている。
観音様の場合は、ランプをこする代わりに「南無観世音菩薩」と呼べばよい。便利で心強い存在なのだ。
それゆえ、「水戸黄門」、「暴れん坊将軍」、「桃太郎侍」、「大岡越前」、「遠山の金さん」などの人気テレビ時代劇の設定は、すべてこのパターンになっているのである。
つまり、最高の身分の方なのであるが、庶民のために姿を変えて、どのような悩みでも聞いてやり、正義のための大活躍をして、必ず善なる人の願いがかなって勝つことになっている。
だから安心して見ていられるのだ。人気のあるテレビ時代劇は、だいたいこのワンパターンなのである。
私たち日本人には、長い文化の伝統に根ざした観音信仰の霊的土壌が、知らない間に形成されているのであって、その観音様の像、すなわち◎神様の像を時代劇に追い求めてきたのであると思われてならない。
ただし、人気のあった長寿番組「銭形平次」は違う。化身ではないが、街中の辻々にいて、何でも願いを聞き入れて、どんなところにも入り込み、汗をカキカキしながら救ってくれるお地蔵さん信仰のパターンだと思われる。
主神と企業経営者の相似点
少しばかり横道にそれた。神人合一の話に戻そう。
ところで、八百萬の神々のうち、私たちはどの神様とひとつとなるべきであるかというと、それは聖観音。一般には、聖観音と合一することを最大の理想とすべきなのである。
もちろん、産土神や守護神などと合一することもすばらしいことである。しかし、神人合一の究極の理想像は、やはり聖観音をおいてほかにはないのである。
例外もあるが、前述したように正観音だと次元が高過ぎて、地に生かし難いからである。
なぜ聖観音を理想とすべきなのか。ひと言でいえば、聖観音は三十三相に化身されて、あらゆる場において万能だからである。
ここで少し、多面性を備えているのがなぜ最高の像であるのかについて、経営者の理想像と合わせて、さらに詳しく述べてみたい。
一般に、企業の経営者ともなると、どのような仕事でもこなせる能力を備えている。販売の第一線に立っても優秀。売り上げの管理をやれば誰にも負けない。
資金調達のための銀行対策、税金対策、労務管理を初め、ボーナスの査定も綿密にして、稟議書も書けるし読解することもできる。このように、オールマイティな能力を備えているのが経営者なのである。
これに対して課長はどうかといえば、ある程度の能力は要求されるが、それはあくまでも課長としての能力であって、必ずしも経営者ほどオールマイティである必要はない。
課長は、その課の働きと責任に対してオールマイティであればよいだけである。
そして、もう少し全体的な視点に立てるようになると、部長ということになる。たとえば経理部長になると、単に経理がわかるというだけでなく、商法や財務管理の見地から、経費の無駄を省くにはどうすべきか、会社運営のカジ取りは右か左かの、羅針盤の働きを行うことが必要となってくる。
もちろん、経理課の社員や女子社員の応対の教育、そして課長、係長の管理もしっかりやらなければならない。
あるいは人事部長になると、会社全体の労務管理から組合対策はもとより、人事部全体の経費や課長、係長の管理が必要だ。
そして、人事という局面から会社全体のカジ取りの指針を出さなければならない。
特に、優秀な人材確保には頭を使わなくてはならない。たとえば、かつての川崎製鉄などは、優秀な社員をリクルートするためと株主対策のためだけに、テレビ宣伝をしていた。
人事部長:いやあ、先日の人もいっていたよ。まいったね。川崎製鉄の本社は川崎にあるんだろうってね。神戸神戸にあるんだよっていったら、へえーって、意外な顔をしていましてね。
社長:そうか。やはり、テレビコマーシャルをやるか。テレビを見て、わが社から鉄を買おうという客はいないだろうが、新入社員にいい人材がこないと困るからな。株主対策にもなるしな。
経理部長:社長。やりましょう。今期は利益があがり過ぎて、このままじゃゴッソリ税金でもっていかれますよ(数十年前の話)。広告宣伝は経費で落ちるし、社会的プレステージも上がりますからね。それに、人材と企業イメージは、未来の富にもつながりますからね。
社長:二〇億ぐらいは大丈夫だろう。
経理部長:いやあ、二四億ぐらいでも結構です。
人事部長:そりゃあ助かりますな。大学生がよく見る時間帯で頼みます。
社長:広報部長を呼んでくれ。
人事部長:呼んでまいりました。
社長:おう、きてくれたか。ところで、……というわけなのだ。
人事部長:早見優なんかをイメージガールにしたらどうだろう。
広報部長:いや、私は村田秀雄が好きだ。
社長:君の好みは、ここでは関係ないと思うがね……。
かなり横道にそれてしまったが、いずれにしても、上にいくほどこのように、何でも知っていなければならなくなるのである。
そして、社長はというと、総務もできて経理もわかり、販売、宣伝も掌握できてオールマイティ。
そうして初めて、代表取締役社長といえるのである。人事がわからない社長、販売がわからない社長、経理がわからない社長というのはあまりいない。中にはいるかもしれないが、それでは不完全である。
本当にすぐれた社長というのは、事業のすべてがオールラウンドにわかっていて、いざとなったら、何でもやれる。こういう社長が、本物の社長なのである。
しかし、普段は部下に任せて、自分は全体の方向を見ているだけ。
そして、経理担当の人間を相手にするときは経理の話をし、人事担当の人間を相手にするときは人事の話をし、販売だったら販売の話をする。あるいは銀座へいけば、ホステス相手に色恋の話もできる。要するに自在性を備えているわけだ。
そこが、中堅幹部との違い、平社員との大きな違いである。
神様も、取締役や社長と同じである。上のランクへいけばいくほど大自在であり、オールマイティなのである。
聖観音は神の顕現された姿である
一般に、非常に次元が高くて清涼な存在が最高神と考えられがちだ。たしかに、神気という面ではそのとおりであるが、それがすべての
神の顕現相ではない。
また、病気を治すのが最高神だと考える向きもあるが、そうではない。それは専ら龍神、天狗、稲荷、白蛇、黒蛇のすることである。
本当に最高の神というのは、社長と同じように全智全能の神権を備えて、あらゆる姿となって地に顕現するのである。
だから、次元が高いからとか、病気を治すからというだけでは、最高神とはいえないのだ。ユダヤ教やキリスト教、イスラム教の最高神のとらえ方は一面的であり、この点に関していえば、仏教のほうがより深く神霊界の様子を伝えているといえよう。
では、その最高神が地に顕現するときの姿は何かというと、それがほかならぬ聖観音という千変万化の大自在性を発揮する神姿となるのだ。概念としてある最高神は、宇宙創造の主神であり、絶対者として君臨する存在である。それを数字で表現すれば「無限極∞」ということになる。
しかし、人間の智覚は有限である。
だから、ユダヤ教もキリスト教も、イスラム教も仏教もそして神道もヒンズー教も、すべて人間が智覚できる神という存在は、どんなに「絶対者だ、
神だ」といっても、有限な人間というものにわかりやすいように現れた、
無限極からでた一つの仮の姿なのだ。
それゆえ、エホバもヤーベもゼウスも天之御中主も大日如来も本仏も、「∞極」の神権を委譲されて時代的、地域的、民族的な必要があって現れた、有限的な仮の姿であるといえる。
つまり、世界の宗教の主宰神も「無限極∞」である
神の大観音化身の姿であるわけだ。それが現実界に密接に表れたのが、聖観音なのだと考えればよい。
聖観音は三十三相に化身できる。しかも、大慈大悲の大いなる愛、大いなる慈悲をもって化身できて、オールラウンドの働きをされる。
たとえば、戦国時代のときには、天大将軍の姿となって戦を導く。なぜなら、戦国動乱の時代に生きる人々を救済するのに、「人間は御仏に仕え、御仏の道に生きなければならない」などといっていては、殺されてしまうからである。
そこで、善なる御魂の指導者に神がかって戦を導き、衆生を救済しようとされるのである。
これとは反対に天下太平のときには、当然のことながら戦を導くようなことはせず、政治家の姿となったり、善なる政治家に神がかって、正しい政治の道を教えたりする。
あるいは、鬼のような姿となって、悪い人間をこらしめたりすることもある。
また、子供が苦しんでいるときには、子供の姿となってこれを導かれる。
たとえば、一人の子供が線路で遊んでいるとき、友だちが寄ってきて、「こんなところで遊んでいては危ないよ。電車にひかれて死んじゃうから、あっちへいって遊ぼうよ」と、別の場所へつれていったとする。
この場合には、聖観音がその友だちを使って、子供を救済されているのである。
このように、聖観音は三十三相に化身して衆生を導かれるのである。あるときは僧侶の姿となり、またあるときは貧乏人の姿となり、その人その人、そのときどきに合わせ大慈大悲の大御心と広大無辺の智恵で衆生を救われるのである。
だから、神人合一して、人間が神様か、神様が人間かといった境地を目指せといっても、究極の目的は、たとえば大黒様とひとつとなったり、三宝荒神とひとつとなることではないのだ。
それぞれの時代と場のニーズがあるだろうが、最終的には、オールラウンドな働きをされる聖観音とひとつとなり、聖観音のような人間になり、聖観音が人間か、人間が聖観音かというように自在性を備え、いかなる場所でも、いかなる人に対しても、いかなることもやりこなし、完全に神通大自在、弘通神力をマスターし、人々を救済できるような人間。
こういう人がオールマイティな、本当の意味での神人合一した人といえる。これが最高にすばらしいのだ。
聖観音と一体になるのが人生の究極目標
過去、神人合一をして、オールマイティな神力を発揮した人物が幾人かいる。
たとえ弘法大師空海や出口王仁三郎、聖徳太子、菅原道真、白隠禅師などである。彼らは皆、神人合一して、聖観音のように自在にして、超人的な働きをしたのである。
これに対して、イエス・キリストやマホメット、あるいは釈迦などは病気治しや霊覚、神性、布教力については抜群で申し分なかったものの、自在性という面では、あまり備わっていなかった。
もちろん、イエスもマホメットも釈迦も一様に神人合一してはいたのだが、聖観音のようなオールマイティな働きはされなかったのである。
読者の皆様はもうお気づきのことと思うが、先にあげた自在性のあると評した人は皆、日本人である。
日本神界に霊籍を置く者にしか、真実の霊的自在性は得られないのだ。そのことは、風土や文化の歴史と体質を見ても、容易に理解できることと思う。
とにかく、イエスやマホメットは十分な自在性がなかったのだが、そのために、彼らは今現在、霊界において修業しているのである。
大聖観音の位に就くために、民族的守護霊となったり、導きの神となってさらに自在性を養っているのである。もちろん、自在性を養うためだけに霊的活動をされているわけではないが・・・・・・。
そして、そのように修業を続ける必要があるのは、彼らのような聖人たちに限ったことではない。
人間であるならば、誰もが聖観音の姿となるよう、修業を続けなければならないのである。
この世に生ある限り一生懸命努力し、また死んで霊界にいっても、努力しなければならないのだ。さらには、来世再び生まれ変わっても、修業し続ける必要があるわけである。
たとえば、前世は戦国時代に天大将軍としての天命をもって生まれ、これをまっとうしたら、今世は僧侶に生まれ変わって僧としての修業をする。
また、今世は学者としての天命をまっとうした人は、来世は芸術家としての道を歩むことになる。これはあくまでもたとえであるが、このように生まれ変わり死に変わりして、人間の御魂は聖観音に近づいていくのである。
だから、この世の七〇年余りの人生は、長い時間をかけて聖観音の位に近づいていく、再生転生の一プロセスといえるのだ。肉体をもった人間とは、いわば、霊的観音になっていくための天人養成機関なのである。
ここが、通常の仏教でいう涅槃寂静と私の見解との大きな相違点である。
世の宗教者や霊能者の中には、前世のカルマを抹消するために生まれ変わってくるのだ、と説く人が多い。
だが、そんな考え方はあまりにも消極的であるといわざるを得ない。厳しくいえば、最低限度のレベルでしかない。神様の御心はそんなところにはないのである。
もし仮に、前世のカルマを刈り取るためだけに人間が生まれてくるとすると、悪いカルマも何もない人は何のために生まれてくるのかという疑問が出てくる。
一切悪業を背負っていない人はなぜ生まれてくるのか。生まれながらに天才であったり、豊かであったり、幸運であったりして、一生を幸福に終わっていった人はなぜ生まれてきたのか。
楽しむためか。高級霊界のほうがはるかに楽しいのであるから、楽しむために生まれてくるというのは当たっていない。
ではなぜなのか。なぜ、肉体をもって苦しむのか。明確な解答は出てこないのである。
だが、私の見解に立てば容易に解答が出てくる。その答えはこうである。
カルマの少ない、あるいはない人がこの世に肉体をもって生まれてくるのは、早く修業ができ、早く聖観音の位に近づけるからである。
この世には、いろいろなレベルの霊層の人がいる。善人もいれば悪人もいる。心の澄んでいる人がいれば濁った人もいる。
そうした中に身を置けば、当然のことながら葛藤が生じ、自然に御魂を磨くことができる。
これに対して、高級霊界は同じレベルの御魂の持ち主が住んでいるところである。ここには悪人はいない。みな善人ばかりである。
それゆえ葛藤も少ない。そのため、最高に幸せではあるが、御魂がそのランクでストップしてしまうのである。
要するに、カルマの多い少ないは別として、肉体をもっているほうが、早く御魂の進歩向上の修業が進むから、人間は生まれ変わってくるわけである。
そして、肉体をもっ苦しみ、努力、錬磨によって、聖観音の像に近づいていくのである。
この修業を避けて通るわけにはいかない。今世にあるレベルまでやれなかったら、霊界でやり直さなければならない。
霊界でできなければ、来世もう一度生まれ変わってやり直しをしなければならない。
来世でもできなければ、来々世。来々世できなければ来々々世。来々々世できなければ…といった具合に永遠に続いていく。たとえどんなに苦しくても、やり直さなければならないのだ。
それなら、なるべく早目にやったほうがいい。今世肉体をもっているときに、すべてやり尽くしたほうがいい、ということになる。
そう悟って腹をくくり、只今只今を前向きに楽しんで励むほうが、奥の魂は充実して落ち着くはずだ。これが、本当の人生の意義なのだから……。
神人合して人類救済に立ち上がれ!
このようにして、聖観音と一つとなると、生まれてくるも生まれてこないも、本人の自由となる。それが観音の位に立つということなのである。
何百年、何千年、何万年という魂の旅において、生きながらにして観音の位に立つと、死んで即、神様の御用に役立つことができる。もはや、霊界修業は不要となるわけだ。
すでに、肉体をもちながら神人合一し、死後即、神様の役に立っている先人たちが何人かいる。数は少ないが、国家に有為な人材の大守護霊となって活躍している霊がいるのである。
私たちも彼らを見習わなくてはならない。
再生転生の長い旅を楽しんで充実してくり返し生き、今世肉体をもってこの世に生まれ出てきたかぎりは、私たちはまず観音の位に達することを目指して励まねばならない。
さらに、神様の御用に役立つグローバルな人間となり、宗門宗派はもっていても、それを乗り越えた大きな人間となって、人類救済の大聖願をもって活躍すべきなのである。
神人合一した一人が最も大切
ところで最近、会う人ごとに、こんなことをいわれるようになった。
「先生、本がたくさん売れてよかったですね。印税がたくさん入って、随分もうかったでしょう」
これも誤解である。はっきりいって心外である。
私は、印税などを当てにしなくても、二つの仕事で得られる収入だけで、豪勢とはいかないまでも、適度に豊かな生活を送れることができる。
だから、印税でもうけようなどという気持ちで出版しているのではない。
そんなケチな根性で本を書いているのではない。名前も知らぬ多くの人々に、神人合一の道を知っていただきたいのである。
かつて、龍馬が海舟と出会ったことで目覚めたように、拙著と出会うことで、神縁のある方がひとりでも多く人生の意義に目覚め、今という時代がいかに重要な時を迎えているかを知り(これについては、次回の出版時に詳しく述べる予定である)、同時にオ能を開花させ、世に役立てる。これが私の最大の願いであり、喜びとするところなのである。
また、こんな声もよく耳にするようになった。
「本が売れたことで、会員がたくさん増えたでしょう」
これについても、少し述べさせていただきたい。
たしかに、本を出版したことで、以前よりワールドメイトの会員が多くなった。本を読み、深く共鳴するところがあったので会員になりたいという人が、たくさん訪れるようになった。それは事実である。
しかし、私は会員を増やすことを目的としているのではない。いわゆる教勢拡大などということは、眼中にないのだ。その理由は「神霊界」を読んでいただければわかってもらえるはずである。
問題は量ではない。質なのだ。どんなに多くの人が集まったとしても、一人ひとりのレベルが向上しなければ、それは単なる烏合の衆にすぎない。
それよりも、たとえ数は少なくとも、一人ひとりが正しく神人合一の道を歩み、観音の位に達するならば、そのほうがはるかに価値がある。そして、現実的に世に役立つ。
たとえば仮に、ひとりの人間が観音の位に達したとしよう。すると、その人間は周囲になる影響を与えることができる。
そして、その人間を中心に、神人合一の輪が広がっていく。だから、そういうひとりの人間が現れることが大切なのだ。決して量ではない。
教勢を拡大し、数の力で社会に影響を与えようなどというのはもう古いのだ。
そして、そういう意識でいれば、遠からず、過去多くの宗教団体が辿った闘争と分裂の道を辿ることになる。
それを私は、痛いほど承知している。だから、会員を増やすことだけに血まなこになるような、狭い了見はもたないようにしているのである。
くどいようだが、問題は量ではない。質である。しかし、良質はある程度の数の中か出てくるのも事実だ。質を第一と志せば、量はおのずから増えていくはずなのだ。
これが天地自然の天意に合った、量的な発展であると信じる。
量はあくまで結果であり、目指すものは質でなければならないはずだ。今の宗教団体は、これが逆になっているから無理と狂いが生じてくるのである。
もちろん、私のところも一〇〇パーセントうまくいっているわけではない。が、なるべく一人ひとりの神、霊現の次元の総合的進歩に心がけているつもりである。
そのためには教育がいる。正しい指導がいる。だが、教育は言葉でするのではない。教理、教諭のみでするのでもない。
第一章で述べたように、真髄は言葉や教理、教諭にはないのである。
たとえば、親が子供を教育するとき、「テレビなんか見ていないで、勉強しなさい。本でも読みなさい」
と、どれほど口をすっぱくして説教しても、あまり効果はない。言葉でいっても、子供はいうことを聞かないのだ。
それより、親自身が勉強することである。本を読むことである。そうすれば、その親の姿を見て、子供はいわれなくても勉強したり、本を読むようになるのである。
本当の教育とは、本来そういうものなのだ。
だから、私がどんなに偉そうなことを書き、どんなに偉そうなことをいったとしても、私自身の日々の生活、一瞬一瞬の心のもち方が道にはずれていたならば、人を教育することなど絶対にできやしない。それどころか、人は去っていくであろう。
結局、神、霊、現の次元で率先垂範するしかないのである。それだけに必死なのである。一日二四時間、寝ているときも起きているときも、一瞬も気を抜かないくらいの心構えで頑張っているのだ。
仕事をするとき、救済除霊や前世鑑定などをするとき、決し邪気邪霊の入らぬよう、命がけでやっているのである。
それが、私の修業なのだ。だが、決して悲壮感でやっているわけではない。
明るく楽しく修業しているのである。努力するのは楽しいし、当然のことをやるのだから充実感がある。内外の実力も伸びる。そして、自己を実現できるから、ますます楽しくなる。
このような毎日を積み重ねていくならば、いつか必ず観音の位に達し、世に大いなる貢献ができるようになるはずだ。
今、ワールドメイトに集まっている面々は、私を含めてその器は小さい。たしかに今は小さい。
今は小さいけれど、いつか必ず大きくなって、日本の国のために働くことができるものと確信している。
そういう人物が、ワールドメイトからどんどん輩出していったら、これ以上の喜びはないのである。
