黄金輝く経営者になる秘伝!! 深見所長講演録21(Vol.2)

後継者問題の二つの切り口

本日の「後継者養成合宿セミナー」に参加されている皆さんの中で、すでに後継者が決まっているという方はどれだけいらっしゃるでしょうか。

先ほど何ったところでは、あまりいらっしゃらないようですので、今回の講義では、「後継者問題」について少し詳しくお話ししてみたいと思います。

さて、後継者問題という場合、一般的にそれは、二つに分類されます。

一つは、自分の後継者を誰にしたらいいのか、という後継者選定の問題です。いろいろ候補者はいるんだけれども、いったい誰を後継者にしたらいいのか、と心を悩ませることもあるでしょう。

逆に、後継者候補が全然いなくて、どうしたらいいのかと、途方に暮れてしまうことがあるかもしれません。

あるいはまた、自分の息子、ないしは、娘に跡を継がせたいんだけれども、果たして大丈夫なんだろうか、と不安を感じるケースもあるに違いありません。

本人にその気がないとか、その気にはなっているんだけれども、この子が跡を継ぐと会社が潰れるんじゃないか、非常に危険だ、と。そういう問題で悩んでいる経営者はたくさんいるはずですし、現にいます。

もう一つは、後継する息子なり娘の側の問題です。

いまはお父さんが会社を経営しているからいいけれど、やがて自分が跡を継いだとき、果たして一人前の経営者としてやっていけるのだろうか。

すでに後継者になることが決まっているものの、どういうふうにしたらうまくやっていけるのか、と。そういうことで、不安を感じている二世、三世はたくさんいます。

いずれにしても後継者問題というのは、「継がせるほうの立場」と「継ぐほうの立場」の二つに分類されるのではないかと思います。

財界二世学院なんていうのがいっとき話題になったことがありましたけれども、この二つについてお話ししてみたいと思います。

「売り家と唐様で書く三代目」

まずは、誰を後継者にするかという後継者の選定問題ですが、これには先ほど申し上げたように、何人かいる候補者の中から誰を選んだらいいのかというケースと、適任者がまったく見当たらないというケース、さらには息子、娘に継がせたいんだけれども不安だ、というケースがあります。

これらのケースについては、個別に考えなければなりませんが、後継者選びは大変に難しく、とても一概には言えません。「後継者の選定基準はこれだ」というモノサシはないと考えたほうがいいでしょう。

だからこそ、後継者選びに関して、世間ではいろいろなことが言われているわけですけれど、この場で同じことを言ったところで仕方がありません。

そこで今日は、人様はどうあれ、私自身が日ごろ考えていることを語ってみたいと思います。言うなれば、深見東州流の見解を皆さまにお話しいたします。

さて、後継者の問題に関しては、成功したパターンと失敗したパターンがあります。

そういう過去の事例をつぶさに調べ上げて、成功パターンと失敗パターンを比較検討してみれば、誰を後継者に選んだらいいのか、あるいは、後継者として、会社の舵取りをどのように取っていったらいいのかといった問題に対して、一つの方向性が見えてくるのではないかと思います。

ということで、まずは過去の事例を考えてみたいと思うのですが、失敗したパターンというのは、これはもう枚挙にいとまがないほどたくさんあります

。極端な話、ほとんど失敗していると言ってもいいくらいです。

たとえば、「売り家と唐様で書く三代目」という有名な川柳があります。初代の経営者、会社をゼロから立ち上げた創業者は、苦労に苦労を重ね、艱難辛苦を乗り越えた、いわゆる、刻苦勉励型の人がほとんどです。

ところが、次の二代目になると、少し甘やかされて育ったために、初代ほどの根性も経営能力もない。

それでも、初代が築き上げた財産、および初代とともに創業の苦労を味わってきた番頭さんや手代さんに支えられて、何とかやっていくことができます。

しかし、三代目になりますと、さすがにそういうわけにはいきません。三代目はだいたい、目いっぱい甘やかされたボンボン育ちと相場が決まっています。

中には放蕩三昧でちっとも働こうとしない、遊び人みたいな三代目もいます。しかも、三代目が継ぐころには、創業者とともに苦労してきた番頭さんをはじめとする優秀なスタッフも、すでに高齢化して引退しています。

そのため、どのように経営していっていいのかがよく分からず、結局、初代のおじいさん、そしてお父さんと受け継いできた家を売りに出す。

それで、「売り家と唐様で書く三代目」というわけです。

後継者を育成するためにはやはり、ちゃんと時間をかけて、手間隙、労力、そしてお金を惜しむことなく、十分すぎるほどのエネルギーを費やす必要があります。

そうやって努力した分、しっかりとした後継者が育ちます。

そのためには、なるべく早くから後継者育成を始めなければなりません。

六十歳とか七十歳とか、かなり高齢になってからでは遅すぎます。また、後継者の立場にある人が、ちゃんと会社が継げるんだろうか、どうなんだろうかと四十歳ぐらいになってから考えても遅すぎます。

後継者を選ぶ側も、後継者になる側も、なるべく早いうちから準備しなければなりません。早い段階から先々を見通したうえで、手間隙、時間、労力、エネルギー、お金を使ってちゃんと準備すると、準備しただけの成果が上がるのです。

徳川家康に見る後継者選定の極意

そういうふうに、先々を見通したうえで後継者を選定してうまくいった例、成功した例で、歴史上有名なのは徳川家康です。

家康公には、秀忠と秀康と信康という三人の息子がいました。ところが、信康は早世しましたから、候補者は、実質的に秀忠と秀康の二人。この二人のうちどちらを後継者に選ぶかというとき、家康は一応、重臣たちの意見を聞きました。

すると、「秀忠公がいいです」と言うのと、「秀康公がいいです」と言うのと、意見が二分しました。

家康公は初めから秀忠に譲ろうと決めていたわけですけれど、みんなの意見を聞いてから決断したというふうにするために、一応、聞いたわけです。

秀康は秀吉のところに養子として預けられておりまして、度胸と覇気に溢れた人でした。

だから、秀康のほうが後継者にふさわしいと言う人もいました。それに対して、秀忠は非常に温厚でおとなしい、まじめな人でした。その秀忠のほうがいいという意見もありました。

こういう場合、度胸と覇気があり、リーダーシップを備えている秀康のほうが、より適していると考えるのが一般的です。

にもかかわらず、家康はなぜ温厚な秀忠を選んだのか。ひと言で言えば、時代が違うし、時代背景が全然違うと考えたからです。

戦国の真っ只中ならば秀康のほうがよかったのでしょう。しかし、成立して間もない幕府の基盤を強固にするためには、秀忠のほうが適任者であると考えて、秀忠を選んだわけです。

家康公はやはり読みが深かったんです。

そうやって後継者を決めたあと、家康はどうしたかというと、早々と隠居しまして、将軍の地位を秀忠に譲ったのです。

しかも、ただ単に譲っただけでなく、将軍としてちゃんとやっているのかどうなのかを見届けて、ときどきアドバイスをしたり、忠告したりするわけです。

ギリギリまで将軍の地位についていたり、あるいは死んでから地位を譲るというのでは、後継者の行状を見届けられませんし、「お前、こうすべきだよ、ああすべきだよ」というふうにアドバイスもできません。正しく継承できないわけです。

いまは戦国時代じゃないんだ、平和な時代であり幕府のできた時代なんだ、だから、いかに徳川政権を安定的に維持していくかが大切なんだ、と考えたうえで、温厚な秀忠を選び、そして、将軍として一人前になるよう育てるため、自分自身、早いうちに引退したわけです。

それだけではありません。おもしろい話が残っていて、家康公は何度も秀忠に会って、財産を少しずつ少しずつ譲っていったらしいのです。すべての財産を一遍に譲り渡すのではなく、少しずつ少しずつ、何回にも分けて渡していったというのです。

ここが家康公の頭のいいところであり、読みの深いところであります。

やはり、戦国の世を戦い抜いてきたお父さんから見たら、息子は足りないところが多いし、甘いところも多い。だから、ついつい不満や愚痴が出る。

そのうえ、隠居して疎遠になっていると、親子の仲が悪いんじゃないかとか、家督をめぐる争いが起こるんじゃないか、といった疑念や不信感が生じてきたり、不満分子が出てきたりもするわけです。

そんなことも考えて、家康公は息子を隠居先まで呼ぶわけです。あるいは、こちらから息子のところに出かけていって、「わしの財産をまたお前に譲「う」と、少しずつ財産を渡していく。

それによって、お父さんと息子の仲はすごくいいんだ、ということをアピールするわけです。少しぐらいぶつぶつ愚痴っていても、定期的に呼んでは、「また、財産をお前に譲ろう」と。そうすると本人も喜ぶし、礼節も尽くす。それを見ている側近たちも、「ああ、お父さんと息子は仲がいいんだな」と思います。

そういうふうに、一遍に譲らないで、ぼちぼち譲っていけば、その都度、親子の仲がいいことをアピールできる。

そこまで計算して後継者を選び、選んだあとも、隠居の身でありながらちゃんと見届け、息子が一本立ちしてやれるようにしてから、家康公は死んでいったわけです。

ほかにも兄弟がいるわけですから、親子の仲とか兄弟の仲とか、家臣たちの仲がちゃんとまとまっていくように考えてやっています。

いかに家康公が、民衆の心や親子関係などを考えていたかがよく分かるエピソードです。後継者としてどんなタイプの人間がふさわしいかをちゃんと考えて、しかも早いうちに譲り、不仲にならないようにということで、少しずつ譲り渡していく。

そして、秀忠に渡すときには、「これをまた渡そう。お前のやっていることは分かるけれども、ここはもう少しこういうふうにしたほうがいいんじゃないのか」と、財産を譲り渡すときに忠告するわけです。そうすると息子もよく聞きます。

やはり、それだけの時間をかけ、手間隙、エネルギー、費用を使って、財産を少しずつ渡して、じっくりと後継者のためにやったものは、その分だけ成果が上がっているわけです。もし手を打たずに死んだらどうなるのか。きっと、秀康と秀忠とで揉めますよね。

徳川吉宗が始めた長男相続

それから、八代将軍吉宗公の後継者選びに関しては、こんな話が残っています。

吉宗公は、次の将軍職を長男の家重に譲っていますが、この家重という人は、幼少から虚弱なうえ、知恵が遅れ気味でした。

それに対して、弟の宗武のほうは優秀で、将来、英名な君主になるだろうと目されていて、側近たちの誰もが、「跡継ぎには宗武公のほうがいい」と口をそろえて言っていました。

ところが、吉宗はそうしなかった。「たしかに知恵が足りなくてふつうの生活ができないけれども、家督はやっぱり長男の家重に譲る。

足りないところは周囲の者が補完すればいい」と言って、長男の家重を後継者に指名したのです。

もし、能力のある者に家督を譲ると、諸藩もこれにならって、能力のある人間に継がせることになるだろう。

そうしたら、再び戦国動乱の時代が来るかもしれない。しかし、能力の優劣に関係なく家督は長男に譲る、というふうに決めておけば、家の中がうまくまとまるはずだし、戦国時代のような乱世になるのは避けられるに違いない。そう吉宗公は考えたわけです。

こうした家父長制度と言いますか、長男が家督を相続するという制度を将軍家が定めたものですから、一般庶民もそれを真似て、次第に家督は長男が継ぐものというふうになっていったわけです。

吉宗は優秀な次男ではなく、あえて知的障害者であった長男のほうに跡を継がせた。

そうしなければ、戦国の世がもう一度起きてくるんだ、というわけです。

これはすごい判断です。将軍家がそうしたわけですから、当然すべての藩も長男に跡を継がせる。

病気で死んでしまえばしようがないですけれど、諸大名だけでなく、一般庶民も家督は長男が継ぐようになり、それ以後、親兄弟が争うことなく、代々家督が引き継がれていったのです。

そういうふうに順序を決めていくと丸く収まります。能力の優劣で決めるとなったら、「俺が、俺が」となって収拾がつかなくなります。

娘婿に継がせた大阪商人の知恵

ところが、これだと商売の世界では困ります。

たとえば、大阪の船場では、長男が店を継いだら潰れると言われています。商売というのは、まさに食うか食われるかの競争ですから、能力がないのに長男だからという理由だけで家を継いだら、競争に負けて潰れてしまうわけです。

優秀な人間が継いだところは繁昌しますけれど、能力に欠けた人間が後継者になったら即、倒産です。

では、昔の商人はどういうふうに家督を相続したかというと、娘に跡を継がせたのです。

優秀な番頭さん、手代さん、従業員の中で一番優秀な者を娘婿にして跡を継がせるわけです。そうすると、娘婿が優秀だから、その家は繁昌します。

あるいはまた、息子が生まれても、すぐには籍に入れず、ある程度大きくなるまで様子を見ていて、この子は商才があるな、優秀だな、と分かってから長男として籍を入れる、と。

こういうのが、大阪の商人の生き残りの知恵だったわけです。能力の優劣によって繁昌したり潰れたりするわけですから、いろいろ考えたのでしょう。

後継者選びというのは、まさにそういうことなのであって、長男だからという理由だけで跡を継がせるというのはよくない。

優秀で、しかも何拍子も揃っていたら言うことはありませんが、ビジネスの世界ではどうなのかと考えたら、長男だからという理由で継がせると非常に問題です。

長男も次男も関係なく、優秀な者に継がせるという船場の商人、大阪の商人のような形でやらなければいけません。

芸事の場合は少しぐらい下手でも、あるいは少しぐらい能力に欠けていても、宗家は宗家、家元は家元ですから、長男が相続してもほとんどは問題ありません。

しかし、能力のない人間が社長になると、その会社は衰退していきますし、最悪の場合、会社が潰れてしまいます。

だから、長男、次男はいっさい関係なく、最も優秀な息子に継がせるとか、あるいは一番優秀な社員を娘婿に迎えて会社を継がせたほうがいい。そうすると、その代までは大丈夫です。

また、優秀な社員を娘婿に迎えるようにすると、つねに優秀な血が子孫に受け継がれます。

ただし、娘がへんてこりんな男に恋をして結婚したらパーになります。しかし、いまはこういう民主的な時代ですから、昔のようにはいかないでしょう。

それはそれとして、後継者選び一つをとってみても、こういう古人の叡智があるということは知っておくべきことではないかと思います。

そういうことで話は戻りますが、手間隙、時間、労力、費用をかけてじっくりと後継者のことを考えて、準備なり教育なりをしていけば、立派な後継者が育ちます。

それをしないで、直前になってあわてて考えたら、やはり後継者の問題で悩むことになる。少なくとも、後継者を決めてから死なないと、あとあと揉めますね。

もちろん、自分の子どもでなくてもいいんですけれども、後継者は早いうちから決めて、家康公のように地位を早めに譲って、その後の様子を見たほうがいい。

なるべく早く譲り渡して、リーダーシップを取らせて、後見人として育て上げていく時間を持たないと、うまくいきません。

家康公の場合は、平和な社会を築いていくときの跡継ぎでしたけれど、ビジネスの世界はまさに戦国の世ですから、秀康のような、度胸と覇気がある者が後継者になったほうが成功します。

創業ファミリーのパワーが生きているトヨタ自動車

後継者の問題を語るとき、大いに参考になるのはトヨタグループです。

トヨタと日産。この両社は昔からのライバルですけれど、トヨタはここ一番というときに立派な後継者が出てきます。

豊田章一郎氏、豊田英二氏。みな豊田家の方々です。最近では奥田碩さん。あるいは張富士夫さん。この人たちは豊田家ではありませんけれど、後継者として立派な業績を残しています。

それに対して、オーナーファミリーのいない日産は、なかなか優れた後継者が出てきません。それで、組織が硬直化して業績がじり貧状態でどうしようもなくなったとき、フランスのルノーからカルロス・ゴーンがやってきて、ゴーンと一発やったわけです(笑)。

それが日産リバイバル・プラン。現場の課長クラスの意見を取り入れて、約三カ月でリバイバル・プランをつくり上げたわけです。

その日産リバイバル・プランを発表する席上、カルロス・ゴーンは、「この一年で黒字にならなかったら、自分は責任を取って辞める」と明言しましたが、その結果はというと二千何百億の黒字。

六千何百億の赤字から二千何百億の黒字に変えて、トヨタに次いで収益率二位になりました。

縦割りの組織だったのを横割りにし、社長からのトップダウンを徹底して、現場の課長たちの声を吸い上げてやるというやり方で、見事にV字回復を遂げたわけです。

一方、トヨタのほうは、社外から経営者を招く必要なんかまったくありません。豊田章一郎、豊田英二というオーナーファミリーがしっかりと経営を監督しているからで、たとえば、奥田碩前社長の場合も、豊田章一郎さん、英二さんが抜擢したんですけれど、そのときにこういう話が残っています。

それまでは、若い間はホンダ車に乗って歳を取ったらトヨタ車に乗り換える、というパターンがとても多かった。トヨタのクラウンのロイヤルサルーンといった居住性のいい車に乗り換える人が多かったわけです。

ところが最近は、若いときにホンダの車に乗ったら、歳を取っても、そのままホンダに乗り続ける人が多くなってきた。

そればかりか、トヨタの若手社員の中にも、「トヨタには乗りたい車がない」と言う人が増えてきました。

この問題を解決するためには、「若い人たちに注目されるような車をつくるしかないだろう」ということで、新しい戦略をトップダウンで決めて、これまでの風潮を打ち破り、若いころからトヨタに乗っていただいて、歳を取ってもトヨタに乗っていただくようにしなければいけない、と。

そのためには、若い人たちにトヨタのファンをつくるしかないだろう、ということで、こだわりを持っている若手デザイナーを登用するなど、若者にウケる車づくりを推進したわけです。

それが結果的にヴィッツ(Vitz)のヒットに結びついて、いっとき落ち込んでいたシェアが、最近のデータでは四十二・三パーセントまで回復しました。創業以来の最高のシェアを誇り、トヨタ一人勝ちの時代と言われています。

その戦略を陣頭指揮したのが奥田碩前社長です。トヨタは本当に、ここ一番というときになったらすごい人材が出てきます。

奥田さんの跡を継いだのが張富士夫さんですけれど、この人の場合も豊田家の人が決めたそうです。

トヨタ自動車においては、オーナーファミリーの豊田家が天皇のような存在で、社長は首相のような形になっているわけです。

ところで、奥田碩前社長は社長就任以前、何をやっていたかというと、およそ八年間、シンガポールかどこかの支店長をしていたんです。

言わば、左遷されていたわけです。そういう人を社長にした理由を豊田章一郎さんはこう言っています。

「旧弊を打ち破って、改革を断行するのはアウトローでなければできない。だから、八年間左遷されていた奥田さんを社長に抜擢し、トヨタの改革を遂行したのだ」と。

その狙いどおり、奥田さんは見事に改革を成功させて、トヨタの危機を回避したのです。トヨタ自動車という会社は、要所要所のところで必ず優れた人が出てくるのです。

運を味方につける後継者の育て方

後継者問題に関しては「運」も無視できません。

だから、経営者には神仏を崇敬している人が多いのです。たとえば、西武グループは箱根権現と九頭龍神を崇敬していますが、神仏の守護ある家には、素晴らしい人材が出てきます。

もし、自分のところに優秀な人材がいなければ、神仏がどこからかちゃんと連れてきてくれます。

後継者の問題はやはり、神仏のご守護があるかないかに大きくかかっています。まさに運です。とくに昔の人は、そういう、目に見えない世界のことが分かっていました。

また、生まれながらにして運の強い、優れた魂の持ち主が生まれてきたならば、その人が家を守り立てていくのであって、生まれてから手を打ったのでは遅い、という考え方もあります。これは中国人の考え方ですけれど、次の次の次の後継者ということになると、結局、運です。

その運をどうしたらよくすることができるのか、ということで、昔の人はお墓に凝ったわけです。

つまり、後継者はお墓で決まると考えていたわけです。ものすごい理論でしょう(笑)。

「後継者はお墓で決まる」「神仏のご守護で決まる」と。

愚鈍そうに見えても、結果的に愚鈍だからよかったということもあります。愚鈍であっても神仏に守られて結果的にうまくいった、と。神仏のご守護がある家は往々にしてそういうことになるのです。

豊田家のお墓を私は見ていませんけれど、創業者のお墓を見ると、どんな後継者が出てくるかがだいたい分かります。

家康公のように早く引退して、じっくりと手間隙、時間、労力、お金をかけながら、財産を少しずつ渡しているだけではなくて、次の次の次の次ということを考えて、しっかりと吉相の墓をつくる。

あまりにお金をかけすぎたり、でっかいお墓にするのがいいとは限りませんけれど、昔の人は、子孫のために吉運のお墓をつくったわけです。しかも、その際とくに気を配ったのが、墓所なのです。

たとえば、徳川家康公のお墓は本来、久能山にあったんですけれども、それを天海和尚がいまの東照宮の場所に移したわけです。

日光東照宮は幕府のある江戸の真北に当たるから、あそこにしたわけです。「後継者や部下がよく育ち、一生懸命に働くようになる」というのが北の象意。要するに忠勤です。

ですから、江戸城から見て北の方角に当たる日光にお墓をつくり、かつまた龍の穴、「龍穴」です。地のエネルギーになる龍穴の所に、天海和尚が家康公のお墓を移したわけです。

そうやって吉運のお墓をつくると、だいたい七代目か八代目あたりに名君が出てくると言われています。実際、徳川八代目に吉宗公という名君が出ました。

家の名前を世に高めるために、手間隙、時間、労力、お金をかけてお墓に凝るというのは、気の遠くなるような話ですけれど、中国では、生まれてから開運のための努力をしたのでは遅い、と考えられていたわけです。

生まれながらに強運の人間を授かろうということでやるわけです。

その点で有名なのが藤原鎌足。つまり中臣鎌足ですけれども、彼も多武峰という所に墓をつくりまして、それがいまの談山神社になっているわけです。

奈良県の桜井にあります。これは落花飛鳥図といって、鳥がヒィーンと降りてきて、羽根をパッと開いたような格好の所にありまして、鎌足から数えて七代目、八代目が、良房、基経の時代。七代目、八代目で藤原氏の素晴らしい基盤を作り、道長の時代に繁栄の極致を迎えました。

そして、藤原氏はいまなお残っています。もちろん、徳川家もいまなお残っています。龍穴のところに、しかもちゃんとしたお墓をつくると、子々孫々まで残っていくのです。

ですから、立派な後継者が出てくる家は、ご先祖がちゃんとしたお墓に収まっているはずです。

土地相のいい、龍穴の所にきちんとしたお墓をつくると、子々孫々まで繁栄していきます。実は、これが後継者選びの一厘なのです。

手間隙、時間、労力、エネルギー、お金をかけて後継者を育てると言いましたけれど、本当はお墓に凝るというところまでいかなければいけません。

おじいさん、お父さん、そして自分と、代々そういうふうに考えてやりますと、立派な後継者が天から授かる。天人地のエネルギーを受けて、運のいい人が生まれてくる。

豊田家がそうです。日産の場合、オーナーファミリーがどうなったか分かりませんが、後継者に恵まれず、結局、外国から経営者を招いてゴーンとやらなければダメなくらい、経営的に追い込まれていったわけです。

これは、目に見えない世界のことなんですけれど、実際、古人がやってきたもので、手間隙、時間、労力、エネルギー、費用をかけて後継者を養成していくという、一つの努力の方向性だったのです。

しかし、墓さえよければいい、というわけではもちろんありません。それはそれで、古人の知恵であるわけですけれど、七代目、八代目という先の長い話です。

立派な子孫に恵まれるという長い話です。現実の後継者問題は、目前に迫っているわけですから、墓さえきちんとすれば何もしなくてもいい、ということではありません。

家康公の場合は、天海が「徳川家の繁栄」を願って、家康公亡き後、お墓を移したわけです。

家康公自身は、さっき言いましたように、秀忠を手間隙、時間、労力、費用をかけて、ちゃんと育てているわけです。

そのような人間としての努力もちゃんとしたうえで墓所を考える、と。これでなければいけません。それが一つ申し上げなければならないことです。

つねに創業の原点に立ち戻れ

話が少し横道にそれましたけれども、後継者として会社を立派に発展させた人には度胸と覇気があります。

しかし、度胸と覇気があれば十分かというと、そうではありません。では、何が必要なのか。それに関して、松下幸之助が後継者に言い残した言葉があります。

松下幸之助はどういう人を後継者に選んだかといいますと、娘婿です。実のところ、娘しかいなかったから、そうしたんですけれど、娘に優秀な婿を迎えたわけです。

それが松下正治さん。さっき言った大阪の商人の伝統そのままに、娘婿を後継者に指名したのです。その娘婿の松下正治さんは、本当に優秀な方でした。

松下電器はその後、二十数人の取締役のうち、一番末席の平取締役をバーンと社長にして、大きな話題になりました。

その人が山下俊彦という人で、「山下の二十何人抜き」とか「二十何段飛び」とか、マスコミで大きな評判になりました。

松下電器産業の後継者は、お正月に必ず、神社に行って参拝しなければいけないし、年に一回の例大祭には必ず参列しなければいけないというふうに決まっていますが、松下家、あるいは松下電器産業が、ここぞというとき素晴らしい人材に恵まれるのは、きっとそのおかげなのでしょう。

それで、後継者はどういうふうであるべきものなのかということに関して、松下幸之助は概略、次のように言っています。

「後継者にも自分なりの考えや経営方針というのがあるだろうけれど、会社には創業者と苦楽をともにしてきた番頭さんや手代さんといった、いろいろと実力のあるお歴々がたくさん残っている。

そういう人たちの考えをないがしろにして、ああだこうだと自分の考えばかりを言っていたら、みんなの心がバラバラになってしまう。

だから、自分なりの意見は持ってもいいけれど、その意見を口にする前に、必ず、「先代の創業者はああだったこうだった」と言わなければいけない」と。

たとえば、「先代の松下幸之助社長の言い残した家訓にこういうことがありましたけれど、私はそれに賛成です。

先代の言い残した言葉にこういうのがありますけど、その言ったポリシーから考えれば、いまの時代はこういうふうにしなければならないんじゃないかと私は思うんです」と言ったら、「それはそうですね」と納得するはずだ、と。

先代と苦楽をともにしてきた人たちがまだたくさん残っていて、しかも、組織の中枢にいるわけだから、若い後継者が自分の考えをああだこうだと言うと反発を食らうだけで、うまくいかないですよ、と言っているわけです。

後継者の心構えとしては、会社を創業した人、あるいは成功に導いた人、こういうような人たちのことを恩に着、原点に返り、言葉の端々に何度も出して、先代の基本的な考え方を継承し、いまの時代に合うように、こうすべきじゃないか、というふうに持っていくと、うまく収まっていくよ、と。

自分一人の力で会社が大きくなったわけではなく、先代および先代と苦楽をともにしてきた人たちの努力と献身によって、会社が成り立っているわけだから、その人たちを差し置いて、その人たちの前で、自分はああだからこうだからと言うと、みんなお腹の中で背いてうまくいきませんよ、ということを言っているわけです。

そうではなく、言葉の端々に先代の言葉、先代の生き方、先代の哲学、先代のものの考え方を匂わせて、それに自分の気持ちを乗せていくと、「ああ、そうだね」ということで、先代と苦楽をともにしてきた番頭さんたちも納得してついてきてくれる。

そして、「ああ、いい継承者を、わが社も得ることができてよかったね」と、みんなが満足して、社業はますます発展していくだろう。だから、そういう細やかな気遣いをすることが大事だよ、ということを松下幸之助は言っているわけです。

創業者は死んでも、先代の部下たちは残っているのです。三代目くらいになってくると、その方たちもだいぶいなくなりますけれども、松下幸之助の言っ二代目社長の心構えを忘れてはいけません。

創業者のお父さんから二代目として会社を継承したときには、番頭さんがまだ残っているわけですから、この人たちとうまくやっていかなければいけない。

その心構えと細やかな気配りを忘れないようにさえすればうまくいくのではないか、少なくとも、その人たちが支えてくれるだろう、バックアップしてくれるだろう、というわけです。

実は、家康公もそうでした。徳川幕府をつくったのは家康一人の力ではない。家康のために命を捨て、一生をともにし、貢献し、苦楽をともにしてきた重臣たちや忠臣たちがいたからこそ、徳川政権の基が築けたわけで、その人たちを無視して、「俺は!俺は!」と度胸と覇気だけでやっていくと、この人たちの気持ちが収まらなくなってしまう。

家康公も、伝統をどうしたら守れるのか、ということを考えたわけです。生きるか死ぬかの戦国時代を生き抜き、ようやく幕府ができたというのに、二代目が初代たちの苦労を顧みなくなったら、徳川家に対する忠誠心も伝統を守ろうという気持ちも薄れてしまいます。

徳川の忠臣たちは家康公とものの考え方を共有し、共に苦労してきたわけですから、それに報いていかなければいけないし、苦労してきた人たちの存在を認め、生かすようにしなければダメなのです。

そのためには、家康公の原点に返り、家康公のものの考え方を基本に置くようにする必要があるわけで、「神君家康公」などとお祀りをして、家康公のものの考え方、哲学、生き方につねに立ち戻って、ああしようこうしよう、というふうにやっていけば、重臣たちも、「認められた、生かされた」という気持ちになるはずです。

秀忠公もそうやって、重臣たちと一丸となってやっていったわけで、だから、うまくいったのです。

これが二代目の心構えなのです。そうしなければ結局、創業者に仕えた重臣たちが謀叛を起こし、バラバラになる恐れがあります。

家康公が秀忠公を選んだのも、そういうことまで考えてのことだったわけです。おそらく、財産を少しずつ譲り渡すときに、そういうものの考え方を教え込んだのでしょう。

重臣たちがいて初めて、チームワークができるんだよ、と。もちろん、チームワークという言葉ではないでしょうけれども、和が保てるんだ、支えてくれるんだ、そういうことで、二代目は重臣たちが納得できるように気を働かせていたらいいんです。三代目もつねにそれを考えて、絶えず原点に返る。初代、二代目はこうだったんだ、だから、こういうふうにやるんだ、と。

京都の老舗の中には、何十代も続いているお店があります。

たとえば、「えびすめ昆布」なんかは、三十五代か三十六代くらいでしょうか。南北朝時代の創業です。「後醍醐天皇様にスルメを献上したのが当家の初「代でして」と言うんです。

創業は実に六百何十年前。初代が後醍醐天皇様にえびすめ昆布を献上して、それから続いているのがえびすめ昆布です。いまなお残っています。

三十五代目か三十六代目。後継者はつねに初代の原点に返って、

「わが家はこうやって商売を始めたんだ」と、創業の原点に返っていくことによって、継承がうまくいくわけです。

ですから、事業を継承する人間は、そこを押さえて大事にしていけばうまくいきます。優秀なスタッフが揃っているわけですから。

もし揃っていなければ、江戸幕府もできなかったし、松下幸之助さんもあれだけの松下電器をつくれなかったはずです。二代目は、それを考えていったらうまくいくよ、と。

非常に含蓄のある言葉です。家康公にしろ、松下幸之助さんにしろ、やはり皆さん共通しています。