石原裕次郎(俳優)
《プロフィール》
1934(昭和9)年兵庫県生まれ。慶応大法学部中退。高校時代はバスケットの選手。1956(昭和31)年兄・慎太郎が書いた小説の映画化作品・日活「太陽の「季節」でデビュー、一躍スターに。 58(昭和33)年「嵐を呼ぶ男」は空前のヒットとなり、裕次郎ブームを生む。
代表主演作に「狂った果実」「陽のあたる坂道」「あいつと私」「銀座の恋の物語」「赤いハンカチ」など。60(昭和35)年北原三枝と結婚。次第にアクションを離れ、63(昭和38)年石原プロ設立後は製作も手がける。
72(昭和47)年「太陽にほえろ!」以来活動の中心はテレビとなる。歌手としてもヒット曲多数。(昭和56)年胸部大動脈瘤の発作を起こし、一時は生命を危ぶまれたが、無事回復し、テレビ出演などで活動を再開する。 66 (昭和6)年から再び療養生活に入るが、翌年死去。
昔、といってもそんなに遠くない以前ですが、「スター」という言葉が燦然と輝いていた頃がありました。文字通り「遠くに輝く星」で、一般庶民にとっては、はるかかなたの存在。だからこそ、私たち庶民はスターに強い憧れを抱いたのです。彼のケタ違いの人気についてこんなエピソードがあります。
どの映画だったか忘れてしまったのですが、北海道で映画のロケがあった時、そのロケ現場を見ようと、一日で十万人のファンが集まったといいます。
どうです、ケタ違いの人気でしょ。今だったら、スターといえども北海道の、ロケ現場なんかに数百人も集めたら大したものですもの。
今や境界があいまいのボーダレス時代。スターは、かつての輝きを失ってしまいました。いうならば、天上に輝く星を地上に引きずり降ろし、撫で回した結果、星は手垢まみれで薄汚くなった。日本の社会は異質を嫌う「均質社会」といわれますが、私たち自らがスターを身近な存在にしてしまったのです。
唐突にこんなことを述べたのは、「日本の芸能界にどれだけスターがいるのだろう?」と、フト疑問に思ったからです。いずれも小粒なタレントばかりで、「スター」の名に値するだけの大物は指折り数える程度。本当に少なくなってしまいました。
そこで今回は、スターが「スターであり得た」時代に忽然と現れ、一世を風靡して、また忽然と去っていったあるスターの話をしましょう。
(昭和62)年7月17日午後4時26分、その人物は永遠に帰らぬ人となりました。死因は肝臓ガン。享年52歳でした。戦後の日本映画の黄金期に銀幕スターとなり、一時代を背負った彼の死は、まさに「巨星墜つ」―。
ことに、自分の青春を重ね合わせた経験のある40~60代の方にとっては、そんな思いが強かったのではないでしょうか。あるいは、激動の昭和という一つの時代の終焉が、確実に近づいていることを実感された方もいらっしゃるのでは。
若い頃には、「(映画は)男子一生の仕事にあらず」と公言しながらも、映画とともに歩み、日本映画史上に大きな足跡を残した男。石原裕次郎。
彼の登場は社会的事件でした。映画ファンのみならず社会全体に与えた衝撃度、影響力ともに大変に大きかったからです。
日本社会は戦後の復興期から高度経済成長期へ、まさに移行しつつある時期。やっと社会的・経済的にも安定に向かい、明日への希望が持てた時期でもありました。一方では、無軌道な若者たちの行動が、常識的な大人たちの眉をひそませてもいました。
若者たちの『権威=社会・大人」に対する叛逆が、世界的なうねりとなって現れ始めていたのです。
例えば、アメリカの怒れる若者たち――その象徴が、映画『エデンの東』『理由なき反抗」のジェームス・ディーンや、その後に登場するエルビス・プレスリーなどでした。 56(昭和31)年、前年度上半期の第38回芥川賞を受賞し、35万部のベストセラーとなった『太陽の季節」が映画化されます。
「太陽の季節』は、後に「太陽族」と呼ばれる無軌道な若者たちを描いた小説で、当時一橋大学に在籍していた石原慎太郎の作品。弟・裕次郎の仲間やその周辺グループがモデルだった、といわれています。
当時、先ほども述べましたように、若者の叛逆は世界的な傾向で、彼らを描いた映画がたくさん撮られていました。
「エデンの東」「理由なき反抗」「暴力教室」。あるいは「不良少女モニカ」(スウェーデン映画)。日本でも「十代の性典」シリーズ、「十代モノ」といわれた「裁かれる十代」などがあって、PTAなどの教育団体やオバサンたちが目をつり上げました。上映禁止を訴えた、ということです。
さて、兄・慎太郎の小説「太陽の季節」の映画化とあって、裕次郎は撮影の手伝いに狩り出されていました。
彼は慶応大学の学生。割りのいい「バイト」感覚だったようです。気楽に雑用をこなし、出演者たちに自分たちの独特のいい回しや符丁をアドバイスする。不慣れな若者言葉に戸惑っていた主演の長門弘之や南田洋子たちは、これでかなり助かったようです。
湘南ロケがスタートして間もなく、撮影中でのこと。カメラを覗き込んでいた伊佐山三郎のルーペを持つ手が止まった。
ルーペを通して画面を凝視している。この時、彼は画面にちょこっとだけ顔を出している裕次郎の顔を見ていたのです。名力メラマンならではの勘でした。
彼は、ぽつりと担当プロデューサー水の江滝子に語った。この一言が裕次郎の運命を大きく変えることになります。ピーンときた水の江は、裕次郎の出演を即断。こうして、原作者の慎太郎自身がシナリオを手直しし、主人公が通う大学のボクシング部員として、裕次郎の役がつけ加えられたのです。
この狙いは、ある意味では大成功でした。チョイ役にも関わらず、裕次郎の存在感は際立っていて、皮肉なことに、映画自体の作品的な評価よりも裕次郎だけが注目される結果となりました。実際、デビュー当時の裕次郎を知っている関係者は、「いい知れぬ、他を圧倒する存在感が漂っていた」
「体中から、何か得体の知れないオーラが出ていた」などと証言しています。
昔風の典型的二枚目俳優が全盛だった当時、飾らず地のままで演技する(演技は、はっきりいって下手だったと思う)裕次郎は、かなり異質で型破り。
ただ、鮮やかで爽やかな「男らしさ」(この言葉も死語に近くなっていますが)を体現していたことだけは確かで、新しい時代の到来を予感させたのです。
その後、『狂った果実」「嵐を呼ぶ男」などに出演し、裕次郎は一躍大スターの仲間入り、日活の看板スターとしての活躍が続きます。この当時の石原裕次郎が、どれほど凄いスターだったのか。参考までに、この頃の最後に石原裕次郎主演映画の配給収入リストを後に掲載しておきます。
さしもの繁栄を誇った日本映画界にもかげりが見えてきた60年代半ば、勝新太郎、中村(萬屋)錦之助、三船敏郎などの大スターたちが、次々と独立。
プロダクションを設立して映画制作に乗り出します。裕次郎も石原プロを設立。
68(昭和43年に公開された「黒部の太陽」は三船プロとの共同制作で、石原プロ3本目の作品(三船プロ4本目)。空前のヒットを記録し、約8億円の配給収益を上げました。
一方ではTVにも進出。 TVドラマ「西部警察」などを制作・出演し、石原プロ社長として渡哲也、舘ひろしなどの若手俳優を育てるわけですね。ですから、若い皆さまにとっての石原裕次郎は、この当時のイメージだと思います。
そして、81年、ロケ中に背中と胸の激痛を訴え、救急車で慶応病院に運び込まれる。彼を襲ったのは「解離性大動脈瘤という病魔でした。
大動脈瘤状に膨らんで、瘤が破れれば大出血を起こして死亡する危険があります。手術の成功率はわずかに3%程度。でも、この時には幸い、6時間半にも及ぶ大手術を受けて危機を乗り越えることができました。
しかし、マスコミでは「奇跡の生還」などと書き立てられていましたが、手術では心臓破裂を防ぐために、心臓に近い瘤だけしか除去できず、他の部位の瘤は手つかずのまま残されていたのです。病魔は徐々にですが、彼の肉体を蝕んでいたのです。復帰したとはいえ、完全に健康を取り戻したとはいえない状態でした。
悪いことに、84年、肝臓に細胞ガンが発見されます。ですが、大動脈瘤があるために手術は無理と判断され、内科的な治療が行なわれました。さらに、ガンが肝臓内胆管炎を誘発して病状が急激に悪化。
入院治療をして症状が多少回復したところで退院。これは「最後の日まで1日でも長く家庭で過ごさせよう」との周囲の思いやりだったといいます。そして、再入院。2度めの奇跡は、とうとう起こりませんでした。
そこで、裕次郎さんの前世を調べましたところ、実に徳高き人物だったことが判明いたしました。
前世は?
彼の前世は、月山などの出羽三山を中心に修行した東北修験者の息子で、自らも72歳の時まで捨身の修行生活をしておりました。
その一方でこの方は、とにかくたくさんの施しを行なっております。また、大勢の人々から基金を集めて30余りの寺社を建立し、仏像彫刻を集めて庶民に見せたりもしています。
そして、集まってきた人たちには、家の財宝についている先祖の悪因縁を払い清めたりもしている。そういう方だったとのことです。
もちろん、全国行脚をして神社のお払いなどもしていましたし、洪水の時には400人もの人々の生命を救ったこともあるといい、もう「徳の叩き売り」ができそうなぐらい本当に徳を積んでいた方なんですね。
ですから、一時的にですが、大病を克服したのも頷けます。前世の徳を全て御存知の神様が救ってくれたんでしょう。元気な姿で再びブラウン管の前に現れた時は、私なんかも、もう本当に感激致しました。
「裕ちゃんが帰ってきた」って感じでね。
「やっぱり、裕ちゃんはスターだった。これからも元気な姿で私たちを楽しませてくれる」
と、思ったんですけど……。とうとう天国にいってしまいました。彼の死亡のニュースを聞いた時には、何だか「昭和が終わった」といいましょうか、取り残されたような寂しさを感じたことを覚えています。
でも、今頃、彼はこの世の反対側の世のほうで、懐かしい日々に浸っているのではないでしょうか。といいますのも、深見先生によりますと、
「今の彼は、中有霊界(霊界の真ん中の層)の上段の下にいらっしゃる」そうなんですね。天国まで行けなかった理由は、本当に意思や思いやりはすごくあった人だったそうですが、「精進、努力の脱皮が足りなかった」ということで、天国の下の中有霊界にいらっしゃるわけです。
でも、きっと生前の忙しさから解放されて、のんびりと悠々自適の生活を送っているんじゃないかしら。
私のほうはといいますと、先生の「精進、努力が足りなかった」というお話を聞いて、内心では「もうヤバイ、ヤバイ」と唱えておりまして、「反省猿」気味になってしまいました。
ところで、ファンの方々の石原裕次郎に対する思いは強く、死後、各地に記念館や記念碑が建てられています。
例えば、彼が子供の頃に過ごした思い出の地小樽には、総工費28億円をかけて「石原裕次郎記念館」が建設され、91年8月にオープン。館長はまき子未亡人(北原三枝)で、既に300万人を超える入場者があったといいます。また、ここを訪れるツアーも好調とか。
まき子夫人との運命的な出会いとなる「狂った果実」での共演。この時の思い出の地・神奈川県葉山町の岩礁地帯の名島には、ヨットマンだった彼をしのんで二つの灯台が兄慎太郎氏らの手によって建設。東京・銀座では、数寄屋橋公園の一角に大ヒット曲「銀座の恋の物語」の歌碑が建てられました。
ハンサムで、渋くて、でも決して気取らない裕次郎私たちの心の中には、今も石原裕次郎が生きているのです。
【年間興行ベストテンにおける配給収入リスト】
昭和34年。
『世界を賭ける恋」、2億7789万円。
ベストテン、第4位。
『男が命を賭ける時』、2億6937万円。第5位。
「鉄火場の風」、2億4335万円。第6位。
『男なら夢を見ろ」、2億647万円。第9位。
「天と地を駆ける男』、1億9652万円。第10位。
昭和35年。
『天下を取る」、3億2392万円。第1位。
『闘牛に駆ける男』、2億9133万円。第3位。
『喧嘩太郎』、2億7669万円。第4位。
「あじさいの歌』、2億7037万円。第六位。昭和36年。
昭和36年。
「あいつと私」、4億8万円。第3位。「銀座の恋の物語」、3億円。第7位。
「堂堂たる人生」、2億8977万円。第8位。「アラブの嵐」、2億8800万円。第9位。
ジョン・F・ケネディ(アメリカ大統領)
《プロフィール》
1917年5月2日米マサチューセッツ州生まれ。ハーバード大卒。1941年海軍に入り、第2次大戦中水雷艇長として活躍する。
46年民主党下院議員に当選、以後3選。52年上院議員に当選、8年在任。56年副大統領候補に立候補、60年43歳の時民主党大統領候補となり、ニクソンを破って当選、第35代大統領に就任した。
ニューフロンティア精神を提唱し、人気を得る。61年フルシチョフ・ソ連首相とのウィーン会談、62年のキューバのミサイル危機では、強気のリーダーシップを見せた。63年1月22日テキサス州ダラスで遊説中、暗殺される。
63年11月22日、1発の銃弾が歴史を変えた。ジョン・F・ケネディの暗殺。実際には3発の銃弾でしたが、アメリカ国民は自分たちの希望の星を奪われたのです。世界中に衝撃が走り、哀しみに包まれました。そして、永遠に忘れられない日になったのです。
私のやっております「ダイナマイトDJ」は、通信衛星を使って皆さま方にお伝えしておりますが、当時、日米間での衛星通信が、まさに始まろうとしていた瞬間で、記念すべきアメリカからの初めての放送が「ケネディ大統領暗殺さる」のニュース。23日早朝にTVから流されたショッキングなニュースに、
「朝食を摂っていて、思わず箸を取り落とした」
「ボー然としてしまった」
「一瞬、頭が空白になった」というような話を聞いたことがありますが、日本においても、ケネディ大統領の死はそれほど衝撃的な事件だったのです。
黒人奴隷の解放に献身し、南北戦争を指導した第16代リンカーン大統領が銃によって暗殺されたのは大変に有名ですが、アメリカでは、過去何人かの大統領が暗殺者の手によって命を落とし、もしくは暗殺の危機に見舞われています。近いところでは、レーガン大統領が狙撃され、危うく難を逃れました。
しかし、大統領の近くにいたブレイディ補佐官が頭を撃たれ、今でも車イス生活を余儀なくされています。ちなみに、彼は銃規制に取り組み、ようやく銃規制の「ブレイティ法案」が可決されました。
自由の国アメリカの、陰の部分は血に塗られた暗殺の歴史。そして、光の部分を代表していたのがジョン・F・ケネディでした。ケネディはアメリカ国民の誇りであり、憧れだったのです。現在のクリントン大統領も、ハイスクール時代に選ばれてホワイトハウスでケネディ大統領と握手した経験を持ち、それが政治家を目指すきっかけとなったといいます。
当時の世界情勢は、ソビエト連邦を中心とした共産圏と西側自由陣営との間に東西緊張が高まっていました。激動の60年代を予兆する蔭が忍び寄っていたのです。
そして、第2次世界大戦で戦勝国となり繁栄を誇った大国アメリカも、50年代後半になるとさすがにかげりが見え始めていました。
そこに「ニューフロンティア政策』を引っ提げて、颯爽と登場したのがケネディでした。
ポスト「アイゼンハワー時代」を担うべく、60年に民主党から大統領選に出馬。共和党のニクソン副大統領を破って当選を果たし、翌61年1月、史上最年少の45歳の若さで大統領に就任します。
永久的繁栄を願うアメリカ国民にとって、知性と決断力と勇気と若さに溢れるケネディは、まさに希望の星だったのです。
彼はその期待に応え、「ニューフロンティア政策」で停滞していたアメリカ社会にカツを入れ、貧困層への援助をしました。さらに黒人公民権運動に理解を示し、保守派の反対を押し切って白人・黒人の共学を実施しましたし、海外援助組織・平和部隊も創設。外交では老練なソ連のフルシチョフ首相と渡り合い、アメリカ主導の平和外交を押し進めました。
ソ連がキューバに核ミサイルを配置したことで世界中がにわかに緊張、固唾を飲んで見守った「キューバ危機」では、断固とした決意を示して核戦争の危機を乗りきりました。
暗殺はその矢先。自信を持って2期目の大統領選に臨んだ彼は、遊説に訪れたテキサス州ダラス市で凶弾に倒れたのです。
オープンカーでのパレード。後部座席にジャクリーン夫人と共に座って沿道の民衆に手を振って応えていたケネディが、突然前に倒れ込む。次の瞬間、大きく後ろにのけ反った。狙撃されたのでした。63年 11月22日0時31分、在任わずか2年と306日目のことです。
偶然、8ミリカメラが、狙撃の瞬間からパニックになったジャクリーン夫人が走る車から這って逃げ出そうとしているところまで、をとらえていました。このフィルムは何度も放送され、映画でも使われていますから、ご覧になった方が多いと思います。
事件のわずか2時間後、元海兵隊員リー・ハーベイ・オズワルドが実行犯として逮捕されましたが、オズワルドもまた、クラブ経営者のジャック・ルビーによって、逮捕2日後に射殺されています。
それも、移送途中のことで、ジャック・ルビーは大勢の報道陣や警官の目の前で犯行に及んだのでした。
そして、事件解明のために設けられたウォーレン委員会は、64年9月に「オズワルド単独犯行説」を結論づける報告書を発表します。これによって、事件は一応の解決をみたかに見えますが、委員会による真相究明が充分になされたのか。
証拠隠滅の恐れはないか。結論を裏づける証拠は?真犯人は?など、発表当時から、同報告書に対する疑問が付きまとい、謎が謎を呼んでいく。
結果的に事件の真相は闇の中に葬られたのです。以後、今日までいろいろな異論・諸説が飛び交うことになりました。
実際、組織犯罪摘発の報復というマフィア説、ソ連との緊張緩和政策に反発する軍部や右翼団体犯行説、同じく軍産複合体の陰謀説、公民権法制定に反発した白人優越主義者の犯行説などがあります。
また、先頃公開されて話題を呼んだオリバー・ストーン監督の映画「JFK」では、ケビン・コスナーが実在の人物ジム・ギャリソン検事に扮して、ウォーレン委員会の「オズワルド単独犯行説」を否定、当時の副大統領ジョンソンと軍産複合体による犯行説を展開しておりました。ちょっと退屈だけど、興味のある人にとっては十分見応えがあるんじゃないかしら。
そのオリバー・ストーン監督が、次のように語っています。
「ベトナム世代にとって、ケネディは常に希望の星だ。最後の偉大なリベラルな大統領だ。彼の若々しさやエネルギッシュな活動、カリスマ性は変化の可能性に希望を与えてくれた」
ケネディの死後、アメリカはベトナム戦争の泥沼にはまり込み、国力を傾けていきます。しかも、兄ジョン・ケネディの遺志を継いで大統領選に出馬した弟ロバート・ケネディの暗殺、キング牧師の暗殺社会の病理現象が深刻化していく。
パックス・アメリカーナが崩壊に向かい、強いアメリカは普通の国になり下がろうとしています。
そうしたことから、古きよき時代への憧れが生じたのですが、それがケネディ・ブームの根底にあるのではないでしょうか。
そう考えれば、選挙前の予想に反して、新人のクリントンがブッシュ前大統領を破って大統領に就任したことが納得できます。アメリカ国民はケネディ元大統領の再来をクリントンに期待したからなのですね。
いずれにしても、ケネディ暗殺事件の真相は、深い闇の中に閉ざされてしまいました。
そして、ウォーレン委員会やその他の機関・組織で集められた関係書類、証拠書類が一般に公開されるのは、2039年まで待たなければなりません。それまではトップシークレットとして、アメリカ合衆国政府の公文書保存施設に仕舞いこまれたまま。謎は21世紀まで残るのです。
前世は?
劇的な人生を送ったジョン・F・ケネディ。一瞬のうちに燃え尽き彗星のような存在でした。深見先生によって明かされた彼の前世は、かなり大胆なものでした。
中国の明王朝初代皇帝・朱元璋の3本の指に入る側近。明を建国した功労者のひとりだったのです。
しかし、朱元璋が彼に与えた暗殺命令を、その通り忠実に実行して1人を暗殺したために、今世ではあのような結末になってしまったとのことです。
ところで、奥様のジャクリーン夫人は、ギリシアの海運王と呼ばれたオナシスと再婚。数年後には、オナシスとも死別して未亡人となっていましたが、先頃、彼女もまた永遠の眠りにつきました。彼女とJ・F・Kの関係も深見先生に伺っています。ご紹介いたしましょう。
彼女は徳高き仏僧。前世に朱元璋の重臣であったケネディのやり方をいさめ続けた人で、多くの人に施しを与えた方だそうです。
今世では自由奔放に生きましたが、それでも美貌や富、名誉などに恵まれた一生が送れたのは、出家人だったので徳を積んでいたから。そのようなことを先生からお聞きしています。
ですから、私も来世は恵まれて華やかな人生を生きようと思います。そのために、今世は頑張って徳を積み、禁欲生活も送りたいと思います。でも、一週間ももたないか!?!?!
ウォルト・ディスニー(アニメーション作家)
《プロフィール》
アニメーション作家。1901年米・イリノイ州生まれ。美術学校で絵とマンガと写真を学ぶ。1923年にロサンゼルスでアニメ映画制作会社を設立。何度かの倒産、再出発を繰り返して「アリス」シリーズを制作、会社を軌道にのせる。1928年世界最初のフィルム式トーキー・アニメ「蒸気船ウィリー号」をつくる。
このアニメの主人公にミッキーマウスを登場させ、一躍脚光を浴びる。
1934年、カラー長編アニメ「白雪姫」を大ヒットさせ、その後もピノキオ、ダンボなどのキャラクターで新境地を開き、戦後は劇映画に進出。1955年にカリフォルニア・アナハイム市に遊園地「ディズニー・ランド」を開設。他の作品に「不思議の国のアリス」「わんわん物語」、記録映画シリーズ「砂漠は生きている」など。生涯にわたってアニメそのものの代名詞となる活躍を続ける。1966年肺癌のため死去。
多分皆さまは、子供の頃、あるいは大人になってからでもですが、ディズニーのアニメーション映画をご覧になったことがあると思います。また、東京ディズニーランドや、アメリカのフロリダにある本家本元のディズニーランドなどで楽しまれた経験をお持ちの方もいらっしゃると思います。ミッキーマウスなどのキャラクターグッズを集めていた方もいらっしゃるでしょう。
そこで、ディズニー映画の創始者であり、ミッキーマウスの生みの親でもあるウォルト・ディズニーを紹介することにいたします。
ウォルト・ディズニー(正式名はウォルター・イライアス・ディズニー)は、1901年シカゴでディズニー家の4男として生まれました。父イライアス・ディズニーは大工。母のフローラは夫の仕事を助けて帳簿管理や設計・作図から室内装飾までを行なう才女でした。
2年後に妹ルース・フローラが生まれますが、この頃父イライアスはシカゴのような大都会で子供を育てることを懸念して、1906年一家はミズーリ州マーセリーンに移住します。ミズーリ州はアメリカの中央部に位置する州で、マーセリーンにはイライアスの弟ロバートが土地を持っていたといいます。
肥沃な土地柄で、炭鉱や油田などの産業があって経済的にも安定しており、人口は約5000人ほど。気持ちのよい町だったようです。
「この町こそ、豊かな暮らしを立てて、子供たちを健全なキリスト教の雰囲気の中で育てていける場所だ」
マーセリーンへの移住は、父イライアスがこのように考えたからでした。実際、当時のシカゴは既に大都会で、一家の住んでいたのはかなり環境的に問題のある場所。近所の子が盗みで警察に逮捕されるというような事件もあって、両親は子供たちが非行に走るのを心配したようです。
一家は家屋つき48エーカーの土地を買い取って農場経営を始めます。ここがウォルトが少年時代を過ごした思い出の場所となるわけです。農場での生活を通して、いろいろなことを学びました。
しかし、父の考えで学校に行かせてもらえなかったウォルトは、文字の読み書きを母から教わり、小学校とハイスクールが一緒になったパークスクールに通うようになったのは7歳の時だったといいます。学校での成績は「良」程度でした。
やがて、長兄と次兄が父親の横暴に反発して家出、残された一家に旱魃や父親の病気などの不幸が次々と襲いかかります。
結局、4年間マーセリーンで過ごしただけで、一家は農場を売ってカンザスシティに引っ越しすることになります。
カンザスシティでの一家は新聞の販売権を買い、新聞配達の仕事を行ないます。
朝刊の「タイムズ」紙と夕刊・日曜版の「スター」紙を700軒分配達。最初は父と三兄ロイがやっていましたが、やがて小学校に通うウォルトも手伝いに駆り出されます。毎朝午前3時半に起きて、4時半には配送トラックから新聞を受け取る。このような生活でしたから、学校の成績は母親が熱心に宿題を見てくれたわりには、芳しいものではありませんでした。教師たちは、
「この子は注意散漫で規定の学習課程についてこられない」
と、劣等生なみの評価。早朝の新聞配達での疲労も多少影響していたのでしょうが、それ以上に彼は普通のおしきせの勉強が嫌いだったようです。
やがて、15歳の彼はロイの薦めで鉄道で働きます。仕事は列車内での売子。そして、1917年にはシカゴのマッキンリー高校に入学。ここで、彼は自分の描いたマンガを印刷してもらうチャンスを得ることになるのです。
校内雑誌の漫画家に選ばれ、カメラマンとしても活躍。校内雑誌に掲載された彼のマンガは、軽快なタッチとユーモアにあふれるものでした。後年のウォルト・ディズニーの原点をかいま見ることができます。
プロの漫画家を目指したウォルトですが、売れないままカンザスシティでのくすぶり生活に見切りをつけて、1923年、ハリウッドに向かいます。兄のロイと一緒でした。
当時、映画製作者がカリフォルニアに進出して10年あまり。映画産業が、ようやく基盤を固めつつある時期。ハリウッドには大型のスタジオが次々と建てられていました。
ここで、小さなスタジオを持ったふたりは、映画「十戒」などで知られるセシル・デ・ミルに頼んで映画のポスターを描かせてもらって生計を立てることになります。これがディズニー映画の第一歩になるわけです。
アニメーション映画の登場から10年ほどは、ぱしないまま推移していましたが、1914年に画期的な技術革新が生まれます。
セルロイド板に描いた動画を背景画の上に乗せて撮影する、という撮影方法をアール・ハードという人物が考え出したのです。
以来、アニメーション映画の製作が本格化。アール・ハードの「ボビー・バンプ』、マックス・フライシャーの「道化師ココ」「インク壷より」などのシリーズが登場します。ですが、これらは動く「続き漫画(コミック・ストリップス)」の域を出ず、ギャグをつないだだけで筋書きもない作品がほとんど。製作もほとんど大部分がニューヨークに集中していました。
やがて、ウォルトはハリウッドでのアニメーション映画の製作に乗り出します。叔父のロバートから資金を借りて、スタッフ集めから始まる文字通りゼロからスタートでした。
こうして、1927年に「ミッキーマウス」シリーズ第1作の「蒸気船ウィリー号」を発表。評判を得ると、翌年には「蒸気船ウィリー号」に音響・音楽を入れたバージョンを発表して、トーキー・アニメーション映画の先駆者となるのです。
以後、「ミッキー・マウス」シリーズや「シリー・シンフォニー」などの短編を作り続けて内容・技術ともに改良を加え、1932年には3原色テクニカラー技術を取り入れた最初の色彩アニメーション・トーキー映画『森の朝」でアカデミー賞を受賞。さらに、1935年には世界最初の長編アニメーション映画「白雪姫」を完成させるわけです。
この映画は空前の興行成績を上げ、ディズニー映画の地歩を固めることとなります。
「よい芸術は、必ず大衆の支持を得ます」
ウォルト・ディズニーは、この信念のもとにアニメーション映画を製作し続けました。
前世は?
さて、このウォルト・ディズニーの前世ですが、彼は何と唐招提寺を作った鑑真和尚だったそうです。鑑真和尚は中国・唐の時代に日本に仏教を広めるために来日し、律宗の開祖となった方。唐の朝廷に日本への渡航を禁止されながらも、5回に渡って渡航を試み。
遭難に遭い、目が見えなくなっても意思を曲げずに、6度目の渡航でやっと日本に到着できました。それが亡くなる9年前のことだったといいます。
障害を何度も乗り越えて、やっと夢の国・日本にきたという、本当にもう凄い方なんですね。そして、聖武天皇と光明皇后にも授戒をしたということです。
ディズニーにしても、今は知られていますけれども、ディズニーの伝記を読んでみますと、やはり、繰り返し繰り返し襲ってくる絶体絶命の危機とか、そういった哀しみや苦しみ、本当に何度も人に裏切られている人なんですね。
で、そういったものを全て乗り越えて、私たちにいつまでたっても忘れられないような映像と美しい音楽と夢を与えてくれた。本当に私はディズニーさまに大感謝なんですけれども、そういったディズニーの前世と今世の生きざまが、本当に似ているということを発見しました。
やはり前世の生きざまが、そっくり今世に移されているのですね。
サイモン&ガーファンクル(歌手)
《プロフィール》
ポール・サイモン(Paul Simon):1941年米ニュージャージー州生まれ。クイーンズ・カレッジ、ブルックリン・ロー・スクール卒業。
アート・ガーファンクル(Art Garfunkel): 1941年米ニューヨーク市生まれ。コロンビア大学卒。
ニューヨークの公立小学校で2人は出会う。 1957年ビック・レコードからトム&ジュリー”というデュオ名で「ヘイ・スクール・ガール」を吹き込みヒットさせた。
のちに2人は解散し、1964年サイモンの申し出で再びコンビを結成。サイモン&ガーファンクル”のデュオ名でフォーク・アルバム「水曜の朝、午前 3時」を発表。1965年「Sounds of Silence」が爆発的にヒットし、一躍有名になる。1970年にはアルバム「明日に架ける橋」が世界的に大
ヒットするが、その後、お互いソロ活動に入る。1981年にもコンビを再結成し、
ニューヨークのセントラル・パークでのコンサートで大成功を収める。
彼らの曲は私もとっても好きでよく聴くんですけれど、名曲「明日に架ける橋」をはじめ、小学校の音楽の教科書にも載った「コンドルは飛んで行く」などの大ヒット曲を持つサイモン&ガーファンクルー
中でも一番好きなのは「スカボロ・フェア」なんですね。掠れた声でささやきかけるような歌い始めと、控え目ながら切々と歌い上げ、また最初のようなささやきに戻っていく曲の構成は、まるで寄せ返す波のような感じがいたします。あるいは、揺り籠に揺られながら心地よいまどろみ……。本当に素晴らしいですね。
ご存知のように、サイモン&ガーファンクルはポール・サイモンとアート・ガーファンクルの男性デュオ。サイモンはアメリカ・ニュージャージー州出身。もうひとりのガーファンクルはニューヨーク市出身で、ふたりともユダヤ系アメリカ人の家庭に生まれ、誕生年も同じ4年。彼らふたりは、ニューヨーク市の公立小学校で知り合います。
ロックンロールに傾斜していたサイモンは、自分で作詞・作曲を始めていましたが、57年、ふたりが16歳の時にトム&ジュリーというデュオ名で「ヘイ・スクール・ガール」を出してヒットするんです。
でも、このデュオは解散して、それぞれ別の道を目指して進学。サイモンはクィーンズ・カレッジから弁護士を目指してブルックリン・ロー・スクールへ。彼の友人の話では、
「ポールの母親は、弁護士と医者以外に立派な職業はないと思ってるような人でした。でも彼は、血を見るのが恐かったら弁護士になるしかないと、ハナっから決めていた」ということだったようです。
一方のガーファンクルはコロンビア大学に進んで数学と建築を専攻。芸術史の論文で学位を得ることになります。ふたりとも、かなり頭がよかったんですね。そういえば、彼らの曲自体が、何かしら「知的な」感じがいたします。
サイモンは法学の勉強をする一方で、音楽を捨て切ったわけではありませんでした。学業の傍ら音楽を聴いたり、レコード関係のアルバイトを続けていましたが、
やがて作曲活動に熱中するようになります。ボブ・ディランなど同世代のソングライターたちの作品に影響を受け、政治意識に目覚めるなど、曲作りにも大きな変化が起こります。そして、渡欧。イギリスでフォーククラブ詣でにいそしんでいました。
ちょうどその頃、ガーファンクルも夏休みを利用してヨーロッパを旅行。パリにいた時に、ロンドンのサイモンから「ロンドンにこないか」と誘われます。このロンドンでの最後の晩のことです。こんな話が伝わっています。
ふたりはソーホーにあるフラミンゴ・クラブに、イアン・キャンベルのフォークを聴きにいった。ところが、キャンベルのグループが現れず、舞台に穴が空いてしまった。そのため、急遽、穴埋めのトラ(エキストラ)ミュージシャンを探していプロモーターのカーリー・ゴスの目が、フッと店の片隅でギターを抱えている青年に止まった。
カーリー・ゴスに促されてステージに上がった青年は、ギターを弾きながら「ア・チャーチ・イズ・バーニング』『ザ・リーヴス・ザット・アー・グリーン」「サウンド・オブ・サイレンス」の三曲を披露。次に客席からもうひとりの青年を呼び寄せて、自作の「スパロウ」を見事なハーモニーで歌った――。
このふたりの青年こそ、サイモンとガーファンクル。演奏後に、客席が拍手と喚声で湧き上がったことは、いうまでもありません。
こうして、ふたりは再びコンビを結成。「サイモン&ガーファンクル」が誕生することになります。そして、60年、フォークアルバム「水曜の朝、午前3時」を発表。大ヒットとなった「サウンド・オブ・サイレンス」は、このファーストアルバムに収録された曲で、それも最後に追加された素朴でシンプルなフォークソングでした。最初は、アルバム自体がそれほど話題になりませんでした。
ところが、発売1年後、ボストンのある放送でDJが「サウンド・オブ・サイレンス」を流したら番組に問い合わせが殺到。そこから火がついたのです。
そこで、レコードプロデューサーのトム・ウィルソンが、この曲にビートのきいたドラムス、エレキギター、ベースをオーバーダビング。シングル曲として発売。65年12月、ついに全米ナンバーワン・ヒットとなったのです。その後、70年には「明日に架ける橋」が世界的ヒット。空前の大ヒットとなり、グラミー賞6部門を制覇しました。
アルバム1枚で驚異的な1000万枚以上も売り上げてしまう彼らの人気の秘密。
それは彼らの前世にありました。
前世は?
作詞作曲を担当していたサイモン。やっぱり、ただ者ではなかったんですね。深見先生に聞きましたところ、前世の彼はドイツ人。プロテスタント教会のリーダーで、マルティン・ルターの孫弟子に当たる方だそうです。
そして、当時の厳格な社会にありながらも慈悲深く、彼の働きかけで処刑されるべき政治犯など3000人も逃して命を救った。
それは、実質300人の命を直接救ったに値する功徳だということです。これは大変な功徳です。世界的な名声を得て当然な徳量だと思います。
ところでガーファンクルさんですが、前世はナント、サイモンさんのお母さんだったそうです。あの二人の雰囲気…。ナルホドとMI DORIは納得してしまいました。それからサイモンさんのことで、一つ大変な事も聞いてしまいました。実は深見先生によると、サイモンさんはこのままでいくと、6歳でチョット危険な目に遭うのだそうです。それを乗り越えれば20歳から30歳ぐらいまでは生き永らえることができるんだそうですが。やはり前世の悪業)も、立場上
やむをえなくてあったのでしょうね。
でも、サイモンさんが今後チャリティーコンサートなど開いて徳を積めば、その分、悪業は抹消されていきますから、何か、愛に満ちた一大企画をやってくださることを期待しています。
もっとも、先生がそのように未来の警告をされるということは、努力をすれば防げるということですから。
私はとり合えず、サイモンさんの延命長寿祈願をしようと思っています。皆さんもヨロシクね!
