経営に生かす人脈作りの極意 ~平成10年7月7日 ホテルニューオータニ大阪~
縁はどこにでもある
先ほどおトイレに行ったとき、A君とパッタリ顔を合わせ、お互いに挨拶を交わしました。こういうとき、英語では「Fun meeting here. It is a small world… 奇遇ですね。世間って狭いですね」と言いますが、関西では、「お互い、臭い仲でんなあ」なんて言いますね(笑)。
関東では、「いやー、こんなところでお目にかかれるなんて・・・・・・」などと言いながら、お互い、微妙に上半身を震わせるんです(笑)。
「お互い、刑が軽くてよかったですなあ」
「いやー、本当ですね。お互い、執行(しっこ)猶予ですからね」
なんて言いながら(笑)、いろいろな出会いが成り立つわけです。
人との出会いと言っても、ちょっとしたきっかけからです。おトイレで顔を合わせても、「ああ、あの人、さっきおトイレで会った人だな」と思うだけで終わってしまうケースもあれば、私のように、「先ほどおトイレでお会いしましたね。お互い臭い仲で・・・・・・。これも何かのご縁ですかねえ」と挨拶することで、新しい縁が結ばれる場合もあります。
そうやって挨拶すれば、何の縁がなくても、「縁があるのかもしれないな」と思うではありませんか。
ですから、出会いはどこにでもあるのです。しかし、ただ出会ったというだけで終わってしまう場合と、それを機に何かの言葉を発し、印象に残って憶えてもらうところから縁が結実する場合とがあるわけです。
すなわち、縁(円)ができていいことを「ドル」。ということで、円とドルの関係と言う(笑)。
そうすると、みんなドイツでは丸く(マルク)なる。フランスでは、「そんなことするヤツは」ということで、「嫌だ」という人は「フラン、フラン」なんですけどね。
関西に来ますと、ちょっとチャンネルが変わって、ついついダジャレばかり言ってしまいます。
ところで今日は、「先着百名様まで笹を差し上げます」ということだったのですけれど、皆さん、笹をもらいましたか。笹を持っている人、ちょっと手を 挙げてください。
持ってない人、手を振ってください。あっ、全員もらったんですか。
笹をもらっただけで普段ブスッとしている人も、何かニコニコ笑っていますね(笑)。
でも、笹といっても、ただ手にあるだけです。
それに、笹なんかどこにでも生えています。山に行ったり林に行ったら、どこでも生えています。
それを切って持ってきたというだけで、人というのは何かありがた味を感じて、ニコニコするんですね。
それからこの短冊も、別に書いても書かなくても祈りは通るんです(笑)。
けれど、「短冊に書いたぁー!」という気持ちが大事で、心新たにして意識を向けると、より一層、神仏に祈りが通じやすくなるわけです。形というのはすべてそうで、お祭りもそうです。
とにかく、縁はどこにでもあります。
出会いもいっぱいあるわけです。それをモノにするかモノにしないかの違いは、今言ったように、話しかけるかどうかにあります。
モノにしようと思うなら、何はともあれ話しかけなければいけません。あたかも縁があるかのごとく話しかけると、相手も「ああ、そうだな」と思って、その瞬間から本当に縁が生まれるわけです。
同じ話しかけるにしても、儀礼的に挨拶する程度では、それだけで終わってしまいます。
ところが、たとえば七夕の今日のような日に出会ったなら、「七月七日にお会いするなんて、何か不思議な出会いだと思いませんか」と言ったらどうでしょう。
「言われてみればそうだな」という気持ちになるはずです。縁というのは、そうやってお互いが深く自覚することによって濃くなっていくのです。
別に、七月七日だからといって、一人の人にだけ会うわけではなく、たくさんの人と出会います。
でも、いま言ったように話しかけることで、お互いの自覚が深まり、縁が濃くなっていくわけです。
日本の国には約一億二千五百万人(平成十年当時)の人が住んでいますから、それだけの人とのご縁があります。同じ国に住んでいるというご縁もあります。
それから、世界に目を向けますと、今というこの時代に、同じ地球に住んでいるというご縁のある人が何十億といます。
さらにはまた、アンドロメダ宇宙と水星と金星に行くと、この宇宙空間に住んでいるという縁があります。
すごい縁でしょ。この同時代に、同じ地球に住み、同じ宇宙空間に住んでいるわけですから、お互いにこのご縁を大事にしようと自覚すると、そのときに縁が結ばれて濃くなっていくわけです。
縁というのはそのように、自覚することで結ばれるものであって、自覚しないと消えていってしまいます。もちろん出会いはいっぱいあります。
いっぱいあるんだけども、自覚しなければ縁は結ばれないし、結ばれたとしてもすぐに消えてしまうのです。
では、自覚するにはどうしたらいいのかと言えば、さっきも言ったように、積極的に話しかけていくほかありません。
それも、ありきたりの言葉をかけるのではなく、あたかも縁があるかのごとく話すのがポイントで、「こんなところでお会いするなんて、奇遇ですね。何かご縁でもあるんですかねえ」などと、もっともらしく話をすれば、お互いに自覚が深まります。
これが分かれば、結婚なんかいくらでもできますし、離婚だってできます(笑)。
夜空を見ながら、「ああ、また一つ新しい星が誕生して、一つまた星が消えていった。やっぱり星も消えていくんだ。ぼくらも別れよう」と(笑)。夫婦が別れるときにはやはり、そういう別れる縁もあるわけです。
言葉数の多い人が縁をつかむ
結局何が言いたいかというと、縁とか出会いというものが結実するかしないか、離れるか離れないかというのはすべて、そのときそのときの本人の意思、かくありたいという志にかかっている、ということです。
その意思があり志があれば、それにふさわしい言葉が出てきます。「この人とお近づきになりたいなあ」と思ったならば、「どこかでお会いしましたね」という言葉が出てくるし、見目麗しき魅力的な女性なら、「今日は七夕ですから、何か特別な出会いがあるんじゃないでしょうか」と、無理にでも結びつけたくなります。
何かとっかかりでもあれば、絶対に結びつけたくなりますよね。
反対に、見たところ「ウワーッ、おぞましい人」(笑)という感じだったら、近づこうと思いません。
あるいは、いかにも裏社会に住んでいるような感じの人だったら、誰も近づこうとしません。
近くに来ても何も声をかけずに、何ごともないまま過ぎ去りますようにと、ひたすら黙っていて、「七月七日に出会うなんて、何かのご縁ですかね?」と、たとえ相手が言ってきても、
「そんなことないでしょう。七月七日は誰だって一年に一回あるわけだし、八月八日もあるし、九月九日もあるわけで、ゾロ目の日っていくらでもありますよ。七が結びついた日に出会ったからといって、どうってことないでしょう。ゾロ目って、一年のうち十二回あるわけだから……」と言って、縁を切っていく努力、縁を結ばせないための最大の努力をしますよね。
お近づきになりたくない人がそばに来たときには、何も口をきかず、特別な想いも抱かなかったらいいわけです。
しかし、裏社会の人たちとか、「エエーッ!」と思わず声を上げたくなるような人は、ものすごく強い志と、ものすごく強い想いを持っていて、「何とかこの人と近づきたい」と思ったら、しつこく迫ってきます。
「ご縁ですよね?ご縁ですよね?」
「いや、別にご縁なんかないと思いますよ」
「いや、やっぱりご縁ですよ。あなたとはご縁があるんですよ」
こちらがいくら否定しても、ものすごく強い志と想念で、いろいろな理屈をつけては強引に結びつけようとします。
「さっき会ったときは七時七分だったんですよ」
「七時七分と言われても、特別なご縁があるとは……」
「いや、絶対にご縁があるんですよ。七時七分に出会うなんて、滅多にないことですからね」
そこまで言われると、そういうものかと思うではないですか。
やはり、想念の強い人、そして、いろいろな場面を想定してあらゆる言葉を発する人、言葉数の多い人が縁をつかんでいくのです。
実際、社会ではそういう人が勝つんです。不思議なことですけれどもね。
人脈づくりの天才女性に学ぶ
先日の五月十八日に、研主催の「未来への道」というシンポジウムがありました。
未来学者のジョン・ネズビッツさんと、ワールドウォッチ研究所所長のレスター・ブラウンさん、それから国際ビジネスブレインの新将命さんと三菱電機常務の木内孝さんにパネラーとして出席していただいてシンポジウムを開催し、その日の晩にはパネラーの方々にゴールドフカミの人を加えた立食パーティがあったんです。
そのとき私はネズビッツさんの隣で話をしていたんですけれど、一人の女性が来たんです。
その女性はシンポジウムには出てないんです。
ところがネズビッツさんは、その女性がいらっしゃったら、「オー、B子、B子」と大変なんですよ。
そうしたら、いつの間にかその女性は、私の名前を知ったらしく、「東州さん、東州さん」と、私にも話しかけてくるんです。
初めて会った方なんですよ。
別に菱研会員でもなく、セミナーにも何の関係もありません。
まったく無関係な人なんですけれども、ネズビッツさんと親しく名前を呼び合っているから、ああ、ネズビッツさんの知り合いなのかなと思うじゃありませんか。
それで、右手で私を手招きしながら、「今度、私が主催する絵画展がありますの。その絵画展にいらっしゃいませんか、東州さん」と言うわけです。
見も知らぬ女性からいきなり、「東州さん、東州さん」と呼ばれても……。
まあ、たしかに東州ですけれど、昔からの知り合いみたいに、「東州さん、東州さん」と親しく呼ばれると、まったく初めてお会いした方なんですから、なんか変な感じがしますね。
それでも、そんなことなんかまるで気にする素振りも見せず、「こんな絵がございますの。
将来性あふれる現代中国のアーティストたちの展覧会でございますの。東州さんも是非いらっしゃいよ、是非いらっしゃいよ」と、三回も四回も言うんです。
ネズビッツさんも一緒になって、「来れば?来れば?」と私に言うから、そこまで言うのなら行ってみようかな、という気になりましてね。
もし予定が入っていたら行けませんけれど、それがたまたま空いていたんですよ(笑)。
「う〜ん、空いてなくはないんですが……」
「じゃあ、いらっしゃい、いらっしゃい、東州さん。いらっしゃいよ」
初めて会った方ですよ(笑)。
「いらっしゃい、いらっしゃい。東州さん、東州さん」と、何度も言うものですから、
「じゃあ、私も行きます」ということになったのですが、そうしたらネズビッツさんが、「オオー、ヨカッター。ブラボー」と、えらく喜びましてね。
とにかくまあ、ネズビッツさんが喜ぶからいいかと思って行ったんです。そうしたら、驚いたことにCさんがその展覧会のモデレーターをやっているんです。
「あれ、Cさん、あなたがモデレーター?」
「ええ、お願いされまして」
「ひょっとしてあの女性に、「Cさん、あなたもいらっしゃいよ。そして、モデレーターをやってくれませんか?」と言われて来たんじゃないんですか」「そうです」(笑)
Cさんも初めて会った方だったんです(笑)。
それで、チケットがたしか八千円か一万円ぐらいだったでしょうか。
「是非いらっしゃいよ。十人か二十人でいらっしゃいよ」
「いや、十人、二十人もなんて、それは無理ですよ。まあ、五人ぐらいで行くことにしましょうか」ということで、五人か六人で行ったんです。
そうしたら、私たちのグループが一番たくさん来ていたんです(笑)。展覧会の会場に椅子が二十席ほど用意してありまして、私とネズビッツさんとじさん、そして中国の画家二人の計五人が座って、三元通訳をするんです。
中国人の画家は中国語しか話しません。通訳する人は東大の学生なんですが、その学生は日本語と中国語しか分からないものだから、中国語から訳した日本語をさらにCさんが英語に訳す。
次に、ネズビッツさんが答えた英語をじさんが日本語に訳す。その日本語に訳したの東大の学生が中国語に訳す。
こういう三元中継ですから、一つの会話をするのにも、三倍時間がかかりました。
それはともかく、私たちは五、六人で行ったのですが、私たちのグループが一番多くて、あとはパラッパラッとした感じで、十数名しか来ていませんでした。
ところが驚くなかれ。
展覧会のオープニングセレモニーには大新聞の社主や大企業の会長さんなど、要するに、一部上場企業の社長とか会長とか社主、オーナーが来ていて、そのほかにもテレビ局の社長だとか、そんな方たちが何十人も出席してオープニングセレモニーをしたんです。しかも、オープニングの挨拶は大新聞の社主がなさったわけです。
そのとき私はいなかったんです。後から聞いた話です。
たちばな出版の人がオープニングセレモニーに参加していて、「現代中国の最先端を行くこの美術家たちを日本に紹介しているB子さんのこの試みは素晴らしい」云々と、大新聞の社主が挨拶されていた、と私は後から聞いたんです。
皆さん、一部上場企業のトップばかりです。何とすごい展覧会だと思いませんか。
もちろん、ネズビッツさんもいらっしゃって、オープニングセレモニーで挨拶されたそうですけれど、とにかくものすごい顔ぶれです。
それで、その女性はネズビッツさんに、「今度また、シンポジウムをしましょう」と言って、パンフレットをつくったんです。パンフレットといってもよく分からないんです。
菱研のパンフレットなら分かりやすいでしょう。「七夕タメカンセミナー」と書いてありますから、すぐに分かります。
ところが、その女性がつくったパンフレットは、何が書いてあるのかよく分からない。
半分以上が絵で、その絵と同じような色で三つか四つのイベントの案内がチョコチョコッと書いてあって、さらに小さい字で、「ネズビッツ」なんて書いてある。
あれだけ世界的に有名な方の名前が、ものすごく小さい字で書いてあるんです。で、ネズビッツさんに訊いてみました。
そうしましたらネズビッツさん、ボランティアで、つまり無償で、そのパンフレットに名前を出しているんです。
「Cさんは?」と聞いたら、Cさんも無償。もちろん、私はお金を出して展覧会に行きましたけれど、Cさんは、交通費ぐらいは出るのかなと思いながらタクシーでネズビッツさんを空港まで送ったら、結局、タクシー代も何も出ない。
経費は全部Cさんとかネズビッツさんが出して、「バイバーイ」で終わりです。
「男は度胸、女は愛嬌」
この女性は、いったいどうやってこれだけの人脈をつくったんだろうか(笑)。
すごいと思いませんか。錚々たる大企業の会長さん、社長さん、それからネズビッツさんみたいな世界的有名人をオープニングセレモニーに引っ張り出してしまうんですからね。
では英語力があるのかと言えば、たいしたことありません。
一応、英語を話すんです。しかし、その都度Cさんが通訳し直しているんですから、複雑な話とか中身の濃いものを話すほどの英語力があるわけではない。正確な英語ではないわけです。
美人かと言えば・・・・・・まあ好みによりますね(笑)。「美人でしょう、美人でしょう、あの人?」と言われると、「まあ、そう言われれば・・・・・・そう言えなくもないなあ」という感じの美女なんですよ(笑)。
私自身は、それほどの美人じじゃないと思いますけれども、雰囲気がものすごく明るい人なんです。
そして手を触られても平気で、「おぉー、おぉー」と言いながら明るく振る舞っているんです。
とにかく明るくて、どんな人にも平気で声をかける。どんな偉い方でも「さん」付けして、「いらっしゃいよ、いらっしゃいよ」と言う。そう言われると思わず、「はい、行きます」と返事をしたくなってしまうんです(笑)。しかし、これが人脈づくりのコツではないかと思うわけです。
たまたま、パーティに行って会っただけなんです。初めて会ったのに、「東州さん、東州さん」と親しく声をかけてきて、ネズビッツさんが、「この人も絵を描いている」と言ったら、「いやー、そうなんですか。私、こんなことをやっているんですのよ。展覧会にいらっしゃいよ、いらっしゃいよ」と、気やすく誘うんですからね。
とにかく明るく、ちょっと出会っただけの人でも、「これもご縁ですからぁ」と言うわけです。縁があったのかどうなのかなんて分かりません。
こちらは出費しましたし、ネズビッツさんもCさんもボランティアで、交通費も出ずに、「それじゃあ、またね」で終わりですから。
多分、大新聞の社主も大企業の会長も、皆さんタダで来たんじゃないかと思うくらいです(笑)。
一銭もお金を使わずにオープニングセレモニーをやるんですから、すごいものですね。
まったくお金を使わずに、どうしてそれができるのか。考えたら、愛嬌だけです、愛嬌。
「男は度胸、女は愛嬌」とよく言います。私も「大金運」(たちばな出版刊)で、「度胸は男性的パワー、愛嬌は女性的パワーで、この二つの要素がうまく調和すれば、かなり金運に近づくことができる」と書きました。
豊臣秀吉も度胸と愛嬌があったわけですけれど、その女性も度胸と愛嬌があるから、大新聞の社主であろうと、大企業の会長であろうと、ネズビッツさんであろうと、シンポジウムの主催者であろうと、誰が相手でもニコニコしながら呼びかけるわけです。
まあ、愛嬌があっても、そこまではなかなか言えないですね、ふつう(笑)。
ですから、あの人の場合は愛嬌というか、度胸というか、図々しいというか……(笑)。
いや、図々しいなんて言ってはいけません。あの人は、ものすごくおおらかなる大御心を持たれたインターナショナルなお方だ、と言うべきですね。
しかしまあ、人によっては、「何と図々しい人だろうか」と思う人もいるでしょう。
ですから、あの女性のようなやり方が必ずしも正しい人脈づくりとは言えないんですけれども、「スーパー人脈づくり」の名人だとは言えます。
「度胸と愛嬌」ということに関してもう少し具体的に言いますと、図々しさを感じさせない、明るく愛嬌のある図々しさなんです。
「あの人、ちょっと図々しいなあ」と感じたときにはやはり、こちらの気持ちがネガティブになります。しかしそうではなく、図々しいと感じさせないんです。
あとになって冷静に考えてみたら、「図々しいなあ」と思うんですけれど(笑)、そのときは何とも感じないんです。
だから、Cさんにしても、一銭もお金をいただかずにモデレーターをやったり、ネズビッツさんにしても、オープニングセレモニーで挨拶したり、また講演したりするわけです。
それどころか逆に、「ハーイ」と言って、お互いにお金を出しているんですからね。
ネズビッツさんの講演料は通常、一回何百万もするんです。しかしそれをタダで講演してもらっただけでなく、交通費も出さないんですから、すごいとしか言いようがありません。
しかも、ネズビッツさんは元絵描きさんだから、展覧会に出展してあった絵のうちの二枚か三枚をポケットマネーで買っていったんです。
講演料がタダの上、お金を払って絵を二、三枚買わされているんですから(笑)。
交通費も出さずに「バイバーイ」と見送って、ただ手を触っただけです(笑)。
恐らく、弁財天さんってこんな感じなんだろうなあ、あのB子さんという女性は、福の神のうちの一人の弁財天さんなんだな、と思います。
弁財天さんって、「手をどうぞ」というよりも胸を出していますから、あれもサービスの一環かもしれません(笑)。
「おほほー」なんて言いながら、サービスでちょっと胸を出しています。全部出してしまったらドキドキしてしまうので、あくまでも谷間だけです。
で、弁財天さんは、「おほほー」と微笑みながら、琵琶を抱えています。
あの琵琶をかき鳴らしながら胸の谷間を見せたら、恵比須さんも、「おほほー、弁財天様~」(笑)と。
大黒様も恵比須様も、あの天下の毘沙門天も、そりゃ、「おほほー」となりますよ(笑)。
弁財天さん一人がいるから他の六福神が仲よ船に乗って和やかに七福神になるのであって、もし弁財天さんがいなくて、男神同士だったらどうでしょうか。
お互いが、「うーん」とご祈願して、「拝み(男神)!」という感じですよね(笑)。
とにかくそういうことで、七福神のうち弁財天さんだけが女神様です。何をしているかと言えば、胸まで出している。まあ、女の武器と言えば女の武器です。
そうして琵琶をかき鳴らして、いつもニコニコと笑っている。これ、愛嬌です。
まあ、ネズビッツさんも七十歳ですから、「ネズビッツさーん」と女性が近づいていったら、タダで講演してくれるのかもしれません(笑)。
とにかくB子さんは、弁財天さんのように本当に明るい方なんです。言葉が明るくて、どんな人にも、「どうぞ、いらっしゃい、いらっしゃい」と親しくお誘いする。
三回も四回も五回も六回も言われると、知らず知らずのうちに、「行ってみようかな」という気になります。
まあ、予定が詰まっていたら行きませんでしたけれども、何か知らないけれど引き込まれていく。おかしい、おかしいぞと思いながら(笑)、相手のペースに巻き込まれていってしまうんです。
しかし、なぜ展覧会に行ったのかと考えたら、「あっ、今日のタメカンセミナーでこの講義をするために行ったんだな」ということだったのです(笑)。
とにかく、度胸と愛嬌があれば、次々と人脈ができていきます。
単なる人との出会いだけで終わらせずに、お誘いをかける。琵琶をベンベンかき鳴らしながら、「行きませんか、行きませんか」と誘う。
そして、胸をチラッチラッと見せると、誰だって「行こうかな」という気分になるわけです(笑)。
ただし人脈といっても、たくさんの人を知っていたらそれでいいというものではありません。
同窓の仲間がいっぱいいたり、社会的な名誉も地位も権力も財力もない知り合いがいっぱいいても、それは人脈とは言いません。そういうのは、単なる知り合いです。
人脈というのはまさに脈であり、言うなれば鉱脈のようなものです。鉱脈をカチーンと当てると金が出る。
鉱脈を一つ当てると、そこから金がずーっと採れるわけですから、人脈はまさに鉱脈です。金の鉱脈にそっくりです。
相手の欲望と本音をキャッチするのが人脈づくりの第一歩
具体例を挙げながら説明すると分かりやすいと思いますが、人脈づくりの上手な人は度胸と愛嬌があって、ちょっとした出会いをご縁にしてしまう。
そして知り合いにしてしまう。B子さんにしても、冷静に考えると図々しいと言えなくはありませんが、彼女の周囲にいるいろいろな人と会って、「いやあ、おたく様もそうですか」ということで、互いに仲よくなる。
ネズビッツさんとも一層仲よくなりました。まあ、悪い言葉で言えば、「してやられましたね」なんですけれど、いい言葉で言えば、「お互い、ボランティアに協力できてよかったですね」と(笑)。
そういうすごい女性は世の中にたくさんいます。何人も知っています。私はそういうことが分かったうえで乗っかるわけですが、男もこれくらいでなければいけないと思います。
やはり、七福神の中の弁財天さんの要素こそ、人脈づくりの一番大事なポイントなのです。寿老人みたいに知恵がいくらあっても、杖を持って鹿を連れて歩いているおじいさんなんかに人脈はつくれないでしょう。
「ハ、ハ、ハー、商売が・・・・・・」と言っている恵比須さんならできなくはありませんが、毘沙門天がどんな人脈をつくっているというのか、と。
布袋和尚なんか腹を出して、右手で軍配を上げているだけでしょう。裁判官の友達は増えるかもしれませんけれどね(笑)。大黒さんも、米俵の上に乗っかっているだけです。
まあ、出雲の大国主と三面大黒天となりますと、人から人へと縁を結んでいく。
これは、大黒天流の縁結びの方法なんですけども、出世と名声ということではやはり、圧倒的に弁財天のほうが上です。
弁財天の働きは、字を見たら分かります。弁財天の「財」という字は、貝に才と書きます。
その貝はお金のことです。昔は貝が通貨でしたから、お金を集める才がすなわち「財」なんです。
「弁」は弁舌です。弁舌さわやかにと言いますけれど、ああでもないこうでもないと、強引に自分の意見を通そうとするのではなく、弁財天さんの場合の弁舌は、さっきも言ったように、
「It is a small world, isn’t it?」
「いやー、おトイレで会うなんて、これも不思議なご縁ですね」
「Fun meeting here.」
「こんなところでよくお会いしましたね」という弁舌です。関西だったら、
「いやー、臭い仲でんなあ」
「特別なご縁を感じますなあ」
「いや、縁を感じるよりも、臭さを感じますなあ」
「私たちは臭い仲ですな」というふうに会話を交わしながら縁を結んでいく。
要するに、ちょっとした出会いであっても、スラスラスラーッと弁舌をさわやかに駆使することで縁を結び、財に変えていくのです。
弁財天というのは要するに、名声と出世の神様なのですが、なぜ、弁財天が名声と出世の神様なのか。
ここをきちんと理解しておく必要があります。以前、 OLやサラリーマンの出世術の話をしましたけど、弁財天の働きが分かった上で上手に活用すれば、思うように出世するのも夢ではありません。
弁舌の才で財を動かしていくのが弁財天。ただし、弁舌の才さえあればいいというわけではなく、女性のように柔軟でなければいけません。
そして、女性は姫(秘)ですから、秘めたものがある。というか、本音をいつも秘めてい決して理屈を先に立てない。そうして、いつもニコニコとしていて、愛嬌と度胸で縁を結んでいく。
愛嬌が主です。愛嬌がまず一番です。どんなに度胸があっても、いかめしい顔をして、「わてが、雁之助だす」と言ったらどうですか(笑)。
そんなジジ臭いようなオッサンに誰も会いたいとは思いません。やはり人が寄ってくる、あるいは、人が集まってくる人には愛嬌が要ります。
人を会いたいなという気持ちにさせるには愛嬌が一番です。その愛嬌がある人には、やはり明るさがある。明るく雅である上に度胸もあって、弁舌がそこに乗るわけですが、さらに言えばサービスがあります。
チラチラッと胸をお見せする。つまり、相手の本音をくすぐるわけです。
たとえば、相手が名誉を求めている人なら、「有名な方がたくさん集まる会合があるんですけれど、参加しませんか」と、お誘いすれば、「あっ、行こうかな」という気持ちにさせることができます。
あるいは、金、金、金と、金銭に対する欲望の強い人であるなら、「すごい儲け話があるんですけれど、説明会に行きませんか」と誘えば「行く、行く」と、目をキラキラさせて、すぐについていくでしょう。
食い意地が張っている人には、
「美味しい店があるんですけど、行きませんか?」
「あっ、行こうかな」
異性に興味がある方には、「綺麗な子がいるお店があるんですけれど、行きますか」
「行くーっ!!」(笑)
ゴルフ好きの人だったら、「この間、すごいゴルフ場に行ってきたんですよ。六甲ゴルフ場といって、キャディさんの平均年齢が若くてね。一番年上の人でも二十八歳なんですよ。それで、ホールアウトしたら、三、四人のキャディさんがすぐに寄ってきて、サササーッと靴を磨いてくれるんですよ。サービス最高、食事最高、コース最高。今度、一緒に行きませんか」
「行くっ!!!」(笑)
釣りが好きな人ならば、「この間、鳴門に行って、さくら鯛という最高に綺麗な鯛を釣ったんですよ。
今度、行きませんか」
「行くーっ!!」
酒好きの人には、「美味しいお酒を飲ませるお店があるんですよ。お酒が美味しい上に、雰囲気も最高なんですよ。飲みに行きませんか、飲みに」
「うん、行くっ!」
まあ、博打に誘うこともあるでしょうけれど、誘えるのはマージャンぐらいでしょうか。
接待で競馬場に行ったという話はあまり聞いたことがありません(笑)。
馬券が当たったの当たらないので、お互い険悪な仲になったりしますからね。それでも、競輪とか競馬が好きな人なら、たまには誘ってみるのもいいかもしれません。
やはり、人には誰でも好みや欲望があります。名誉を求めているか、お金を求めているか、異性を求めているか、趣味に生きているか。
釣り好き、ゴルフ好き、異性好き、金儲け好き、出世好き……その欲望とか好みの本音の部分に照準を当てて、弁財天さんのようにチラチラッという女の武器を使うと、人はみんな心を開くわけです。
ネズビッツさん、七十歳のおじいさんが何百万もする講演料も交通費も全部タダで、そればかりでなく、絵を二、三枚買っていくわけです。
バカといえばバカかもしれません(笑)。しかし本人は、「よかった、よかった。ボランティアに協力できてよかった」と喜んでいるわけですから、たいしたものです。
立派なものです。これだけの人脈、ふつうの女性にはなかなかできません。
女の武器とは何か、弁財天さんが胸をチラッと出しているのは何を表しているのかと言えば、人間の持つ欲望や本音を刺激しているわけです。
さっきも言いましたように、人には誰でも欲望や好みがあります。何でもお金、お金と考えているか、名誉、名誉と思っているか、酒、酒と思っているか、異性、異性と思っているか、ゴルフ、ゴルフと思っているか、釣り、釣りと思っているか、人それぞれに好みがあります。
非常に気持ちが動くところ、その本音の部分をちゃんと知っていて、言葉巧みにお誘いをすると、「うん、行く」(笑)となるわけです。
「行きませんか」「行く」、「やりませんか」「やる」、「こっちに行きましょうよ」「行く」、「協力してくれませんか」「協力する」。
そうやって、心を開いていくわけです。でそれを可能にするのがやはり愛嬌。そして、人間の欲望、好み、本音を知った上で、ズバッと突いていく度胸。
そういう愛嬌と度胸のない人、人間の本音の部分が分からない人は、この世の中で絶対に名声を得ていませんし、出世もしていません。
人脈構築に不可欠な人間理解
植松先生とよくお話をするんですけど、世の中で出世している人とか名声を得ている人が百人いたら百人、千人いたら千人、全員人が悪いです(笑)、ハッキリ言って。そんな話をうかがったとき、「ああそうか。人が悪くなったら、私でも出世できるんだ」と思ったものです。
別に、名声を得ようとか出世しようと思っているわけではありません。
そんな気持ちは毛頭ありませんが、使命感を持って世の中に出ていくにはどうしたらいいのかといえば、人が悪くなればいいんです。
もちろん、御魂とか心まで悪くなってはいけません。人が悪いと言うと語弊がありますけれど、格好つけずにハッキリ言うと、名声を得ている人、出世をしている人はみんな人が悪い。
それに対して、人のいい人はどうなのかと考えたら、出世していないし、名声もありません。人のいい人というのは本当に無欲です。
そして、自分が無欲で人がいいものだから、他人もみんな無欲で人がいいと思っています。
だから、「うまい儲け話があるんですけれど、聞きに行きませんか」と誘っても、「あっ、そうですか」で終わりです。
「美味しいお酒を飲ませるお店を知っているんですけれど、行きませんか」
「あっ、そうですか」
「綺麗な女性のいる店があるんですけれど、行きませんか」
「あっ、そうですか」
「私、パチンコが好きなんですけど」
「あっ、そうですか」
どんな話をもちかけても、「あっ、そうですか」で終わりです。
純粋で無欲で人がいい人は、それで終わりなのです。だから、出世もしないし、名声もないし、お金もない。
社会的な地位とか名誉とか権力とか財力のある人間と知り合って、お引き立を受けようと思ったら、相手から見た何らかのメリットがなければいけません。
何のメリットもなければ、誰もお付き合いしません。人脈ということを考えたら、付き合ってメリットがある人でないと近寄ってもきません。
ところが、ものすごく人のいい人は、そのメリットがない。海千山千の人と違って清純に生きている分、お金もないし、地位も名誉もないから、お付き合いしてもこの世的なメリットがないわけです。
お金がある人は、百人いたら百人ともみんなわがままです。そういう人は自分だけ特別扱いして欲しいわけです。
だから、お金持ちとお友達になろうと思うなら、わがままを聞いてあげて、特別扱いしてあげたらいいんです。そうしたら喜びます。
それから、お金のある人は総じてみんなケチです。これもお金持ちの特色ですが、お金持ちほど、なかなかお金を出そうとしません。
へんてこりんなところで引っかかったりしますけれど、とにかくお金持ちはケチです。
それでも、稀に神様、仏様みたいな人もいます。お金があっても、わがままを言わず、特別扱いなんかしてもらわなくてもいい、という人がときどきいます。
それは神様のような方です。一万人いて一人か、十万人に一人ぐらいで、本当に少ないですけれど、いるにはいます。
でも、世の中の人は、そうじゃない人がほとんどなのです。お金持ちはみんなわがままで、特別扱いして欲しいと思っています。
そして尊大で、態度がでかいです。
だから、「貧しき者よ、幸いなれ。天国は彼らのものなり」というイエスの言葉は、本当だなと思います。
ただし、それは一般論としてであって、例外ももちろんあります。お金持ちでもわがままを言わず、神様、仏様みたいな立派な人が、ごく少数ではありますが、稀にはいます。
しかし、お金があり、地位や権力のある人は総じてわがままで、尊大です。
そして依怙贔屓をします。あの人はわがままだ!尊大だ!依怙贔屓だ!・人のいい人はみんなそう思うわけです。
それに対して人の悪い人は、わがまま、尊大、依怙贔屓を肯定して、その人とお友達になり、依怙贔屓をしてもらう。それくらいでなければダメですね。
依怙贔屓から排除されるようではダメなんです。わがままで尊大であっても、気に入ってもらわなければいけません。
「依怙贔屓?いいじゃない」「依怙贔屓してもらいましょうよ」と言って近づいていく。
人のいい人はふつう、「依怙贔屓はよくない。みんな平等じゃなきゃいけない。
あんな尊大な人なんか嫌だ。あんなわがままで尊大で依怙贔屓をするような、二面性、三面性のある人なんて嫌だ」と思います。
しかし、わがまま、尊大、依怙贔屓を否定していたら、永遠に人脈なんかできません。
社会的に地位や名誉や権力や富があるすごい人とお付き合いをし、人脈を築いていこうと思ったら、人間、悪くなきゃダメなんです。
悪くなれとは言いませんよ。ハートの奥はうーんとピュアで、心根はうーんと明るく素直で、素晴らしきよき志を持っているんだけども、一歩社会に出たら、悪に負けない。
むしろ、悪を従えさせる。これが人間理解ということなのです。
出世をし、名声を得、財を成した人は、だいたい人が悪い。百人が百人、千人が千人、一万人が一万人、そうだと考えていい。かえって、名もなく地位もなく、権力もなくお金もない人のほうが純粋で、いい人が多いですよ。
本当に純粋でいい方だから、ずっと貧しくて名誉もなく、地位もなく権力もないわけです。
では、その内的な素晴らしいピュアなものを持ちながら、いかに地位と名誉と権力と富と名声がある人間とお付き合いをし、人脈を築き、その人たちを従えさせて尊敬させるか。
これを教えているのが、たとえて言うなら毘沙門天さんの知恵なんです。毘沙門天さんは元悪人だったから悪人の手の内が全部分かる。
テレビの水戸黄門でいう「風車の弥七」なわけです。相手の手の内がすべて読めて、悪に勝つ。
だから、悪以上の叡智があるわけです。
これを植松先生は、「相手が悪だったら、その悪以上の悪でなければ、本当の善は貫けないのよ」とおっしゃっています。
この言葉の前半部分だけを自分なりに解釈して、「あっ、そうか。相手が悪なら、それ以上の悪でなきゃいけないんだ」ということで、私のセミナーを聞いて悪人ばかりがはびこるようになったとしたら(笑)、それは趣旨が違う。もっと深い意味で言っているわけです。
親鸞上人は言いました。「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」。
善人でも成仏するんだから、ましてや、悪人は必ず成仏するんだ、と。その親鸞上人の言葉を聞いて、「あっ、そうか。南無阿弥陀仏さえ唱えれば悪人でも成仏するんだ。何をやってもいいんだ」ということでやりたい放題やるというのは間違っています。親鸞上人の言葉を勝手に解釈した間違った浄土信仰が、親鸞上人がお亡くなりになったあと起きてきたんですけれど、それにちょっと似ていますね。
「歎異抄」をもっと深く読み、さらには『教行信証」を見てみたら、阿弥陀如来様の救いには深い意味があることが分かるはずです。阿弥陀如来さんは悪人でも救ってくださるほど慈悲の大きい仏様なんだよっていうことを言いたかったのです、親鸞上人は。
それを、「ああ、悪人でも救われるんだから、これは楽だ」とばかりにやりたい放題やって、死ぬ前に「南無阿弥陀仏」と唱えたとしても、極楽浄土には行けません。地獄へ行っていますよ(笑)。
やはり、神様、仏様は腹の奥の奥を見ているわけです。
親鸞上人は、救済ということにポイントを置きすぎたんです。
人間の本質から見たら、やはり進歩向上していかなければいけないわけで、南無阿弥陀仏さえ唱えていればいいというものではありません。
苦しんでいる人にとっては、親鸞上人の教えは救いになるかもしれませんけれど、本質から言えば、現世の生活は魂や霊体を進歩向上させていくプロセスであるわけですから、悪いものを改めて善にしていくという進歩向上の道を説かないといけません。
そういう意味で親鸞上人の教えは、ちょっと救済に偏りすぎています。
本質をよく見たら、しっかりよくできた教えで、間違う人のほうがおかしいんですけども、ちょっと聞くと、そう誤解しやすいではないですか。
この点、十二分に注意する必要があります。
人のいい善人が出世できない理由
それはそれとして、相手が悪ならばその悪以上の悪でないと、本当の善にはなれない、強い善にはなれない、というのが植松先生の教えでありまして、その道を行っているのが毘沙門天さん。
相手がどんなに悪であっても、相手の手の内が全部分かるから、それ以上のものすごい悪知恵を働かせて、悪を制御し善を貫く。
心の奥は善なんです。
世のため人のため、みんなの幸せのためという気持ちでいっぱいなんですけれど、現実界には悪が多いから、その悪以上の悪で立ち向かうわけです。
本当に人脈として頼るに足る人間は、ほとんど人が悪い。出世している人、名声のある人、名誉のある人、お金のある人のほとんどは人が悪い。
いい人は一人もいないと思って間違いありません。
むしろ、名もなく、地位もなく、金もない人のほうが、いい人が多い。
そんなふうに考えると、人間って、果たして善人になればそれでいいのか、という疑問が湧いてきます。
実際、社会に役立つ人間、世のため人のためになる人間、社会的影響力のある人間、すなわち地位と名声と財がある人間は、悪い人が多いんです。
ですから、これにどう打ち勝って、引き立ててもらうのか、ということが大事なのですが、それを教えているのが毘沙門天さんの道なのです。
その毘沙門天さんの道とは何か。ひと言で言えば人間理解。人間に対する理解の深さです。
はっきり言って、深い人間理解なくして、有意義なる人脈の形成はあり得ません。
人脈として値打ちのある地位や名誉や権力や財力を持っている人は、ほとんど人が悪いと考えていいです。
それでも、その人のことをよく理解してあげなければいけません。「ああ、こんなに人が悪いけれど、ものすごく頑張ったから名声を得たんだなあ」「二面性どころか三面性も四面性も持ちながら、人を蹴落としながら出世したんだなあ」と。
そのことに対して理解をし、慈悲の心、優しい思いを持ってあげないとダメですね。
そうしないと、向こうも感じます。「何かこいつ、わしのことを嫌な目で見ておるな」「こいつ、わしのことを嫌っているな」と。
会社の社長を見てください。皆さんの知っている社長、自分が社長なら先代社長でもいいですから、知り合いの社長を思い浮かべてください。
おそらく、一癖二癖、三癖、四癖、難癖、変な癖がいっぱいあるんじゃないでしょうか。それが、会社の社長に共通した特色です。
まず我が強い。会社なんて貫く精神がなければ経営できませんから、やはり我が強い。二面性も三面性もあるし、わがままで気分にムラがあり、ご都合主義で、それから依怙贔屓をする。
会社の社長に聖人みたいな人いませんよ(笑)。お坊さんでも変なお坊さんはいっぱいいますし、神主さんでも変な人がいます。
ましてや会社の社長となれば、たくさんの従業員を従えて、会社を引っ張っていかなければならないんですから、癖があって当然です。
純白無垢の赤ちゃんのような状態で会社の経営なんて、できるわけがありません。
人間、何もしないでバランスを保っていれば円満ですけれど、何か貫く道を行けば、どこかから離れる。
すなわち、何かを捨て、何かを犠牲にし、何かを失わなければ、何かを得られないわけです。
ですから、何かを成し遂げた人物は、何かを失っているんです。人間性とか教養とか知性とか品格とか優しさとか、何かを犠牲にしているわけです。
だから、世の中で何か成し遂げた人には変な人が多いんです。
とにかく人間が悪い。でなければ、地位も名声もお金も維持できません。
しかし、そういうすごいお父さんの子どもには稀に、純粋な人が出ます。幼いころから教会に通い、文学に親しむなんていう人が出ます。その人はいい人ですよ。まあ、お父さんの因縁は背負っていますけれど。
たとえば、有島武郎がそうでした。
彼は大富豪の家に生まれたんですけれど、文学に目覚め、結局、人間は平等でなければいけないんだ、農民は可哀想だ、小作人は可哀想だということで親から引き継いだ土地を処分して、全部、小作人に分けたんです。
その結果どうなったか。それまで大金を握ったことのない小作人たちは、いきなり財産が手に入ったものだから、どう使っていいか分からず、みんな博打やら酒やらに使い果たして一家離散。
悲惨な結果を招いてしまったんです。
貧乏生活を送ってきた人間がいきなり大金を手にすると、ロクなことがありません。可哀想だからと言って土地を分け与えると、かえって本人を不幸にするだけです。
ボチボチあげるのならいいんですけれど、一度に大金を分け与えられたら、どう使っていいか分からない。
それで結局、有島武郎の小作人たちもみんな不幸になってしまったんです。
そしてまた、有島武郎本人も不幸な人生を送ることになりました。
どういうことかと言うと、奥さんを病気で亡くしたあと、有島武郎に新しい女性ができたんですけれど、その女性にヤクザのようなヒモがいて、「金を出せ。いくら「いくら出せ」と脅されたんです。脅した本人は、有島武郎が本当に出すとは思っていない。
ちょっとお金をもらえればいい、というくらいの気持ちで脅したんですけれど、有島武雄は脅しの言葉を真に受けて、「そんなお金はない。つ「くれない」と言って、その女性と心中したんです。
「惜しみなく愛は奪ふ」とか、有島武郎の作品は好きですけれど、彼の素行を見たら感心できません。
ヤクザのようなヒモの言うことを真に受けて、自殺してしまうんですから。
それに、可哀想だからと言って、小作人に土地を分け与えて、結果、みんなを路頭に迷わせてしまったんですから、あまりにも知恵がない。心根の素晴らしく優しい、いい人ではありますが、知恵がなさすぎます。
土地を分け与えるのではなく、ちょっと待遇をよくしてあげたら、「本当にいい地主さんで、私たちは幸せだね」と、喜んでいたはずです。
「ほかの小作人さんは食うや食わずで大変な思いをしているけれど、ウチは違う。なるべくみんなが楽になるようにしてあげるからね」と言って、少しずつ待遇をよくしていけばよかったんです。
端から見れば苦しい生活かもしれないけれど、本人たちはそんなものだと思っているんです。
だから、少しよくしてあげるだけでも喜ぶのに、すべての土地を分け与えたものだから、どうしていいか分からなくなってしまって、結果、不幸になった。やはり知恵が足りない。と言うより、なさすぎます。
その点、地位を維持し、名声を維持し、財を維持していく人は、それだけの知恵があります。ということは、地位と名誉と財がある人間にいい人なんか一人もいない、と言えるわけです。
そういう人と人脈をつくるのにはどうしたらいいかと考えたら、そういう悪いところを見ても聞いても感じても、腹を立てないことです。この深い人間理を築くことは不可能です。
深い人間理解・・・・・・言葉は綺麗です。
しかし、その深い人間理解とは何なのか。金の亡者であろうと、女狂いであろうと、出世狂いであろうと、博打好きであろうと、性格的に二面性、三面性があろうと、金毛九尾であろうと、狸であろうと、蛇みたいにしつこくても、ネチネチしていても、嫌みをタラタラ言うような人間でも、決して腹を立てない。愚痴・愁嘆の塊であろうと、特別なお店に出入りしていようと、そこに誘われようと、決して腹を立てない。その人間を嫌いにならない。
「ああ、この方はこうやって頑張って生きておられるんだなあ」
「空へ上がれば地面から遠のくんだなあ。西へ行けば東から遠のくんだなあ」
「人間性を犠牲にしてこの人は、今日の地位、名誉、財、権力を維持しているんだなあ」と、理解してあげる。
深い人間理解というのはそういうことで、哲学的に考察して人間を理解するとか、そういう話ではありません。
とにかく、どんなに嫌な人間であっても腹を立てない、嫌いにならない。
そして自分は染まらない、そういう人間理解ができなければ、絶対にお付き合いできないです。
地位と名誉と権力と財のある人とお付き合いできない。お友達になれない。
すなわち、人脈というものが形成できないし、形成できたとしても維持できないわけです。
それが分かって初めて、人脈が鉱脈になっていく。地位や名誉、名声、富、それから権力や権威といった、金の鉱脈になっていくのです。
