本物の経営者はどこがちがうのか! 深見所長講演録14(Vol.3)

最期の言葉「われ東洋男児!」

海運業はまさに三菱の天下になりました。まだトラックなどもない時代で、海運が物流の大動脈だったわけですから、海運業で覇権を握ったということは、物流のほぼすべてを三菱が握ったのと同じです。

するとどうなったかと言いますと、岩崎弥太郎には心奢りが出てきてしまったのです。

東京の街を黒塗りの馬車が走ると、「あれは岩倉右大臣か、大久保参議か、岩崎社長か」と言われるぐらいに羽振りがよかったんですけれど、銀座や新橋の料亭で有力政治家と遊興に明け暮れる弥太郎に、世間が反発しないわけがありません。

気概はあっても傲慢になったら、天から鉄槌を下されるのです。

そのとき岩崎弥太郎、四十五歳。わずか四十五歳で日本の海運業の八割を握るまでになったのです。

ところが、成功に気をよくするあまり傲慢になりすぎて、世間の顰蹙を買ってしまう。新聞・雑誌は連日のように三菱独占の非をあげつらいます。

そして、政府までが三菱を目の仇にするようになりました。しかし、どんなに三菱への風当たりが強くなろうと、三菱以外にはまともな海運会社はありません。

三菱による独占状態を打ち破るには、三菱に対抗し得海運会社を立ち上げるしかない。そんな空気が日ごとに強くなっていくのを感じ取った三井財閥は、政府の重鎮や大倉喜八郎や渋沢栄一など財界の大物を巻き込んで、明治十五年、新たな海運会社を設立するのです。

三菱にしてみれば、強力なライバルの出現です。というよりもむしろ、政府の出資を取りつけて設立された半官半民の出現によって、反三菱包囲網が完成したと言ったほうがいいかもしれません。

一発目、アメリカに勝って、二発目、イギリスに勝って、今度は政府肝煎りの海運会社共同運輸との戦いです。

今度も負けるものかということで、弥太郎は先頭に立って戦いますが、今度ばかりは分が悪いわけです。

何しろ、相手は政府と財界大物がバックについている会社ですから、まともに戦ったところで勝算はありません。

それだけに三菱も必死です。まあ、競争というよりも死闘です。死の戦いです。

共同運輸が事業を開始すると同時に、お客を奪われ始めた三菱は、不採算路線の廃止や人員削減など、大幅なリストラを断行する一方、旅客運賃を二十~三十パーセント安くしたり、貨物に至っては三割引、四割引で共同に対抗します。

共同運輸も共同運輸で、運賃を大幅に値下げして必死に戦う。ときにはタダで乗せることもあったということです。

要するに、どちらかが倒れるまでの我慢比べをやったわけです。

その我慢比べが三年近く続いたのですから、さすがの三菱も共同も体力の限界です。あと一年やったら共倒れになると危惧され始めたころ、岩崎弥太郎はガンになって、あっと言う間に死んでしまうのです。享年五十二歳です。

伸るか反るかの戦いの中で死んでしまったのですから、さぞや心残りだったろうと思います。岩崎弥太郎は名言を残しています。

「われ太平のときの能吏となり、乱世においては奸雄となる」

乱世における奸雄とは、魏の曹操のことです。曹操のライバルが蜀の劉備玄徳で、その下に関羽と張飛がいたんですけれども、皆さんご存じの三国志の世界です。

その曹操というのは大変に優秀というかキレ者で、彼を称して「乱世における奸雄」と言うんです。

悪知恵、奸計をもって天下を手に入れる。平時においては能吏、優秀な官吏となり、乱世においては奸雄となる。

「これ私の本分だ!」とうそぶいて、次から次へと権力を手に入れていく。弥太郎は、それが自分だ、と言っているわけです。

ところが、共同運輸との戦いの真っ最中に、岩崎弥太郎はガンで死んでしまいます。しかし、その死に際には、「東洋男児!」と言ったらしいんです。

すごいものです。まさに、度胸と根性で大事業を打ち立てた人にふさわしい最期の言葉です。気概の塊だと言えるかもしれません。

日本郵船の誕生

ところで、三菱と共同運輸の戦いはどうなったかと言うと、これ以上続けていたら両社とも倒産するしかない、というところにまで来ていました。

要するに、サービス合戦、値下げ競争、それからスピード競争で、お互いに疲れ果ててしまって、体力の限界に達してしまったわけです。

これ以上続ければ共倒れになる。そうなったら結局、外国資本を喜ばすだけだ。そう考えた政府は、三菱・共同の首脳会談をセッティングし、「もうそろそろバカげた競争はやめたほうがいい。互いに争うのではなく合併して、欧米の海運会社に対抗し得る大きな海運会社を新たにつくったらどうか」と、手打ちを勧めると同時に合併を提案したのです。

そのときにはもう岩崎弥太郎はいませんでした。代わって後を継いだのは、十七歳年下の弟、岩崎弥之助です。

岩崎弥之助は、兄の勧めで二年間、アメリカに留学していました。三菱がこの先、世界の一等国に伍してやっていくには学問が必要だ、と弥太郎は考えていたのでしょう。

弥之助は兄の強い勧めでアメリカで勉強しておりました。

そして、アメリカから帰ってくると、二十七歳で副社長として三菱に入社。数年間、弥太郎の下で一緒に仕事をし、弥太郎が死ぬと同時に社長を引き継いだわけです。

この岩崎弥之助がまた、非常に優秀な人で、三菱の基を築いたのは弥太郎ですが、経営を安定させて財閥にまで発展させたのは弥之助だと言われています。

このままだったら共倒れになるからということで、政府が仲立ちをして三菱と共同が合併したのは、弥之助が社長に就いて間もなくのことだったのです。

合併すれば無意味な競争は解消されます。しかし、問題はどちらが主導権を持つか、ということです。

二つの会社が合併をする場合、主導権は資本比率で決まるのが普通ですが、このときは三菱の資本金が五百万円であったのに対して共同は六百万円。つまり資本比率は五対六だったのです。

この資本比率だけで考えれば、当然、共同が主導権を握ることになります。

ところが、三菱のほうは岩崎家が株を独占しているのに対して、共同運輸は共同出資だったので、結果的に岩崎家が新会社の筆頭株主になり、合併後の会社をリードすることになります。

会社の規模としては共同運輸のほうが若干大きかったんですけれど、株主構成がまったく違っていたわけです。

かくして誕生したのが日本郵船です。日本郵船というと、とかく三菱がつくったものと誤解されがちですけれど、実はそうではなく、三菱と共同運輸が合併してできた会社なのです。

合併後、三菱は次々と事業を広げて三菱グループを形成し、経営基盤をより強固なものとしていきます。一方、新会社の日本郵船は、時間の経過とともに三菱色が濃くなり、結局は三菱グループに編入されます。

要するに、三菱は二代目社長の岩崎弥之助のときに財閥としての陣容を整えたわけです。

しかし、基をつくったのは何と言っても岩崎弥太郎です。ただ、心奢りをしたものですから世間の顰蹙を買って、アンチ三菱に包囲されてしまった。

もうちょっと腰を低く、謙虚にしていれば、違った結果になっていたかもしれません。

それにしても、岩崎弥太郎の気概性は驚くばかりです。弟の岩崎弥之助もお兄さんの気概を引き継いで、次々と時代の先端を行き、事業を展開していったわけですから、岩崎兄弟はベンチャーの鑑と言っていいのではないでしょうか。

福沢諭吉が気に入った三菱商会の「おかめのお面」

先ほど言いましたように、岩崎弥太郎亡きあとは弟の弥之助が引き継いだわけですが、その弥之助を補佐した人に荘田平五郎という、三菱の大番頭がおりました。

岩崎弥太郎は、学問の重要性を知っていた人です。江戸から明治の初期にかけての商人の多くは、学問なんか必要ない、商人が学問を身につけたらロクなことにならない、というふうに考えておりました。

しかし、弥太郎に言わせれば、それは昔の話だ、と。これからの時代は、学問のある人間でないと会社の経営はできないだろう、そんなふうに考えていたわけです。

弥太郎自身は、吉田東洋の少林塾で勉強していましたし、抜群に優秀だったわけですから、学問の大切さを知っているのは当然と言えば当然です。

では、三菱商会に学問のある人間がいるかと言えば、そうではない。

これでは先々が思いやられるから、いまから手を打っておく必要がある。

明治四年ごろに弟をアメリカに留学させたのも、その一環だったのだろうと思いますが、同時に彼は、優秀な人材を確保するために手を打っています。どんな手を打ったかと言えば、福沢諭吉に相談したのです。

「ウチの会社には将来を託せるような優秀な人材がいない。ぜひ、慶應義塾の優秀な学生をわが三菱に寄越してほしい」

いまの時代なら、天下の三菱から「ぜひ、わが社に来ていただきたい」と言われれば、誰もがみんな小躍りして喜ぶはずです。

ところが当時は、三菱に入社したいという学生は一人もいなかったんです。

世間では、山師の集まりだから三菱なんかに行くものか、と誰も行きたがらなかったと言われています。

そこで、岩崎弥太郎が直々に、「お宅の優秀な学生をぜひわが三菱に入社させてほしい」と、福沢諭吉に頼んだわけですが、お願いされた福沢諭吉もきっと困ったことでしょう。

何しろ、当時は山師と言われている会社だったのですから、そういうところへ自分の大切な学生を行かせていいものかどうか迷ったはずです。

で、福沢諭吉はどうしたかと言うと、自分の目で確かめるために三菱商会へ足を運んだのです。

そうしたところ、店頭に掲げられているおかめの面が福沢諭吉の目に飛び込んできました。

なぜ、岩崎弥太郎はおかめの面を掲げていたのか。つまりそれは、旧武士階級の人間は頭が高くて、商売が下手だから、まずは笑顔を絶やさない努力から始めなさい、という岩崎弥太郎の社員教育の一環だったわけです。

商売とは要するに、お客様へのサービスです。そのサービスをする人間が、頭を高くして威張っていてはいけない。

いくら武士出身と言えども、商売人の世界に入ったら、お客様におじぎをし、いつも笑顔を絶やさず、丁寧な物言いに徹しなければいけない。

その大切な心がけを忘れそうになったら、このニコニコしているおかめの面を見て思い出しなさい、と。

そういう社員教育の一環としておかめの面を店頭に掲げていたらしいんです。

それを見た福沢諭吉は、「おかめの面が気に入った。経営者の心が現れ出ている」と。

そして、愛弟子の荘田平五郎に白羽の矢を立てて言いました。

「三菱商会は世間で言われているような山師ではない。みんな一生懸命に働いている。

いつも笑顔を絶やさないようにおかめの面が掲げてある。

あのおかめの面が私は気に入った。経営者の心が現れ出ている。断言してもいい。三菱は必ず大成する。立派な会社になる。だからキミ、行ってみないか」

福沢諭吉にそう勧められて入社したのが、荘田平五郎二十七歳のときです。日本で最初に大卒で株式会社に入社した人です。

この荘田平五郎は、簿記から財務から何でもできたと言われています。慶應で講師をしていたくらいですから、それだけの学問があります。その学問でもって、三菱を近代的な会社に衣替えさせたのです。

たとえば、三菱は長崎造船所という造船会社を持っていましたが、そこはグループの中で唯一の赤字会社でした。

荘田平五郎はその長崎造船所に近代的な工業簿記を導入し、きちっと原価計算をして徹底的にムダを排除したのです。その結果、やってもやっても赤字だった長崎造船所が五年間で黒字になったのです。

その長崎造船所はのちの三菱重工になるのですが、これを立て直すために荘田平五郎は家族と一緒に長崎に行き、工業簿記を導入するなど、教育制度から何から全部を整えて、五年で黒字にしました。

当時、技術では日本一の造船会社で、そこでしか大型船舶はつくれなかったんです。

しかも、きちんと採算が取れるように荘田平五郎が立て直したわけです。

丸の内のビジネス街をつくった荘田平五郎の即断

荘田平五郎には非常におもしろい話が残っています。

いま、丸の内の東京駅前に丸の内ビルディング、通称丸ビルがありますが、あの丸ビル、実はこの荘田平五郎がつくったんです。

弥之助が荘田平五郎に、長年にわたって三菱のためによく尽くしてくれたからということで、「あなたもヨーロッパに行って、ぜひ勉強してきなさい」と、ヨーロッパ旅行をご褒美したことがあったらしいのです。

そのときに、現地で日本の新聞を見たら、丸の内が売りに出されている、と。あの丸の内一帯は、大名か何かのお屋敷の跡地だったんです。

それをきれいに整地して、売りに出されてはいたんだけれども、使い道もないし、三十五万平方メートルというものすごく広大な土地だから誰も買い手がなかった。で、政府は三菱に、「買いませんか」と勧めたんですけれども、弥之助は断ったんです。

ところが、その記事を見た荘田平五郎がイギリスから電報を打ったんです、「マルノウチカイトラレルへシ」と。それを見て、弥之助は即、買ったと言われています。それだけ荘田平五郎のことを信用していたわけです。

荘田平五郎がわざわざイギリスから電報を打ってきたのだから、よほどのことに違いない、彼の言うことだから間違いない、と。

その当時、イギリスにはすでにビジネス街というか、ビジネスセンターがあったんです。

ロンドンの中心地には、たくさんのビジネスビルディングが建ち並んでいたわけです。

しかし、日本にはビジネスセンターがまだない。そこで、丸の内が売りに出されたという新聞記事を読んだ荘田平五郎は、「あっ、丸の内は必ずロンドンのビジネス街のようになる。

東京にビジネスセンターをつくるには丸の内ぐらいの広大な面積が必要なんだ」と判断し、すかさず「買うべし」の電報を打ったのです。

即断です。その電報を見て、岩崎弥之助も即決で、丸の内のあの膨大のところを全部、買い取ったのです。そして、五年かけてレンガづくりの、最新のビルを建てたわけです。

それが日本初のビジネスビルディングです。建った当初は観光名所になるぐらいの評判を呼んだようです。

それから次々と二号館、三号館、四号館という形でレンガづくりの三菱グループのビルが建てられていったのです。

丸の内ビルが完成したときには、荘田平五郎はすでに亡くなっていたのですけれども、荘田平五郎の正確な読みと分析があったから、あの丸の内ビルディングが建ったんです。

もし、荘田平五郎という怜悧な頭脳の持ち主がいなかったら、丸の内のビジネス街はなかったのかもしれません。

荘田平五郎の電報一本で丸の内の土地を政府から買い、最初にレンガづくりの三菱本社を建て、それから次々と建て増して、五つか六つビルが建ったときに東京駅ができたわけです。

東京駅があったから丸の内にビルが建ったわけではないんです。

イギリスの荘田平五郎からの電報で、何もない野原みたいな土地を買って、そこに次々とビジネスビルディングを建て、五つ目か六つ目ぐらいのときに、政治力を使って鉄道を敷いたのです。

もちろん国鉄です。三菱鉄道ではありません。東京駅は、三菱によって丸の内が開発されたあとにできたのです。

いま、丸の内のビジネス街に立って、ああ、この街は荘田平五郎からの一本の電報でつくられたんだなあ、岩崎弥之助の即決でビルが建てられていったんだなあと思うと感慨深いものがありますね。

そういうことで、三菱が財閥としての形を整えていったのですが、そのあといくつもの財閥が誕生しています。その一つに安田善次郎が創設した安田財閥があります。

安田財閥の設立者、安田善次郎

安田善次郎は富山県の出身です。岩崎弥太郎と同じく下級武士から身を起こして、大財閥をつくった人です。

天保九年の生まれと言いますから、渋沢栄一や五代友厚、あるいは岩崎弥太郎などとだいたい同年代の人です。

そのころの富山藩は大変な貧乏で、大阪の豪商からお金を借りてやり繰りしていたのです。

それであるとき、富山藩に来る豪商の手代を、勘定奉行がたくさんの従者を連れて村外れまで迎えに行って、「ははー」とおじぎをしている姿を善次郎は見てしまったのです。

そして、帰るときは帰るときで、やはり村外れまでお見送りをし、「気をつけてお帰りくださいませ」と深々と頭を下げる。それに対して手代が、「あっ、どうも」と軽く会釈して帰っていく。

番頭ではないんです。ましてや主でもない。番頭の下の手代が来たというだけで、それだけの礼を尽くして送迎していたわけです。

その光景を目の当たりにした安田善次郎は、「ああ、金持ちの商人には勘定奉行も頭を下げるんだなあ」と、強烈なショックを受けたらしいのです。

安田善次郎も武士です。下級武士ですけれども、武士は武士です。当然、士農工商の時代ですから、武士が一番上の身分で、商人は一番下のはずだ、と。

実際、雨が降っているときでも武士が来たりすると、商人は草履を脱いで土下座している。

しかし、その商人が金を貸したというだけで、天下の勘定奉行が土下座とまではいかなくても、深々とおじぎをする。

しかも、番頭の下の手代にまでおじぎをしているのですから、安田善次郎にとって、大変なショックだったに違いありません。

金の威力をまざまざと見せつけられた善次郎は、「おれは武士を捨て、商人になりたい」と思うようになり、あるとき、父に願い出ます。

「私は商人になりたい」

「バカなことを言うな。お前は武士だ」

「はい。しかし、私はどうしても商人になりたいんです。商人でも金があれば、

勘定奉行でさえ頭を下げるんです」

「ダメだ。わが家の跡取りを商人にするわけにはいかん」

「それでもどうしても……」

強く反対したお父さんですが、ついに折れて、善次郎は二十歳のとき、「千両の分限者にならん」という志を胸に江戸へ出てきます。

江戸に出てきた善次郎は何をしたかと言うと、両替商と玩具問屋を兼ねているお店の丁稚になりました。六年ほど丁稚奉公をしたわけです。

ところが、本物か偽物かの目利きができるというので、非常に評判がよくなって、確か二十六歳で独立したのです。

そのとき手にしていたのは、六年間の丁稚奉公で貯めた五両というお金です。

たった五両のお金しかないのに、独立したところで千両の分限者にはなれません。

そこで安田善次郎は考えました。そうだ、露天の両替商をやろう。露天なら地代がかからないから五両の元手でもできるはずだ、と。

さっそく、日本橋のところに戸板一枚を敷いてお金をバラバラと並べ、「はい、両替しますよ」と始めたところ、目利きができるだけでなく、誠実にやるものだから評判が評判を呼んで、一年たったらたくさん儲かった、と。そこでその資金を元手に、安田商店を立ち上げたのです。

そうして善次郎が三十歳のとき、徳川幕府が崩壊して明治新政府となります。

そのとき明治新政府は、旧幕府時代の古いお金を集めて、新規に発行した太政官札と交換しようとしたのですが、世間は太政官札を信用せず、進んで交換しようとする人はほとんどいませんでした。

というのも、それまでの小判などには金が入っていたけれど、紙切れの太政官札には値打ちがないと考えたからで、だいたい太政官札が百両とするならば、実際には四十両の正金と交換されていたようです。

ところが、安田善治郎は知っていたんです。富山藩の藩札も最初はそうだった、と。

紙切れの藩札なんか値打ちがないと考える人が多かったから、なかな交換しようとしなかったけれども、藩の権威で藩札を出しているのだから、必ず価値を高める措置をするに違いない、と。

そして実際、そのとおりになって、藩札が流通するようになった。

だから、きっと太政官札もそのようになるに違いないということで、「いくらでも換えますよ」と言って、太政官札をいっぱい集めたわけです。

そうしたら、その一年半後に政府が、太政官札は値打ちが低いと言ったり、そういう行為をしたりする人間は処罰する、さらにそれを知らせてくれた人間には報奨金として何両出す、というお触れを出したんです。

次に、太政官札を兌換紙幣にする、と。要するに、金とかお金と交換しますよ、というお触れを出したわけです。

安田善次郎の財産は、あっという間に三倍くらいに膨れ上がったと言われています。

こうやって安田善次郎は、三十何歳かで二千両の金持ちになったのです。

その後、世の中は両替商から銀行の時代に移っていきます。安田善次郎も二千両の大金持ちになったので、銀行の設立に動きます。

ただし、共同出資だと思いどおりにならないので、安田善治郎の一族九人が共同出資をして、安田銀行というのをつくったんです。

そのころは、三菱とか三井とか住友が銀行をつくっていましたが、それらの銀行は系列の会社の資金調達をするだけで、一般庶民向けの金融機関ではありませんでした。

そこに目をつけた安田善次郎は、いまの多店舗展開よろしく、小さい店舗をたくさんつくって、庶民のお金を集めたんです。そうして、安田商店を安田銀行に改組したのが明治十三年です。

で、安田善次郎がつくった安田銀行というのは、日本初の庶民のための銀行ですが、その後、同じような小さい銀行が日本各地にたくさん設立されるようになりました。

ところが、それらの多くは武家の商法で運営されていたため、次々と破綻してしまうのです。

そういうとき、安田善次郎が出ていって吸収合併し、トータルで七十四の銀行を合併しております。

そのため、安田善次郎は乗っ取り屋との非難を浴びたんですけれど、それは誤解で、実際は銀行の救済であったようです。

銀行が潰れると金が回収できないわけだから、一家離散と自殺する人間が増えてくる。

だから、危ない銀行があったらとにかく合併して救うんだ、というのが安田善次郎の本心であったと言われています。

しかし、寄付が嫌いなことで有名な人でもありました。寄付をしてくれと言われても必ず断ったらしいです。

ところが、東京大学の安田講堂や日比谷公会堂は彼の寄贈によるものですし、巨万の富を投じて京浜地区の大規模な埋め立て工事を推進し、大工業地帯を実現したり、東京-大阪間を六時間で走る「弾丸列車計画」を発表し、そのための「日本電気鉄道株式会社」を設立したりしていますから、そういう方面にお金を出すことは厭わなかったのでしょう。

「弾丸列車計画」は、官営の鉄道に打撃を与えるからという理由で政府に反対され、文字どおり計画で終わってしまいましたが、急行でも十六時間を要していた時代に六時間で結ぼうというのですから、壮大な計画です。安田善次郎の構想は六十年後に新幹線という形で実現しました。

その安田善治郎は八十二歳で亡くなったんですけれども、「寄付をしてくれ」と、寄付を強要する人が大磯の別邸に来たらしいんです。

それを安田善次郎が断ったら、相手が怒って刺し殺したということです。

三菱、三井住友、安田の四大財閥は、いずれもゼロからつくられたものばかりですけれど、その中でも、とりわけ安田はまったくのゼロから始まったと言っていいのではないでしょうか。

武士の気概を持っていた明治の創業者

明治の時代に企業を興し、財閥まで育て上げた人はみな武士の気概を持っていました。武士の気概を持って、「やるぞー!」ということで江戸へ出てきているのです。

そしてみんな、三十歳前後で明治維新を迎えています。志半ばで倒れた人もいたでしょうが、少なくとも、四大財閥を立ち上げた人は武士の気概を持って、最後まで生き貫きました。

時代の変動期を生き、勝ち残った人は、絶えず先行きを考えて、一歩先、一歩先を見通していました。

先ほどの安田善次郎にしても、いまは価値のない藩札であっても、やがては値上がりするだろう、政府もやがて藩札を上げるための施策を講じるだろうという、確かな眼を持っていました。

その眼を信じて行動したのであって、別に瓦版に教えてもらって行動したわけではありません。安田善治郎はいくつものチャンスをことごとくモノにして、先ほども申しましたように、銀行を立ち上げるときには安田一族の資本だけでやっています。

共同出資では思いどおりにやれない、庶民のための金融事業ができない、ということで安田一族だけで銀行をつくったんです。

日本で最初の庶民を対象にした金融機関です。その安田銀行もルーツをたどればゼロです。二十歳で富山から江戸に出てきたときは徒手空拳、何もありません。それでも、玩具屋の丁稚

を手始めに次々と事業を興し、財閥にまで押し上げたのですから、見事と言うほかありません。

明治のころの財閥の創始者を見てみたら、みんな武士の気概を持っている。負けてなるものかという気概を持っています。

ですから皆さん、気概を持たなくてはいけません。この中で、どれだけの人が彼らに匹敵するだけの気概を持っているか。それがいま、問われていると思わなければいけないと思います。

銀行が言うこと、証券会社が言うこと、新聞の言うことを鵜呑みにする傾向があります。これからはITだと言ったら、何でもIT。

左と言ったら左、右と言ったら右。バブルのときでも、不動産投資がいいと言ったら、猫も杓子もみんな不動産投資株がいいと言ったら、みんな株。ゴルフ会員権が儲かると言ったら、みんなゴルフ会員権。本当にどうかしています。

典型的なのはそごうです。確か、一九五八年だったと思います。私が七歳のときに、水島という人がそごうの副社長になったんだな、と思ったことを覚えていますから、一九五八年に間違いないでしょう。

こんな細かい数字、普通はなかなか覚えられないものですが、そういうことがあったので覚えているわけです。

とにかく、一九五八年に日本興業銀行にいた水島廣雄さんがそごうの副社長になったんです。

その水島さんは、「わしが担保だ」と言って、一兆八千億円という大金を銀行から借りたらしいです。

そのお金で三店舗から十店舗、十店舗から二十店舗、二十店舗から三十店舗と、次々と拡大していったんです。それを称して世間では、「ダブルそごう」とか「トリプルそごう」とか言っていました。

そごうは、百七十何年もの歴史を誇る会社です。しかし、百貨店業界全体から見たら小さいし、伸び悩んでいました。

そこに、興銀の水島さんが入ってきて、積極策で次から次へと店舗を拡大していきました。たとえ損失が出ても、新たに銀行から金を借りては、土地を買って建物を建てた。土地が値上がりするから、その含み益で損失を補填していったわけです。

含み益に頼る水島さんの経営手法はデパート本来のやり方ではなかったわけです。

それでも、高度経済成長が続いているうちは、「行け行けどんどん」の積極策、拡大策が功を奏していました。そして三十年後に、そごうはとうとう売り上げ日本一のデパートになるのです。

しかし、それからわずか八年後、バブルの崩壊とともに経営が破綻し、メインバンクとして莫大な資金を融資していた興銀、長銀も経営が怪しくなってしまいました。

それは、新聞なんかを見るからです。「土地さえ持っていれば大丈夫。土地はずっと値上がりする」という、いい加減な新聞記事を読んだりするから、バブルに踊らされ、痛い目に遭うんです。

バブルで傷を負わなかった経営者は、自分の眼を信じていました。新聞記事や証券会社、銀行の分析なんかアテにしていなかったんです。

こんな話をすると、皆さんが本当に新聞を読まなくなるかもしれませんね。ウチの息子が研に入ってから新聞を読まなくなった(笑)、と。

そんな苦情が寄せられるかもしれません。新聞を読んでもいいんです。しかし、数値だけを見て、解説や分析を信じないようにしたらいいんです。

新聞の解説だとか証券会社の分析だとか、そんなものより大切なのは経営者の気概です。ゼロから会社を立ち上げ、日本を代表する企業にまで育て上げた人はみな、世界のレベルに追いつけ追い越せ、外国に負けてたまるか、という夢とロマンを持っていました。

そして、自分の眼、自分の肌を通して感じ取るものを何よりも大事にしていた。だから、人が右だと言っても右には行かず、あえて左に行ったりもした。

そうやって、成功を収めてきたわけです。ですから、人様の逆をやればいいんです。ドン・キホーテさんなんか、まさにそうではないでしょうか。「逆もまた真なり」です。

日本人の長所が前面に出ていたときには、気概を持って誰もやらなかったこと、前人未到のことをやっていたんです。

とくに、アメリカやヨーロッパなどに負けるものか、とにかく国産のものをつくっていくんだ、と。とにかく、自分たちの手で純国産のものをつくるんだ、という気概と根性がありました。

自動車もそうです。トヨタ自動車の創業者、豊田喜一郎さんは、確か、日本の道路を走るアメリカの車を見て、「絶対に国産車で日本の道路をいっぱいにしてみせる」と。

その気概で誰もつくったことのない自動車づくりにチャレンジしたんです。それからソニーの盛田昭夫さんもそうです。

外国になんか絶対負けるかと、度胸と根性でアメリカに進出していったんです。アメリカが何だ、と。

岩崎弥太郎が社長の給料は半分、従業員の給料も三分の一削ってでも絶対にアメリカに負けるか、イギリスに負けるか、と。その気概性です、大切なのは。

こんな話ばかりしていると、「先生、日ごろ言っていることと違うんじゃないですか。大切なのは愛と真心じゃなかったんですか」と言われそうですが、確かに愛と真心は大切ですし、平らけく安らけくと常に祈らなければいけません。

それも、無理やり思ってやるのではなく、自然な心でやらなければならないんですけれど、しかし、国には腹が立つ。民には愛、国には怒り、です。

ですから、愛と真心は大切ではないと言っているのではなく、ここでは気概のことを言っているんです。アメリカに負けるか、ITが何だ、と。

日本の大企業も、それから政治家も、外国から何か文句を言われると、すぐに反省しますが、それがいけないんです。

「国際競争力比較」なんかにだまされるな

あるとき、スタッフの一人が、「先生、これを見てください」と一冊の雑誌を持ってきたんです。その雑誌には、「国際競争力比較」という記事が載っていて、いろいろな分野別の順位と総合順位が一覧表になっていたのです。

で、その雑誌によると、日本は総合十七位なんです。分野ごとの順位では圧倒的にアメリカがトップで、日本は二十位とか三十位というのが多くて、そのスタッフが、「先生、これヤバイです、日本の経済」と言うわけです。

「何だ、これ?」

「世界で最も権威があるとされる国際競争力比較です。日本は総合十七位。分野ごとのランキングでは三十位とか四十位とか、そんなのばっかりで、全然ダメなんですよ」

確かに、日本はよくありません。どの分野でも二十何位とか三十何位というのが多くて、フィンランドとかアイスランドにも負けているんです。で、総合十七位なんです、国際競争力が。

それでそのスタッフが、その雑誌のあちこちに線を引いて、「先生、これ。日本ヤバイですよ」と、深刻な顔をして持ってきました。

そこで私は、「これ、どうやってデータを取ったんだ?」と聞き返しました。

政府の企業に対する協力度とか何とか、いろいろな指標があるのですが、どうやら、企業にアンケートを取って作成しているらしいんです。

要するに、アアンケート調査をベースにしてランキングしているわけです。ということは、こんなの信じるわけにはいかない、ということなんです。

たとえば、ブルネイとかアイスランドとか小さい国の経営者、あるいは愛国心の強い経営者は、「アイスランドはこうだ!」と自信を持って答えます。

それに対して日本人は、非常に謙虚ですから、遠慮がちに渋いことを答えます。

「日本はまだまだダメだと思う」とか、ね。それをそのままデータにしてランキングしているわけですから、誰がこんなの信じられるか、なんです。

例えば、「あなたは信じている宗教がありますか」という問いに対して、約七十パーセントの日本人は、「特に信じている宗教はない」と答えているんです。

だから日本人は「信仰心がない」ということになっているんですけれども、だったらなぜ、初詣に行くんだ、墓参りに行くんだ、法事をするんだ、合格祈願をするんだ、と。

これで日本人に信仰心がないと言えるのか、と。日本人に信仰心がないなんてウソです。

要するに、日本人の信仰というのは、キリスト教的信仰ではない、というだけなんです。日本人は神なるものを体で感じ、日々の生活の通過儀礼として手を合わせますし、「何とかなりますように」と合格祈願を真剣に祈っているんです。

しかし当の本人は、「これが宗教かな?」と思っているわけですから、宗教の定義が違うだけなんですけれども、「あなたは宗教を持っていますか」と問われると、「うーん。宗教ねえ。とくにないな」ということで、多くの日本人が「ない」と答えるわけです。

「宗教がない」イコール「信仰心がない」ではありません。それなのに、日本人は「信仰心がない」と答える。

だったら、そのアンケート結果だけを信じて、日本人には宗教心がないのか、ということになってしまいます。

しかし、お墓先祖を参るときなんか、結構真剣に祈っていますし、とくに合格祈願とか、恋愛成就祈願になると、神社やお寺で一生懸命に祈っているではありませんか。

会員だけが熱心なのかもしれませんけど(笑)、日本人なら誰でも一応は祈っています。しかし、「宗教は?」と問われたら、七十パーセント以上の人が、「とくにない」と答えるんです。

だから、日本人には信仰心がない、とアンケート結果では出るわけです。誰がそんなアンケートを信用できるんですか。

欧米では九十パーセント以上の人が「信仰心がある」とはっきり答えます。

そんなことは当たり前なんです、キリスト教国なのですから。それに、神の言葉とされる聖書があります。

要するに、文化的背景が違うわけです。

なのに、それをそのまま信じて、日本人は信仰心がないというのは、どう見たって間違った考え方で、そんなアンケート調査に基づいたデータなんて信じられません。

日本人よ、もっと自信を持て

それで私は、笑いながらそのスタッフに言いました。

「この数値を見てみなさい」

「はい」

「総合十七位と書いてあるけれど、貿易収支を見てみなさい。世界一だろ」

貿易収支、経常収支、世界一なんです。

「このナンバーワンというのは何なんだ」

貿易収支、つまり輸出額から輸入額を差し引いた黒字額が世界一なんです。

経常収支も世界一なんです。それから、科学技術の何とかかんとかというのも世界第二位か三位なんです。

「経常収支と貿易収支が世界一で、科学の分野でも二位か三位なのに、ほかの数値はなぜこんなに低いんだ。おかしいだろ」で、科学技術に関する項目は、「政府の協力度」とか「国際比較」だとか、いろいろと細かい項目があって、「発明件数」は二位と三位なんです。

「国際競争力の総合では十七位かもしれないけど、貿易収支と経常収支が世界一なんだろ。世界一儲かっている国じゃないの」

確かに、赤字国債をいっぱい抱えていて、借金も多いけれど、しかし少なくとも貿易収支はどこの国よりも上なんです。ドルベースで世界一なんですから。経済の規模が違うわけです。

アイスランドが一番とか二番という項目がありました。しかし、アイスランドにいったい人が何人住んでいるんだと言うんです。

自分の国に誇りを持って、「政府の協力度、最高」と何人の日本人が書いているんだ、と。貿易収支と経常収支は世界一なんです。

要するに、貿易して得た利益が世界一ということです。GDP(国内総生産)も世界第四位と書いてありました。本当は世界一と言われているんです。

最近の数値を見ていないので、はっきり言えませんけれど、何パーセントか落ちているとしても、GDPのトップがアメリカ合衆国で、日本はまだ二位のはずです。

一人当たりのGD Pはいま少し落ちていますけれどもね。

一人当たりのGDPの一位はアイスランドだと出ていましたけれど、アイスランドに何人の人間が住んでいるんでしょうか。

日本の人口が約一億三千万人なのに対して、アイスランドは二十五万人から三十万人くらいのはずです。

圧倒的に人口が違うのに、世界一だの国際競争力が何番だと言うような次元の話なのか、というわけです。

「だから、そんなデータを真に受けちゃダメなんだよ。そんなのを見たら、自信をなくすんです。しかし、貿易収支は世界一。経常収支も世界一です。

GDPはアメリカ合衆国が世界一で、日本は世界二位だ。じゃあ、それ以外の国際競争力とは一体何なのか。

この数値は何を根拠にしているんだ。貿易収支と経常収支が世界一なんだから、競争力はないかもしれないけど、一番儲かっているじゃないか」

競争力って何なんだ、と。まあ、競争力がないと言うなら、ないということにしましょう。

しかし、競争力がないのに儲かっているということは、それだ日本の商社マンやビジネスマンが頑張っているという証拠なんです。いろいろと規制があってやりにくい中でも頑張っているということです。

競争力がないのになぜ貿易収支や経常収支が一位になるんだ、と。ビジネスマンが頑張っているからです。

日本の商社マンやビジネスマンが、負けるものかと頑張って、世界経済の中で割って入っていく。そして、商売がうまくいっているから、貿易収支、経常収支が世界一なんです。黒字です。

赤字ではありません。今年は輸入が増えたので黒字幅が二十パーセントほど減りましたが、貿易収支は圧倒的な黒字です。

確かに、国債の発行残高が多くて、日本は借金国です。しかし、経済力を見ていく眼とは何なのか。

日本は経済の基本的スケールがあるわけですから、競争力がないというのはそもそもおかしな話なんです。

そのデータによると、「将来性」という項目でも日本の評価は低いんです。では、競争力もなく将来性もなく、かつまた規制が多いなかで、これだけの経常利益を上げているのはなぜなのか。

それは、現場の商社マンやビジネスマンが頑張っているからなんです。一生懸命に働いているからなんです。

そういうビジネスマンの根性とか、ビジネスマンの優秀さを計る指標はあるのかと言ったら、それはないわけです。

国際競争力比較と言うんだったら、ビジネスマンの根性、ビジネスマンの努力、ビジネスマンの勤勉さ、そういったものも比較対象に含めなければ意味がありません。

「頑張るぞー、負けてたまるか!」と、現場に立って一生懸命に働いている人の流した汗や、外国で辛い思いをしながら頑張って商品を売っているビジネスマンの流した涙。

その汗と涙の絶対量を比較する項目があるのか、と。ビジネスマンが流した汗と涙、「国際リットル比較」「国際涙リットル比較」という項目があるのか、と。そんなのないわけです。

だから、そんなデータは信じられない、と言うんです。マスコミの発表するデータは信じられない。政府の発表するデータは信じられない。

そんなものを見て自信をなくしては絶対にいけないんです。貿易収支世界一、経常収支世界一、これを見ていればいいんです。

競争力がないのにこれだけの数値になっているということは、みんなが頑張っているからなんだ、だから自分も頑張らなければいけない、と。

そう考えるべきであって、「えっ、国際競争力が十七位なんだ。将来度は四十何位なんだ」とがっかりしたり、自信をなくしたりしてはいけないんです。

どうしてこのようなデータが出たのか。それはアンケートだからです。ですから、そんなの信じられるかって言うんです。

日本人は一生懸命に頑張っていでも、これでも足りない、これでも足りないと思っていて謙虚なんです。だから、アンケートにも控えめに答えるんです。

一方、アイスランドやフィンランドは、自信を持って、「わが国は最高だあ!」と書くんでしょうね、きっと。さっきのデータは、世界で最も権威があるということですけれど、世界で最も信じられないデータです。

そんなデータを鵜呑みにしていたら、気概性を失うだけなんです。

だから銀行の言うことや新聞の言うこと、証券会社のアナリシスは信じられませんし、信じてはいけないんです。信じられるのは、儲かっているか儲かっていないかの採算勘定の数値。それ以外は自分の感性と頭脳でやっていく。

会社の収支決算、損益計算書、バランスシート。会社の資産がどれだけあって、儲かっているのか儲かっていないのか、前年度と比較してどうなのかを見ながら一生懸命頑張って、売り上げを取っていったらいいんでしょう。国際比較の中に、会社を経営するうまさなんていう項目があるのか、と。

とにかく、マスコミはビジネスマンの根性を萎えさせるように、自信を失わせるように書くんです。言わば、ダメなんだという気持ちにさせる天才だと言えます。だったら、その逆をやればいいんです。

中小企業の経営者よ、気概を持て!

三菱グループをはじめ、安田グループとか、今日はいろいろとお話ししてきましたが、明治の起業家たちはみんな武士道の心を持ち、禅的な気概を持っていました。

「負けるかあ!」「一寸の虫にも五分の魂だあ!」「国は小さいけれども欧米に負けるかあ!」。

欧米企業が独占しているところにグワーンと割って入っていって、打ち勝つ。

「お国のためだ!」「欧米に負けるかあ!」と。皆さんも、「大会社に負けるかあ!」と、つねに自分自身に言い聞かせて、頑張らなければなりません。

それが、経営を預かる者の度胸であり、根性であり、気概性であり、責任です。

そう考えたら、コンビニに入っていっている丹頂の舞本舗さんのラーメンはチャンスですね、いま。それからF牛乳さんも、雪印がああなっているから、「チャンスだ、雪印の空白を狙って行け!!」と。

これは天狗様のお裁きです、雪印は。それから、そごうもお裁きです。天狗の鼻をポーンと折られたんです。

それを見て中小企業は、「負けるか、天狗に」「先発メーカーに負けるかあ!」「不況じゃあない。不況は関係ない。

不況だろうと何だろうと、勝って勝って勝ちまくるんだ!」と、その気概を持って先行の会社に打ち勝ち、それから大手に打ち勝っていくべきです。

ですから、新聞とか雑誌とか、それから国際競争力比較とか、アナリシスなんかを絶対に信じてはいけません。あんなものを信じていたら会社がおかしくなります。

その前に、経営者自身が自信をなくしておかしくなってしまいます。気概性を持って、自分の感覚と売り上げの数値だけを見て、とにかく先行す会社や大手の会社、アメリカなどに勝つ。あらゆる分野で全部勝つという気概性を持ってやっていったら、日本型経営が成功するんです。

その気概がなくなったら、日本の欠点が前面に出てきてしまいます。ああ、ダメなんだと意気消沈して、勉強する気もなくなるし、努力する気持ちもなくなってしまいます。

明治の人たちはみんな気概があった。その気概が富国強兵策を成功に導き、一九〇四年の日露戦争を勝たせたんです。

ロシアの前には清国に勝った。この明治の人たちの気概は武士道の精神です。武士道の精神に基づく気概を持って生きた人たちが、世界に冠たる日本をつくったんです。

そのことを思えば、中小企業が生きていく道は気概を持つ以外にないと言えます。気概を忘れたらダメなんだ、ということです。

「先行メーカーや大手に「負けるかあ!」と、割って入っていくんです。全部共通しています。会社を創業して成功しようと思うのなら、その気概を忘れたら絶対にダメです。

いずれにいたしましても、日本型経営の長所と短所、そして、不況に関係なく発展しつづける会社になるための気概について、かなり具体的にお話しいたしました。

これが会社の生命力です。会社の生命力イコール経営者の気概性なのです。ということで、これで終わります。(拍手)