耳学問で劇的に変わる経営力 深見所長講演録22(Vol.2)

耳学問で劇的に変わる経営力 ~平成10年6月13日 東京ビッグサイト~

人によって異なる勉強法

人間には、いかにも賢そうな人とそうじゃない人がいます。いかにも賢そうな人には、もう言うことは何もないのではないかと思いますが、この現実界では、必ずしも賢ければいいというわけではありません。

一見賢そうでも、いざとなったら何もできない人もいっぱいいます。それだったら、「あの人の頭の構造はどうなっているのか分からない」と言われるくらい、頭がぐしゃぐしゃしていたとしても、いざとなったときに抜群の能力を発揮できるほうがいい。

だから、賢そうな顔をした人を見ると、つい、「あなた、もっと頭の中をぐしゃぐしゃにしなさい」と言いたくなります。

逆に、「見るからに何か危ういなあ、この人は」というような人は、もっとしっかり勉強して、賢くならなければいけない。

そうやって、ある程度の理解力を持ってやっていかないと危ないんじゃないかと、つい言いたくなります。

ですから、ひと口に勉強方法といっても、やはり人によってさまざまなのです。

小さいころから勉強が好きで好きで、中学・高校と一生懸命に勉強して、大学でも一生懸命に勉強した人には、いまさら勉強方法を教える必要もないでしょう。

けれど、そういう人は古典など、学校では教わらない学問を学ばなければいけません。

反対に、あまりにも勉強をしてこなかった人の場合は、ある程度の年齢になって勉強したところで、突然賢くなるはずがありません。貧しい頭脳、弱い精神力、ルーズな性格、怠りぐせといった負の性格が、ある日突然、改善される道理はありません。

しかし、少しずつ改善していく方法ならあります。

勉強方法は、幼稚園入試や小学校入試に向けて幼い子を教育するのと、次の小学生の教育では違います。

もちろん、小学生でも低学年のときの勉強方法と高学年のときの勉強法は違います。

そして、中学生、高校生、さらには浪人生。浪人生でも、一浪、二浪、三浪、四浪と、浪人生活が長くなればなるほど勉強方法を変えなければなりません。

幼児教育のポイント

そのように、同じ学生でも勉強方法はかなり違いますから、勉強方法については一概には言えませんし、一概に教えることはできないのです。

相手によります。人によります。もちろん年齢にもよります。

たとえば、幼児教育の場合ですが、やはり早生まれの子は損です。

私も誕生日が三月十八日で早生まれなのですが、四月一日に生まれた子は、四月二日生まれの子とたった一日しか違わないのですけれど、学年が一年違う。一学年前に組み入れられるわけです。その分、大きなハンディがあります。

それから、成長の度合いの早い子と遅い子、いわゆる早熟型の子と晩熟型の子がいます。

この場合、晩熟型の子はやはり不利です。というのも、幼稚園入試などではハキハキと自分の考えを言えるかどうか、要するに、親離れができているかどうかが見られるからで、お母さんがそばから離れて一人になったらウワーンと泣き出したりしたら、それでもうダメです。

そうやってその子の成熟度合いを見るわけで、幼稚園入試や小学校入試の場合は、それが一つの決め手にもなっています。

面白いことに、大人になっても親離れ、乳離れができない人がいます。典型的なケースを言いますと、就職試験で、「尊敬する人は誰ですか」と問われて、「お父さん」と答える人がいます。

ときには、「お母さん」と答える人もいますが、そんなふうに答えたら、それだけで即、不採用になる可能性が非常に大きいわけです。

たしかに、その人はお父さんやお母さんを尊敬しているのでしょうが、それでは、お父さんは弘法大師よりも偉いのか、伝教大師最澄よりも偉いのか、お釈迦様よりも偉いのか、日蓮上人よりも我が強いのか(笑)、日蓮上人より法力があるのか、諸葛孔明よりも英明かつまた忠節を尽くしたのか、イエス・キリストのようにみんなから尊敬されたのか、孔子のように深い学問を後世に残したのか、老子のように天地と一体となる道を体得したのか、と。

もちろん、お父さんはお父さんなりに頑張ってはいるでしょう。ですから、お父さんに敬愛の情を持つのは分かります。

しかし、「尊敬している人はお父「さん」と答えるということはどういうことなのか。「じゃあ、お父さん以外に尊敬する人はいないのか」と言われてしまいます。

つまり、社会性がない、と判断されるのです。お父さんは一生懸命に働いてくれている、頑張って仕事をしている、そういうお父さんを尊敬するのは分かります。

自分の父親ですから、もちろん尊い存在でもあります。

しかしそれでは、松下幸之助よりも大きな仕事をそのお父さんはしたのか、と。

そういうことも考えずに、ただ一生懸命に頑張っているからという理由で、「尊敬する人はお父さん」と答えるというのでは、やはり社会性がない、親離れができていないと判断されるわけです。

だから、たとえ「父」「母」と書きたくても、就職試験のときにはそう書いてはいけないのです。夏目漱石とか森鴎外とか、適当に書いておけばいいのです。

夏目漱石のどこを尊敬するのかと尋ねられたら、悪妻に打ち勝ったからです(笑)、とかね。とにかく誰でもいいから、身内以外の人を書くべきです。

身内を尊敬していると答えた瞬間、それでもうアウトです。「父」「母」と書いただけで不合格です。

「ほかに尊敬する人はいないの?キミ」

「でも、お父さんのことを本当に尊敬しているんです」

「ああ、そう。親子仲よく生きてください。でも、うちの会社では要りませんから」と言われるのがオチです。

もし皆さんのなかで、そういうことを書いた記憶がある人は、しまったと思わなければいけません。

もちろん、肉親をこよなく敬愛し、愛するのはいいことです。しかし、社会性となった場合、ストレートに自分の気持ちを表現してはいけません。

就職試験では社会性があるかどうか、親離れ、乳離れができているのかどうか、これを見られるからです。

ですから、自分の子どもをそういう人にしたくなければ、幼児教育からしっかりやらなければいけません。

さっきも言いましたように、幼稚園入試や小学校の入試では、いかに親離れしているのか、いかに自主的に自分の意見が言えるのか、という成熟度合いを試すわけです。

だから、幼児教育では自分の意見を言う訓練をする必要があります。これも勉強です。

低学年児童の教育

それから、小学校低学年になると、いかに勉強の習慣をつけるかということがメインになります。小学校低学年のころはみんな遊んでいます。

そういう環境のなかで、いかに勉強の習慣をつけていくのか。昔は「読み、書き、そろばん」と言って、文章が読めて書けてそろばんができれば、一応、一人前になっ社会へ出ていったわけですけれど、いまの小学校低学年はどれだけ勉強の習慣が身についているか、と。

それが大切で、勉強の対象物は何でもいい。何を勉強していてもいいのです。とにかく、勉強の習慣が第一です。

このころに英会話を勉強させる親もいます。たしかに、早くから英語を習わせれば、英語の感覚を身につけるという点ではプラスになるかもしれませんが、単語を覚えてもすぐに忘れます。

だから、小学校の低学年で英語を勉強してもあまり効果はないのではないでしょうか。

実際、あとあと大きなプラスになったという話はあまり聞いたことがないですし、そういう人を見たこともありません。

せいぜい、外国人に対する抵抗感が薄らぐとか、その程度です。英語になじむことはできるでしょう。しかし、すぐに忘れます。

コンピューター教育なんかでも同じです。なじむことはできるでしょうけれど、それ以上の効果となると疑問です。

小学校の低学年は興味の対象がどんどん広がっていく時期ですから、好奇心を大事にして奔放にやらせたほうがいいと思います。

そういうなかで勉強もするという習慣をいかに身につけさせるか。これができないとやはり、落ちこぼれになってしまいます。

最低限、「読み、書き、そろばん」はできなければいけません。いまで言えば、算数の計算と文章の読解力、そして漢字を書く能力は身につけないといけません。

そのためには、一日十分でも二十分でもいいから勉強する。その習慣がついていないと、高学年になってから苦しむことになります。

抽象概念が発達する小学校中学年からの教育

だいたい小学校の四年生ぐらいになりますと、発達心理学から言って「抽象「概念」というのが発達してきます。二分の一とか0.5とか、こういうふうな抽象概念が小学校の四年生ぐらいから発達してきます。

ちょうどそのころ出てくるのが、割り算とか小数点とか分数で、これが子どもにはなかなか分かりにくいのです。1、2、3、4、5なら分かるんですけれど、二分の一となると、どうも分かりにくい。それでも、三分の一なら指が三つの関節から成っているから、三分の一というのは第一関節から先だな、と。

ところが、五分の一となると、指を見ただけでは分かりません。

それから、どんな子でもだいたい100までは計算できるんです。両手を使えば10までなら計算できます。

20になると、両手の指に加えて両足の指。さらに20から24になると、男の子の場合は足せますけれども(笑)、体を使っては数えられなくなります。

そこで躓くと、算数が苦手になる。算数は不得意だと言う子が出てきます。だいたい小学校三、四年で半分くらい算数が嫌いになると言われています。

こういうとき得なのは、やはり早熟タイプの子です。逆に、成長の度合いがゆっくりしている子は不利です。

このとき、しっかりと算数を勉強させておかないと、本当に落ちこぼれになってしまいます。

算数嫌いになってしまいます。それから、小五までで、一生涯に使う常用漢字の約九十パーセントを習いますから、このときも注意が必要です。

私なんかは、小学生のころは夢中になって遊んでいましたから、学校で漢字を習ってもすぐに忘れてしまいました。とくに簡単な漢字を忘れるんです。

誰も知らないような難しい漢字は知っていて、「こんなのよく知っているね」と言われたんですけれど、誰でも知っているような漢字、簡単な漢字、辞書を引 いたら分かる漢字だと、すぐに忘れてしまう。

要するに、記憶の定着が遅いんです。

小学校のときには児童会委員長をやっていたという人がいます。それくらいだから、もちろん早熟で勉強がよくできたんでしょうけれど、私が分からない漢字があるときなど、その人に尋ねると何でも答えてくれます。

書道もやっていたので、「先生、こういうふうに書きます」と、筆順から何からピチッと教えてくれます。いままで百回以上聞いていますが、一度も間違ったことがありません。

その代わり、難しい漢字は知らないことが多い。その人だけなのかもしれませんが、小学校のとき優秀だった人というのは、概して常用漢字が得意です。

しかし、常用漢字をいっぱい知っているからといっても、どうってことありません。

分からないときには、その都度辞書を引けばいいわけですから、大勢に影響はないです。もちろん、自己弁護をするわけではありませんけれど・・・。

私はもう、好奇心の塊のような人間でしたから、一つのことをずーっと探求していくということは得意でした。

しかし、早生まれで晩熟型だったので、学校の勉強はできなくはなかったけれど、そんなに優秀というほどではありませんでした。

それよりも、近所の屋根を忍者走りしたり、あるいは、いかに速く、正確に刺せる手裏剣をつくるか、ということに夢中になっていました。

いつもつくっていました、ホントに。ですから、学校の勉強はまあまあで、「太陽のごとく輝く成績」と言って、33、33、3(笑)。私の弟は「アヒルの成で、12でした(笑)。

まあ、私の場合はそんな感じでしたけれど、興味があったらコンピューターだとか語学だとか、そういうものをやらせるのもいいし、本を読ませるのもいいでしょう。

早熟型の子ならできます。しかし、興味もないしやる気もない子に無理やり勉強させても、ますます嫌いになるだけです。

お母さんが「勉強しなさい、勉強しなさい!」と厳しく言ってもできません。やったとしても嫌々やるだけです。

小学生に夏目漱石を読ませるのは是か非か

とくに、本を読ませる場合には注意が必要です。たとえば、小学校の五、六年生、あるいは中学一年生のころに、いわゆる学校の指定図書とか学校推薦図書として、夏目漱石だとか志賀直哉の小説を読ませたりすることがあるのではないでしょうか。

ところが、夏目漱石の小説、それから芥川龍之介の小説は大人のために書かれたもので、大人が読めば「なるほど」と思うかもしれませんが、子どもには分からない。

あくまでも大人に読まれることを意識して書かれた小説であっ子どものために書かれた小説ではありません。

ですから、夏目漱石にしても芥川龍之介にしても、小学生、中学生が読んだところで、本当の意味が分かるとは思えません。

そういう小説を、小学生のとき、あるいは中学の一年生のころに読んだり、読書感想文なんか書いたりしたらどうなるか。

十八歳、十九歳になったころには、もう飽きてしまう。本当はそのころから読むべき内容の小説なのに、すっかり飽きてしまう。

さらに、二十代、三十代になったら、小説の致死量に達した感じで、まったく読もうとしなくなります。言うなれば、文学に押し殺されてしまうわけです。

ですから、あんまり早くからそういう小説の類は読ませないほうがいいと思います。小学生に夏目漱石が分かるわけがありません。

もちろん、ストーリーは追っていけます。解説とか読んで、「ああ、そうなのか」とは思うでしょうけれど、本当の意味なんかは絶対に分かりません。

「女子高生が、「愛読書は夏目漱石です」なんて言うのを聞くと、まずうそだと思う。本当に愛読するほどの中身を感じているのか」というご意見を聞いたこともあります。

先ほども言いましたように、大人のために書かれたものですから、小学生、中学生のときにああいうのはあまり読まないほうがいいです。

あまりに読みすぎて致死量に達したら、それ以上、知力が伸びなくなります。

要するに、興味が湧かなくなるのです。

中学英語を正しく学ぶポイント

それから、中学一年になると英語の授業が始まります。最初のうちは、 This is a pen.とか、 dogとかcatとか、 Do you have a pen?とか言って、子どもたちも喜んでいます。

ところが、中一の終わりぐらいから英文法が難しくなってきて、そのころ英語嫌いになる生徒が半分くらいいます。

三人称単数現在は分かります。現在進行形も分かる。未来形も分かります。

しかし、過去進行形というのがもう分からない。 I was going.なんて、何で過去が進行するんだ、と。

過去は過去じゃないか、済んでしまった過去がなぜ進行しているんだ、と。

たしかに、過去撮ったビデオを再生すれば、現在進行するけれど、過去進行形というのはいったいどういうことなのかが分からない、と。

次には、現在完了形というのが出てきますが、現在は現在じゃないか。現在が完了するというのはどういうことなのか。

しかし、現在完了形ならまだいいんです。その次に出てくる過去完了形なんて、さらに分からない。

過去は当然完了しているし、過去は過去なんだから、過去形じゃないか。それなのに過去完了形というのはいったいどういうことなのか、理屈で考えてもさっぱり分かりません。

こういう英文法が次々と出てきます。するともう、英語が嫌いになってしまう。だから、この時期にしっかり勉強しておかないといけません。

だいたい、中一中二、中三で習う中学英語が英語の基礎で、これを完璧にマスターすれば日常の英会話のうちの九十パーセントぐらいはカバーできます。

日常会話で、中学一、二、三年の教科書以上のものはありません。

中一、中二、中三の教科書の英文が聞き取れて話せれば、普通の会話の九十パーセント以上はできます。

日本人の英語は、読んだり書いたりすることはできるものの、聞き取れないし話せないことが多いんです。しかし、中学校の教科書をマスターすれば、話せるようになります。

日本の教育制度はいいのか悪いのか

その後、高校に入ると英文法と数学がやたら難しくなります。その結果、数学嫌いや英語嫌いが急激に増えるんですけれど、だいたい高二ぐらいまで遊んで、高三から受験だということで勉強を始めるケースが多いですね。

このとき、中学英語の勉強をしっかりやっていたら、受験英語もどうにか理解できます。

高校の英文法はややこしいですけれど、だいたい分かります。ところが、中学英語をきちんとやってないと、いくら頑張ろうとしてもなかなか思うようにできません。

ですから、私の予備校では、中二の問題集から大学受験の英語をやり始めるのです。そうしないと砂上の楼閣で、全然頭に入らないんです。

大学に入ったらどうなのかというと、みんな遊びます。「やったあ、大学に通ったあ!」ということで、開放的な気分になって、ほとんどの学生が遊びます。

高校時代、あるいは浪人時代に、「遊びたかったら、大学に入ってから遊べばいいのだ」と言われていますから、大学に入ったら、遊ばにゃ損、損とばかりに遊びます。

しかし、大学院生になると別で、みんな真剣に勉強しています。

だから、「日本の大学制度は悪い、教育が問題だ」と言う人もいます。たしかに、そういう一面もあるでしょう。

しかし、全然勉強せずに知性も教養も乏しくクリエイティビティだけを追い求めるような教育がいいとは限りません。日本には日本のやり方があるわけです。

日本の経済が世界をリードしていたときには、世界の国々が日本の教育を称賛していました。

たとえば、アメリカのレーガン大統領、それからブッシュ大統領が、日本では小学生のうちから塾に通ったり、一生懸命に高等数学を解いているから、日本はあれだけハイテクノロジーで世界をリードするんだ、日本の教育は素晴らしい、と称賛しました。

称賛しただけでなく、アメリカの小学校に日本の数学教育を導入して、「この子たちが未来のアメリカを背負って立つんだ、もっと勉強せい、頑張れ」ということで、日本の教育制度を見習いました。

日本がハイテクノロジーでどんどん勝っていたあの時代、アメリカは日本を見習ったんです。

ところが、日本の経済がダメになったら、「必ずしもそうとばかりは言えない、大切なのはやっぱりクリエイティビティだ」と、日本の教育制度を否定する。

これがアメリカですから。そのときどきの都合で考えるわけです。

われわれ日本人もそうです。日本経済が元気のないときは、「日本の教育はダメだ、ダメだ」と自己否定するんですけれども、経済が復興し、国力が増してきたら、「それは日本の教育がいいからだ。とくに、小さいころから塾に通って、数学を一生懸命勉強しているからだ」と、日本の教育を自慢する。

「アメリカの子どもは全然勉強しない。ヨーロッパの子どもも全然勉強しない。

イタリアの子どもはあの年代から恋だ、歌だ、食べ物だと言っている」というようなことを言う人がたくさんいました。

すべてがご都合主義です。いまの経済状況がよかったら、それは教育がいいからだというふうに言うわけです。

逆に、いまの経済が悪かったら、教育が悪いからだと、教育のせいにするんです。

私が、紅海に行ったとき、そこでテレビを見ていましたら、永井道雄(平成十二年没元文相)さんがそのことを英語で言っていました。

「その国の教育システムがいいと評価されるか悪いと評価されるかは、そのときどきの経済状況によります。経済が強く、国力が増していたら、教育がいいと言われるし、落ち込んでいたら教育が悪いと言われるんです」と。

では、いま(平成十年当時)の日本の経済はどうなのかといったら、あまりよくありません。

だから、かつてはさんざんもてはやされていたものの、いまの日本の教育はよく言われないし、日本人自身、教育が悪いと思っています。

しかし、実のところ、日本の教育は日本人が思っているほど悪くはありません。

外国人のなかには、いまだに日本の教育を評価している人がいっぱいいます。

その外国人から見て、日本の教育のいいところは何かというと、日本の学生の平均レベルが高いということです。

東京大学を頂点に、京都大学などのいわゆる一流大学がいくつかありますが、その下には中堅大学がいっぱいあって、 三十三パーセント以上の高校生が大学へ行っているわけです。

三割以上の高校生が大学に進むんです。そのうちにかなりの部分が中堅大学に行きますから、日本の大学生はそんなに優秀ではないかもしれないけれど、そんなにバカでもないんです。

やたらと広い地域名を名前にしている大学は、だいたいあまりレベルが高くないですね。逆に、狭い地域を名前にしている大学、まあ、西荻大学なんていう大学はもちろんありませんけれども、東京大学とか京都大学とか、あまり広すぎない地域名を名前にしている大学のほうが優秀です。一橋大学は橋一本ですよ(笑)。

西荻大学なんていうのがあれば非常に優秀じゃないかと思うんですけれど、もし世界大学なんていう名前の大学があったとしたら、うんとレベルが低い大学だと思われてしまうかもしれません。

それは別として、日本の大学はバカでは入れません。とくに理科系の場合はそうです。中堅私立大学の理科系は、バカでは入試に通りません。

要するに、抜群に優秀じゃないけれども、そんなにバカじゃない人が中堅私立大学の理科系に行くわけで、彼らが卒業後、中小企業の研究室に就職する。

もちろん、大企業の研究室に就職する人もいるでしょうけれど、中小企業の研究室に行く人が多いはずです。

そうやって、中堅私立大学で物理とか化学とか工学を学んだ人が中小企業の研究室に入って、ハイテクノロジーに関するたくさんのパテントを取ったりしているわけです。

韓国の場合、大企業は育ちましたけれど、中小企業は育ちません。だから、経済の裾野が日本とは違うんです。

日本には優秀な中小企業がいっぱいあります。しかも、すごいパテントの多くは中小企業が持っています。

中小企業といっても、大企業に近い中堅企業ですね。従業員が百人とか二百人とかの中堅企業。そういうところがすごいノウハウ、ハイテク技術、それからパテントを持っています。

そういう企業が日本の経済の根幹を支えているわけです。

ですから、株価だけが経済の指標を示すわけではない。ある程度は経済状況を反映しますけれども、ほとんどの中小企業は上場していませんから、株価だけがすべてを計る指標ではないのです。

そういうことで、大学進学率が三十三パーセントを上回る国柄で、平均的に優秀な人が多く、中小企業が強い、これが日本の国力の秘密だ、日本の経済が強いのは、この教育制度がいいからなんだ、と言われているのです、外国から。

アメリカからもヨーロッパからも、そう言われています。

中小企業の中にもそれなりに一定数の大卒者がいて、彼らが研究開発し、ハイテクに関するたくさんのノウハウ、パテントを持っている。

そして、徹底した品質管理を行って、ピシッとした製品をつくっている。

部品でも何でも、日本製品の精度が高いのは、そういうところに理由があるわけです。

ところが、アメリカはどうかといえば、そこまでの技術がない。というよりも、そこまでの技術を持っている人が日本ほどいません。

どこの企業もみんな大したことがない。

優秀な人はすごく優秀なんですけれど、平均点がよくない。韓国で中小企業が育たない理由もそこなんです。

いままでは、クリエイティビティがないとか創造性がないとか、あるいは日本の教育はダメだとか言われてきました。

当の日本人もそう思っています。しかし、外国では絶賛しています。とくに数学教育がいい、と。

面白いですね。面白い矛盾です。経済がダメになってきたら、やはり教育が悪いんだと言うんですけれど、そう思っているのは日本人だけで、アメリカ以外の外国では相変わらず日本の教育を評価しているのです。

日本の教育制度の長所短所と、欧米の教育制度の長所短所

いまさら日本人が体質を変えてクリエイティブな教育をしても、二百数十年もクリエイティブな教育をしているアメリカに勝てるわけがありません。

クリエイティビティだけが勝負ですから、アメリカは。辛抱するとか、協調性を発揮するとか、チームワークでやっていくとか、そんなことができない国です。クリエイティビティだけが勝負です。

ですから、絶えず自分のご都合を優先して、今度はあれをしたい、これをしたいと言ってはコロコロ変わります。

クリエイティビティが第一ですから、信義、礼儀、恩義だとか、会社を何年もやり続けていくというコンティニュイティだとか、チームワークを持ってやっていくだとかが乏しいんです。

イギリスのヴァージングループを立ち上げたリチャード・ブランソンはクリエイティブな人ですけれど、信義や礼儀なんて一切関係ない。自分が熱気球をやりたいからという理由で、会社を社員ごと次々と売り飛ばしました。熱気球の次は飛行機をやりたいからというので、ヴァージン・レコードを社員ごとE MIに売ってしまいました。

だからブランソンを慕ってきた人は、「えっ、そんなことがあっていいの?」という感じです。ブランソン自身は、たしかにクリエイティブかもしれない。

しかし、自分の事業のことしか考えていないから、ああいうことができるのです。

しかし、人間はクリエイティビティがあればそれでいいのか、はなはだ疑問です。

もちろん、クリエイティビティがあったほうがいいでしょう。しかし、クリエイティビティだけが人間の値打ちを決めるわけではない。

クリエイティビティだけが人間を立派にするわけではありませんし、企業を立派にさせるとは限りません。

協調性、チームワーク、辛抱強さで、一つのことをずっと長くやり遂げていく人間だって尊いはずです。

ひらめきや発想には乏しいかもしれませんが、丁稚奉公から始まって二十年、三十年と勤め上げてきた番頭さん、手代さんにはやはり、ロイヤリティーがあります。

どんな人でも十年同じことをやったら必ず熟達します。これが昔ながらの老舗の教育なのです。丁稚奉公に来るような人はそんなに優秀ではないかもしれない。

けれど、家族的なつながりのなかで、五年、十年、二十年と辛抱してやっていったら、熟達してきます。

そのほうがよほど会社の力になります。

クリエイティビティがある人間は、次々と自分を主にしたクリエイティブな世界に行こうとしますから、定着しないんです。

これがアメリカです。自分のご都合で人を平気で裏切ります。頭ごなしに勝手なことをします。政界を見ても、経済界を見ても、そういう人ばかりです。

もちろん、悪いところばかりではありません。いいところもいっぱいあります。どんな個性でも受け入れて生み出していこうというバイタリティーがあるし、創造性があります。

それは長所です。しかし、長所ばかりではない。必ず欠点もある。

日本はクリエイティビティがない、と言われています。

けれど、欠点ばかりではない。長所もあります。物事にはやはり表と裏があり、角度を変えて見れば長所になったり短所になったりする。

それが個性というものであって、悪い面ばかりではないわけです。逆に、いい面ばかりでもない。これが柔軟な正しい物の見方だと私は思います。