下手な英語の話し方(Vol.2)

推薦のことば(英国エジンバラ大学特任客員教授 國弘正雄)

さいきんの流行語に、マルチ人間というカタカナ語があります。これは正規の英語ではなく、かっこ付きの、英語もどきというか、いささかこけおどかしの新語です。

もっともマルチというのはラテン語に由来するれっきとした接頭辞で、多数の、多元的な、というほどの意味です。ですからマルチ人間という造語は、いろいろな分野でしごとをしてきた人間、ということなのでしょう。

実は小生もさまざまな領域にかかわってきましたので、マルチ人間という名前をまま冠せられてきました。

多少勉強してきたのが文化人類学とか異文化間コミュニケィションという比較的あたらしい分野で、物を書いたり、内外のいくつかの大学で教鞭をとってきました。

翻訳とか通訳とかいうしごともずうっと手がけてきました。米大統領と日本の首相の首脳会談をはじめ、アポロの月面着陸や何回かにわたる日本と欧米各国との閣僚会議を含めてです。異文化間コミュニケィションの実践の場としてです。

テレビのニュースキャスターを十一年、教育テレビの番組を同じく十一年、ラジオの教育番組を十年、とマスコミの領域でもしごとをしてきました。あとは一期六年だけでしたが、国会議員として国政にも加わりました。

ですからマルチ人間と呼ばれてもしかたのない面があります。

小生個人としては、俳聖芭蕉にならってただこの一筋につながる」ことを人生の目標においてきたにもかかわらず、ふたをあけてみたら、こと志と反していろいろなしごとに携わってしまいました。そういう運命ででもあったのだろうかと、自分の星まわりがいささか不思議です。

でもこの本の著者の深見東州さんは、マルチ人間などという、当世風のいささか安っぽい呼び方をするには畏れを覚えざるをえないようなご仁です。

そして小生はためらうところなく深見さんを今日には珍しい「ルネッサンス・マン」の一人と名付けます。

やや古い言い方ですが「往くとして可ならざるはなき」多彩な才能をこの人は持ち合わせ、それをフルに開発、発揮させてきました。

専門とするビジネスの世界で多岐にわたるいくつもの企業群を成功裡に率いている以外に、洋の東西時の古今にわたる芸能や芸術での領域における達成や業績には目を見張るものがあります。

たとえばごく最近の小生自身も噛ませてもらったケースをとっても、名にしおうニューヨークはメトロポリタン美術館や国連本部で、宝生流のお家元と同道、能楽のシテを勤めたというのは、これはただごとではありません。

しかもその種の足跡は、ニューヨークにとどまらずに、英京ロンドンや中国の各都市、それにオーストラリア各地にも及びしかも絶賛を博しているのです。

「ルネサンス人間」ということばがかのレオナルドダビンチや文豪ゲーテに関して用いられたことはよく知られていますが、深見さんをそう呼んだとしても、今日のという修飾語を冠するかぎり、決して過とはいえないでしょう。

小生はそう確信しています。

深見さんが神道や仏教にも深い造詣を持ち、客員教授までしておられることを思う時、小生は同じ現代のルネッサンス人間の巨匠であった大本教の、出口王仁三郎師を思いおこすのです。

宗教音痴に近い日本人にとって「宗教は全廃されねばならない」という同師の発言とその破天荒な活動は舌を巻くばかりで、深見さんを同師になぞらえることはむしろ不幸な誤解を招くよすがかも知れません。

でも書や画、オペラや能楽を能くする深見さんを、月に千首もの作歌を行っては歌人前田夕暮をして「量の上からいえばおそろしい独歩であり、現代のスフィンクスである」と詠じしめた同師、また七年近くを獄中にすごした上に、七〇才のなかばにさしかかった高齢で、なお一年四ヶ月の短期間に三千に及ぶ作陶を行ないその茶碗の質の高さを喧伝される同師に比肩することは、今日四十数才の深見さんに恐らくは許されているであろう余命の多くを思えば、それほど見当外れな比較ではない、と思われてならぬのです。

王仁三郎師にとって和歌や作陶はいわば宗教的情熱の出そのものであったとは識者の説くところですが、深見さんにおける洋の東西、時の古今にまたがる芸能や芸術、さらには活発きわまりない国際交流の世界もあるいはそうではないか、と小生には思えるのです。

王仁三郎師が「一つの神、一つの世界、一つの言葉」というモットーのもと、エスペラント同師の標記によれば英西米蘭統―にいち早く関心を示し、本格的にのめりこんでいったことはよく知られています。日本が世界的に孤立しないように、というのが同師のエスペラントへの肩入れの理由でした。

この点で深見さんの関心は英語、それもイギリス人やアメリカ人、ないしはオーストラリア人に固有なものではない、小生がかつて用いたことばによれば脱英米化した英語に向います。同志社大学の三年生にしてすでに四百人のメンバーを有するESSのリーダーとなり、後輩の指導にあたったというのですから、若き日の深見さんの面目躍如です。

現に深見さんは小生が十年の余にわたって担当した教育テレビのトークショーという、さまざまな著名人とのインタビュー番組の熱心な視聴者の一人で、いまだに当時耳にした目にした表現の物真似をして笑いあいます。

そして日本人が英語が得手でない理由の最たるものを、アメリカ人やイギリス人のようでなくてはいけないと思いこむ点に求めるのです。

そこに自分のような英語ないしは英語教育の非専門家が英語について物を書く意味がある筈、と決して傲岸ではなくしかし深い自信をこめて語るのです。

まさにその通りです。とかく(とくに日本の)英語の専門家は、重箱のすみをつつく態の瑣末主義におちいって、目くじらを立てることに懸命で、大らかさに欠けます。

これは、いかに減点をはかるかと、学習者がおとし穴にはまることをいまや遅しと待っているかにみえる受験英語のもつ偏狭ないやらしさのあらわれなのでしょう。

それがただでさえわれわれの小心翼々さに拍車をかけ「英語さまをお習い申し上げる」という姿勢を助長してきたのでしょう。

「英語さまをお教え申し上げる」という教授者の側の意識の反映がここに見られることはどうやら確かです。

小生は「英語の話しかた」というかつての大ベストセラーの中で「細心に大胆に」という形容矛盾的な物言いをして、それが言語に上達する要諦だと力説しました。

実は細心さと大胆さというこの二つは両方とも必要とされるのですが、日本の英語教育にあっては、細心さのみがあまりにも重視され大胆さがほぼ完全に無視されて深見さんのような、英語を使って地球大でしごとをしてきた実務家の口から、自らの原体験に基いて大胆さがどれほど大切であるかを強調してもらったこの本は、小冊とはいえ、ことの実相をつぶさにかつ具体的に伝えてくれる点で、大きな価値があることをくりかえし力説したく思います。

そしてこれは望を得て蜀を臨むたぐいの小生の個人的な願いですが、日本がややもすれば国際的に孤立の方向に向いつつあるやに思える今日このごろだけに、深見さんがその英語と英語を通じてのさまざまな国際交流のしごとを通じ、われわれが愛しんでやまないこの日本という存在が、王仁三郎師のいう「愛国主義が還って排他に至り、自己愛になってしまうことのないよう」その影響力をとくに彼の信奉者が少なくない若い世代に拡げていってほしく思います。

ややもすると国粋主義への危険きわまりない傾斜がまたぞろ際立ちつつあるように思うのは、小生一人ではないでしょう。王仁三郎師がローマ字やエスペラント語の奨励に懸命だったのは、まさにこの排他主義への傾斜を懼れたからでした。

前車のくつがえるを見て後車のめとする上に、「現代のルネッサンス人間」たる深見さんの責任は重かつ大とせねばなりません。ことは単に英語がうまくなるかならぬか、という次元には留まらぬのです。

はじめに

今、書店に行くと、英会話書のコーナーには、びっくりするほど多くの種類の参考書があふれている。

しかし、そのどれを見ても、ある程度の英語能力のある人や、基礎ができている人を対象としたものばかりで、完全に入門レベルのものは少ない。

しかも、英会話を学ぶ上で最も大切な、外国語を学ぶための基本的な態度や方法論について、学習者の立場から簡潔にまとめたものはほとんど見あたらない。たぶん、英語が上手すぎる人が書いた本だからだろう。

本書を「下手な英語の話し方」とあえて題したのは、こうした入門以前のテーマについて、私の体験や私自身が実践している方法を公開することが、これから英会話を学ぼうとする人に必ず役立つと考えたからである。

本書を読み進めていくと、ここに書かれている事柄は、一般の人が描いている英語学習の理想や方法論とはかなり異なる部分があるはずだ。

それは、あえて誰も明言しなかったことを本書の中で率直に提言しているからであろう。

ところで、私が英会話を初めて勉強したのは、大学一年生の頃である。同志社大学ESSに入部して、そこから始まった訳だが、三年生になって四百人の部員を率いる委員長になった。

そして、四年生になって卒業する卒業式の日まで、私はクラブ活動に専念し、後輩に英語を教え、英語のスピーチ、英語のディスカッション、英語のディベート、英語のギャグパフォーマンスを教え続けたのである。

また四年生の時には、同志社女子高校のESSのコーチも務めた。三年生の時には、委員長として早慶明学、明大、日本女子大などに遠征して、英語ディスカッションの対外試合をさんざんやった。

楽しい、面白い、有意義な青春時代だったが、常にそこで、英語を初めて話そうとする後輩や、通じる英語、論理的に切れる英語を話そうとする後輩のために、ハードな訓練や教育をしていたのである。

その後、抜群の英語で合格する予備校を作り、今は英検一級塾を作って経営をしているが、37歳でオーストラリアの家具屋を買い取り、それから必要に迫られて、雇っている外人と楽しみ、説得し、交渉する英語の勉強が復活したのである。長いブランクだったが、それからまたコツコツと英語を勉強する日々が始まった。

通訳になるつもりもないし、そんなに完璧で、上手だとも思っていないが、まあ言いたいことは通じるし、外国での仕事で不自由をしない程度だが、それでも羨ましい、そうなりたいと熱望するスタッフが沢山いることに気がついた。

ネイティブは話せない日本人の気持ちがわからない。英語の上手すぎる人は、全ゼロから話し始めようとする人の気持ちや頭の中がわからない。というよりも、自分が勉強し始めて下手だった時のことを、もう忘れてしまっているようだ。

私は英語を教えるプロではないし、通訳でもない。自分では下手だ、下手だと思いながら勉強を続けている英語実務実践家である。

この私の三分の一でも五分の一でも話せたらいい、という、初めてのさらに初めての人たちの要望があり、それに応えて執筆を決心した次第である。

私の尊敬する同時通訳の神様である國弘正雄先生は、「英語の話しかた」(全面改訂・復刻版を「國弘流英語の話しかた」としてたちばな出版より発売中)という名著であり、ベストセラーを出されたが、私は「下手な英語のすすめ」「いいかげんな英語の話し方」という本を、初心の人のために書こうと思って出すのが、この「下手な英語の話し方」である。「入門の入門」レベルとは、そういう英語にならざるを得ないはずだ。

現在、旅行会社やヨットのマリーナなど、百人以上のオーストラリア人とイギリス人とアメリカ人を、かの国で雇っている私には、外人コンプレックスなど全くない。逆にいつもこう思っている。

「イギリス人よ、アメリカ人よ、オーストラリア人よ、よっく聞け。日本人がせっかくあんたらの母国語を習って話そうとするのだ。文法的なミスや、変な言い回しや、聞きづらい発音ぐらい辛抱して聞いてくれ。

間違っている所はただで直してくれ。そもそも、あんたらが私の母国語の日本語を勉強しないからこうなるのだ。

聞き難い、わかり難いと思ったら、そこを反省して、辛抱してくれ」と。

本書は、こういう英語圏の人々に対する愛から始まる、積極的で明るい開き直り勉強法の伝授である。皆さん、どうか下手な英語をドンドン話し、入門の入門・英会話のドアを、こういう開き直りから開き直して下さい。

二〇〇〇年一月吉日

第1章 深見流「英語の話し方」理論編 ── 観念をブチ破れ!

≪1≫ これが英語の「超」常識だ!!

入門書は上手な人が書いてはいけない?!

日本人は英会話が苦手だということは、世界の常識、日本の常識だ。そのせいか、英会話の入門書はいくらでも本屋に売っている。

でも私は、入門書のそのまた入門書を書くことにした。

初心者は、どういう勉強をどこまでやっていいのか、どうしたらうまく話せるようになるのか、どうしたら聞き取りできるようになるのかわからないので、いろいろな本をあさってみるものだ。だが、その入門書というものを書くのはとてもむずかしい。まして入門の入門となったらもっとむずかしい。

たとえば、英文学・英語学の専門家である渡部昇一さんが書いている専門外の本は、どの本もおもしろい。でも、その渡部さんが書いていないような、ロンドン生活の入門書を、同じ英語の専門家である木村治美さんが書いている。

それは「黄昏のロンドンから」という、ロンドンの見聞録なのだ。私はこの本を読んで、「ロンドンに初めて行ってまだ半年しかたっていない人間が、そんなのをよく書くなあ」と思った。

だが、渡部昇一さんによると、それでいいのだ。逆にロンドンに十年も二十年もいたら、ロンドン生活なんて当たり前になってしまう。

だから、ロンドンに行って初めての感激とか感動とか、ロンドンを初めて見てハーと思ったときの気持ちというのが、結局、ロンドンを知らない人にとっては、見聞録として読んでみると非常におもしろいわけである。

逆に、ロンドンに十年も住んでいたら、すべて当たり前になって、いつの間にかロンドンの人になってしまう。

そういう人が見聞録を書いても、読む方は「ふーん」と思うだけだ。

だから、入門書や見聞録や紹介書というのは、あまり詳しい人が書いてはいけない。詳しく専門的になりすぎてしまうからだめなのだ。

慣れた人にとって当たり前になっていることが、全然何も知らない人にはわからないのだから、かじった程度の人が書いた本がいちばんわかりやすい。だから入門の入門というのは、私のような人間が書いたほうがいい。

入門の入門書というものを、どこかの偉い人が書くことはない。少なくとも、私のような者が話すぐらいの英語が話せれば、十分だという人が大勢いる。

私自身はもっと英語がうまくなりたいと思うのだが、初心者の人が、私ぐらいのレベルで話せるようになりたいというのなら、私が教えてあげますよということである。

語学は頭の悪い人がうまくなる

英語が話せない人は多い。東大や早稲田、慶応に入った人でも、英語力が優れているし知識もある、でも、全然話せない、という人は大勢いる。

最初に、そのへんのことを考えてみよう。東大、早稲田、慶応・・・・・・そういういい大学に入る人は、だいたい頭がいい。しかし、そういう人は、あまり英語がうまくない。うまい人もいるが、そう多くはない。

それは、語学は数学、物理、哲学のように理解するものではないからだ。だから、無論例外もあるが、概して理解力の優れた賢い人は、英語のスピーキングがあまりうまくない。

バカみたいに、理屈なく覚えることに疑問を感じるからだ。かえってそういう意味で賢くない人でないと、英語はマスターできないものだ。

語学とは基本的に理解するものではなく、ばかみたいに暗唱するものだからだ。英文を理解するには読解力が少しいる程度で、単語と熟語がわかれば、誰でも通常の英会話はできる。

思考力や理解力は基本的にあまりいらないのだ。その証拠に、アメリカやイギリスやオーストラリアの人々は、どんなにバカな人間でも、知力の乏しい5歳児や小学生でも、皆、英語はペラペラで完璧なのだ。

だいたい英語がうまくなる人間というのは、一生懸命暗唱をする。例外的な表現でも、何の疑問も持たずに暗記する。一生懸命聞いて、相手の言っている中身を理解する。

物事の本質を哲学的に理解するのではなく、何を言っているのかを理解するだけだから、英語が話せるようになるためには、単細胞な人の方がいいのである。無論、学術会議の通訳などは別である。

語学は、誰でもできるコミュニィケーションの一手段だ

英会話入門の入門者のコンプレックスをなくすために、もっと言っておこう。同時通訳というのは、同時に人の言うことを置きかえていくから、自分を形成する時間がない。

人の話すことを、どうやって移すかばかり考えて練習しているわけだから、自分というもののアイデンティティや中身の思想がない。

一般に同時通訳の人は、だれでも言うような似たりよったりのことしか言わない。独自の思想なんていうのを持っている人は少ない。

本を見ても、話を聞いても、似たりよったりの、世間でどこでも言っているようなことを、少し言い方を変えて言っているだけだ。

だからこそ、國弘正雄先生も同時通訳の神様から、社会党の仏様や出版社の天使となり、また教育番組の賢者やニュースキャスターの地蔵菩薩などに脱皮されたのである。

英語をある程度やっていたら、英語屋と言われる人たちは、あこがれるべきものではないことがわかる。英会話ができないとか英語ができないことをコンプレックスに思うから、できる人が羨ましくカッコよく思えるのである。

英語ができる人を尊敬すること自体が、ばかばかしいと思えるようになる。

外国人と話したければ、通訳を雇って訳してもらえば終わりだ。たいしたことではない。

尊敬できるお話の中身や文化のある人、また会社の経営を成功させている実力のある人の方が、よっほど偉いのだ。

できないと、「できない!」というコンプレックスになるから、むしろ「何だ、どおってことないんだ。英語なんて」と思わないとだめだ。英語ができる人はすごいというのは、その明るさと、積極性と、コミュニケーション好きと、プライドと、単純な脳の使い方と、並はずれた努力や根気においてすごいのだ。

自分の思想とか、考え方とか、独自性と文化性も芸術性も決断力も、仕事をやりこなす実力、人間性の良さも関係ない。そもそも英会話はコミュニィケーションの手段であるから、語学そのものにはなんの値打ちもない。

何のためにコミュニケーションをするのかといったら、パーソナリティとか思想とか意志とか個性とか、そういうものを伝えるためだ。

英語屋さんというのは、手段ばかり研究していて、中身が乏しい人が多い。

しかし、いくら中身があっても語学ができないと、インターネットで情報の収集をしたり、ひとつの狭い視野や活動場所に止まり、世界を相手にできない。世界を相手にする鍵を握っているのは、語学だ。

あくまでも語学はその鍵の勉強なのだ。鍵にも、小さい鍵と大きい鍵がある。大きい鍵になるまで熟達してきた人は、概しその為の時間と労力のために、大切な何かを犠牲にしている場合が多い。

だから、一般的には、まん中ぐらいの鍵をめざすのがいいのではないだろうか。しかし、一応、小さい鍵でももっていたら、異国の人と肌で直接コミュニィケーションができる。

またゲーテの有名な言葉、「外国語を知らざる者は自国語をも知らじ」というものがあり、自分の国の良さや自国の文化の特性、また自国語の特性を自覚し、再発見するために、下手でもいいから異国の人と外国語でコミュニィケーションする意義は大きい。

だから、自分の頭があまりよくないと思う人は、「努力と根気だけだ、努力と根気だけだ」と唱えつつ、コンプレックスを捨てて、英語を簡単なものだと思って勉強するといい。開き直って徹すれば、きっと上手くなるはずだ。

how to speak よりも what to say が大事

何度も言うが、英語はコミュニィケーションの一つの手段だ。だからhow to speak English、つまり、手段を研ぎ澄ますことに越したことはない。

確かに、手段を研ぎ澄ますと英語は正確に伝わる。だがhow to speak Englishよりも大事なものは、 what to say in English、つまり、何を伝えるのかなのだ。

例えば、インドネシアの故・スカルノ元大統領のデビ夫人は、ものすごく英語がうまい。 how to speak Englishができていて完璧だ。

でも、言っている内容は「パリの社交界で云々」、「娘がどうのこうの」と世間話程度の内容で、新聞記者が長時間聞くに耐えないものと言われている。

それにひきかえ、ご主人の故・スカル元大統領は、アイ・ティンク・・・エイジアン・・・カントリズナァフェイシング・・・ディフィカルティーズ、のように、お風呂の泡がぶくぶくぶくぶくぶくぶく、っと音を立てているような、決して流暢ではない、聞き取り難いバブル英語と言われるものだ。

しかし、そういう話し方でも、彼は、「アジアの旧植民地は見かけ上、独立しているが、アメリカをはじめヨーロッパなどの旧宗主国が、武力以外のあらゆる手段でアジアを植民地化しており、これは「新植民地政策」と言えるものである」と言って、アメリカやヨーロッパ等を非難し、アジアは経済的にも政治的にも軍事的にも真に独立しなきゃいけない、と呼びかけたのだ。

この発言によって、彼はアジアや世界を大きく動かした。スカルノは英語をうまく話せなくても、世界を動かす言葉の中身があったのだ。

だから英会話において、 what to say in English を培うことは非常に大切なことである。もちろん、 how to speak English what to say in English の両方が揃えば一番いい。

だが入門の入門レベルの初心者は、ちょっと中身さえあれば、ひどバブル英語でもいいのだ。

意志が伝われば、完全でなくてもいい

あなたは、イギリスの女王でもなければアメリカの大統領でもない。ハーバード大学やケンブリッジ大学の教授でもなければ、ニューヨークタイムズの論説委員でもない。

だから、文法のツジツマが合っていなくても、だれも非難したりはしない。英語を職業にしていくわけでもないのだから、外国人とお話ができたらそれでいい。

とりあえず、外国に行って用が足りたらいいわけだ。さらに教育問題とか、自分の仕事の問題について、ボロボロの英語で相手にわからせたらいいのだ。

I want to be able to express myself in English. でいいわけだ。とにかく、自分の言いたいことが何となく、基本的な言葉で伝わればいいのである。

外人を相手にする商社に勤めている人でも、へんてこりんな発音で文法もあやしい英語を、平気でたくさん使っている。

国際的ビジネスマンというような人でも、けっこうブロークンだったりする。それでも、ビジネスで必要な単語だけはビシッと言っているわけだ。

たとえば、商談では採算がとれるかどうかが重要なポイントだが、フィージビリティという言葉があって、いろいろ話していてもフィージビリティと言えばすべてわかる。

このfeasibilityというのは、買い物とか挨拶に使うような単語ではなくて、「実現可能性」つまり、「できるかどうか」「うまくいくかどうか」という意味だ。

Feasibility is a problem. 「フィージビリティが問題だ」という会話は、「あなたのプランはだいたいわかった。それで採算がとれるかどうかだね」というように使われる。

商社マンなどは、そういうポイントになる用語だけはキッチリ話すわけだ。あとのところは結構ブロークンでも、なんらビジネスに支障はない。

私の友人の手相家西谷泰人さんの場合なら、運命線、生命線、感情線などの語がキーワードで、それをまちがえなければ、あとはgoodとbadで英語鑑定ができるわけだ。

Your fortune line is good. 「あなたはいい運命線をしている」のように。

もちろん、もっと上手で高尚に聞こえる英語表現はいくらでもあるけれど、とりあえず、これで一〇〇%通じる。

fortune lineとか life lineとか、名詞だけ間違えなければいい。goodとbadを反対に言ってはいけないが。

アメリカ人やイギリス人のようでなくていい

英語はアメリカ人のようでなくてはいけない、またイギリス人のようでなくてはいけないと思っているから、日本人は英語を堂々と使えないのだ。

自信がもてなくて、はじめから英語はむずかしいものだと思い、結局英語ができないままで一生を終える人も多い。

大学のころに、私は沢山の外人の英語を聞いて、世の中には色々な英語のあることがわかっていたから、どんどん外人とも日本人ともマイペース兵庫県英語で話し、体でぶつかって、体でコミュニィケーション会話の基礎をマスターした。

今はもう一回、英語圏の大学で教えなければならないので、グレードの高い英語をやっていこうと学んでいる。表現も覚えたら覚えた分だけすぐに使って、本当にきれいで完璧な、新聞でもテレビでもラジオでも、どこで話しても恥ずかしくない英語に近づけようと、一生懸命励んでいる。

今でもある程度はできているが、まだまだアラが目立つし、語法が単純すぎる。大きなシンポジウムに何十回も出て、切れるロジックの応答には慣れているが、普通の上級会話の正確さや綿密さは、まだまだだ。プロの通訳と比べるとまだまだのまだまだである。

しかし、人間としての実力や話の中身に乏しい単なる通訳とは、初めから比較しないので、全くひけ目など感じていない。

ベルギーでの私の実体験

ところで、私がアメリカ英語やイギリス英語でなくていいと、改めて切に思ったのは、英語を第二外国語として話すベルギー人と仕事をした経験からだ。

ベルギーに行って、当たり前のことを一度身に沁みて確認したのだが、ベルギーの人はフランス語とオランダ語を話す。

そしてみんな、「英語ができます」と言うから、私も英語で仕事をしていたのだが、だいたい私の英語のレベルとほとんど変わらない。

発音もアクセントもフランス語のようなオランダ語のような、へんてこりんな英語である。表現やバリエーションもオーソドックスで、私と似たりよったりだ。

しかし、ベルギー人は漢字・ひらがな混じりの縦文字文化と違い、英語的な基本文型が幼児の頃から頭に入っているから、英語でちゃんと仕事もし、コミュニィケーションもできる。

フランス語圏の人はフランス語に自信と誇りをもっているから、英語そのものを見下している。見下しているが便利で必要なので、いやいや習って話すのだ。

私達も日本語と日本文化に自信と誇りを持ち、この本のように、英語通訳が怒り出すぐらい英語や英語屋を見下して、「英語がなんじゃい」とタンカを切り、「中身のある下手な英語」をドンドン話すべきなのだ。

これが、一般的な商社などの英語実務家の本音である。

ヨーロッパ英語でいいんだ!

日本で英語を話す人は少ないし、上手に英語を話す人はもっと少ない。だから英語が苦手な人は、どうしても英語が上手い人のこと「すごいなあ。英語を話せるなんて・・・・・・」と思ってしまう。

しかし、ヨーロッパにはそういう人は沢山居る。だから、別段すごいとも思わずに、気楽に怪しい自分なりの英語を話そうとする。それでいいのだ。

私たち日本人は、英語を母国語とする人のように話す必要はない。ヨーロッパ人、とくにフランス語圏とか、スペイン語圏の人が第二外国語として話す英語でいいはずである。

私たち日本人は、ネイティブに英語を習ったり、アメリカとかイギリスに行くと、「発音、イントネーション、聞き取りが難しい、大変だ」と思って、どこまでやっていいのかわからなくなる。だから、萎縮して話せなくなってしまう。

だが、これは私たちが打ち破らなければならない大きな観念のカベなのだ。アメリカでもイギリスでもオーストラリアでも、そこに実際に行ってみると、三歳の子供でも英語を喋っている。

でも日本の子供だって、複雑怪奇な日本語をペラペラ喋っている。おとうさんが大阪出身、お母さんが東京出身なら、大阪弁と東京弁の二ヶ国語を喋っている。

ヨーロッパ人にとっての二ヶ国語とはそんなものなのだ。地理的背景や歴史的背景が少し違うだけで、日本人の言語能力が劣っているわけではない。

むしろ、日本語は世界に冠たる難しく、多様で、美しい豊かな言語だ。だから、これを使いこなす日本人の方が、余程言語能力が優れていると思う。

その日本人が、世界の言語の中で簡単だと定評のある英語を習うのに、「難しい、大変だ」と思うのはおかしい。そう思うべきなのだ。

今はもう、アメリカ人やイギリス人が話している英語や米語より、スタンダードな国際英語の時代だ。

世界には、「英語ができます」と言いながら、むちゃくちゃな発音と、むちゃくちゃなイントネーションで話している人がいっぱいいる。この世界の実態を、読者の皆さんはまず知るべきだろう。

フランス人の英語は、全部hが消える。 I am happy. は、アイアムアピー。イントネーションも変だ。 discussionは、ディスカスィョーン。これがフランス英語だ。

私は大学時代にいろんな外人と話す機会があったのだが、フランス人がこのように話すのを聞いて「なんか、この人の喋っているフランス語って、どこか英「語に似ているな」と思ってよく聞くと、それが英語だった、ということがあったのだ。

また、イタリア人、スペイン人、ポルトガル人、ブラジル人は、 problemなら、rの音を巻き舌でゥルルルと発音するので、プゥルルロブレム。 very very importantは、ヴェルルリヴェルルリインポールタントと発音する。

フランス人は、全部hの音が抜けるのだが、「何言ってんだ。フランス語から英語が発達して出てきたんだ」と、イギリス人やアメリカ人をバカにしていて、フランス語に自信をもっている。

またイタリア人は、「ヨーロッパ文化は、ローマ帝国から起こったんだ」と思っていて、イタリア語に自信をもっているので、アメリカ人やイギリス人のようにrを発音しない。

さらにインド人の場合、 I think を、アイティンクと発音する。アラブ人もアイティンクと発音する。1との区別などもあまりない。

国連に出ているインドの代表だとか、アラブの代表、それにアジア圏の国々の代表が話している英語を聞いてみたらいい。彼らは、日本人みたいに英語、米語の発音をちゃんとやっていない。

それに、オーストラリア訛りの英語でも、 They can’t understand. は、ザイコントアンダスタンド。 todayがトゥダイ、 eightがアイト。newspaperがニュースパイパーとなる。

オーストラリア人は、こうした発音が正しいと信じて発音している。

アメリカ人だって、キッシンジャーの英語はひどいドイツ語訛りで、彼の英語はどわかりづらいものはない。

私のシンポジウムに一度招いて直接話をしたが、他のアメリカ人が聞いても、聞き取りにくいと感じる英語で話していた。それでも、アメリカの国務大臣にまでなって、ノーベル平和賞ももらっている。

そういう英語を我々日本人が聞くと、それまで1とrの発音の違いや山の発音を学んできたのは、いったい何だったんだろうと思う。

国際英語の一種のアメリカ英語を学んだ、というだけなのだ。アメリカ人は、アメリカがなんでも世界一だと思っているから、アメリカ英語に自信をもっている。

その英語を日本人が学んでも、それはアメリカ英語で話すだけのことだ。

日本語には方言がたくさんある。さらに関西弁という一つの方言の中でも、大阪弁と京都弁と神戸弁と西宮弁は微妙に違う。滋賀県弁、和歌山弁、広島弁もある。

ヨーロッパのラテン系の言語も、一種の方言のようなもので、イタリア語で例えば、シニョリーナベリッシマ(あなたは美しいですね)は、スペイン語でセニョリータベジッシマと言う。これは、関西弁が和歌山弁になったようなものだ。

とにかく、イタリア人とかスペイン人などのヨーロッパ人は、自分たちの歴史と文化や、言葉の成り立ちを知っていて、英語は必ずしもアメリカ英語のように発音しなくてもいいと思っているから、堂々とイタリア英語、スペイン英語を話している。

だから、日本人だってアメリカ英語を模範にする必要など、決してないのだ。 very very beautifulを、ベリベリビューティフルドス、と京都弁英語で喋ったっていい。

こういうところに、日本人がなかなか打ち破れない固定観念があるのだ。

英語は国際語だ。「いい」英語か「悪「い」英語かということはない。世界にはイギリス英語、アメリカ英語、オーストラリア英語、インド英語、アラブ英語、アジア英語があって、アジア英語のなかでもさらに日本語訛り、中国語訛り、韓国語訛りの英語があり、我々はその日本語訛りの英語で喋ればいい。

もっと言うと、大阪の人間は大阪訛りの英語、東北の人間なら東北訛りの英語をどんどん喋ればいい。

そして、だんだん話せるようになってきてから、アジア英語に近づけて、次にヨーロッパ英語に近づけて、そして腹が立つけれども、時々イギリス英語やアメリカ英語に近づけて話せればいい。

さらに言うと、イギリス英語とアメリカ英語を比べた場合、絶対にイギリス英語を覚える方がいい。オーストラリアでも、教養のある人は、皆イギリス英語で話す。

イギリス英語を話してアメリカやオーストラリアに行くと、皆尊敬される。文化的に品のある英語だと認識されているからだ。

アメリカ英語を覚えてWell, I think ・・・なんて言うと、イギリス人は下品な英語だねと言わんばかりにバカにする。

あるいは、「コロニアル・イングリッシュ(植民地英語)」だと言って見下される。

日本人はイギリス英語の方が発音しやすいし、馴染みがいいし、そちらを覚えておく方がトクなのだ。

だから、最初から最後まですべてアメリカ人の先生について、アメリカでやっている教材を聞いて、アメリカ英語のNHKの会話を聞いて、アメリカ英語の発音の練習をすることほど、日本人に英語を難しいものと思わせ、やる気をなくさせるものはない。

学生時代に試験でチェックされた典型的な発音問題、「tomato」は「トメイト」が正解、「often」は「オッフン」が正解だったはずだが、オーストラリアやイギリスでは、「トマート」「オフトン」と発音している。

ローマ字通り発音すればいいものを、アメリカ英語様を正しい英語だと思って苦労したことが、馬鹿みたいに思えてならない。

イントネーションでもそうだ。イントネーションは、主にアメリカ人のイントネーションなのだが、スペイン人、ポルトガル人、イタリア人の話す英語には、イントネーションなんかない。

全部フラットで、だらだらだらだらと話す。でも、堂々と感情をこめて喋っている。

だから日本人も、だらだらだらっと話せばいいのだ。単語のアクセントの位置さえ正しかったら、イントネーションなんて必要ない。

だから、「アメリカ人のように発音や表現ができないから、英語はむずかしい」と思うのは、もうそろそろやめることだ。これからは、和風のインターナショナルで行こう!