一霊四魂を統一させ、金運爆発パワーを得る
人間の体を神霊的構造から見ると、一霊四魂より成っている、と前述した通りである。先に述べた「蔵王権現」「三宝荒神」「三面大黒天」の三つの神様は、分魂のそれぞれに強力に働きかけるのである。
すなわち、蔵王権現は智の奇魂を強力にバックアップし、経営戦略、企業戦略ではなくてはならない存在である。
また、強引に売り上げを伸ばしたり、商品の返品を敢行する神様なのである。
また、三宝荒神は荒々しさと勇気、そして忍耐することを培ってくれる荒魂に大きな影響を与える。
それは同時に家計や経理上の経費削減等につながるわけで、厳しい態度で臨まなければならない時などは、必須の神様といえよう。また、値上げ交渉の時などは、抜群の威力を発揮するのである。
そして、道をひらくサキ(先、咲、福)魂である愛情の幸魂と調和の和魂はなんといっても、ふくよかな三面大黒天の霊波動に限るだろう。
ニコニコ笑顔で商売繁盛は間違いなし。人が次々に集まってくるものである。
奇魂、和魂、荒魂、幸魂の四魂が、三つの霊力の下で能力をフルに発揮すれば、それは本人の強力な霊的パワーとなって、望みどおりの金運を手もとに引き寄せることが可能となるだろう。
なお、これら三つの神への祈りは、具体的に、そして礼儀正しく、毎日行なうことが重要である。
いうならば、金運を呼び込むビタミン剤のようなもので、少量であっても効果は大きく、しかも毎日必ず摂取することが大切なのだ。
三つの神のパワーを一〇倍にする法
さて、ここまで読み進んだ読者の中には、「三宝荒神や三面大黒天なんて、本当なのかなあ。
そんな〝神だのみ”で金運がくるなら、今時こんな苦労はしていないよ。世の中そんなに甘くはない。厳しさと苦しさ、辛さのみが現実だよ」などと、眉にツバをつけておられる方もいるのではないかと思う。
何度も失敗し、痛い思いを体験してこられた人なら、なおさらのこと信じられない内容かもしれない。だが、これは本当のことなのである。
金運をつかむチャンスは、誰にでも等しく巡ってくる。あるいは、金策に走りまわらなければならないこともあろう。
そういう時、自分自身のもっている才能や霊的パワーをどう発揮するか、それがきわめて重要なのである。
金運をつかみそこねる人のパターンは、たいてい決まっている。チャンスにめぐり会い、ここ一番で力を全部出しきらなければならない場面で、「どうせ、おれはだめに決まっている。もともと、おれにはツキがないんだ。一生懸命やったって、その成果はた かが知れている。疲れない程度に頑張ってみるか」と、半ば投げやりの態度で臨み、すでに勝負を半分捨てている。これでは、永久に金運などつかめないだろう。
つまり、自分でマイナスイメージを作り出し、失敗の霊界に入ってしまっているのだ。どんなに「金運をつけたい」と希望しても、実際の発想パターンがこれでは、霊界も働きようがないのである。
逆に、どんな苦労を味わい、貧乏のどん底にいたとしても「必ず成功する。頑張れば必ずむくわれる。私には、そういう強烈な運とツキがあるのだ」と固く信じ、そういう想念を出し続けていると、霊界が作用して、実際に希望どおりになる。
客観的には失敗した事柄でも、当の本人は、それを「成功のための糧」と信じ込むことが、金運を呼び込むコツである。
要は、心の持ち方、考え方をいかにプラス側に転嫁していくか、これが最大のポイントなのであるが、日頃、神仏を尊び、手を合わせていると、発想がプラスに変化しやすいのである。
神に願いをかけ、自分もそのごとくに成れると信じ、そして日々の生活をおくっている。
こういう人は、すでに想念の世界で金運パワーを呼び込み、神も実際に守護しておられるのである。
したがって、先に紹介した三つの金運の神へ願いを発する場合は、固く信じることが大切なのである。
面白半分、遊び半分の心で神仏に手を合わせることは、金運の願いにかかわらず、すべてにおいてタブーである。
たとえ、そういう不真面目な心で祈ったからといって、天罰を下すほど神様は度量の狭いお方ではないが、不真面目な祈りは悪霊が耳をそば立てて聞いており、悪霊界が作用してしまうことも多いので、結果的に不幸に陥ることになろう。
金運三神のパワーをフルに活かすためには、確信し、毎日祈り、日頃からプラスの発想をして、実践するということである。
こうすれば自己の魂の力が倍増し、しかも金運三神のパワーも一〇倍は大きくなるだろう。それには、習慣化してしまうのが一番いいといえる。
神をブレインにもてば恐いもの知らず
神様は我々庶民の、強~い味方である。特に、金運三神は、身近にあって、我々とは切っても切れない深い関係である。
だから、「必要な時だけ、おすがりする」という1″神だのみ信仰”はこの際捨ててしまおう。そして、「いつでも、どこでも金運三神」と
いった感覚で、もっと親しくおつき合いをしようではないか。
そこで、この三神と上手につき合う方法をお教えしよう。
まず、月初めはなんといっても三面大黒天である。なぜならば、ここで人をたくさん集め、ともかく商売を大きく広げたい。
次に月の中旬には蔵王権現と親しく接するようにしたい。智を使って、金を集め売り上げアップを計るわけである。
そして月末は支払いやら帳簿の作成やらと、かなりシビアーに数字をはじき出さなければいけないし、集金人との鋭い対立も予想される。
そこで、勇気と忍耐と荒々しいパワーの三宝荒神様のお出ましである。荒神様の力を借りて月末の危機を上手に乗り越えたい。
このように考えると、我々人間の一霊四魂と密接につながりがある神様らしく、庶民生活の中にきっちりと根をおろしておられるようである。
また、人間関係を通して出世し、金運をつかみたいと思うのなら三面大黒天に、性格に甘さが目立ち、もう少し厳しく自分と他人に接して自分の能力を伸ばし、出世したいと考えるのなら三宝荒神へ。
そして叡智を働かせ、理論的に物事を展開しなければならないのであれば、蔵王権現へと、自己の想念を集中するようにしたい。要は、臨機応変に対処すればいいのである。
なにも固苦しく考える必要はない。これらは、前述の「真、控」の基本形に対する、応用形なのである。各自、実験されるとよいだろう。要は、自分なりに体得、活用しきることが重要なのである。
日本古来の神々が我々を導き育てる
最近のキャピキャピギャルでも、七福神の名前ぐらいは知っているだろう。七福の神
だいこくてんふくろくじゅじゅろうじんべんざいてんによほていおしよう
とは毘沙門天、戎様(恵比須)、大黒天、福禄寿、寿老人、弁財天女、布袋和尚の七神である。七神というものの、その出生”はまちまちで、福禄寿と寿老人は道教からきており、南極星の精ともいわれている。
弁財天と大黒天は密教系、戎は日本古来の神で豊漁を司るものとして庶民に親しまれている。
そして、毘沙門天はバイシュラバナとも多聞天(四天王の一人)とも呼ばれ、仏の厨子(台所、転じて経済という意味にもなる)を守る武神である。最後の布袋和尚であるが、この人はかつて中国に実在していた乞食和尚である。
それぞれについては後で詳しく説明するが、いやはや、なんとも人種のるつぼ、ならぬ神々のるつぼ、の様相である。
しかも、国籍が違い、宗派が違う神々が、なんとひとつの「宝船」に乗り込んでニコニコ笑っておられるのだから、キリスト教やユダヤ教など一神教系の人々が見たら、腰を抜かすほど驚かれるに違いない。
正月には神社へ、結婚式やクリスマスになると急にキリスト教徒に変身し、葬式では仏教徒として参列する、といった具合に、日本人は宗教に対して驚くほど、寛大である。
「心がそこに通じ合っていれば、それでいいじゃないか」というわけなのだろう、実におおらかだ。
こうした思考のバックボーンとなっているのが、他ならぬ日本古来の日本教ともいうべき神道の精神である。
はるか昔、日本に仏教が伝来した時、それを受け入れるか否かで、少々もめたものの、結局はこれを認め、神道と仏教を両立させてしまったり、以後、途中でキリスト教を弾圧したり、仏教を排撃した時期もあったが、いつかはそれらも日本の生活の中に定着してしまい、人々もたいていは受け入れている。
その意味で、我々日本人は実に不思議な民族といえる。
七福神などは、いかにも日本的、神道的発想といえそうだが、よい面はどんどん吸収し、前向きに明るく対処する思考方法は、すこぶる合理的だともいえるのである。
もっとも、神霊界のほうから考えると、信じてもらえば国籍や肌の色、年齢や性別はあまり関係ないわけで、また、神様同士が悪口をいい合ったり、ケンカしたりすることは、本来あり得ないのである。
少々、前置きが長くなってしまったが、とにもかくにも、この七福神は室町時代中期にはすでに確立し、人々は手を合わせていたのである。
そして、今でも人々に大切にされていることを見ても、御利益は間違いなくありそうである。
悪を知りつくした出世の神様、毘沙門天
七福神の中にあっては、最もいかつい格好をしておられるのが、この毘沙門天である。別名、多聞天とも呼ばれ四天王の一人。北の守りを任された武神である。
身体は黄色というから、我々と同じで、なんとなくそれでも親しみがもてそう。
この毘沙門天、最初から人々を助ける善なる存在であったかというと、実はまったくその逆なのである。強力なたたり霊として霊界の現実界を跋扈し、略奪、強姦、殺人、ケンカと、ありとあらゆる悪の限りをつくしていたのである。
ところが、ある日お釈迦様に出会い、説教を受ける。
「人々を怨み、たたっても、心は満足しないでしょう。人々が悲しみ涙する姿ではなく、 10 喜びに満ちあふれる顔を見てこそ、心の満足を覚えられるのです」
こうして、毘沙門天は改心し、一転、善なる神としてそのパワーを用いるようになったのである。この悪から善へと変身するストーリーは、鬼子母神と同じである。ついでだから、こちらも説明しておこう。
この鬼子母神、文字通り、子供を食い殺す鬼のような存在で、手当たり次第に人間の子供や赤ちゃんを奪ってきては食べていた。母親たちが嘆き悲しむ様子を見て、鬼子母神はニタニタと薄ら笑いを浮かべていたのである。
しかし、そんなことがいつまでも続くわけがない。ある時、あまりに悪業を積み重ね、しかも改心する様子もない鬼子母神に対して、お釈迦様は、鬼子母神自身の子供を、どこかへ隠してしまったのである。
一〇〇人近くもいる自分の子供の、たった一人が行方不明になっただけでも、鬼子母神はオロオロするばかり。
そして、気も狂わんばかりの悲しみのために泣き出してしまったのである。その時お釈迦様にさとされ、今まで自分が子供を食べてきた罪の重さと、子を奪われた母親の悲しみが身にしみてわかり、以後、改心して子供を守る神となったのである。
毘沙門天にしても鬼子母神にしても、一度、悪の世界をさんざん味わった末の改心だけに、そのパワーは絶大である。
しかも、悪の手口をよく知っているので、悪に打ち勝つ力もピカ一だ。つまり、悪に対して防御するというより、こちらから、積極的に攻撃をしかけるというタイプの神である。
たとえば、テレビの水戸黄門様の風車の弥七、大岡越前の一心太助みたいなものであろう。
特に毘沙門天は武神であるだけに、悪を蹴散らし善を勧めるのは得意中の得意である。ライバルが多い今の世の中は、ぜひとも毘沙門天パワーにあやかりたい。
過去、上杉謙信や楠木正成などが、毘沙門天パワー(つまり、守護神として彼らを守った)で、時代を切り開いていった。
ところで、蔵王権現も同じく智略と攻撃の仏様であるが、両者を比較してみると、毘沙門天はどちらかと言えば、智略で切り開いてゆくという霊力であり、蔵王権現は、押し広めて伸びてゆくという活現力がある霊力だ。
毘沙門天ウルトラ C神法があるが、また別な機会に述べてみたい。
さてここで、少々横道にそれるが、毘沙門天に代表される仏教パワーと、天照大御神に代表される神道パワーの違いについて、述べてみたい。
仏教は、日蓮の「南無妙法蓮華経」を見てもわかるとおり、悪に対してはガードがきわめて堅い。悪になんか負けるもんか!!という雰囲気に満ち満ちている。というのは、もともと、お釈迦様も人間の栄耀栄華に一度浴した立場から、その誘惑を打ち払いつつ悟りの境地に入ったのである。
生い立ちからして、悪に対して強いはずである。
また、私は今まで数多くの守護霊を鑑定させていただいているが、たいていは仏教、日蓮系統が多い。ところで守護霊とは、たいてい本人の十数代前のご先祖様が多いのだが、誰でもなれるというものではない。
この世でも、上級国家公務員試験や外交官試験、あるいは司法試験などをパスした者しか、その役職につけないのと同じように、霊界で守護霊の任務〟に指名されるためには、かなりむずかしい試験に合格しなければならないのである。
守護霊という職名”からもわかるように、悪の力から本人を守れるだけのパワーがなくてはならない。
そのためには、生きている時から、悪に打ち勝つ修業をし、なおかつ、死んでからのちも、修業を積む必要があるのである。
日蓮上人が安房小湊の浜で、昇る朝日を見て悟りをひらき、「南無妙法蓮華経」と唱えたあのパワー。
そして、どんな迫害にも屈しなかったあのパワーが、守護霊にとっぜひとも必要なのである。
参考までに、霊界における守護霊のシェアであるが、断然トップは日蓮宗の僧侶、次が曹洞宗、三番目が武士、四番目が真言宗で、次いで、天台宗や臨済宗や徳高き庄屋さんなどが後に続く。
キリスト教系もまれに見られる。悪に強く、人をグイグイ引っぱっていくパワーは、やはり仏教系に限るようである。
一方の神道であるが、悪に強いとか弱いといった次元を飛び越して、「情熱をもって、素直に人生を明るく前向きに生きよう」という立場にある。
ことさら悪を深く追及したり、あるいは「人間は罪の深い存在だ。すぐにざんげせよ」などと罪や罰を強調したりもしない。ともかく、明るさと前進あるのみ、といった風である。
正直いって、だから神道は仏教に比べると悪に対するガードは甘い。ここが欠点である。しかし、明るく前向きでくよくよしない点は天下一品だ。
このパワーは、善を広めるためには、ぜひとも必要だからである。
すでに、拙著「強運」でも説明したが、仏教は月の霊層世界で、神道は太陽の霊層世界をこの地上に映し出している。
月は夜、つまり人間の悪の部分を、ほんのり照らす。だが、太陽はさんさんと日光を注いで草や木や動物の活動を助ける。
太陽にとって、夜は地球の裏側、つまり見えないのである。見えないかわりに、月に光を放射し、その反射で地球の夜を、わずかにだが照らすのである。
したがって、神道パワーで明るく前向きに生き、仏教パワーで、自分の心の中と外の悪を退治する、というコンビネーションがベストではなかろうか。私が神仏習合することを勧める理由もここにある。
愛嬌の強力霊波、弁財天
弁財天は、金運招来の神様として今でも庶民信仰の中で根強く息づいているが、さすがに庶民の眼は鋭く、かつ正しいといわなければならない。
御利益のないものを、何代も信仰するはずがないのである。
日本の三代弁天は、厳島弁天、琵琶湖の竹生島弁天、そして江ノ島弁天である。
近畿の天河弁天は、弁天様のいわば〝元締め”的存在であるが、仏的な亜流にやや流れている。
さて、この弁財天は、財という文字がついていることからもわかるように、大変、財物には縁の深い神様である。というのも、その生い立ちが、大いに財と関係があるのである。
弁財天はもともとインド系の女性神であるが、もとをただせばその本地は日本の三女神が元祖である。
この女神様は、スサノオノミコトの剣から現われた姫で、剣とは物を二つに切って数をどんどんふやしていくところから、経済という意味をもっている。
つまり、剣イコール経済、というわけで、剣より生まれ出た田心姫、多紀理姫、多紀津姫の三女神が財物に対して、霊験あらたかなるものをもっているのである。
また、地に顕現する時は白蛇、天に現われて白龍神となる。
そして、女性神であるがゆえか、この神様は非常に愛嬌がいい。江ノ島弁天などは、素裸になって、その豊かなバストをおしげもなく披露、ひざには美しい音色を響かせそうな琵琶などを置いているほどである。
この愛嬌がよい、という強力な霊波は、出世を望み、金運をつかみたいと願っている男性(もちろん女性もそうだが)にとっては、またとない要素なのだ。
愛嬌と金運は一見、なんの関係もないように思われるかもしれないが、とんでもない誤解である。出世し、財を得ている人物というのは、例外なく愛嬌がよい。
ブスッとし愛想笑いもできないような人が、金運をつかんだという話はあまり聞かないのである。
特に、これから上司や目上の人にとり立てられる必要がある場合など、生半可な実力よりも、相手の心に飛び込んでしまえる愛嬌のほうが、ずっと優れた出世と金運のための武器となる。
愛嬌がよくて天下をとったのは、かの豊臣秀吉である。
愛嬌を違う角度から見れば、ジョークでもある。レーガン大統領などは、愛嬌とジョークの達人だ。
もちろん政治手腕もあったのだろうが、ついに世界の頂点にまで登りつめた。田中角栄元総理大臣などもうまかった。
弁財天の「弁」は、すなわち、弁舌、弁論の弁だけに、口が達者になるのである。だから、能力はあるのにロベタで、どうも出世の糸口をつかみそこねているような人は、弁財天にお参りするのがよかろう。
弁と財の両方が転がり込んでくることうけあいである。特に、現在のようなギスギスした人間社会では、弁が立ち、ジョークがうまく愛嬌のある人物は、他に特別の能力がなくても、それだけでかなりの金運財運をつかめるのではないか。
一霊四魂のうち、愛嬌は和魂が司る分野。つまり調和である。先ほど説明した毘沙門天は荒々しい勇気と忍耐の要素なので、こちらは荒魂と奇魂が啓発される。
はっきりいって、この和魂と荒魂の要素がうまく調和すれば、かなり金運に近づくことができる。度胸と愛嬌の二つ、つまり男性的パワーと女性的ソフトムードということができよう。
辛抱をして大物を釣り上げる恵比須様
次は恵比須神についてである。
恵比須という呼び名はひとつでも、そこに充てる漢字はいくつかある。「戎」もえびすと読むし、「夷」もそうである。我は、外国という意味もあるが、でこれをいましめるというのが霊的な解義である。
刃の心と書いて、忍と呼ぶのに似ている。夷や胡は外国という意味である。この漢字からもわかるように、外国から海を渡ってきた神であり、自分をしっかり、で戒めるという意味である。
また、有名な関西の西宮戎は、少々耳が遠いらしくて、商売繁盛を祈願する人は、恵比須様の近くに寄って、ドンドンと裏戸をたたきながら大きな声で「商売繁盛で笹もってこい!」または、「恵比須神!〇〇に住む○○というものです。
本日、十日戎(毎年一月一〇日に行なわれる大祭)にお参りにきました。今年もよろしくお願い致します」と叫んでいる。
ここでいう、笹とは、さっさと行動する、とか、あるいは「笹に黄金が成り下がる」の歌にもあるように、財がつくことを意味している。
さらに、笹は六〇年に一度花を咲かせるとかで、つまり、六〇年間も、じっと辛抱して花が咲くのを待つ、ということでもある。
要するに、笹にかこつけて、恵比須様に、そういった商売の運気がぜひとも授かるようにと祈願しているわけである。私がご神霊に直接お聞きしお答えとは、「ササとは神徳のことなり」というものであった。
しかし、これらは単なる言葉の語呂合わせだけではない。
恵比須様は釣り竿をもち、手に大きな鯛を抱えておられるが、あの大鯛は、そうそう簡単に釣り上げられるものではない。
じっと、何日も何日も、目的の鯛を釣り上げるまで待ち続けた結果なのである。
しかも、その間、いつもニコニコして、鯛以外の小魚が釣れても、海にリリースしてあげるぐらいの余裕がないといけない。本当の大物釣り師とは、そういうものである。
そのように自己の信念を太くしなければだめである。そして、いつもニコニコ、辛抱して笑顔を絶やさないこれを、恵比須様は我々に教えてくださっているのである。
西宮の恵比須様は耳が遠いとの風説があるが、実は遠くない。よ~く、人々の声は聞こえるのである。
にもかかわらず、耳が遠いフリをしているのは、「嫌なことを聞いても聞き流す。私、そういうこと知りませんねー」と聴き流す術も併せて示しているのだ。
それでなければ、恵比須顔は長続きはしない。これが、つまり商売を繁盛させ、金運を招来せしめる恵比須流極意なのである。
私の知っている、ある大手OA機器メーカーのセールスマンは、この恵比須流出世術で大魚をものにした。その話を少し紹介しよう。
彼は営業マンとしては中堅クラスであったが、どうしてもあと一歩、飛躍できずに悩んでいた。
そこで、この恵比須流をそっと伝授したところ、彼は、それまで、小口の商店や小企業ばかりまわっていたのを、超大手の企業に狙いをつけ、そこを徹底的に攻撃したのである。
相手は超大手の企業。すでに他のOA機器メーカーが入り込んでいるため、新規の彼など、最初はどの課も相手にしなかった。
「あんたのところは、いらないよ。もう間に合っているから」と、耳に痛いことも随分聞いた。が、西宮戎のように「ハアー」とか「なんですか?」と聞こえないフリをしていた。
そして、何日も何日も通いつめたある日、「君は熱心だね。その熱意を買った。今度、新しいOA機器を導入しようと思っているので、君のところの商品を試しにうちの課に入れてくれ」
と相手の課長にいわれたのである。そして、ついにこれを突破口として、その超大手の企業すべての課に、彼の社のOA機器を導入させることに成功したのである。
実にアッパレというしかない。しかも、大手企業に喰い込むと波及効果も大きい。
小口の商店や小企業を攻略しても、それだけのことである。その後のリピートオーダーはあまり期待できない。
ところが、超大手に入れば、需要が多いのでリピートオーダーが続くし、ライバルも、自分が最初敬遠したように敬遠しがちなので、深く入りこめばかえって安全なのである。また、関連会社や協力工場にも、同じシステムを売り込むことができる。
このセールスマンは見事に鯛〟を釣り上げたのである。
彼が毎日、恵比須神に手を合わせ、〝必勝祈願”していたことはいうまでもない。
楽に攻め落とせるところは、誰でも狙う。が、とうてい無理だと思われるようなところは誰も狙わない。
だから、そこが狙い目なのである。しかし、簡単ではない。そこをジッと辛抱して、粘りに粘ったあげく最後に鯛を釣り上げる。これが、恵比須流の商売術なのである。
だから西宮では「戎」と書き、犬の如き強い意志を持て、犬を心に抱きて忍耐し、辛抱した者にこそ、ご祭神がほほえみかけるぞということを、「戎」の文字で教え続けているのである。
そういう立派な御神霊がいらっしゃるので、これらの霊的な解義をふま
えて参拝してみるとよい。福運は五倍になるだろう。
節約が上手になる寿老人
寿老人というのは、異様なほどに頭が長い。しかも、ハゲている。南十字星のひとつ、カノープス神の化身で、非常に頭がよい。
カノープスは全天空の中で二番目に明るい星で、東京からでも夏ならば、わずかに見ることができる。とはいっても水平線上二度の角度だから、よほど運がよくなければ見えないが…。
寿老人の頭の長さは単に、頭脳のよさだけを物語っているのではない。「実るほど頭をたれる稲穂かな」という言葉もあるように、頭を下げることの大切さを、我々に教えているのである。
頭がよすぎる人は、往々にして、それを鼻にかけいばりちらすのである。他人がバカに見えるので、そういう態度になってしまうのだろうが、これはどう考えてもよいことではない。
知恵を得れば得るほど、姿勢を低くして、前かがみになって対応する。これが、本当の知恵者のマナーというものである。
こうした知恵者の謙虚さは、我々日常生活の謙虚さ、生活の質素さ、節約の大切さにもつながり、ここから、寿老人は節約上手な神様ということになるのである。
つまり、徹底して合理性を追求する賢さがあることだともいえる。
一般社会でも、人徳のある老人は謙虚で生活も質素、お茶わんのご飯粒をひとつも残さずに、きれいに食される。
そして、感謝の心!こういう態度と心が金運を呼び寄せ、長く自分のもとに金運をとどめておくのである。
頭がいいから、才能があるから、お金をたくさんもっているからといって、慢心してはならないのである。
そういう傾向のある人は、必ず寿老人に手を合わせ、自戒するようにしたい。
道智の大切さを教える福禄寿
福禄寿。福禄寿と寿老人を一柱にまとめることがあるが、霊的パワーの傾向と種類はとてもよく似ているので、別段問題はない。
ところで、寿老人は頭を下げることの大切さを伝えてくれるが、こちらの福禄寿は己れを真に生かす深い智恵の大切さを教えている。
道に根ざした霊智とは、じっくりおのれを見つめて、かつ、他人の声も天の声として耳を傾けるということである。特に福禄寿とは、福と禄と寿をかなえるための、節欲、節心、節礼の智神なのである。
もともと、我々自身の頭のよさというのは、タカがしれている。三人寄れば文殊の知恵ともいうように、額を寄せ集めて、初めてそれらしい知恵も湧いてくるというものである。
他人の意見を聞けないようでは、しょせん金運も出世も、アイデアさえも望めまい。
本当に頭のよい人とは、謙虚であって、かつ、他人の考えを上手に引き出せるものである。
「俺が俺が」と、肩をいからせしゃしゃり出ることはないのである。また、性欲、食欲、睡眠欲など、全ての欲をほしいままにして叡智をさずかることは不可能である。
この節欲の智恵こそが自分の才能を真に開花させるものなのだ。才能があってもなかなか出世できない原因は、意外にこんなところにあるのかもしれない。
才能のある人は、謙虚に他人の意見を聞けるようになるために、また、自分の心と煩悩のために自分がだめになることがないように。
また、ヒラメキを豊かにし思慮深くなりたい人は、頭脳の回転が早くなるように、この福禄寿に祈りたい。本当は、大福星即ち南十字星に住んでおられて、北辰の道を地に延べる福と禄と寿の理を示す神様なのである。南半球に旅をしたら、南十字星に真心をこめて祈ってみよう。
なお、蛇足ながらつけ加えておくと、北極星神界の太乙老人も同じように万物の真諦を覚る叡智の神であるので、そちらにお願いされてもかまわないだろう。詳しいことは拙著『強運』を御覧あれ。
腹にすべてを飲み込んでしまう布袋和尚
さて、七福神の中でただ一人の、実在した人物(他の六神は文字通り神霊世界の存在)であるのが布袋和尚。中国大陸を昔、乞食坊主として歩きまわっていたという。が、そのうち、人々から弥勒菩薩とあがめられるようになった。
事実、布袋和尚は菩薩の化身であって、頭はハゲあがり、腹も異様に出ているなど、とても弥勒菩薩とは姿形は似ていないが、霊的波動という面においては同じである。
ところで、大黒天(すでに「金運三神」のひとつとして説明したので、この七福神では解説を省く)と同じように大きな袋をもっているが、あの中身を知っている人はおられるだろうか。
大黒天のよりもはるかに大きくて、布袋和尚ももちきれないぐらい、大きな袋の中身を。
実はそっと見たことがある。袋をパッと開けると、中から、人間のいろんな声が聞こえてきた。
ワイワイガヤガヤとうるさくてしようがない。が、よく聞いてみると、他人の悪口だったり、ののしりの言葉だったり、あるいは愚痴だったりした。つまり、人間の嫌な面が、袋いっぱいに詰まっていたのである。
こりゃ、布袋和尚がもちきれなくて、どっかり腰をおろしているのも、うなずけるワイ、と思っていたら、別の声も袋の中から聞こえてきた。
こんどのは、他人をほめたり、励ましたり、よしやるぞう、という前向きで明るいものばかりだ。なるほど、人間のよい面も袋の中には入っているのだ。
そして、あの右手にもっている軍配だが、これは善悪の是非を判断するものである。
和尚も頭がツルツルテンであるが、「結う(言う)に結えず、解くに解けない神(髪)の機微を知っていて、もっとハゲみなさい」と暗に諭しているようでもある。
また、でっぷりと肥えたお腹は、何でも腹に収めてしまう度量の大きさを示している。人間、生きていくうちには、いろんなことがある。
人から何かをいわれてもじっとこらえて、自分の腹にグッと飲み込んでしまうことも時には必要になってくる。
「短気は損気」との言葉もあるように、カッとなってしまうことは、商売上、大いに慎むべきことである。
短気は損気、急いては事を仕損じる、のたとえ通りである。これは出世するための大原則なのだ。
布袋和尚の霊力は、腹をふくらませ、気をゆったりさせ、人の悪口、陰口は袋にしまい込んでしまう働きがある。
つまり、包容力をもって人を育成し、物事の是非を正して正しい道に人々を教導するという働きなのだ。
短気な人、つい軽口をたたいて周りの人から嫌われてしまうような人は、ぜひ、布袋和尚の霊波動を浴びたいものである。
今がチャンス七福神秘法
徳川家康のブレインの一人であった天海和尚も、「日本人は七福神型人間でなければいけない」と語っているが、確かにその通り。というのは、この七福神の個々のパーソナリティはどれも皆、我々にとって必要なものばかりであるからだ。
世の中、お金がすべてではないが、金運をつかもうと思うなら、まず七福神の要素をバッチリ、ハートの中で育てあげることである。
内面世界が整えば、外面世界、この場合は具体的な金運も、おのずから実現していくものなのだ。
また、注意していただきたいのは、先の「金運三神」にしても、この七福神にしても、単にあがめているだけではだめだということである。
「金運を授けたまえ。お願いします!」だけでは、物乞いと同じで、本人が働いて富を作り出そうとしていない。これでは神様のほうとしても、今ひとつ乗り気にならない。
そうではなく、すでに自分自身の中に一霊四魂が宿っており、金運や七福神の要素は、あらかじめ備わっているのであるから、これを、より大きく働かせるように、あるいは神霊世界からパワーを補足していただくような気持ちで、神々に手を合わせることだ。要は自らが主体的に努力して、金運をつかもうと、心と態度にあらわすことだ。
そうすれば、神様も「こいつはやる気があるな」と思われて、「それじゃ、パワーを注入してやろう」ということになるのである。
神々から動かされるのではなく、神々を至誠で動かす――この心構えがポイントなのである。
そして、ここだけの話だが、最近は神々の事情や生い立ちを知って手を合わせる人が少なくなり、神霊界で寂しい思いをしておられる神様も多い。だから、今、ここに記したようなことがらを知ったうえで神々に手を合わせると、集中的に働いてくださるのである。
この祈り方で、神々のパワーは一〇〇倍は違う!
では、神々への正しい祈り方を説明するが、前にも述べたが、神におすがりする、という態度ではなく「私はこれぐらい頑張るつもりです。ですから、神様もしっかり私御加護してください」と、能動的に、かつ積極的に対処していくことが、何よりも大切である。
次に、単に「○○の神、お願いします」というのではなく、必ず、枕言葉をその前につけるようにする。
キリスト教でも「天にまします、われらが父よ、御名あがめます」と、いきなり「神よ!」などとはいわないのである。
日本神道の、祝詞などは枕言葉を上手に使って、神々をもちあげている。具体的なものは、二三七ページに示したとおりであるが、正式ではなく簡単に手を合わせる場合でも、やはり枕言葉は必要である。
コツは、神様をほめたたえること。そして、特徴を強調することである。
毘沙門天なら、悪を退治する強力なパワーの持ち主で、四天王の一人であるとか、恵比須様であるならば、じっと大物の鯛を釣りあげるまで忍耐しておられた意志の強いお方である、といった具合である。
枕言葉をつけた場合と、単なる「お願いします」とでは、はっきりいって一〇〇倍ほど、神様の御利益は違う。あなただって、そうだろう。
いきなり家にやってきたセールスマンが、「この商品、買いなさいよ。私が買えといってるんだから、買うべきですよ」などといわれたら、いいかげん頭にきてしまう。
ところが、「いい家に住んでいらっしゃいますねー。その服のセンスもなかなかいい。商品を見る目がありますねー。
ところで、この商品なんですが、お得ですよ。それに、あなたのセンスにピッタリですよ。
買って絶対に損はさせません。私も、できるだけ勉強させていただきますから、是非、お買いあげください」と、やんわり説得されると、「そうだな、損はしないみたいだし、負けてくれるというし、それに熱意も感じられるから、買ってみるか」ということになってしまう。神様も同じである。
ていねいに頭を下げ、熱意をもって願えば、それをかなえてあげよう、と思うのである。
また、その枕言葉を口にすることにより、自分自身もより情感を込めることができるし、イメージも具体的に湧きやすいので、霊界とのコミュニケーションも、より強くすることができるのである。
もちろん、神のパワーを確信すると同時に、自分自身の努力も怠ってはいけない。そして、われよし、相手よしの心構えである。
さらにつけ加えるなら、「神霊界がそれを望んでいないのなら、軌道修正をさせてください」と願うことも忘れずに。
つまり、最終的な方向と結果は、神様にすべてをゆだねます、という心情が大切なのである。それは、ここに素直さと謙虚さが表われているからなのである。
まあ、いろいろと説明したが、実践してみて、神様の正しい御利益とパワーを体で実感してみるのが、もっともわかりやすく、重要であるといえる。
神徳や功徳というものは、そもそも理屈ではなく、実践体得するしか方法がないものである。あなたの正しい金運が広がることを祈っている。
第三章 億兆単位の金はこうして動かす
世界を動かす “民族マネー” の秘密
巨大な金運をつかむ民族はここが違う
世界の民族の中でも、特に金儲けのうまい民族がいくつかある。まず、「い」の一番に頭に浮かぶのはユダヤ人、次に華僑、インド人。日本人もなかなか上手である。
特に、ユダヤ系の民族資本はピカ一とかで、アメリカ経済界を中心に、世界を牛耳るほどだといわれている。
二〇〇〇年ほど前、国を失い世界中に流浪の民として、散っていったユダヤ人。多くの迫害の中で、ヤーウエの神を信じつつ、祖国の復興を子々孫々に願い続けてきたのがユダヤ人である。
私には、なぜ彼らが世界を征覇できるぐらいの巨大な金を掌中に収めることができたのか、その理由がよくわかる。
金ばかりか、政治の舞台でも彼らは活躍しているが、俗にいわれる「プロトコール」(ユダヤ人たちの世界戦略を示した書ともいわれる)などが、その原因ではない。
根はもっと深く、かつ現実的、歴史的、そして神霊的なものなのである。
ユダヤ人のパワーの源は、四つある。
一、教育
二、霊界
三、血統
四、歴史的な環境
である。初めの教育であるが、ユダヤ人は小さい頃から旧約聖書を勉強し、神の摂理(摂理とは、神の人間に対する世界的なプログラム)を頭にたたき込まれている。
こういう教育が時にはアインシュタインのような大天才を生むことにもなるのである。
次に霊界だが、これはヤーウエの神に対し「自分たちは常に守られている民族だ」という強力な確信をもっている。
これが、すさまじい民族の想念となって霊界を形成し、実際的にも、神や天使達が降りてきて、彼らを守るようになっているのである。
ちなみに、ヤーウエの神は、神霊界では巨大な金龍神として存在している。
この巨大金龍神は、権力と能力パワーをもっており、金も億単位、兆単位で動かすことができる。
いやいや、そんな単位もまだ小さい。国を動かし、世界を動かすような、巨大な金をコントロールできるのだ。
そして血統である。これは、単一民族で同じ島国に住んでいる我々日本人には、ちょっと想像もできないくらい、血については異常なまでの執念をもっている。一人のユダヤ人を救うためなら、何億、何十億の金でも平気で使うぐらい、すさまじい。血は、霊をあらわしている。霊が形としてあらわれたものが、すなわち血なのである。
最後に歴史的環境である。ユダヤ人は幾多の迫害を受けながらも祖国復興にかけてきた。このような環境の中で、自らを強く鍛えてきたのだ。
教育と、霊界と血統、そして歴史的環境。この四つの要素がユダヤ人を支えると同時に、巨大な背後霊団をも結集させ、民族のパワーとして、金運や権力、能力運を引き寄せているのである。
華僑も似たような境遇である。祖国を離れた異郷の地で、同じ民族の血を温め合いながら、強力な財運をつかんでいる。
日本民族が世界経済の桧舞台に立てた理由
ところで、日本民族が今日のように、経済大国にのし上がったのは、いかなる背景があったからだろうか。
詳しく説明し始めると、長くなるので、ここでは簡単に述べることにするが、要は「大和魂」である。
大和魂は単に、勇ましいというだけではない。咀嚼能力が非常に優れているのである。咀嚼能力とは、AとBを混ぜ合わせてCというものを新たに作り出す、といった風である。そして、古いものを残しつつ、新しいものを育てることもできるのである。
身近な例としては、日本の宗教がある。日本古来の神道を初めとして、仏教、儒教、キリスト教など千差万別の宗教が、争いもせず仲よく肩を並べあっている。
また、仏教などは、発祥の地インドよりも東端の国、日本で大きく花咲いている状況である。
日本人の発想の中には、「これはダメ、あれはいい」という区別はさほどないようである。
「あれもいいし、これもいい」という具合に、すべてよい方向で考えていくことが得意なのである。
「嫌なことは、お互いに水に流しましょう。嫌なことは早く忘れましょう」というわけである。「目には目、歯には歯」と強烈な復讐思想を訴えるヤーウエの神とは違うのである。
日本には日本の霊界がある。そして、当然のことながら、日本人はこの霊界を背景にしている。
というのは、ほとんどの守護霊は我々日本人の先祖であるし、産土神も日本土着の神である。したがって、霊界を動員して金運を呼び寄せようとするならば、日本の霊界へと意識を傾けなければならないのである。
霊籍”(霊の本籍地)を日本に置いている人間は、あくまでも日本的な発想でふるまうべきであり、この発想と感性を総称すると、すなわち「大和魂」ということになるのである。
つまり、日本人のもっている優れた面、文化的角度などを見失わないようにしなければならないということだ。
そのあたりをしっかりと踏まえた上で、日本の霊界を動かすようにすれば、日本の民族自体がもっている金運パワーを浴び、上昇運に乗ることができるのである。
のちほど説明するが、日本を代表するような経済人は、やはり、この日本民族の霊的パワーを自分自身に集中させ、大成功をおさめているのである。
骨相や人相にも民族パワーは宿る
不思議なもので、金運のある民族の顔というのは、共通項が多い。とはいっても、具体的に何百人も調べたわけではないので、数値的な根拠は何もないのだが、神霊的雰囲気も含めていえば、三つほどある。
①骨格が大柄である
②鼻が大きい
③耳たぶや鼻柱にツヤがある
骨格が大きいといっても、大男という意味ではない。小柄でも、どこかしら、骨太い感じがするのである。
丈夫であり健康であり、かつ体力もある。そんなところから、意志の力や霊的パワーが漂ってくるのだ。
次に大きな鼻があるが、どっしりとして構えがよいものに、パワーを感じる。顔の中心にあるだけに、鼻が大きいと、顔全体が安定してくるようだ。
これがすなわち、相手に安心感を与えたり、信頼にたる人物と思わせるのであろう。
そして、耳たぶや鼻柱のツヤであるが、これは顔全体の肌の色ツヤといってもよいかもしれない。血色のよさは健康をあらわし、あわせて明るさや誠実さも示している。
以上、きわめて大ざっぱであるが、金運パワーのある民族の特徴である。
龍神パワーに潜む大きな欠点
巨大な金運をもたらすユダヤ人の守り神は金龍神だが、ひとつだけ大きな欠点がある。それは、非常に戒律、規則に厳しいということである。
モーゼの、あの石板に十戒を刻んだのも金龍神であるが、これを見てもわかる通り、「○○をしてはいけない」「○○を犯してはならない」と、まるで〝いけない集〟のようである。
そこから、権力を指向するパワーや民族の順序を重んじる風潮が出てくるわけだが、具体的な欠点としてあらわれるのは、他の宗教は絶対に認めない、細かい戒律にうるさ過ぎる、ということである。
文明が未熟の頃なら、それもある程度は必要だったのかも知れない。丁度、人間も子供の頃には、親が厳しいしつけをする必要があるのと同じだ。
「これはいけない、あれはだめだ」と言って、人間社会で営むルールを教えこまねばならないからだ。
だが、人間が三十代、四十代と智恵と自主性をつけてきた時代になって、子供を教育するようなやり方では、反発するのは当然だと言えよう。戒律尊重の弊害をはっきりいってしまえば、ズバリ、「愛」に欠けているのである。
愛がないから許しがないし、復讐思想が簡単に生まれてしまうのである。
ユダヤ人として生まれたイエス・キリストはそこを鋭く指摘し、「人間は規則や戒律だけでは生きてはいけない。愛が必要である」と強調した。
戒律とは、もともと人間を幸せにするために神が定めたはずである。戒律を守ることにより、人が不幸になっては意味がない。戒律を行なうことより、愛を行なうことのほうが大切なのである、と説いたのだ。
ここが、イエスが宗教家として革命的であったポイントであるといえよう。だからこそイエスが語ったといわれる「汝、右の頬を打たれたなら、左の頬を出せ」といった、「目には目、歯には歯」とまったく逆行する思想が生まれたのである。
そして、イエスは、神殿の前で商いをしていた人々を、厳しく責めたてて、新約聖書によれば、足で蹴飛ばしてその屋台をぶち壊したとある。
つまり、金運の神である金龍神を、足で蹴飛ばしたのである。そして、安息日は「休まなければならない」というヤーウェの教えを破り、安息日に病気を治したり畑に入ったりもしている。
こうしたイエスの態度が、当時もそして今も、ユダヤ人に受け入れられない原因のひとつとなっているのだが、これは、ある大きな意味を秘めている。
すなわち、ヤーウエの金龍神は、戒律と規則と厳しさで、民族の統一をはかり、「金」を儲けようとするのであるが、イエスは、愛を通して、天に宝を積めと語っているのである。
つまり、イエスは「本物の財産」を語り、ヤーウエは、民族が地で繁栄してゆくための宝である金を指したのである。必ずしもそうでないところもあるが、一般的にはこういう傾向となるのである。
このあたりを上手にコントロールしたのが、かのマホメットである。彼は、愛で財を動かし、財をもって民族を動かそうとしたのである。
マホメットは、愛と龍神パワーを兼ね備えた人物で、なかなかの霊的切れ者なのである。
その点、日本の霊界は、すべてを包容してしまう度量の広さがあるので、金龍神もOK. 、キリスト教の愛を中心とする財運もOK、ということができる。
以上、少々駆け足で民族パワーを動かしている金運の背景を探ってきたが、大切なのは、ひとつの運気に固執するのではなく、間口を広くもつことである。
それが、日本的であるともいえる。「これしかない」とか「ねばならない」というのは、いろいろに変化する金運をつかみそこねてしまう危険がある。
ちなみに、金運に関係している龍神には、青龍神、白龍神、紅龍神、黄龍神、銀龍神、九頭龍神など、数十種類もある。龍神パワーについては拙著『神霊界」に詳しく説明してあるので、興味のある方はご一読いただきたい。
トップの霊波が会社のすみずみにまでゆきわたる
会社を運営し、常に利益をあげ続けることは、経験者なら誰でもわかると思うが、それほどたやすいことではない。
商品の管理や開発、人事の問題、そして社会景気の動向と、資金調達、税金対策、資金繰り。すべての面にわたって、鋭くアンテナを張っておく必要がある。
しかも、経営者としての判断を間違えて、会社を倒産させることにでもなったら、従業員や、その家族まで路頭に迷わせてしまう。
つまり、自分自身の考え方や企業理念が、少なくとも自分一人ではない他の人々の運命さえ、左右しかねないのである。
しかし、自分自身に金運があれは、企業は発展し社員たちの給料もアップさせることができる。全社員の金運の要をにぎっているのが、他ならぬ経営者なのである。それだけに、責任は重大である。
個人的には素晴らしい金運の持ち主であっても、それを企業単位にまで拡大するとなれば、単に金運パワーだけでは力不足である。
企業のトップに立ったり、あるいは創業者としてゼロからたたき上げた人物は、人を惹きつける人間的魅力に満ちあふれているのである。
これは、あきらかに金運そのものとは違う、人徳のようなものである。
さらにいえることは、経営者の誰もがおしなべて、面倒見がよい点だろう。
「人は石垣、人は城」などともいうが、企業とて同じ。その中身は人材であり、どれくらい豊か才能ある人物を雇用し、その能力をフルに発揮させているかが、企業そのもののパワーを決定するのだ。
だから、経営者の手腕は、できるだけ優秀な人材を確保することにもある。が、逆にいえば、優秀な人物が慕ってくるような企業理念をもった会社にすることこそ、大切なのである。
また、会社は「人・物・金」である。人を活かすために物を動かし、金をやりくりする。それが上手かどうかが重要なポイントとなる。
計数に明るい経営者でないと、究極的には、社員を正しく導くことはできないし、優秀な人材も活かしきることができないのである。
では、この企業理念であるが、これはトップの霊層や霊波動に大きく影響している。トップに立つ人物が、どんなことを考え、世の中にどういう形で益を為そうとしているのかが、重要なのだ。
トップの想念は、企業全体を包むといっても過言ではない。事実、目には見えないが、トップの霊波動を、その会社のセールスマンや工場で働いている人、受付嬢までが浴びているのである。
企業戦略のひとつとして、それを具体的にあらわすのがCI(コーポレート・アイデンティティ)に他ならないのだ。
また、これも不思議なことであるが、トップにある人が「あそこの工場〇〇課をどう「しようか」と考えていると、その課の人が突然、社長室をノックしたりする。
そういうことがよくある。これは、トップの霊波が工場の○○課に、はっきり届いていることを意味している。
我の強い経営者はチャンスを逃す
すでに一章でも述べたが、我が強く執着心を異常なまでにもっている人は心眼が曇っていて、ヒラメキが鈍くなる。個人レベルなら、少々我が強くても、本人の損や失敗で片づけられるが、会社を任せられた立場にある人の場合は、そうはいかない。
特に、微妙な景気の波を見ながら、勝負に打って出ようとする場合など、個人の好き嫌いなどの次元ではなくなるのである。
チャンスとみたら果敢に突き進み、潮時となったら、未練なくサッと後退する。
企業経営はこれがコツである。そのためには、ともかく、チャンスを逃さない目を、日頃から培っておかなければいけない。時を見る目が重要なのだ。
その「時」を司っている神が、木花開耶媛之神だ。富士山の神様でもあり、木花とは昔は桜を指していた言葉でもある。
桜の花は、パッと咲いてサッと散る。惜しげもなく、時くれば風に花びらを与えている。
要は、時を見る、機をつかむとは、桜の花のように執着心と我を捨てさり、パッと咲いてサッと散る心得が大切なのである。
成功する経営者と失敗する経営者の違いは、おそらくこのあたりにあるのではないかと思われる。最近、幾多のベンチャー企業が、時を見、機をつかんで花を咲かせている。
もちろん、一時は花形ともてはやされながら、倒産したベンチャーもまた多いが、その企業のトップは、たいていバリバリのやり手で、我も執着心も強そうである。
が、成功し、ベンチャー企業を軌道に乗せられるトップは、表面上は我が強そうでも、実際には他人の声に耳を貸すタイプであるはずだ。
単に我が強く、個人的な金運の強さのみで急成長を遂げたベンチャー企業は、やがて崩壊していく運命にあることは明らかである。
自己の才能におぼれ、それに固執しすぎるからだ。
今の大企業も、そのスタート時点では、今でいうベンチャー企業であった。だからべンチャー企業のトップは第二のソニー、第二のホンダを目指すのだ。いや、今でこそ財閥の代表とみられる三菱や、住友も業祖はベンチャー精神の旺盛な人物だったのである。
それをベンチャーからメジャーの企業へと育てることができたのは、トップが自分の才能におごらず、多くの人々の意見に耳を傾けたからに他ならない。
特に、零細企業から中企業へ、中企業から大企業への発展は困難であり、トップが自分と同じ程度の実力をもつ管理職を育てるか、提携しない限りむずかしいのである。
人に恵まれる運があり、販売、財務、労務、商品開発、宣伝、どれをとってみてもツボを押さえないと、健全な脱皮はできない。
だから、我執を捨て、心を素直にしないと落とし穴が見えず、時の神、木花開耶媛之神も微笑みかけてはくれないのである。
企業トップも前世の影響を色濃く受けている
今の自分と前世の関係については、すでに説明したが、本人の潜在意識の中に潜む前世の意識は、経営者の企業理念や性格にも色濃くあらわれている。
その例として、ここでは、松下電器の松下幸之助氏、元経団連名誉会長の土光敏夫氏、本田技研の本田宗一郎氏、ソニーの盛田昭夫氏、そして、故人となられたが、戦後最大の政商と呼ばれた小佐野賢治氏にもご登場願う。
といっても、私はご本人たちとお会いしたことは一度もないし、彼らの企業理論や哲学に精通しているわけでもない。
あくまでも、神霊研究家として、前世を鑑定したにすぎないことを、ここでお断りしておく。
「本人に会いもしないのに、前世が鑑定できるのだろうか」と疑問に感じておられる向きも多いことだろうが、これは、六大神通力を駆使すれば不可能なことではないのである。
詳しい説明ははぶくが、その場に本人がいなくても、前世や前々世、あるいは守護霊鑑定等も行なえるのである。
しかし、直接本人に会ったほうが確実であり、遠隔鑑定の場合には極度な集中力がいる。だから、よほどのことがない限り、会わずに行なうことはしないのである。
また、どうして私がここで経営者の前世を紹介するかといえば、企業経営や国家に影響を与えるような金、財運は必ず霊界が影響を与えている(小さな金も霊界の影響を受けるが)ということもいいたいからである。
「あの人は、どうしてあんなに金儲けが上手なんだろう」とほとほと感心してしまう人物が、身近にたいてい何人かいるはずである。
金運を呼び込む術に長けていることもあるだろうが、前世の意識が、金運を通して前世に為し得なかったことをやり遂げようとしている場合もあるのである。
金儲けでなく、その向こうにある何かが、経営者を経営者たらしめている。
「金儲けだけが生き甲斐」という人は、しょせん何百、何千人もの社員を擁する会社のトップには立てないだろう。仮に立ったとしても、一代限りで終わる運命にある。
結果として金儲けはするが、それはひとつの手段であって、最終的な目的は人々の幸福と社会への貢献、及び企業の永続的発展にある――こういう経営者こそが、神霊界が喜び、そして守り得る人物である。
そのあたりを、よくお含みの上で、経営者と前世の関係を読んでいただきたい。
明の太祖朱元璋が前世だった松下幸之助氏
有名すぎて、今さら説明の必要もないと思われる松下幸之助氏(編集注=松下幸之助氏は平成元年に逝去されました。)だが、その前世は、かの中国を統一した明の太祖・朱元璋である。
《朱元璋》生まれは一四世紀、中国である。貧農の家から頂上まで昇りつめた人物として、前漢の高祖・劉邦と並び称されるほどだ。彼が一七歳の春、両親、兄弟たちは全員疾病で死んでしまう。
孤児となった彼は、一時期僧侶として苦しい修業時代をすごすが、のちに軍に入隊する。
軍人としての彼の活躍はめざましく、やがて、元帥となる。
モンゴルをしりぞけ、明帝国を築きあげたのは、一三六八年、彼が四〇歳の時。
元号を洪武とし、自ら洪武帝として中国全土を支配するにおよぶ。しかし、彼が政治手腕をあますところなく発揮するのは、皇帝として、農村の復興、農民教育、人調査等を行なったのである。
その反面、自分に反対する立場のものを、ビシビシ処分、その数、なんと三万人にものぼるといわれている。
しかし、巨大中国を支配していくためには、権力を強固に維持していく必要もあり、ある面でいたしかたなかったのかもしれない。
それはともあれ、彼は、一三九八年、七一歳でその生涯の幕を閉じた――
今からちょうど六〇〇年ほど昔のことである。中国を統一した朱元璋の魂は、やがて生まれ変わって、松下幸之助氏となるのである。
松下氏は九〇をちょっと越えたお歳だから、差し引きすれば、朱元璋没後、ちょうど五〇〇年ほどで、その魂は再びこの地上に出現したということになろう。
松下氏は誰でも知っているように、貧困家庭の出である。とはいっても、当時(松下氏の生まれたのは明治二七年)は、日本中どこも貧しかったであろうが、氏の場合は、貧困に加えて、体が弱かったのである。
松下氏のこれまでの人生を伝記風に書けば、九歳で丁稚奉公に出、のちに大阪電燈(関西電力の前身)の職工に。
そこで二股ソケットを考案、これを機に独立し三七歳の若さで会社を創設している。戦後の財閥解体で痛手を受けるが、昭和三〇年代の家電ブームに乗り、一気に今日の基礎を築くことになる。
貧困から立志し、日本を代表する家電メーカーを育てあげた松下氏と、貧農の出身でありながら、巨大中国の皇帝にまで昇りつめた朱元璋とは、やはりどこか似ているところがある。
顔もなにかしら似ているところがあるような気もする。松下氏は「経営の神様」との尊称も得ているほどだが、神霊的に見れば、彼のやりたいと思っていることの七割程度しか、まだ完成していないはずだ。
あとの三割はやり残しており、少々くやしい気持ちでおられるのではないかと察する。
また、彼のプライベートな面にはあまり触れたくないが、おそらく一七、八歳の頃、人生の意味を考え、志を大きくしたようである。
その志の大きさゆえに、背後に大きな守護霊団が憑き、彼を全面的にバックアップしたのである。
今、彼の背後には二三〇〇~二五〇〇の大守護霊軍団がおり、その半数は中国人である。前世の朱元璋との因縁が、守護霊軍団の構成にもあらわれているようである。
ところで、悪い意味でというわけではないが、松下氏はきわめて冷静に人をみられているようである。
それが時には”冷徹”とも、人には映ることもあるのではないか。
だが、この冷静さ、冷徹さをひとつのバネにして、松下王国を築きあげてきたのだから、結果的にはプラスとして作用したのではないかと思われる。
小さい頃に苦労すれば前世の悪劫は許される
朱元璋も大義に生きた人物であり、松下氏も同様に大義に生きておられる。
その証拠に、本社の敷地内に「根源の社」を開いたり(宇宙の根源をあがめる)、過去、伊勢神宮崇敬会の会長を務めたり、全国神社総代会の会長に就いたりしておられる。
一時僧侶だった朱元璋の信仰心が、こういう形で開花しているのであろう。
そして、なんでもよいものはどんどん取り入れる、という姿勢を終始一貫してとられていると聞く。先ほど説明した「大和魂」と軌を一にしてる思想である。
権力を維持するために、朱元璋は数多くの人々を殺したが、こうした前世の業は、なかなか霊界修業だけでは清算されるものではなく、現世に因縁として残される。
したがって、松下氏は当然、その因縁を背負って生まれてきたわけだが、幸いにというべきか、氏は幼少の頃から貧乏、病気、無学歴という〝出世三重苦〟の中で、非常な苦労を味わってきた。
これが、実は前世の因縁を軽くしているのである。
本来、神様とは、どんなに信仰しても、寄付をしても、前世や家の業をゼロにはなさらない。それは、自分がまいた因縁の種は、自分で刈り取らねばならないという善因善果、悪因悪果の原則は、神様自身がお定めになった大法則だからであり、大難を小難に、小難を無難にすることが、精一杯の神様の大愛なのである。
特に、小さい頃の苦労は、老境に入っての苦労よりすごし易く、全てが人間的成長の糧となるのである。
幼い日の苦労であればある程、神様に愛されている人であるといえよう。
松下氏は、見事にそれらの苦労を乗り越え、志を高く立て、前向きに人生を歩んだ。そこに、神の大いなる御加護を呼び寄せる原因があったのである。
また、これは本人に直接聞いたわけではないが、私のみるところ、これまで七度ほど、死にたい、と思うほど辛い場面に遭遇しているはずである。
うち二回は、特に辛かったようである。その時、龍樹菩薩が氏を勇気づけ励まして救いの手を差し伸ばしている。
氏が経営や人生に悟りを得たのも、この守護霊の代表である龍樹菩薩が背後で力添えしてくださったからである。
先ほど、守護霊が二〇〇〇以上集まり軍団を組んでいる、と説明したが、実のところ、この大守護霊軍団が、いわゆる松下イズムという氏の思想を企業のすみずみにまで、社員一人一人にまで、いきわたるようにしているのだ。
つまり、松下氏が「あの部門はどうしようか」と頭に思い浮かべると、それが想念となり、その想念とともに守護霊パワーがその部門に注がれるのである。
逆にいえば、社員たちの彼を慕う気持ちが、松下氏の守護霊を呼び寄せている、ともいえるだろう。
守護霊パワーを発したり、あるいは受けたりすることは、我々も日常的にしばしば体験している。たとえば恋人同士、あるいは夫婦間でも、互いに尊敬し合い慕い合うと、「今、あの人は何をしているのだろう」となんとなく相手の気配といったものを感じたり、自分がその人の隣へすでに坐っているような感覚になるではないか。
実は、これが本霊の波動というものである。松下氏の場合、ともかくすごい数の守護霊だけに、そのパワーが強烈なのだ。
このことだけを見ても、社員と経営者の交流がいかに大切かがわかるだろう。社員に慕われないトップは、神霊的に見ると、すでにトップとしての資格を失っているのである。
だが、経営者の中には、カリスマ性だけでトップに立ち、人を騙しながら金儲けを営んできたような人物もいるだろう。
そういうトップを慕った社員は悲劇である。というのは、その経営者の背後にある悪霊の影響を受けてしまうからである。
小佐野賢治氏は斎藤道三の生まれ変わり!
正直いって、私は小佐野氏がどのような人物なのか、細かくは知らない。もちろん、直接お目にかかったこともなければ、言葉を交わしたこともない。
ただ、時々新聞やテレビの報道で、田中角栄元首相と”刎頸の友〟であったことなどを見聞きして知っている程度である。
しかし、彼の死後、週刊誌等で「遺産総額は数兆円」とか「従業員二万人の将来は!」などという記事を目にすると、今さらながら、そんなにすごい財運に恵まれた人であったのかと、ただただ驚くばかりである。なんでも、資産の巨大さでは日本で一二位を争うほどで、世界中でも指折り数えられるほどの存在なのだという。
これほどの超大物でありながら、マスコミに登場するのはロッキード裁判の時ぐらいだったのは実に不思議である。何か、影の部分で策動するのを得意としていたようである。
そんなところから、ふと、小佐野氏の前世に興味を覚えたのである。が、別段、ここで彼を追及しようなどとは毛頭考えていないことを、この際はっきりさせておく。
さて、前世であるが、これがなんと、かの斎藤道三であったのだ。いや、正確にいえば、前世というより、道三の直接の入れ替わりとみてよいかもしれない。
《斎藤道三》
生まれは一四九四(明応三年である。“まむしの道三〟という異名をとるほどの権謀術数家となるのは、山崎屋として美濃にあらわれ、油売りを始めてからである。
当時は、下剋上の時代で、実力ある者が、どんどん古い権威にすがる者を押しのけて上へ昇っていった。
当時、道三もそのうちの一人であり、守護の土岐政頼氏の下でめきめき頭角をあらわし、ついには、城を乗っ取ってしまう。
彼のやり口は、まむしの異名通り、かなりずる賢い。寵愛を受けた主家を、徐々に食いつぶして、あとは自分が城主として居坐ってしまうというもの。
武力によらず権謀術数で目的を遂行していくところが、いかにも道三らしい。
ところが、道三には弱点があった。というのは、稲葉山城を奪い、美濃を掌中に収めたものの、肝心の後継者に恵まれなかったのである。
自分の娘濃姫を織田信長の許へ嫁がせるなど、最後まで権謀の限りをつくしたが、皮肉なことに、道三は自分の子である(実際は、彼が山城から追い出した主家の血を引いた子であった)、義龍との戦いで死んでしまう。
その意味では、巨大な富を得たものの、まことに辛い晩年であった。没年は一五五六年、道三は六三歳であった。
小佐野氏はちょうど一八、九歳の頃、死ぬほどの悩みを背負ったようである。本来の小佐野氏の霊と斎藤道三の霊が入れ替わったのはこの時である。内面性がこの時に一変しているはずである。
「本人の霊がどこかへ消えて、代わって他人の霊が入ってしまうなどということが、実際にあり得るのだろうか」と疑問に思っておられる方も多いだろうが、これがあるのである。
時々、死ぬほどの苦労をすると「以前とまったく人が変わった」という状態になる人がいる。人が変わる、とはつまりその人の霊が他人のものと入れ替わったからである。
あるいは、高熱やショックで意識を失ったスキに、自分以外の霊が体を占有してしまうことさえあるのである。
悪い低級霊にとり憑かれた場合は、いわゆる“キツネ憑き”となり、ある使命をもった霊が憑くと、小佐野氏のように巨大なパワーを発揮することになるのである。
道三は油売りから身を起こしたが、小佐野氏も戦後、石油がまだ配給であった頃、闇ルートを通じて手に入れ、自分の会社を一挙に大きくしたとも伝えられている。
油に対する商覚の鋭さは、やはり“道三流”ともいうべきであろう。
黒龍神に守護されていた小佐野氏
以後、小佐野氏は田中角栄元首相(当時は一代議士にすぎなかったが)と知り合い、共に政界と財界で超大物と呼ばれるまで成長していく。
このあたりに、小佐野氏が〝政”と呼称される理由があるのだが、道三が名門といわれる岐阜の土岐家の知遇を得て、深く浸透していった様を、なにかしら彷彿とさせられるものがある。これも、どうやら道三流である。
道三は裸一貫から、一国の主となり、後世の人々からは、たいへんな策略家と畏怖されているが、死後、霊界でかなりの修業を積んでいる。
小佐野氏と道三とは母方の系統でつながりがあるようで、それゆえに小佐野氏の肉体を借りて、現代によみがえることもできたのである。
小佐野氏本来の霊は、もろい一面があり、頭脳の回転という点においても道三の比ではなかったが、いったん、霊が入れ替わってしまうと、急に頭脳が明晰となり、性格も粘り強くなったはずである。
そして、政界を味方につけ、どんどん財力を増やし続けていったのである。
ところで、小佐野氏には斎藤道三をも守っていた黒龍神が二体、憑いていた。その他に、白蛇が一体、稲荷ギツネが二体、金龍神も時々は姿を見せていたようだ。
この黒龍神は大国主之命と少名彦之命が使うパワー絶大の龍で、特に国が混乱している時などに現われて、強力なリーダーシップを発揮、巨大な財運や政治運等をもたらすのである。
小佐野氏が昭和のこの時代に、どのような使命をもって、斎藤道三の霊を呼び込んだのか。あるいは、いかなる業績を残したのかは後世の歴史家にその任を譲るとして、ここでは、純粋な意味で彼の霊的背景を解説しただけである。
ちなみに、つけ加えておけば、黒龍にしても金龍にしても、歴史を左右するような大物にしか憑かないことを指摘しておきたい。
また、斎藤道三自身の前世であるが、これは八世紀、中東地帯に君臨していた前ウマイヤ朝を打ち破ったアッバース一家で、軍隊を率いた大元帥である。
正確には、小佐野氏と斎藤道三は前世と生まれ変わり、という関係ではないが、御霊が交替してしまった、という霊的事情を考えれば、前世と現世以上に強いつながりをもっていると思ってよいのである。
小佐野氏が今、生きておられても「私は斎藤道三である」などとは決していわないだろうが、潜在意識以上に、強烈な道三流の発想をし、それと同時に行動し、かつ、霊的パワーを発していたことは間違いあるまい。小佐野氏のあの風貌、あの目つき、あのしたたかさ、あの歩き方・四〇〇年ほど前の道三そっくりのはずである。
日本経済界の長老・土光敏夫氏の前世は藤原道綱だった
土光敏夫氏(編集注=土光敏夫氏は、昭和六三年に逝去されました。)はいうまでもなく、日本経済界の重鎮の一人であり、熱心な法華経信徒として知られている。
土光氏にまつわる逸話は数多いが、それらをまとめると、だいたい次のようになるようである。
①生活が非常に質素である
②生活が規則正しい
③八〇歳をとうにすぎたのに、タフである
④常に一生懸命に生き、私財をすべて教育活動に注ぎ込んでいる
つまり、まるでどこかの修業憎みたいな生活を、日常的におくっているというわけである。
贅沢をいわず、多くの欲をもたず、そして、日々努力を積み重ねる神霊界ならずとも、ついつい「頑張れ!」「えらい!」と声をかけたくなるほどである。
正直、明治人の気骨といおうか、バイタリティーというべきか、ともかく他を圧する強烈な迫力を感じさせる人物ではある。
で、さぞやものすごい前世だったのではなかろうかと、鑑定してみた。その人の名は、藤原道綱。
歴史上の人物の中で、藤原姓は多いが、この道綱の名は特に藤原家にゆかりのある人でないと、ご存じないのではないだろうか。
《藤原道綱》
平安中期の官僚で、傅大納言。人名事典では、年ごとに位があがっていったことのみが記され、晩年病に倒れたのち出家するが、数日後死去した、とある。九五五年~一〇二〇年。六五歳の生涯であった――
権力機構の中枢にいながら、この簡単な人生の記述。何かしら、コツコツと一生懸命に仕事に打ち込んでいる道綱の姿が見えるようである。
その姿を、今の土光氏とオーバーラップさせても、さほど違和感はないはずである。
しかし、この道綱と、土光氏の霊的パワーの源である日蓮宗との関わりは、それだけでは説明不足である。道綱が生前、熱心な日蓮宗徒であったはずがない。
が、なるほどと思うのは、道綱は死ぬ数日前に出家をしている点である。つまり、死ぬ直前までは在家だったわけで、法華経に帰依しながらも、現実のビジネスに情熱を燃やす土光氏の姿を思わせる。
実は、その後フランスのキリスト教の大司祭となって生まれ変わり、それから、イギリスの貴族として生まれ変わってから日本の土光敏夫となっているのだが、還暦直前ぐらいからは、日本人としてこの国に生きていた頃の意識が、ほとんど前世に出てきているわけである。
巷間、土光氏は「生ける日蓮」ともいわれているが、これはある意味で正しい。というのは、事実、日に必ず一度は日蓮上人の霊が、土光氏を励ましに降りてこられているのである。
毎朝の日課となっている「南無妙法蓮華経」の読経の時に降りられることもあるし、経営や人生で判断を迫られた時に、そっと胸もとでいくべき道を示されるため、光氏のもとにこられることもある。
五四~五八歳の時苦難を乗り越え、パワーアップした土光氏
光氏は明治二九年生まれで、とうに八〇歳を越えておられる。だが、肉体的にも精神的にも同世代の人より若い。
普通の人は、二〇代、三〇代に肉体的、精神的なピークを迎えるもので、大天才といわれる人の多くも、だいたいこの時期までに業績を残している。
ところが、土光氏の場合、パワーが三〇代で衰えるという世人の嘆きなど、どこ吹く風の体で、未だに二〇歳代の仕事熱心ぶりを発揮している。
土光氏の有名な話のひとつに、石川島播磨重工業のサラリーマン時代、なんと「四〇年間無遅刻無欠勤」の記録を打ち立てているが、これを見ただけでも、彼がいかに強い意志と体力、そして強靭な粘りをもつ人物かがわかるだろう。
だが、これは天から与えられた健康といえると同時に、土光氏自らがつかみとった強運ともいえるのである。
毎日、土光氏は法華経を唱えたのち、一日をスタートさせる。一日二四時間のうちから見れば、お経を上げている時間など、たかがしれているだろうが、毎日欠かすことなく、しかも真心を込めて祈るところに、土光氏の偉大さがあるのである。真似しろ、といわれても、おいそれとできるものではない。
前に、三ヶ月は死にものぐるいで打ち込み、三年間は自分の生活を規則正しくすれば、出世運と金運をつかめる才能を開花させることができると書いたが、土光氏の場合、三カ月どころか、八〇歳をすぎた今まで、毎日実践してこられたのである。日本を動かす金運財運のカギをにぎって当然なぐらい、努力を積み重ねているのだ。
しかし、今まですべてにおいて順風満帆の人生であったかというと、そんなことはさらさらない。我々と同じように、やはり悩んだり苦しんだりしておられることは確かである(とはいっても、我々のそれとはスケールの違う悩みだろうが)。
特に、土光氏が五四歳〜五八歳にかけて、悩みというわけではないかもしれないが、苦難の時期があったのではないかと思われる。
その時、大きな内面的変化があり、何かを悟ったに違いない。というのは、ちょうどその頃から、土光氏の許へ日蓮上人の霊が、一日一回降りられるようになったのである。何度天眼で拝しても、それが伺えるのである。
少々、差出がましいことかもしれないが、日蓮上人が土光氏に語っておられる言葉を紹介したい。
すでに、土光氏自身は、悟っておられるものであるが、
「信念を不動のものとせよ。そして、死ぬまで頑張り通せ!できないことに向ってこそ法力がさずかるものぞ」
上人はこう語っておられる。日々、精進しておられる土光氏にして、なお、この内容である。
我々も、今以上に精進を積み、神人合一の道を歩みたいものだと思う次第である。
不可能を可能にする法華経の信念
脳細胞の数は、生まれた時にすでに決まっていて、精神活動活発化のカギは、その細胞同士をいかに密に連絡させるかにある。頭の回転のよい人の脳は、深いシワが多く、細胞全体が活き活きしているものである。
私は大脳生理学者ではないので、脳の詳しいメカニズムについてはわからないが、企業のトップに立っている人物で、頭の回転の鈍い人は一人もいない。高年齢にもかかわらず、体のほうもいたって健康。松下幸之助氏などは、一二〇歳まで生きると言明しておられるほどである。
土光氏もしかりで、八〇歳をすぎてもかくしゃくとしている。
なぜそうなのだろう。理由は、信仰の力とでもいうべきか、信念の強さである。特に、光氏の場合、いうまでもなく法華経パワーが信念の証しであり、同時に健康やすべての根源になっている。
また、発想自体も「大義に生きる」となっているので、神霊界としても全面的なバックアップ態勢に入らざるを得ないのである。
どうやら、神霊界の霊波動と精神の集中力が、脳細胞を中心に体全体の細胞を活性化させ、パワーを生み出しているようである。
成人の脳細胞というのは、一日に何万個も死滅しているらしいが、死滅する以上の細胞が活性化されれば、別段問題はないわけで、それが要するに信仰の力、信念と集中、及び探求心による神霊的波及効果ということになるのだろう。
つまり、本来、自然現象としては肉体も脳も老化していくはずなのに、信仰によってそれが若返る!!これこそ、不可能を可能にする奇跡というべきである。
ところで、これほど一生懸命に頑張っておられる土光氏について、不謹慎であるかもしれないが、氏の現在の霊層(この場合は、もし今、土光氏が霊界へ入られたら、どのランクにいかれるか、ということである)を、天眼視させていただいた。失礼とは思ったが、読者諸兄の励みになればと考え、発表させていただく。
「第二天国界。それも第一天国界の入口に近い第二天国界である。もう少しで第一天国である。信念だけでなく、愛の情が今少しあれば、すぐに突入できるのであるが……」これが土光敏夫氏の、現在(昭和六一年一〇月六日)の霊層である。
ところで、この本を改訂するに当たり、少し訂正させて頂くことにした。つまり、現在昭和六十三年九月十六日。既に土光敏夫氏は他界されているのである。だから、幽冥界の神様に伺って他界後の土光氏の様子をさぐってみた。
なんと、驚くなかれ。国会議事堂の前に座りこんで、「ばかもの。ばかもの。世の中の先が見えんのかあっ」と言いながら、一人一人の背中に立って、何やら耳うちしておられる。
これを今から三年は続けるそうである。あと五年で何かがかたまるらしいのである。
幽冥界の神様にお聴きしたら、二十五年で本当の霊界に帰られて、第二霊国のトップまでゆき、五十年の修業そこでして、神と永と美寂を学ばれてから、第一霊国に入られるらしい。
本人の臨終に際しての願いは、まず、「死後はどうにでもしやがれ」というものと、「死してなお、やり残した行革の仕事をさせたまえ」ということと、「国に益する人物を育成する働きがしたい」ということであったかららしい。霊国とは、社会のリーダーの行く霊界で、第一霊国とは、天才を育成し、偉人を育成し、聖を育成した人がゆく最高の陰局天国であり、智と勇と信と徳と功の秀でた天使がゆくところなのである。
このように書いても、読者は信じて下さらないかも知れない。
前世鑑定というものは、目の前で為したとき、正確にそれが正しく鑑定ができたら、その人の魂がジーンと応えてくれるものだ。得も言えぬ感動が本人にあり、涙がハラハラと出てくる人もいる。
こういう体験を実際にしたことがない限り、何を基準にして正しいか、荒唐無稽か、ペテンかということを判断すればよいのか。読者も迷うところであろう。
そういう時は、無理に信じようとせず、泉鏡花の小説を読むつもりで流し読みをすればよろしい。
