経営に生かす人脈作りの極意 深見所長講演録13(Vol.4)

筆まめ、口まめ、足まめが人脈をつくる

人脈づくりも同じです。人脈をつくっていく具体的な方法論を挙げればキリがありませんが、たとえば、こまめに何度も何度も手紙やハガキを書くこと。これが人脈づくりの一番の基本です。

神社本庁の統理だった方に、櫻井勝之進さんという方がいます。現在、九十歳ですが、神社本庁の最高位である統理。その統理を長らく務めていらっしゃいまして、いま(平成十年当時)は皇學館大学の理事長をなさっています。

それから先般、伊勢神宮の式年遷宮がありましたが、その前の式年遷宮のときには、櫻井さんが総務部長としてすべてを仕切られました。櫻井勝之進さんはそれくらいすごい人なのです。

その櫻井さんもいろいろな人脈をお持ちですけれど、なぜ神社本庁の統理にまでなられたのか、最高位まで昇りつめられたのか。

その理由を私なりに推測しますと、やはり、先ほどお話しした基本原則に基づいているからなんだと思います。

たとえば、私が舞っている能のビデオを櫻井さんにお贈りしますと、すぐにご覧になって、三、四日のうちに感想をしたためた手紙をくださるんです。

どこそこの場面がよかったとか、解説がよかった、と。本を差し上げるときもそうです。

すぐに読んでくださって、「何ページにあった言葉に感動してよかった」といった感想を書いた手紙やハガキをくださいます。

ビデオでも本でも何でも、何かお贈りすると必ずすぐに返事が来るんです。

敏速な即応力があるというのか、礼儀正しいというのか、とにかくこまめに手紙を書かれるんです。相手から何かを受けたら必ず返事を出す。

そこに誠意を感じない人はいません。自分のことを認めてくれたんだ、理解してくれたんだとうれしい気持ちになります。そういう人とは仲よくなりたいと思います。

お贈りしてもなしのつぶての人とはえらい違いです。

櫻井さんは驚くほど筆まめです。しかも、「この間はどうも」といった儀礼的なものではなく、「先日はお忙しいところ、二時間もかけてやっていただいて、しかもこんなものまで頂戴して、あんな温かい言葉をかけてくださって、本当にありがとうございました」と、とても具体的に書かれるわけです。

ただ単に、「この間はどうも」とか「ありがとうございます」というのは誰でも書けますが、何がどのようにうれしかったのか、どれくらい深く感謝しているのか、そういうところまで具体的に言葉が出てくる。つまり、筆まめであると同時に口まめなのです。

人脈づくりの具体的方法についてはいくらでもお話しできますけれど、少なくとも無精であったら絶対に人脈はできません。

人脈の豊かな人をよく見てください。共通項が幾つもあります。基本的な部分はもちろん人間理解で、傲慢で偏屈でわがままであっても嫌いにならない、腹を立てない。

これが基本です。

次の共通項は筆まめ、口まめです。

何かあればすぐに手紙を書くし、その内容も具体性に富んでいて、それを読んだ人は誰もが心を動かされ、お近づきになりたいと思ってしまう。つまり、口まめということです。

人脈をたくさん持っている人は足まめでもあります。

いろいろな集会や会合にはちょくちょく顔を出しますし、「来ませんか」と誘われれば、「はい」と言ってすぐに行きます。足を運ぶことが面倒ではないわけです。あちこちに人脈を持っている人は総じて、筆まめ、口まめ、足まめです。

それから礼儀、恩義、信義。この三義も欠かしてはなりません。

とくに礼儀は大切です。人脈が壊れる原因の多くは、礼儀をわきまえていないことにあると言っても決して過言ではありません。

さっきも言ったように、権力、権威、富、地位、名声のある人は、ほとんどみんなわがままで、自己中心で、気分屋で、尊大で、傲慢で、人を見下して、二面性も三面性もある性格をしているんですが、他人が礼儀に反することをすると、自分のことは棚に上げておきながら、「何て無礼なヤツじゃ」「何て礼儀を知らんヤツじゃ」と言うんです。

そういうことはしょっちゅうです。みんな、他人の礼儀にはうるさい。これ共通項です。

人脈に値する社会的地位、名声、富、権威権力のある人はみな、礼儀にうるさいんです。それを忘れて礼儀を欠くようなことがあったら、人脈を築くことは不可能に近い。そう思って間違いありません。

以前、出世をテーマにした講義でもお話ししましたけれど、とにかく、社会的名声のある人はみんな礼儀にうるさい。

自分のことは棚に上げておきながら、人のことは注意深く観察しているんです。そういうとき、「自分はどうなんだ?」とついつい思いたくなりますが、そんなことに腹を立てるようではまだまだ修業が足りない。

そういうものなんだと理解してあげなければダメですね。とにかく礼儀にうるさいです。

だから、筆まめ、口まめ、足まめだけでなく、そこに礼儀正しさを加えなければいけないわけです。

そうすると、可愛がってくれるし、お付き合いが長く続いていきます。

それから、恩義も忘れてはいけません。お世話になりっぱなし、いただきっぱなしで、何のお礼もしなければ、「あいつは恩知らずだ」ということで、人脈に値する人間から嫌われて、せっかく築いた人脈もプチーンと切れてしまいます。金の鉱脈を探り当てても、バーッと洪水に流されて、金が掘れなくなります。

最初の金の鉱脈がずっと永遠に続いているのに、最初でストップしてしまって、それから先の人脈が途絶えてしまいます。

「あいつは恩義を知らんヤ「ツじゃ」と、知人、友人を紹介してもらえなくなります。

自分は別なんですよ。当人は平気で頭越しで取引をしたり、人を踏み倒したり蹴り倒したりしながら、権力・権威・名誉・名声・富を得たんですが、他人にはうるさく、何かにつけて「恩を知らんヤツじゃ」と言うわけです。

そして信義。恩になりながら、陰でその人の悪口を言ったり、不利益をもたらしたりするようなことをすると、「あいつは信義にもとるヤツじゃ」ということになって、人脈が切れてしまいます。まあ、恩を仇で返すような行為は、人脈の構築を云々する以前の問題です。人間として基本的にやってはいけないことです。信義にもとるような行いは、厳に慎まなければいけません。

とにかく、この世で功なり出世を遂げた人のほとんどが、礼儀・恩義・信義ということをうるさく言います。自分のことは棚に上げておきながら、他人に対しては厳しいのが彼らの共通した特徴です。

逆に言うと、筆まめ、口まめ、足まめで、礼儀、恩義、信義をきちんとわきまえていたら、「近年稀に見る立「派なヤツだ」ということで、必ず可愛がってもらえます。

人脈も切れないし、それ以上にどんどん伸びていきます。

その櫻井勝之進さん、さすが神社本庁の統理、そして皇學館大学の理事長になるだけあります。

芦屋大学の教授もしていらっしゃったんです。九十歳ですけれど、今なお、お渡ししたビデオでも本でも全部を読んで全部を見て、具体的な感想をすぐハガキに書いてくださいます。しかも直筆で。

忘れてはならない礼儀・恩義・信義の三義

私の大伯父さんに荻野益三郎という人がおります。

この人は一高、東大と、いわゆるエリートコースを進み、高校も首席、大学も首席で卒業しています。

しかも、大学一年生のときに高等文官司法科試験、現在の司法試験にトップで合格。合わせて高等文官行政科試験、いまの公務員上級職試験もトップで合格しております。

その荻野益三郎という大伯父さん、一回聞いたら絶対に忘れないほど、ものすごく記憶力がいいんです。

以前、私がお会いしたとき、「キミは二十八年前の春の夕刻、紫色の産着を着てわが家にやってきていたあの子だろう」と言うんです(笑)。

何十年も前のことを正確に覚えているというのは驚きですけれど、六法全書を全部覚えているというのですから、まるで南方熊楠みたいな方です。

六法全書の何ページにどんな条文があるのかをきっちりと覚えている。

文字でも何でも、目で見たらそのまま記憶に焼きついてしまうというのです。

その大伯父さんに比べたら、私なんか本当に記憶力がよくない。

「深見先生の記憶力ってすごい」と皆さんおっしゃいますけれど、荻野の大伯父さんのことを知っているから、皆さんがおっしゃるほど記憶力はよくないと思っております。まあ、普通の人よりは少しいいというくらいでしょうか、私の記憶力は。

しかし、荻野の大伯父さんがすごいのは、記憶力だけではないんです。

たとえば私が、「ありがとうございました」とか、感謝の気持ちをハガキの半分にしたためて出したとすると、同じようにハガキの半分に文面を書いて寄越すのです。

七割だったら七割、八割だった八割と、まったく同じパーセンテージで書いてくるのです。

それも素晴らしい字で、「暑いけどもキミも頑張って」などと、元気づけられるような事柄をサッサッサーッと書き綴って送ってくるのです。

どんな人にでも必ず返事を出すみたいです。百回ハガキが来たら百回返事を書く。

しかも、だいたい四日以内。こちらが書いた字と同じ級数、同じ分量で返ってきます。

素晴らしい文字で素晴らしい文面が綴られております。何回出しても来るんです。

そういう方だから出世をするわけです。

たとえ私みたいな人間であっても、出したら必ず返事が来ます。その大伯父さんはどんな人から手紙やハガキをいただいても、必ずそうするんだそうです。

やはり、筆まめ、口まめ、足まめでなければいけません。筆無精、口無精で、どこに行くのも面倒臭いという人間は、絶対に人脈をつくれません。つくってもすぐに切れます。

そして礼儀・恩義・信義。この三義を忘れてはダメです。筆まめ、口まめ、まめであっても、礼儀・恩義・信義を欠くようでは、やはり人脈はつくれません。

絶対に避けたい頭越しの行為

以前、講義をしましたけれど、若い人はよく、礼儀知らずとか、恩義知らずとか、信義にもとるとか、いろいろと注意されることがありますが、一番よく注意される点は何かというと、お世話になった人を頭越しにしてしまうことなんです。

これが、人脈を切ってしまう最も多いパターンです。せっかく人脈ができたのに、頭越しにやってしまったがために人脈が切れてしまうケースが非常に目につきます。

たとえば、魑魅魍魎のようなKという人に協力してもらったとしましょう。

そして、地位あり、名誉あり、富があり、権力あるKさんから、「キミ、Lさんを紹介してあげるから、行ってごらんなさい。Lさんは業界では有名な人で、彼と親しくなれば何かと力になってもらえるはずだよ」と紹介してもらい、Lさんのところへ行ったら、今度はLさんが、「Mさんも大変な実力者だから、彼と知り合いになっておくこともキミにとっては大きなプラスになるよ」ということで、Mさんを紹介してもらった。

そしてこのMさんは、Lさんが言うとおり大変な実力者で、Mさんの口ききで仕事がどんどん入ってきた、と。

こういう場合、誰でもたいがい、Lさんのところへお礼に行きます。「Mさんを紹介してくださってありがとうございます」ということでLさんにはお礼を言います。ところが、Kさんにはお礼を言わないケースが多いんです。

KさんからLさんを紹介してもらい、Lさんから紹介されたMさんのお蔭で仕事がどんどん入ってきたんだけれども、実は、KさんとMさんが繋がっていて、MさんからKさんへ情報が筒抜けになっているケースが多々あります。

そういう場合、Kさんとしては面白かろうはずがありません。

「私はLさんを紹介して、そして、LさんからMさんが紹介され、そのお蔭で仕事がうまくいったらしいが、彼は私には何も言ってこないではないか」

要するに、頭越しでやったと考えるわけです。ですから、KさんからLさん、 LさんからMさんを紹介してもらっていいことがあった場合には、Lさんだけでなく、Kさんのところまでさかのぼってお礼を言わなければダメなんです。

「ご紹介いただきましたLさんからMさんを紹介していただき、Mさんのお力添えで大きな仕事に恵まれました。これもひとえにKさんのお蔭です。本当にありがとうございました。今後ともよろしくお願いいたします」と、菓子折りを持って伺い、足をビシッと揃えてお礼を言わなければいけません。そこまで礼儀を尽くせば、「あー、こいつは恩義をよくわきまえておる、信義をよくわきまえておる、礼儀ができておる。これからも力になってやろう」

というふうにKさんも思います。

まあ、うまくいったときにはKさんまでさかのぼってお礼に行ったり、報告に行ったりする人もいるにはいるでしょう。

しかしもっと問題なのは、うまくいかなかったり、何か問題があったりした場合で、このときに何の報告もせず、なしのつぶてで終わりにしてしまう人が少なくありません。うまくいかなくてもやはり、きちんと報告しなければいけません。

「せっかくLさんをご紹介していただきましたけれど、きっと私の言い方が悪かったのではないかと思います。結果的にうまくいきませんでした」

このように、失敗したときでもきちんとKさんに報告すると、「そうか、Lさんはそう言っていたか。まあ、そう気落ちすることはないよ。

機会を見つけてまた私から言ってあげるよ」と、必ずKさんは言ってくれます。

自分の人脈を誰かに紹介したあと、結果がよくても悪くてもちゃんと報告してくれれば、その後、どんなことがあったのか分かります。

ダメだったらダメだったなりにフォローできるし、よかったらよかったで、「紹介してよかっ「た」ということになります。

それに、よくない結果でもちゃんと報告に来れば、「うん、可愛いヤツじゃ。次はもっといい人脈を紹介してやろう」という気持ちになります。

いい結果が出ても、何も報告しなければ、「あいつは礼儀を知らんヤツじゃ、恩義を知らんヤツじゃ、信義にもとるヤツじゃ」と言われます。

ですから、いい結果であっても、悪い結果であっても、必ずKさんに報告しなければなりません。結果はどうであれ、それが礼儀であり恩義であり信義なのです。

これが分かっている人もいるにはいますけれども、結果がよくないときにも報告に行く人は、私の見聞するかぎり、あまりいません。

だいたいがなしのつぶてです。若い人となると、報告しない人がほとんどではないかと思いますが、とくによく見受けられるのが就職活動のときですね。

就職活動で、知り合いの有力者から企業を紹介してもらうということがよくあります。

その結果、首尾よく就職が決まったら、お礼の挨拶に行かない人はいないでしょう。

普通の感覚の持ち主なら、手みやげ持参で訪問し、心からの感謝の言葉を述べるはずです。

対して、決まらなかったときはどうかというと、報告や挨拶を忘れてなしのつぶてという人が案外多いのではないでしょうか。

目ぼしい企業を紹介してもらい、結果がよければ「ありがとうございました。

お蔭で就職が決まりました」と挨拶するものの、失敗したら何の挨拶もなし、というのではダメです。

やはり、結果が悪かったら悪かったなりに、「せっかくご紹介していただいたのに、私の力不足で試験に落ちました。すみませんでした」と、きちんと報告しなければいけません。これが恩義と礼儀と信義の原則です。

報告とお礼を絶やしてはならない

とにかく、人や企業を紹介してもらったら、結果はどうであれ、きちんと報告しなければいけないのです。

その際には、さっきも言ったように、直接紹介してくれた人はもちろんのこと、その人を紹介してくれた人があるなら、その人のところまでさかのぼって挨拶する必要があります。

それを忘れたら、信義にもとると言われても仕方がありません。

ところが、KさんからLさんを、LさんからMさんを紹介され、Mさんと親しくなると、ついついKさんを忘れがちになるんです。

Mさんのお蔭で就職が決まったり、いい仕事が入ってきたりしたら、そのことをLさんだけでなく、 Kさんにも報告に行かなければいけないのです。

「実は、LさんからMさんを紹介していただきまして、このMさんのお蔭でうまくいきました。ありがとうございます」

「あ、Mならわしも知っとるよ。わしのほうからもお礼を言っておくよ」

「そうですか。ありがとうございます」

KさんとMさんは、一見したところ何の関係もないように思えても、繋がっている場合が多いんです。

ですから、Mさんにお世話になったとき、Kさんに報告しないと、「頭越しでやるヤツなのか、あいつは。信義にもとるヤツじゃ」ということで、Kさんから嫌われるわけです。

これは若い人に多く、とくに就職活動の場合に多いんです。Kさんのことをすっかり忘れてしまうわけです。つまり、筆無精、足無精、口無精なんです。

KさんとMさんは繋がっている場合が多いんです。ですから、いいことがあっても悪いことがあっても、必ずKさんのところにもう一回返ってきて、「ご紹介いただいたLさんからMさんを紹介していただいて、こういういいことがありました。これもKさんがさんを紹介してくれたお蔭です。本当にありがとうございました」と、謹んで御礼申し上げなければいけない。

KさんとLさんの二カ所にお礼に行かなければいけません。

そうしたらKさんは、「ああ、こいつは礼儀を知っとるヤツじゃ。恩義を知っとるヤツじゃ。信義をわきまえておるヤツじゃ」ということで、ますます可愛がってくれます。

魑魅魍魎なる人間ではあっても、礼儀・恩義・信義にはうるさいから、「魑魅魍魎のようなヤツ、化物のようなどうしようもないヤツがいっぱいいる中で、なかなか見どころのある男だなあ、この男は」ということで、今度はXさん、 Yさん、Zさんまで紹介してくれたりします。

こういうふうに、Kさんという一人の鉱脈からいっぱい人脈が出てくるわけですから、このルーツになる最初の人物、地位・名誉・富・権力・名声のある、魑魅魍魎の親玉のような人物に巡り会ったならば、この人を本当に大切にしなければいけません。

もし、その人の人間性に嫌気が差して腹を立てれば、向こうもそれを察知して、「何だあいつは。けしからんヤツだ!」と目をつけられます。

しかも、魑魅魍魎の化物ですから(笑)、一度目をつけたらずっと目をつけたまま、腹を立てたらずっと腹を立てたままで、どこへ行っても邪魔されます。

地位・名誉・権力がある人間はみんな化物なんです。魑魅魍魎なんです。人が悪く、何を言われるか、何をされるか分かりません。

ときどき、奇跡的に素晴らしい人もいます。しかし、そういう人は極めて稀です。ですから、いつも最悪のケースを考えておかなければいけません。

たまたま素晴らしい人に出会ったからと言って、すべてがいい人だと考えていたら、大変な目に遇います。素晴らしい人はいるにはいますが、パーセンテージから言えばほとんどいないわけですから、最悪のケースで考えておいたほうがいいですね。

地位・名誉・権力のある人はみんなうるさいことを言うんだ、と。そう心得ておくべきです。

だから、Mさんの力添えでいいことがあったときは、Kさんのところへ報告とお礼に行くことを決して忘れないことです。

「LさんからMさんを紹介していただき、こういう素晴らしいことがありました。これもさんを紹介していただいたお蔭です。本当にありがとうございました」

「いやいや、キミが立派だからだよ。Lさんに可愛がられてよかったね」と今度は、Xさんを紹介してくれたり、Yさんを紹介してくれたり、Zさんを紹介してくれたりします。

「こいつは、人を紹介しても恥をかかせないヤツだ。ちゃんと責任を持てる男だ」と思ったら、いっぱい紹介してくれます。 K さんという人から、魑魅魍魎の友が次々と出てくるわけです。

もちろんみんな癖があります。癖があるけれど、Kさんからいっぱい人脈が出てくるわけだから、Kさんを大事にしなければいけません。

そうしたら、このKさんという根っこから株がいっぱい分かれていきます。これが人脈というものなのです。

その人脈を大切にしようと思うならば、Mさんのところでよくないことがあったときでも、Kさんに報告する必要があるわけですが、そのとき、「LさんからMさんを紹介していただいたんですが、実はこういうことがありまして」と、事実だけを報告すると、「Lは何を考えてMみたいな力のないヤツを紹介したんだ。Mなんかを紹介するなんてバカなヤツだ。

よし、わしからLによく言っておくからな」ということになって、Lさんに迷惑をかけることになりかねません。

その結果、あたらしさんとのパイプが切れてしまったら、Kさんに報告する意味がなくなってしまいます。

何か悪いことがあったときの報告は、「これこれこういうことがあったのですが、これも私の力不足です。私の至らさゆえにLさんに申しわけないことを致しました」と、「私の力不足」を強調すること、ここがポイントなのです。そこを忘れずに報告すると、後日、Kさんがさんに言ってくれます。

「お前、もっといいヤツを紹介してやってくれよ。キミが紹介してくれたMとああいうことになってしまったみたいだからさ。ちゃんとしてやってくれよ」要するに、Kさんがバックアップしてくれるわけです。言うならば、Lさんはコンピュータの端末機であって、ここで何かトラブルが発生したときには、マザーコンピューターのKさんがバックアップしてくれるわけです。

だから、 Kさんを大事にしなければいけないのですが、この関係はLさんとMさんの間でもそのまま応用することができます。

つまり、Mさんのところで失敗した場合、「せっかくMさんを紹介していただいたにもかかわらず、私の力不足でダメでした」とさんに報告すれば、Lさんがバックアップしてくれます。

しかも、Kさんにも報告すれば、Kさんもバックアップしてくれますから、二重のバックアップが受けられることになります。

いろいろとマイナスなことがあったとしても、この二つの人脈に助けられるわけです。

何かいいことがあったときにはKさんにもLさんにもお礼を言うと、よしよしということでX、Y、Zを紹介してもらえるから、人脈が花火のようにパッパッパーッと広がっていくわけです。

中元・歳暮、年賀状を欠かすな

分かりますか。これが人脈づくりの具体的ノウハウであり、人脈を切らさないための具体的なノウハウです。社会に出ていくときに必要な礼儀・恩義・信義、人間として必要な礼儀・恩義・信義の三義なのです。

とくに注意が必要なのはKさんの存在で、LさんからMさんに行ったとき、 Kさんを忘れるんです。

これをみんな忘れるんです。ところが、人はどこかで繋がっているから、いつか必ずKさんに情報が伝わるところとなります。

その結果、「あいつは礼儀を知らんヤツじゃ、信義にもとるヤツじゃ」とKさんが怒ったら、もう、Kさんからは次の人脈が絶対に出てきません。

それどころか、 KさんからLさんへ、「あいつはこういうヤツなんだ」という話が伝わったら、Lさんとの関係も切れてしまいます。

それまで営々として築いてきた人脈がズタズタになってしまうわけです。

ひと言で言えば、社会人として成熟していないのです。だから、こんなつまらない結果を招いてしまうのです。

こういうケースは少なくありません。とりわけ就職活動中の学生は、礼儀・恩義・信義を欠いてばかりいます。

ところが、そのことが分かっていたら…… 今日は本当に、素晴らしい講義ですね。誰も言わないから自分で言っているんですけれどね(笑)

いろいろな人が親身になって紹介してくれます。そうやって縁が結実し、人脈ができるわけですけれど、そんなことを知っている学生はほとんどいません。

親が地位も名誉も権力もあり、富もあったら、魑魅魍魎の仲間なんだけれども、魑魅魍魎の生き方を知っているから、ちゃんと子どもに教育します。

「結果がよくても悪くても、紹介してくれたKさんとLさんのところに行って、きちんと挨拶しなさい」

「はい、分かりました」ということで、ちゃんとわきまえています。だからうまくいくわけ。

ところが、たとえば山奥でずっとミカンを栽培していたり、お米をつくってきたりした人にはそのことが分からない。こんな魑魅魍魎の世界なんか分からないわけです。

ものすごく心根がよく、人がよく、愛と真心に満ちて、目元の涼しいよき人には、なかなか分からないことです。

また、どこか南方の島で漁業をしていたり、のどかな町の町長なんかしていたりする人にも分からない。

分かるはずがありません、化物の世界、魑魅魍魎が跋扈する世界とあまりにもかけ離れた世界に生きているからです。

この基本的な知恵がないがゆえに、地位・名誉・富・権力のある人たちとお付き合いできないし、紹介もしてもらえない。

しかし、これが分かったら、K さんはますます気に入ってくれて、人をいっぱい紹介してくれる。 Lさんも紹介してくれる。Mさんもまた、「彼はなかなかいい男らしいよね」ということで紹介してくれる。そうやって、人脈が多面的にどんどんどんどん増えていくわけです。

Mさんのところに行った段階においてKさんに戻る、ということがキーポイントなんです。

これがポイントです。いいことがあったら、「ありがとうござ「いました」、悪いことがあったら「至らなくて申しわけございません」とお詫びに行く。

お詫びに行くというのは、なかなか足を運びにくいものです。葛藤もあります。

けれども、葛藤を乗り越えてお詫びに行く。これ、足まめです。足まめ、まめ、筆まめで御礼を申し上げると、気に入ってもらえるわけ。

「こいつは俺の人脈を紹介しても大丈夫だ」ということで、次から次へと紹介してもらえます。しかも、紹介されたほうも喜ぶんです。

「あんな立派な人を紹介してくれてありがとう。なかなか彼はいいねえ」

「そうだろう。俺もそう思うんだよね。彼はきっと出世するよ」

「そうだね。将来、きっと俺たちにもプラスになるよ」

魑魅魍魎の人たちは将来のこともきちんと計算するから、ますます紹介してくれる。

人をいっぱい紹介することで恩を売っておけば、将来必ず自分たちに返してくれるはずだ、と計算するわけです。

ところで、Mさんから次にNさんを紹介されて、Nさんのところで何かあったとき、どこまで報告すべきなのか。

これについては判断に迷う人もいるでしょうけれど、もうKさんまでは戻る必要はないでしょう。

NさんやOさん、Pさんのところで何かあったとき、その都度Kさんまで報告しに行くと時間がかかりすぎるし、経費もバカになりません。

ですから、Nさんのところで何かあった場合には、Nさんを紹介してくれたMさんの一人前、つまりLさんのところまで戻ればいいのではないでしょうか。

Nさんから0さん、OさんからPさんへと、芋づる式で金の鉱脈が進んでいった場合、その人を紹介してくれた人の一人前まで報告に行くべきです。

もっと前、もっと前と考えても、実際はなかなかできません。

やはり、紹介してくれた人の一人前までとわきまえておけばいいと思います。

中元、歳暮についても、そういうふうにちゃんとリストアップをして、Kさんには、「Lさんを紹介してくださって、ありがとうございました」

そしてL さんには、「Mさんを紹介してくださってありがとうございました」と、それぞれ添え書きをして贈るようにしたらいいでしょう。

そして年賀状ですが、これもまた同じように考えれば問題ないと思いますが、まあ、年賀状はみんなに出したらいいでしょう。

紹介してくれた人の一人前までなんて考えずに、お世話になった人全員に出すようにしたいものです。

そうすると、大変な数になりますけれど、何千枚、何万枚も書くつもりでやればいいんです。そうやっていけば、自然と筆まめになります。

あとは冠婚葬祭ですね。そういうときにはやはり足を運んで、きちんと礼を尽くさなければいけないでしょう。

私も、遺族になった身ですから分かりますけれど、わざわざ足を運んでくれた人には温かみを感じます。普段、いかにも親しそうにしていても、そういうときに知らん顔をされたら、「ああ、こういう人だったのか」と思います。

人が悲しんでいるときにはやはり、足を運んでお悔やみの言葉の一つでもかけるべきです。

そうすれば、「ああ、この人はそんなに思ってくれていたのか」と感激します。

故田中角栄さんなんかも、知り合いに不幸があったときには必ず行ったそうです。しかもときには、一緒に骨を拾ったというのですから、うーんと親しくなりますね。

人と親しくなりたかったら、まずお茶を飲め。さらに親しくなりたかったら食事をしろ。

もっと親しくなりたかったら飲みに行け。うんと親しくなりたかったらセックスしろそう言ったのは梶原一騎です。

別に、セックスをしなさいと言っているわけではもちろんありません。親しくなるグレードを言っているわけです。

人と親しくなりたかったらお茶を飲めもっと親しくなりたかったら食事をしろ、もっと親しくなりたかったら飲みに行け、もっと親しくなりたかったらセックスしろ、と。

最後のを奨励しているわけではありませんよ(笑)。「男同士でもやらなきゃいけないんですか、やっばり先生は・・」なんて言わないでくださいね(笑)。

そういう意味ではないですから。あくまでも、親しさのグレードをたとえで言っているだけです。

私たちの場合は、お茶を飲みに行くか食事に行くぐらいで、ときどき飲みに行く程度です。お茶か食事ぐらいはいいでしょう。

向こうからのお誘いがない場合は、こちらから積極的にお誘いしたらいいんです。

もうとにかく、そういうことで筆まめ、口まめ、足まめ。そして礼儀・恩義信義を欠かさずにきちんとやっている人は、人脈がどんどん広がっていくし、広がった人脈は切れないし、そこからまた、権威・権力・名声・出世・富運用できるという、ありがたい御利益が出てきます。

愛嬌と度胸でトップの胸に飛び込め

以上お話ししたことは人脈づくりの原則です。原則なんですけれど、最初の原点に戻って、愛嬌がないといけません。KさんからLさんを紹介されても、ブスッとした顔で「あのー、山本です」なんて挨拶すると、「用はないから帰ってくれ」(笑)と言われてしまいます。

やはり、最初にパッと会ったときの印象が大事で、「感じいいじゃないか、愛嬌があって」と言われるくらいでなければダメですね。

その愛嬌の次に大事なのが度胸です。最初に説明しましたけれども、チャンスをモノにするにはやはり、度胸がなければいけません。

地位があり、名誉があり、権力があり、権威があり、金がある人間に紹介してもらっても、度胸のない人間は足が震えてしまうんです。

「あの、あの、あのー、あの、あの、あの…こんにちは」

「何か用?」

「それで?」

「あのー、お目にかかれるだけで幸せです」

「それで?」

「いやー、感激です」

「何でしたっけ」(笑)

まあ、足が震えるのは仕方ないでしょう。

けれどやはり、権力と名声があり、地位がある有名な方とか、その世界のドンと言われる人と会っても、堂々と渡り合えるだけの度胸が要ります。

愛嬌の話のところで言いましたが、世界的な有名人であるネズビッツさんであろうと、大新聞社主であろうと、大企業だとかテレビ局の社長であろうと、あのB子さんはまったく臆するところなく、「いらっしゃいよ。絵画展にいら「っしゃいよ」と誘うんですから。

私も、「東州さん、いらっしゃいよ」なんて言われて、思わず、「はい」と返事をし、実際に絵画展に行ってしまいましたけれどもね。

Cさんもいつの間にかモデレーターをすることになって、しかもタダでやったんですから。

ネズビッツさんも講演料はタダ。それだけでなく、「絵もどうぞ。絵もお買いになってください」と勧められて、ネズビッツさんは絵まで買って、喜んでアメリカへ帰っていきました(笑)。

ネズビッツさんは経済的に余裕があると言えば余裕があります。

しかし、おそらく孤独だからでしょう。愛嬌で言葉をかけてくれたり、誘ってくれたりする人がいないのかもしれません。

繰り返しになりますけれど、トップは意外に孤独なんです。

だから、B子さんのように愛嬌を持って上手にお誘いすると、案外乗ってくるんです。

「お茶飲みませんか、食事しませんか」と誘うと、たいがい「うん、行こうか」という返事が返ってきます。それからあとは、お好みですけれど(笑)。

どんなに地位のある人、権力のある人、名声のある人でも動じることなく、愛嬌と度胸で「お茶飲みませんか、お食事しませんか」とお誘いすると、かえって胸を開いてくるのです。

権力があり、名誉があり、地位があり、富があり、有名な方だと、どこか臆するところが出てきます。

しかし、こちらが臆すれば臆するほど、向こうもそれを察知して、二人の間に目に見えない壁ができます。その壁はどうしてできるかというと、結局、自分でつくっているわけです。

相手は地位、名声、権力、富を持っているけれど、周りを見ればそんな人たちばかりだから、普段は忘れているんです、地位や権力を持っている自分自身を。

だから、一人の人間として誠心誠意、話せば必ず通じるんです。むしろ、そういう人を待っている。それが、地位や名誉のある人の共通項なのです。

どんな偉い人でも富士山から見ればマッチ箱

皆さん、マイヤ・プリセツカヤさんをご存じですか。

マイヤ・プリセツカヤさんといえば、バレエの神様というか女神というか、二十世紀の伝説的バレリーナ。

二十世紀最高のプリマです。

そのマイヤ・プリセツカヤさんと私は一緒に舞台で踊る仲なのですが、どのようにして知り合ったかといいますと、ニキータさんという芸大を出たロシア系の声楽家がいまして、この人は声楽家のかたわらロシア語の翻訳なんかしておられて、「マイヤさんとは親しいですよ。

よく通訳しますよ。私の友達ですよ」とおっしゃるんです。

その話を聴きまして、私もバレエの練習を一生懸命にしているから、「じゃあ、私と一緒にバレエをやりましょう」と。

舞手と後仕手と考えて、私が猿田彦、マイヤ・プリセツカヤさんが岩戸から出てくる天照大御神。

バレエの女神、二十世紀の女神が天照大御神なら最高だ、なんていう大それたことを平気で考えるわけです、私は。

たしかにマイヤ・プリセツカヤさんは二十世紀最高のバレリーナと言われるほど、すごい人です。

しかし、その名声や肩書に臆してはダメなんです。臆することなく、真っ正面からぶつかっていけば、扉は案外簡単に開くんです。

私は二十五歳からずっと、取締役以下には会わない主義で、どんな大物であろうと、どんな有名な人間であろうと、真っ正面からバチンとぶつかってきました。

それだけの度胸があるわけです。なぜ度胸があるかというと、私の後ろには宇宙創造の神様がいるんだと、いつも考えているからです。

だから、どんなに肩書が立派な人であろうと社会的地位が高い人であろうと、たいしたことないと思うわけです。

地面から見れば、三階建てのビルは高く見える。三階建てのビルから見れば新宿住友ビルなんて、気が遠くなるほど高い。

でもそれは、下から見るから高いだけのことであって、富士山から見たらマッチ箱です。宇宙から見れば、うんこの周辺に飛んでいる蠅のまつげの先に付いているバイ菌の、そのバイ菌のヘソの下にある原子核の周りを飛んでいる電子ぐらいのものですね(笑)。そんなものに負けてたまるか、と思うわけです。

だから、どんなに大きな会社の社長であろうと、どんなに有名な人であろうと、絶対に臆することなく、堂々と立ち向かっていけるわけです。

私の後ろには最高の神様がついているんだ、と。富士山の上から見たらマッチ箱だ、と。

火星から見たらコメ粒ほどもない、と。アンドロメダ星雲から見れば、蠅のまつげの先に付いているバイ菌の、原子核の周りを飛んでいる電子の一個でしかない、と。

そういう気持ちにすぐなるから、どんな人が相手でも堂々としていられるわけです。

そして犬養毅の理論。いつも救霊をするときに訓練しているから、相手がどんなに偉い人であろうと犬養毅の理論・・・・・・分かりますか。

「話せば分かる」です。五・一五事件のとき、「話せば分かる」という言葉を残した犬養毅は、海軍青年将校の凶弾に倒れました。あの犬養毅の理論です。

すべての生命体は意識を持っているから、話せば分かるんです。それに、どんなにすごい肩書のある人でも、裸になれば一人の人間ですし、ごくごく普通の人間です。

そういう人間の分際で偉そうにするな、神様から見ればたいしたことないじゃないか、という気持ちになります。

それというのも、の神様と一緒なんだと思うからで、自分が人間であることを忘れているんです。こちらがそういう目で見ると、向こうもそういう意識で向かってくる。だから、自然に壁が消えるわけです。

超一流の人物には思いやりの心と余裕がある

「ネズビッツさーん」「東州さーん」と、まるで十年来の知己のごとく気やすく語りかけてきたB子さんというあの女性も多分そうでしょう。

大新聞の社主であろうとテレビ局の社長であろうと大企業の社長であろうと、まったく臆するところがなかったんですから。

まあ、人間はみんなカボチャと思っているのか、バイ菌と思っているのか(笑)、魑魅魍魎だと思っているの分かりませんが、とにかく「東州さーん」「ネズビッツさーん」と、やたらと親しげに語りかけてくるんです。誰に対してもそうなんですから。

そういう想念界をいつも持っているから、会う人はみな、彼女のペースに巻き込まれてしまうわけです。そして、「いらっしゃいよ」と言われると、「はい」と返事をして行ってしまう。

実に不思議です。ネズピッツさんも、「はい、はい」とタダで講演したばかりではなく、絵まで買って帰るんですから。交通費も自腹です。

それが度胸というものなのです。

私自身、そうやってマイヤ・プリセツカヤさんと共演できました。二十世紀最高のバレリーナと一緒に舞台に立てたら素晴らしいと思うではないですか。

それで話を持ちかけたわけです。

そうしたら、ちょうどそのときマイヤさんは予定が空いていて、たまたま日本にいるんだ、と。

「ラッキー、いいじゃないの!」と。ところが、私が海外出張から帰ってきたら、

「断りました」と担当者が言うんです。

「なぜ断ったんだ」

「二十世紀最高のプリマに、伊勢の阿児アリーナなんかに来てもらうのは失礼ですから」

「なぜ、勝手に断るんだ。向こうがダメだと言ってきたのか」

「いえ、向こうは何もおっしゃっていません。こっちが申しわけないと思いまして。畏れ多いですから……」

これ、度胸で負けているんです。

「何をガタガタ言っとるんだ。マイヤ・プリセツカヤさんの前にも、私はサッチャーさんと対談しているんだ。

マイヤ・プリセツカヤさんにしてもサッチャーさんにしても、六十何歳のおばあちゃんじゃないか。

もっとすごい女性と私はずっと仕組をしているんだ。銀河系の菊理姫様という、ものごく大変な方と仕組をしているんだ。二十世紀最高のバレリーナと言ったところで、そんなのどうってことないわい!」

鉄の女と言われたイギリスの元女性宰相であろうと、はたまた伝説のバレリーナであろうと、そんなの一切関係ありません。

サッチャーさんとかああいうトップ中のトップは、本人はあまり自覚がないんです。

いつもそういう人たちばかりと会っているから、変なプライドがないんです。それよりも、どこか孤独を感じているんです。

だから、ハートを触れ合う瞬間が喜びであるし、人間としてフレンドリーに対話ができる人を好むんです。そういう人を可愛いと思うわけ。これはもう原則です。

だから、スタッフに言ったんです。

「サッチャーさんとマイヤ・プリセツカヤさんと比べてみて、どこがどう違うと言うんだ。片や演題で「イギリス光明!」と演説し、片や舞台の上で足を上げて踊っている。ただ、それだけの違いじゃないか。ご飯も食べるし、お風呂にも入るし、六十八歳のおばあさんじゃないか。ガタガタ言うんじゃない。足を上げているバレリーナのおばあさんの一人や二人、どうってことないだろ」

「そうですか・・・・・・」

「そうだよ。相手が嫌と言うならそれはしようがない。「あ、すみません」と言えばいいだけのことじゃないか。相手が嫌とも何とも言わないのに、こっちから断るというのはどういうことなんだ。もう一回、レターを書いてくれ」

たしかに二十世紀最高のプリマですから、最高の場所を提供したいというのはよく分かるし、東京なら素晴らしい会場がいくらでもあります。

しかし、そのとき考えた「伊勢の岩戸開き」という演目で登場する太陽の女神天照大御神は伊勢神宮の神様で、その伊勢の近くで一番素晴らしい会場が阿児アリーナなんです。

英虞湾を臨むところにあります。伊勢では最高の会場なんです。「伊勢神宮のそばでやることに意義があるんだ。

だから、東京の一流の会場と比べると少し落ちるかもしれないけれど、伊勢神宮のすぐそばの阿児アリーナでやることに意義がありますからぜひお願い致します、と言いなさい」と、スタッフに命じたんですけれど、やはり度胸と愛嬌ですよ。

そうしたらマイヤ・プリセツカヤさんから返事があって、「大変興味があるからOKだ。場所なんかどうでもいい」と。

やはり二十世紀最高のバレリーナです。マイヤ・プリセツカヤさんは世界中を回っていらっしゃるから、劣悪な環境であろうと何であろうと気にしないんです。

プリマになるまでには、ものすごく臭い、汚い、狭い会場で演じていらっしゃいます。

それに、まだ旧ソ連時代ですから、劣悪な環境を何回も何回も体験しながら、やはり越えてきているわけです。

一流になった人というのは、一流だからものすごく思いやりがあります。

細かいところまで気を配るし、相手を理解する能力があります。どうしようもないのが中途半端に成功した人で、そんな会場じゃダメだとか、そんなギャラではダメだとか、何かにつけて偉そうに言うんです。

飛行機と同じです。エコノミーに乗る人は、「私たち、エコノミーですから」ということで謙虚ですね。

ファーストクラスに乗る人は、ファーストクラスに乗るだけあって、「あ、大丈夫なの?」と、客室乗務員さんを思いやる余裕があります。

一番始末に負えないのがビジネスクラスに乗る人です。「エコノミーじゃないんだ」と。

ファーストクラスでもないんだけれど、エコノミーじゃないんだということで、このサービスは何だとか、遅いじゃないかとか、とにかくうるさいことこの上ない。

一番うるさくてやりにくいのがビジネスクラスの乗客なんです。これは客室乗務員さんから直接聞いた話ですから間違いありません。

中途半端なバレリーナ、中途半端な芸術家、中途半端な社長、みんな偉そうにしています。

偉そうにしている人を見たら、ビジネスクラスの乗客だと思えばいいわけです。ファーストクラスに乗るような一流中の一流になったら、人間も本当に素晴らしい。

でなければ、一流中の一流にならないんです。だから、スタッフに言ったんです。

「マイヤ・プリセツカヤさんは二十世紀最高のバレリーナと言われるほどの人だから、きっと理解力があるはずだ。

素直でありのままに向かったら、「よし、よし」と可愛がってくれるはずだよ。

われわれには至らないところも多々あるけれど、それも可愛いと言ってくれるよ。きっとそうだよ」

そうしたらやはり、そんなホールのことなんか全然気にしない、と。それよりも、その作品が面白い。

そして、呼んでくれていることがありがたい、と。「私はお呼びがかからなかったら、もう現役を引退しようと思っていたんだ」とおっしゃったんです。

考えたら、二十世紀最高のプリマが六十八歳になるまで、演じるのはいつも瀕死の白鳥ですから、飽きると思うんです(笑)。

マイヤ・プリセツカヤというと、いつもいつも瀕死の白鳥です。たまには元気な白鳥もやりたいんじゃないかと思います(笑)。

けれど、お呼びがかからないわけです。マイヤ・プリセツカヤと言えば瀕死の白鳥だから、誰もがみんな、それを演じてほしいと思うんでしょうね。

しかし、マイヤ・プリセツカヤさんは、やはり新しいものに燃えてきた芸術家ですから、「喜んでやりましょう」と言ってくださって、「時間も空いていますよ」と、本人も喜んでいる。

それをなぜ、こちらから断るのか。それは度胸がないからです。最高に素晴らしい人のハートと、トップを極めた人が考えている世界を理解していないから、ついつい臆してしまうわけです。

しかし、伊勢でやることに意味があり、阿児アリーナはその伊勢の中では最高の場所である、と。

東京とか世界の中心から見れば、決していいところではないかもしれないけれども、伊勢でやる意義があるんだ、と。

「そういう舞台を考えているんですけれど、ぜひ、あなたにお願いしたいんです」と言ったら、喜んで来てくれました。

私が初めてバレエをやったときのお相手が、二十世紀最高のプリマ。

六十八歳。私は四十二歳。二十六歳年上でした。

だけども、やはり最高にうまい。

相手がうまいから、こっちは何か適当に演じているだけでも絵になるんですよ。

まあ、ジャンプだけは以前から一・五メートル跳ぶんですけれどね。一メートルから一・五メートル。一メートル以上跳びます(笑)。

ですから、こちらとしてはジャンプだけの勝負なんですけれども、マイヤ・プリセツカヤさんはそれはもう優雅で、ステージに上がっただけで圧倒的な存在感があります。

礼儀正しい言葉遣いとマナーを忘れるな

バレエの一作目が、二十世紀最高のバレリーナとの共演です。やはり度胸なんです。

シンポジウムでも、渡部昇一さんとフランシス・フクヤマさんとサッチャーさんと三回やりました。

ゴルバチョフであろうとキッシンジャーであろうと、どうってことないです。同じ人間なんですから、話せば分かります。

どんなに偉そうにしていても、富士山から見ればみんなマッチ箱だし、火星から見ればバイ菌だし、アンドロメダ宇宙から見れば素粒子です。

神様から見ればどうってことない。その神様のお取り次ぎをしているんだ、私は、と(笑)。

だからやはり、犬養毅の理論です。話せば分かるという気持ちで会うわけですから、その瞬間にもう、目に見えない霊界では勝っています。

だから、向こうも同じように握手してくれます。

これが度胸のつくり方です。しかし、度胸の前に愛嬌がなければいけません。

ありのまま素直に言ったほうがかえって可愛がってくれます。こっちがあまり意識しすぎたら、向こうも意識しすぎて、「何をこの人はそう焦っているのかな。緊張しているのかな」と思います。

また、度胸だ、度胸だとあまり意識しすぎて、図々しい態度で対すると、「何だ、この図々しいヤツは。礼儀をわきまえない、けしからんヤツだ」と思わせてしまいます。

もちろん度胸は大切です。しかし、それはあくまでも内面に秘めておくものであって、形に出るときには礼節を尽くさなければいけない。マナーをわきま
えなければいけません。

そうやって、内面的には度胸満点で腹がバーンと据わっていて、一歩外に出たら正しい言葉遣いと正しいマナーで接する。

そうしたら、どんな人でも可愛がってくれます。その上さらに、筆まめ、口まめ、足まめで、礼儀・恩義・信義を欠かさなかったら、人脈の人脈たるに値すべき魑魅魍魎のような素晴らしい方、社会的に名誉、地位、名声、富がある方から大いなるバックアップを受けることができます。

これが弁財天さんの教える人脈のつくり方です。錚々たる七福神の中で、胸を出しながら音曲を奏でている弁財天さん。

人間の欲望と本音をよく分かった上で、自らはそれに染まることなく、仏の道を歩む弁財天さん。これが、地位と名声と出世をもたらす女神様の正体なのです。

これを総称して、弁財天の働きと言っていいでしょう。

弁財天さんの御本体は何かというと蛇です、白蛇です。その白蛇は何を象徴しているかと言ったら、煩悩であり欲です。

しかし、弁財天さんの場合は白蛇だから、心の中はピュアなんです。

けれども、基本的に欲望と煩悩に身を置き、煩悩界に生きているから白蛇なんです。黒蛇になってくるともう、欲望のまま煩悩のままです。だから、真っ黒なのです。

人脈というものは、だいたいそういうものであって、鉱脈ではあるものの、その実体は煩悩と欲望が渦巻いた、黒蛇のような世界です。

そこに入っていくためにまず必要なのは愛嬌で、愛嬌があれば、ドロドロした世界に入っていけます。

その愛嬌とは具体的にどういうものか。これが分からない人が多いのですが、いつもニコニコ笑っていたらいいんです。「アハアハアハー、素晴らしいですね、素晴らしいですね、素晴らしいです」と、いつも褒め称えていたらいいんです。

しかし、ただ単に褒め称えているというのでは、少し芸がありません。やはり、褒めるには具体性が必要です。

「ネクタイ素敵、ネクタイ素敵」と褒めるのでなく、「このネクタイ、柄が素敵ですね。この格子の模様が素敵ですね」と、具体的に褒めて笑っていたらいいんです。

愛嬌とは何か。いつもニコニコ笑顔を絶やさず、具体的に褒め称えている。

いかなるときも笑顔を絶やさず、明るく笑いながら具体的に褒め称えている。これが愛嬌というものです。

人脈づくりの要諦は、愛嬌と度胸と人間理解に基づく諦め、と言ったほうがいいかもしれません。

あるいは、人間理解に基づく忍耐とも言えます。

つまり、人間のおぞましい部分、欲の部分を見ても、しょせん人間はそういうものだと考えて嫌にならないこと、これが肝心です。

中途半端な潔癖性は捨てよ

いつも言うように、花と言っても、花弁だけが花ではありません。茎があり葉があり根っこがあって花なのですから、根っこを見て汚いと思わないことです。

茎を見て、何か一本調子だと思わないこと。葉っぱを見て、平べったいと思わないこと。

根っこがあり、茎があって初めて美しい花を咲かせるわけです。

ところが、中途半端に宗教をかじった人は、花と言うと花弁だけが花だと思い、「ああ、花は綺麗だ、美しい」と言うわけです。正しく深い人間理解のある人は、綺麗な花を咲かせるためには必ず根があり、茎があり、葉っぱがあるんだ、ということをきちんとわきまえています。

花と言っても、あの美しい花弁は、花の一部でしかないことが分かっているのです。

その花弁をよく見たら、めしべとおしべがあって、セックスしているわけ。

この単語がやたらと今日は多いんですけれども(笑)、とにかく、おしべとめしべがあって、お互いにくっついています。

この間、大仁で開かれたある研修会でこの話をしましたけれど、ザリガニはお腹を互いにくっつけ合うんです。

伊勢エビも、お腹とお腹をお互いにくっつける。「何をやっているの、このエビは」と言ったら、なさっているわけですよ(笑)。

鮭なんていうのは、かけるだけでしょう。かけまくもかしこき鮭大神様ですよ、ホント(笑)。

カエルは何をやっているのか分かりませんけれど。とにかく、めしべとおしべは何をやっているのと言ったら、飛ばしちゃっているわけですよ。

これが花というものの現実で、綺麗な花弁は花の一部でしかありません。

ところが人間は、花と言ったら綺麗な花弁を思い浮かべ、根っこというと、「ああ、汚い」と。しかし、綺麗だとか汚いだとか、美しいだとか醜いだとか、いいとか悪いといったものは、人間が勝手につくった観念にすぎません。

しかも、花と言ってもいろいろな花があるし、動物にしても、いま言ったように、かけていくだけの鮭とか、ザリガニや伊勢エビみたいに互いにくっつき合っているものもいます。

口から泡をブクブク噴き出すカニはカニで、何かをやっているのでしょうが、いずれにしても、美しいとか醜いとか、善とか悪というものは、人が勝手に決めたものなんです。

そういう観念で、この世で出世している人、地位、名声、権力、富、権威のある人を見ると、醜くもあるし、賤しくもあるし、汚くもあるかもしれません。

しかし、それを嫌と思わないことです。そして、中途半端な潔癖性を捨てることです。

それが正しい人間理解であり、深い人間理解、人間理解に基づくところの忍耐なのです。

それをわきまえた上での人間好きでなければいけない。

地位、名声、権力、富のある人はたしかに醜いし、汚いし、賤しいかもしれない。しかし、それでも好きだなあと思える愛嬌と度胸、そして人間理解に基づく忍耐。これが必要です。

それから、どんな人でも好もしく思う好意。これも欠かせません。どんな人であろうと好意を持っていくんです。

お腹の中で、「嫌だなあ、こいつ」と思ったら、表情とか態度、波動に出てくるから、向こうも感じるんです。

地位や名声のある人って、そういうことに敏感です。表情や態度ですぐ見破られます。

反対に、お腹の中を好意でいっぱいにすると、この人間は自分のことをよく思ってくれているなと、ピッと感じてくれます。

絶対にごまかせません。

ですから、ありのままの自分で、心根を好意でいっぱいにして会うと気に入ってくれます。

忍耐、好意、それから三まめと三義ですね。三まめと三義に徹する。口まめ、筆まめ、足まめと、信義・礼儀・恩義、これをきちんとすること。

そうしたら、素晴らしい人脈はどんどん築けるし、そこから金のなる木が生えてくるし、この現実界における社会表現がどんどん広がっていきます。

神道精神で現実界を乗り越えていこう

しかし、いろいろな人に揉まれながら、この現実界で生きるということは、非常に辛いことであり、疲れることでもあります。

そういうときのためにこそ、神があり、神社があり、学問があり、そして芸術があるわけです。

これが肉体を持って現実界に生きていく人間の宿命ですね。

あの世へ行ったら、心の奥の部分の同じき人たちと一緒になるわけですけれども、この世にいるときはそういうわけにはいきません。

わがままで、尊大で、人を見下すような人ともお付き合いしなければならないわけです。

しかし、そういう人たちとお付き合いしていても、心の奥の部分は絶対に穢れてはいけない。歪んではいけない。

いつも誠でなければいけない。かと言って、中途半端な潔癖性になってもいけない。

すなわち、現実界に生きていくかぎりは、ありのままの現実を直視し、それを越えていくだけの精神力と大和魂を養わなければならないわけです。

これが神道の考え方なのであって、神道では、気が枯れるから穢れと言うんです。

まあ、実際には気とは言いません。ケと言います。桜井徳太郎さんの「ケの論理」によれば、「ケ」というのには人間の気よりももっと深い意味があるんですけれど、この「ケ」が枯れていくから、穢れ(ケガレ)なんです。

その穢れを、祭りとか宗教的理念とか儀礼によって祓われた状態が「ハレ」。そして「ケ」という状態に戻る。

気が充実して、生命力のある状態を「ケ」と言うんです。

気だけではない。気が充実している状態が「ケ」。それが枯れるから穢れ。

それがお祭りなどによって元に戻った状態を「ハレ」と言うんですけれど、どんな人間も、現実界で生きていくかぎり、「ケ」が枯れてきます。

それを厭わずに、大祓祝詞を上げる。そして、夏越の大祓祭りを行い、年越しの大祓により人形・形代を焚き、罪穢れを祓うことによって生命力が甦ってくる。これが祭りの原点ですし、神道の基本的な考え方なのです。

それに対して仏教というのは、人間の内面性を深く掘り下げた教えではありますが、基本的には現世を否定した出家思想です。

国家の繁栄、民族の繁栄、家の繁栄を願う、というものではありません。出家をして世俗を離れ、内なる真実を求めていくのが仏教という宗教であります。

それから、キリスト教にしましても、イスラム教にしましても、やはり現実界の繁栄を願う教えではありません。

ひたすら心の純粋性を求め、心が清く澄んでいれば、たとえ現実界では貧しく、苦しく、救いがなかったとしても、あの世へ行ったら救われる、というのがキリスト教の教えです。

「貧しい者は幸いなり、天国は彼らのものである」というイエスの言葉からも明らかなように、キリスト教は現実界の繁栄を求める宗教ではないのです。

神道はそうではありません。この現実界を生きて生き貫いていく。その生き貫いていく息吹、精神力、根性、乗り越えていく内なるエネルギーを大切にするのが神道です。

そして、あらゆるものを生み出す生命力、それが神なるものなのだと考えるわけです、神道では。

その生命力が枯れてくると穢れ。だからお祭りを通して禊ぎをして、またハレの状態に戻って、ケに帰っていく。

これが神道の思想。生活の中に生きて生き貫き通す。乗り越えていく。

そして人脈もいっぱいつくって、よき志・・・・・・心根の奥の部分にある、世を思い、人を思い、社会を思い、人類を思い、後の世を思うという、正心の志を貫き通して遂げていく。そうやって生き貫いて亡くなった人が神上がりをするわけです。

楠木正成公にしてみても、戦の時代を生き貫いています。しかし、戦の時代を生き貫いたということは、人を殺したということです。

つまり、この現実世界を生き貫くということは綺麗ごとでは済まされないわけです。

経済競争の中を生き貫いた松下幸之助さんでも、それから渋沢栄一でも、生き貫いていくプロセスではさまざまな葛藤があったはずです。政治家なんか、ましてそうです。

綺麗ごとではないんですから、現実界は。

しかし、現実界が汚濁に満ちていようと、自分はそれに染まらずに、むしろ凌駕していく。

相手が悪なら、悪以上の悪となって善を貫く。

悪以上の悪となって悪に堕落するのではない。悪に打ち勝っていくたくましい精神力と御魂の力、その大切さを言っているのです、神道は。

ですから、神道は本当に繁栄の思想です。キリスト教はもちろん、イスラム教でも清心、すなわち清らかで真実なる内面性を強調しています。

キリスト教も、さっき言ったように、現実界では救われなくとも、清く貧しく生きている人は死後救われる、と。

ただし、ユダヤ教はちょっと違います。神の戒めを守って生きていれば、神の祝福によって、ファミリーが子々孫々まで繁栄していく、という教えです。

むろんそれだけではありませんが、神の祝福はあの世でもたらされると教えるキリスト教に対して、神の祝福は現世でもたらされると教えているわけです、ユダヤ教では。その点で神道とユダヤ教は基本的に同じです。

この現実界で繁栄していく。五十八桑枝の如く立ち栄えていくわけです。

だから、魑魅魍魎を怖れてはいけない。へんてこりんな人間を怖れるのではなく、鬼を倒して小金をつかみ取っていく桃太郎でなければいけない。

その桃太郎は、少年のような純粋な心を持ち、犬や猿やキジをお友達にしながら鬼退治をして、自らを高めていく。これが神道の、惟神の道の理想像であり、そういう人間が神なるもの、神聖なるものを感じさせるわけです。

この生命力、命の息吹、貫き通していく精神力、根性、大和魂・・・・・・。そこに神なる部分がある、と考えるのが神道ですから、怖れることなくどんどん人脈をつくっていきましょう、そして、積極的に魑魅魍魎の変な人間とお付き合いしていきましょう、と。

お付き合いしても、染まらなければいいわけです。こちらが染まるのではなく、向こうを感動させればいいのです。

毘沙門天や弁財天もそうですし、それから鬼子母神もそうやっています。研の会員であるかぎり、こういうふうでなければいけないと私は思うわけです。

二十五歳のときから私はずっとそういう気持ちでやってきましたし、いまなお現役で頑張っております。

生き馬の目を抜くような業界に身を置いて、ライバル企業や銀行を相手に戦っております。そして、勝ち続けております。

厳しい年もあり、業績の浮き沈みもありますが、どんなときでも「負けるもんか!」と自らを奮い立たせていく。

菱研で偉そうに講演しているかぎり、自実践して証明しなければ、虚言になりますからね。

論理とか理屈ではありません。実際に私はやっております。

この実行力、実践力によって証明しているわけで、だからこそ、目に見えない息吹が皆さんに伝わるのではないかと思います。

神道は道学一体。実践しながら学んでいくのが神道なのですけれども、具体的にどう実践していったらいいのか、皆さんはよく分からない。

だから、こうやって講義を聴きにいらっしゃるのでしょうけれど、本を読んで理解できるのなら、本で学んだらいいんです。

しかし菱研では、目に見えない息吹が授かるわけです。研の魅力はここにあるんです。

ですから、その息吹をこれからも大切にしていっていただきたいと思います。(拍手)