芸術家に神仏の世界を求める人が多い理由
ところで、締め切りに追われる日々を送っているとどうなるのか。
「エイトマン」を描いた桑田次郎さんや、それから、「うしろの百太郎」を描いたつのだじろうさん、もちろん手塚治虫さんにしろ、松本零士さんにしろ、漫画家というのはみんな、神仏の世界へ行くんです。
『子連れ狼』の原作者である小池一夫さんは、締め切り日になると週刊誌の担当者が原稿を取りに行きますから、間際になったら顔面蒼白になって、悲壮感をにじませながらグワァーッと書いていたらしいんです。
手塚治虫さんが六十歳で亡くなったのも、締め切りに追われる生活と寝不足のせいではないかと言われています。また、「漫画家を殺すにゃ刃物は要らん。
先生、次の作品を期待しております、という一言で死ぬんだ」とも言われているんです(笑)。
「素晴らしい漫画でした。次の作品を期待していますが、いったいどうなるんでしょうか」「いやあ~」
と言って、漫画家さんは苦しむんです。
松本零士さんもそうらしいです。ファンから、「次の作品を期待しています」なんて言われると、それだけでもう、「いい作品を描かなきゃ……。
しかし、なかなか浮かんでこない。えっ、もう締め切りが来た!…………」となるから、みんなどうなるかというと、神仏の世界に入っていくんです。
「エイトマン」を描いた桑田次郎さんも、般若心経や観音経のことなどを漫画にしていますが、そうやって、「神様、仏様、何とかして漫画を描かせてくれーっ!」というふうに追い詰められるから、神仏の世界に入るんです。
とにかく、締め切りに追われると、「神様、何とかしてくれ~っ!」と絶叫しながらでも、作品を描かなければいけません。
しかし、締め切りは毎週のこですから、次第にアイデアが浮かんでこなくなります。つまり、枯渇するんです。
だから、ますます「何とか、浮かんできますように」と背後霊に祈るようになるわけです(笑)。
背後霊は、背後にいるから背後霊と言うんです。しかし、ご先祖様が勝手に憑いている場合がありますから、背後霊が全部いいとは限らないんですけれど、追い詰められているものだから、とにかく、神なる何者かにおすがりするようになるわけです。
それは、やらざるを得ないからです。舞台が大きければ大きいほど、人手が多ければ多いほど、締め切りに追われれば追われるほど、もうやるしかありません。
だから漫画家というのは、「神なるもの」におすがりするようになるわけです。「何とか生み出せないか」というふうに、内的に深く追い詰められますから、苦しんでいる自分の心を癒してくれたり、助けてくれたりする何かに向かっていくんです。
漫画家の多くが信心深くなったり、目に見えないものに対し心を向けたりしていくのは、そこに理由があるのです。
つまり、芸術を極めれば宗教、宗教を極めれば芸術ということで、真善美になっているわけです。
科学を究めても宗教に辿り着きます。アインシュタインも、「天の声を聴いた」「宇宙のメロディを聴いた」というふうに言われています。
「神様がそんな複雑な理論であるわけがない。単純なはずだ」と。
それで、「公式E=mcの二乗」。とにかく、質量はエネルギーに置き換えられるんだということで、ウランはエネルギーに置き換えられるという単純な数式を発見したわけです。
「神様は、そんな複雑なもんではない、単純なはずだ」と。科学を究めたアインシュタインは、宇宙のメロディ、天の声を聴いて、あれだけの理論を打ち立てたのです。
締め切りや何かに追い詰められていくと、内なるものが深まっていくので、神なるものにすがるようになります。
そのおすがりする対象が背後霊だったり、あるいは神社やお寺だったりするだけの話で、対象は何でもいいんです。とにかく、神様、仏様に頼らざるを得なくなってくるのです。
しかし、神様や仏様に頼ったり、内面を究めていったりした結果として、何かが生み出されれば問題ありませんが、出てこなかった場合はどうなるのか。
それは、川端康成や芥川龍之介、あるいは太宰治のように自殺してしまうわけです。
もちろん、すべてがすべて自殺するわけではありませんが、とことんまで追い詰められ、神仏に頼っても何も生み出せなかったら、絶望のあまり、自殺してしまう恐れもあるんです。
物を書く人にとっては作品が命です。その作品を生み出すことができなくなったときの苦しみや葛藤、絶望は、第三者にはなかなか理解できないことです。
しかし、当人には死を宣告されたも同然だと言います。
だから、内面を究めていくと同時に、必死になって神仏におすがりするわけですけれど、それでも生み出せなかったら、絶望や苦しみから逃れたいために、自殺の道を選ぶんです。
川端康成も、ノーベル賞をもらってしまったがために、創作に行き詰まって自殺してしまいました。
実は私も、「神界からの神通力」『強運」と、次々に本を出したとき、「先生の本には本当に感動いたしました。
ぜひ、次の作品も心待ちにしています」と言われれば言われるほど、次第に書けなくなってしまいました。
八作目、九作目あたりのときに、「うっ・・・・・・、みんなが喜ぶものを何とか書かなきゃ。しかし、書けない」ということで、ますます行き詰まってしまい、いっとき筆を休めました。
しかし、しばらく原稿を書くことを考えず、他のほうに心を向けていたら、また復活してきました。
どうやって復活したかといいますと、ぶつ切りでもいいんだと覚悟を決めたからなのです。つまり、百点満点を望まず、たとえ内容が浅くても、とにかく書いていこう、と。
そういうふうに気持ちを切り替えたら楽になって、どんどん書けるようになりました。
作家でも漫画家でも画家でも、みんなそうやって自分自身と闘っているんです。その闘いに勝てたら、作品が上がるわけです。
あのカザルスホールの名前の元になっているパブロ・カザルスは、今世紀最大のチェロの奏者と言われていますけれど、あのカザルスでさえ、「もし、事故で右手を骨折して動けなくなったら、どれだけ安らかな日々が来るだろうか」と言っているんです。
天下のカザルス。その名声を求めて、世界中の目利きならぬ耳利きが演奏会に来て、厳しい耳で聴いて批評するわけです。
それがカザルスにとってどれだけのプレッシャーだったのか。
それでも負けずに、「これでどうだ!」という演奏をするわけですけれど、内なるものを究めていくことは、彼にとって、想像を絶する苦痛であったに違いありません。
だからこそ、「事故で右腕が利かなくなってチェロが弾けなくなったら、どれだけ安らかで幸せな日々が来るだろうか」と、しみじみと語ったわけです。
これが巨匠の苦しみです。
芸術家にはそういう苦しみが常につきまとうんです。だから、芸術を極めれば宗教になるんです。
その内なるものとの闘いとプレッシャー。締め切り効果が過剰になると、みんなそうなってしまうんです。
しかし、それに打ち勝つ精神力を持つにはどうしたらいいのかといえば、みんな芸術を究め、断崖絶壁の苦しみを味わっているから、神なる何ものかにおすがりしたり、お祈りしたりするようになるわけです。
巨匠と呼ばれる大演奏家や大オペラ歌手でも、舞台に立つ前日には必ず、「明日はちゃんとできますように」と祈りを捧げています。
パバロッティも毎回祈っています。パバロッティはハンカチを持ちながら祈っているんですが、ハンカチを持つところがいいですね。
パバロッティの歌を聴きにくる聴衆を前にしたときの、あの緊張感。それに打ち勝って、「これでどうだ!!」というように、歌わなければならないわけですから、天下のパバロッティでも祈りたくなるのでしょう。
そういうことで、締め切り効果は集中力を高めるのには非常にプラスなんですが、行きすぎると、自分をズタズタに苦しめます。
だから、芸術家や作家の多くが神なるものにおすがりしたり、祈ったりするわけで、この二つがあって初めて、締め切り効果は絶大な力を発揮するわけです。
しかし、神仏に心を向けずに、ただ締め切り効果だけが過剰になった場合は、ノイローゼになって自殺するか、発狂してしまいます。
チャイコフスキーは甥と近親相姦の関係になってしまったという説もありますし、シューマンは頭がプッツンして、最後は精神病院に収容されて、そのままこの世を去っています。
モーツアルトは女と遊び。そのうえ、博打にのめり込んだりしました。
それも分からないではありません。天から降りてくるものすごいものをキャッチして、一つの作品に仕上げていけば、当然のことながら反動があるわけですから、「次の作品を待っています」という多くの人たちの期待を背に受けて、あれだけの知的密度の高い作品を「どうだ!」と出していくたびに、精神的におかしくなっていく。それも無理のないことです。
締め切り効果がありすぎると、そうなっていくわけです。だから、これを適度に調節することが大事なのです。自殺しない程度に、発狂しない程度に調節し、さらに究めていって、最終的には神仏の世界に入って、神様、仏様におすがりする、と。
私の場合は、初めから神仏にお願いして、おすがりしています(笑)。
初めから神なるものにおすがりをして、「とにかくちゃんとできますようにお願いいたします。
無事にできますように」と、お祈りしています。ですから、いつも締め切り効果とおすがりのバランスがとれています。
これが、神人合一して、締め切り効果を越えていく秘訣です。自分自身を支えていく精神性とガッチリとした信仰力がありますから、どんなに追い込まれてもおかしくなりません。
一歩前まで来ている、と言う人もいますし(笑)、紙一重だと言う人もいますが、神一筋なんです。
とにかく、紙一重にならないためには、信仰の世界から入っていったらいいんです。
あまり興味のない方は、締め切り効果のほうから入っていって、いよいよ追い詰められて、「うわー」と叫びたくなったときだけ、神社に行くとかお寺に行くとかしてもいいのではないでしょうか。それは本人の自由ですが、自殺をしたら、あの世へ行ってから苦しみます。
自殺とまでは行かなくても、おかしくなって病院に行くとか、あるいは、調節しながら天才の日々を送っておられる人がたくさんいます。
神様のほうに心を向けて、アインシュタインのようになっていくか、神様のほうに行けなくて、精神病院へ行くか、あるいは自殺するか。
とにかく私の場合は、締め切り効果を活用しながらも、神仏の世界から入っているので、危ない世界には行きません。
初めから神様とともに、背後霊様とともにお祈りをし、一生懸命にやっています。
ですから、それを越えられるだけの精神性や直感を与えていただけるわけです。心の安らぎだけでなくて、ひらめきや直感をいただいています。
これが、時間効率を上げる第二の方法です。締め切り効果を活用すれば、普通の人の三倍、五倍と効率をアップすることができます。
ただし、締め切り効果が過剰になると、いろいろと問題点も出てきますので、私の場合は、神様にお祈りすることを第一にしているわけです。
しかし、お祈りだけではダメなんです。どんなにお祈りしても、締め切り効果を活用しなかったら、その祈りは生ぬるいものになってしまいますし、究められませんから、芸術的にも創作的にも進歩しません。
神仏に手を合わせようとお祈りをしようと、それだけでは上には伸びません。あくまでも締め切り効果を活用した努力が必要です。
以上が、時間効率を上げる努力の二番目のポイントです。
睡眠時間をなくせば絶対的に時間が増える
三番目のポイントは、「絶対的な時間を増やす」ということです。
ここまで、時間の活用の仕方について二つの方法をお話しいたしました。第一が「空白の時間の活用法」。第二が「集中して時間効率を上げる法」。
いずれも大切です。
しかし、どちらがより大切かといいますと、私が思うには後者です。
締め切り効果を活用して集中していかないと、どんなに空白時間があっても、また、空白時間を活用すると大きな成果が得られることを理解していても、長続きしません。
やはり、締め切りに追われて、「何としてでもやらなければならない。やるんだ!」と、自分自身を鼓舞するから、空白時間を活用する気になるのであって、そういう意識もなく、ただ単に、「空白時間を活用しよう」と思っているだけでは、すぐにやる気を失ってしまいます。
たとえば、俳句をやっていても、定期的に句会を開くなどして発表する機会を持たないと、心の底からのやる気は湧き上がってこないでしょう。
空白時間の使い方はやはり、締め切り効果があって初めて、真に生きてくるわけです。
そうやって、寸暇を惜しんで何かを習得しようと頑張り始めると、今度は、絶対的な時間が足りないことに気づきます。
もちろん、空白の時間を活用するだけでも大きな成果は得られますが、それだけでは足りません。
目標が大きくなればなるほど、空白時間だけではなく、絶対的な時間を増やす必要があります。
受験勉強はまさにその典型で、通学電車の中の二十分、三十分の勉強だけでは、絶対に合格はおはつきません。
では、どうやって絶対的な時間を増やすのか。
それは、「寝ない」ということです(笑)。これが一番です。寝なかったら必ず時間が増えます。
だから、絶対的な時間を増やす最も確実な方法は寝ないことです。
こういう話をすると、「いや、夜は寝て、夜明けとともに起きるように人間はつくられている。そういう自然の摂理というものがあるのだから、夜は寝なければいけない。
それはニワトリの行動を見ればよく分かる」などと言う人が必ずいます。確かに、そんな気もします。しかし、それは嘘です。
言われるとおり、ニワトリは夜明けとともに目を覚まし、「コケコッコー」と鳴きますが、では、フクロウやミミズクはどうなるんだ、と。日が落ちたら目を覚まし、「ホォー、ホォー」と鳴くではありませんか。それから、ニュージーランドに行くと、夜になったら出てくるキウイという鳥もいます。
コウモリもそうです。あるいは、猫やライオン、それから豹とか、みんな夜行性の動物です。
私は子どものころ、夜行性動物というのは夜光性、つまり夜になると光る動物かと思っていましたが、「夜行動する」と書くんですね。夜光るのは夜光虫です。
夜行性と夜光性とは違うんですが、ネコ科の動物はみんな夜行性です。その他にも、夜になると行動を開始する動物はいっぱいいるわけです。
これが自然の摂理でなくして何というのでしょうか。ミミズクとかコウモリとかキウイとか、あるいは猫に向かって、「お前たちは不自然だあ!」と言うのか、と。
自然の摂理なんていうのは嘘です。自然をよく観察したら、夜になったら眠る動物もいれば、逆に行動する動物もいる。
だったら、昼は昼で活動し、夜は夜で活動すると、二種類の動物に勝つではありませんか。
だから、絶対的時間を増やすためには、まず寝ないこと。これがお勧めです(笑)。寝なければ確実に時間が増えます。
夜は寝るものだといったい誰が決めたのでしょうか。夜になったら寝る人が多い、というだけのことです。
確かに、日中は電気を点けなくて済みますし、活動もしやすいです。しかし、物を書く人間にとっては、夜のほうがいいわけです。
昼間は多くの人が活動していて、人の念波がうごめくから集中できないんです。
やはり、人が寝静まっ夜のほうが、自分の内をよく見つめられます。
ですから、物書きには夜型が多いんです。もちろん、昼型の人もいます。あるいは、朝型の人もいますが、夜中に原稿を書く人のほうが、圧倒的に多いんです。
昼間は電話がかかってきたり、人が訪ねてきたりしますから、なかなか集中できません。夜中だったら、ほとんど電話がかかってきませんし、ファックスも来ない。人里離れた山奥に独りで住み、電話も何もないというのなら、昼間でも集中できるかもしれませんが、そういう生活はほとんど考えられません。
普通の生活を送っていたら、やはり電話がかかってきたり、人が訪ねてきたりして、創作活動に専念できません。
物を生み出すというのは孤独な作業です。だから、みんなが寝静まった夜のほうがいい。
電話もファックスも来ない夜中が、創作活動の中心にならざるを得ないわけです。
ところが、創作活動をしない人は、「人間は、お天道様が出たら起き、日が沈むと寝るようにつくられているんだ。それが自然の法則なんだ」と言うんです。
そんなのは嘘です。
では、ミミズクやフクロウなどの夜行性動物は不自然なのか。イリオモテヤマネコなんか夜しか出てこないではありませんか。
寝たいときに寝たらいいんです。夜中のほうが集中できるんだったら、夜に活動したらいい。あるいは、朝のほうがスカーッとして気分がいいというのなら、朝やったらいいわけです。
七時ごろの太陽は、現実界の波長とピタッと合いますから、朝の気を受けると、その日にやるべき事柄が非常にバランスよく、かつスムーズに運びます。現実界の問題を解決するだけの叡智が出てくるわけです。
私もいっとき、朝の太陽のエネルギーを吸収しようと思って、朝型に切り替えたことがありますので、夜型になったり朝型になったりしていましたが、今はもう、「朝昼晩、関係ない型」になって生きています。
夜になったら寝るのが自然の法則だなんて、いったい誰が決めたんだ、と。集中できるときにやればいいだけのことです。人のいうことなんか気にする必要はありません。
誰が決めたわけでもない。本人が一番集中できるときにやればいいだけの話です。
「セカンド・ウィンド」を呼び込め
寝なかったら、絶対的に時間が増えます。しかし、死ぬか病気になります(笑)。これが問題なんです。でも、寝なかったら、間違いなく時間が増えます。
一日八時間寝ていた人が寝るのをやめたら、まるまる八時間が自分の時間になります。六時間睡眠の人でも、六時間も増えるんですから、絶対的時間を増やすには寝ないのが一番です。
私も、ギリギリまで締め切りに追い込まれたら、寝るのをやめます。
それまでは空白の時間を目いっぱい活用して、何とか締め切りに間に合わせようと努力しますが、それでも足りない場合はもう、二晩三晩徹夜してでも仕上げます。
オペラや能の稽古は普通、一時間か二時間しかやりませんけれど、ギリギリになったら徹夜徹夜の連続で、十時間ぐらい唄い続けたり、お稽古をつけてもらったりして、徹底的に覚えます。あるいはまた、月刊誌や単行本の締め切りが近づいてきたら、やはり寝ないで、十時間でも何時間でも、ずっと書き続けます。
そうやって睡眠時間を返上すれば何でもできますが、寝なかったら死んでしまいます。
あるいは病気になる。もしくは疲れる。これが問題なのですが、実は私は、それを克服しているんです。
どうやって克服しているのかといいますと、「死ぬなら死んでもいいわい」と覚悟を決めるんです。
そうすると、気分的に楽しくなります。楽しくなるからストレスを溜めない。
ストレスを溜めないから病気にならないし、死にもしない。「病は気から」と言いますが、やはり、ストレスにしないことが最も大事で、そのためには、「睡眠不足で死んだとしても本望だ」と覚悟を決めることです。
そして、「死ぬなら死んでもいいわい」と覚悟を決めるとどうなるか。
大死一番の底で、腹が据わります。
マラソンランナーのことを考えてみてください。
普通の人間が四十二・一九五キロも走り続けられるでしょうか。なかなか完走できません。無理して完走したら死んでしまうかもしれません。
ところが、マラソンランナーは走りきってしまうわけです。
普通の人なら、三キロか四キロ走ったところでもう息が上がります。訓練して、十キロ、二十キロと走れるようになるかもしれませんが、三十キロ以上走ったら、どうしようもなく苦しくなって歩いてしまうでしょう。
聞くところによれば、マラソンランナーも同じだということです。
毎日毎日練習していても、三十五キロとか三十七キロ地点まで来ると、本当に苦しくなるらしいです。しかし、みんなも四十二・一九五キロを走って頑張っているんだからと思って、歯を食いしばりながら走り続けるんだと言っていました。
そうやって死にそうになりながらも、走り続けているとどうなるかというと、やがてアドレナリンか何かが分泌されて楽になってくる。
それまでは死にそうだったのが、嘘みたいに楽になるんだそうです。
これを「セカンド・ウィン「ド」と言います。三十五キロ以上はもう肉体の限界ですから死にそうになりますけれども、それでも歯を食いしばりながら走っていると、脳の中から疲れを癒すホルモンが分泌されて、気持ちよくなる。走ることが喜びで、気持ちよく楽しくてしょうがなくなってくるのだそうです。
もちろん、記録を伸ばそうとすれば、それなりの苦しみはありますが、どんなに苦しくても走り続けていれば、必ず「セカンド・ウィンド」がやってくる。マラソンランナーはそのことを知っているから、三十五キロ地点あたりで死にそうになっても、走ることをやめないで、結局、四十二・一九五キロを完走するんだそうです。
「うわーっ、ついにやったー。完走だ!」と叫びながらゴールに飛び込んでいく、と。
そして、しばらくしたらまた走りたくなる。死ぬほど苦しい思いをしても、時間が経つと、また走りたくなるんだそうです。
たちばな出版の初代編集長だった人がマラソンをやっていました。大学生のときには箱根駅伝で花の二区を四年間走って、実業団でもマラソンを続け、オリンピック候補にもなったくらいの人です。
その人が言うには、現役を引退したあとでも、一直線に伸びている道路を見ると、わくわくしてきて走りたくなるんだそうです。
一直線の道路を見ると、とにかく恍惚としてくる、と(笑)。マラソンランナーというのは、そういうものらしいですね。「走ることが、うれしくてうれしくてたまらない」のだそうです。
超能力を発揮するには
私も、寝不足になってくると、うれしくてうれしくて、恍惚としてきます。
人間の身体なんていうのはそういうものだと思えば、何日か徹夜してもまったく問題ありません。
四十二・一九五キロも休まずに走り続けたら心臓はどうなる?筋肉はどうなる?身体はどうなる?常識で考えると、心臓も筋肉も身体もダメになりそうな気がしますが、苦しくても走り続けるとアドレナリンが分泌されて、四十二キロでも走りきれてしまうんです。
人間の身体はちゃんと順応するんですから、すごいことです。
もちろん、いきなりやると、死ぬか病気になりますから、準備が必要ですけれど、私の場合は、二十歳のころから過激な日々を送っていますので、寝ないということに身体が慣れています。
それまでは、いくら寝ても眠かったんです。特に高校生までは、七時間寝ても八時間寝ても十時間寝ても、それでも眠かったですね。浪人のときもそうでした。
大学に入ってからです、寝なくても大丈夫になったのは。「ねばならない!」という責任感と締め切り効果で、期限までに結果として出さなければならなくなってきたので、睡眠時間に関係なくやれるようになりました。
もう死んでもいいと思ってやっていると、「セカンド・ウィンド」で楽になるんです。
それに、そういう状態に入っていくと、自分の持っている以上の能力を発揮できるようになります。
たとえば、役小角という人は、一日に粟粒一個、水滴一滴、そして松葉をかじりながら生きていたのですが、最終的には空を飛んだと言われているんです(笑)。
念力で物を動かすようになって、最後は念力で自分の身体を自由自在に動かした、と。多少は、尾ひれのついた話だと思いますけれど、念力で石を上げたりする人はいっぱいいます。
ですから、もう死ぬ気になったら何でもできます。そうしたら超えられるんです。私の場合は、必ず背後霊さんがやってきて、「頑張れよ」と応援してくれて、死にそうな苦しみが、必ず超えられるんです。
三十代のときには、四十八時間、一分も休むこともなく、一分も寝ることもなくしゃべり続け、書き続け、仕事をやり続けて、四十八時間目に、「あのね」と話しながら寝ていたというのは、何度もありました。
四十八時間、寝ない、食べない、休まない。三十四時間連続とか三十八時間連続というのは、一週間のうちに三日か四日はありました。
四十代になってくると、さすがに四十八時間連続は厳しくなりました。それでも、連続二十四時間くらいは楽なものでした。
しかし、四十五歳を過ぎるともうダメです。十三時間ぐらいやったら、休まなければならなくなりました。
三十三、四歳ぐらいのときの体力の三分の一ぐらいでしょうか、今の体力は。やはり年齢とともに体力も衰えてきましたので、三十代のようなわけにはいきません。
二十代のころは、強靭な体力でカバーできました。三十代、四十代に入ると、体力が少しばかり落ちてきたものの、「ねばならない!」という強い責任感と精神力でカバーしてきたわけです。確かに、一番元気なときでした。
自分の経験からいうと、四十五歳のころからだんだんと体力が落ちてきました。
ですから、今はもう若いころのようにはなかなかいきませんけれど、基本的に寝ないことに慣れていますから、何とか対応できています。
とにかく私の場合は、「死んでもいいんだ」と思って頑張っていると、役小角さんや背後霊さんがワッと来て守ってくれます。
つまり、「セカンド・ウィンド」プラス「目に見えないご加護」をいただくことによって、能力を超えたものが出せるわけです。
そうやって、普通の能力を超えたものを出すことができるから、それを「超能力」と言うんです。
やはり、能力を超えた何かを出そうとするなら、死ぬような気持ちで臨まなければダメです。生ぬるい姿勢では、超能力はとても発揮できません。
楽しみながら取り組むのがコツ
たとえば、「明日は経理ミーティングがある」とか、「営業会議でしごかれる」というときの気分はどうでしょうか。
とても重苦しいと思います。
営業会議なんかには出たくないはずです。
ところが、「明日はゴルフだ」というときはどうでしょうか。たとえ寝不足であっても、気分はウキウキで、朝四時でも五時でも起き出すのではないでしょうか。
どんなに早い時間でも平気です。それはなぜかというと、楽しいからです。
それから、マージャンは徹夜でやっても平気です。少しは疲れるけれども、朝になったらそのまま会社に行きます。
その後、どこかの喫茶店で少し仮眠することはあるかもしれませんが、何ごともなかったかのように仕事をすることができるはずです。そして仕事が終わると、誰からともなく、「もう一回やろう」なんて言い出します。
経理ミーティングとかが続くと、「こんな夜の十一時や十二時まで仕事をさせるなんて、何という会社だ!」と腹が立つけれども、マージャンならば平気で二晩三晩徹夜してやれるわけです。
なぜかと言えば、楽しいからです。基本的に楽しいことや面白いことなら、身体が続くんです。
ゴルフとかマージャンはそうです。楽しいし面白いから、疲れないし、病気にならないわけです。
反対に、ねばならないこと、嫌なことをやると気を病みます。経理のようなものすごく細かい仕事、あるいは、原稿書きや論文整理のような神経をすり減らすような仕事となると、苦しいし辛いからやる気にならない。
歌とか踊りとか、絵とか書とか、あるいはまた五日連続のゴルフだとか釣りだとか、何か喜びを持ってやれるものや、楽しいなと思えるようなことだったならば、基本的に寝なくても続くんです。疲れたなあと思っても、お抹茶を飲んだら元気が回復して、「やるぞ!」と言って、またチャレンジできます。
「疲れる」は「憑かれる」で、邪霊や邪気に憑かれるから疲れるのであって、すがすがしい気の持ち主と一緒にいると元気が出てきます。
あるいは、すがすがしい気に満ちた神社にお参りすると、気を補給できるから元気が回復します。
気の重たい人は、一緒にいるだけでドッと疲れます。祟り霊なんかがいると、どうしようもなく疲れます。法事の日なんかもドッと疲れます。
そういうときには、神社の神様にお祈りするなどしていい気を補給する。あるいは、疲れたときにはお抹茶を飲んで元気を回復する。
私の場合、そういうふうにしているから、この「寝ない」ということが成就できるのです。
それから、さっき言った「セカンド・ウィンド」も大きな要因です。
さらには、仕事を楽しむこと。そして、疲れたときの抹茶とコーヒー。コーヒーは胃を荒らしますので、量を控えめにしていますが、とにかくそうやっていくと、少しばかり徹夜をしても元気が持続します。
しかし、年齢を重ねていくにつれて、この「寝ない」ということもなかなかできなくなってきています。
ですから、今はどうしているかといいますと、時間をぶつ切りにして寝ているんです。五時間、六時間ぶっ通しで眠ることはありません。
寝ても二時間ぐらいで必ず起きます。新幹線に乗ったとき、あるいは、余白の時間にうとうとする程度です。
だいたい朝五時か六時ぐらいまで仕事をやって、そのあと数時間横になって、昼は昼で仕事をし、夕方の五時、六時になるともう、私にとっての夜間タイムですから、そのまま朝まで仕事を続けます。実は今日も、一睡もせずに仕事をし、新幹線の中でうとうとしただけです。
ここに着いてから一時間ほど横になっていましたが、それからまた蘇って、皆さんの前でこうしてお話ししているわけです。
そうやって、時間をぶつ切りにして休んでいるわけでして、合計すると、睡眠時間は平均して四時間ほどでしょうか。
深見東州「どこでもベッド」の真相
私の知り合いのお母さんは、必ず一時間半ほど昼寝をするらしいです。一時間半ばかり昼寝をすると、何倍も元気になるというので、毎日必ず一時間から一時間半の昼寝をしているそうです。
私の場合は、ソファーで横になるか、車の中で横になるかです。車で移動中に寝るときは、揺れながら寝ていますので、絶えずどこか揺れているような感じです。
そのように、移動中のキャンピングカーやセンチュリーの中で寝たりしているのですが、なぜセンチュリーかというと、トヨタのクラウンはエア・サスペンションなので、後部座席に乗っていると酔ってしまうんです。
コイル・サスペンションなら大丈夫なんですけれど、コイル・サスペンションを使用しているのはセンチュリーだけなんです。
昭和五十五、六年度のロイヤルサルーンですが、とにかくコイル・サスペンションなら酔わない。エアサスペンションだと、ムカムカッときて吐きそうになってしまいます。ですから、センチュリにしているわけです。
普段ほとんど寝ていませんから、ちょっと時間があれば、どこででもすぐに眠れます。
ドラえもんの「どこでもドア」になぞらえて言うならば、深見東州「どこでもベッド」です(笑)。
何日も寝ずにグワーッと集中して、体力が続かなくなったら、どこででも寝られます。控え室でも車の中でも飛行機の中でもソファーでも平気で寝ます。
そういうふうに二十代のころから、自分の身体を慣らしてきたので、まさに「どこでもベッド」です。
逆に、綺麗な部屋の大きなベッドに入ると、何かソワソワしてなかなか眠れません。私にはやはり、狭いところが合っています。
狭苦しい部屋の隅のほうなら、すぐにでも寝られます。
貧乏性かもしれませんが、植松先生のお宅で共同生活を十年も続けていましたし、弟と一つの部屋を共有していました。
二十代、三十代とずっとそういう日々を過ごしてきましたので、どこでも寝るという習性が身についています。
大事なときには何日でも徹夜してカーッと集中しますけれど、終わったら空白の時間を見つけてカクーンと寝るんです。忙しい人はみなそうしています。
そういうことで、絶対的な時間のつくり方としてはまず、とにかく寝ないということなのですけれども、寝なかったら死ぬ、病気になる、疲れる。
だから、ある程度は寝なければなりません。年齢を重ねてきたら、やはり無理は利きません。
けれども、どこででも寝るという習性をつけ、空白の時間を睡眠に充てれば、たとえ疲れていてもすぐに回復します。
締め切りが迫っているときには、何日か徹夜しなければならないでしょうが、そのときは、今言ったように、時間をぶつ切りにして睡眠時間を確保すればいいんです。
上手に人を使って時間を増やす
絶対的な時間をつくるもう一つの方法ですが、それは「上手に人を使う」ということです。
経営者にはやらなければならないことがたくさんあります。しかし、時間がないわけです。
これもしなければならない、あれもしなければならないと、いつも目が回るような忙しさです。
そんな中、一つの仕事に取り組んでいるときに、別の仕事が気になるからということで、今やっている仕事をストップしてその仕事に取りかかったら、こっちの仕事があっちの仕事に変わっただけですから、結局は同じことになります。では、一つの仕事をやりながら、もう一つ別の仕事をやるにはどうしたらいいのか。
それは、「人を育てて、人に任せる」ということです。
その場合に、まず考えておかなければならないのは、人に任せたらどうなるか、ということです。
これを頭に叩き込んでおかなければなりません。では、人に任せたらどうなるのか。結論から先にいえば、十ある仕事のうちしかできません。
社長一人で十やってきた仕事を社員に任せたら八しかできない。つまり、二だけ足りないわけです。
そのことをしっかり理解したうえで、あとでその二を確認・チェックする必要があります。そうしなければ、必ず失敗します。
私はいくつもの事業に関わっています。予備校と時計の商社、それから旅行代理店とかいろいろ関わっています。
小さなジャンルですけれども、その業界ではトップをずっと維持しています。
それが可能なのはなぜかといいますと、二十五歳のころからずっと育ててきた社員がいるからです。
だからこそ、仕事を任せられるし、その分、ほかの仕事もできるのです。
ただし、そこまで育てるにはもう、言葉で言い表せないほどの苦労がありました。まさに「人を使うは苦を使う」で、人を育てるには相当な忍耐を強いられます。
ああでもない、こうでもないという、一人ひとりの悩みや相談を聞きながら、ずっと忍耐し、寛容の心で接して、初めて人は育つのです。
そうやって、じっくりと育てた結果、今では仕事の大部分を任せられるようになりました。
しかし、月次決算は社長自身がきちんと見ておかなければなりません。それから、事業のピーク時の仕入と売上、これもきちんとチェックする必要があります。
予備校だったら、生徒の募集時期、商社でしたら年末商戦と夏の商戦の時期は、社長自らが陣頭に立って指揮をしなければなりません。そこまで任せっきりにしてはいけません。
そのほか、返品があったときにどうするのか、決算期の前の在庫状態はどうなのか等々、チェック・ポイントはいくつかあります。
しかし、それらをきちんと見ておけば、最小限度の労力と時間で経営ができるわけです。
社員の悩みごと、相談ごとにはちゃんと耳を傾け、親身になって対応する。そうやって人を教育し、育成することによって、仕事を任せられる人間に成長していく。
もちろん、十のうち八しかできませんけれど、足りない二をチェックするという気配りとやり方が分かっていると、人に任せられます。
とはいえ、足りない二をチェックしてさえいればそれで充分、というわけではありません。
いつも現場に目を配り、何か問題はないか、トラブル発生の芽はないかを確認・チェックする必要があります。
では、確認・チェックはどうしたらできるかといえば、それはもう気配りしかありません。気を配り、気を利かしていくと、予知力・直観力が働くようになります。
何か問題があるときには、「どうも変だぞ、おかしいぞ」というふうに、予知力が出てきます。
「最近どうなんだ?何か問題でもあるんじゃないか」と、社員に電話をかけたら、「実はそのとおりなんです。社長に相談しようと思っていたところなんです」という場合が多いんです。
ですから、関心は絶えず払っておかなければいけません。そうやって気配りを欠かさないようにすれば、ある程度人に任せることができますし、経営が軌道から外れることもありません。
経営者の自由な時間というのは、そうやってつくるものなのです。
一つのことをやりながら、別なことをやろうと思ったら、人に任せるしかないんです。人に任せるためには教育をしていく。
教育をしても、十のうち八しかできない。足りないところはやはり、確認・チェックしなければなりませんが、ポイントを押さえていけば、最小限度の労力で最大の効果を発揮することができます。
必要に応じて権限委譲を
何か他のことで忙しくしていると、すべてを自分でやるのは不可能です。
ですから、最小限度の労力でやるしかありません。それには、人に任せざるを得なくなってきます。
そうすると権限の委譲ができて人が育つ。だから両方にいいんです。一石三鳥、四鳥のことをやるにはそれしかありません。
そのためには、なるべく現場を見ないようにすることです。気配りはしていても、なるべく見ない。見たらやりたくなります。
私も見たら必ず言いたくなるし、自分でやりたくなります。ですから、なるべく見ないようにしています。
それにはやはり、何か他のことに集中することです。そうでなければ、ついつい見てしまいます。
そうやって権限の委譲をせざるを得ないように持っていくと、テンションが高まって、どこを押さえなければならないのかが、だいたい分かってきます。
中小企業なら月次決算、ちょっと大きくなれば上半期・下半期、あるいは四半期ごとの決算を見ていく。
その数値から見て、売上・粗利率・在庫率がどうなっているのかをチェックする。商品を扱わないサービス業などには在庫はありませんけれども、売上・粗利率は必ずチェックする。
それから、現場を任せた人間を定期的に食事に誘って、「何か問題はないか、おかしいところはないか」と確認することも忘れてはなりません。
食事に誘うかどうかは別として、定期的に会うようにしなければダメです。そうやって顔を合わせ、資料を見れば、問題があるかないかがパッと分かります。
直感が冴えてくるから、資料を見たとたんにすぐ分かります。
経営者のテンションが上がって、そういう時間の使い方をしていますと、会社の運気も高まってきます。
社運もうまく運んでいくようになります。ところが、権限委譲のできない経営者の場合はそうはいきません。
現場に暇な人間、ボケーッとしている人間がいるとつい口を出し、その結果、従業員全員から煙たがれて、現場のエネルギーが枯渇していきます。
年を重ねても暇な経営者、時間の使い方が下手な経営者は会社のガンです。老害です。
ですから、年をとってきたら、体力に合った形で時間効率を上げ、テンションの高い自分をつくっていかないといけません。
そうでないと、権限委譲の大切さは分かっていてもなかなかできません。
権限を委譲せざるを得ない状態にするには、目標を持って忙しくして、気配緊迫感を衰えさせないことです。
あまり緊迫すると病気になりますから、楽しいことで自分を忙しくさせたらいいんです。経営者の場合はゴルフや釣りを楽しむことで気力を回復できるでしょう。
そういうふうに人を育て、権限を委譲して任せているから、いくつもの会社を経営しながら、同時に他のこともやれる。
それだけの時間が取れるわけです。普通のサラリーマンでしたら、なかなか時間が取れません。
しかし、会社を経営し、オーナーとなってきたら、それだけ緊迫もするし責任もありますが、時間が取れます。
年商六百億円ぐらいの会社を経営している方が、「会社が大きくなったら時間が自由になった、会社が大きくなってくると権限の委譲ができるようになるから、以前のように忙しくなくなって、時間が自由になりました」と、おっしやっていました。
会社が小さいときには、社長が何から何まで全部やらなければならず、目の回るような忙しさですけれど、会社が大きくなってきたら、時間が取れて楽になります。
もちろん、ポイントはきちんと押さえなければなりませんけれども、人が育ってきて、権限委譲ができてきたら、時間が取れるんです。
こうやって絶対的な時間を生み出すことができるわけです。これは会社の経営者だからできることです。
お稽古ごと、習いごとで時間を生み出す賢い方法
最後にもう一つ、人を使って時間をつくるということに関していえば、お稽古ごと、習いごとにも時間を効率的に使うやり方があるのです。
私も、たくさんのお稽古ごとや習いごとをやっていて、いろいろとレッスンを受けていますが、問題はレッスンを受けるときの時間の取り方です。
というのも、こちらから習いに行くとなると、うんと時間を取られるからです。それを考えて私は、基本的に先生に来ていただくことにしています。
習いごとのある日は、二時間の笛の稽古のあとに二時間の鼓の稽古、さらにそのあとに二時間の能の稽古、それが終わってミーティングをしたあと原稿チェック、といったスケジュールになっているのですが、稽古が終わるたびに移動していたら、ものすごく時間を取られます。
ですから、倍ぐらいレッスン料を払ってでも、先生に出稽古に来ていただいているのです。
どこか近いところ稽古場に決めて、そこに笛の先生や鼓の先生、能の先生をお呼びして、二時間単位か三時間単位でレッスンを受けるわけです。
書道のレッスンを二時間受けたら、次に絵のレッスンが二時間あり、それが終わったらミーティングをやる。
ミーティングのあとはまた二時間の鼓の稽古がある。そうやって、お稽古ごとも四つぐらい連続でバラバラにやって、最後に原稿に取りかかって朝までやり、それから移動する。その移動の間に車の中で寝ているんです。
ひと口に人を使うといっても、従業員だけではありません。歌の先生やピアノの先生、能の先生に出稽古に来てもらう。
そういうふうにすると、時間が短縮できて、何倍もの時間を生み出せます。結果的に多くのことをやっていけるわけです。
それにはやはり、ある程度の経済力が必要です。グループレッスンなら、少し負担が小さくなりますが、基本的に経済力がなければ先生を呼ぶことはできません。
それでも、先生に来ていただければ、時間を節約できます。
ということで、従業員に任せると同時に、先生も来てもらうことによって時間短縮ができ、絶対的時間が増えるわけです。
その分だけお金がいっぱい要るとか、気配りをいっぱいしなければならないとか、それなりの負担はありますが、しかし、時間は取れます。
もっともっと細かいことを言えばいっぱいあるんですけれど、今日は数分間にまとめて大雑把に、簡単にお話しさせていただきました(笑)。
以上でございます。ありがとうございました。(拍手)
