浅草観音の教える経営が成功する秘密!~平成11年8月22日 東京・浅草ビューホテル~
観世音菩薩とその救い
神法というのは要するに、お茶はどうやったらおいしく点てられるのか、絵はどうやったら上手に描けるのか、どうしたら従業員に生き甲斐を持って、喜んで働いてもらえるのか、それから、どうやったら速く走れるのか、どうした人よりも多く酸素を吸うことができるのか、という、諺にもあるような、そうしたちょっとしたコツなんです。
すなわち、現実界に基づくところの法則で、心をどういうふうに持っていったらいいのか、というのが神法です。
では、観法というのはどういうものなのか。観法という場合、普通は観相法のことですが、その「観」には二つの意味があります。
第一は、「見る」ということで、これを英訳すると、lookあるいはseeということになるでしょう。
それに対して、「観」というのは、英語で言えばobserveでしょう。ですから、「見」と「観」とは、「lookとsee」と「observe」の違いかもしれませんが、observeの奥には、もう少し深い智恵と悟りと、広い見地でものを見て、瞬間にパッと判断できるという意味が含まれています。
これが「観」です。
それで観世音菩薩様は、般若心経に「観自在菩薩行深般若波羅蜜多・・・・・・」とありますように、その観自在というのは、「あっ、ちっちゃい子どもが困っているな」と思うと、一瞬のうちにパッと子どもの姿になって、その子を導く、と。
あるいは、戦で戦っている将軍がいると、子どもに対してものを言うようなわけにはいかないから、パッと将軍の姿になったり、将軍の部下になったりして、その人に戦い方を教える。
あるいは、どうしたらビジネスがうまくいくだろうかなと考えている商人がいたら、パッと商人の姿になって、「商売はこうやったらいいんだよ」「あなたの困っていることはこうしたら解決するんだよ」と言って導く、と。
人にはそれぞれの立場と役割と位がありますから、その立場や役割や位に合わせて、自在に姿を変えて導く。これが観音様の自在性です。
では、観音様はどれだけの姿に化身するのかというと、三十三相だ、と。三十三の姿に変わると言われているのですが、厳密な意味での三十三ではなく、「たくさん」という意味です。三十三種類以上は化身できないということではありません。
いくらでも化身できます。たくさんの姿に変わるんだと考えていいわけです。
では、どういうときに観世音菩薩様は「観」なのかというと、世の中の音を観(observe)している。
音を観ている。何の音なのかというと、「観音様、助けてー」という声です。
それがすなわち「南無観世音菩薩」なのです。「南無」というのは、「帰依いたします」という意味です。ですから、「南無観世音菩薩」というのは、「観世音菩薩様に帰依いたします」という意味です。
よく「ナームカンゼオンボサー」と言う人がいますが、これは「菩薩」を省略した言い方で、「菩薩」というのは「ササ」と読む。草かんむりを二つ続けると「ササ」になります。ですから、「ナームカンゼオンボサー」と言うわけです。
いずれにしても、「南無観世音菩薩」と言ったら、「観世音菩薩様に帰依いたします」ということです。
觀世音
南無佛
与佛有因
与佛有縁
佛法僧縁
常楽我浄
朝念觀世音
暮念觀世音
念念従心起
念念不離心
これは「延命十句観音経」ですが、要するに、「観音様のことをずっと思っています」ということを言っているわけです。
この延命十句観音経をもっと長くしたのが「観音経」です。
観音経には、観音様が天大将軍の身をもって衆生を度脱せんとするときには、天大将軍の身をもって衆生済度する、と。
あるいは、商人の身をもって衆生を度脱せんときには、商人の身をもって衆生済度する、と。あるいは、
天、龍、夜叉、乾闥婆、阿修羅、迦楼羅、緊那羅、摩睺羅伽、人非人等の身をもって度脱せんときには、天、龍、夜叉、乾闥婆、阿修羅、迦楼羅、緊那羅、摩睺羅伽、人非人等の身をもってこれを済度したまう、と。
つまり、「観音様の慈悲がいかにすごいか」ということを、素晴らしい表現力で書いてあるのが「観音経」です。
だから、観音経を読んでいる人は、「観音様ってすごく慈悲深くて、どのようなお姿にも化身して衆生をお救いになるから、本当にすごいなあ」と思うんです。
あっ、御神酒の匂いがしてきましたね。
ですから簡単に言うと、「観音様」、「南無観世音菩薩様」なんですけれども、ちょっと長くすると「延命十句観音経」で、もっと長くすると「観音経」です。
それで、何のために観音経をあげるかというと、観音経をあげることが尊いのではありません。
観音経には、観音様がいかに慈悲深く、いかに観自在で、いかにあらゆる人をお救いになる仏様なのかということが、素晴らしい表現力で書いてありますから、観音経を読むと、誰もが、「観音様って素晴らしい!」と思うわけです。
その「なんて観音様は素晴らしいんだ!」という音は、実際の音声だけでなく、内なる「観音様!」という音にも、観音様は感応してお聞きになって下さるのです。
ですから、口がきけない人でも観音様はちゃんと守って下さるわけです。
あるいは、脳梗塞か何かで言葉がちょっと不自由になったり、失語症になったりした人でも大丈夫です。
言葉が不自由で、「なー」は言えるんだけれども「む」が言えなくて、「なー、ほさ」となっても、観音様は聞き届けて下さるわけです。
フルネームで、「なーむかんじざいぼさつ」と言わないと観音様は動きませんよ、というのではないんです。
「なー、ぽさ」でも、内なる声が「観音様!」と言っていれば、観音様はちゃんと応えて下さいます。
物理的な音声だけでなくて、内なる音にもパッとお応えになる。直感的に observeして、救いの手を差し伸べて下さる。
observeという言葉には、観察するという意味が含まれています。直感的にパッと見て、一瞬のうちに何をしていいのかということを判断なさるわけです。
じっと見ているのはlookで、観はもっと瞬間的な判断力、閃き、何をしていいのかという深い悟りを意味します。
ということは、観音様は内的に深い覚醒を持っておられるということで、だから、その音を聞いて、瞬間的にパッと化身されるのです。
「あっ、子どもが困っている。だから、子どもに化身しなければいけないけど、ちょっと待てよ。子どもになるにはどうしたらいいんだったっけ。
あっ、思い出した。ようし、変身するぞ」と言いながら、あのセーラームーンみたいに、「月に代わってお仕置きよ」(笑)なんてやっていたら、変身するのに二分も三分もかかるでしょう(笑)。
セーラームーンとか、アニメに出てくるのは、変身するのに時間がかかります。
そうではないんです。もう一瞬です。零コンマ何秒のうちにパッと化身される。
頭で考えるのではなくて、自動的に、瞬間のうちに化身されるわけです。
観音の位に立つには
そういうことで、観音様の「観」とは、いま申し上げたような意味ですが、実は「観相法」は、自分自身も禅定を通して、その「観」の境地に立たなければいけません。それを「摩訶止観」と言います。
これに対して、真言宗では「阿字観」です。座布団の上に座っているような「ア」という梵字をじーっと瞑想しているわけです。アという字の中にすべての梵語が入っているということで、アの字をじーっと見る。
それが「阿字観」です。
一方天台宗では、「摩訶止観」です。観に止まっている状態、これを止観と言います。
それは、顕在的な、物理的な眼ではなく、内的な覚醒でもって自分 の潜在意識を開いていくことで、瞬間のうちに、静から動へパッと変わって三十三相の働きをする、と。
人間もあの世に行って、そういう修業をすると観世音菩薩様の位に立つことができます。いまどうしたらいいかということが一瞬のうちに判断できて、どのようにでも柔軟に化身して人を救うことができるようになります。
変身願望があって何かに変身したいからというのではありません。「龍にもなりたいな、天狗にもなりたいな。
天、龍、夜叉、乾闥婆、阿修羅、迦楼羅、緊那羅、摩睺羅伽、人非人等にも変身してみたいな」という理由で変身するわけではない。
変身したいからするんではないのです。そういうのは変人と言う(笑)。ちょと発音が違いますけれど、何のために変身するのかというと、「慈悲のため、「人を救うため」に変身するわけです。
今日は「ビジネス観法悟得会」でありながら、抹香臭い話ばかりで申しわけないんですけれど、慈悲のために、衆生済度せんがために、変身する。
度脱の度という字は度胸の度、済度の度。
救うという意味です。脱はいまの苦しみから脱却して救う。いまの苦しみから脱却するという意味です。
これを抜苦救済とも言います。駐車場が満車で、前の車が出られなくて困っているから、その車を救うために自分の車をバックする……そういう意味のバックではなくて(笑)、苦を抜いて救済するということです。
ですから観音様は、慈悲のために瞬間に化身されるわけです。「こうするのが慈悲だから、この姿に化身して……」というのは観とは言えません。
一瞬のうちに直感的にものごとを悟る。これを「直覚力」と言います。性能のいいパワーステアリングの車なんかは、パッと九十度に曲がれますけれど、ああいうのは直覚力とは言いません。
あれは直角で、漢字が違います(笑)。
死んであの世へ行って、直覚力が研ぎ澄まされて、慈悲のためにどのようにでもパッと化身し、どのような人でも救えるようになったら、観音の位をもらえるし、あの世からこの世へと行ったり来たりができるようになります。
そういうふうになってくると、観音様のファミリーになって、観音様と一緒に衆生を救うこともできるようになります。
あの世の事情を言えばそういうことになりますが、経営者はあくまでもこの世に生きていますから、この世の人を一瞬のうちにパッと救えるようにならなければなりません。
「あいつはああいう性格だから、こういうふうにしてやったらいいかな。うーん、それともこういうふうにやったほうがいいかな」
などといろいろ考えても、一瞬のうちに営業をし、一瞬のうちに経理をし、一瞬のうちに部下を育成し、一瞬のうちに企画をし、一瞬のうちにどんなものでもパッとできなければ、それは観音とは言えません。
しかし、会社がだんだんと忙しくなってきて、いろいろなことをすべて同時にこなさなければならなくなってきたら、どうしても観音にならざるを得なくなります。
では、そういうふうなことが、どうすれば現実界でできるようになるのか。現実界でそれができていましたら、あの世に行ってもすぐ観音になれます。
観法悟得会とは
だから、菱研では「観法悟得会」を開いて、どうしたら観音様のようになれるのかを勉強するわけです。
しかし、「観法悟得会」と「神法悟得会」の違いはそんなに難しいことではありません。
「男性社員の扱いは得意なんだけど、女性社員の扱いは苦手で困っている」とか
「あの取引先は好きだけど、この取引先はどうも苦手で困っている」とか
「経理は得意なんだけど、営業はどうも不得手で困っている」とか
「この方面の力があったら、もっとビジネスチャンスが広がるのになあ、観音様のようになりたいなあ」というような質問に対して、私が皆さんになり代わって、
「経営やビジネスにおいて、観音様のようになりたいと思うんですけど、どうしたらいいんでしょうか」と、観音様に尋ねるわけです。すると観音様が、
「これこれ、こういうふうにすることじゃ」と、答えを言って下さる。それだけのことなんです。それを言うために、これだけの説明をしてきたわけです。
私はできるんです。
そういう修業をずっとさせられていますから、究極的にはそっちに行くんですけれども、とりあえずのところ、現実界のこのような質問や悩みについて、
「どのようにしたら観音様のようになれるんでしょうか。どうぞ、観音様が教える法を悟らせて下さい」というのが「観法悟得会」なのです。
要するに、現実界で起きるさまざまな問題について、
「観音様、どうしたらいいんでしょうか」とお尋ねし、
「それはこうじゃ」という観音様の答えに関して、私がいろいろな解説をするというわけです。
私が日ごろ考えて悟ったことを講義するのも、もちろん有意義なことですけれども、そういうことはどこでもやっていて、いろいろなアドバイスを行うコンサルタント会社はいっぱいあります。
アドバイスを素直に受け入れて実行したものの、うまくいかなくて訴訟騒ぎになっているコンサルタント会社もあるようですし、また、アドバイスどおりにやってうまくいかなくなると、「まあ、勉強は勉強、実践は実践。業種・業態によってそれぞれ違うニーズがあるんですから、実践はおのおのが自分で考えて下さい。
私どもはあくまでもヒントを与えるだけです」と言うコンサルタント会社もあるそうです。
菱研は、そういうものの考え方というのではなく、また、日ごろ考えていることを言うのでもありません。
日ごろは何も考えてない、と。もちろん、考えてはいますけれど、ある一つのテーマがあるとしたら、「さあ、今日はゲストとして観音様をお迎えしております。さっそく観音様に語っていただきましょう。では観音様、どうぞ」
「えー、観音でございます(笑)。このテーマに関して、私はこう思うわけです」というのを私が通訳するというような、そんなセミナーがあってもいいんじゃないか、と。それが観法悟得会なんです(笑)。
私の意見と観音様の意見とは若干違うんですけど、観音様の言っておられることをまず解説してから、私の意見を言わせていただきます。
そうすると、観音様は、「わしの言うことに対して、君はイチャモンをつけるのか」と、おっしゃるんですけれど(笑)、イチャモンをつける気は毛頭ございません。
「梅にうぐいす、ホー、ホケキョ」
実は、私が四十三歳のときに、浅草観音様がへそに入ってきました。皆さん、驚くでしょ。こんな荒唐無稽なことをよく言うと思うでしょ(笑)。
自分でもこんな荒唐無稽なことをよく言うなと思うんですけれど……。
まあ、信じる信じないは別として、四十三歳のときに浅草観音様がへそに入ってきたんです。
磐梯から大仁に向かうときでしたが、車に乗っているときに、浅草観音様が私のへそに入ってきたんです。
私の誕生日である三月十八日です。私は、観音様ご開帳日の生まれなのです。
それで、ちょうどそのころ、植松先生が大仁で梅の枝にうぐいすが止まって、ホーホケキョと鳴くのをお聞きになった。
「梅にね、うぐいすが来て、ホー、ホケキョと、朝から何回も鳴いているの」とおっしゃっていたわけです。
私が磐梯から大仁へ行こうと思って、浅草を通りかかったときに、車の中で横になっていましたら、おなかの上に観音様が立っているんです。
「な、何だ「あ?」とびっくりしましたけれど、それが、素晴らしくきれいな、美しい観音様ではないのです。浅草で売っている観音経の裏に、何かハンコでベトーンと押した観音像があるでしょう(笑)。
あんな顔です(笑)。
顔が何かパサパサした感じで、全然高貴さがない(笑)。
しかし、おなかにドーンと来る感じで、現世に近い。日ごろ、人々を救済するのに疲れたというか(笑)、おじいさん、おばあさんの願いを聞くためにエネルギーを吸い取られたというか、とにかく疲れ果てた観音様といった感じでした。
その観音様が腹の上にドーンと立っていたので、私は観音様に言いました。「あなた、重たいですよ」(笑)と。
それにしても、「これが観音様かな、こんな観音様っているのかな」と。あんまり清々しくないし、天上界の観音様ではないから、
「ひょっとして、あなた様は浅草の観音様ですか」
とお聞きしたら、
「そうじゃ!」と言って、パッとおなかに入ってきたんです。そんなふうにおなかに入ってこられても(笑)、と思っていたら、「お前のすることは四十三歳から観自在だ。思うがままに何でも好きなようにしてよろしい。間違っていたら自然に調節してあげよう。生きながらにして観音の位をあげましょう」
それが四十三歳のときです。
いろいろあったときです。どんなに揉めようと来るなら来い、と。
自分は神仏のために生きて、衆生のためによかれと思って生きているわけだから、人様に何と思われようといいんだ、別に人々によく思われようとも思わないし、格好よく生きたいとも思わないし、どのように思われてもいいんだ、憎まれ役でも何でもなりましょう、と腹を決めたころです。
磐梯でそう思ったんです。そう思ったから観音様が来たんです。
観音様がへそに入ったら、おなかがポカポカポカポカしてきて、そのことを大仁へ行って話をしたら、植松先生が、「こちらで梅が鳴いていたわ」と。
あっ、梅じゃない(笑)。梅が鳴いたら大変なことです(笑)。
梅は飛んできたりします、飛び梅。鳴き梅だったら夜うるさくてしょうがない、梅林園が。
「何か、林で鳴いていますよ」
「ああ、今晩もまた梅が鳴いていますね」(笑)
と。
「何で鳴いているんですか」
「いやあ、あれは… うめき声です」(笑)と大変なことです。
とにかくそういうことで、「ホーホケキョ」というのは法が説けた、ということです。
「梅にうぐいす、ホーホケキョ」。天神様が梅を好まれたように、梅というのは天上界の教えのことです。天界の教えが梅です。
「三千世界、一度に開く梅の花」というのが大本の「筆先」にもありますが、「三千世界、一度に開く梅の花」の「梅の花」とは何かというと、神様の教えという意味です。
だから、天神様は梅を愛しておられたわけで、この「梅にうぐいす、ホーホケキョ」というのは、「梅にうぐいす、法、法華経」なのです。
法華経の「法」のことを言っているのです。法華経という法を、「ホー、ホケキョ」と、うぐいすが梅に来て鳴いている。
あくまでも替えですが、「梅にうぐいす、ホー、ホケキョ」というのは、法が説けたということであり、天の神の教えに向かって「ホーホケキョ」と鳴いているわけです。
だから、「ホーホケキョ」とうぐいすが鳴いているということは、法華経の法が説けたら神になりますよ、という天上界の教えです。
ただ、法華経の中だけではいけないわけで、その方向性を言っているわけです、仏教はあくまでも。
それで、法華経は何を説いているのか。法華経の普門品二十五番が観音経です。品のことをボンと読むんです。法華経の普門品二十五番が観音経です。
私は磐梯で自らの原点に立ち返り、大仁に向かう車の中で横になっているとき、おなかにひょんと観音様が立たれて、そのままおなかに入ってポカポカしてきました。
同じそのころ、大仁の梅のあたりにうぐいすが来た。うぐいすが来て、ずっと「ホーホケキョ」ときれいな声で鳴いていた、と。
事なかれ主義を捨てよ
いまお話ししたのは、私の体験です。
観音様がおっしゃっていることはあとで紹介しますが
「男性社員の扱いは得意だけれど、女性社員の扱いは苦手だ」とか
「この取引先は好きだけど、この取引先は嫌いだ」とか
「経理は得意なんだけど、営業はあまり向いていない」とか
「自分にこの方面の力があったら、もっとビジネスチャンスが広がるんですが」とか
皆さん言うんですが七月十日に浅草観音様にお参りすると、四万六千日お参りしたのと同じ功徳がいただけるので、その日を「四万六千日」と言うんですが、経営者の場合は、それにちなんで、「事なかれ主義では済まん六千日」なんです。
この私が四十三歳のときに、「ホーホケキョ」で法が説けて、観音様がポーンと来た。
法難というか、観音様の慈悲のお陰で、いろいろと私は悟りました。
「人に何と思われてもいいんだ。人によく思われようとか、いい子でいようとか、八方美人とかでなくていい。憎まれ役を買おう。誰も分かってくれなくていいんだ。誰も心中分からず、立場分からずとてもよし。世間の目を気にしない」と。
人によく思われようとしない。いい子でいようとも思わない。八方美人でなく、憎まれ役でも買おう、誰も私の心中や立場が分かってくれなくても結構だ。
世間の目を気にしない。その代わり、みんなのためにいいと思うことをやろう。ということで、盲人福祉に取り組んだり、カンボジアに二十四時間救急無料病院を建てたりしたわけです。
分かってくれる人は分かってくれるし、分からなければ分からないで結構だ、と。分かってくれる人だけ来たらいいんだ、と。
「あっ、それなら先生、私は周りの人からずっと、「あんたなんか嫌いだ」と嫌われているし、「お前みたいなやつはあっちへ行け」と言われているし、みんなから「頑固者だ」と言われているし、いつもみんなから憎まれています。
誰も分かってくれません。
「あんな変人の行動なんか分かるか」と、世間からいつも言われています。
「あいつは変わっているから」と言って、誰も相手にしてくれません」
と言う人がいるかもしれません。しかし、それでは観音の位に立てるわけがありません。
そういう人に対しては、「もうちょっと、人に感じよく思われるように努力しなければいけませんよ。
もっといい子にならなきゃいけませんよ。人によく思われるよう、いろいろ努力をしなければいけませんし、人に憎まれないように、もっと言葉を選ばなければいけません。
自分がなぜそう思うのかということを、言葉を尽くして丁寧に説明しなければ、周りの人は分かってくれませんよ。
それから、世間の目というものもあるわけですから、どういうふうに世間の人は考えているのかを踏まえて、良識と常識をわきまえながら言葉を使い、行動することですよ」と言わなければいけません。
オーナー社長とサラリーマン社長の違い
ヒットラーの有名な言葉があります。
「国民の半分に喜んでもらおうと思ったらどうしたらいいのか。国民の半分の意見を聞いて、半分の意見を無視することだ」と。
要するに、何かを決断するときには、何かを捨てなければならない、ということをヒットラーは言ったわけです。
「最大多数の最大幸福」というのが民主主義の原則で、一応、多数決で数が多いほうを採用する。
ところが、そうすると少数意見は無視されるわけで、国家権力と少数の意見の対立、国家権力と個人の軋轢が起きてくるのですが、その中でどうやって個人の自由とか権利を保障するのか。それが人権問題の原則です。
ということは、多数決の原理でいくと、必ず少人数の意見を無視せざるを得ないわけです。
だから、その無視された、採用されなかった少人数の意見をどのように取り入れて、ある程度満足し、納得してもらえるようにもっていくのか。民主主義でやっていく限りは、これを考えなければいけません。
あらゆる方法を尽くして人権を守っていかなければ、民主主義は成り立たないわけです。
ところが、経営者の場合、単にみんなの意見を聞いてやるだけではなく、最終的に売上が上がり、粗利が取れて、利益が上がり、ライバルに打ち勝って、会社を成功させなければならないわけです。
ですから経営というのは、必ずしも民主主義の原理に基づいて、民主的にやればいいというものではありません。
最大多数の最大幸福の原則に基づいてやっていくと、みんながいいときにはいいけれども、みんながダメなときにはダメになる可能性もある。
そうではなく、みんながダメなときでも自分の会社だけは絶対にいい、みんながいいときにはもっといい、と。これが成功する経営者です。
ですから経営者は、ここ一番の勝負どきには、誰が何と言おうと、「こうするんだ!」と決断しなければいけないわけです。
魅力あふれるオーナー創業者
しかし、これができていない経営者が多いものですから、いまの上場会社はどこもかしこも大変なんです。
興銀と第一勧銀と富士銀行が合併して、資産百四十一兆円のメガバンクになりました。
国内で一番大きな資産の東京三菱銀行の倍以上の資産、世界一の資産。いままでドイツ銀行が一番でした。九十六兆円ぐらいですか。
それをはるかに凌ぐんですから、資産価値ではバッチリです。
しかし、そのメガバンクの経営陣はどういう人たちなのか。
それは、大企業の中で出世街道を歩んできた人たちです。ということは、人によく思われようと思い、いいことを言おうと思い、八方美人的であって、憎まれ役を買わないで、心中を理解してもらうために説明して、互いに世間の目を気にしてやってきた人たちです。
しかし、そんなものの考え方の人が観音の位に立って、自由自在に先にあるものをパッとキャッチして成功できるのかと考えたら、絶対にできません。
誰もが考えるようなことを考えて、誰もが考えるような失敗をし、誰もがダメなときにはダメになるんです。
「『中小企業の経営の極意」という本は非常に優れた本だ」ということで、東海銀行の東海総研が私の本を評価してくれました。
三和銀行には三和総研というのがありますが、東海銀行には東海総研というのがあって、そこが中小企業向けに月刊の冊子を出しているんです。
それで、「中小企業の経営の極意」を読んで感激したということで、原稿の執筆の依頼がありました。四章がよかったと言うんです。
では、一章、二章、三章はどうだったのかと思うんですけどね(笑)。それで私が今度、その東海総研の月刊誌に執筆しましたので、それをまた機会がありましたら、皆さんに紹介したいと思います。
それは別として、魅力ある経営者としては、本田宗一郎さんとか松下幸之助さんがいますけれど、みんなオーナーです。最近、私が本で紹介したのは、セガの親会社のCSKの大川功さんです。
彼もまた非常にユニークな人です。年商が二百何十億のときに百六十何億のセガを買い取ったんです。
それから彼は、マサチューセッツ工科大学に二十億円、個人でポーンと寄付しました。
外国から贈られた寄付金額では最高で、日本から海外へ贈られた個人の寄付でも最高です。
さらには、何千人といる社員に一人ずつ、自分のポケットマネーでパソコンを買い、「私の金はどうせあぶく銭だから、君たちにあげる」と言って、ポーンとプレゼントしました。
大川功さんという人は、そういうようなことを平気でやれる人なんです。
その一方で、日本舞踊が好きで、プロ並の腕で日舞を踊るらしいです。
私は、ホテルニューオータニの中にある着物のお店で能装束をつくったんですけど、そのお店で大川社長の担当者と私の担当者が同じ人で、その人が言うには、「大川社長も私どものところで日本舞踊の着物をつくっておられます」
私は紫色のお洒落な着物をつくったんですけど、大川社長は黒の、シックでオーソドックスな着物をつくったらしいんです。
ところが、パッとめくると、裏生地にエルメスを使っているというんです(笑)。
ひょいっと踊ってハラリとめくれたときの裏生地がエルメスなんです。そういうところに凝っている人で、外国人が来たら日本舞踊を踊るらしいです。大変ユニークな方です。
だから、ゼロから会社をつくって、中小企業から大きくさせた大会社のオーナー社長や会長というのは、同じ大会社でも、本当に魅力があります。
ゼロか ら立ち上げたオーナーだからこそ、「人によく思われたいとも思わないし、八方美人でもないし、憎まれ役でも買うし、わしの心中、誰も分からんでもいいわい」ということで、世間の目を気にしない人が圧倒的に多いのです。
そういう決断ができる人がやはり、経営者として成功している人であり、事なかれ主義の逆の、「事あり主義」の人なのです。
それとは逆に、雇われ社長というのは、組織の中で、みんなの意見を聞きながらのし上がってきた人がほとんどですから、民主主義的な最大多数の最大幸福を追求する。
いい子ちゃん課長からいい子ちゃん部長になり、いい子ちゃん部長からいい子ちゃん取締役、いい子ちゃん常務、いい子ちゃん専務、いい子ちゃん副社長を経て、いい子ちゃん社長になったような人です。
そういう人は、いい子ちゃん経営をして、結果、思い切ったことがなかなかできなくて、いい子ちゃんダメ会社になって潰れていく、と。
追い風が吹いている時や、景気がいい時には、みんなよくなっていくんだけれど、悪くなったらどうしていいか分からなくなってしまうのです。
だから、どんなに銀行が合併しても、そういうスピリッツの人間が上に立ったら、海外の銀行に勝てるわけがありません。
海外の社長というのはものすごく魅力があるし、勉強しているし、決断力と熱く語る説得力があります。自分の「こうだ!」という意志を絶対に貫いていて、しかも、それで成功してきたという直感と運と魅力のある人だからこそ、上に立っているわけです。
さらに海外のオーナー社長だったら、もっと思い切ったことができるわけです。
サラリーマンとして会社に勤め、その中からトップにまでのし上がった人は、定年退職を迎えたら、それで終わりなんです。
もちろん、何百人、何千人、何万人の中からトップにまで駆け登った人には、それなりの魅力も実力もあるでしょうし、さらには努力もしています。
当然、運もあるでしょう。
それらがないとトップには立てません。
しかし、いまの時代のように、先が読めなくなってしまったときに、本物のリーダーなのかどうかを考えたら、大きな決断ができない分だけ弱いはずです。
そこが、リスクマネジメントやリスクを冒して思い切ったことができない日本型経営の問題点だと言われているんですが、本田宗一郎さんだとか松下幸之助さんだとか、最近では大川功さんといった、ゼロから立ち上げて大きく成長させていった経営者がいる会社はまず磐石です。
もちろん、二代目の社長も優れてはいるでしょうけれど、危機を迎えてどうしていいか分からなくなったときには、八十何歳かの会長が出てきて、「こうだ!」という、その鶴の一声でやったことは、だいたいうまくいく。
危機が起きてきて、二代目社長や雇われ社長に判断できないことがあった場合は、創業者の会長なんかが出てきて、「こうだ!」と決めたら、そのとおりに成功するケースが多いというんです。
これはやはり、創業してきた会長と出来上がったものを引き継いだ人の迫力の差なんです。
ゼロから立ち上げた人の言葉には迫力があると言いますが、言葉が生きていて、魅力があって、しかも迫力があります。
そういうことで、経営者は事なかれ主義では許されないわけです。中小企業社長および中小企業の社長になろうという人が、人によく思われようとか、いい子でいようとか、八方美人でいたいとか、憎まれ役は嫌だとか、私の気持ちを分かってくれないとか、世間の目が気になるとか言っていたらダメなんです。
ですから、そういう人間が、いくらゼロから会社をつくって社長になっても、うまくいくわけがありません。
さらには、いつの間にか中途半端な名誉ができたり、中途半端な信頼ができたり、中途半端にいい子でいようと思っていると、大きな決断ができなくなるんです。
経営者は支持者を得る努力を
一方、いま言ったような精神を持っていて、ずっとそれを貫いてやっていても、笛吹けど社員が踊らずでは、これまたうまくいきません。
社長は創業者精神を貫き、事なかれ主義ではないんだけれども、社員が次々とやめていって、「社員なかれ会社」になったら(笑)、これも困るわけです。
そうならないためにはどうしたらいいかというと、やはり肌と肌との接触です。社長の持っているぬくもりというか、感情の奥から出てくる温かい人間性というものを実感できるように、日ごろから細やかな気配りを社員にしなければなりません。
一緒にご飯を食べに行ったり、結婚とか離婚とか健康とか、いろいろと問題があったときに、親身になって相談に乗ってあげたりする。親兄弟でもできないようなことを社長がしてくれて、本当に家族の一員として扱ってくれたら、会社をやめようなんていう気持ちにはなりません。
それともう一つ大切なのが、「わしの意向はこうだ!」という情熱です。私の本にいつも書いているように、情熱を持って、「こうしなきゃいかんだろう!」と、いっぱい言葉を使って、熱く情熱的に説得していくことが必要です。
サッチャー元英国首相が成功したのも、このやり方に徹したからです。
イギリス病と言われ、どん底に陥っていたイギリス経済を立て直すために、サッチャーさんは民営化を推し進めました。あの抜本的な経済改革を断行するに当たってサッチャーさんは、人によく思われようとも思わないし、いい子でいようとも思わないし、八方美人ではないし、憎まれ役も買って出たし、誰も分かってくれないところでも貫いていった。世間の目を気にせずに信念を貫いていったわけですけれど、それでも成功したのは、支持者がいたからです。
ものすごい敵もいたし、ものすごく葛藤もしたけれども、テレビを通して、あるいは議会で論理明快に、なぜ経済改革が必要なのか、その理由を情熱的に明快に語ったんです。
その情熱と説得力によって、賛否両論の中を打ち勝っていった。
さまざまな軋轢がありながら改革に成功したのは、サッチャーさんの情熱と説得力によって、サッチャーさんを支持した支持者がいたからです。支持者がいなかったら成功しなかったでしょう。
それをやらずに、創業者精神だけで、あるいは、事あり主義で突っ走ったら、やはりうまくいきません。
事なかれ主義もいけませんが、社員なかれ会社になったら即、会社は倒産してしまいます。
ですから、こういう腹をもって、決然と実行し、そこからさらに情熱を持っていっぱい社員に説得しなければいけません。
「なるほど、そうなんだ!」と、従業員が納得するまで説得する必要があります。
腹を決めて情熱的に説得するのと、腹が決まらないで説得するのとでは、訴えていく気迫と迫力がおのずから違います。
創業者である会長と二代目社長、あるいは下から上がってきた生え抜き社長とどこが違うのかというと、やはり気迫と迫力なのです。
危機に直面したときの直感力というか、体で学んできた会長の判断力は、やはり全然違うわけです。
会長の言うことはいつも正しい、いつも結果が出る、と。それはやはり、体験の中から培った腹があるからなのです。
観世音菩薩の大慈と大悲
しかし、ある程度、従業員が増えてきたり、支持者が増えてきたり、財政が整ったり組織ができてきたり、社会的に何かを打ち出すようになってきたら、知らないうちに自分の意識の中に、とらわれの心が生まれてきて、大切な創業精神を忘れがちになります。それでは判断力、決断力、実行力が鈍ります。
そういうときには、観音様の慈悲によっていろいろとごちゃごちゃした揉め事が起こったりして、それを機に、とらわれの心をバーンとかなぐり捨てて、本質的な自分の生き方に徹することができるようになります。
そういう腹が決まるわけです。
私の場合も、腹を決めたから腹に観音様が入ってきたのです。その意味で、何か壁に直面したときというのは、原点に返る千載一遇のチャンスです。
しかし、人が何と言おうと貫いていくんだけれども、情熱を持って人に説得をしていく。「こうでしょ、こうでしょ、こうでなきゃいけないんだ」と。
そういうような一つの契機を通して守護霊が交替したり、人間のランクが上がったり、脱皮ができたりするわけです。考えてみたら、観音様が私のおなかに入ったのは三月十八日。私の誕生日の出来事です。
「経営者は事なかれ主義では済まん」。私の体験上、腹が決まったから「よし」ということで、観音様が来て下さって、四十三歳のそのときから五年続いています。
そうやって腹ができたと思って以降、心中とらわれがありませんから、それ以降やったことは、何を企画しても何をやってもうまくいっています。
それまでももちろん成功してきましたけれども、よりスケールの大きいこと、さらに、徹底したことができるようになってきました。
成功している中小企業のオーナーは、多かれ少なかれ、経営者としての長い歴史の中で、そういう体験をしていらっしゃいます。
以上が、私の体験から出てきた話です。ではなぜ、腹ができたときに腹の中に観音様が入ったかというと、考えたら観音様もそうだからです。
話は元に戻りますが、「南無観世音菩薩」とか、「延命十句観音経」、「観音経」をあげて、「観音様、助けて下さい」と言うと、観音様は助けて下さいます。
瞬間に、こうしたらいいと判断して、その人が一番幸せになる方向へ導いて下さいます。
しかし、そのあと観音様がどういうふうに動いて下さったのかよく分からない、観音様にお願いしたけれども、厳しいことばかりが起こるから、たたり霊ではないけれども、もう観音様にはお願いしない、という人もいます。
それより、三輪の神様のほうが現金が入ってくるからいい、と。
そう言うと、「私は現金の神ではない」と言って、三輪の神様がまた怒るんですけれどもね(笑)。しかし体験上、浅草観音にお願いしてお金がジャラジャラと入ってくることはあまりありません。
弁天さんや三輪大社へ行くと、キャッシュがすぐに入ってきます。
だから人間としては、ついつい弁天さんや三輪の神様のほうに行きたくなります。
ところが観音様は、先の先まで考えたうえで、その人のために、瞬間の内に三十三相に化身して導いて下さるわけです。
要するに、観音様は先の先まで見えるわけです。そういう長いスパンでその人のことを考え、その人のためによかれという気持ちで導いて下さるわけですから、観音様の「観」とは、過去・現在・未来の三世を見通した目で「観」なのです。
そのように、観音様は先々のことを考えていらっしゃいますので、観音様に守られている人は大器晩成というか、あとで大成するのですが、守られている最中は、「本当に観音様は私のことを守って下さっているんだろうか」と不安になるわけです。
これを、「遠く遠く、近く近く、我はおわすなり、観世音菩薩」と。
「我はおわすなり」というのは、自分を尊敬する古語の用語です。遠く遠くにいるようだけれども、近く近くにいるんだよ、と。
近くにいるかなあと思うと、何か見放されたような状態になる。それを「南海に遊び、青山に至る」と言います。
私の当初のペンネーム青山というのはそこから来たんですけれど、「南海に遊び、青山に至る」と。南海というのは、楽しい幸せな南の海のことで、そうやって楽しい日々を過ごしていたら、いきなり青い山。青い山というのは要するに、神坐す山のことを青山と言うわけです。
観音霊場というのは、片方には青々と樹木の繁る山があって、片方は断崖絶壁の海になっているところ。平野とか海岸がなく、切り立った崖になっているところが観音霊場と言われています。
四国の足摺岬とか、木々の生い茂った山からすぐに海があるところが観音霊場になっているわけです。
そのように、南海で遊んでいるかと思ったら、いきなり試練がやってくる。
試練があるかと思うと南海に遊んでいて、またもや青山に至る、というように交互に来るわけです。
観音様はそのように、高い次元で人間の一生を見ながら守護されているのです。だから、観音様に守られている人には試練が多いわけですが、それは、先の先まで考えて守って下さっているからです。
そうやって、先の先まで考えてその人を守っていると、「観音様にお願いしたら、また厳しい日々を送らなければならない。
三輪大社みたいにすぐにキャッシュは来ないし、縁結びの神様みたいには縁をいただけないし、ひょっとして、浅草観音と白山菊理姫って友達じゃないか」なんていう感じがしたりなんかしてね(笑)。
そういうふうに人間から思われているときというのは、観音様は、「ああ、先の先のことを考えて、必要な経験を積ませているのに、分かってくれないのかなあ」と。
観音様の導き方は、人によく思われようと思ってすぐ現金、というのとは全然違います。三輪大社の神様が人によく思われようと思っているとは言いません。
そんなことを言ったら、三輪の神様に叱られますが(笑)、人によく思われようと思われまいと、八方美人的ではなく、憎まれ役を買ってでも導くのが観音様であって、その観音様は、実は、誰も分かってくれないから、悲しい思いをしていらっしゃるのです。
だから、観音様は慈悲の仏様なのですけれど、観音の慈悲とはどういう慈悲かというと、大慈大悲なんです。
お母さんのように大いに慈しむ。これが南海に遊ぶの南海です。
そして、その人に試練を与えるときは、心中大いに悲観して悲しんでいる。「可哀そうになあ。辛いだろうなあ。
しかし、先々これがいい経験となってお前は大成するし、素晴らしい経営者となるだろう。
そのためにはこの試練を乗り越えなければいけない。
辛いだろうけれども頑張れよ」と思って、心中泣いておられるし、悲観しておられるわけです。これが青山。言わば、南海がお母さんで、青山がお父さんです。
マンガ「巨人の星」の星一徹がちゃぶ台を引っ繰り返して、「飛雄馬!」と激しく叱るときは大悲で、飛龍馬のお姉さんが「飛龍馬のことを許してあげて、お父様!」(笑)と言って泣くときは大慈なんです。
観音様はその二つの要素を持っていらっしゃるのですが、両方を持とうと思ったら、少なくとも二相なければいけないでしょ。
これがまた千変万化になっていって三十三相まで化身されるわけです。
だから、観音様は大慈大悲。しかし、なぜ大慈大悲なのかというと、それは愛が大きいからです。愛が大きいので、大慈と大悲を二つ併せ持っている。
そういうことを分かったうえで、観音様に身を任せてぶつかっていかなければいけないのですが、大慈のときには、「観音様のお陰で結婚できてよかった。観音様のお陰で希望の会社に就職できてよかった」といって、われわれも感謝します。ところが、大悲で導くときには、感謝する人はほとんどいないから、観音様も孤独です。
「観音様のせいでこんなひどいことが起きて……。ああ、三輪大社に行けばよかった」(笑)なんて言うと、「せっかく一生懸命に守っているのに、何ということを言うんだ。しかし、これも無理ないことかなあ」と観音様も思っておられますから、観音様も孤独ですね。
ということは、神様の位とか観音の位とか、高い次元になればなるほど、よかれと思ってしていることが分かってもらえない。
理解してもらえない。それどころか、逆に憎まれたり、人に悪く思われることもあり得るわけです。
それでも、「慈悲のために、その人のために、あえてそれを受けて立とう」というのが観音様なのです。
だから、この腹がないと、仏様もやっていられないのです。弁財天女なんていうのは、お願いすれば本当に弁財を与えてくれるし、出世もするから、いつもみんなから褒め称えられますよ。
それに比べて観音様は本当に孤独です。観音様を憎んでいるという人はいないと思います。
憎んでいるのは私ぐらいなものでしょう(笑)。大慈悲を知っていますからね。それだけ、ひどい目に遇わされているんです、本当は。今日はもう、参拝してしまったからしょうがないですけれどね(笑)。
大慈で来るのか大悲で来るのか知りませんけれど、それは愛が大きいからなんです。
だから経営者も、大きな心で社員のことを思い、大きなところで一つの決断をし、時代を見ていかなければいけないのです。そうすればそうするほど、観音様と同じような境地になっていくわけです。
そうすると、ヒットラーが言ったみたいなことを覚悟しなければいけない。
だから、事なかれ主義の人は絶対に経営者になれないはずです。
もちろん、観音様にも絶対になれないし、大きな愛を実行することもできない。せいぜい、数名の社員を率いて、「みんな頑張っていこうね」と、和気あいあいとしてや
っていくのが関の山で、それ以上の経営者にはなれません。
「腹を決めて情熱を持って説得をする」と。どういうふうに腹を決めるかというと、人によく思われなくてもいい、いい子でなくてもいい、八方美人でなくてもいい、憎まれ役でも買おう、誰も心中分かってくれなくてもいい、世間の目は気にしない、と。
そうやって腹を決めて、情熱を持って説得していくと大きくなるわけです。事なかれ主義の逆はこれです。
まずこれが、「事なかれ主義では済まん六千日」というテーマの答えです。
