CHAGE & ASKA(チャゲ&飛鳥)
《プロフィール》
シンガー・ソングライター。ともに1958年福岡県生まれ。大学在学中に中学同級生仲間のチャゲと飛鳥涼が組んで、第1回ヤマハ・ポピュラーソング・コンテストに出場、入賞する。同年チャゲ&飛鳥(のちのCHAGE&ASKA)を結成、「ひとり咲き」でレコード・デビュー。パワフルでロック色の強いステージングで多くのファンを魅了する。
以後「流恋情歌」「万里の河」などのヒットを生み出し、武道館などでのビッグ・コンサートを大成功に収める。 1992年シングル「SA Y YES」はドラマ主題歌ともなり売上数270万枚、アルバム「TREE」は 216万枚を越えるヒットに。日本ゴールドディスク大賞など多数受賞。
日本の音楽ファンなら「知らない人はいない」といっていいほどの人気男性デュオ。 CHAGE&ASKA。
日本レコード史上ナンバーワンの売上実績を持ち、現在、なおも記録更新中。大ヒットしたシングル曲「SAY YES」は、300万枚以上も売れているとか。
猛烈な勢いで売れまくっているわけです。本当に、凄い人たちですねぇ。ちなみに、99年度のレコード売上は114億円を突破。ドラマの主題歌やCMソングにと、各TV局や企業では今一番使いたいアーチストだといわれています。
そういえば、「SAY YES」は、フジTV 系列で9年夏に放映されたドラマ「101回目のプロポーズ」の主題歌。
また、アルバム「TREE」や「スーパーベスト」も各200万枚を超える勢いを示していますが、過去、200万枚を超えシングルは小田和正の「Oh!Yeah!/ラブ・ストーリーは突然に」だけですし、アルバムではユーミンの「天国のドア」だけ(ゴールドディスク大賞受賞時)。このことからも、彼らのすごさがわかっていただけることと思います。
ご存知のように、CHAGEこと柴田秀之。 ASKAこと飛鳥涼。九州出身で、ふたりの出会いはCHAGEの学校へASKAが転校してきたこと。
高校2年の時だったといいます。その後、同じ大学へ進み、18年「第16回ヤマハ・ポピュラーソング・コンテスト」に出場。嬬恋本選大会で入賞する。
アマチュアがここまでこれれば立派なもの。この段階でデビューが約束されてますから、普通ならすんなりデビューとなるわけです。
しかし、彼らは違いました。「どうせなら、グランプリを獲得して世界歌謡祭のチケットを手に入れてから」と、翌年に再挑戦するわけです。
せっかく掴んだチャンスを失う恐れだってあるのに、この辺が並の人間と違うとこなんでしょうね。
私も見習わなくちゃ。だって、昔からよくいわれますものね。「慌てる乞食は貰いが少ない」って(笑い)。
で、翌年の第12回ポプコンにも入賞しちゃうんですよ。
そこで、待ち兼ねていた各レコード会社が彼らの争奪戦を展開。 13年8月、ついにチャゲ&飛鳥としてレコードデビューするわけです。デビュー曲は「ひとり咲き」。最初のポプコン入賞曲で、ヒット狙いで作ったといいます。
その後は、3枚目のアルバム「万里の河」がヒット。約3万枚売り上げたこのアルバムは、中国大陸を悠々と流れる架空の河をイメージしたもの。さらに、翌年、アルバム「熱風」がチャートの1位へ。スターダムに踊り出ていきます。
しかも、デビュー2年目にしてツアーでの観客動員数が10万人を突破。これは、あのユーミンを抜いてニューミュージック界ナンバーワンの動員力でした。
大ヒットした「万里の河」に代表されるように、叙情色の強いフォーク・デュオでデビューしたチャゲ&飛鳥ですが、彼らは一つの色合いに染まることなく常に可能性にチャレンジしていきます。
レパートリーが多彩になったばかりでなく、各々がソロ活動をし、ソングライターとして他のグループや歌い手に曲を提供。
デュオ名もCHAGE&ASKAと変えます。例えば、 ASKAは少年隊の「ふたり」、光GENJIの代表作「ガラスの十代』『パラダイス銀河」などを担当。
この光GENJIのアルバムは、合計で100万枚を超える売り上げ。この時の印税でレコーティング・スタジオを建設する、というオマケまでつきました。
ちなみに、ふたりの音楽の傾向は、閃きとノリのいいアップテンポを得意とするのがCHAGE。
ASKAはきれいなメロディラインのバラード調でじっくりと聴かせるタイプ。かなり対照的ですが、これはふたりの音楽的な原体験の違いから生じているようです。
CHAGEの場合は祭り。子供の頃は小倉(現北九州市)に住んでいましたが、両親とも博多の出身。
ですから、CHAGEの体には、小倉の祇園山笠と博多のドンタクが骨の髄から染み着いているわけです。物心ついた時にはバチを握り、祇園太鼓を打ち鳴らした。あるインタビューで、彼は次のように答えています。
「祇園太鼓は、太鼓の両面を使います。片方の面がベースの役割でトット、トット、トット…というリズムを叩く。もう一方で、(ご飯の)おかずのように別な音やリズムを加えていく。
そして、そのリズムを聴きながら、さらにそのすき間を埋めていく」
長じてリズム&ブルースやロックに耽溺するようになりますが、やがて、こうし体験を通して、祇園太鼓のリズムが「シャッフル」であることに気づいていくことになります。
これに対しASKAは、子供の頃一番好きだった歌が渡辺はま子の「蘇州夜曲」。坂本九や加山雄三などの歌は歌ったが、演歌は聴かない。
日本の民謡は聴かない。そして、デビューするまで洋楽を聴いたことがなかったといいます。また、コンサートではイントロに「トルコ行進曲」などを流しますが、クラシックが好きな理由を次のように語っています。
「クラシックのコード展開というのは、奇抜な展開でいきますからね。僕はモーツァルトの曲って好きなんですよ」(同インタビュー)
さらに、今後はインスト(歌なしの器楽曲)をやってみたいとも。
「どっちかといったらね、やっぱ映画のサントラ的な感覚でしょうね、昔の。それはもう根底にあるもんですから、ついコード進行がそこにいっちゃうというのがあって、やりたかなくても自然にできちゃうんでしょうね。(映画音楽で好きなのは)「慕情」好きだし、「エデンの東」好きだし、あのへんの時代。
だから、映画音楽じゃなくてもナット・キング・コールも好きですね。だから、娘のナタリー・コールがこの前、死んだ親父の声に多重録音して一緒に歌ったアルバムは涙ものでしたね」
さて、ここ数年、彼らは毎年春になるとデュオ活動を中止し、 CHAGEは、「MULTI MAX」(マルチマックス)で活動。
98年には手塚治虫の漫画「火の鳥」に刺激されて、輪廻を主題に据えた「リバース」をリリース。
こちらのほうのサウンドには、リズム&ブルースやロック、そしてビートルズの影響がかなりストレートに出ています。
そして、 ASKAはロンドンへ。雑多な音楽を聴き、勘や感性に磨きをかけるためですが、彼の勘や感性の下地は子供の頃父に教えられて打ち込んできた剣道のようです。
「剣道は一人だけでも運動できる。その優越感を親子で楽しんでました。「勘のいい人間」でいたいという思いがあってね。
勘というのはすごく運動のと似てる気がするんです。脳の中にきっと、その勘をつかさどる部分があって、それは運動で養えるところと似てるか、もしくは同じところでしょう」
前世は?
このように、別々の活動をし始めたふたりには、デュオ解散の噂がつきまとっています。そこで、彼らの前世も深見先生に見てもらいました。
まず、リードヴォーカルのASKAさんのほうですけど、すごいんです。19世紀にナポレオン戦争に従軍したロシア軍の将軍だった。
フランス軍に捕らわれた味方の3000人余りの捕虜を救い出し、その他にも300人以上の人々の命を救っているとのことで、すごい徳を築いた方だったのです。
そしてまた、音楽的な才能にも恵まれて自らピアノを弾き、作曲などもしていたそうです。本当に才能溢れる方だったようですね。
それで、CHAGEさんのほうはどうだったかといいますと、ナント、その時のASKAさんの奥さん。えっえっ?!?!?ホント驚いちゃいますよね。
聞くところによると、ふたりは一度もケンカしたことがないといいますが、前世が仲のいい夫婦だったからなんですね、きっと。いつも寄り添うように歌っています。
とにかく、このふたりは「自分の力だけでなく、自分より一回り大きな人が後ろにいて作曲をしている」というような意味のことを語っていますが、彼らの曲は、きっと天からの贈物なのでしょう。
だから、あんな素晴らしい曲ができるんだ・・・・・・、私は心から納得してしまいました。
米米クラブカールスモーキー石井(ミュージシャン)
《プロフィール》
ミュージシャン。1959年茨城県生まれ。小学校から油絵を始め、高校1年のときに日展に最年少で入選。ほかにも二科展など数々の賞に入選、洋画家としての将来を期待される。1981年小野田安秀、大久保謙作と「米米クラブ」を結成しカールスモーキー石井としてリードボーカルを担当、ミュージシャンとして活動を始める。
1985年「SHARI SHARITHM (シャリシャリズム)」でアルバムデビュー。派手なメイク、奇抜な衣装などのファンキーなライブで人気を集める。
1992年「君がいるだけで」が大ヒット、日本レコード大賞に輝く。バンド活動で活躍する一方、レコードジャケットやステージデザイン、ビデオ制作などを手掛け、1994年には第一回監督作品「河童」の公開など、あらゆる表現分野で活躍する。
それではお待ちかね、米米クラブです。皆さまにも、CMナンバーなどでもうお馴染み。あのド派手でノリノリのバンドです。
今、もう最高に売れまくっています。最近、ヘンなネーミングのバンドが多いですけど、バンド名の「米米クラブ」は、アメリカのバンド「トムトムクラブ」をパロったもの。
リーダーでボーカリストのカールスモーキー石井は「日本のミュージック界きっての美男子」といわれ、彼の顔やステージ姿に「うっとり」という女性ファンはけっこう多いようです。
彼のステージネーム「カールスモーキー」の由来は「かるーく人を煙に巻くから」ということですが、加えて「何やら彼の存在そのものが超人みたい」な感じ。まぁ、一言でいえば、変わった人なんでしょうか。
カールスモーキー石井が文化学院時代の仲間、BON、ジェームス小野田、ジョプリン得能らと結成した米米クラブは、95年デビュー。
88年に出したアルバム「G O FUNK」で注目を浴びてスターダムに。99年のシングル曲「素顔のままで」でビッグ・ヒットを飛ばし、日本レコード大賞「ポップス・ロック部門」の大賞とゴールドディスク大賞を受賞しました。
また、「浪漫飛行」「君がいるだけで」などのヒット曲があり、映画「REX・恐竜物語」では主題歌の「ときの旅路」を担当しています。
ただ、彼らのすごいのは、ステージ案からメイク、スーツのデザイン・・・・・・などを、全て自分たちでやってしまうとこなんですね。
そのため、コンサートでは、チケット売り上げの五分の四ぐらいステージ費用にかけてしまうこともあるとか。
とにかく、大変に大がかりで超豪華物のステージがウリの一つ。彼らの華麗で楽しいライブステージには定評がありますから、皆さまにも、そうしたステージの豪華さなんかも楽しんでいただけたら、と思います。
前世は?
では、さっそく彼らの前世にいきましょう。何だか、ワクワクしちゃいます。
まず、カールスモーキー石井。
私はこれを聞いた時に、ホントぶっ飛んじゃったんですけど、今度は皆さまがぶっ飛んでください。
なんと彼は、伊勢神宮の宮司さんだったというんです。こうした縁も天の配剤によるのでしょうけど、驚きましたねぇ。
ただ、何らかの理由で追放されて名古屋へいってしまうんですが、歌舞伎や能、雅楽などの芸能を全て取り入れて、その後には芝居小屋も経営していたといいます。時代は江戸中期。
この時、深見先生は、彼の前世の名前まで出してくださいました。「オトクニヒコ」というのが、彼の前世での名前だったそうです。
そして、前世での彼のお母さんが、今生での彼の妹さんなんですって。彼女も米米クラブのメンバー。バンドで踊ってらっしゃるすごくきれいな方です。ご存知でしたか?
他のメンバーも、当時の彼の家族や芝居小屋の仲間だったそうで、この話を聞いた時に私は「ご縁とは本当にもう延々と続くものなのだなぁ」と、つくづく思いました。
で、ふと気がついたのですが、メーキャップといい、ステージ衣装といい、演出・舞台装置といい、彼らのステージはどこか歌舞伎と能などと相通じるところがありませんか?
やはり、リーダーのカールスモーキー石井が前世では宮司さんだったからでしょうか。そんな印象にとらわれました。
深見先生は、「彼らは、神様に献上するつもりでやっている」と、おっしゃっていましたが、彼らのステージは儀式。
神社の本宗で日々神に仕える身だった前世での記憶が、深く残っているのでしょう。だとしたら、納得できます。
また、メッセージもいただけたんです。それも紹介いたしましょう。
「このままでいくと3年で衰退してしまう」ということですので、将来的には、「別れて分派活動をするようになる」と、おっしゃっていました。
しかし、同時に、
「地味にやってこそ本物である」というご神示もありましたので、今後も頑張っていって欲しいと思います。
米米クラブのことでは、どうしてもカールスモーキー石井が中心になってしまうのですが、彼は天才というか、どこかしらヘンなところが多々あるようです。決し悪い意味ではありません。
より正確にいえば、凡人には窺い知れないところがあります。
例えば、高校2~3年まで3~4歳の幼児と砂場で遊んでいたんですって。もしかしたら、彼には他人とシンクロできる能力があって、相手が誰だろうとすぐに合わせられる。
だから、幼児たちの世界にもすんなりと入り込んでいける?そんな気がいたします。
実際、デート中に喫茶店などでお茶を飲んでいて、突然、違う世界に入り込んで「ボーッ」としてしまう。
何か見えないものと交信でもしている感じで、そんな状態が1時間も2時間も続くんですって。で、相手が心配して、
「どうしたの?」とかって聞くと、彼は急に怒り出して帰っちゃったりとか。
要するに、自分の世界で生きている人なんですね。先天的に。
かと思えば、20歳の頃のことですけど。奇抜な格好をしてトンガっていた時期があって、街で見かけたちょっと危ないお兄さんに、
「テメエ、見てんじゃないよ」
などといって向かっていき、逆に殴られて鼻血を流しながら帰ったこともあった。で、ここからが彼の凄いところなんですが、電車の中で「気持ちいいなぁ」と思っていたら、気がついたら病院のベッドの上。車内で失神して誰かに担ぎ込まれていたんですね。
天才は型にはめられるのを嫌いますが、先ほど申しましたように、妹さんは前世では彼のお母さんでしたから、こうした彼のことが放っておけなくて、今世でも側について見守っているわけです。
メンバーになっているのも、そのためなのですね。この妹さんに対しては、相当に頼っているところがあって、子供の頃、病気で寝ている時などに寂しくなると、「お~い」とかって、2階の部屋から下でTVを見ている妹さんを呼びつけていたといいます。
また、突然、髪をまっ黄色に染めた兄を見て、「おにいちゃんは、もう絶対におかしくなっちゃったから病院に連れていって」と、真剣に両親を説得したといいます。
カールスモーキー石井は、彼女にとっては今でも可愛いヤンチャ坊主なんですよ。強い縁で結ばれているのです。
また、彼は3歳の時から油絵を描き始め、9歳ぐらいで画商がついて、1号1万円ほどの値段で月平均2点ぐらいずつ売れていたといいます。
ですから、音楽以外にアートの世界でも異質な才能を発揮しているんです。米米クラブのメーキャップ、ステージ衣裳や舞台装置のデザイン、レコードジャケットのデザインなどはもちろん、絵画やオブジェの製作まで手掛け、ついには9年春、本名の石井竜也の名前で、作品展『石井竜也未来遺蹟展」(螺旋の国のアリス)を開きました。
それは、彼自身がイメージする超未来から見た未来の遺蹟。未来的でありながら、原始的で太古のロマンティシズムに溢れた不思議な幻想世界が広がります。
彼のクリエイティブな挑戦は螺旋状に広がっていくようで、長年の夢だった映画制作が99年に実現しました。
タイトルは「河童』。茨城県の牛久沼にある河童伝説を基に、河童=宇宙人だったというストーリーが展開されます。背景には水に対する農耕民族日本人の思い入れが語られているわけですが、水=自然への深い思い入れは本人自身の問題としてしっかりと存在するようです。
水を汚さない浴用剤を使用するなど、日常生活で実践しているんですね。
ステージなどで見せているオチャラケ部分とは別の、カールスモーキー石井の一面を見た思いがいたします。
オードリー・ヘップバーン(女優)
《プロフィール》
女優。1929年ベルギー・ブリュッセル生まれ。1993年結腸がんで没。父はアイルランド系イギリス人貿易商、母はオランダ貴族出身。 6歳で英国の寄宿学校に入るが、10歳のとき両親の離婚でオランダに移り住む。バレエを学ぶ傍ら対独レジタンス運動に参加。1948年ロンドンのバレエ学校で学んだあと、舞台や映画の端役で出演。1951年に作家のコレット女史に容姿を認められ「ジジ」主役に抜擢されブロードウェイの舞台を踏む。1953年パラマウント社に引き抜かれて第一作の映画「ローマの休日」(ウィリアム・ワイラー監督。アカデミー賞受賞)で王女役を演じ、その気品のある美しさと個性的な容姿で世界中の映画ファンを魅了する。主な出演作に「戦争と平和」(1956年)、「昼下がりの情事」(1957 年)、「許されざる者」(1960年)、「ティファニーで朝食を」(1961年)、
「シャレード」(1963年)、「マイ・フェア・レディ」(1964年)、「暗くなるまで待って」(1967年)、「いつも二人で」(1967年)、など。また、198 8年から国連児童基金(ユニセフ)の親善大使を努めるなど芸能活動以外でも活躍する。
それではここで、”美しさの秘密〟ということにクローズアップしてお伝えしたいと思います。
登場していただきますのは、オードリー・ヘップバーンと吉永小百合。
ふたりの共通点はといいますと、もういうまでもないですね。純潔で無垢で、本当に妖精のようで素晴らしい美しさをもって生まれてきている。その一点に尽きるのではないかと思います。
では、まず先頃(98年)に結腸ガンのために亡くなってしまいましたが、往年の名女優オードリー・ヘップバーンから紹介させていただくことにいたします。
オードリー・ヘップバーンといいますと、製作年代別に列記いたしますと、「麗しのサブリナ」「戦争と平和」「昼下がりの情事」「許されざる者」「ティファニーで朝食を」「シャレード」「暗くなるまで待って」『マイ・フェア・レディ」「いつも二人で」「ロビンとマリアン」など、たくさんの名作を残してくれましたけれども、ご存知のように彼女のデビュー作は「ローマの休日」。共演はグレゴリー・ペック。
この時彼女は24歳で、ヨーロッパの架空の王室のアン王女役を演じました。
訪問先のローマで、宿舎を抜け出して街に出たアン王女が、グレゴリー・ペック演じるアメリカの新聞記者とつかの間の淡い恋に落ちる・・・・というロマンチック・ラブ・ストーリーのウィリアム・ワイラー監督作品。この「ローマの休日」で、オードリーは映画初主演にも関わらずアカデミー主演女優賞というすごい賞を獲得。
一躍、世界的な大スターの仲間入りを果たすことになるわけです。
ちなみに、当時の映画界で100万ドルという巨額のギャラを取っていたのは、世紀の美人女優といわれたエリザベス・テイラー。彼女の他には、オードリー・ヘップバーンだけだったといいます。
本当に「ローマの休日」でのオードリーの印象は強烈で、「妖精」という形容が本当にピッタリ。世界的な「オードリー旋風」が巻き起こります。
「かわいい妖精で、鳥のようだ。」(俳優ハンフリー・ボガード)
「この娘はふくらんだ胸の魅力を過去のものにしてしまうかもしれない」(映画監督ビリー・ワイルダー)
といった数々の賞賛の言葉が贈られています。
そして、「オードリーの登場で、世界の美の基準が変った」とさえいわれました。
実際、それまでの女優の価値・美の基準は、ハリウッドのセクシーシンボルともいわれたマリリン・モンローに代表されるようなグラマラスでセクシーさを兼ね備えた整合的な容貌であることにおかれていたのです。
その意味では、オードリーの容貌はそれまでのスターになる条件に照らして痩せ過ぎで背が高く、胸が小さい、目鼻の配置がアンバランスな顔個性的ではあっても悪条件が重なっていました。
ところが、オードリーの出現を機に、女優に対する従来の価値観がもろくも崩れるのです。そして、女性美の基準が一挙に広くなるのです。
この背景には、20世紀後半の価値観の多様化があったと思われます。もっといえば、世界や日本の大衆がオードリーの出現に、価値観が大きく変ろうとしている時代の流れを予感したのかもしれません。
そういった意味でも、「彼女のすごさ」というのを、私も今回改めて知ったところなんですけれども、そんな彼女の前世を深見先生に聞いてまいりましたのでお伝えいたします。
前世は?
前世での彼女は、第2回十字軍の遠征を指揮したトップスリーの将軍のひとりだった、といいます。
彼はキリスト教の聖地奪回のため人々に呼びかけ、そして賛同を得十字軍の遠征を実現しました。その圧倒的な魅力と勇猛心に加え、神のために大きな夢を持ち、純粋な気持ちで生涯を貫きました。
そうした彼の生きざまが全部合わさって、今世のオードリーは、あのよう美しい形で素晴らしい人生を神さまにいただいたようです。
今までに深見先生がおっしゃっていますように、美しくなるために、例えばお化粧品をたくさん買ったり、エステに行ったり、そういった努力をすると、来世には美しく生まれてくることができる。
そういう、とっておきの情報がありました。ただし、美しくて徳分がある人は美しさ故に幸せになるのだそうですけれども、徳のない方は美しさ故に不幸になってしまうといいます。
その驚きのことを、ちょっと今回私は発見というか、深見先生に教えていただいたんですね。
また、オードリーは前世で、戦場から引き上げる時に自分が防御に回り、最後に命を落とすまで、自分を犠牲にして200人もの部下を逃したそうです。
他人の生命を救った人、心の清らかな人は、今世では美しく生まれてくるということで、皆さまにその美しいオードリーを見ていただきたいと思います。
本当に子鹿のような大きなキラキラする瞳で、もう吸い込まれてしまいそうですね。
オードリーは晩年、国連のユニセフ大使として、多くのアフリカの子供たちを救いに、わざわざアフリカや多くの地域にまで出向いていったわけなんですけれども、彼女が生前いっていた言葉で次のようなものがありました。
「ひとりの子供を救うのは天の恵みです。大勢の子供たちを救うのは、神様から与えられた一つの機会です」
こうした活動に献身したのは、彼女自身の第2次世界大戦での悲惨な経験があったからだといいます。ナチスのオランダ占領時、彼女はレジスタンスに協力、情報伝達の役で何度か危地をくぐり抜けているんだとか。
「子供のほうが怪しまれないから」
後年、彼女はこのように語っていますが、最後には飢餓に苦しみ栄養失調状態で連合軍とともにやってきたユニセフに助けられたのだそうです。
「私が痩せっぽちなのは、この経験があるから」
と、その時の感謝の気持ちが、ユニセフ大使というボランティア活動に彼女を駆り立てたといいます。それも、自らがガンに罹患しているのに、です。ちょっと真似のできない素晴らしさだと思います。
こんな優しい彼女ですが、今(死後)はちょっと3年間は地獄に近いところで修行をして、その後30年間は試練の時。ということが、深見先生によってわかったのです。
その理由なのですが、先生に聞きましたところ、
「彼女は自分の心を偽って生きていたところがあったからです」というお答えを頂きました。
やはり、あちらの世界(あの世)は、生前の富、名声などの表面的なことはまったく関係なく、内面の心の美しさや、真の愛情、人格の素晴らしさといったもので霊界のランクが決まるということなんですね。
けれども、彼女はもともと優秀な御霊なので、霊界で反省して、再び輝く霊となり、来世にはピアニストとして生まれてくるそうです。
始めはジャズを弾いているそうなんですけれども、そのうちクラシックに転向していき、人々を魅きつけてやまない音楽家となることがわかっております。
93年1月20日、オードリーは、家族最愛のふたりの息子と最後の恋人――に看取られながら、息を引き取りました。
「素晴らしい人生を残してくれて本当にありがとう」というメッセージを残して・・・永遠に旅立っていったのです。
吉永小百合(女優)
《プロフィール》
昭和20年東京生まれ。児童合唱団に入り、昭和33年にTBSラジオ「赤銅鈴の助」でさゆり役に選ばれデビュー。都立駒場高校に入学と同時に日活に入社。芸能学校・私立精華高等学校へ転校。昭和3年に映画「キューポラのある街」に主演し、純情で明朗な娘役が大当たりし、“サユリスト”と呼ばれるファンが生まれた。
以後、日活時代には浜田光夫らと青春映画路線の黄金期を築く。昭和46年に吉永事務所を設立。昭和48年フジテレビプロデューサー岡田太郎と結婚。「愛と死を見つめて」「戦争と人間」「動乱」「青春の門」その他出演作多数。近年も成熟した女優への脱皮に成功し、積極的な映画主演が相次ぐ。「細雪」(昭和38年)、「おはん」「天国の駅」(昭和55年)、「夢千代日記」「玄海つれづれ節」(昭和60年)、「映画女優」(昭和6年)、など大胆な役柄にも挑戦しつづける。昭和63年には100本目の映画
「つる<鶴>」を完成させる。ブルーリボン主演女優賞、ゴールデン・アロー賞、など数々の賞を受賞する。
オードリー・ヘップバーンに引き続き、美しさの秘密というテーマをクローズアップして、吉永小百合さんの前世を紹介させていただきます。男性ファンの方には、大変にお待たせいたしました。
でもその前に、少しだけ彼女の女優としての経歴を見ていただきたいんですが、もう凄くたくさんの賞を取っているんですね。ブルーリボン主演女優賞、ゴールデン・アロー賞、ミリオンパール賞などの他にレコード大賞までありまして、もうあれもこれも勢ぞろいという感じで素晴らしい徳分のある方なんだなぁ、とつくづく思いました。
彼女は児童合唱団に入り、1958(昭和33)年にTBSラジオのドラマ「赤胴鈴之助」のさゆり役に選ばれて13歳の時に芸能界にデビュー。全国的な人気を集め、次いで翌年に『朝を呼ぶ口笛」で映画界にデビューいたします。この彼女の芸能界入りには、強い親の願望があったといいます。
この背景には、家庭の事情がありました。父親は外交官でしたが、退官して出版事業に乗り出しますが失敗、経済的に苦しい状態にありました。借金取りが押しかけたり、差押えで税務署の役人が家の中に入ってきたのを見て幼い彼女は、
「なんて失礼な人なのだろう。私がお父さまを助けてあげよう」と、はたきを手にして身構えたこともあるといいます。
また、家の窮状を見るに見かねて、「新聞配達する」と、母親に向かっていい出したこともあったそうです。
ともあれ、「朝を呼ぶ口笛」に出演後、彼女は日活に移って「キューポラのある街」に主演することになります。
鋳物の街・川口市を舞台に、そこで働き懸命に生きる若者たちを描いたこの映画は、地味にも関わらず大ヒットします。時あたかも戦後の混乱期からようやく抜け出した日本が、高度経済成長期に突入、大勢の若者たちが故郷を離れ、集団就職などでそうした中小企業で働いていました。ちょうど、現在の中国みたいだったんですね。
映画は、そうした働く青年層を中心に圧倒的な共感を呼んだのです。そして、彼女は17歳の最年少でブルーリボン主演女優賞を受けることになったわけです。
ちなみに、この時期=60年代は日本映画の全盛期。庶民にとっては、映画が最大の娯楽でした。彼女が所属した日活では、石原裕次郎や小林旭主演の映画が圧倒的興行力を誇っていました。
ことに正月映画は若者ばかりでなく、家族連れで超満員だったといいます。この路線に「キューポラのある街」で共演した浜田光夫と吉永小百合のコンビを組んだ青春映画が加わることになったのです。
人気が沸騰!しました。ことに、68年の正月には彼らが主演した「青い山脈」と「いつでも夢を」を週替わりで連続上映していますが、観客が殺到したといいます。その辺の事情をある本から引用します。
「(正月映画「「青い山脈」の封切りに当たって)初日の1月3日朝、大入りを予想した日活は東京・上野日活の前に2台の大型バスを待機させ、あふれた観客を近くの神田と両国の日活作品上映館に送り込んだ。
また、新宿日活では、階上にある日活名画座を開放し、上下2館で上映したという」
当時の熱気がムンムン伝わってきます。凄い人気だったんですね。
ところで、「サユリスト」と称する方も、皆さまの中にはいらっしゃるのではないかと思います。
有名なところでは、作家の野坂昭如さんやタレントのタモリさんなどがそうですが、世の男性の中には熱烈なサユリストが、大変に多いんですね。野坂昭如さんによれば、
「(サユリストとは)結局、ご本人を前にするとカチンカチンになっちゃうやつのこと」
だそうで、さらに、
「カチンカチンになって崇め奉るわけだから、サユリストというのは非常に保守的なところがあるし、一つ間違えば天皇主義者になってしまうかもしれない」と、凄いことをおっしゃっています。また、
「自分の敬愛する方を呼び捨てにするとは無礼千万!サマをつけるのが正しい」と語るタレントの内藤陳のような方もいらっしゃるわけで、天皇まで引合いに出てくるなんて、さすが天下の吉永小百合といったところでしょうか。
ある評論家によると、
「彼女の映画にはとくに印象的な作品はないのに、それにも関わらず彼女は日本を代表する女優となった」
とのことですが、やはりそれにはそれなりの深い理由がありました。彼女の前世が物語っているのです。
前世は?
彼女の存在自体が非常に澄みきっていて非常に美しいんですが、その理由は、彼女は前世には音楽家ワーグナーと駆け落ちしたリストの娘なんです。ワーグナーと駆け落ちした時、彼女はビューローの妻だったのだそうですが・・・・・・。
何だか非常に複雑で頭がこんがらがってしまいそうですけれども、そんな波瀾万丈の人生を送った方。そして、あふれんばかりの教養と類稀なる美貌の両方を兼ね備えた方であったそうです。
彼女はワーグナーの妻として常に葛藤し迷い、そして、時には人を恨んだりもしたようで、経済的にも大変苦労しています。
ワーグナーはそんな彼女をモチーフとして、時代を越えた芸術をどんどん生み出していったわけですが、ワーグナーに刺激を与え続け、ある意味でワーグナーの犠牲になってしまった彼女…。
その彼女が、今世では、自分が表現する側に回って好きなように生きることができるようになったわけです。
今世、誰にもないような品格と、どこまでも美しい、どこまでも澄んだその美貌、すべて神様からのご褒美だということを深見先生がおっしゃっていました。また、前世での彼女は、大芸術の源となった方ですから、そういった徳分(人の能力を大きく伸ばしたという功徳)もかなりあるようです。
ところで、ノーベル賞を創設したのがノーベルであることは、皆さんご存知だと思うんですけど、なぜか吉永小百合さんの前世には、このノーベルが合体していたということもわかっております。
どういう因縁なんでしょう?
本当にもう、吉永小百合もオードリーもきれいな方で、来世こそは絶対にこういう風になるんだ、なんて思ってしまいました。
ところで、吉永小百合についてもう一つだけお伝えしたいことがあります。ちょっと計算してみたんですが、彼女は何と50年くらいで今世に転生しているんですね。(一般には、死後300年で転生しているのに……)。深見先生にこの点についてお伺いしたら、
「それは何かを学びたい、吸収したいという発願が強かったからだ」というお答えをいただきました。ですから、私も、皆さまと一緒に来世50年後ぐらいに生まれ変わってこれたら、と思います。宜しくお願いいたします。
ペレ(サッカー選手)
《プロフィール》
1940年10月23日ブラジル生まれ。1955年FCサントスに入る。88年17歳でワールドカップに出場。 4試合で6得点を挙げて、ブラジル初優勝に貢献し、一躍有名人に。その後のワールドカップに4連続出場、3度の優勝を経験する。
7年国際試合からの引退を表明するまで、10回の国際試合に出場した。74年現役を引退するが、15年米国のプロチームに一時復帰する。その後はニューヨークを足場に、サッカーの宣伝の仕事をする。生涯試合1364、ゴール数1282。サッカーの神様、王様と呼ばれる。91年、92年開催の国連環境開発会議(地球サミット)の親善大使に。93年米国サッカー殿堂入り。 95年スポーツ大臣に就任。
皆さま、世界中で一番盛んなスポーツが何であるか、おわかりになりますか?
一番競技人口が多く、親しまれているスポーツ。
それはサッカーなんです。正式名称は「アソシエーション・フットボール』。スポーツの中のスポーツということから、「キング・オブ・スポーツ」ともいわれています。競技人口は、推定2億人以上。ワールドカップなどでは、TV前での観戦を含めると、観衆は10億人を超えるのでは、とも予想される。凄いですねぇ。
日本では、今年でJリーグ結成3年目に当たり、ようやく「サッカー」というスポーツが根付いてきたようです。各チームには熱狂的ファンも現れてきました。でも、以前、それもほんの数年前まではマイナー・スポーツで、これは世界でも珍しいぐらい。やっと、世界並みになったともいえます。
では、「サッカーの王様」といえば?
ブラジルの誇る世界サッカー界の至宝。ご存知、ペレです。今回は、そのペレを紹介することにいたします。
といいましても、「ペレ」というのは愛称なのだそうで、恥ずかしながら、私は今まで知りませんでした。本当の名前はエドソン・アランテス・ド・ナスシメンコ。
長くて、何やら舌を噛みそうな名前ですね。
ペレの試合の実写フィルムを見ますと、これは、本当に凄い。本物のプロを見た思いがいたしました。今でも胸が熱くなるものがあります。サッカーが「キング・オブ・スポーツ」と呼ばれるのも「もっともだなぁ」と思います。
ペレは公式戦で獲得した「総得点1283」という、もの凄い生涯記録を持っているのですが、サッカーばかりでなく、人間的にも素晴らしい人です。こんな話があります。
69年11月19日|――この日、ペレの所属する「サントス」は、リオデジャネイロで「バスコ・ダ・ガマ」と対戦。ペレは前人未踏の1000得点をマークしました。
その瞬間、スタジアムに割れるような喚声がわき起こりました。そして、グラウンドでは選手たちがペレを担いで練り歩く。ペレのチームメイト「サントス」の選手ばかりでなく、何と対戦相手の『バスコ・ダ・ガマ」の選手もです。熱狂した観衆はグラウンドに雪崩込む。そこにいた誰もが、ペレの偉業達成を祝福し、我がことのように喜んだのです。そんなことって、信じられます?
実際、ブラジル人たちはサッカーが大好きです。でも、それ以上にペレが好きで、誇りに思っているんですよ。ペレが単なる「サッカーがうまい選手」だけじゃない
からなんです。ペレも祖国を愛し、国民=友人を大切に思っている。
60年代初め、イタリア・セリエAのチームが300万ドル(当時のレートで約1 億1000万円)という途方もない金額でトレードを申し込んだことがありました。
それをキッカケに、世界中のプロチームがペレ獲得に参加。ペレの争奪戦が起こったのです。過熱するにつれ、トレードマネーは1億7000万ドル(約6億円)までつり上がり、中には額面が空白のままの小切手を送りつけてきたチームもあったといいます。自分で「好きな金額を書き込め」っていうことで、争奪戦の凄まじさがわかりますねぇ。
でも、ペレは動かなかった。
「貧しい靴磨きの少年が、今日の億万長者ペレになれたのは、全て祖国ブラジルとサッカーのおかげ。その私が、ブラジルとサッカーを捨てるわけにはいかない!」ペレは「サッカーの神様」とも呼ばれます。これはペレひとりに限った称号ではなく、旧西独のスーパースターであったウベ・ゼーラも同じように呼ばれているんですね。でも、
「世界中には「サッカーのために生まれた」といわれる選手はたくさんいる。しかし、ペレはそういう選手たちのひとりではない。神様が「ペレのために」サッカーという競技をお作りになったのだ」と、そこまでいわれたのはペレだけ。もの凄い言葉です。以来、「神に嘉された男」という意味で「キング・ペレ」と呼ぶようになったのです。
サッカーの「王様」にして「神様」とまでいわれたペレは、幼い頃は非常に貧しい生活で、小学校は4年で中退。
家計を助けて靴磨きに明け暮れる毎日。貨物列車で運ばれてきたピーナッツがこぼれたのを、線路際で拾って売り歩いたりもしました。
父は元プロサッカー選手。骨折で選手生命と収入の道を断たれた。その父親の見果てぬ夢が乗り移ったのか、息子は歩き始めるとほとんど同時に、ポロを詰めた靴下をボール代わりに蹴って遊んでいたといいます。
少し大きくなってからも、仕事の合間にサッカーはやっていました。もちろん、ボールもシューズも買えません。
裸足で、ボールは新聞紙やボロ布を丸めたもの。それでも、その遊びに夢中になっている時だけ「子供に戻れた」といいます。
ところで、愛称の「ペレ」についてですが、子供たちが空き地で裸足で行なうサッカーをポルトガル語で「Pelada」といい、それが愛称になったのです。
ペレはこの愛称に誇りを持っているといいます。いかにも、ブラジルの英雄ペレらしいエピソードだと思います。
ペレは「ペラダ」でたちたまち頭角を現します。そして、10歳頃にはプロ選手を目指す決心をしました。
「両親を少しでも楽させたい。それには、サッカーで稼ぐことだ」
それは幼いペレの子供らしい知恵だったのです。また、サッカーには自信がありました。
こうして、15歳でプロのクラブチーム「サントス」に入団。翌年にはリーグの得点王。ナショナルチームにも選ばれました。
そして、88年スウェーデンで開催された『ワールドカップ」に、史上最年少の17歳で出場。ブラジルが戦った6ゲームのうち4試合で、計6点のシュートを決めて祖国を優勝に導く。
その4試合でのブラジルが上げた得点は15点ですから、実にその半分をペレが叩き出したのです。一躍、ペレの名は世界に響き渡りました。スターダムにのし上がったのです。
ペレのプレーには「マジック」「アクロバティック」「エキサイティング」「ファンタスティック」などの形容詞が冠されて語られましたが、ことに70年の「ワールドカップ」メキシコ大会では「芸術品」とも表現され、チーム自体も「ワールドカップ」史上最強のチーム。圧倒的な力の差を見せつけて優勝しております。
当時、ペレは20歳。選手としては盛りが過ぎていましたが、培った技術・経験の全てを傾けてカルロス・アルベルト、ジャイルジーニョ、リベリーノなどの個性的選手を自由自在に操ったのです。本当にもう「ペレには後ろにも目がついている」といわれたぐらい、素晴らしいプレーを見せてくれたんですね。
翌年、ナショナル・チームからの引退を宣言。その2年後には「サントス」を去りました。そして、そこがペレの凄いところなんですが、コーチ資格は小学校4年の学歴では取得できません。
一念発起して高校卒業資格試験に挑戦!パスして体育大学に入学しちゃうんですね。凄いでしょう。
こんなところにも、ペレの人気の秘密があるんです。子供たちがペレに憧れ、勇気づけられたり・・・・・・。素晴らしい人間性の方なんですね、ペレは。
前世は?
では、こんな素敵なペレの前世を見てまいりましょう。今回は「ペレが、なぜスポーツの達人になったか」というテーマに焦点を当てて、深見先生に聞いてまいりました。まずは、深見先生と西谷泰人)先生、おふたりのやりとりを活字で再現してみます。
西谷:先生、この写真がペレです。サッカーの神様。
深見:ペレ・・・・・・、中国人の武道家、ミュージシャン、神仙道の導師をしていた人です。
道教のほうの、神霊神仙道の導師をしていた……。霊的な感応とか神仙の世界の感応とか、長寿法とか。
気を溜めるとか発するとか。呼吸を調えるとか、呼吸を止めるとか巡らすとか。ウーン、そのような得意な要素をスポーツに利用しているんだね。それで、音楽にも秀でていたからリズム感がいいわけだ。
西谷:なるほど、そうですか。
深見:それともう一つは武道、武術太極拳とか何とか拳とかが
あるけど、太極拳ではない何かの武術、武芸にも秀でていたんだよ。武芸をやりながら、結局、宇宙とか、気とか、呼吸を巡らすとか、調和するとかいう風に。
だから、武芸と音楽と神仙道の呼吸術を体得したから、これがサッカーに出てきたんだ。
西谷:総合芸術ですね。これじゃ誰だってかないっこないですね。深見:そう。前世でかなり音感と直感力、そして、その武術の中で自動的に体が動くという練習をしたからね。
西谷:へえー、そうか。
深見:だから、自動的・瞬間的に「わっ」と体が動く呼吸のタイミングを持っていたわけだ。当時(前世ですが)、彼には、30人ぐらいお弟子がいて、300人ぐらいの人を、農業なんかやって村人たちを教育、訓育していたんだね。
西谷:へえー。
深見:そういう徳分があったんだね。
西谷:ウーン、すごい。
このようにして明らかになったペレの前世は、中国人の武道家、そしてミュージシャン、神仙道の導師をしていた人。それゆえに霊的感応力、神仙の世界の感応力に優れ、そして気を溜める、気を発する。
呼吸を整える、止める、巡らす――そういったことが得意だったようです。それは全てスポーツの要素なんですね。
そして、音楽にも秀でていたのでリズム感も非常にいい。武芸にも秀でていたと。
つまり、スポーツの要素を備えていたことに加えて、音楽と武芸に秀でていたこと、そして、そのふたつにプラスして武芸で鍛えた体が自動的に動く神仙道・・・・・・。
それらが全て合わさったことによって、サッカーで大活躍することができた。サッカーという彼の人生のテーマで、素晴らしい才能を発揮することができた。そういうことなんですね。
本当に、いつ・どこで・何が役立つかわかりません。ペレにしても、まさか「サッカー選手になるのを夢見て」前世でそういうことをやっていたわけじゃないと思うんですけども。前世と今世は密接につながっている。本当に素晴らしいことだと思います。
また、前世では30人ぐらいのお弟子さんがいて、その他に300人の人たちと一緒に農業などを行ないながら、教育や訓練に当たっていたといいます。
そういった徳分も、やはりペレの活躍の陰にあったということです。ペレは、今世でもたくさんの人たちにサッカーを教えている。これも因縁なんでしょうね。
そして、人を教育して、才能を伸ばしたり、引き出してあげることは、実に大きな巧徳を積むことになりますので、今世に積んだ徳で、また来世も大いに何かの分野で活躍してほしいと思います。
ジーコ(サッカー選手)
《プロフィール》
アルトゥール・アントゥネス・コインブラ。1953年3月3日生まれ。70年代後半から80年にかけて、ブラジル代表の攻撃的ミッドフィルダー(MF)として活躍。
ブラジル代表攻撃陣の「頭脳」として18年アルゼンチン、80年スペイン、96年メキシコと3度のワールドカップで活躍、なかでもスペイン大会では、2次リーグでチームは敗れたものの、大会のベストプレーヤーと賞賛された。8年のトヨタカップでは2アシストでフラメンゴ優勝の立役者。 8年、86年には南米年間最優秀選手。86年には世界最優秀選手。
92年に創立されたサッカーのJリーグ。凄い人気ですね。その記念すべき年にJ リーグを制して初優勝を飾ったのは、ジーコに率いられた鹿島アントラーズでした。ブラジル・サッカー界の英雄ジーコー。
ブラジル大統領の名前は知らなくても、天才F1レーサーのアイルトン・セナの名と、ジーコの名前を知らない日本人はいないのでは?それほどの人気です。
もっとも「ジーコ」というのは愛称で、私は恥ずかしながら知らなかったんですが、本名はアルトゥール・アントゥネス・コインブラ。ちょっと舌を噛みそうな名前です。やはり「ジーコ」と愛称で呼ぶほうが、雰囲気が出ていいですね。
38年3月3日リオデジャネイロ生まれ。15歳で名門フラメンゴ入り。フラメンゴは創立100年という名門クラブチームで、ジーコはここで80年代プラジル・サッカー界のスーパースターになるわけですね。そして、ワールドカップやトヨタカップ(ヨーロッパのクラブチームと南米クラブチームの代表がワールドチャンピオンをかけて争う。試合は毎年日本で開催)で大活躍いたします。
ワールドカップでは78年、82年、86年と3回の連続出場を果たし、ブラジル代表として88試合で6点のゴールを上げています。これはサッカーの王様ペレに次いで史上2位の記録。
ジーコは「白いペレ」の異名をとりました。
日本のサッカーファンが、ジーコの姿を強烈に脳裏に焼き付けたのは86年。
トヨタカップ南米代表としてフラメンゴを率いて来日、国立競技場のフィールドに立ったのです。当時ジーコは28歳。プレーヤーとして絶頂期にありました。
この時のヨーロッパ代表はイギリスの名門リバプール。結局、フラメンゴが3対0で勝つのですが、フラメンゴの全得点がジーコのアシストでたたき出されたものだったのです。ジーコは最優秀選手に選ばれました。
その後、83年から85年にかけてはイタリアのセリエAに移籍。ウティゼーネというチームに所属して、移籍1年目からユベントスの得点王プラティニと激しく得点王を争いました。イタリアのファンの期待に十分に応えたのです。
85年に古巣のフラメンゴに戻りますが、その直後の同年8月、対戦相手チームの選手に激しいチャージを受けて左膝を負傷。
一時は選手生命を危ぶまれましたが、大手術で復活。その後2度の大手術とカムバックを繰り返しますが、とうとう90年 2月に引退に追い込まれることになりました。
引退後はブラジルのスポーツ庁長官に就任しますが、91年5月にはそれを辞任。
日本のサッカーリーグ2部の住友金属と契約。再び選手としてフィールドに立ったのです。
世界中から「神様」「白いペレ」との賞賛を集め、「スパイクを履いた宣教師」ともいわれたジーコが住友金属と契約を結んだニュースは、世界中のファンからは驚き、そして日本のファンには期待と朗報と受け止められることになります。
なにせ、当時の住友金属は日本リーグ2部。Jリーグへの参加もドンジリの10番目だったのです。その住友金属(後の鹿島アントラーズ)を鍛え、初年度の優勝に導いたのはジーコの指導力と、サッカーの技とセンス、そして何よりもサッカーにかける情熱だったのです。
「素人の日本サッカーを一流にすること」
ジーコは日本での自分の使命をこのように語っています。実際、今日のJリーグ人気は、ジーコ抜きには語れません。 Jリーグ開幕でいきなり見せたハットトリック・・・・・・など、ジーコは日本のファンに本当のサッカーを見せ、本当のサッカーの面白さを教えてくれたのです。
ちなみに、鹿島アントラーズでのジーコの年俸は4000万円。ジーコにとって、来日したのはお金の問題ではなかったのですね。
そのジーコの引退試合が、99年10月10日に鹿島サッカースタジアムで行なわれています。鹿島アントラーズ対Jリーグ連合チーム。ジーコは未だ完治しない足の故障をおして出場。ファンに最後の雄姿を見せたのです。
そのジーコですが、彼は鹿島神宮にも参拝しておりまして、その意味では私たちの仲間のひとりなんですね。
では、ジーコの前世。その前に深見、西谷の両先生にもビデオを見ていただきましたので、おふたりのその時の会話から紹介いたします。
前世は?
西谷:サッカーやっている姿のほうがいいでしょうか。
深見:イヤ、これでいい・・・・・・、ウーン。ジーコ……。
西谷:ジーコは、ペレに次いで世界第二位の名選手です。
深見:ジーコ。これもまた中国人だな。中国人で、絵と、絵画と、神仙道。煉丹、肝を練る、気を調える、気を巡らす。山の中で30年ぐらい修行してたんだね。
西谷:へえー。
深見:四川省かどこか。とにかく、うん。それと絵をずうーっと描いていたから、ビジュアルな、絵的にパっとものを捉えて、どこへパスすればいいかという。それをビジョンで捉えていくのがうまかったんだろうね。
西谷:先生、そのスルーパスのセンスは針の穴をも通すといわれるほどで、実にすばらしいです。まさに芸術そのものですよ。
深見:そう、だから、絵的にパっと捉えて、ものを映像で捉えていくというのがうまかったんだろうね。それと、山の中でずうーっと忍耐をして、耐え忍びながらいくというのが得意だった人だ。それが前世だな。
それで、人はどれだけ助けたかというと、3000人ぐらいのお弟子さんがいて、2000人近くの人のリーダーとして、よく村を形成してやっていたんだね。
村長みたいに。それで神仙的な修養もやっていたという人だから、人格的にも立派な人で、指導力、リーダーシップがあるわけだ。単なるひとりの孤高な、孤高を保つ修行者でなくてね。2000人ぐらいの村人の上に立つ村長さんでもあったんだ。そういう前世だね。
ジーコの前世は中国人で、絵画と神仙、煉丹、つまり肝を練る。そして気を整える、気をめぐらすことに秀でていたそうです。
この人もまたペレと同じ中国・・・・・・。そして何と、これを聞いてびっくりしてしまったんですけれども、山の中で30年ほど修行をしていたということで、スゴいことです。
また、絵も非常にうまかったようで、ですから、ビジョンで捉えるのが非常に上手だそうです。
今世、パスは非常に天才的なんだそうですけれども、これはサッカーをやってた西谷先生(現在もチームを持っている)もおっしゃっていたんですけれども、ジーコは、瞬時にどこにボールを出せば最もいいか、ということがわかってしまうそうなんですね。
やはりビジョンでパッと捉えて、鋭いパスを出す。その瞬時の判断力というものは前世からのおみやげということで、素晴らしいですね。
その他には、何千人の弟子がいて、2000人近くの村のリーダー。つまり村長でもあったということです。
神仙の道も歩んでいたんですが、孤高の修行者ではなく、皆さんをまとめて一緒に頑張っていた人ということで、この方もまたまた立派なことをした人なんだなと、つくづく思った次第です。
またリーダーシップなど、人を引っぱっていける力は、生まれ変わっても持ち越して発揮しますから、ジーコは来世も何かの分野の指導者として活躍することは間違いないでしょう。
そういうことで、本当にペレやジーコから共通点を見つけていただけたかと思うんですが、来世、スポーツ選手になりたい方は、やはりこういったことを参考にして、頑張っていただけたらいいんじゃないかと思います。でも、30年の山籠りというところだけは別にしておいてくださいね。
