経営者よすべて超一流を目指せ! ~平成15年6月7日 ウェスティン都ホテル京都~
京都に来ると必ずヒントが浮かんでくる
本来なら、午後七時ぐらいから講義を始めて、八時半か九時には終了して、そのあと、「松葉」のにしんそばを皆さんと一緒に食べたいところなんです。
「松葉」は営業時間が九時半までですが、この会場から歩いて二十分ほどで行けますから、八時半か九時に講義を終われば、「松葉」のにしんそばがみんなで食べられます。
しかし九時に講義を終わると、新幹線に乗って帰ろうとする人もいますから(笑)、痛しかゆしというところです。
せっかく京都に来たんですから、そんなに急いで帰ろうとしないでいただきたいと思います。
というのは、京都に来ると、必ず斬新な発想が浮かんできますから、京都に来たら少しゆったりした気分で過ごしてほしいのです。
私自身は、これまで何十回と京都に来ていますけれど、何のひらめきも何の発想も浮かばなかったということは、一度もありません。
最低でも必ず一つは浮かんできます。それをヒントにして、会社経営や芸術活動などに取り組むと、考えてもいなかったような素晴らしい成果を上げることができます。
今日も朝からスプレー画を七枚ほど描いたのですが、そのスプレー画をやってみようと思いついたのも、やはり京都に来たときなのです。
京都の神霊的意義
何年か前、菱研のセミナーで京都に来たとき、鴨川沿いの小道を歩いていましたら、一人の外国人がマスクをしながらピュッピュッとスプレーで絵を描いていました。
「私、変な外人」なんて言いながら描いているんです。どんな絵を描いているのかと思ってちょっと覗いてみたら、これがなかなか素晴らしかったんです。
それで、「あっ、スプレー画を一回やってみよう」と思って、それ以来、スプレー画に取り組んでいるわけですが、そもそものヒントは京都に来たときに与えられたのです。
京都は約一千百年もの間、都があったところですから、ここにいるだけでいろいろなヒントが浮かんでくるのです。
新しいものを次々と取り入れていく要素と、古いものをずっと残していくという要素、言うなれば、「革新的な要素」と「保守的な要素」の両方があるのが京都です。
しかも京都は、風水で見てもエネルギーが凝結している場所なのです。
たとえば、神泉苑にある、大地の龍が水を吸うと言われている龍口水というところは、まさにエネルギーに満ち満ちていて、霊力のあるお坊さんが祈れば、必ず雨が降ると言われています。
以前、スタッフ全員が、京都に神業旅行で来たとき、みんなで神泉苑に来て祈りましたら、翌日から全国的に大雨が続き、洪水の被害が出たくらいです。
祈りすぎだったのかもしれませんが、雨不足のときにここへ来て祈れば、百発百中で雨が降ります。
それくらい、神泉苑は「雨乞い」に関しては一番で、それだけのエネルギーが京都にはあるわけです。
ひと言で言えば、京都の山々峰々には龍王がいるかエネルギーに満ちているし、ここに来るだけでいろいろな発想が浮かんでくるのです。
ここが都にふさわしき地形だと、桓武天皇に推薦したのは和気清麻呂公です。
いま現在、「将軍塚」と呼ばれているあのあたりから、当時、山背といわれていた京都の地形を見下ろして、「ここでいかがでしょうか。都ながらの土地でございます」と、清麻呂公が桓武天皇に推薦したから、京都に都が遷ってきたわけです。
もちろん、地理風水学というのは最澄が中国から持ってきたものですから、そのころはまだありませんでしたけれど、京都は地理風水学から見ても、まさに都にふさわしい場所であります。
最澄が持ち帰ってきた地理風水学は門外不出です。もちろん方位学も門外不出です。それを知られると、天皇家が乗っ取られますから門外不出一切外には出しませんでした。
その地理風水学が天皇家以外に出たのは江戸幕府からです。たとえば、久能山に納められた家康公の亡骸を日光に移したりしましたが、あれは地理風水学によるものです。
ちなみに、日光には「二荒山神社」という神社があります。
二荒山というのは、正式には観音補陀洛山と言いまして、その「フダラクサン」から「二荒山」になり、さらに「二荒」を音読みして「日光」という漢字を当てはめ、その日光に、地理風水学に基づいて家康公のお墓を設定したわけです。
家康公の亡骸を地理風水学に基づいて日光に移したのが、黒衣の宰相と言われている天海和尚です。
山王一実神道をつくった人です。その天海和尚が、地理風水学、方位学、墓相学をすべて知っていて、徳川家が末代までも栄えるようにということで、日光に家康公のお墓を移し、それが将軍家代々に伝わる門外不出の法になったのです。天皇家に伝わっていたものを天海が指南したわけです。
ところが明治維新以降、その門外不出だった法が一般社会に流出し始め、大正時代になると、園田真二郎という人が杉並の荻窪に大正館というのをつくって、気学として完成させました。
八門遁甲のうちの九宮というのと、陰陽五行説や易経をミックスさせてつくった、メイド・イン・ジャパンの占いが気学です。
話が少し横道にそれましたが、とにかく京都というのはそういう場所ですから、京都をぶらぶらしているだけでも尊いことなんです。
とくに鴨川あたりはいいところですが、もちろん鴨川だけではありません。水の流れているところは水気が巡っていますので、その水気を受けると知恵が浮かんできます。
京都に来たときには、なるべく鴨川のほとりを歩いたり、土手に座って、ほーっと景色を見る時間を取ったりしているのは、そのためです。
学生時代は、鴨川の河川敷で、よく笛の練習をしていました。笛を一本ずさえて鴨川の河原に出かけて、アベックの隣に座って吹くのです。
当時、鴨川の河原にはアベックがたくさんいましたけれど、アベックというのは、みんな等間隔に座るんです。
電車でもそうです。最初に電車に乗り込んだ人は、まず隅の座席に座る傾向があります。隅が埋まったら、次に真ん中に座る。
やはり、ある程度の距離がないと人は不安になるのか、離れて座ろうとします。
実は、鴨川のアベックもそうです。しかし私は、それをあえて無視して、アベックのすぐ隣に座るようにしていたんです(笑)。
そうすると、変な人が来たんじゃないかと思ってサッとよける。しかし、どこに座ろうと勝手ではないですか、空いているんですから(笑)。
電車も、席が空いていたらどこに座ろうと勝手です。もちろん、隅から順番に座っていけば、スムーズに座れますけれど、まず隅、次に真ん中というふうに人は座っていきます。
しかし私は、一般傾向を外していくところに新しい未来がやってくると信じていますから、アベックが座っているすぐ隣で、笛を「オヒャー、オヒャー」と吹くんです(笑)。どこに座っても自由なわけですから、あえてアベックのすぐ隣に座って笛を吹く。
そうすると、アベックはどこかへ行ってしまう(笑)。
「あっ、どうして行ってしまうの?」と追いかけていくと、みんなは走って逃げていきます(笑)。
空いているんだから、どこに座ってもいいはずです。なぜ、真ん中に座らなければいけないのか。
商法にも民法にも刑法にも会計法にも、そんな規定はどこにもありません。空いているところに座らなければいけないとか、真ん中に座らなければいけないというマナーもありません。
迷惑をかけないかぎりは、どこに座っても自由なはずです。
しかし、笛を吹くとちょっと迷惑かもしれません。あまりにも私の演奏が美しいので、感動のあまり相手のことを忘れてしまいますから、向こうにとっては迷惑ですね(笑)。
しかし、どこに座ろうと勝手です。どうしてみんな、離れて座ろうとするんだろうかといつも思うんですけれど、等間隔に座っていきます。考えてみたら不思議です。
満員電車の効用
また、私は密集が好きです。ですから、満員電車が大好きです。電車が満員でないときは吊り革にぶらさがりますが、満員電車では吊り革を握っていなくても、立っていられます。
隣の人に押されるまま、何もせずにじっとしているだけでいいですから、そのまま眠ることもできます。
吊り革にぶらさがっていたら、なかなか熟睡できません。ときどきウトウトすることもありますけれど、吊り革を握って立っていたら寝られません。
ところが、満員電車になってくると前後左右、東西南北の人たちが押してくださるから、もたれかかってリラックスできます。
吊り革にぶらさがっていると、どうしても腕に力が入るでしょう。ところが、満員電車の場合は何もしなくてもいい。
手足も解放して、そのまま流れに任せておけば力を入れる必要もない。だから、ものすごくリラックスできるんです。
あの流れに逆らおうとするから辛くなるんです。押されるままにしていれば、これほど楽なことはありません。確かに、次の駅で降りようとするときには、それなりに押し退けていく力が要りますけれど、そうでなければ、人の流れに任せておけばいい。
それを、押し返そうとしたり、無理やりでも自分の位置を保とうとしたりするからいけないんです。
曲がったら曲がったまま、押されたら押されたまま、流れに任せていればいい。
そして、カーブのところに差しかかったら、左に傾いたり右に傾いたりするけれど、そのたびに隣の人に体をあずけたらいいんです。
私は体が柔らかいから、どんな形になっても平気です。ところが、多くの人は満員電車を嫌います。
それがなぜなのか私には分かりません。あれほどリラックスできるのに、なぜ嫌がるのか。
それから、空いているのに座席に座らず、吊り革を持っている人がときどきいますが、なぜ、座らないのか。
「座るのが嫌なのかな、痔なのかな、座るとウッウッと来るから座らないのかな」(笑)と、いろいろ勝手に想像してしまいます。
とにかく、私はときどき電車に乗るようにしていますが、そうすると、よく会員さんと会います。とくに、神事が終わったあととか、セミナーが終わったあとに電車に乗ると、会員さんと顔を合わせる確率がグーンと高まります。
そういうとき、「あっ!」と驚くんです、会員さんのほうが。
「えーっ!深見先生が電車に乗るとは思いませんでした」と。電車には特別な人しか乗ってはいけないような言い方をする人もいますが、電車に乗るのは誰にでも開かれた権利ではないかと思います。
特に、お付きの人と二人で電車に乗っているときには、絶えず広告を見て研究しています。予備校の生徒募集のシーズンのときなどは、いろいろなライバルの予備校や塾の広告を見て、こんな車内広告を打っているのか、こんなステッカーでやっているのか、こんな広告のやり方があるのかと、つねに広告を研究しています。
ですから、電車に乗ってみるだけで、いろいろなことに気づかされます。広告もそうですし、人が隅っこや真ん中に座りたがるのも、考えてみれば不思議なことだと気づくのです。
そういうものだと思ってしまうと何の発見もありませんが、ちょっと意識を変えてみると、いろいろなことが見えてきます。それが電車に乗る効用ではないかと私は思っています。
通勤、通学電車は勉強のためにある
学生のころ、私は自宅のある西宮から京都まで電車通学していましたが、高槻が一つの大きなターニングポイントだったんです。
というのも、苦楽園口駅から電車に乗り込んで高槻までは謡を歌っているわけです。
たとえば「橋弁慶」の、「これはさいとう、きただにのじゅうそう」と十三の駅で降りて(笑)、「むさしぼうべんけいにてそうろう」などと覚えていくんです。
そして、高槻に着くと、パッと英語に切り替えて、「It is my great pleasure to say a few words on behalf of all the members of myclub.」とか何とかスピーチを考えながら、英語でしゃべっているんです。
そうすると、隣の席に座っている人は、迷惑そうな顔をして別の席に移っていきます。電車の中では英語をしゃべったらいかんのか、と(笑)。
しかし、電車の中で大きな声を出したら迷惑がかかります。
それでも、私としては発声練習をしたい。というより、発声練習をしなければいけないわけです。
声を出して練習しないと上達しないからです。バカでかい声で「It is my great pleasure…」と練習する必要はないんですけれども、きれいな発音を身につけるためには発声練習が必要です。
しかし、声を出すとほかの乗客に迷惑がかかります。では、どうやって練習したらいいのか。
そこで考えたのは、車両と車両の連結部分です。あそこはガタンゴトンとものすごい音がしています。
あの連結部分に立って、左右両方のドアを閉めると、大きな声を出しても誰にも聞こえません。
ですから、思いきって「A、B、C」などと発音できる。ときどき人が通るときには黙っていて、通り過ぎたら戸を閉めて、再び発声練習をする(笑)。
しばらく発声練習したら再び座席に戻って、今度は小声で英文を読む。
そうやって、苦楽園口駅から烏丸駅までずっと勉強しながら同志社大学に通っていたわけです。ですから、京都に来て阪急電車を見たら、いまでもすぐに体が反応します。
ところで、駅のプラットホームはいったい何のためにあるのか。一般の人は黙って並んで電車を待っていますが、私にとってのプラットホームとは、ただ電車を待っているところではありません。
私は一つのことに夢中になったら、ずっとそればかり考えるタイプの人間ですから、電車の中であろうとプラットホームであろうと、そのことだけに集中してしまうのですが、当時の私にとってのプラットホームとは、能の足運びの練習の場でした。
電車を待っている間、三足で歩いたらこうなるとか、四足で歩くとこうだとか、ずっと能の足運びの練習をしていたんです。とくに、発表会が近づいたときには、夢中になって練習していました。
そういうとき、たまたま弟や妹と顔を合わせると、「お兄ちゃん、お願いだからやめてくれ」「お兄ちゃん、お願いだからあっちに行ってくれ」(笑)と言われました。
しかし、プラットホームはみんなに開放されたところですし、別に何したっていいじゃないか、と。
学生時代は、そうやって能の足運びの練習をしていたわけですが、それは、仕舞をやっている方が見れば分かるんです。
「あっ、お能をやっていらっしゃる方なんだ」と。そういう能の足運びの練習や英語の発声練習には、電車の中、あるいはプラットホームというのは、非常に有意義な学習場です。
ところが最近の人は、電車に乗っていても、寝ている人が多いように思います。私が学生のころは、本を読んでいる人がとても多かったものです。
サラリーマンでも学生でも、文庫本とか新書とかを、一生懸命読んでいました。チェ・ゲバラの「ゲバラ日記」とか、けっこう難しそうな本でした。
ときどき、川上宗薫の小説なんかを読んでいる人もいて、「何だ、こんなくだらん本を読んでいるのか」とあきれてしまうこともありましたが、中には純文学を読んでいる人もいて、どこかの会社の社長さんかな、部長さんかなと思ったりもしました。
とにかく、私が学生のころのサラリーマンは、みんな本を読んでいました。
しかしいまは、スポーツ新聞を読んでいるか、コミックを見ているか、寝ているかが多いですね。
ですから、最近のサラリーマンは、あまり勉強をしていないのではないでしょうか。
学生も同様です。べちゃべちゃと話をしたり、携帯でメールをしていたり、さもなければ、音楽を聴いている人が多いでしょう。
どんなことでも独学でマスターできる
とにかく今日は京都に来ていますから、学生時代のころのことを思い出します。もちろん、学生時代のことを思い出すだけではなく、いろんなことが浮かんできます。
皆さんも、せっかく京都に来たんですから、いろいろと素晴らしいヒントが浮かんでほしいんですけれど、今日は皆さんにどんなお話をしようかと、ずっとお祈りしていましたら、「何でも独学でできる」ということを、まずお話ししようと。
経理をやったことのない人は経理のことが分かりません。営業をやったことのない人は営業のことが分からない。
どうやったら売上を上げられるのかが分かりません。
ですから、永遠に分からないままで終わってしまうんですけれど、本当に分かろうと思ったら、別に学校へ行かなくても独学で勉強できるわけです。
たとえば、私なんかは今日も絵を描いてきましたけれど、絵でも書でも音楽でも、何でも独学でできるんです。
さすがにオペラとなると、自分一人ではできませんから、先生からいろいろと習うんですけれども、あの世界三大テノールのパヴァロッティは、音楽大学を出ていません。
ドミンゴは、もともと指揮者になろうと思っていた人ですから、楽譜が全部読めて、ピアノも弾けます。若い歌い手さんに向かって、「オペラはこうやって歌うんだよ」と教えています。指揮もやっています。
逆にパヴァロッティは、楽譜が読めません。ある程度、大まかには楽譜も読めるでしょうし、自分が歌うところぐらいは分かるでしょうけれど、オーケストラの部分なんかは分からないでしょうね。カレーラスはその間ぐらいでしょうか。
ドミンゴのように、音楽的に幅広い知識を持ち、たくさんのレパートリーを抱えている人は珍しいんです。
とにかく、世界三大テノールのパヴァロッティは音大を出ていません。何かのセールスマンをやりながら、確かポーラ先生という先生について習ったんです。
そのポーラ先生は、パヴァロッティと同じぐらい体の大きな人です。身長が確か、百九十センチぐらいでしょうか。
写真を撮ると、どっちがパヴァロッティか分からないぐらいでかい。
それで、パヴァロッティはレッジョエミーリアのコンクールに出て一位になって、そのまま劇場に行って、ずっと世界のトップです。
私の歌の先生であるグレッグ先生も音大を出ていません。ピアノをずっとやっていて、チェロをやったりクラリネットをやったりしながら高校を卒業して、十九歳でオーストラリアのABC放送に入ったんです。
そうしたら、オーストラリアのパースで一番有名な歌の先生がABC放送の社員のために、歌のレッスンをやっていたんです。
それをちょっと覗いてみたところ、「あなたもちょっと歌いなさい」と、誘われるままに歌ったら、「いいじゃない。すばらしい「声帯ですね」と褒められて、その先生について練習を積んでいったら、六ヶ月後にコンクールで優勝したんです。たった六ヶ月です。
その後、ニューヨークの本選では入選したけれど、賞はとれなかったんです。しかし、地方のコンクールでは優勝したんです。
そのとき、グレッグ先生は十九歳です。そして、シドニーのオペラ座の研究生になったんですけれど、ピアもチェロもクラリネットもやっていますから、すぐ楽譜が読めて、十九歳からずっとトップです。
歌を習ったのは六カ月です。わずか六ヶ月で、いきなりオーストラリアの地区で優勝。
ニューヨークでは賞がとれなかったけれども、歌をやり始めて六カ月で、それで、シドニーのオペラ座の研究生になったんですけれども、すぐにオペラをやりなさいということで、研究生として数ヵ月過ごしただけで、すぐ本番です。それから以後三十年間、ずっと世界のトップです。
まあ、トップクラスですけどね、バリトンですから。
日本人の場合、歌をやろうと思ったら、中学で合唱をやったり、高校では先生についたりして専門的に勉強し、それから音大に入って、音大を卒業してから、ということになるでしょう。
しかし、音大を出ていないオペラ歌手が、オーストラリアにも世界中にもたくさんいるのです。
とにかく、「何でも独学でできる」ということを、まず皆さんには知っていただきたいと思います。
アジア経済について勉強したいと思うなら、誰かアジア経済に詳しい人はいないだろうかと待っているのではなく、独学で学んだらいいわけです。
他人に頼るのではなく、自分で勉強することです。本屋さんに行けばいっぱい本がありますから、片っ端から読んでいく。
あるいは、ビデオもいっぱいあるわけですから、片っ端から見ていく。そうすれば、すぐに頭に入ります。発売されているビデオなどを鬼のように見て勉強する。
オペラについて勉強しようと思うなら、オペラの鑑賞の仕方という本もいっぱい出ていますから、全部読破したらいいわけです。
そうすると、少しぐらいオペラに詳しい先生がいても、自分のほうが詳しかったりします。
専門書を読め
確かに、その道の専門家にはかなわないでしょうけれど、しかし、専門家に肉薄する方法が実はあるんです。
それは何かというと、「専門書を読む」ということです。音大の学生会館と生協の本屋さんがありますが、そこには、専門の先生方が書いた本が売っていますから、それを全部買ってきて、その専門書をバリバリ読んでいく。
そうしたら、いつの間にか人様に教えられるような人間になります。
経理もそうです。税理士という専門家がいますが、経理の知識を身につけようと思うなら、経理の本をたくさん買ってきて読めばいいんです。
図解入りというところから勉強するかもしれませんが、とにかく、どんなふうに勉強してもかまわないですから、どんどん専門書を読んで、そこから学んでいけば、必ずプロに近い相当詳しいアマチュアになれるはずです。
そのアマチュアとプロの違いはどこにあるのかというと、専門書を読破するかしないか、それが分岐点なのです。
経理・財務の専門書を最初から最後までバリバリ読んでいったならば、税理士とか公認会計士と知識においてはあまり変わらなくなります。
プロとほとんど変わりがない。要するに、下手なプロになるわけです。
では、プロの中のプロ、いわゆる巨匠といわれる人はどうかというと、もう学ぶ人がいないわけです。
最初はみんな先生について学んだりもするんですけれども、その先生のさらに大先生となると、学ぶところがない。
ですからみん独学です。ある程度の基礎を踏まえて、学び尽くしたところから自分で研究していくしかありません。
そのように、先生の先生、先生の先生のさらに大先生となると、すべて独学です。一定のレベル以上になると、皆さん独学です。
われわれはそんな大先生になる必要はないわけですけれど、とりあえずは優秀なアマチュアを目指す。
そのためには、巷に出ている普通の本を全部読むことです。
次に、下手なプロになるには、専門書を読破して、その上に自分で独学していく。
あるいはどこか違う学問を結びつけて勉強していくと、一流のプロになる。そういうふうに専門書をいっぱい読まなければいけません。
経営コンサルタントの問題点
以前、コンサルタント会社で聞いた話があります。それは、「コンサルタントが会社を経営して、成功した例は一つもない」と。コンサルタント会社の人が独立して会社を経営したらことごとく失敗する、というのです。
そんな人からコンサルタントを受けるというのはとても怖いことなんですけども、コンサルタントはいろいろな数値を引っ張り出してきて、「いまはこうですよ」という形で現状分析や経営分析をしてくれます。
しかし、経営コンサルタントの問題点は、「じゃ、この場合どうしたらいいのか」という結論を言わないところなんです。
「こういうことも考えられるし、こういう可能性もあります」とは言ってくれるんですが、「では、この場合、どうしたらいいですかね」と尋ねても、答えてくれません。
結局、経営者は自分で考えるしかないわけです。コンサルタントは数値を提供し、実例を挙げながらいろいろ説明してくれるけれども、考えて、決断して、実行するのは経営者自身ですから、コンサルタントはそれ以上言いません。
次々と正しい決断をし、どうしたらいいかが分かっているなら、その人が会社を経営したらいいんです。コンサルタントはあくまでも指針を出すだけです。
データを分析して、客観的な数値や方向性を示すことはできるけれども、「じゃ、どうしたらいいのか」という結論は出しません。それが経営コンサルタントです。
しかし会社の経営者は、どうしたらいいのかという決断を絶えずしていかなければなりません。コンサルタントはそれができないから、会社を経営したら必ずつぶれると、そういうふうに言われています。
船井総合研究所に三上先生という、私の大好きな方がいます。宮松宏至さんの「尿を訪ねて三千里」「朝一杯のおしっこから」という本を読んで以降、毎朝自分のおしっこを飲んで、健康で元気に過ごしておられる方です。
そばに来て話をすると、何かおしっこくさいような気がするんですけれどもね(笑)。
では、おしっこを飲むと健康になるというなら、うんこはどうなのか。
しかしうんこは、食べ物のカスだから食べられないということです。
おしっこは血液と一緒だと考えていい。
だから、もし漂流して水がなくなったら、おしっこを飲めとおっしゃっていました。
漂流先で仲間が次々と死んでいく中、最後に一人残ったひげぼうぼうの人も自分のおしっこを飲んで生き延びた。
そのおしっこを飲むのに抵抗があって、飲めない人はみんな死んでいく。
うんこは食べられませんけれど、おしっこは飲めるし、健康にいいと、三上さんがおっしゃっていました。
