合理性と逆行するところに人生の楽しさがある
それが人間としての楽しさ、おもしろさですね。いつも効率的なことや合理的なことばかり考えていたら、人生は楽しくないから、ときどき意味のないようなことをやる。
これが楽しい。絵なんて描いてどうなるんだ。絵で生活するなら別だけど、絵を描いていったい何になるんだ。
書を書いて何になるんだ。歌を歌って何になるんだ。
お茶をやって何になるんだ。花を生けてどうなるんだ。まあ、花を生けたらきれいになるだろうし、お茶をやれば気分がくつろぐだろうとは思うけれど、こんな踊りを踊って何になるんだ。なくてもやっていけるわけです。
そういう、なくてもやっていけるものにお金と時間と労力、エネルギーを使う。だけれども、そういうのが楽しいわけで、幸せを感じるわけです。
「ねばならない」ことに時間と労力とエネルギーを使うのは、それはしようがないことです。
しかし、それで幸せを感じるか、なんです。幸せというのはえてして、無目的の目的とか無意味の意味のことをしているときに楽しいわけで、たとえば、スキーなんて、雪の上を滑り降りるだけでしょ。
水泳って、水の上を進むだけ。魚なんかみんな泳いでいるじゃないか、わざわざ人間が泳ぐことないじゃないか、と(笑)。
でも、それが楽しいわけです。
泳ぎは魚に任せなさい、人間がそんなの零コンマ何秒を競って、世界新記録を打ち立てたところで、イルカに勝てっこない、と。
しかし、そんなことを言っていたら、オリンピックの水泳競技が成り立たないでしょう。
高橋尚子選手が女子マラソンで二時間何分で走って金メダルを取っても、ビューマに勝てません。
ライオンだって速いし、象も時速六十キロぐらいで走るそうです。人間が地上を何秒で走ったところで、しょせん、足の速い動物にはかなわない。
だから、走るのはコヨーテとかピューマとか、シカ、馬に任せなさい。牛も真剣に走れば人間よりも速いです。人間が走る速さを競ったところで意味なんかないよ、なんて言ったら、スポーツは成り立ちません。
馬に任せなさい、ライオンとかピューマも速い。ピューマなんかものすごく速いですね。
一番速いのはチータです。走るのはチータに任せない、あれよりも速く走れるのか、と。どんなに走ったって、九九九秒とか九九八秒でしよ。
そんな、百メートルを十秒切るか切らないかに命を懸けたところで何になるんだ、そんなのはもうチータに任せなさい、人間には自動車があるからもういいじゃないか、原付バイクだって動物より速く走れるぞ、と言ってしまえば終わりじゃないですか。
ハンググライダーなんかやめろ、空を飛ぶのは鳥に任せろ、何も人間が空を飛ばなくてもいいじゃないか、空には鳥がいっぱい飛んでいるじゃないか、鳥の真似して空飛んで、それで落ちて骨折して、「だから鳥の真似なんかするな。人間は歩けばいいんだ。
そんなに飛びたければ飛行機に乗ればいいじゃないか、ヘリコプターでもいいじゃないか」と。
ハンググライダーなんかやって、何の意味があるんだ、と言ったら、それで終わりです。
しかし、鳥のように、チータのように、魚のように、飛んだり、走ったり、泳いだりするのが楽しいわけです。
そういう無目的な目的、無意味の意味に楽と喜びがあることが多いでしょう。
そう思いませんか。芸術とかスポーツって、みんなそうじゃないですか。
そういう無意味なものとか意義のないものを楽しむのが、人間に安らぎとか喜びをもたらすわけです。
魚のようには速く泳げないし、鳥のようには飛べないし、チータのようには走れません。
地面を這っていく匍匐前進という訓練、あんなことをやってもムカデには勝てません。
ムカデには勝てないし、蛇のほうが上手でしょう。人間は爬虫類にも勝てない。だけど、楽しい。
まあ、匍匐前進の訓練が楽しいのかどうか分かりませんけれど、とにかく、空を飛び、速く走るのが楽しくて仕方がないんです。
だから、考えてほしいわけです。人間は魂を磨くために生まれてきたんだから、磨いているプロセスそのものに幸せと喜びを感じるわけです。
魂が充実していますからね。そういうふうな価値観を持たずに会社を経営し、時間との競争、ライバルとの勝負の中で生きていると、ついついそれを忘れていくんです。
だから、ストレスばかりを感じて、幸せを感じなくなるんです。
交通経済が発達して、時間をお金で買い、便利さをお金で買い、快適さをお金で買い、気持ちよさをお金で買い、豊かさをお金で買っていくこの時代、そういうふうに考えて割り切っていると、お金で買えないもの、無意味なもの、意義のないことをやる楽しみを忘れてしまいます。
魂の修養に生まれてきているんですから、陰の部分を磨くプロセス、あるいは無目的の目的、無意味の意味というものが、実は喜びとか楽しさとか、人間らしい空間をつくっているんだということを忘れるんです。
少ない睡眠時間でもやっていける理由
そういうようなことを私は上手に調節しているから、ねばならないハードなことがたくさんあっても、こうやって持続できているわけです。
一日も休まないし、寝ない。まったく寝ないわけではありません。寝ることは寝るんですけれど、極めて少ない。普通の人の十分の一ぐらいです。
十分の一か五分の一です。まったく寝ないときも多いです。だけど、神様にお祈りしながら自分で調節していくと、やっていけるんです。
さっきも、書類に目を通しながら、ランラランランランラランラン、ランラランランランラランランとやっていたんです。ランラランランランララランランラーンと。
そしたら、秘書部の子たちやエリアの人たちが来たので、「ねえ、みんな。これ三時間か四時間、私が続けていると、幹部の人たちが怖くなってくると思わない?ついに先生も壊れてしまったって」と言ったんですけれど、幹部の連中をおどかすには刃物は要らん、ランラランランランラランランランラーン、ララーン、ランランランランランランランランラーンと三時間ぐらいやったら、みんな背筋が凍えるでしょうね。
エンゼル会の皆さんをおどかすには刃物は要らん、みんなが集まったところで、「みんな何しているの?ランランランランラン、何しているの、ここで?」と四時間か五時間やったら、「怖わーっ。世の中、これからどうなるんだろうか、今までの自分の努力は何だったんだろう」と思いますよ(笑)。
今までの努力を無にするのは簡単なことです。ランランランランランラン、ランランランと、私がみんなの前で五時間もやっていたら、「大丈夫?」「もうずっと五時間あれやっているんです」「誰が何を言ってもああなんです」「つい先生も」「これからどうなるのかな、菊理姫様とか、の神様とか、世界連邦政府とか、どうなるの?」「今まで自分がご神業に費やしてきた時間とエネルギーと費用、あれは何だったの?」と。
マージャンの徹夜と残業の徹夜との違い
だから、考えてください。マージャンだと言ったら、ずーっとマージャンを翌朝までやって、そのまま会社へ行くでしょ。
ときどき喫茶店へ行って寝たりなんかして、また会社で何事もなかったように仕事をしているじゃないですか。
あるいは、ゴルフの好きな人は二日連続でやって、月曜日にはもう、フラフラの状態で会社に出てきたりするじゃないですか。私もそうですけど。
そういう無意味なことや無目的なことを楽しむ。マージャンなんか、賭けてやるから楽しいのかもしれませんが、囲碁とかゴルフの何が楽しいのか。球を穴へ入れたからって、だからどうだというのか、と。釣りにしたって、決して安くないお金をかけて釣りをするなら、そのお金を持って魚屋で買ったほうがよほどいいじゃないか、と(笑)。
一万円出したら相当いい魚が買えます。釣り上げる魚よりよほどいい魚が買えます。
そういうもんじゃないんだ、釣りは、と言いながら、ゴールデンウィークには何時間も自動車に乗って釣りに出かけ、家に帰ってきてからも疲れているはずなのにニコニコしている。
ところが、夜中の一時、二時、三時まで残業だといって仕事をすると、翌朝はグッタリして、会社に行くのなんかもう嫌だ、と。こんなひどい会社はない、いったい人を何だと思っているんだ、何時間働かせれば気が済むんだ、と不満たらたら。徹夜のマージャンとか徹夜の釣りとか、徹夜のばくちとか、三次会、四次会までのカラオケのはしごとか、そういうのだったら疲れは残らない。
翌日になったら会社へ行って、何事もなかったかのように仕事をしているんです。
ところが、残業で徹夜の仕事となると、翌日まで残るんです。では、なぜ残るのか。
それは、ねばならないと思ってやったり、給料が発生するからなんです。
給料が発生するということは、それだけ責任があるということですからね。マージャンなんかでも取られたり取ったりするんだけれども、ねばならないと思ってやっているわけではないから楽しい。
お酒も、ねばならないと思って飲んでいるわけではないから楽しい。カラオケも釣りもみんなそうです。そういうのは続くんです。
こんな殺人的なスケジュールでも私が続けられるのは、ねばならないと思ってやっていないからなんです。ねばならないと思うと、体にきます。
だから、ランラランランランラランランと、全然関係ないところで遊んでいる。
そうすると、十分回復するんです。
そうやって自分の精神状態とか意識の状態を変えると、また回復するわけです。全然違うことをしているか、関係ないところで遊んでいる。遊びながらでも仕事はしていますけど。
そういうふうに上手に持っていくと、気力、体力、精神力、頭脳が持続できるんですが、一つのことをずーっと、ねばならない、ねばならないと頑張っていると、体も心も疲れるので、その反動が必ず来ます。
私の場合は、毎回毎回違うことをして、宇宙空間へ飛ばしていくんです。
絵ばっかり描いていたら、絵を描くことがストレスになります。どうしたら絵が売れるのか、どうしたらコンテストに入選するのかなんて考えていたら、ストレスがたまりますが、そんなことは一切かまわず描いていたら楽しい。
だから、結果として、みんなが素晴らしいと評価してくれる作品ができる。
書は相当、緊張しますけれども。それでも、緊張のための緊張じゃない。
コンテストのためにと必死で頑張るけれども、コンテストのためだけではなくて、これも遊びの一環として日にちを決めてやっているだけのことなんだと思い返すと、気持ちがほわーっとなって、リラックスする。
そういうふうに意識を調整させていくと、体も健康になります。
だから、血圧も尿酸値も腎臓も正常です。肝臓は若干、疲れてはいるけれども、どこも悪くないです、私は。こんなにやっているのに、なぜ先生は病気にならないのか、不思議に思うかもしれません。
高脂血症とか少しはありますけれど、それでも今は、だんだんと正常値に戻りつつあります。血圧も、若干高めというだけです。
そうやって、なるべく自分を酷さない。ストレスの原因になるようなものを、上手にコントロールしていく。
無目的の目的、無意識の意識に置き換えていく。お金で換算できるような現実的な事柄を間尺に合わせなければならないことはあるんですけれど、それはそれできちっとやっていく。
ただし、そういうときには責任がありますから、やはり、モロに体に来ます。そうなったら、そうではないところへ時間を使い、心を向かわせると回復できます。
その意味で、ボランティア活動なんかも基本的には仕事ではなく、喜びと楽しみと、無意味の意味なんだ、と。
そういうふうに位置づけるんです、自分で。すると、体と魂が知っているから、自然と体も動いてくるんです。
年齢から来る絶対的な体力というのはもちろんありますけれど、最大限、それらのものを超えた若々しさだとか持続力が出てきます。
精神力とは耐えることではない
精神力というのは、辛いことをぐっとこらえることではないんです。辛いと思わなくなる自分をつくることなんです。
大変なときに、辛さ、厳しさ、大変さをぐっとこらえているうちは、誰でもその反動が来ます。
病気になったり、性格がおかしくなったり、凶暴になったりします。大変なことをぐーっとこらえて頑張った、というのが精神力ではないんです。
大変なことをぐっとこらえて頑張る。その頑張っている自分を変えよう、大変なことを頑張って耐えている自分を変えよう、と。
「大変なんだろうか、これが」と思うんです、まず。「どうってことないじゃないか、こんなの。全然大変なことない。資金繰りが大変だけど、こんなの今月にかぎったことじゃないからどうってことないよ」と思って、青ざめていたらいいんです。
普段は楽で、たまに資金繰りに苦しくなったら、どうしようかとうろたえてしまうけども、「どうってことないよ、何とかなるさ」と、心をパッと切り替えていく。この切り替えができるかどうか、ですね。
ねばならないというものは、モロに体に来ます。責任を持ってしなければいけないと考えると、必ず来ます。その逆をやるわけです。
そうすると元気が出てきて、エネルギーが出てきて、どんな艱難辛苦も乗り越えられるんです。
修羅場を乗り越えてきた人や内面の力を持っている人に、暗い人はあまりいません。本田宗一郎さんでも盛田昭夫さんでも、みんな明るいです。
カリスマ性を持っている人で暗い人っていないでしょ。みんな明るいです。
もし暗かったら、カリスマ性があるとは言えませんね。カリスマ性を持っている人は絶対明るいわけです。
つまり、ハードで、劣悪な環境の中を明るく乗り越えてきたという内面の精神が、カリスマ的エネルギーとか波動とか霊界を持っているわけです。
人はみんな、それに引き寄せられる。運も引き寄せられる。お客さんも引き寄せられる。
そういうことを考えたら、誰でもカリスマになれるんだ、と。典型的なカリスマの私が言っているんですから、間違いありません。
うちのオーストラリアのゼネラルマネジャーであるマイク・ガッソンという人が言っています。カリスマ性のまったくないのはアカウンタントだ、と。
確かにそのとおりで、カリスマ性のある税理士って、あまりいないですね。カリスマ性のある公認会計士っていますか。あまりいないでしょ。
公認会計士とか税理士というのはカリスマ性のない人間ばかりで、カリスマ性のある公認会計士っていますかね。
もしいるとするならば、節税の名人なのかもしれませんけれど、そのうち捕まりますね(笑)、税務署が必ずチェックしますから。
カリスマ性のある弁護士ならいます。社会正義を貫いている弁護士なんかには、それなりにカリスマ性があります。けれど、カリスマ性のある税理士となると、まずいないでしょうね。
カリスマ性のある経理部長もいません。そういう経理部長がいたら、その人は社長になるべきですね。ものすごいカリスマ性のある経理部長っていないです。
カリスマ性というのはやはり、言葉を発し、人と触れなければ生まれてこないし、劣悪なる環境、あるいは困難といったものを乗り越えていく明るさがあるわけです。
明るさがあるというより、切り替えが上手なんです。もちろん、仕事に対する責任は果たすんですけれど、ねばならないと思わない。
喜び、楽しみとしてやっていく。ねばならないと思わざるを得ないこともあるんですけれども、それと同じだけ、無意味の意味、無関係の関係、無目的の目的のところでの楽しみを持っていて、それを帳消しにする。
すると、体に来ない、頭に来ない、心に来ない、ノイローゼにもならない。それが一般社員との差です。
そういうふうにやっていけば中小企業の社長は、誰でもみんなカリスマ性を持つことができます。
ひと言で言えば、人間力の訓練ですね。人間の持っている力、人間力の訓練です。
これが今日、皆さんにまず申し上げなければならないことでございます。
私もえらく腎臓が重くて仕方がないんですが、ランラランランランラランランと言って、周囲に怖い思いをさせながらだんだん回復してきました。
ああでもないこうでもないと話していきながら、少しずつ回復して、何とか乗り越えようとしております。
飛行機に乗るのも修業
明日からはまた外国ですけれど、飛行機に乗ったらもう、飛行機を楽しもう、と。スチュワーデスと仲よくなろう、と。
スチュワーデスの絵を描いたりして、飛行機を画廊に変えよう、と。俳句を詠んだり、英単語の勉強をしたり、飛行機を仕事の場と楽しみの場に変えていこう、と。そうすれば、飛行機に乗るのが苦でなくなります。
飛行機に乗ったら必ず、スチュワーデスさんに名前を訊くんです。向こうも覚えています。で、飛行機に乗って必ず尋ねられるのが、「何のお仕事ですか」というのと「大丈夫ですか」というものです。
飛行機に乗ったら、横になったままお祈りするんですが、笑いながらお祈りできないでしょ。
お祈りするときはやはり、真剣な顔で神様にプツプツプツブツ言うわけです。十時間も十二時間も、飛行機に乗っている間、クーッと祈り続けるわけです。
それが、スチュワーデスさんには何か、苦しいのを辛抱しているように見えるらしい。それで、「大丈夫ですか、大丈夫ですか」と、起こそうとするんです。
「もう起こすな」と。「お祈りしているんだから」とは言わない。
「ああ、大丈夫ですよ」と言うんですけれど、それでも、「お具合、悪いんですか」と、やたらと訊いてくるわけです。
「いや、大丈夫です」
「大丈夫ですか、大丈夫ですか」
もう、何回もお祈りを邪魔されるんです。
私はお祈りしているんですよ。しかし、その姿が苦しんでいるかのように見えるらしいので、毛布をかぶることにしたんです。
上からこう、毛布をかぶってお祈りしたんです。そしたら今度は、「半田さんはずーっと寝ておられますから」と。寝ているんじゃない、お祈りしているんだ、と。
で、毛布から顔を出してお祈りしていると、また「大丈夫ですか。頭、痛いんですか。おなか、痛いんですか」と訊きに来るんです。
だから、目をつぶっていても目を開けているかのごとく見えるように、まぶたに目を描いたんです(笑)。
まるでイースター島のモアイ像みたいな目ですけどね。ずーっと目をつぶったまま、「オーッ!」なんてスチュワーデスさんにあいさつするんです。
シンガポールエアラインに乗ったときなんか、「ミスター半田、ミスター半あれはどうですか、あれはどうですか」と二十七回、訊かれました。数えたんです、一回、二回、三回と。「Something to drink ?」とか「Hot towel?」とかね。「Do you want something to eat?」「No, thank you」もう数えました。
そしたら、オーストラリアに着くまでに二十七回、訊いてきましたね。それからはもう、乗ったらすぐにガーッと寝ることにしています。
ところが、それでも起こしに来るんです。
「ミスター半田、ミスター半田」と。何かと思ったら、「Hot towel ?」「No, thank you. No, thank you.」(笑)
だから、最初に言うんです。
「お願いだから起こさないでくれ。サービスとは何だと思っているんだ?私は眠りたいんだから起こさないのがサービス!」「はい、分かりました」と言って、横になるとまた、「ミスター半田、ランチはいかがですか」とか言ってくる。さっきのとは違うスチュワーデスが来るんです。お願いだから全員に伝えてください、と。
結局、その努力がカリスマ性をつくっていく。精神、肉体、頭脳、資金のやり繰り…。
こういった悩みや苦しみをいかに喜びと楽しみに変えていくのか、切り替えていくのか。重い気持ちにならない。
暗い気持ちにならない。ネガティブにならない。
明るく前向きに、積極的に変えていく。その切り替えがカリスマ性をつくっていく。精神力をつくっていく。中から輝きが出てくる力をつくっていくわけです。
この力に従業員も「はい」と言うし、取引先も「分かりました」と言うし、お客さんも集まってくる。
人、モノ、金が集まってくる霊力になっていくんです。それができる人が社長で、それができない者がランクの低い社員です。
社員は、言われたことだけやればいいんだし、決められた時間だけ働けばいいんですが、社長は結果が出るまで考え続け、結果が出るまで働き続けます。結果が出ないと会社が潰れますから、ずっとストレスがたまる。
しからば、これに勝つためにはどうするか。ずっとストレスがたまらない自分をつくっていったら、社長というものを超えたわけでしょ。
社長という仕事に振り回されている人間と、社長という仕事を超えて征服している人間。どこが違うのかというと、そこの考え方だと思うんです。
「随所において主たらしめよ」
臨済禅師は、「随所において主たらしめよ」と言ったけれども、これを平たく言うと、「どのような場所においても、環境に支配されるのではなく、環境を支配する主でありなさい」ということになります。
本当はもう少し、禅的に深い意味があるんですけれども、平たい言葉で考えても立派な言葉です。
随所において主たらしめよどのような場所においても、環境に支配されるのではなく、自分が支配する。
環境を支配する主でなければいけない。随所において主たらしめよって、素晴らしい言葉ですね。臨済禅師の言葉です。「臨済録」に書いてある言葉です。
そう考えてください。その一つひとつが自分という人間のカリスマ性をつくり、内面の陰の力をつくっている。
指導力とか人間の実力の中身を形成しているんだと思って大切にしなければいけない。そうじゃないと、いつもいつも責任と役割と問題と悩み事の雲におおわれて、悩んでしまいます。
社長が悩んでどうするのか。そりゃ悩みはあります。
しかし、社長というのは、従業員から悩みを相談されて、「これこれこうだよ」と、答えを出さなければいけないんです。
その社長が、「どうしよう。お前だったらどうする?」と、従業員に相談してたらどうなりますか。
「どうしましょう、社長」「どうしたらいいんだろう。
どうしよう、どうしよう、どうしよう」では、潰れるしかないじゃないですか。
そこを、「いや、こうするんだ!」と言うと、「さすが社長!」と尊敬されます。
そうなるためにはやはり、普段からものの考え方を鍛えていかなければいけない。それが中小企業の社長業の実力と霊力、カリスマ性の中身をつくっていくんだ、と。
それができないのは下のほうの人間。それができているのがトップレベルの中小企業の社長。本田宗一郎さんとか松下幸之助さん、盛田昭夫さんなんか、みんな創業者の社長で、しかもあれだけの大きな企業に仕上げた人です。
その彼らがどれだけの中身を持っているんだろうか、どれだけの霊力と魅力を持っているんだろうか。
それに対する答えとして、松下幸之助さんは「事業は人なり」と言ったんです。事業は人なり。
それを聞いた大宅壮一から、「あれだけ大きな事業をつくったから、それだけ自分は立派な人間だということを言いたいのかね」と言われて、松下幸之助も固まってしまって、何と言っていいか分からない。
それ以来松下幸之助さん、あまりこの言葉を言いませんでした。
「事業はアホです」とか「事業はアホでんがな」と言ったらおかしいけどね(笑)。
「事業は人なり」と、第三者が言う分にはいいんだけれども、本人が言うと、大宅壮一みたいに、「それだけ大きな事業に成功したから、私は大きな人間ですということを言いたいのかね」と言われかねません。「事業はみんなのおかげです」とか「お客様は神様です」と言えばいいわけで、「事業は人なり」というのは、第三者が客観的に言えばいいんです。
「いやあ、そうですかね、事業は私の思うところはアホです」「バカになってやることですよ」「事業は皆さんのおかげですよ」「お客様は神様ですよ」と言うと、第三者が「事業は人なり」と言ってくれる。自分が言うと、大宅壮一みたいに言われます。
一般の人は、そこまでコメントするだけの智恵が働かないけれど、冷静に考えたら、大宅壮一の言うことが本当だなと思います。
でもやはり、人、モノ、金を集めていくカリスマ性と内面の力、明るく人を引っ張っていく霊力、精神力、それを応援する背後霊団、そして、それらに支えられる形で運気があり、人間としての魅力があり、目に見えない世界からも魅力がある。最終的にそういう人が大きなものをなし遂げていくわけです。
それを大きくしたのは戦後経済をつくってきた方たちですけれど、中小企業のオーナーというのは、それを小さくしたミニチュア版。それが中小企業の社長像だと思うわけです。
大きな会社の言っている経済の理論とか情報がいろいろとあります。それももちろん大事ですけれど、本質的なものは何なのかと言えば、あまり難しく考えないで、毎日毎日の生活と月末の支払を着実にこなしていく。
そして、仕事上の悩みや苦しみがあったら、悩みや苦しみと受け止めないで、カリスマ性の訓練、人間性の訓練、陰の部分の養成をしているんだ、と。
そういうふうな中身を磨くためには、男は根性だ、粘りと度胸だ、ええ格好したらあきまへん、と。
こだわりを捨てて、謙虚に何でも粘り強くしていく。そうやって取り組んでいけば、最終的にその人の実力になるんだ、それが経営者としての実力だ、と。
そういうふうに大きく考えたほうが私はいいんじゃないかと思います。そういうことで、ほかにも言わなければならないことがあったんですけれど、皆さんの顔を見たら、全然違うことを言ってしまいました。
たぶん、今回初めて参加された人が三割ぐらいいましたし、古い会員さんも原点に返る必要があったのでしょう。
経営を続けているうちに、いつしか分からなくなるんです。だから、ときには原点に返る必要があるわけですね。
仕事上の悩みとか葛藤とか相談ごとがあったかもしれませんけれど、それをどうとらえていったらいいのかというポイントは、大きいところでは今申し上げたようなことでありまして、これが井草八幡さんの今日の答えです。
井草八幡のお告げ
最後になりますが、今日、こういう「お告げ蟹」という絵を描いたんです。これは、研でどこか蟹の店に行ったときの蟹の絵を描いたものなんです。
ここに余白があります。これは、蟹のお告げを書いてあげようと思って、わざわ余白にしておいたんです。
絵としてはちょっとバランスが悪いですけれど、それは、この余白にお告げを書いてあげようということでして、お告げ色紙なんです。
これを今日、二次会まで残る人たちのために使おうと思います。(拍手)
一次会だけの皆さんは、「じゃあ、私たちはどうなるんだ」と(笑)。
私もちょっと疲れたら目が飛んでしまいます、こっちへ。元気になったら目が戻ってくるんですけどね、黒目がね。疲れるとついこっちへ飛んでしまうんです。
こればっかり三時間もやると、みんな怖くなりますね(笑)。「先生が壊れ始めた」と。こればっかり三時間やると、怖いですね。
まあ、そういうことで、二次会の皆さんにどういうふうにお知らせをしたか分かりませんけれど、「弁松」というのを知っている人、ちょっと手を挙げてください。
知らない人?ああ、そうですか。関西の人は知らないんじゃないかと思ったんですけどね。
新幹線に乗ると、N食堂のあのまずいお弁当とか、車内販売で売られているあのまずい弁当とかあります。
あんなの、死んでも食べたくない。
それならすきっ腹のまま三時間辛抱したほうがいいですね。名古屋だったら、名古屋駅の構内のきしめん屋さんがおいしいですし、大阪駅にも伊丹空港にもなかなかおいしい店があります。
タコ焼き屋さんもあります。そこで食べたほうがずっといいです。
しかし、おなかがすいていたときには、八重洲のこっちに立ち食いそばがあります。ざるそばときつねうどんを食べますけど、五分で食べられます。
それで、お弁当はというと、N食堂の駅弁とかってあるでしょ。死んでも食べません、あんなものは。まずくて高いし。
では、何を食べるかというと、弁松のお弁当なんです。それは江戸時代からあるお店で、それを知ってエンゼル会さんなんかよく使っています。三十個以上まとめて買うと届けてくれます。
しっかりと濃い味で煮つけていて、ご飯もおいしい。八重洲の大丸デパートの地下に弁松のお弁当があります。
以前、大丸の地下へ行ったときにそれを買ってきて食べたら、N食堂の弁当の十倍おいしかった。タコなんか、しっかり煮てあります。私は幕の内弁当はあまり好きではないんです。
というのも、どれかまずいのが必ずあるでしょ。時間がたって冷たくなった魚のフライとかコロッケとか、鮮度のよくないシャケとか、そういうのがあったらつい残してしまいます。
ところが、一柱も漏れることなく食べられるのが、弁松のお弁当なんです。
ですから、会社で何かあるときは必ず弁松を頼むんです。関西にはないかもしれないけど、東京駅へ行くときにはいつも八重洲の大丸の地下へ買いに行きます。
その弁松も今度、新しいシリーズが出ました。一万円とか九千円の弁当が出たんです。しかし、九百八十円からあるんです。
で、抽選で一万円のが当たったり、九千円のが当たったり、三千円のが当たったりして、弁松のお弁当のランクのくじ引きをやるのが今日の二次会です。(拍手)一度食べたら、いかにおいしいかが分かるはずです。
エンゼル会でも弁松に頼むんです。一生の時間は決まっているんですから、わざわざ高くてまずいものを食べることはないと思うんです。
N食堂なんかに騙されたらいかんと私は思うわけ。弁松は最高です。
二次会に残る人は、ちょっと手を挙げてください。
二次会に残らない人、手を挙げてください。その人たちはこのような劣悪な環境に、劣悪な時間に来て、劣悪な状態でずっとお話を聞いていましたから、本当は、私もそんな新人の方々が参加されたために、えらい辛い思いをしているんです。今でもまだ重いんだけれど、くそーっと思って来ました。
今日のお告げに、私が今から何かサインいたしましょう。何かいいことがなければね。ご苦労さんでしたということで、二次会に残らない人たちのためのお告げを書いて差し上げましょう。(拍手)
それでは、二次会に残る人はちょっと奥へ行ってください。
菱研で色紙を書いてもらうと、「もっと仕事やれ」とか「もっと丁寧にやれ」とか「お祈りしてやれ」とか「リラックスしろ」とか「真剣にやれ」とか、私から言われているような気になるんじゃないんですか。
これ、いいと思いませんか。今から全員に「やれ色紙」を書いて差し上げましょう。
二次会に残る皆さんには、井草八幡さんの井草八幡お告げを書きましょう。井草八幡の今日のお告げを書いてみましょうか。
色紙作製
「やればやっただけの魂の栄養となる。骨惜しみするなかれ」というのが今日の参拝のお告げです。はい、次、白隠さん。
「向こう所敵ばかり。腰低く、頭低くて味方あり。富はころころ転がり来たる」
次のこれ、前半の字と後半の字、違うでしょ。前半は臨済さん、後半は白隠さん。
「適当にやれば適当の人生となる。大きく思い、大きくこらえ、大きく努めて、大きく実る」
大きく思ったら、大きく辛抱して、大きく努力して、大きく実るんだよ。小っちゃく思って、小っちゃく努力して、小っちゃくこらえたら、小っちゃいものしか実らない。
同じ人生なのに、どれだけの実りがあるかというのは、思いと忍耐と努力のレベルが違うわけで、どれも中途半端というのは、結局、中途半端な人生なんだ、ということです。
人がたくさんいて盛り上がるのもいいけれど、人が少なくて、狭いところでぎゅうぎゅうになりながらやるのもいいもので、多かったら多いなりに、少ないなら少ないなりの楽しみ方があるわけです。
人が少ないときほどめちゃくちいい内容にしようと努力しています。人が多いと適当にやるわけではないんですけれども、より一層、密度の濃いものを、と思っています。
だから、人がたくさん来ようと少なかろうと、そんなことはどうでもいいじゃないか、私が使う時間も集中力も気力も、みんな同じです、数が多くても少なくてもね。
その自分の使う時間と労力とエネルギーと、人生の一コマの時間がもったいないから、人が多くても少なくても、意味があってもなくても、めちゃくちゃいい神業をするんだと思って、いつも生きているわけです。
人が多かったら盛り上がって、少なかったらやる気が出ないというのは、普通のやせた根性の人間のやることで、その人は自分の時間も無駄にしている。
つまらないひとときを送るということは、一生の時間を無駄にしていることなんですからね。自分の時間を大切に使いたいために、人が多くても少なくても、とにかく有意義なるものに絶対すると思っているわけですから、ね、よかったでしょ。
これが二百人とか百何十人もいたら大変ですけれど、五十人ぐらいならやれますね。少なくてよかったでしょう。
そういう意味で、めちゃくちゃ行きにくいところでやるときは、チャンスです。行きにくい場所に、行きにくい時間で、行きにくいような状態。
月末の忙しいときとか決算期とか、とくに三月三十一日にやる神業とかね。
その前に北海道のどこかに行くとなると、また旅費はかかるでしょう。決算期の忙しい三十日、三十一日とか、平日とかね。そういうふうにわざと設定して、行くときはめちゃくちゃにいい神業をするわけです。
なかなかいいと思いませんか。費用とか料金とか玉串とかで人を選別する方法もありますけれど、全然違う選別方法もあるということです。
ということで皆さん、頑張ってください。
以上、終わります。(拍手)
