社説を読んで差をつけろ
ですから、普段から難しい本を読むようにしなければならないわけです。
確かに、夜なかなか眠れないとき、難しい本を読んでいると、いつの間にか眠っていますが、そうやって、一ページずつでも読み進めていったらいいんです。
三十ページぐらいまで来たらもう、その本の世界に頭がついていきますから、あとは楽なんです。
楽になるということは、その分、知力が磨かれているということです。
朝日新聞の「天声人語」は本当に読みやすいですね。何が結論なのか、ときどき分からないこともありますが、もちろんいい文章もたくさんあります。
しかし、社説が一番頭の訓練になる。最新の情報・知識とエッセンス、そしてデータもふんだんに盛り込まれていますので、本当に勉強になります。
皆さん、先ほどの自殺に関する社説の内容を聞いて、「おお!」と思うでしょう。社説に書いてあるそのままを口移しで言っただけです。
とても印象深かったので、覚えようとは思わなかったけれど、みんな覚えてしまったんです。「へえ、そうなんだ」と思ったら、無意識のうちに覚えてしまって、何ヶ月か前に読んだ記事ですが、そのまま口で再現できたわけです。
もっと詳しく知りたかったら、調べる方法はいくつもありますけれど、社説はとりあえず、幅広く、いろんなことを知ることができます。いままで社説を読んでこなかった人でも、毎日読むようにすると、もの知りになれるはずです。
社説はそれぞれ二アイテムありますから、一カ月間で六十個の社説が読めます。ちっちゃい論文のようですが、一ヵ月で六十個。十ヵ月たったら六百個です。
十ヶ月で六百種類の濃い内容の文章を読んでいったら、めちゃくちゃ賢くなると思いませんか。
十ヶ月で六百個で、一年で七百二十個です。これを十年続けると七千二百個。七千二百種類の密度の濃い文章が頭に入ったら、めちゃくちゃ頭がでかくなるではないですか(笑)。頭大(東大)に行けます(笑)。
それにしても、七千二百個という数はスゴイ数です。こつこつこつこつ社説を読んでいったら、十年間で七千二百種類の濃い内容の文章が頭に入ってくるわけで、そういう文章が頭に入っている人間と全然入っていない人間とでは、アンドロメダ星雲と善福寺池のカメぐらいの差がありますね(笑)。
それぐらいの差が出ると私は思います。
短い文、短いスピーチほど難しい
今日の講義は、「経営者は社説を読め!」ということなのですが、何だか新聞社の回し者みたいな言い方ですね(笑)。
しかし、新聞社の回し者であろうと何であろうと、社説は本当に素晴らしい。たくさんの情報がありますし、読んでいて賢くなります。
それなのに、私はなぜ、いままで熱心に社説を読んでこなかったんだろうと反省しました。「なんて愚かだったんだ、大変な損をしたな」と。
もし、こつこつこつこつ一日二アイテムずつ読んでいったら、一日十分で、一カ月間に六十個、年間にして七百二十種類の知識が入り、十年間で七千二百種類の内容が頭に入るわけですから、もっともっと賢くなったはずです。
政治、経済、社会、それから環境問題、保険問題、人権問題など、ありとあらゆる社会の、いわゆるハイソな情報がもっと入ったのになあと、一時間半ぐらい悩んでいました(笑)。
失ったものの大きさを考えたら、私がバカだった、愚かだったと思って、本当に反省しました。
郵政民営化に関する社説でも、産経新聞、読売新聞、朝日新聞、毎日新聞で読み比べます。朝日新聞はまとまっていてスッキリしているんだけれど、ときどき結論がはっきりしないものもあります。
読売新聞は憲法問題が好きですね。
めちゃくちゃおかしいのは産経新聞です。もう中国を目の敵にしている、韓国を目の敵にしている、北朝鮮を目の敵にしている、ロシアなんか徹底的に目の敵にしていますからね。
よくこれだけ書けるなと思います。本当に面白いですね、産経新聞の社説は。
それで、皆さんに考えていただきたいのは、社説をそれだけのものにまとめようと思ったら、どれだけ調べなければならないか、推敲しなければならないか、ということなのです。
私はものを書く人間だからそれが分かります。これだけのものをもし自分が書こうと思ったら、どれだけ調べて、何時間かかるんだろう、と。実は、短ければ短いほど難しいんです。
「五分のスピーチをするには五日間ぐらいの準備期間が欲しい」とは、ある有名なアメリカ合衆国大統領の言葉です。では、三十分のスピーチだったらどうかというと、「一日もあれば十分だ、二時間のスピーチなら、そんなのはすぐ「できる」と言っています。
つまり、五分間で意味のあることをしゃべろうと思ったら、何日間も推敲しなければならないというわけです。
自分の主張したいことを圧縮して、しかも、聞いている人が「なるほど」と納得するようなスピーチにしなければいけませんから、時間をかけて何回も何回も推敲する必要があります。
短いスピーチほど推敲に要する時間がかかります。逆に、「一時間とか二時間の講演だったら、圧縮することなく言いたいことが言える分、いますぐにでもできる」と。
それを考えたら、新聞の社説を書く人は、大変な時間をかけて書いているはずです。
もちろん、何人かの人が分担して書いているのかもしれませんが、私はもの書きだからこそ、社説を書くのにどれだけの時間をかけ、どれだけのデータを調べて書いているかが分かるわけです。
それをいままで読んでこなかった。ときどきは読んでいたけれども、コンスタントには読まなかった。新聞を取ってはいたけれど、何てもったいないことをしたか、本当に愚かだったなと思って、反省しました。
それ以来、五大新聞の社説を読み始め、時間がないときでも、最低一紙の社説は読むようにしています。一紙で二アイテムありますから、一つ読むのに五分として二つで十分です。
それくらいの時間なら、心がけ次第でいくらでも取れるはずです。皆さん、今日からでも読み始めてください。
急に賢くなります 46ヵ月ぐらい経ったら、きっと表情が違ってくるはずです。「えらく賢い顔になったな」と周りから言われるはずです。
ということで皆さん、ぜひ社説を毎日読んでください。社説は知識の宝庫です。
新聞は自分を追い込むためにある
それで、新聞を月極めで取っているのかどうかスタッフに尋ねると、取っていない人がいっぱいいるのです。
「だって、新聞を取っていてもあんまり読まないから、無駄だからやめました」と。
「ええっ、新聞を取ってないの?」と、びっくりしたのですが、ときどき駅売りの新聞を買って読む程度らしいんです。
それも、社会面かテレビ面をさらっと見る程度で、社説なんか全然読んでいないようです。
英字新聞でもそうなんです。かつては英字新聞を取っていたけれども、あまり読まないから取るのをやめましたと言うのです。
これは英字新聞を含め、新聞の取り方を知らない人です。なぜ、知力を磨くのにお金をかけないのだろうと思いませんか。
たとえば、一紙一ヵ月で三千円とするでしょう。私の場合、五大新聞と全部のスポーツ紙と英字新聞二種類ぐらい取っています。
毎日毎日、たくさんの新聞が届きます。二、三日すると、いっぱいたまってきます。
そうやって、たまった新聞を見てどう思うかというと、「毎月毎月、新聞代を払っているのに、こんなにたまってしまってもったいない」ということで、ヤケクソになって新聞を読むのです。
何も読まない英字新聞がたまっていくのをもったいないと思って、記事を一個読んだとするでしょう。
分からない単語が出てきたら、その都度、辞書を引きながら読みます。そうやってでも月に一回読んだら、年間十二種類の英字新聞の記事で単語を新たに覚えます。
ということは、十年間で百二十種類の英単語を調べる計算になります。
英字新聞の記事から、十年間で百二十種類の単語です。
だから私は、せっかく月極めで取っているのに積み重ねておくだけではもったいないと自分に言い聞かせて、一個の記事を辞書を引きながらでも読むようにしているのです。
そうやっていくと、一年間で十二種類、十年間で百二十種類の単語が頭に入っています。社説も同じです。
一個でも二個でも、社説を読まないともったいないと思って読むからいいんです。
ところが、無駄だから取るのをやめたら、バカの道を一歩踏み出すことになります。
新聞とは何のためにあるのか。自分を追い込むためにあるのです。毎日毎日、ポストに入ってくる新聞を読まずに積み上げてみてください。
またたく間に一メートル、二メートルの高さになります。それを見ると、「ああ、何てもった「いない」という気になりますから、ガーッと読んでいく。「一個でも二個でも読んでやるわい」と、ヤケクソで読むわけです。
そうやって月に一個の社説を読むとするでしょ。一ヶ月の新聞代が三千円とすると、一年間で三万六千円。三万六千円を払って、月に一個社説を読むだけではもったいないような、何か無駄をしているような気がします。
しかしそれでも、年間十二種類の社説を読んでいるわけです。十二種類の社説を、三万六千円の授業料を払って自分で勉強しているのです。
そういうふうに身銭を切ってやらなかったら、絶対に勉強しません。
だから、月極め購読は無駄になるから新聞を取らないというのは、バカの道を歩いているようなものなのです。
人は自分を追い込まなかったら絶対に勉強しません。
ですから、英字新聞も、月に一個でもいいから読むようにしなければいけない。とにかくたまってきたら、ヤケクソになって読む。
ヘラルド・トリビューンでも何でもいい。デイリー・ヨミウリはわりと読みやすいんですけれど、その中に知らない単語があったら、こんなにやさしい単語も知らなかったと思うと腹が立って、また読み進んでいく。
それに対して、ヘラルド・トリビューンなんか、まるっきり知らない単語がよく出てきます。それでも記事を絞って、きっちり辞書を引いて読んでいくと、深い読解力が身につきます。
encourageという単語は知っていた。 heartening は「勇気づける、元気づける」。
これはやさしいんですけれども、「ああ、いい単語だ」と思って、それからはheartening とよく使っています。
holisticlyというのは「全体の」という意味。 overallというのは簡単な言葉で、読んだら分かるんですけれども、普通はwhole と言って、overallというのは分かっていてもあまり使ったことがなかったな、と。
そうやって、ヘラルド・トリビューンを読みながら辞書を引き、一つひとつ単語を覚えていくわけです。
記事がたまってくると、腹が立つではないですか。「ああ、またこんなにた「まってしまった」と腹が立つ。
だから、「くそー。一個でも二個でも絶対に英「単語を引くぞ」と、ヤケクソで引いて、絶対に単語を覚える。
それで覚えたのがoverall。月に三千円かけて覚えた単語がoverall とhearteningです。
しかし、それでも確実に覚えられるのですから、月三千円は決して高くはありません。
そういうふうにしてやらなかったら、だんだん頭がバカになっていきます。
歳とともに愚かなる道、バカの道を歩くようになります。そうならないためにも、新聞は月極めで取らなければいけません。
新聞というのはそうやって取るものなのです。「新聞を取っていたけれど、お金がもったいないので取るのをやめて三千円を浮かそう」などと考えたらダメです。いま言ったように、新聞を取ることによって、頭を使い、情報を入手し、単語を勉強していくんだという心構えを持たないと、読解力、咀嚼力はいつまで経っても向上しません。
わが社の社員には新聞を取っていない人がたくさんいました。そういう社員に向かって、いつも口を酸っぱくして言っています。
「君たち、年々バカになっていってどうするんだ。人にちゃんと説明しなければならないとき、どうやって要約し、説得するんだ?いっぱいごちそうしてあげるから、その代わり、社説を読んで頭を訓練しなさい」
と。それで、ときどきスタッフに宿題を出すんです。
「自分の好きな社説を半分の字数に要約しなさい。これもお父さんの大愛だ。別に、それに点数をつけて、何点以下ならダメというわけではないんだから、やるだけやりなさい」と。
適当に要約しても、とくに罰則はありません。ただ「バカ!」と言うだけのことです(笑)。
全然実害はないし、痛みもない。成績がよかったら「なかなか賢い」と言ってあげるだけのことです。
いろいろとお話ししてきましたが、今日の講義は私自身の反省から成り立っています。
これだけの知識の宝庫であったのに、五大新聞を取ってきたのに、本当に愚かだった。そう思って反省したのです。
気になる社説は切り抜いて保管せよ
それ以降は、時間があったら五大新聞の社説を必ず読むようにしています。やたらと私が社会事象に詳しいのは、社説を読んでいるからなのです。
それくらいですから、私の周りは新聞の山です。飛行機上でもどこでも新聞の山です。面白そうな記事はバリバリと引きちぎってカバンに詰め込むことにしています。
飛行機の機内に置いてある新聞も全部いただくんです(笑)。
客室乗務員に、「すみません。これ、いただけますか」と聞いたら、「ああ、どうぞ」と。ただし、朝方の新聞はいただきません。
あとの人に迷惑がかかりますから。その代わり、遅い便の新聞はみんないただいて帰ります。
「これ、いただきます」と言って許可をもらいますけれど、実は、こっちにもう二つぐらい新聞があるんです(笑)。
「これも、いただけますか」「ああ、どうぞ」。しかし、まだあるわけ。「これも、いただきますが」「はあ、どうぞ」。
ということで、三紙ぐらいいただいて帰ってくる(笑)。私は忙しいから、そうやって時間を取らないと、頭が劣化していくんです。
ということで皆さん、ぜひ社説を読んでください。一日一個は絶対に社説を読みましょう。新聞代とは勉強代なんだと思ってやらないと続かないし、それが正しい考え方ではないかと思います。
以上で今日の講義を終わります。(拍手)
人間関係、コミュニケーションの達人になれる ~平成10年2月26日 東京全日空ホテル~
コミュニケーションの原則
今日は「コミュニケーションの達人」というテーマで、少し講義をしてみたいと思います。
世間の人はよく、「コミュニケーションが大切だ」と言います。たしかに、コミュニケーションが欠けると、社会も家庭もぎすぎすしてきますし、会社も企業体としての統制が取れなくなってしまいます。
とくに会社の場合、上司と部下のコミュニケーションが悪ければ、即、業績の低下につながります。
下手をすれば、倒産という名の坂道を転がり落ちることになりかねません。
それだけに、ビジネスマンにとって、コミュニケーション能力は非常に大切で、ビジネスで成功しようと思うなら、コミュニケーション能力に磨きをかけなければなりません。
ただし、コミュニケーションの原則が分かっていないと、コミュニケーション能力に磨きをかけようにも、どう磨きをかけていいかが分かりません。
少なくとも、原則を知らないままコミュニケーションの達人になることはあり得ないわけです。
では、コミュニケーションの原則とは何なのか。これについては改めて言うまでもないでしょう。
意思の伝達です。コミュニケーションとは意思の伝達であり、これがうまくなると、誰とでも仲よくやっていけます。
もちろん、仲よくなれるのは人間だけではありません。あの世の霊とも仲よくなれますし、神様や仏様とも仲よくなれます。さらに言うならば、動物とも仲よくなれます。なぜなら、彼らもまた意思、あるいは意識を持っているからです。
その意思や意識がもっとはっきりした形となったのが志です。志とは、「心が指す方向」だから〝志〟というのであって、志すためには、目指す方向性がいる。
これが目標です。何か目標や目的を持って、そちらに心を差し向け志なのであって、「志を持て」ということはそういうことなのです。
意識は誰でも持っています。目的があろうとなかろうと意識はあります。しかし、意識を持っていてもそれだけではダメでして、志を持って初めて、人間としての成長があるわけです。
ただし、コミュニケーションとなりますと、別に志があろうとなかろうと関係ありません。意識、あるいは意思があればいいわけで、場合によっては、何の意識もない人間に働きかけていくこともあります。
その典型的なのがセールスで、セールスではいかにこちらに意識を向けさせるかがコミュニケーションのポイントになります。
言葉を超えた禅的コミュニケーション
ところで、意思を伝達する場合、最も重要な手段となるのは言葉です。顔の表情や態度など、言葉以外にもコミュニケーションの手段はありますが、重要度ということでいえば、やはり言葉が最上位にきます。
つまり、いかに正確な言葉を使って相手に意思を伝えるかが、コミュニケーションのキーポイントになるわけです。
ところが、その言葉に頼らず、逆説的表現で相手の深層心理に語りかけていくコミュニケーションもあります。
禅的表現などがその最たる例で、禅の世界ではたとえば、相手に対する深い愛情と慈悲の心を持っていながら、口では、「バカ者、バカ者、バカ者」と言って、相手にハッと愛を感じさせる、ということがよくあります。
なぜ、こういう逆説的表現が多いかというと、禅では知識や知性、いわゆる分別の知恵を超えた世界を大切にするからで、まったく逆のことを言う場合が多いのです。
「バカ者、お前なんか最低だ」と言われると、普通の人ならバカにされていると思いますが、禅の世界では、その言葉の奥を読み取るわけです。
たとえば、「臨済録」を読んだ人は分かると思いますが、臨済禅師はご臨終の間際まで、問答をして弟子を教育しています。
自分が出した問答に対する弟子の答えを聞いて、臨済禅師は最期に何と言ったか。
「わしは、お前ほど愚かな弟子、バカな弟子を持ったことがない。お前のような人間が臨済宗を滅ぼすんだ。
この世の中でお前ほど愚かな、お前ほど仏法を破壊する最低の弟子はいない。お前は本当に最低の最低の最低な人間で、顔も見たくないわい」と言って、ニコッと微笑みながら亡くなっていったのです。
その臨済禅師の最期の言葉に対して、「臨済録」の解説者は、「これほど弟子を愛した言葉があっただろうか。人生の最期に悟りの印可を与えた言葉として、これほど禅宗の歴史に残る、素晴らしい言葉があるだろうか」と言っています。
これでもう自分は死んでいくんだ、という最期の最期に「本当によくここまで悟ったな」ということを弟子に言うために臨済禅師は「お前が仏法を滅ぼすんだ。お前なんか最低だ。お前の顔は見たくもない」とボロクソに言ったわけです。
しかし、こんなふうに言われたら普通、「ああ、お師匠さんは自分のことをそう見ていたのか」とがっかりするでしょう。
とくに、その道一筋で励んできた人にしてみたら、きっと絶望的な気分になるのではないでしょうか。
ところが、禅的表現というのは、分別の知恵を打ち砕くために、まったく逆の言葉を使うのです。
その言葉の奥にある内なる境地。その人の境地がどのようなものなのか、それが勝負なわけですから、あえて逆説的表現を使って境地を表現する。
ですから、臨済禅師の最期の言葉も、本当のところは、「お前ほどいい弟子はいない。わしは本当にうれしい」という意味ですが、表面的には厳しく、愛情のかけらもないような言葉です。
しかし、弟子を思う温かい意識と波動とエネルギーが籠っていて、それが相手に伝わるわけです。臨済禅師は最期にそういう言葉を残して座脱、すなわち座ったままお亡くなりになっています。
それは実に見事な最期です。
五百年に一度の天才といわれた白隠禅師がお亡くなりになったときも、実に見事です。白隠禅師の部屋から「喝!」という声が聞こえてきたので、弟子が急いで駆けつけたら、トンカツがあったわけではありません(笑)。
白隠禅師がお亡くなりになっていたのです。
「ああ、もうおれは死ぬんだな。もうこれでこの世の最期なんだな」という迷いとか分別の知恵、そういう思いを振り払うために、「喝!」と手を振り上げままご臨終ですから、臨済禅師に負けず劣らず見事です。
それから、栄西禅師はたしか七十二歳だったと思いますが、「私は何月何日に死にます」という予告をして、そのとおりにふわっと亡くなっていきました。
栄西禅師という方は、日本に臨済禅をもたらした人ですけれど、比叡山で禅以外に密教や法華経もいろいろと勉強し、「喫茶養生記」や「興禅護国論」等の本を著して、禅宗を日本に根付かせた人です。
やはり皆さん、立派な死に方といえるでしょう。
ちょっと話が横道にそれましたが、禅の世界では、文字や言葉を超えたところでコミュニケーションがなされているわけです。
語学力に磨きをかけろ
しかし、いま言ったような禅的コミュニケーションでは、普通の人にはまったく分かりません。
文字どおり禅問答でしかないわけです。もちろん、禅的コミュニケーションには非常に深い世界があります。
文字や言葉を超えたところで、意識の奥に眠っている魂を呼び覚まし、悟りを得ようということですから、深いことは深いですけれど、一般のコミュニケーションとはまったく違います。
一般人のコミュニケーションで必要なのは、やはり正確な言葉です。正確な言葉を使って、自分の言いたいことを間違いなく伝えなければなりません。
これがコミュニケーションの基礎です。
たとえば、「あんたのことなんか嫌いだ」ということを伝える場合、なぜ、どのように嫌いなのか、できるだけ具体的に説明すれば、嫌いであることが相手によく伝わるでしょうし、逆に好きな場合も、できるだけ具体的に言えば、どれだけ好きなのかが分かってもらえます。
コミュニケーションでまず大事なものは何かというと、正確に伝えることです。
そして、正確に伝える能力と技術があれば、社会においても企業においても、十二分にコミュニケーションを図ることができます。
あるいは、肉体がなくなってあの世に行きましても、たたりの霊と正しくコミュニケーションできますし(笑)、兜率天の仏様やエンゼルとか菩薩様とも正しくコミュニケーションができます。
コミュニケーションができても、神仏が、「お前なんかバカじゃ」と言ったら、「はい、すみません」と言って帰ってこなければいけないし、亡霊なんかから「好きだわ」と言われてまとわりつかれたら、正確に「やめてよ」と言わなければなりません(笑)。
その意味で、「コミュニケーション能力は、生きても死んでも使える能力「だ」と言うことができます。
伝える中身は、好きとか嫌いとか、クソーッとか、何とかしてあげたいといったような思いを上手に表現すれば、相手に正確に伝わります。
いうなれば、コミュニケーション能力というのはコンピューターと同じです。
正確に計算するコンピューター、性能のいいコンピューターと同じで、これを手に入れたら、人生はより豊かなものになります。
そのためには、語学力に磨きをかけること。これが最低条件になります。
状況を判断する目を養え
たとえば、アメリカ人とかイギリス人など、英語圏の人に自分の意思を伝える場合、英語ができれば伝わります。
片言英語でも、いわゆるボディランゲージを駆使すれば、ある程度は伝わるでしょうが、そのままでは、上級のコミュニケートをするのは無理です。
英語圏で自分の意思を伝えようと思うなら、やはり、英語力を磨くしかなく、英語が上手になればなるほど、正確に細かく伝えることができるようになります。
ただし、ここには大きな落とし穴があって、英語が上手であればあるほど、かえって向こうの人にバカにされることもあります。
それというのも、語学がうまくなればなるほど正確に伝わりますから、その際、自分自身の中身が立派なものであればいいのですが、もし中身が空虚だったら、それがそのまま正確に伝わってしまい、結果的に、「何だ、こいつは中身のない、薄っぺらなヤツ「じゃないか」と、バカにされてしまうことになりかねません。
要するに、語学力がアダになってしまうわけです。
もちろん、素晴らしい中身があるなら、英語がうまくなればなるほど正確に伝わりますから、「いやあ、実に素晴らしい人だ」と評価されますが、その点は、コミュニケーションを考える場合、よく理解しておかなければならないことだと思います。
一方、日本人同士のコミュニケーションの手段は何かといえば、もちろん日本語です。愛情表現にしても、憎しみの表現にしても、日本語を上手にあやつることができれば、ストレートに自分の意思を伝えることができます。たとえば、「お金を貸してくれませんか」という場合、絶妙な表現をされたら、つい
「貸してやろうかな」という気になるではないですか。あるいはまた、「お金、「返せないんです」という場合でも、表現が素晴らしかったら、「まあいいかな、もうちょっと待とうかな」という気になります(笑)。
こういう能力のある社員がいたら、経営者は助かります。それから、どんな人でも買う気にさせるセールストークに秀でているセールスマンがいたら、もっと助かりますね。
日本語もうまくなればなるほど、正確に自分の意思が伝わるわけで、そのことによる恩恵は頭で考えるよりはるかに大きいものです。
しかし、どんなに表現力があったとしても、人間としての中身がなかったら、「あいつは本当に助平なんだ」「あいつは本当に欲深いんだ」「あいつは本当に内容のない人間なんだ」「あいつはむさくるしい人間なんだ」ということが相手に伝わってしまいますから、そういう場合には、表現がうまくないほうがいい。
さらには、学校を卒業して新入社員として会社に入ったとき、あまり仕事ができないのに、物事を理路整然と言うと、「何だあいつは。仕事もできないくせに生意気なヤツだ」と、先輩たちから煙たがられたり、白い目で見られたりするおそれもあります。
だいたい、会社の先輩・上司には、「新入社員は黙々と仕事をやれ、まずは整理整頓からきちんとやれ」という意識がありますから、そこを見抜いて、「はい」と返事をするだけで、生意気なことは一切言わず、黙々と仕事をしたり、片づけものをしたりすれば、「なかなかいいヤツじゃないか」と評価されるのです。
上司と比べれば知識がなく、経験がなく、能力がないのが新入社員です。何か問題が起きたときに、どう凌いでいっていいか分からないのが新入社員ですから、偉そうなことは言わず、素直に「はい」と返事をし、言われたとおりに片づけものや荷造り発送等をし、ニコニコと微笑んでいたらいいのです。
そうしたら、先輩の誰もが、「あいつはなかなか見どころのあるヤツだ」と評価してくれるのです。
もしも、こういう新入社員がいたとしたら、それはコミュニケーションの達人であるだけでなく、人間関係の達人といえるでしょうね。
それから、お見合いのときでも、言葉の巧みさがかえって災いすることがあります。「私の人生観はこうなんです」なんて滔々としゃべると、「ちょっと自分と合わないな」ということになりかねません。
むしろ、「私は口下手で、不調法でございますので」と言って、ニコニコと微笑んでいたほうがいいのかもしれません。
そういうことを考えたら、コミュニケーションといっても、何でもかんでも意思を伝達すればいいというものではないことが分かります。
入学した直後とか、入社した直後など、初めて会う人に対しては、その人の人間性がまだ分かっていないわけですから、コミュニケーションをよくしようと考えるよりも、見た目の雰囲気やイメージをよくしておくほうが得策といえるでしょう。
そうすれば、「また、会ってみたいな。また、お願いしてみたいな」という気にさせることができます。
とにかく、そういう気持ちになってもらったほうが絶対にプラスです。要するに、いいことだけ伝えればいいわけです。
「実は私、浮気をしているの。相手の人はこれこれこういう人で……」なんて言ったら、即、離婚ですよ。
いくら夫婦間のコミュニケーションが大事だからといっても、言っていいことと悪いことがあります。コミュニケーションとは意思の伝達なのですけれど、「伝達しないというコミュニケーション」もあるわけです。
大切なのはやはり、TPOをわきまえることです。相手の立場、自分の立場、そして、その場の雰囲気や空気を考えて、言うべきか言わざるべきかを瞬時に判断する。
それができる人がコミュニケーションの達人です。
自分には能力があるかもしれない、知識があるかもしれない。だからといって、何でもかんでも知識を披瀝すればいいというものではない。状況判断ができて、どの程度まで言えばいいのかということの判断力がなければ、コミュニケーションの達人とはいえません。
己を空しゅうすれば周囲の状況が見えてくる
では、どうしたら状況判断ができるのか。それをひと言で表現すると、
「己を空しゅうして、場と相手と自分を正しく見る目を養うことである」ということになります。とくに、「己を空しゅうして」というのは非常に大事で、これができない人は、基本的にダメですね。
人には誰でも思い込みというものがあります。それに加えて我があるし、慢心があるし、偏見があります。
また、人によっては引っ込みすぎるところというか、弱気なところがあります。
そういう歪んだ目を通して相手や場を見て正しく判断できるのかどうか。言うべきか言わざるべきか、言ったほうがベターか言わないほうがベターか、どの程度言えばいいのか、ということの判断を正しくできるのかどうか。
そこを間違うと、結局、コミュニケーションがうまくいかなくなるわけです。
ところが、己を空しゅうすると周囲が見えてきます。それと同時に、人のアドバイスを受け入れる心の余裕が生まれてきます。
「この場では言わないほうがいいんじゃないの」「そうだね」と、人のアドバイスに耳を傾けることができるようになるわけです。
さらに言えば、背後霊からのひらめきも受けることができるようになります。
ところが、己を空しゅうしなかったら、自分なりの信念や観念、あるいはイデオロギーが先に立ってしまって、正しい判断ができなくなってしまうのです。
その結果、言ってはいけない場で言ってしまったとか、発言しなければならないときに黙り込んでしまったとか、五、六分話せばいいところを三時間も話してしまったとか、それとは逆に、三時間話さなければならないのに一分で終わってしまったとか、そういう失敗を犯すことになります。
それから、コミュニケーションには相手があります。錚々たるお歴々の方たち、たとえば、ノーベル賞受賞者ばかりが集まっている会議に招かれたときに、「ノーベルといいますと、何といっても飴ですよね(笑)。
昔は扇雀飴が好きだったのですが、一度ノーベル飴を食べてからもうあの味が忘れられなくて、それ以来、ノーベル飴が好きになりました。
それに比べればノーベルプライズなんて、くそくらえだー!」
なんて言ったら、殴られますよ(笑)。お歴々が集まっている場では、やはり、「社会に貢献するとはどういうことなのか」というような話をすべきで、そうしたら皆さん、「うーん、なるほど」と感心するでしょうし、「社会の役に立たにゃいかんと私は思うんですよ。
そう思いませんか、皆さん」と訴えかければ、「うん、そのとおりだ」と賛同してくれます。
場によって、若い青年が多いのか、あるいは女性たちだけなのかなど、それぞれ参加者が違うわけですから、相手の性別、年齢、知的レベル、国籍、それから何を求めて参加しているのか、もう眠くてとろとろしているときなのか、あるいは、朝目覚めたばかりで「やるぞー!」と燃えているときなのか、葬儀に出た直後なのか、結婚式の直後なのか、これから結婚式を迎えようとしているのか、ということなどをしっかりと見極めなければいけません。
そのためには、己を空しゅうするしかない。そうしないと見極められないし、何を伝えていいかが分かりません。
言ったほうがいいのか言わないほうがいいのか。どういうふうな言い方をしたらいいのか。早く言えばいいのかゆっくり言ったほうがいいのか。黙っているほうがいいのかなど、場と相手によって異なるわけです。
その場と相手がどんな人なのかがまず正確に分からないと、コミュニケーションの達人になれるはずがありません。
さらには、相手も刻々に変わっています。相手といっても本当にいろいろです。悲しんでいるときなのか、それとも、気丈なときなのか弱気なときなのか、複数でいるときなのか一人なのかなど、それぞれ違うんです。
だから、まずは己を空しゅうして、「この人はいま、どんな状況にいるのか」ということを正しく理解すること。これがまずは大事なのです。
自分が言いたいことや主張したいことは後回しです。どんなに言いたいことがあろうと、立派な主張を持っていようと、相手に聞いてもらえなければ評価の対象にもなりません。
ハナから聞いてもらえないようでは、コミュニケーション下手と言わざるを得ません。
自分の主張や言いたいことがあっても、相手がどんな状態なのか、どんな場なのか、何を求めているのか、どのような知的レベルで、どのような精神状態なのか、タイミングはどうなのかということなどもきちんと把握したうえで、自分の主張したいことを少しアレンジして話をすると、聞き手も耳を傾けてくれます。
たとえば、身内を飛行機事故で失い、気が動転している遺族の前で、飛行機会社の問題点や責任について滔々と語っても、耳を傾けてはもらえないでしょう。それより、
「私も昔、事故で子どもを亡くしましてね」
というような話をしたら、
「ああ、そうだったんですか。人間の不幸っていつ来るか分かりませんね」と、多少なりとも安らぎと慰めを与えることができるはずです。
「そのときに支えになってくれるのは、やっぱり身内だったんです。身内を亡くして悲しいと思った分だけ、身内の大切さが分かったから、それから私は、努めて身内を大事にしているんです」なんて言うと、
「そうだなあ」
共感を呼ぶこともできるでしょう。
それが、たくさんの人が悲しみにくれている前で、「さあ、皆さん、慰謝料と賠償金を勝ち取るために団結しましょう!互いに頑張りましょう!」
なんて言ったら、一人だけ浮き上がってしまいますし、白い目で見られます。そういうときはやはり、沈んだ声で語りかけ、悲しみの心を少しずつ癒していくという話し方があるわけで、コミュニケーションの達人だったらそれができる。なぜできるのか。
己を空しゅうして、その場と相手が正確に判断できるからです。
自分の言いたいことを伝えるのだけがコミュニケーションではないし、コミュニケーションの達人ではないのです。
