芸術家や政治家に品行方正を求める愚
たとえば、地位もあり名声もあり富もある人と知り合いになったとしましょう。
おトイレで会ったかもしれないし、どこかのパーティで会ったかもしれないし、友達から紹介されたかもしれない。どのような出会いであるにせよ、地位なり名声なり富なり権威なりを持っている、金の鉱脈のような人と知り合いになったとしましょう。
金というのは、現実界において物事を顕現させる力であり、いかなる時代であっても価値あるものです。
そういう金のような人と知り合ったならば、お互い、人が悪い者同士でいろいろと計算して、この人と付き合っているとメリットがあるからということで、相手の嫌なところを見ても、お互い、「ま、しょうがないか、自分もそうだしな」と我慢します。
性格が屈曲して悪くてエゴイストで、わがままで尊大で、人を見下して、二面性も三面性もある。
それだけでなく、特別な変な趣味もあって、何とも言えない癖があって、やたら怒りっぽくエキセントリックだったり、躁鬱気味でいつも何かブツブツと言っていたり、雰囲気がギスギスしていたりする。
その上、ものすごくお金に細かい。「細かい」と「いやらしい」と「おぞましい」ところがいっぱいあります。
そういう知り合いがいて、また別の人は、「実はお父さんとお母さん、いろいろな問題があって、お父さんがほかの女性と関係をつくって…」ということで、たとえば三番目の子として妾腹の子がいたりして。
特別なご事情があるんだけども、特別の才能があって有名になった途端、奥さんの財産を使いこん
で離婚し、次の女性と結婚するとかね。そしてまた、その女性の財産を使いこんで、またまた離婚する、と。
あるいは、結婚を約束した女性がいながら、次々に女性をつくったりするような人はいっぱいいます。
誰とは言いませんけれど、世界的に有名なDさんなんて、素晴らしい指揮者でしょ。
あのDさん、無名時代に某大会社の会長の娘さんをもらったんです。
その娘さんはピアニストで、無名時代のDさんを支えたわけです。
そのお蔭で出世できたんですけれども、有名になったら無名時代を支えてくれた糟糠の妻とさっさと別れて、外国人女性と再婚したんです。
子どもができなかったものだから、何ごともなかったかのように別れたんです。しかも、別れたあとも、前妻のお父さんに助けてもらったりしているんです。
植松先生は、そういうDさんの一面を知っていらっしゃって、「だから私は Dさんって嫌いなのよ」とおっしゃるんですけれど、私はDさんの音楽性を愛しております。
Dさんの人間性に問題があると言えばあるのかもしれませんけれど、それでもチャイコフスキーよりはマシです。
チャイコフスキーは弟と恋をしたホモの近親相姦という説もありますから。それでも世界的な作曲家ですから、音楽がよかったらいいんです、別に。
前の奥さんとどうのこうので、「そんなの許されないわ」と植松先生はおっしゃるのですけれど、私は音楽が素晴らしければそれでいいと考えています。
最初の奥さんのお父さんからバックアップしてもらって、もちろん才能もなければダメなんですけれども、才能プラスそういうバックアップがあって、名前が売れてきたら前妻と別れたDさん。
ですから、音楽家で清廉潔白な人、道徳的な人なんかほとんどいません。
ところが女性は、そういうものを見て「許せないわ」と言うんです。
私は、許そう、何やっててもいい、いい音楽を聴かせてくれればそれでいいんだ、ホモの近親相姦のチャイコフスキーよりはよほどいいじゃないか、再婚したぐらい何でもないじゃないか、と思っております。
ピカソは十一人奥さんがいたんです。
二、三枚、絵を描いたらすぐに別れて、次々と別の女性と一緒になったんです。
しかも、結婚した十一人の女性以外にも、たくさんの女性がいたと言われています。
それだけの女性と関係を持ちながら、何もしなかったならば単なる色狂いです(笑)。しかし、あれだけ素晴らしい作品を残しているんです。
そして、ピカソのファンはピカソの作品を愛しているのであって、ピカソの素行を愛しているのではない。
だから、別にいいじゃないか、絵がよかったら、と。ファンはみんなそう思っているはずです。
ピカソの絵に出てくる女の顔、へんてこりんな、霊界の女みたいな顔の絵がありますが、あれは十一人の奥さんから来る生霊を描いたものかもしれません(笑)。
それでもまあ、ほかにない素晴らしい作品だからいいじゃないか、と。ピカソは二、三枚絵を描いたらすぐに別れるんです。
なぜなら、ピカソの絵は一枚何千万もしますから、二、三枚描いたら、離婚の慰謝料になるんです。十一回結婚しています。
それ以外にもまた、いろいろつなぎの女性がいたんです。まるで、おそばみたいなものですね。
つなぎがあったり、そのほかにもいろいろと女性がいたんですけれど、それにこだわるピカソのファンっているんでしょうか。
名声を得た人、出世をした人はだいたいそういうものです。
ピカソにしても指揮者のDさんにしても、その素行が嫌だ、許せないと言う人もいますが、私は許せます。倫理道徳の面から見てまったく問題のない音楽家って、見たことも聞いたこともないからです。
例えば、音楽家というのは音楽に生きているのであって、素行に生きてないわけだから、多少問題があったとしてもいいんです。
品行方正でも、誰一人として感動させられないピアニストなんて意味がないわけです。われわれの知らないところで何をやっていてもいいから、お金を出してチケットを買って演奏会場に行って、「ウォーッ!」と感動させる演奏をしてくれ、と思います。
オペラを見に行ったら「ハーッ!」と感動するような歌を歌ってくれ、と。
逆に、品行方正で、よき二児のパパであったり、よき夫であったり、親戚縁者からも人望厚き人だったとしても、歌を歌ったら最低というようなオペラ歌手だったら、誰も行かないでしょう。
お金まで出して聴きに行かないです。だから、何をやっていてもいいんです。
あくまでも、ステージ上でのお付き合いでしかないわけですから。
オペラ歌手のパバロッティなんかもそうでしょう。ドミンゴ、カレーラスと並ぶ世界三大テノール」の一人と言われるルチアーノ・パバロッティには、長年にわたって彼を支えてきた糟糠の妻がいたんです。
ところが、六十数歳になって、二十六歳の若い女性に恋をして、奥さんと別れてしまったんです。
パバロッティは、「若い二十六歳、ブラボー、OK!」なんて言って。
イタリア人は何でもOK、OKと言うんですけれど、何がOKなんだか、長年連れ添ってきた奥さんと別れて、孫のような若い女性と一緒になって、子どもまでつくったんです。
まあ、生霊と若い女性のプラスの念波で、プラスマイナスゼロなのかもしれませんけれど、パバロッティのそんなところを誰が見るかと言うんです。
見る人もいるでしょう。
けれど、パバロッティは歌手なんですから、いい音楽を聴かせてくれればそれでいいんです。
だいたい、オペラの内容ってそんな内容ばかりですから、身をもって演じておられるのかもしれませんけれど、音楽家を見るとき、いったい何を見るんだ、と。
政治家も同じです。政治力があって、国をよくしてくれたらいいわけですから、同性愛であろうと女狂いであろうと、お金に汚くても、ライバルと激しい蹴落とし合いをしてもいいから、いい政治をやってくれ、と。アメリカに負けるな、と。
先だって、オルブライト米国国務長官が来日して、「日本の金融システムをこう変えろ」「消費税を何パーセントにしろ」などと、内政干渉もはなはだしいことを言っていましたけれど、それが、日本のビッグバンのきっかけです。
アメリカの大臣であろうと、日本の政治に関係ないじゃありませんか。それを、日本の政治家たちは「ハイハイ」と聞いている。国防であろうと金融であろうと、何でもアメリカの言うままなわけです。
何をやっていてもいいです。
ある総理大臣なんか、女性と関係があったとかなかったとか言われておりますけれど、そんなのはどうでもいいんです。とにかくアメリカに負けるな!首相なんだから(笑)。
政治家は、きちんと政治をして、日本の国をよくしてくれたらいいんです。
品行方正かつ人格高邁で人望が厚くても、政治をやったら失敗だらけ、というのでは国民は困ってしまいます(笑)。
結局、何を選ぶかなんです。むろん、すべてにおいて完璧なら言うことありません。
ベストです。
しかし、すべてに完璧なんて望むべくもありませんから、やはり何を選ぶか、です。
その大事なところさえきちんとやっていてくれたらいいんです。
たとえば、性的に偏った趣味を持っていようと、大酒飲みであろうと、何でもいいです。
とにかく、政治家はちゃんと政治をしろ、経済人はちゃんと経済を賄っていけ、と言いたいですね。
倫理道徳を説く人は、ちゃんと倫理道徳を実践しなければいけない。倫理道徳を説きながらやっていることが目茶苦茶だったら、それは矛盾です。
お坊さんにしても、お葬式のときには心温まるおごそかなるお経をあげて、ちゃんと説法しなければいけない。
たとえば、色狂いで死んだ人とか金狂いで死んだ人の場合、同じ事情を乗り越えて僧侶になった人だったら、「ああ、亡くなった人の気持ちがよく分かる。色狂いの末に死んだというのは、さぞや無念だったろう」と、心の底から同情できるし、涙が出てきますよ。
酒、酒、酒で周りに迷惑をかけて死んだ人の場合でも、「あまり責めないでください。酒飲みは酒飲みなりの悲しみがあるんですよ。
自分もそうでした。それで坊さんになったんです」と(笑)。
人にはそれぞれ事情があるわけですから、その人の生きざまにあった説法をしたり、心温まる感動的な供養をしたりしてくれればいいわけです。
もちろん宗教家にとって、品行方正、人格高邁というのは大切な徳目ではありますけれど、ただそれだけだったらダメなんです。説法はまるでつまらなく、供養するときも気が入らずに、テープレコーダーでも聞いているような感じだったら、
「何だ、この葬儀は」と、顰蹙を買ってしまいます。
やはり、お布施を出してお願いしているんですから、感動させてくれなきゃいけない、と私は言いたいわけです。
金はどういうところに埋まっているか
いずれにしても、世の中で成功している人、出世をしている人は、みんなそういう人たちばかりです。
黄金のような地位、名誉、富、権力、権威がある人はみんなそうです。百人が百人、千人が千人、万人が万人、すべてがそういう人だとは言いませんが、大部分の人はどこか屈曲していると考えて間違いありません。
たとえば、そういう中のEという人と知り合って、そのEさんから紹介され Fという人も、またまた右・左に屈曲していて、Fさんから紹介されたGさんはねじれの位置にさらに屈曲していて、Gさんから紹介されたHさんも、こまた複素数のようにやたらと複雑だった、と。そういう人がいっぱいいるわけです。
金の鉱脈を一つ、カチンと掘り当てたら、そこから人が出てきて、また人が出てきて、また人が出てきて、金の鉱脈は掘り尽くすまでずっと続いていきます。
で、金の鉱脈というのはどういうものかと考えたら、そういう世の中のおぞましいものの連続なのです。
おぞましさと嫌らしさと許せないようなこと、人間として最低と思えるような人が続いていると考えていい。
それが人脈というものです(笑)。しかし、普通の人はそれに耐えられないんです、とくに人のいい人は。だから出世しないし、名声を得られないのです。
「相手が悪なら、それ以上の悪でないと、本当の善の道は貫けない」植松先生は私が初めてお会いした二十五歳のころから、ずっとそうおっしゃっています。
それでも、嫌らしい人間に出会うと、「何と許せない人なんだ」「何とおぞましい人なんだ」という思いがふつふつと湧き上がってきます。
そういうとき、いつも植松先生のその言葉が甦ってくるんです。「相手が悪なら、その悪以上の悪でないと、本当の善の道は貫けないんだ」と。
しかし、心まで悪になってはダメなんです。
ハートは世のため人のため、神様や仏様やみんなのために守らなければという、善の心、愛の心でなければいけないのですが、頭は、誰にも負けないような毘沙門天の知恵。
その頭、すなわち毘沙門天の知恵とは理解力なのです。「深い人間理解なくして・・・・・・」という短い綺麗な言葉の奥にあるのは、そういうことです。
延々と続くおぞましさの連鎖。暗黒魔界の化物屋敷。これが人脈の中身です。見たところは黄金です。
しかしその黄金というのは、地面の下の汚くて臭い岩にペチャペチャとくっついているわけです、泥の中で。砂金だってそうです。
砂金の混じっていそうな泥ごとすくって、それをサッサッサーッと洗って砂金になるわけです。
何トンという泥の中からほんの少し採れるだけですから、ほとんどドロドロの泥です。
金の鉱脈って、富士山の上に金の塊がポコンとタマゴみたいにあるわけではないんです。
地下深いところまでもぐって、粉塵にまみれながら掘削機でガガガガーッと岩盤を砕き、その砕いたものの中からちょっとだけ金が採れるわけです。
ダイヤモンドも同じです。金もダイヤモンドもそういう地下深いところにあるわけで、それが鉱脈というものの実態なのです。それを、たとえで教えているのが、あの桃太郎の話です。
桃太郎が鬼退治に行くじゃないですか。鬼が金を持っているわけです、黄金を。それに勝つために桃太郎さんは、小さい少年なんだけど、きび団子をあげる代わりに、犬、猿、キジを眷属として従えて鬼ヶ島に行くわけです。
あの犬、猿、キジは嗅覚が特別に発達しているとか、空を飛んだりしますが、あれは、ちょっと変わった人間を象徴しているわけです。
普通の人間ではないような能力を持つ眷属がいて、彼らにきび団子をあげて、金を持っている鬼退治をする、と。そういうたとえを通して、現実の社会を教えているわけです。
悪人を見るときにはギリギリまで目をつぶって
深い人間理解とはそういうことです。
尊大で傲慢で、屈曲している人間を見ても、「許せる!こんな人でもきっと頑張ってきたんだ。
ピカソもあの絵を描くために十一回も結婚しているんだし、Dさんもそうだったんだから」と。そのように、どんな人を見ても許せるのが人間理解というものです。
チャイコフスキーにしても、弟さんと深い仲になるような、特別な感動の瞬間があったから、あれだけの名曲をつくったわけです。チャイコフスキーの曲はリズミカルで格好いいですね。
とくに、交響曲「悲愴」なんかとても素晴らしい曲ですけれど、何が悲愴だったのかなあ、と思います(笑)。
ベートーヴェンも、若い男の子と関係があったようです。彼は、交響曲をつくるごとに違う女性がいたと言われています。
ところが、交響曲第八番をつくったときの女性は彼の思いどおりにならなくて、しばらく作曲をやめたんです。
そのとき、若い男の子と深い仲になったという説があります。そういうことで、交響曲第八番をつくったあと、しばらく曲をつくらなかったんですが、「クソ女め、許せん!」ということで作曲したのが「第九」です。
これは本当の話です。交響曲を一曲つくるごとに違う女性がいたんですから。最近の研究でその点ははっきりしております。
そういう話を聞いて、ベートーヴェンの交響曲を愛するのか、彼の素行を「うー、おぞましい」と思うのか、なんです。
しかし、おぞましいと思うのではなく理解してあげる。「ああ、八人目の女性に振られてクソーと腹立って、しばらく作曲する気をなくしていたんだけれど、少年に励まされながら、そしてクソーッという憤りをエネルギーにして「第九」をつくったんだなあ」と。
女性に対するエネルギーによって人間の究極の道を見出し、その結果つくられたのが、あの永遠の名作「第九」であり「喜びの歌」なんです。
お釈迦様が出家した本当の理由は、ヤショーダラーというお妃さんともう一人のお妃さんのお釈迦様を巡る三角関係のもつれで、「もう嫌だ。女なんかこの世から消えてほしい。それが叶わぬなら出家だ」と。それが出家した直接の理由です。
それを考えたら、仏法が今日あるのは女の妬みと嫉妬と、どうしようもないドロドロの三角関係のお蔭と言っても過言ではありません。「ああ、人間って何ておぞましいんだ」と感じさせた奥さんのお蔭です。
もちろん出家するまでの間、「ああ、こんなにも病気で苦しんでいる人がいる」「ああ、こんなところで人が死んでいる」と、生老病死を考えていたでしょう。
しかし直接的には、三角関係が嫌になって出家したんです。ちなみに、お釈迦様がお亡くなりになった直接の原因は食あたりです。そんなもの、どうして背後霊が見抜けなかったのかと思いますけれど(笑)、きっと食あたりという運命だったんでしょう。
出家の直接の原因は三角関係。死んだ直接原因は食あたりです。それだけ見たら、何か情けない人に思えますけれど(笑)、お釈迦様のその情けない部分を見るのか、それともお釈迦様の教えの中身を見るのか、なんです。
イエスさんも、最後は十字架に磔にされてしまったわけですが、最後のみじめな姿を見るのか、イエスさんの教えの中身を見るのか、です。
それが深い人間理解。美しい言葉ですけれども、そういう人間の裏面を見て、腹を立てないことです。憎まないことです。
どうしても腹が立つときには、相手の好もしく思えるところを無理やりに、強引に見つける努力をすることです。
目をぎりぎりまでつぶって、「ああ、こんな変な人でも背後霊は立派だ。お父さんお母さんは、この人のことを大事に思っている。
それに、この人も子どものことは大切に思っている。税金も納めている」と。
どんなひどい人でも一つか二つは必ずいい面があります。それだけを見て、あとは見ないことです。
会社の接待というものもそうです。接待というのは己を殺して、相手を気持ちよくさせてあげることなんですが、己を殺していることが相手に察知されると、かえって気を遣わせてしまいます。
ですから、気を遣っていることを気付かせないように気を遣って、どこか半分自分も楽しまなければいけません。
そうしないと、接待されている側にとっては気詰まりで、楽しくありません。接待というのは、己を殺し、相手を喜ばすことではあるんですけれど、気を遣っているなと感じさせないように、上手に気遣ってあげなければいけないわけです。
それもやはり人間理解です。深い人間理解に基づいてお付き合いできるような人でないと、接待しようと思っても長続きしません。それができない会社の社長、営業マンは成績が上がりません。
トップは誰でも孤独を嘆いている
この現実界に生きていくということは、そういうことなのです。あの世へ行けば、類は友を呼ぶですから、同じ思いの人がいっぱいいます。
地獄に行けば、周りはみんな地獄に行くような想念の持ち主です。そして、修羅道に行けば、周りはやはり修羅道に行くような想念の持ち主ばかりです。
ボクシングファンって、「殴れ、殴れ、やれ、やれ!」と叫んでいるでしょう。
修羅道ではいつも、ああいうふうにやっています。
血だらけになりながら、「刺しやがったなあ!」と言って、差しつ差されつで、お酒を飲んだりもしています(笑)。
修羅道に堕ちた人、みんな血だらけになっています。そういうのが好きなんですから、ホント。
もちろん、清々しい霊界に行けば、清々しい人ばかりですけれど、この世でお金のため、地位のため、名誉のため、権力のために目いっぱい生きた人は、総じてあまりいい霊界に行っていません。
その意味で、「貧しきものこそ幸いなり」というイエスさんの言葉には深いものがあります。
最高にランクの高い霊界、いわゆる天国界に行くと、この世の富、地位、名誉、権力を得ながら、それに対する執着心を乗り越えて、心の奥深いところは本当に清らかで純粋で、優しさと愛に満ちている人ばかりなんです。
心の奥の部分が霊界ですから、純粋で清らかな心で生き貫いた人は高い霊界に行くわけです。
そして、周りを見てもそういう人ばかりなんですけれど、この現実界に生きている間はそういうわけにはいきません。
くどいようですが、地位や名声や富や権力を手に入れた人はほとんど、人の悪い人間ばかりです。
そういう人たちとお付き合いするには、鬼のようであっても、化物みたいであっても、金の鉱脈を一つずつ大事にする。そして憎まない、憤らない。そういう、大らかな心が要るわけです。
そうしないかぎり、絶対に人脈なんかできません。できても続かないし、向こうも自分のことを可愛がってくれません。
富や権力があっても心根のよくない人は、しばらく付き合ったらだいたい分かります。それでも離れない人は大方、打算でお付き合いしているんですけれども、そういう中にあって自分のことを本当に大事にしてくれる人がいると、どこか体で感じるところがあります。
やりにくい人間というのは、一人去り二人去りして、孤独な人が多いんです。
中には打算で割り切って、ずっとお付き合いを続ける人もいますが、やりにくさに音を上げて、だいたい去っていきます。
だから、地位のある人、名声のある人、富のある人、権力・権威がある人はみんな孤独なんです。
この方たちはそういう性質なるがゆえに、心あるいい人から順に一人去り、二人去りして、「世の中って何なんだ。入って何なんだ。
ああ、人間ほど信じられないものはない」と、みんな言っています。本人が悪いから、なるべくして孤独になっているだけで、当たり前のことなんですけれど、孤独を嘆いています。
地位、富、権力、権威があるからお付き合いを続ける人もいますが、しかしそれは、地位があるから打算で付き合っている、名声があるから打算で付き合っている、富があるから打算で付き合っている、権力があるからおもねっている、権威があるからおもねっているだけで、結局、この方たちはいつも孤独なのです。
営業マンは取締役以外と会ってはいけない
そこを理解して、腹を立てない、憎まない、嫌いにならない、そして称えてあげると、意外に心を開いてくれるものなのです。
私は、「超一流のサラリーマン・OLになれる本」(たちばな出版刊)の中で、「トップ中のトップは、みんなが畏れて誰も来ないから、孤独なんだ」、「その懐ヘズバーンと飛びこんでいったら可愛がってくれる」、「だから営業マンは取締役以外に会ってはいけない」というようなことを書きました。
それができるかできないかは、すべて営業マンの度胸一つにかかっているのですが、それは言って聞かせてもなかなか分かりません。たちばな出版の営業マンもそうでした。
ところが、「超一流のサラリーマン・OLになれる本」が出版され、改めて活字で読んでみて、「ああ、そういうことだったのか。これからは深見先生の言うように、取締役以下の人とは会わないようにしよう」ということで、一生懸命にキヨスクにアプローチをかけ、その結果、いまでは全国のキヨスクにたちばな出版の本が入っているのです。
その間、ラビ・バトラさんの「株式大暴落」という本が出たことも追い風になったのですが、何度も何度も断られた末、見事に攻め落としました。
私の「超一流のサラリーマン・OLになれる本」を読んで、「そうだ、先生のやり方でやっていくんだ」ということで、トップセールスを展開し、いま、全国のキヨスクに「超一流のサラリーマン・OLになれる本」、「どこまでも強運」、それからラビ・バトラさんの「株式大暴落」を始め、たちばな出版の本がどんどんと入っています。
私の本を読んで営業マンが頑張ったんです。普段から言っていることなんですけれども、本を読んで改めて「そうだ!」と思ったわけです。
私はこれまでずっと、その方法で営業をやってきました。
時計はいま、売上ではだいたい業界第二位ですけれど、一番のところは時計が半分で、それ以外にネクタイとか傘を売っています。
ですから、時計だけなら一番ではないかと思います。まあ、セイコーとかシチズンの資本の入っている大きな販社があります。それを除いた独立系の販社ではトップです。
売場面積の一番大きいのは新宿髙島屋で、一階に直営ショップがあります。
心斎橋の髙島屋にも入っています。神戸大丸にも入っております。
直営ショップはいま、全国に十一店舗。納入している卸先は千三百社あります。それも全部一番。おもちゃも一番、問屋も一番、サッポロ一番これはラーメンですね(笑)。
一番のところは全部落としました。どこもみな、直接営業して開拓しました。あるいは部下に、「こうやってやるんだ」と指示して切り開いてきました。
何もないゼロのところから、全部開拓して基礎をつくったんです。資本金五十万円から始めた会社です。
そういう小さな会社がどうしたら大きく成長していくのか。いろいろと考えましたが、やはり、自分よりも大きい人の胸を借りるほかない。
そうしなければ、永遠に大きくなれないんだ、と。そのとき、この愛嬌と度胸でぶつかっていくわけです。
それでも、行く先々の社長さんは、みんな一癖も二癖もある人ばかりで、植松先生の言葉、「相手が悪なら悪以上の悪になって、善の道を貫くんだ」を思い浮かべては、飛び込んでいきました。
そうやって、可愛がってもらってきたわけです。
一流どころには全部入っています、時計は。学校のほうも、同じように切り開いてきました。と言っても、予備校というのは本来、非常に厳しい業界でして、いまはもう乱塾時代。乱れた塾と書くんです。「らんじゅく」と言うと、文化爛熟の爛熟という字を書く人がいるんですけれど、その爛熟ではなく、乱と塾で乱塾なんです。
しかも、よその予備校がバタバタと倒れているときに出したものですから、その厳しさは半端ではありませんでした。
それでも、「負けてなるものか!」という一念で今日まで頑張ってきたわけですけれど、とくに大躍進を成し遂げたのは丙午の年でありました。
ステッドラーという、文具を取り扱うドイツ系の会社があります。そこへ、 A、B、Cとか1、2、3とか書くテンプレートというものを私が設計して納入していました。
そのとき、ステッドラーさんのある部長がおっしゃった。「いやあ、私もいろいろな学校に商品を納めているけれども、丙午の年はだいたいどこも、前年度比三十パーセント減ぐらいの業績みたいだよ」
そうすると、私の経営する予備校も今年は三十パーセント減になるのかなあと思いましたが、その丙午の年により大きいところに引っ越して、さらに、新聞の全ページ広告を打ったんです。
予備校業界で初めての新聞の全ページ広告。朝日新聞に二回も三回も出して、それも細かい体験談を載せたんです。
それが成功して、今ではよその予備校も真似をしていますけれど、あれは私たちが開発したやり方なんです。
で、その結果はと言えば、前年度比百五十パーセントの伸びです。それからバブルが崩壊したあとに分校を一つずつつくっていって、いまは分校が四つあります。
要するに、少子化でバタバタと学校が倒れているときに、どんどんと拡大していったわけで、周りがダメになればなるほど、業界全体が厳しくなればなるほど、「こんなものに負けるか!」とばかりに、ますます強気になるのです。
銀行なんかに負けるものか!
急に話が変わりますけれど、銀行さんとお付き合いするときなんかはもう、本当に強気で立ち向かわなければダメです。
たとえば今、繊維業界がよくありません。銀行さんが貸し渋りをするものだから、どこも資金繰りで困っています。こういう不況のときだけれど、一千万円あったらちゃんと回転してうまくいくんです。
これまでのように、銀行が貸してくれれば事業が成り立っていくんです。
ところが銀行さんは、「今はこういう時期だから、貸し付けたお金をまず返してくれ」と言って、資金回収に走り回るだけで決して貸そうとしない。
その結果、業績が悪くないところまで倒産しているんです。いわゆる貸し渋り倒産、貸し剥がし倒産というやつですが、とにかく、「貸し付けたお金を返してください。そうしたら、ちゃんと融資しますから」の一点張りです。
とくに、繊維業界みたいな将来性があまり見込めないと判断するところ、よくないとおぼしきところには貸さない主義です。
それどころか、貸したお金をいかに回収するかで必死です。そのために資金繰りができずに倒産する企業が相次いでいますが、その手に乗っては絶対にダメです。
以前、友達同士の社長が三人か四人、八王子かどこかのホテルで一緒に自殺したことがありました。あれ、お互いがお金を回し合いしていたのですけれど、銀行が貸さなくなったものだから、もうやっていけなくなって一緒に自殺したんだそうです。
そういう銀行のやり方に対してどれほど怒りを感じたか。おそらく、日本中の経営者が怒りを感じたでしょう。しかしまあ、銀行業務から考えたら、しようがないことなんですけど。
それでもやはり、銀行は許せないと思います。というのも、私たち中小企業が納めた税金で銀行は今、バックアップされて生き残っているんですから。
その銀行が融資をストップしたら、中小企業が潰れて税金を納められなくなって、バックアップできなくなります。
だいいち、われわれの税金でバックアップしてもらっている銀行が、税金を払っている会社にお金を貸さないというのは、いったいどういうことなのか。とんでもない矛盾です、ホント。
これが現実界ですから、それにどう勝つか。私たち経営者はそれを常に考えなければいけません。貸したお金を返してくれと言ってきたら、私だったらこう言います。
「ああ、返しますよ、返しますよ。返しますから、返すかわりに一応、これだけのお金を貸してくれませんか」と銀行というのは他行に対するライバル心がありますから、「ほかの銀行からいくらいくら貸してくれると言われているんだけれど」と言えば、態度を変えるんです。
とにかく、銀行の弱いところを研究し、銀行の揺さぶり方をもう、あの手この手とずっと考え続けています。
とにかく、考え続けるのです。絶対に負けないために銀行の手の内、ライバ企業の手の内を研究し続けるのです。
善の道を貫くための学問と教養
そんな毎日を送っていると、誰でもみな、朱に交われば赤くなって、だんだん悪に染まっていきます。
その悪に染まらずにやっていくためにはどうしたらいいのか。それを考えなければならないのですが、私の場合、そういう銀行とのやり取りや、おぞましい人間と会ったあとには、必ず「中庸」や「論語」を読んだりいたします。
本当におぞましい人間に会うと、こんなヤツとは二度と会いたくないと思うんですけれど、そういうときには清々しい書物に没入して、自分の心を清めるわけです。
相手が悪なら悪以上の悪で、本当の善の道を貫く・・・・・・その善の道を維持するために、私は仕事をしながらご神業に勤しんでいるわけですけれど、この現実界を生きていくということは本当に辛いことです。
「クソッ、こんなヤツのために・・・・・・」と、今までどれだけ涙を流したかしれません。
傲慢で尊大で自己中心的な、そんな人間のために時間を使い、エネルギーを使い、労力を使い、気を遣い、胃潰瘍になるか肝臓が収縮するか、胆嚢が腫れるか・・・・・・。
そういう思いをしながら、涙ながらに駅のプラットホームで「中庸」を読むわけです。「論語」を読んだり、「禅語録」を読んだりするのです。
そうやって、一ページ一ページ涙ながらに読んでいったら、自然と体に染み込んでいきます。「論語」の一節にしてみても、「中庸」の一節にしてみても、「禅語録』の一節にしてみても、それを書いた先人たちや哲人たちの深い思いが凝縮されているから、本当に心が洗われます。
仏典にしてみてもバイブルにしてみても、神社の歴史にしてみても、読めば読んだだけ心が洗われるから、もう体にも頭にもバシーッと入ります。だからこそ、何でも覚えているわけです。
実業の仕事をしながら尊き神なるものを貫き通すと言いますけれど、本当にシナントロプスペキネンシスの技です(笑)。
クロマニョン人にもネアンデルタール人にもホモサピエンスにもできないような、シナントロプスペキネンシスの技ですよ。
しかし、「神様がいらっしゃるからできるんだ」と。「やらねばならないのだ」と。「毘沙門天にならなきゃいかんのだ」と。
そういう気持ちになったら、尊大な人が来ても、傲慢な人が来ても、金の亡者が来ても、どうってことありません。
もう、いくらでもいらっしゃい、もう何でも来い、と。そういうふうに腹を据えなければ本当の人脈はできないです。
普通の人はみんな地位におもね、名声におもね、計算と打算で付き合っています。
ですから、そういう計算と打算の人が見て、「ああ、こいつと付き合っていると何かメリットがあるんだなあ」と思わせるような、メリットらしきものをちらつかせていくという悪知恵が要りますね。
悪知恵はどこから学ぶか
どうしたらそういう悪知恵、つまり、悪に勝つ悪知恵が身につくのか。誰もがみな知りたいポイントではないかと思います。
これについては、北斗神拳のケンシロウを見れば大変よく分かります。
北斗神拳のケンシロウ知らない人は何のことか分からないでしょうけれど、ケンシロウというのは、漫画週刊誌の「少年ジャンプ」に連載されていた「北斗の拳」の主人公です。
そのケンシロウが繰り出す技が北斗神拳。北斗七星のパワーを受けて、北斗神拳の正統継承者であるケンシロウが南斗水鳥拳やいろいろな流儀と戦うわけですが、その都度、もうギリギリのところまで追い詰められるんです。
それでも、最後には必ず勝つ。しかも、別の流儀と戦うたびに、相手の技をすべて修得するのです。
だから南斗水鳥拳も使えるし、南斗鳳凰拳とかも全部使えるのです。
それと同じで、たとえばある企業にやられたとします。
そのときは、「うーん、騙された。クソーッ」という気持ちになりますが、「ああ、なるほど。こういう悪知恵の働かせ方もあるんだな。よーし、次回はこれを使うぞ」と、心をスパッと切り替えて、悪知恵を活用するわけです。そのまま使えば悪用になりますが、悪用ではなく善用していくわけです。
どうしたら悪知恵に勝つ悪知恵が身につくのかと言うと、悪知恵に一回やられて、スレスレのところまで行ってみて、その手法を勉強するんです。
完全に打ちのめされてはダメですけれど、スレスレのところ、ギリギリのところで踏ん張って、そこから不死鳥のように甦る。そして、甦ったときには、相手の技みんな自分のものにしている、というわけです。
こういう話は本来、あまりしてはいけないんですけれども、泥棒とか空き巣とか詐欺師とか、犯罪者がいるでしょ。彼らはどこで技術を磨くのかというと、実は刑務所の中なんだそうです。
刑務所に入って、いわゆるムショ仲間から「お前、こういうふうにやればいいんだ。
こういうところを狙えばいい」とか何とか、いろいろと技を教えてもらうわけです。
ですから、空き巣であろうと、泥棒であろうと、詐欺師であろうと、刑務所に入る回数が多くなるにしたがって技が磨かれていって、何十回と入ったらもう、泥棒業界の大御所になりますね(笑)。
悪知恵の極致って、そういうふうに仲間から学んでいくものであって、地位、名誉、富、権力、権威のある方々もみんな、仲間から学んでいます。彼らの人脈のつくり方と言ったら、本当にうまい。
それぞれ海千山千の狢、狸、狐、天狗祟り霊、はぐれ稲荷みたいな、そんなのばかりで、お互いに学び合っているわけです。
何が善で何が悪か
そういう方とお知り合いになったらまず、お茶でもお酒でも食事でも、嫌がらずにお付き合いすることです。そして、ときにはこちらからお招きすることを忘れてはなりません。
その際には、さっきお話しした弁財天さんのように、相手の欲望というか好みというか、本音を突かなければなりません。
お酒が好きなのか、ゴルフが好きなのか、釣りが好きなのか、博打が好きなのか。儲け話が好きなのか。人それぞれ好みがあり、欲望があるはずです。
ですから、社会的名声のある人や地位のある人とご縁ができたら、相手の本音を探って、「行きませんか、行きま「せんか」と、積極的に誘わなければダメです。
まあ熱心に誘えば、たいていは「行きます、行きます」と言います。けれど、その人だけが行くのでは人脈づくりという点ではちょっと弱い。
できるだけ、誰か友達や知り合いを連れてきてくれるように頼むべきです。そうすれば、そこからさらに人脈が広がっていきます。
そうやって人脈を広げていきながら、いろいろな人とお話をする中で、「ああ、そうやってやるのか」と、手法をまた学ぶわけです。「ああ、そういうふうにしてお付き合いの幅を広げているのか。人脈って、そうやってつくっていくんだな」と。
一人の人間に可愛がられると、次々と紹介してくれるはずです。
そうやって、金の鉱脈の中にスパッと入っていく。ただし、その方たちと同じように狸とか狐とか天狗とか狢になってはいけない。
あくまでもお友達になるだけで、悪に染まっては絶対にダメなんです。
そうではなく、観音様になる修業なんだ、修業をさせていただいているんだと考えて、染まりきらないようにすればいいんです。
そうやって金の鉱脈の中に入っていって、
「オホホ、お狐様って、そのように化けるのね。お狸さんって、そういうふうに千畳敷するのね。天狗さんって、そういうふうに鼻高くするのね。アハハ、祟り霊さんって、そうやって牙を剥くのね」
なんて言って自ら楽しみながら、相手の手法を覚えて善用する。
どうしたら善用できるのかと言えば、愛と真心で人の幸せを祈りながら、同じことをしたらいいんです。
同じことをやっていても心の発するところ、すなわち動機が善なら善なんです。最後を「相手もよし、自分もよし」で収めたら善になるのです。
発するところが善で、相手もこちらも八方丸く収まって、人にもよし、われにもよしになったら善。発するところがわれよしだったら悪になる。ただそれだけのことです。
善とか悪とか、倫理道徳、宗教理念とか、立派なことを言う人はいっぱいいます。では、具体的にどうやったら善を貫くことができるのか。
発するところが善で、愛と真心で人々が幸せになりますようにという祈りをいつも捧げながら、最後の締めくくりが、「相手もよし、われもよし」だったら善です。プロセスを見ただけでは善か悪か分からないのです。
善の道を貫くんだと抽象的に考えていただけでは、残念ながらこの世では負けてしまいます。
銀行にもライバル企業にも負けてしまいます。われわれは負けてはいけないのです。
業者さんとの価格競争にも負けてはいけないし、新規開拓競争でも負けてはいけない。営業、セールス、アプローチ、宣伝広告・・・・・・絶対に他社に負けてはダメなんです。
自社独自のやり方が見つからないときには、他社のやっているいいところを真似してでも勝たなければいけません。
同じやり方を熱っぽくやればいいんです。あるいは繰り返しやればいいんです。徹底してやれば勝ちなのです。
