深い人間理解が出世に導く
二番目は何かというと、人間理解です。
人間理解とは何かというと、要するに人を許すことです。ゴマをすり、おべっかを言うことに罪悪感がなくても、出世欲に凝り固まっている人間を許せないんです。
あるいは、女、女、女と、女ばかり追いかけている男のことを許せない。
なぜか。自分自身、出世していないし、女にモテないからです。女性の側から見ると、「何、あの人。次々と女の子を取っかえ引っかえして」と。女の側から見ても許せないわけ。自分がやっている人は、「よく頑張っているな」と感心するんですけれどもね(笑)。
前も言ったことがあると思いますが、イギリスの銀行協会で、ある調査を行いました。どういう調査かというと、どんな人が銀行マンとして出世しているか、頭取にまで出世している人はどういうタイプか。
それを調べる調査を行ったのです。
その結果、ある共通項が見つかりました。それは、「全員、シェークスピアをこよなく愛し、シェークスピアを研究していて、心のよりどころとしている「人だった」ということです。
数量経済の専門家でもなく、統計経済の専門家でもなく、経済予測の専門家でもなく、財政学の専門家でもない、金融業の専門家でもなかった。
もちろん勉強しているでしょうけれど、それ以上にシェークスピアをこよなく愛する文学的な人。そういう人が頭取になっていたのです。
シェークスピアをこよなく愛し、趣味とし、よりどころとしていた人というのはどういう人か。
たとえば、「マクベス」というのは、マクベス夫人という悪妻のことが書かれているし、「リア王」なんていうのは、親子関係の悲劇が描かれていますけれど、シェークスピアのどの作品にも、人間の欲望、恨み、つらみ、呪い、妬み、そねみ、悲しみ、はかなさ、そして、また親子の情、男女の愛、夫婦の愛。
その中に錯綜する人間の陰の部分も陽の部分も、いいところも悪いところも描かれていて、しかし、どこか人間に対するあたたかい愛があるわけ。人間を肯定しているわけです、シェークスピアは。
要するに、人間に対する理解力なのです。人間というものを理解して、いいも悪いも、酸いも甘いも、裏も表も分かったうえで、人間を愛する心。それがシェークスピアの作品に流れている特色です。
そのシェークスピアの作品をこよなく愛している人が頭取になっていた。つまり、人間というものを正しく深く理解している人、そして、それをあたたかく見ている人が頭取になっているのです。
出世というのは、多くの人々に認められて、初めてできるものです。多くの人々の中にはキツネのような人もいるけれども、認められるためには、まず人間理解というものがなければならない。
いい加減なヤツとか、悪人とか罪人とか、サボり屋とか傲慢なヤツなんかいても、理解して許せる。あいつは気むずかしいヤツだけれど、こういういいところもあるから、彼を抜擢しよう、と。
そういう人間理解がないと、人から認められないし、出世なんか不可能に近い。
「彼は出世、出世、出世で目が血走っているけれども、あの努力たるや、すごいものがあるよね」「目下には信頼されていないけれども、目上にはいいから、彼を秘書官にしようよ」「彼はライバル心が強いから、いつも同僚とケンカしているけれども、部下たちには慕われているから、新しい支店の支店長にしようよ」というように、そうやって、いいところも悪いところも、性格の表裏も全部分かったうえで活かそうとする。
これがトップの役割であり、トップのトップたる所以です。
人間理解というものがない人は、社会や企業の中で生き抜いていくのはなかなか難しいはずです。
とくに宗教好きな人は難しいですね。愛と真心というやさしい性格の持ち主ではあります。
もちろん私もそうです。しかしそういう人は、人間理解がとかく不足しがちですから、汚い人間とか嫌らしい人間とか変な人間が許せなくなる。
自分がきれいで潔癖だから、人もきれいで潔癖でなきゃならないと思うわけです。だから許せなくなるんです。
神様とか仏様はずっときれいで潔癖だから、神仏の道を求めている。それはそれでいいんですけれど、その神仏はどうかというと、きれいじゃない人間も、潔癖じゃない人間、どろどろした人間も、すべて神様がお造りになったんだから、神仏はそういう人も、救いたいと思っているわけです。
「和光同塵」の教え
それが神の心であり、仏の心です。それが分かったら、そこから人間理解の勉強が始まっていくわけです。
これを、「和光同塵」「同事」と言います。「和光同塵」とは、光を和らげ、塵と同じくする。清く正しく美しい人間は、自分が清く正しく美しい人間だから、清く正しく美しいものがいいとして、神仏の道を求めていく。しかし、それだけだったら、あまりに光がまばゆいので、光を和らげて塵と同じくする。
つまり、どろどろした汚らしい人間とも分け隔てなく接していく。
弘法大師さんも、このことを言っています。もちろん、弘法大師は仏教的意味合いで言っているのですけれど、このことを強調しています。
ある人が弘法大師さんに手紙を書きました。
「私は官僚としてやっておりますけど、いまの上司、これがもう本当にやりにくい男で困っています。ゴマすりで、部下に対してもつらく当たるし、人間として尊敬できません。あんな人と仕事をするぐらいだったら、私は官僚勤めをやめ、田舎に帰って自分のしたいことをやりたいと思います。
弘法大師さん、いかがでしょうか」と。
これに対する弘法大師の返事はどういうものだったかというと、
「あなたの気持ちはよく分かります。官僚という宮仕えほど辛いものはない。右と言えば右、左と言えば左、従わなきゃいけないんですから、それは大変でしょう。
しかも、尊敬できない人間、腹の底から憤るような人間の部下となってやるということは、さぞかし大変で耐えられないことでしょう」
と、まず相手に同情してあげたうえで、
「しかし、仏教では「和光同塵」「同事」という二つのことを大切にします。
この二つのことを知って、本当によくよく考えてください。それでも仕方がない場合は、田舎に帰るのもいいでしょうけれど、早まっちゃいけませんよ、焦っちゃいけませんよ」と、その人間を励ましています。
いまの言葉で言うと、「目一杯頑張れ」というところでしょう。
仏様は、光が燦然と輝く、清く正しく美しい、善なる存在です。だけど、どんな衆生も元は神の子、神の宮だし、仏性を持っているわけだから、そんな人間こそかえって哀れみをもってあげましょう、というのが仏様の御心です。
人は、理想像に合っていて素晴らしかったら尊敬するけれども、悪人だったり罪人だったりしたことが分かったら、パッと離れていなくなる。
ところが、お父さん、お母さん、兄弟、身内は、自分の家族が犯罪者だったり罪人だったりしたら、いっそう哀れんで、何とかこの子はよくならないものだろうかと、ひたすら願う。
それが親心、身内です。血がつながっているからそう思うわけで、善人でも悪人でも、その子のために一生懸命になる。
まさに無償の愛です。とくに母親はそうですね。自分が育てた子だから、いっそう不憫に思って、これをいとおしむ。
仏様も神様も、この心と同じなんです。だから、罪人だったり、あるいは犯罪者だったり、悪人だったりする者を哀れんで、そういう人間をも幸せにしていこうと思っていらっしゃる。
けれど、仏様は直に出たらまぶしい。「わーっ、まばゆい。私なんか、このまばゆさにとうてい近寄れません」となる。
だから、慈悲と慈愛の仏様は、その人間を救済するために、自らの光を、たとえば、百ワットの明かりを三十ワットぐらいに落とされて、寂光、心静かなる光に変える。
これが「和光同塵」です。仏様の智恵の光、燦然と輝く慈悲の光を和らげて、薄暗くする。
そうすると、暗く汚いところにいる人間は、ちょっと明るいから、「あ、明るいですね」と感じるわけです。
そして、塵と同じくする。悪人とか罪人とか、悪い人間というのは塵まみれなものだから、塵と同じくする。塵と同じように、埃だらけになりながら、「最近、埃っぽいですな。お互い、鼻毛がずいぶん伸びましたな」と。
「同事」とは
そのとき、仏様も塵と同じくしているから、「本当に鼻毛が伸びますね。きっと空気が悪いからでしょう。
でも、もうちょっといいところ、空気のいいところがあるから一緒に行こうよ」と言って、その人間を連れていくわけです。
光を同じくし、和らげ、塵と同じくするから、そういうところに住んでいる人間が救えるのです。
しかし、自分が高いところにいたら燦然としてまぶしいし、塵まみれになっている人たちの気持ちが分からず、救えない。だから、光を和らげ塵と同じくして、そばに行って教え、そして救おうとされるわけです。
これが、慈悲があるところであり、智恵があるところであり、自在なところなんだ、と。これを「和光同塵の働き」と言います。
次に「同事」とは何かというと、「事を同じくする」ということです。たとえば、上司から、「おい、冷蔵庫をあっちからこっちに移せ」と言われたとしましょう。このとき、
「いや、冷蔵庫をこちらに移すと通行の邪魔になりますから、冷蔵庫はあそこに置いたままにすべきですよ」と反論したらどうなると思いますか。
「いや、わしはあっちよりこっちのほうがいいと思うんだ。とにかくこっちに移せ」
「いや、冷蔵庫はあっちに置いたままのほうがいいですよ。こんなところに置いたら通行の邪魔になるじゃないですか」
「通行の邪魔よりも何よりも、冷蔵庫は部屋の東南に置いたほうがいいと、風水の本に書いてあったんだ」
「東南がいいというのは、事務所の入口のことじゃないんですか」
「冷蔵庫にも入口があるだろう。とにかくわしの言うことを聞いて、冷蔵庫を早くこっちに移せ」
「いやあ、でもやっぱり冷蔵庫はあっちです」
「お前はわしの言うことが聞けないのか」と、口論になるはずです。
そのとき、「何とやりにくい上司よ、なんとバカな人なんだ。こんなヤツとはやっていけない」と思ったりするわけです。
指示なり命令があったとき、「いや、あああるべきだ、こうあるべきだ、こうするのが本当だ」なんて言って議論して、口論すると、本当にやりにくくなります。挙げ句の果てには、
「お前は本当に頑固なヤツだ。素直さがない」と言われてしまいます。
部下は部下で、「バカなことを言う上司だな」とか「頑固な上司だな」とか「勘違いしてんだ、あなたは」とか、はらわたが煮えくり返る思いをする。
たとえ表面的には「はい」と素直を装いながらも、「もう、こんなヤツとやっていけない」と、うんざりしきってしまうこともある。
こういうとき、仏様ならどうするかというと、「事を同じくする」んです。「おい、冷蔵庫をあっちからこっちへ移せ」と言われたら、
「あ、冷蔵庫ですね。移しましょう」
「頼むよ」
「うーん。さすがに一人だと重たいですね」
「手伝おうか」
「手伝っていただければありがたいです」ということで、とにかく言われたとおりに冷蔵庫をあっちからこっちへ、上司と一緒に移してみるわけです。
腹では、「こんなところに置いたら通行の邪魔になるじゃないか」と思っているんだけど、上司がそう言うから、事を同じくして、冷蔵庫を移してみる。そして、
「冷蔵庫をここに置くと、通行の邪魔になりませんか。ちょっと歩いてみましょうか」と言いながら歩いてみて、
「やっぱりちょっとつかえますよ、ここ」
「うん、ちょっとつかえるな。でもまあ、少しぐらいつかえてもいいじゃないか」
「あ、そうですよね。いいですよね」ということで、しばらく置いておく。
そうすると、他の社員が通ろうとしたときに、「おーい、誰だ、こんなところに冷蔵庫を置いたのは。通行の邪魔じゃないか」と、文句を言う。
それが何人からも同じことを言われたと。これを受けて、改めて上司に言う。
「少しぐらい通行の邪魔になってもいいか、ということであそこに置きましたけれど、何人かの人から邪魔だと言われています。ちょっとあそこはまずいみたいですね」
「そうかあ。われわれはいいと思っても、文句が出るとなると、これは問題かもしれないね」
「どうしますかね」
お腹の中では、「こんなところに置くなんて、初めからダメだと言ったじゃないか。通行の邪魔になるし、入口に置くのは最初から間違っているんだよ。
このバカが」と思っているんですけれども(笑)、
「どうしますかね」
「やっぱり元の場所に戻そうか」
「戻したほうがいいかもしれませんね。私が戻します」
「いやいやいや、わしの思い違いだったから、わしが元へ戻すよ」
「いや、私が戻しますよ」
「そ、そ、そうか。すまんなあ」
ということで、一生懸命に冷蔵庫を元に戻す。
「戻しました。すっきりしましたね、入口が」
「ああ、やっぱりここのほうがよかったね」
「部長の早いご決断で、元の場所に戻されてよかったですね。」
「それはそうだよ。俺は決断力があるんだよ」(笑)
「「過ちて改むるにはばかることなかれ」と言いますけど、さすがは部長。学問があって決断が早い。
普通、進むのはできても、退くのはなかなかできないのに、やっぱり部長は違う。さすがですね」
「いやいやいや」と。これが「同事」というものなのです。それで上司と仲よくやっていけるわけです。
仏様はそうやって、悪いものと知りながら、一緒に地獄に堕ちてあげたり、一緒に水に溺れてあげたりするんです。
「やっぱりこれ、溺れますね」
「ちょっと、酸素吸入しよう。ボンベだ、ボンベ。ボボ、ボンベ、ボンベ、ボンベはどこだ?」
「とりあえずボンベイに行きますか」
「それはギャグだろう」(笑)
「ボンベがないようですから、泳ぎますか」
「泳ごう」
「斜めに泳ぎましょうかね」などと言いながら、スススーッと岸辺に誘っていく。
仏様は、こういうふうに衆生を導くんですよ、ということを「同事」というのは教えているわけです。
初めから大上段に、「あれしよう、これしよう」「いや、これはいいよ、こんなのおかしい、こういうものはおかしいよ」なんて言わずに、とりあえず相手がしたいということを、事を同じくして一緒にやりながら、
「これ、ちょっと問題かもしれませんね」
「うん、そうだな」と間をおくことで、その人が改心し、いい方向に行くように導かれるんですよ、ということです。
弘法大師が示した人間理解の深さ
「仏様もこのように、自分の我とかプライドとか、かくあるべきだ、という信念を前に立てるのではなく、衆生を救おうとされる慈悲の思いと叡智をもって辛抱しているんですよ。
そして、光を和らげ塵と同じくし、事を同じくして、衆生を導いておられるんです。
だからあなたも、大変なのはよく分かるし、お気持ちはお察しいたしますけれども、この二つのことを考えて辛抱し、せっかくのいまのお仕事ですから、短気を起こさないで、もうちょっと頑張ってみてはいかがですか」という弘法大師さんのお手紙が残っています。
弘法大師がこういう手紙を書いたということは、本人も苦労の中で同じことを思っていた、ということです。
三十一歳で恵果阿闍梨の法を継いだ、真言第八祖です、弘法大師は。中国三千人の弟子の中でもダントツのピカイチで、そのときの中国の帝に五筆和尚と言われるほどの書道の達人で、文章も、それから霊力も、あらゆるものの大天才だった人です。その大天才の弘法大師が、五十一歳くらいのときに書いた言行録を読みましたけれど、
「ああ、真言の法が広まらない、広まらない。恵果阿闍梨から継いだ、この素晴らしい真言の法が、なかなか世の中に広まらない。まだまだ力が足りん」
と言って嘆いておられるんです。三十一歳で印伝を受けて、二十年たっても真言密教は広まらない、仏様の法はなかなか広まりにくい、と。弘法大師さんはそのご苦労を書いているわけです。
一方の伝教大師最澄は、一仏乗のところから法華経の真実を語って南都六宗と闘ってはいます。最澄はしかし、その当時の十指に入る名僧ですし、家柄もよかった。対して、弘法大師空海は一介の私度僧です。
何もないところから出てきた私度僧です。だから、ゴマをすらなければやっていけなかったのです
弘法大師は、先ほども申し上げたように書の達人です。だから、ささーっと書をしたためては、「新しくお寺ができたということですので、額を書かせていただきました。
もしよろしければ、ぜひこれをおかけいただいて」と、持っていくわけです。お寺のほうも、
「あ、もう当代の書のピカイチと言われる空海阿闍梨に、こんな素晴らしい額を書いていただいて、これはありがとうございます」と受け取るわけですけれど、弘法大師のやっていることと言ったら、ゴマすりとおべっかですよ。
弘法大師空海は腹の中で、「南都六宗の中には真実はない。真言密教こそが真実なんだ、このバカが」と思っていたのかもしれませんが(笑)、智恵の光を和らげ、塵と同じくすることを決して忘れなかった。
レベルの低い頭しかない坊さんに頭を下げて、膝を折って、書を書いて、「これ、「どうぞ」と。
光を和らげ、塵と同じくし、事を同じくし、真言密教の素晴らしさを少しずつ説いていった。
その忍耐の結果、南都六宗全部、弘法大師の弟子になったのです。つまり、伝法会を受けたわけです。
伝法会というのは、胎蔵界と金剛界曼陀羅の上に蓮の花をポンと投げて、落ちたところが縁のある仏様だ、と。
そういう目に見えない、法を継ぐという儀式ですけれど、そこまで持っていくために空海は、「十住心論」とか「秘蔵宝鎗」を著して、「真言宗の教えはこうでございます。私の宗旨はこんな宗旨です」ということを、オフィシャリーに天皇に提出したのです。
「十住心論」では、人間と宗教のランクを設けております。
この世の人間のランクを一、二、三に分類し、四段目から宗教のランクになっていて、比叡山の教えは八番目、華厳の教えが九番目、真言が一番上だと言いました。けれど、真言は密の密に教えるものだから、密教というものを勉強すると、すべての教えを素晴らしく実践できる人間になりますよ、と。
これを「弁顕密二元論」と言いまして、密教は密密のうちにおさめていくものだから、密教を勉強すると、皆さまそれぞれの顕教が素晴らしく広まりますよ、と言ったわけ。
それを受けて、「ああ、そうですか」ということで、南都六宗は全部空海の弟子になったのです。
「皆さまの教えは顕教ですよね。で、華厳の教えというのはこういう教えですよね」
「そ、そうなんですよ」
「法相宗の教えはこうですよね」
「そ、そ、そうです」
「素晴らしい教えですね。だけど、それをやりこなす人間が、もう少し仏様との感応を研ぎ澄まし、仏様の様子をよく理解していったら、法相宗の教えはもっと広まりますよ。
その仏様との感応力が研ぎ澄まされるのが密教なんですよ。これをおさめたら、おたく様の教えも、もっともっと広まりますよ」「そうですか」
というふうに事を同じくして、密教の素晴らしさを伝えていったわけです。ところが、二十年たってもなかなか真言密教が広まらない。
あの智恵と才能と霊力を誇る天才空海が嘆いているのですが、やはり、和光同塵、同事というつもりで頑張っていたということでしょう、あの相談の手紙に対して、そのように答えられたということは。
宮仕え、サラリーマンですから、その宮仕えの心構えは昔から変わりません。
だから、「あんなゴマばっかりすって」とか、「おべっかばっかり使ってどうの「こうの」と批判する人はたくさんいますけれど、空海はなぜゴマをすることができたのかと言えば、それは人間理解が深かったからです。
「大金運」(たちばな出版刊)に書きました。「大金運」の大切なテーマです。
清く正しく美しいハートを持っている人は、ない人間は許せないと思ってしまうわけです。
だけど、きれいに咲いている花もよく見たら、可憐できれいだけど、茎があって葉っぱがあって根っこもある。
地面の下の根っこは、何か汚らしくて、こっちの根っことこっちの根っこが、「わしが水を吸うんだ」「いや、わしだ」と争っているみたいです。
バラ、チューリップ、三色すみれというと、きれいな花の代表格ですけれども、根っこと茎と葉っぱと花、全体でバラであり、チューリップであり、三色すみれであるわけですけれど、どうしても根っこの部分は見忘れられがちです。しかし、根っこも花と同じくらい、あるいはもっと大きく根を張っているんです。
人間もそうです。バラがきれいなように、チューリップがきれいなように、三色すみれがきれいなように、どんな人間にも愛があり、真心もあり、清く正しく美しい面もあれば、肉体を存続していくための欲望もある。
おいしいものを食べて、いい異性とやって…もっときれいな表現をしなければいけませんね(笑)
モロすぎです(笑)。
とにかく、誰よりも出世して尊敬され、名誉と金と女を手に入れて、おいしいものを食べて、楽をしたい、と。それが身体の欲するところですから、そういう欲求があるのは否定できません。
睡眠欲と性欲と食欲、そのほかいろいろな欲があります。しかし、人間はそれだけではありません。
いま言った、身体を存続する欲求は「人心」です。だ けど、人間には魂があるから、より素晴らしいものになりたいという心もあるわけです。
清く正しく美しく、これは「道心」です。別名「魂」。それから肉体を存続するための欲求である人心は、別名「魂」と言います。「魂魄この世にとどまりて・・・・・・」という魂と魄が人間のなかにはあるわけです。
魂というのは道心、神なる部分のいいところ。清く正しく美しいところ。
お花とか花びら、葉っぱ。魄というのは人心。身体を存続していく欲求。食欲、性欲、睡眠欲、出世欲。両方ごちゃごちゃになっているわけです、人間というのは。
シェークスピアも、そういう人間の本質を見て、それをあたたかく見ていたんです。
空海も、仏教の理解だけでなく、儒教の深い学問があったから、清く正しく美しい人間だけを見るような人間ではなかった。
深い人間理解があったのです。深い人間理解がある分だけ、愛の心になっていくし、道が広まっていきます。
清く正しく美しい人間は、どうしようもないような上司、同僚、目下を許せないんです。素晴らしい人間にはついていくんだけど、素晴らしくない人間は軽蔑する傾向があります。
しかし、銀行業界で出世している頭取などの、正しい人間理解を持つ人間はそうではありません。
素晴らしいところは素晴らしいと認めるけれど、人間の弱さも知っているから、少しぐらい悪の部分があってもいいんじゃないか。
悪魔のようなところがあってもいいんじゃないか。欲望にギラギラするのがあってもいいじゃないか。精液がギンギンと漲っているような、セックスアピールが女にも男にも、もっとあってもいいんじゃないか。
それが人間の魅力じゃないか、と考えるのです。
悪ばかりなら、みな迷惑します。だから、もうちょっと善もあっていいじゃないか、と。
しかし、善人は善人で麗しいものの、ちょっともの足りない。力強さがないですね。
悪人は悪人で良くないんだけど、どちらかというと、悪人のほうが魅力的で、何かアピールするものがあります。惹きつけるものがあります。そういう悪人であっても、裁かない。
許せないということがない。全部許している。それは正しい人間の理解があるからです。
そうでなければ、どんな目上に対しても、絶対に讃えることはできないし、どんな同僚とも仲よくやり続けることはできないでしょう。いっときは辛抱できるかもしれませんが、続きません。「そうだ、ゴマすりとおべっかは罪悪じゃないんだ、やらなきゃいけないんだ」と思っても、そういう人間に遭遇すると、許せないと思ってしまうものです。
「こんな上司、こんな同僚、こんな部下とはやっていけない。あんな取引先は真っ平ご免だ。
こんな奥さんは、こんな夫は、こんな子どもは・・・・・・」と言うけれど、結局、本人が一番そう思われたりなんかして(笑)。ホント、可能性ありますよ。
だけど、深い人間理解を持っている人は続くんです。
弘法大師もそうです。弘法大師のことを嫌う人もいますが、仏様に対してゴマをすり、おべっかを言って、あれだけの霊力を持ったわけです。
地位も身分も何もないところから出世した人です。宮仕えで悩んでいる人に、さっき言ったように答えたということは、彼も悩み、努力した、ということです。
さらに言えば、正しい人間理解を、仏様は持っているということです。
文学を学んで人間理解を深めよ
人間理解ということに関しては、文学が一番です。だから、サラリーマンでも政治家でも、あるいは宗教家でも、大出世している人には文学性があります。
どこか文学者でもあるんです。善も悪もすべて分かったうえで人間を肯定し、大きく包み込んでいく目がある。悲観論者はダメですけれど、分かったうえで人間を活かそうとする心。
仏様の心もそうですし、神様の心もそうですし、文学というものもそうなんです。
それを、「かくあらねばならない、こうあるのが本当だ」なんていう倫理、道徳、宗教観が先に立ってしまうと、本当の人間理解はできません。
そういうことに関しては、キリスト教あたりはちょっと厚みが足りないと思います。仏教は深みがあります、智恵の宗教だから、厚みを持った、深みを持った人間理解から、慈しんでいく愛があります。
キリスト教の場合はやはり、清く正しく美しくが先に立つから、はっきりしないと分からない。
砂漠の民は、善か悪か、白か黒かはっきりしないと分からないんです。確かに、宗教が生まれた背景が違うんですけれどね。
清く正しく美しくという宗教心を持っている人間は、こうあるべきだという基準を自分の中に持っていて、誰もが善のほうがいいんだと思っています。
しかし、善もいいけれど、悪もいいんです。なぜなら、善と悪は表裏一体だからです。善なきところに悪はなく、悪なきところに善はありません。
ですから、善も悪も越えた、深く正しい人間理解が必要なのです。
ところが若い間は、その人間理解の深みがなかなか持てない。
だから、かくあるべきなのに、こうあるべきなのに、そうじゃない社会が許せない、先輩が許せない、同僚が許せない、後輩が許せない、恋人が許せないと思って悩むわけです。
そういう意味で、文学性が必要なのです。文学とは要するに、人間理解ですし、人間を理解し、それを表現するのが文学だから、その意味で、文学性がないとダメですね。
文学性に基づくところの宗教性、ないしは、文学性に基づくところの哲学性がないと、絶対に大出世できません。
大企業のトップ、政治家のトップ、宗教家のトップ、全部そうです。多くの人間を理解し、善も悪も包み込んで、みんなから素晴らしいと言われる人は、深い人間理解があります。
そういう意味において、出世していくためには文学が要る。哲学が要る。宗教性が要ります。これをやはり、青春時代に勉強しなくてはいけません。
本を通した勉強でなくても、苦労の中で学んでいかなければなりません。松下幸之助や豊臣秀吉のように、苦労を通して体で学んだ人は、人間の心が分かっているから、悪いヤツでも醜いヤツでも許せるのです。
「こいつは許せない」と思いながら、どこかでニコニコしています。
深い人間理解に基づいて人を許せば、相手もどこかで感じます。大きな寛容性と愛があったら、ハートで感じるんです、入って。
そんな人にやはり、みんながなついていく。また、そういう人をみんながいいと思い、素晴らしいと思うから出世する。その壁を越えないといけないんです。
だから、「人たらしの秀吉」も、単にゴマをすったりおべっかを言ったりしたのではなく、その奥には、深い人間理解があったのです。
どんな人でもたらし込めたのは、人間理解が深かったからでしょう。女性を相手にするときには女の気持ちになり、目上を相手にするときには目上の気持ちになり、武士を相手にするときには武士の気持ちになって、ゴマをすり、おべっかを言ったのではないかと思います。
しかも、相手を否定するのではなく、明るく大きく包み込んでしまう。それだけの腹の大きさがあった。
腹の大きさとか器の大きさを決めるのは、人間理解です。武士、目上、目下、女男。あるいは攻め滅ぼされんとする敵側の気持ち。
攻めていこうという柴田勝家の気持ち。織田信長の気持ち。征服していくぞ、殺すぞ、という気持ち。
身を守るぞ、というドロドロしたものを理解していた。
そして、善も悪も認めて、あたたかく、そして明るく扱うから、みんな秀吉のファンになるわけです。
秀吉は、敵を攻め落としても、敵をも活かそうということで、絶対に人を殺さなかったと言われています。
だから、みんなファンになり、部下になる。同じ攻められるのなら、秀吉に攻められたいと思ったらしい。
それはやはり、単なるゴマすり、おべっかだけでなく、深い人間理解があったからです。
攻めるほうも攻められるほうも、殺す側も殺される側も理解して、それを明るくいいように活かそうという、学問と苦労の中で悟った本物の人間理解があったわけです。
これがなければ、人たらしなんかに絶対なれません。それは、男をたらし込めないからです。
ハンサムだと女はたらし込めるけれど、すぐ見破られて、一生この人のために、というところまではならないですね。「何、あなたは?」とすぐ見破られて、次々と変えていかなければならない。未完成の女たらしってそうです(笑)。
そうではなく、男も女もたらし込み、さらに女性をたらし込むと、「もうその人のために死んでもいい」というくらいになりますものね。たらし込まれたんだと分かっても、幸せと思って騙されたまま、たらし込まれたまま、みたらし団子になって幸せなんです、女性も(笑)。
そこまでの人間理解。女性というものの理解、男性というものの理解、目上の理解、同僚の理解、目下の理解。攻める者の理解、攻められる者の理解、殺す側の理解、殺される側の理解。出世欲にドロドロしている人間の理解、窓際族になった者のはかなさの理解。
こういうのはみんな文学であり、文学性、宗教性、哲学性の人間理解が秀吉にはあったわけです。そうでなければ、みんながあれだけ秀吉を慕わなかったはずですし、秀吉に統一されることを喜びとしなかったはずです。
出世に不可欠な細やかな気配り
そして、三つ目に必要なのが「細やかな気配り」です。
細やかな気配りというのはどういうものかというと、ボーッと理解するだけではダメなのです。たとえば秀吉の場合だったら、輿に乗って戦に出るときはいつもお金を持っていて、勇敢に戦った者がいれば、「よく勇敢に戦った。これは褒美じゃ、取れ」と言ってお金を渡す。
逆に、やる気のない者がいたら、「これじゃいかん」といって手紙を書く。秀吉の場合、大きい字と小さい字が極端に違うんですけれど、本当に細やかな気配りで手紙を書いたり、言葉を投げかけたりするときのタイミングとか、頭を下げるときのタイミングを周到に準備するわけです。
中国の実力者だった鄧小平もこれです。彼は三回失脚して三回返り咲いたんですけれど、返り咲いたときにどうしたかというと、手紙を書いたんです。
毛沢東によって追放されていた間、旋盤工みたいなことをやらされていたんです。
十代、二十代の若い工員がやるような仕事を、六十何歳かの鄧小平がやらされていたのです。その間に古典を読み、万巻の書を読んで、何年か悶々とし中でも勉強して、そろそろ情勢が変わったとき手紙を書いたんです。
「私、鄧小平は罪を犯して、いま反省して、こういうふうにしております。
仕事に対しては一生懸命やっておりますけれども、私、反省しております。
まだ十年ぐらいは動けると思いますから、御用があれば何なりとお申しつけください」という内容の手紙を毛沢東に書いた。
その手紙の文章が、真実と真心がこもっているから、毛沢東のときに鄧小平はもう一回返り咲いて、大事な役割を与えられたんです。
それからもう一度、失脚するんです。そのときも、家に閉じこもっているんだけども、また手紙を書いた。
「私たちは間違っていた。考え方が違っていたから批判されるのも無理はありません。いまはまた反省をしております。いつの日か、またお役に立てると思「います」
なんて書いています。そして再び返り咲いて、また失脚。都合、三回失脚し三回返り咲いているんですけれど、返り咲いたとき、どう返り咲いているかというと、すべて手紙なんです。
本当に真心を込め、心情を込め、誇張せず、ありのままの自分の気持ちを素直に書くんです。そこに表現力豊かな文学性が加わり、さらに細やかな気配りがあるから、鄧小平は三回失脚したけれども、三回とも返り咲いて、中国のトップに立ったわけです。
中国人を夫に持っていた日本人女性に聞いた話ですけれど、鄧小平は中国では単に権力者としてだけでなく、文章が素晴らしいと評価されているらしいです。実際、鄧小平の詩集をみんなが愛読しているそうです。
それだけの人気を博するのも、失脚中に万巻の書を読んだからです。
万巻の書を通して人間を練っていたからです。彼の考える人生哲学とか社会哲学、あるいは友情とか愛とかロマンは、すべてそこにベースがあります。
そして、詩集を出したら中国の国民がこぞって読んだというくらい、鄧小平はみんなから愛され、慕われた。彼の文章や詩集から滲み出る人間性、人となりが結局のところ、彼をして不動の出世、揺るぎない大出世を可能にしたので言うなれば、「人たらしの鄧小平」です。人間理解があるから、それだけ細手紙を書くことができる。
結果、人をたらし込む。日本に来たときも、彼の細やかな気配りに驚嘆した日本の政治家がたくさんいたそうです。
元英国首相のサッチャーさんもそうです。
ここ一番というときには文章で、あるいは電話一本で人の心をつかんでしまう。それができるのも、やはり、細やかな気配りがあるからです。
ボーッとはしてない。ここ一番、タイミングを見て、細やかな気配りをすることによって出世をしたのがサッチャーさんです。
出世のポイントを優先順位から挙げると、細やかな気配りの言葉、手紙、電話、訪問、お詫び。いつも成功するとは限りません。
だから、失敗したときも、素直に、見事に、立派に失敗しなければいけません。
