アインシュタイン(物理学者)
《プロフィール》
アルバート・アインシュタインは1879年3月14日、商人ヘルマン・アインシュタインとその妻パウリーネ・アインシュタインの長男として、旧西ドイツ南部(当時はドイツ帝国領、統一前はヴュルテンベルク王国領)の中都市ウルムに生まれました。しかし、アインシュタインがそこで暮らしたのは1年程だけで、父の羽根ぶとんの事業が失敗したため、一家は大都市ミュンヘンの郊外へ移り住むことに
物理学者のアルベルト・アインシュタイン(英語読みではアルバート)は、「20世紀最高にして最大の頭脳を持った大天才」と、いわれております。この言葉の意味、皆さまにはおわかりでしょうか?
まず、「最高」という意味。これはすぐに理解できます。理論物理学者として輝かしい研究の成果を上げておりますし、彼の唱えた「相対性理論」はあまりにも有名。
その他、「光量子説」「ブラウン運動論」などの学説があって、人類への貢献には大変なものがあります。そして、22年11月にはノーベル賞「物理学・化学賞」を受賞。ただし、その受賞理由は、意外にも有名な「相対性理論」ではなく「光量子説」に対して与えられたものでした。
私は自慢じゃありませんが、物理学は全くの不得手。この章を書くために、ちょっと資料を読んだのですが、本当にもうチンプンカンプン。『相対性理論」はもちろんのこと、「素粒子物理学」「量子力学」「統一場理論」などが出てきただけで頭が痛くなってしまいました。
ちなみに「E= E=ml」という有名な式があります。これは、E(エネルギー)はm(質量)×(光の速さの二乗)だということを表すもの。自然を統一的に記述するための重要な公式だといいます。どうでしょう?皆さまの頭は痛くなりませんでしたか?
まぁ、というわけで、アインシュタインが素晴らしく頭のいい人間だったことがご理解いただけたかと思います。
では、次に「最大」という言葉の意味のほうはいかがでしょう?
何のことかと申しますと、実は、アインシュタインの頭脳が、普通の人のそれに比べて大きく重かったということなのです。
一般的にいって、動物は脳の大きいほうが知的能力が優れている、といわれております。ですから、大型哺乳類のゾウやクジラ、イルカなどがかなりの知能を持つと考えられているわけです。
では、それらの動物より脳の小さい人間が、どうして彼らより高度な知能を持ち得たのか?当然、そういう疑問を持たれる方もいらっしゃるでしょうが、体の大きさと脳の重量を比較した「体重比」では、圧倒的に人間のほうが大きいんです。そして脳の組織もより緻密なんですって。ご安心ください。
人間の頭脳は平均容積1・4リットル、平均重量1.4キログラム。男女差があって、やや男性のほうが大きいことがわかっています。アインシュタインはどのくらいだったのでしょうね?
ところで、天才物理学者アルバート・アインシュタインは、19世紀後半に中部ヨーロッパ(現ドイツ)に生まれました。
大小40あまりの小国が分立していた中部ヨーロッパは、その頃、やっとプロイセン王国を中心に統一されたばかり。
複合国家ドイツが、プロイセン国王ウィルヘルム1世を初代皇帝とするドイツ帝国として誕生間もない頃です。そして、第1次世界大戦とドイツ帝国の崩壊、ナチスの台頭第2次世界大戦という激動の時代を生きて、55年4月18日午前1時15分、アメリカ合衆国でその生涯を閉じました。享年76歳。死因は大動脈瘤破裂によるものでした。
ところで、アインシュタインは「原子爆弾の投下にサインをしたのではないか」という疑いが持たれ、非難されております。実は、これは大統領に非常にコネクションがある某科学者から、
「ぜひこの推薦文にサインをして欲しい」と頼まれ、何回も頭を下げられ、無理やり迫られたからサインをしてしまったという経緯があるんですね。
アインシュタインはその当時は、原子爆弾などにあまり興味がなく、何の気なしに、あまり深くも考えずにサインをしてしまったようなんですけど、それが後々アインシュタインをしてすごく後悔させる結果になってしまうわけですね。というのも、それによって、アメリカは原子爆弾を製造して、広島・長崎に投下。何十万人という大勢の人々が死んだりケガをしたり、後遺症に悩むことになったからです。元々人一倍自由と平和を願っていたアインシュタインは、この事件を機に、一層自由と平和を守るべく、
「真理を探ろうと思う望みをいちばん先におくか、実用にすることを先にするか、それを真っ先に問題にしなければいけない」と主張し続けたということです。
前世は?
さて、深見先生の超能力で明らかにされましたアインシュタインの前世は?
ローマ法王にして、ヴァチカン聖朝を牛耳った方。歴代の中でも3本か4本の指に入る霊格を持つ法王だったとのことです。すごいですね。1730年から1800年頃の方です。ということは、日本では江戸中期から末期にかけて。
ここまでわかっているわけですから、後は皆さんで是非調べてみてください。どなただったのか、名前を明かしていただきたいと思います。
そのときの彼は、キリスト教学を極め、祈りの修行を積み、イエスや天や宇宙の波動から声を自由に聞き、そして人にも伝えることができたといいます。
非常に類稀な方だったようです。また、あらゆる宗教的学問、教学をマスターし、世界平和、そして人類平和をあの時代に強く願っていた方だそうです。
ですから、前世では宗教的な道を極めに極めたということで、今世は科学の道を私たちのために大いに前進させてくれました。昔も今も、非常に勉強家だったんですね。
で、来世はどうなるのかなと思いましたので、間髪を入れずに先生に、「どうなるのですか」とお伺いしたところ、これも教えていただけました。
何と、来世はフランス人の実業家として大いに活躍するのだそうです。是非、同時代に生まれて恩恵に預かりたいと思いますが、皆さんも一緒だといいですね。
最後に、ちょっと余談になるかもしれないんですが、アインシュタインはノーベル賞を受賞した時期、体重が何と30キロ台にまで落ちたという程、研究に打ち込んだとか。やっぱり、そこまでやらなければ道は極まらないんだな、と改めて考えさせられました。
トーマス・エジソン(発明王)
《プロフィール》
1847年2月1日、米オハイオ州生まれ。小学校では落ちこぼれと見なされていた。結局小学校へは最後まで通うことなく、母親から勉強を学ぶ。幼い頃から商才に長けていて、野菜園を作って収穫物を売ったりしている。
16歳で鉄道の停車場の電信技師になった頃から発明に熱中しだす。電信機の改良の特許を皮切りに、次々と発明を行う。その特許料で自分の会社を設立。二重電信機、炭素電話機、蓄音機、白熱電球、活動写真など、数々の大発明を成す。得た特許は1300を越える。 1931年没。
何を今さらと、皆さまお笑いになるかもしれませんが、「母親の愛って本当に強くて素晴らしいんだなぁ」とつくづく感じさせられました。というのも、あの世界の発明王エジソン、彼を発明王ならしめたのは、お母さんの力だったのだということを初めて知ったからです。
世間ではよく「犯罪の陰に女あり」なんてことがいわれますが、本当は「偉人の陰に素晴らしい母親あり」というのが正しいんですよ。プンプン!と、まぁひとりで興奮してしまいました。ゴメンナサイ。
でも、私がいいたかったのは、子供に対しての母親の影響力が大変に大きいということ。そして、古今東西、偉人といわれる人には素晴らしいお母さまがついておられて、そのお母さまの努力の賜物が偉人を生み育てたということです。
実際、中国の偉大な思想家・孟子には「孟母三遷の教え」で知られる母親がいて、 3回も引越しすることで、遊んでばかりいる孟子を勉強に導いたといいます。そして、エジソンの場合も、もしお母さんの愛情と献身的な努力がなければ、彼は単なる「落ちこぼれ」で一生を終っていたかもしれません。
世界の発明王トーマス・アルバート・エジソン。
彼の名は世界になり響いています。文明の光である白熱電灯を発明して人類に多大な貢献をしたばかりでなく、その他にいろいろな発明をしました。
炭素送話機、蓄音機、活動写真投影機(エジソンは「キネコスコープ」と呼んでいた)、キネトフォン(ちょうど、今のビデオみたいなもの)など。
中には、私たちがエジソンの発明だと知らずに日常的に使っているものもあります。扇風機、トースター、コーヒーメーカーetc……。
そして、尊敬とねたみ・そねみの錯綜する中で、彼を批判する人たちに対しては、「私は自分を、大勢の人がいうように純粋な科学者であるとは思っていない。
自然の法則の研究もせず、法則の発見もしていない。ニュートンやケプラーたちのように、ただただ真理探究のために学問をしたわけでもない。
私は職業発見家に過ぎない。研究や実験は、商業的に利用するだけの価値のあるものを発明する目的で行なった。
ただし、そこには本当の意味での区別はないとしても、機械的発明家とは区別される科学的発明家といっていいと思う」と、率直に自分の立場を述べています。
私は「天才は1%の霊感と、98%の汗(=努力)である」という彼の言葉が好きで、何度読んでもすごく勇気がわいてくるんですね。で、ふつふつと心の中で勇気をわかしながら、昔読んだエジソンの本を引っ張り出し、パラパラとページをめくっていました。
そうしたら、彼の「私は図書館を読んだ」という言葉が目に飛び込んできたんですね。
列車内での売子をしていた少年時代。デトロイト青年会議所図書館の本を全て読破したというのです。図書館にある1万2000冊もの本。それを、彼は1日に本棚1段分ずつ読んだといいます。
本当にもう声も出ませんでした。「99%の努力」とは、このようなことをいうのだと、改めて認識を新たにしたわけです。
エジソンは、小学校へたった3か月通っただけ。ほとんど学校教育を受けていなかったんですね。というのも、彼があまりにも好奇心が強くて「WHY」(なぜ?)を連発し過ぎたからなんです。
そのため、教師は彼を知的障害児と考え、登校を拒否。母ナンシーは自らの手で息子を教育したわけです。
それでも、エジソン少年の「WHY」はやまず、孵化させようと鶏の卵を自分の体で暖めたり、父親の納屋を全焼させるなどのイタズラが続きます。
ただし、イタズラというのは大人側から見た場合で、エジソン少年には立派な理由があった。疑問を実証的に解明するためだったからです。
そんな彼に、母ナンシーは実験科学の入門書や大人向けの「ローマ帝国衰亡史」「英国史』『科学辞典』を与えました。
エジソンは入門書に書かれている実験を一つ残らず試し、母に教えてもらいながら難解な本を読みました。後年、エジソンは次のように述懐しています。
「私を作り上げてくれたのは母だった。母は私を理解し、性質が向いているほうに進ませてくれた」
「母は私に無形の宝物をプレゼントしてくれた。それは「学校教育を受けないでいい」という宝物と、私の興味を理解するという宝物である」
こうして、独学と豊かな想像力と超人的な努力によって偉大な発明王が生まれた。その陰には母親の強い愛情があった、というわけです。冒頭の私のコメントは、このことに感激したからだったのです。
前世は?
そこで、エジソンの前世です。皆さまもさぞや興味津々かと思いますが、彼の前世は、その昔のインドでヨガを始めたヨギだったそうです。
ヨガの創始者である修行者。そして、今世はガンジーのような政治的指導者になるか、人類のために後世まで残るものを生み出す発明王となるか、そのどちらかを選択できたのだそうですが、結局、発明王となったわけです。
深見先生もよくおっしゃっていますが、輪廻転生に際して自分の人生を選択できるというのは、本当に徳を積んでいるからなんですね。ですから私も、来世はあれこれやりたいことがありますので、それを選べるようになるために、一生懸命、皆さまと一緒に徳を積ませていただきたいと思います。
それにしても、前世鑑定をしていただくと、本当に不思議だなぁという気持ちで一杯になるような証がいろいろみつかります。
例えば、「大衆を苦しい労役から解放し、その上で最大限の幸福と繁栄をもたらすために、私は自分の及ぶ限りのあらゆることをやってみたい。
それが私の熱望である」エジソンはこのようにも語っていますが、やは天から与えられた使命感みたいなものを感じていたのかもしれません。
そして、「あらゆることに興味がある」といってはばからなかったともいいます。その彼の情熱を支えていたのは、この使命感と飽くなき探究心であったと思います。
最後に、私たちへのアドバイスとして彼の語録を幾つか紹介しましょう。
「何をするんでも、決して時計なんか見てはいけない」
「成功というものはその結果でではなく、それに費やした努力の総計で計るべきだ」
「考える習慣を身に着ける努力を怠った人たちは、人生最大の喜びを失ったに等しい」
この含蓄を噛みしめてみてください。
1931年10月18日、「メロン・パークの魔術師」エジソンは、88歳でその生涯を閉じた。
そして、同24日午後10時、アメリカ中の電灯が消されました。それは偉大な発明王に対する人々の哀悼の祈りだったのです。
松任谷由美(シンガーソングライター)
《プロフィール》
シンガー・ソングライター。 1954(昭和29)年1月18日・東京都八王子市生まれ。血液型O型。多摩美術大学卒業。昭和48年「ひこうき雲」でアルバム・デビュー。音楽性豊かでシャレた曲作りにより、従来のフォークとは違った音楽世界を切り拓いた。
83(昭58)年の「ボイジャー」以後のアルバムはすべてミリオンセラーに。ニュー・ミュージックの旗手となる。代表曲に「あの日に帰りたい」「守ってあげたい」や、アルバムに「昨晩お会いしましょう」「ノーサイド」「U miz」など多数。ニックネームは「ユーミン」。
日本ニューミュージック界の女王にして、中島みゆきと共に女性シンガー・ソングライターの双璧をなす。ユーミンこと松任谷由実を一言で紹介しようと思ったら、こんな風になるのかしら。
毎年1枚のペースでアルバムを作り、日本のアルバム売り上げの記録を次々に塗り替えてきたことからも明らかなように、ユーミンの人気は圧倒的。実際、私のやっている「ダイナマイトDJ」にも、彼女の歌のリクエストが大変に多く寄せられています。
ところで、ユーミンを語る場合、必ずといっていいほど中島みゆきが引合いに出されます。それほどに、私たちから見ればふたりは宿命のライバル。
音楽の質や傾向からいっても、気が合わないのでは?と思うのですが、あにはからんや(突然、漢文調になりましたが)、私生活では仲がいいのだとか。ある雑誌のインタビューで、ユーミンは次のようなコメントをある雑誌に寄せています。
「中島みゆきーあの人ぐらいですね、女の人で何のこだわりもなく喋れるのは。彼女がやっている音楽自体には興味ないんです。
でも、そのやり方が、やっぱりすごい切り口だなぁと思って。いつも感心させられます」
やはり、「ライバル」という意識はあるようです。でも、お互いに相手を認め合っているのが、よくわかります。こんな関係は、女性同士のつき合いではちょっと珍しいのでは。自立した大人の女性同士だからできるんでしょうね。羨ましい気がします。
そこで、またまた「ところで」なのですが、試みに私の周囲にいる何人かの女性に、
「中島みゆきを聴くのは、どんな時?」という質問をしてみました。
「失恋などで思いっ切り落ち込んでいる時に、曲に浸り切ってわんわん泣いちゃう。
そんな時には、あの暗さがたまんないのよね」
おおむね、このような答えが返ってきたわけですけども、異口同音に、「同じ失恋の歌でも、ユーミンの歌じゃダメ。思いっ切り泣けないから」とのこと。
ユーミンのあの無機質な声では、涙腺はそれほど刺激されない。逆に、胸の切なさにじんわり涙ぐむには最適。過ぎ去りし青春のあの日を思い起こして、密かに涙するとかね。確かに、女性はその時の気分で泣き分けるわけだから、いわれてみれば当然なんですけども、これは男性の皆様方にはちょっとしたデータではないでしょうか。
ここで、間髪入れず、深見先生に伺ってまいりました。それではユーミンの前世を紹介しましょう。
前世は?
時は江戸末期。ところは日本。今の岩手県に当たるわけですが、彼女は当時の南部藩の藩主だったそうです。すごいですね~ぇ。英明な君主で、本当に徳を修めた方だった、という風におっしゃっていました。そして、ユーミンの、
「あの不思議な才能は、一体どこからきているのだろう?」と疑問に思っている私としては、その点についても伺ってまいりました。
イタリアに「ピテラの修道女」という有名な話があります。音楽家ビバルディが孤児たちに音楽を教え、その子たちが修道女になるわけですが。ビバルディはバイオリン協奏曲「四季」の作曲者ですね。そういう非常に有名な話なんですけど、ユーミンはビバルディから教えを受けた中でもトップ・スリーに入る方だったそうです。
今の音楽技術をもってしても弾くのが難しい曲を、ピテラの修道女たちは弾きこなしていたといわれています。相当に高度なテクニックを身につけていたんですね。前世で、ビバルティにびっちりと音楽を教えられていたわけですから、ユーミンが今世で素晴らしい才能を開花させているのもうなずけます。彼女の最新コンサートビデオ、本当に、素晴らしいステージでした。
その中で歌っていた『カンナ八号線」も名曲。昔の歌を、斬新なアレンジで全く新鮮なものに生まれ変わらせています。
彼女は、ステージにお金をかけることで有名なんですけれども、そのため、時には満席になっても赤字になることがあるとか。
コンサートは単に音楽を聴かせるだけではない。ビジュアルを重視したトータル・アートとしての音楽を目指している。そんな考えがユーミンの中にあって、ステージはその情熱の現れなのでしょう。アーティストとして生命をかけている、といっていいかもしれません。凄い迫力を感じてしまいます。
ユーミンは、72年7月、シンガー・ソングライターとしてプロデビュー。テビューシングルは「返事はいらない/空と海の輝きに向けて」でした。ちなみに、この時のレコード・プロデューサーがかまやつひろし。
バック演奏で参加していたのが、後に「学生街の喫茶店」で爆発的ヒットを飛ばしたガロ。もの凄い豪華版ビューだったのです(当時は荒井由実。 76年、編曲家・松任谷正隆と結婚。松任谷由実と改名)。
そして、83年に出した「ボイジャー」以後、全てのアルバムがミリオンセラーに。とくに、「ラヴウォーズ』『天国のドア」はともに200万枚を突破。また、TVドラマ「誰にも言えない」の主題歌のシングル曲「真夏の夜の夢」は、発売当日350万枚が即日完売するなど、名実ともにニューミュージック界の「女王」と呼ぶにふさわしい活躍ぶりです。
私も大好きな曲がたくさんありますが、「ユーミンの曲の魅力」って何でしょう?あの何ともいえない独特の浮遊感覚。
そして、乙女チックといいますか、ちょっと現実離れのフィクション世界を織りなす詞と、無機質な声がマッチして感覚的に「さらり」としていること。肌触りが心地いいんですね。
いわば、現代のおとぎ物語。そこには、ドロドロとした人間関係も、仕事やお金の心配もない。現実には、私たちはそれらに振り回されているわけですから、ユーミンの曲の世界に逃避したくなる。その気持ちはよくわかります。
もちろん、彼女の持つ「時代の先取り感覚」もあります。手が届きそうな程度にハイソで、半歩か一歩ほど時代の先をいく。
その感覚は鋭利な研ぎ澄まされたシャープさではなく、女の子が安心できるもの。言葉をかえれば「センスのよさ」なんです。「夢」といってもいいかもしれません。
こうした点がファンをひきつけるのでしょう。とくに女性ファンですね。実際、コンサート会場では、20代の女子大生やOLを中心に30~40代女性。中には男性サラリーマンやカップルの姿も目につきます。
また、ユーミンの潜在的ファン層は15~35歳の女性で、約1000万人はいるといわれていますが、ミリオンセラーを連発する秘密はこのへんにあると思います。
「あたしは時代とシンクロしちゃいましたからね、幸運にも。ひばりさんが日本の復興の象徴だったとしたら、あたしは繁栄の象徴なんです」
と、いうユーミンですが、最近ではCHAGE&ASKAやドリカムにレコードの売り上げ記録を塗り変えられ、やや人気にかげりが見えているようです。バブルがはじけ、私たちの生活に現実感が戻ってきたからでしょうか。
でも、一ファンの立場でいわせてもらえば、「いつまでも、ユーミンはユーミンのままでいて欲しい」と思います。あの浮遊感覚に包まれた心地よい世界に、私たちファンをふたたび誘って欲しい。
サザンオールスターズ 桑田佳祐(ミュージシャン)
《プロフィール》
1956(昭和31)年神奈川県生まれ。青山学院大中退。高校時代はビートルズに熱中する。大学ではフォークソングサークルで活躍。昭和50年サザンオールスターズを結成し、53年「勝手にシンドバット」でレコードデビュー。作詩、作曲、ボーカルを担当する。独特の雰囲気で一躍人気者に。その後も「気分しだいで責めないで」「いとしのエリー」「チャコの海岸物語」「みんなのうた」など出す曲は全てヒットする。60年にはアルバム「KAMAKURA」がミリオンセラーとなり、歌手部門で所得トップに。平成2年には「稲村ジェーン」で映画監督としてもデビュー。主なアルバムは「熱い胸さわぎ」「タイニィ・バブルス」「ステレオ太陽族」「Nude Man」「人気者で行こう」「サザンオールスターズ」など。57年メンバーの原由子と結婚。ソロとしても多数のヒット曲を発表している。
クルマの湘南ナンバーは若者たちの憧れです。その湘南ナンバー地域が新設された時、ナンバープレートを求めて列を作る人たちの姿がTVなどで報じられました。
しかも、数日後には、1番を取得した自動車販売業者の車に拳銃の弾が撃ち込まれる、というオマケつき。その過熱ぶりは関心のない方には不可解でしょうが、湘南ナンバーは一部のドライバーたちにとっては一種のステータス。カッコいいんですね。
実際、「湘南」という言葉には、ハイソで文化的でススンでいて、どこかロマンチックな香が漂っているように感じられ、石原裕次郎のデビュー作『太陽の季節』など、小説や映画の舞台になることが多いんですね。
若者たちが憧れるのも「もっとも」。で、音楽にも「湘南ブランド」があります。
湘南サウンドといえば、加山雄三に始まって、これまでワイルドワンズなど多くのバンドが登場しましたが、今やサザンオールスターズに止めを刺しますね。
サザンは、しっかりと湘南サウンドの代表格に納まってしまいました。「いとしのエリー」「チャコの海岸物語』『真夏の果実」皆さまお馴染みのヒット曲がずらりと並びます。
そのサザンも、早いものでデビュー1年目を迎えました。次々とヒット曲を飛ばし続け、日本の音楽シーンを背負ってきたわけですけども、サザンといえば、ご存知、桑田佳祐!サザンのリーダー兼ボーカル。
あの独特の奇妙な歌い回しが桑田さんの魅力であり、同時にサザンの魅力でもあるわけで、誰にも真似できません。素晴らしいタレント性を感じます。
もちろん、作詞・作曲も桑田さん自身が担当していて、作詞は彼の言葉遊び。バラバラの単語を意味も脈絡もなく散りばめて、結果的に、全体としてのストーリー性を持たせるなんていう芸当は、全く彼の独壇場です。
デビュー間もない頃、彼は次のように述べています。
「詞は意味なんて全然考えてない。取り敢えず「歌いやすいものを」とは思っているけど。僕はギターで曲作りをしますが、いいメロディーが出てきたら、取り敢えず適当な言葉をつけてみる。
それが、たまたま英語の単語だったりするわけだけど。だから、全体として日本語の意味になっているかどうかは、推して知るべし。
後はメロディとサウンドの情緒でくるんで、ひたすら皆さんのイメージ世界にお任せする」
実際、彼自身が意識しているかどうかはわかりませんが、桑田さんの詞作りは、それまでの日本の伝統的な作詞スタイルを打ち壊しました。
そして、ロックのリズムにノリにくい言語といわれていた日本語を、やすやすとロックのリズムにノセてしまった。
ちょっと不良っぽい感じがするのは、このためかもしれません。そこがまた、彼のいいところなんですけど……。
ところで、なぜ桑田さんはやすやすと伝統の作詞スタイルなんかを破壊できるのでしょう?そして、あんなにもヒット曲を連発できるのはなぜ?
深見先生に伺ってまいりました。
先生に見ていただきましたら、なんと、彼は「アンドロメダ星雲の御魂」なんですって!
えっえっえ~ッ、彼は地球人じゃないの?!?!?とかって早トチリしてしまいましたが、魂のルーツが、アンドロメダ星雲にある人なんだそうです。
こんなことまでおわかりになるなんて、深見先生は本当に凄い!ですよね。
で、彼の前世は?といいますと。「いったい何だったのか」って皆さまも気にかかりますでしょう。そこで深見先生に聞いてまいりました。
前世は?
時代は18世紀半ば頃―鉄血宰相ビスマルクのお父さんの時代になりますが、ドイツの貴族だったんです。
バイオリニストで、自分のオーケストラを持ち自らタクトをとって指揮もした方で、油絵も描いていました。
そして、何よりも特筆すべきは、ドイツ軍の敵兵300人の命を救ったということです。その功徳で、今もこうして名声を博す人生を送っていられるのだ、とのこと。ちなみに、サザンのメンバーは、当時のオーケストラのメンバーだったそうです。
なるほど、彼らの息の合った演奏は、こういうことが背景になっていたのですね。
ところで、桑田さんがメンバーの原由子と結婚しているのはご存知と思いますが、サザンオールスターズは「桑田夫婦』バンドの趣があります。
実際、あのラブソングの傑作「いとしのエリー』は原由子にささげた曲。女性として、あんな素晴らしい曲を贈られたらどんなに幸せでしょう。羨ましいですねぇ。
もっとも、この曲が作られたのは桑田さんの浮気が彼女にバレ、償いの気持ちからだったといいます。曲を贈られるのは嬉しいけど、浮気は困りものだし・・・・・・なん自分のことではないのに、一応は考えたりして。
でも、あの曲には、原由子に対する桑田さんの気持ちが率直に出ていて素晴らしいと思いますよ。
サザンは、77年のロック・コンテスト『イースト・ウェスト」に出場し、桑田さんが「女・呼んで・ブギ」で最優秀ボーカリストを受賞。
翌年に「勝手にシンドバッド」でデビューしたのですが、途中86~88年の3年間、グループとしての活動を停止します。原由子の妊娠・出産・育児のためで、この間、メンバー全員が別行動。
「僕にとってのロックは酒、女、ドラッグ、ベトナム戦争、英語・・・・・・」という桑田さんは別のバンド『クワタバンド」を組んでいましたが、88年7月か『真夏の夜の夢大復活祭」のコンサートツアーでサザン復活。
同時に、桑田さん自身は別個にソロ活動も始めます。何度か流された「解散説」の中で、彼らは自分たちの絆を切らない方向を選んだのです。こんなところにも、先ほど申し上げました彼らの前世での強い絆を感じさせられます。いかがです?
93年にソロで出した「真夜中のダンディー」は、自分も属する「ポスト団塊世代」をはっきりと意識したもの。
「ロマンもいいけど、時代がリアリティーを呼んでいる。具体的で「生々しいもの」を作りたかった」と語っています。
また、反エイズキャンペーンにも積極的に参加。日本武道館でチャリティコンサートを開きました。自分が正しいと思ったことを、若い世代にアピールしていく。
そういう社会的責任を感じたからです。
「日本人として「世間と世界」を同時に見ていこうと。「世間」というのは、地元を大切にしようという感覚でね。
『世界』というのは、自分が「日本人だ」ということで踏ん張るという意味なんです。この頃、日本人というのは、優秀な民族だとはいわれないですよね。とくに最近は、どうも「うさんくさい民族だ」と思われ続けている」
初の監督映画「稲村ジェーン」は、この「世間と世界」を同時に見ていこうという意識から生まれた作品のような気がします。そして、地元を大切にしようという感覚。映画では、彼の心の中にある「湘南」を描きたかったのでしょう。それは、自ら明かにしているように、
「何〜んもない湘南。今みたいに東京の波を受け入れて「湘南ブランド」を形成する過程で失ってしまった情緒的なものに対する郷愁」だった。
時代設定は65年。東京オリンピックの前の年。かつてジェーン台風が起こした「伝説の大波」に取りつかれ、稲村が崎でただひたすら波を待ち続ける「ジェーン」と呼ばれる中年サーファーの話です。
ストーリーは有名なサーフィン映画『ビッグウエンズディ」のコピーみたいで、いろいろとご批判もあるようですが、全編にサザンの新曲が9曲も流れます。ラテンのフィーチャーが多いようですが、桑田さんのカバー領域がひとまわり広がった気がします。
ビートルズ(歌手)
《プロフィール》
ジョン・レノン:1940年10月9日イギリス・リヴァプール生。
ポール・マッカートニー: 1942年6月18日イギリス・リヴァプール生。
ジョージ・ハリスン:1943年2月26日イギリス・リヴァプール生。
リンゴ・スター:1940年7月7日イギリス・リヴァプール生。
1955年ジョン・レノンは、ザ・クォーリーメンを結成。その後、個々でバンド活動をやっていたポール・マッカートニーやジョージ・ハリスンが加わり、数度のメンバー交代やバンド名改名を経る。
66年にリンゴ・スターが加わり、4人編成のザ・ビートルズが誕生。同年「ラブ・ミー・ドゥ」発表、68年「プリーズ・プリー「ズ・ミー」が大ヒットする。次の「抱きしめたい」は米国でもヒットし、世界中にビートルズ旋風が巻き起こる。66年米国公演、66年来日。70年の解散まで数々の大ヒット曲を生む。
ジョン・レノンは、69年オノ・ヨーコと再婚、公開ベッド・インなどで、反戦平和運動を展開する。
その傍ら「イマジン」「ダブル・ファンタジー」の発表など、音楽活動も続けた。80年40歳の時、ニューヨークの自宅前で射殺される。
人気絶頂のビートルズが、65年にイギリスのエリザベス女王からMBE勲章(大英帝国5等勲章)を与えられた時、
「たかが、ロック・バンドが女王陛下から勲章をもらう?!?!!」多分、大勢の方々がこのように思われたと思います。実際、日本ではちょっと考えられないこと。それが現実に起きたのだから驚きです。
当時のイギリスは経済的に低迷しており、貿易収支は最悪の状態でした。その時、ひとり気を吐いて国家の貿易収支に貢献したのがビートルズだったのです。
彼らのレコード売り上げやコミッション収入は、貴重な外貨をイギリスにもたらしていた。その功績に対して勲章が与えられたのでした。それだけ、もう本当に、彼らビートルズの人気は世界的に「凄まじいものだった」といいます。
ビートルズがどれほどのレコードを出し、映画に出演し、コンサート活動をしたのか。そして売上金額のトータルは?ということを数字で示したいと考えて資料を探したのですが、残念ながらいい資料が見つかりませんでした。
ゴメンなさい。ビートルズは、イギリスの港街リバプールでジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリソン、リンゴ・スターが結成した4人編成のロック・バンド。結成は6200億年のことでした。
ここでちょっとビートルズ結成以前にたち戻ります。彼ら4人がどのようにして知り合ったのか。
人間同士の合縁奇縁。それが織りなす不思議な彩を、皆さまにもおわかりいただけるのでは、と思うからです。
メンバーの中心だったジョンとポールが出会うのは、56年6月15日、ウールトン教会で行なわれたパーティの席。パーティでは、ジョンが所属するバンド「クオリーメン」が演奏していました。友人に誘われて会場に顔を出したポールは、内心「下手クソなバンドだな」と思ったといいます。
しかし、ポールはバンドの連中とすぐに打ち解けて、リトル・リチャードの物真似で彼らを湧かせたり、得意の『トゥエンティ・フライト・ロック」を披露。ギター奏法を教えたりしていました。
その時、酒臭い息を吹きかけながらポールに話かけてきた男がいた。彼はポールのギターのうまさを褒め、熱心にクオリーメンのメンバーにならないかと誘った。その男こそがジョン・レノンだったのです。
彼らは意気投合しました。ポールは学校の友人ジョージ・ハリソンと一緒にメンバーに加入。ジョンとポールはよく学校をさぼってはポールの家でギターの練習をしたといいます。
そして、クオリーメンはバンド名を「シルバー・ビートルズ」と変更。その後、6年にリンゴ・スターが参加したことで、4人編成のビートルズが誕生するわけです。
同じ年、彼らはシングル曲「ラブ・ミー・ドゥー』を発表して注目を浴びます。
そして、翌68年、『プリーズ・プリーズ・ミー」が爆発的な大ヒット。一躍、イギリスの人気ロック・グループにのし上がったのです。そしてさらに、次に出した「抱きしめたい」が、アメリカでもヒットして、世界中にビートルズ旋風を巻き起こすことになります。
いかがです?もしポールがパーティに出かけなかったら。もしジョンがポールもはに話かけなかったら……多分、ビートルズは存在しなかったと思います。人生には、このような運命的な出会いが必ずあります。大切なのは、その時にそのチャンスを逃さないことなのです。
さて、ビートルズが巻き起こした旋風が、どんなにもの凄いものであったか。それを口で説明するのは大変に難しいんです。とくに、彼らを知らない若い人たちにはとても理解していただけないかと思います。ぜひ、ビデオでご覧になってくださいね。
ともかく、まぁ舞台の4人に向かって、観客は狂乱状態。涙を流したり、失神したり、かけ昇ろうとして舞台に押しかけたり…彼らのコンサートは、常に熱狂的なファンで満員・満杯でした。大変な大騒ぎだったのです。
こうした大活躍をした彼らの前世。私は以前から知りたいと思っていましたので、早速、深見先生にお伺いしてまいりました。
前世は?
まず、最初はジョン・レノンです。
ビートルズのリーダー的存在でしたが、彼は前世ではなんとオランダに駐在していたイギリス大使の息子だったのです。
しかも、後に英国国教会2代目の司祭になって、輝かしい徳を積んだということです。イギリスのために尽くし、政治や貴族との癒着を離れ、キリスト教精神を純粋なまでに説いた方でした。
そうであったからこそ、今世でのジョンは「イマジン」のような曲を作曲することができたのです。前世で熱心に賛美歌を歌ってたこととあいまって、驚い宗教的精神が生き続けていたんですね。
ただ、どうしても疑問に思ってしまうのは、やはり彼の最期なんですね。80年12月8日、彼はニューヨークの自宅前で、ファンを自称する男にピストルで射殺されてしまうわけですけども、暗殺されたのは、いったいなぜだったのか?
これにも、深見先生が明かされた真実がございます。
つまり、彼の場合は、このままでは50歳から『老醜」を晒すことになるので、神の愛で世に美しく名を残したまま、息子に徳を残した状態で天に召されたということです。
本当に徳のある方は、その死に方にもその徳が表れる、ということなんでしょうか。
そして、ジョージ・ハリソンは前世ではレノンのお母さん。リンゴ・スターは弟。
ポールはお祖父さんで、幼い頃のジョンを教育した方だったそうです。また、彼らを売り出したプロデューサーのジョージ・マーティンは、英国国教会の初代大司祭だったということです。
前世で宗教的な道を切り開いた功労者たちが、今世もこうやって出会い、新たな音楽の道を切り開いて歴史にその名を残した。こういうことがいえるわけですね。
ところで、作家の北杜夫さんは、ビートルズ・ファンの熱狂ぶりを見て「いかなる精神病院でもこれほどの悲鳴は聞いたことがない」という風におっしゃっていたそうですが、これにも理由があるんです。
実は、この熱狂的ファンの方々というのは、英国国教会のその当時の信者の方々だったということです。
最後はお互いをわかり合えず、グループを解散してバラバラになってしまった彼らですが、前世では家族だった。やはり、強い絆で彼らは結ばれていたのです!お互いを信頼し合い、仲良く活動していた頃の彼らをいつまでも胸にとどめていたいですね。
ローリング・ストーンズ(歌手)
《プロフィール》
ミック・ジャガー(Mick Jagger)
1943年英国ケント州生まれ。幼い頃からハーモニカが好きでいつも吹いていた。 62年ロンドン大学在学中、キース・リチャーズらとローリングストーンズを結成。リーダー的存在となる。翌年「カム・オン」でデビュー。 63年英国で1位を獲得しシングル「サティスファクション」以来、キースとの共作でオリジナルによるヒットを次々放つ。
88年のヨーロッパ・ツアー以降グループでの活動のペースをおとし、ソロ活動に力を入れる。88年ソロで初来日。翌年、アルバム「スティール・ホイールズ」を発表し、7年ぶりにワールド・ツアーを行なう。90年ローリング・ストーンズとして日本初公演、熱狂的な歓迎をうける。同年1月結婚。 91年SF映画「フリージャック」に初主演。
イギリスを代表するロック・グループといえば、これから紹介するローリング・ストーンズを外すわけにはいきません。
趣が相当に違うとはいえ、ビートルズと双璧をなすのではないでしょうか。メンバーは今、全員が50代。この年齢で、あのエネルギッシュな演奏。いったいどこからそのエネルギーが湧いてくるのだろう?と、彼らより断然に若い私は考えちゃいます。
今、R・ストーンズは何回目かの世界ツアーを行なっている最中で、95年には来日が予定されているのだとか。運よくチケットが手に入れば、彼らの生のライブが楽しめるんじゃないかと期待しています。
R・ストーンズは、今から30年以上も昔の66年にレコードデビュー。名曲「サティスファクション」をはじめ「一人ぼっちの世界」「黒くぬれ!」などのヒットを飛ばして、出身地イギリスばかりでなく、世界的なビッグ・ロック・グループへと雄飛。それが、66年頃のことです。実に、息の長いグループなんですね。
でも、R・ストーンズには、いつも何がしかの「いかがわしさ」がつきまとっています。それは麻薬・暴力・破壊・退廃・セックス悪魔・・・・・・などの背徳的で反逆的なイメージ。というのも、これは他でも触れましたが、60年代は「反逆する若者たち」が世界的なうねりとなって表れた時期。
彼らが60年代若者たちのカウンター・カルチャー、それもアンダーグラウンド的な「陰」の部分を代表していたかで、その点で「光」部分を代表したビートルズとは違うようです。実際、メンバーには麻薬絡みでのスキャンダルが何度かあります。
例えば、ドラッグが絡んでいると思いますが、69年にはメンバーのブライアン・ジョーンズが溺死。キース・リチャーズがヘロイン売買に関係して起訴され、目の不自由な人のためのチャリティ・コンサートを条件に執行猶予判決が下されたこともありました。
もちろんというか、当然というかミック・ジャガー自身もドラッグで摘発を受けています。
また、麻薬絡みというわけではありませんが、「悪魔を憐れむ歌」を演奏している最中にコンサート会場で観客の黒人青年がヘルスエンジェルス(アメリカの暴走族)メンバーに刺殺されるという事件も起きているのです。
ところで、R・ストーンズといえば、どうしてもボーカルのミック・ジャガーが中心になるわけですけど、私個人の見解で大変申しわけないんですが、冷静に客観的に見れば見るほど、「ただの「ちょっとヘンな人」なのではないか」と思ってしまいます。
でも、彼は「世界一セクシーな男」の名称をもらっていたんですってね。私は知らなかったんですけれど。
また、彼はグラマースクール卒業後、ジョン・F・ケネディも学んだというロンドン経済大学史学科に入学。結局は大学は中退していますが、奨学金を受けていた優等生だった。三島由紀夫の小説を読み、大の日本びいき。そして、ちょっと古い資料ですが、R・ストーンズ結成以来の25年間に、ミック個人は500億円を超える財産を築いたといわれています。
ニューヨークやニースに豪邸を所有している他、パリやロンドンにもアパートを持っているんだとか。ただし、アパートといっても、日本の木造アパートを想像してはいけません。正真正銘「マンション」の名に値するものです。凄いリッチ!
それで、深見先生にそのような説明をしながらいろいろと伺ってきたわけです。早速、ミック・ジャガーの前世にいってみたいと思います。
前世は?
前世での彼は、中国の明の時代の僧侶だったそうです。神仙道・儒教・仏教を修め、新しい漢方薬を発見したり、修めた医術を駆使して民衆の医療に当たった。ハシカや水ほうそうなどで死にかかっている人たちを、無料で救っているのだそうです。
彼が病を治してあげた人の数は4000人。生命を救った人数は300人にも上がったといいます。また、易経や天文学が非常に好きだったので、暦から考えて何時・どんな病気がはやるかを予測。予め薬や治療法をいろいろと準備していました。
で、実際に病気が流行した時に、ポンとすぐに皆さんにお渡しできる
ようにしていた。そういうことをしていたといいます。
そのような経緯で、今世では多くの人に助けられている。また、前世で経文を唱え、神仏を呼び降ろしたり、説法したりしたことから、今世では歌をこういう風な形で歌えることになったのだそうです。
ただ、ちょっと心配になったので、余計なことかと思いますが、「今世はドラッグ漬けになっているし、来世はどうなんでしょうか?」深見先生に伺いました。その時先生は、
「うーん、陰で人助けをしているかもしれないよ。徳を積んでるね」と、何か含畜の深い言葉をおっしゃっておりました。
この言葉を聞いて、私は何か妙に悟った気分になりました。
ということで、ドラッグセックス、そしてデビット・ボーイとのホモセクシャル関係…スキャンダルまみれの破天荒な生活をしているかのように感じられるミックの人生ですが、やはり、彼は素晴らし前世を持っていたんですね。
