シアヌーク国王がお気に入りの構文
また、外国の有名人で、英語圏以外の国の人は、たいていは単語を並べただけのような英語を話している。
やさしい言い方で、適切で必要な単語さえ言えばいいのであって、ネイティブのように話さなくてもいい、とわかっているからだろう。カンボジアのシアヌーク国王の英語を聞いたらびっくりする。もともとフランス語圏の国なので、フランス語は得意だが、英語はフランス語訛りの教養ある独特のものだ。
私はシアヌーク国王と三回会ったことがあるが、とにかくbetween A and B (AとBの間)の構文が好きなのだ。 between our country and Europe 「私たちの国とヨーロッパの間」とか、 between Pol Pot and our army. 「ポルポトとわが「軍隊の間」とか、いたるところに between A and Bという構文を使う。
奥さんのモニニス王妃も、 between A and Bの構文ばかり使う。シアヌーク国王は、一回の会話でbetween A and Bを十回ぐらい使うだろうか。奥さんの場合は三回ぐら出てきた。
しかし、シアヌーク国王は国王であって、別に通訳ではないわけだから、それでいいのだ。通訳だったらプロだから、それではすまされない。
テレビや新聞を見て、知らない単語があったら、「ぞーっ」と背筋が寒い思いをして、「これを知らないなんて!」というぐらいの気持ちで勉強しなくてはいけない。
でも、あなたもシアヌーク国王も通訳になるわけではない。ネイティブでもないし、たかが第二外国語だ。そう思って外国人に好きな構文を多用して話しかけ、聴くことだ。
日本と外国、ゴルフについても同じことが言える
日本のゴルフプレーヤーは、プロもアマもみんなフォームはきれいだ。「こういうふうにゴルフをするもんなんだ」と、まず型で考える。
日本文化は型の文化だと言われるように、型にはめて考えるから、日本人のフォームはみんな整っている。
オーストラリアでもアメリカでも、むこうの人はぐちゃぐちゃのフォームだが、パワーがあるから、どんなへんてこりんな打ち方でも、びゅーっと飛んでいくからすごい。
スコアもいいし、距離も出るし、うまい。でもフォームといったらぐっちやぐっちゃだ。日本人はみんなフォームがきれいだ。しかし、外国人のほうがうまい。
「とにかく飛べばいいんだ。入ればいいんだ、スコアがよければいいんだとパワーで押していくからすごい。それに、プレーフィーも十分の一以下だし、みも多いからいくらでもシングルプレイヤーがいたりする。
反対に日本人は、ああだこうだ、こうじゃなきゃいけない、これはこうするものなんだ、こういくのが本当なんだと考えて型にこだわり、全然目的地に着かなかったりする。常に「角度」とか「力学的必然性」などと言う、スポーツにおけるハイテク技術に凝ろうとする。「型」の文化の日本的性質の短所が出ているのだが、もし、実践を経てその「型」を本当に完成させたら、それは最高のゴルファーになるだろう。
しかし、それは何百人、何千人に一人のことで、そこに行くまでにフォームがむずかしいと思って、結局ゴルフも続かずにやめてしまう人が沢山居るのだ。
語学も同じで、アメリカ人やイギリス人のようでなくてはいけないと思うから、なかなかできない。そうしてコンプレックスをもつから、ますます使わなくなって結局、挫折してしまう。
「語学がどうしたっていうんだ、こんなものが。和風インターナショナルで行くぞー」と思って、開き直って堂々と使うと使う量が多いから、当然うまくなっていく。
留学してもしなくても、うまくなる人はうまくなる
では、英語がうまくなりたくて留学するのはどうだろうか。
外国に長く留学していても、それでうまくなるというわけではない。心掛けて一生懸命単語を調べ、英語の表現を一個ずつ直し、暗唱して、うまくなろうと思って英語を勉強している人は、留学すれば抜群にうまくなる。勉強する姿勢があってたくさんの教材を持っていく人は、ヒアリングはできるし、うんと上達していく。反対に、外国に行っても全然うまくならない人も大勢いるのだ。
私の良き友である元ニューズウィーク東京支局長のバーナード・クリッシャーさんを見て、私はいつも反省する。彼は日本に何十年もいて、日本人の奥さんがいながら、「私できます、はい」とか言っているくらいで、日本語が少しもうまくならない。
そしてすぐ英語で話してしまう。フランス語はできるのだが……。
日本にい外国人でも、何十年も日本にいても、英語で生活できてしまうものだから、日本語がうまくならない人も多い。同じように外国へ行っても、日本で一生懸命勉強している日本人でないとうまくはならない。
片言のブロークンな外国語を覚えるくらいだ。ディベートの大家、松本道弘さんなんかは、一度も外国に行かないまま、日本で勉強し続け、そして遂に、二千数百人の中からただ一人、米国大使館の同時通訳者に選ばれた。
しかし、それではあまりにも偏狭すぎると渡部昇一さんにも言われ、そうだなと本人も納得されて、今では堰を切ったように世界中を旅行している。
しかし、三十代なかばぐらいまでは一度も外国に行かないで、日本にいただけでプロの同時通訳にまでなったというのは、彼の売りになっているくらいだ。
だから英語は、うまくなるという志さえあれば、外国に行かなくても十分うまくなれる。
はじめの第一歩の壁を越えてみると、次の壁が出てくる。だからまず実践で話す第一歩を踏み出すことだ。 Would you speak slowly?で初級の場合は、ずっといけるわけだから。
だから英語は単細胞な人向きだ
「私は、頭が悪いから英語はできない」と思っている人は、考えを変えたほうがいい。あなたが本当に頭が悪かったら、とても英語が上達するはずだ。
何でもむずかしく考える人間には絶対英語はできない。わからないまんまでも、バカ暗記し、バカ聞きしてずっと続ける。わからないまま、そのまま続けるわけだ。賢い人間はどうしたらわかるんだろうと深刻に考えてしまう。そんな人間は絶対に英語は続かない。くだらない分別や理解の頭が働くからだ。
何も意義を考えない人間は、「わからない」と言いながらでも努力していく。何かよくわからないと言いながらも、よけいな考えをめぐらさず、理解しようともしないまま、ひたすら聞いている。
リエゾン(連結発音)もリダクション(強勢や母音の弱化)もわかんないなあと言いながら聞いている。
そうするとあるときに、ぶわーんと全部がつながってわかる。語学の上達というのは、そういう脳の使い方によるものなのだ。
だから英語の上達している人を見ると、そういう頭の使い方において優れた人が多い。逆に、賢い人間になってしまうと英語をやる気がなくなってしまう。
単細胞でなければ、英語なんてできないのだ。私の場合、英語をやっても売上はあがらない、本は書けない、講義も無理だ。でも必要に迫られて、根気と努力の修業の一環として、つまりめんどくささや、不精な心と戦うために今、英語をやっている。
必要に迫られると言っても、別に英語ができなくても何の不自由もない。ただ、通訳の要らない分、より効率的だと言うだけである。頭を図った。
外国語の習得は慣れに慣れを重ねることだから、頭のいい人間とか、賢い人間とか、理解していこうという理科系的人間にはあまり向かない。
また哲学的に意義を考える人間とか、理論的に考えていく人間とか、財務とか経理をやっていて、数値で割り出してきた結果などを考える無口な人間は、語学には合わない頭と性質の持ち主なのだ。
そういう人はまず、ズルズル頭のバカ単純なおしゃべり人間になろう。発展的というか図々しいというか、外人の輪の中に平気で割り込み、常に自分の得意な話題をどんどん話す、ちょっと変な日本人になる覚悟をしよう。
英語が得意な人って、そういうタイプの人が多いと思いませんか。
ところで、語学の達人には努力家が多い。努力家は、いちばん英語の能力が伸びる性質だ。興味があって明るくて積極的でややプライドが高くて、「英語だ、格好いい!」なんて思うような見栄っぱりも多い。
明るくて、積極的で、コミュニケーション好きで、口数多く、プライドが高くて、単細胞な努力家という人が英語には向いている。
明るくて積極的でないと、外国人と明るく話せない。積極的なことも大切。消極的な人は外人と話ができないから、なかなか上達しないものだ。
【理論編】重要ポイント①
●英語は、頭のよくない人のほうがうまくなる
●英語は、第二外国語である
●Chow to speak よりも what to say が大事
●米国人や、イギリス人のようでなくていい
●英米、カナダ、オーストラリア以外の、ヨーロッパ英語やアジア英語でよし
外国語を畏れ奉るな!
よいところなのか悪いところなのか、日本人には外国から来たものを、畏れ慎み敬い、かしこみかしこみまおす〜というところがある。
西洋音楽を聞くときでもそうだ。きちっと正装して、バッハや、マーラーを真剣に全部聴いて、なんだかよくわからなかったときは、「自分に理解する能力がなかったのが悪かった」と反省するのだ。
欧米の場合は、わからなかったらわからないで、ブーッとブーイングをする。なんだか眠たかったというので怒るわけだ。
日本の場合は、「よくわからない、眠い、気分が暗くなった」。これが芸術的ということになっている。日本人では、わからなかったら自分が悪かったと思って反省して帰る。欧米の人は、なんだかもうつまらないと言って、プンプンして帰るわけだ。
音楽だけでなく、日本人は外国から来たものに対しては、みなそういうふうに思いがちだから、英語も勉強させていただいているという感じになる。宝を積んだ七福神は、船に乗って海からやってくるというのが、日本古来の信仰だからかも知れない。私が一度演能した「岩舟」も、そういうテーマだった。
欧米から来たものは、コカコーラを飲ませていただいて、ハンバーグを食べさせていただく。イタリアのグッチでもなんでも、ヨーロッパからのブランドは高い舶来ものと考えさせていただくとか、車を運転させていただくという感じだ。
日本もだんだん経済力がついてきたから、物をあがめ奉ることはなくなってきたが、文化に関してはまだまだだ。
英語を勉強させていただくという感覚でいるのはもうやめよう。「私が英語を勉強してやってるんだから、感謝しろ!アメリカ人よ、イギリス人よ、オーストラリア人よ、よっく聞け!私が英語を勉強してやってんだから、ありがたいと思え!その分だけ私の考え方や気持ちが伝わって理解できて、あなた達も勉強になるだろう。
それに文句があるのなら、てやんでい、てめえら日本語を勉強しろい!」という気持ちで、ブロークンな英語でもどんどん喋ればいいのだ。
いくつになっても「ひっかけ材料」でいくらでも覚えられる!
三十代、四十代の人は、単語を覚えようと思っても、なかなか覚えられない。それは当たり前だ。単語の記憶力がいちばんいいのは、だいたい、十六歳くらい、そして中三から高一、高二あたりまでだからだ。私も今四十八歳だが、三十代、四十代になると、誰でも「ふけたなあ」と思う。
しかし、脳が総合的に一番よく働くのは五十代だとも言われている。
ふけたと思っている人が暗唱につぐ暗唱をやるなど、無理だと思うかもしれない。だがそういう人は、英単語とか、センテンスとか、ディオムの暗唱力というものに関する法則を、まず頭にいれておかなくてはいけない。
そこで、ここでは読者の皆さんに、英単語の暗記について皆さんの抱いている固定観念をぶち破るための話をする。
私の知人の知人に、東京音大の平田助教授という方がいる。
彼は五十歳を過ぎてからイタリア語の勉強を始めた。今は六十歳近くだが、イタリア語の読み書き、聞き話しが、何でもできる。単語は六千語から七千語ぐらい覚えている。
新しい単語も、一回聞くとすぐ覚えてしまう。それで単語がどんどんふえていく。さらに彼の母親は、小さい頃から米軍基地で英語を覚え、しばらくは英語から遠ざかっていたのだが、七十歳ぐらいで再び始めてみると、どんな単語でも、一回聞くだけで全部覚えてしまったというのだ。
それで読み書き話すことができる、というと、すごい記憶力じゃないか、と思ったものである。
私は平田先生の奥さんからこの話を聞いて、一つの観念が破れた思いがした。
例えば、モーツァルトは、一回聞いた曲を「こんな曲だったか」とピアノで弾いて、ほとんど百パーセント再現できた。モーツァルトの、音符を耳で聞いて覚える能力は天才的だ。
また南方熊楠、折口信夫のように、一度見たり聞いたら何でも忘れないという天才もいる。
しかし、一般の人は、全く馴染みのないものは記憶できない。それなのに、七十歳のおばあちゃんが一度英単語を聞くとすぐ覚えてしまうというのは、いったいどういうことか。私に言わせれば、それは、単語がふえればふえるほど、頭の中に「ひっかけ材料」ができてきて、それでいくらでも覚えられるからなのである。
わかりやすい例で説明しよう。今の若い女の子は、今はやりの歌をよく覚える。安室のある歌を覚えたと思ったら、また別の安室の歌を覚える。
しかし、そうじゃない人がそれらの曲を聞くと、みんな同じように聞こえてしまう。安室に限らず、GLAYやアルフィー、宇多田ヒカルやドリカムにしてみても、全部同じように聞こえる。
そんな人は、似たり寄ったりの曲をよく歌うなと思ってしまうものだ。だけど、その若い女の子にしてみれば、とても重要で好きなものだから、どれも全く違うように聞こえ、すぐに覚えて歌いこなせるのだ。
ポップスをよく聞いたこともない人は、新しいヒット曲なんて、前に出た曲と同じようにしか聞こえないものだから、わざわざ新しい曲をつくらなくてもいいじゃないか、とまで思ってしまう。
ポップスを知らない門外漢からは、そういうふうにみえるわけだ。
ところが、だんだんと少しずつ、安室の歌、ドリカムの歌を覚えていくと、曲が少しずつ違う、ということがわかってくるようになる。
そして、曲の違いがわかり、好きだなあと思えるようになって、ある程度のところまで来ると、新曲が出るたびに「これ、なかなか面白いじゃない」と思ってすぐ覚えてしまい、自分でも歌うようになる。逆にポップスをやっている人からすると、クラシック音楽は全て同じように聞こえ、どこがよくてあんな似たりよったりの退屈な曲を覚え、楽しめるのか解らない。
だが、一つ一つじっくり聞いて知識を得、楽しめるようになるとポップスの例のように、全ての違いがわかり、自分でも覚えて口ずさむようになるものだ。
実は、このことは英単語の暗記にもそのままあてはまる。
英語を聞いても、はじめのうちは単語がすべてそっくりで区別がつかず、全部同じように聞こえる。
Useful expressions (役に立つ表現)を聞いても、どれもこれも似たり寄ったり。何を聞いても右の耳から左の耳へ素通りしてしまう。
これはなぜかと言うと、我々は一度も聞いたことのない馴染みのないもの、「ひっかけ材料」のないものは覚えられないものなのだ。
しかし、最初は無理してでも覚えていき、次第に興味もふくらんできて、ある程度の単語量、単語の知識(インプット)ができてくると、「ひっかけ材料」ができてくる。そうすると五十歳すぎの平田助教授のような方でも、七十歳になるその母親でも、新しい単語を一度聞いただけで、一発で覚えることができ、読み書きできるようにもなるのだ。
最初は覚えるまで大変かもしれないが、興味を持ち、「ひっかけ材料」ができて単語に馴染んでくると、類推力がついて新しい単語がわかるようになる。
また、覚えた単語の量が一定量に達すると、ガーンと記憶力が上がり、さらにまたその上の一定量に達すると、またガーンと記憶力が上がる。覚えるごとに、記憶力そのものも上がっていくのである。
だから「私は五十だし、若い人みたいに覚えられないし…………」なんていうのは、全くウソなのだと言いたい。
できるだけ多くの単語を覚えようとする姿勢が大事
また、こういうエピソードがある。
Aさんが、「英単語ってなかなか覚えにくいですよね。イディオムなんかも」と言った。すると、BさんとCさんはそれに応えて、「そうですね。本当に英語って覚えられないものですよね」と、お互いに納得し合いながら相槌を打ったという。
しかし、実際はどうかというと、Aさんは英単語を三十個暗記して一個か二個し覚えておらず、Bさんは三百個暗記して、十個か二十個しか覚えていなかった。結局、AさんとBさんは全く同じ答えをしても、一個か二個しか覚えていないAさんと、十個から二十個覚えているBさんとでは、実際の単語力は十倍違うのだ。
確かに、英単語は覚えても覚えても忘れるものだけど、Bさんのように三百個暗記して、二百八十個忘れて十個か二十個覚えたら、立派な単語力だと言える。だから、Bさんのような努力をいかにするかということが問題なのだ。
センテンスを覚えて、「センテンスってなかなか覚えにくいですよね」「そうですね」などと言って、結局十個か二十個暗記して、一個か二個ぐらいしか本当に覚えられなかった、という人間にならないようにすることである。
フランス・ワールドカップで教わったこと
998年の夏、サッカーのフランス・ワールドカップ予選が終わった。サッカー・マニアは夢中だったようだが、日本チームは三戦三敗で終わった。
あの戦いぶりを見ていると、日本チームは、チーム全体のフォーメーション(隊形)をきれいに組織だてて攻め、そしてまたもどる。しかし決定力がない。
つまり点が取れないのだ。私は全ての選手に意識のカベがあり、ああいう表舞台でも、「こんなバカみたいな連中に得点ができて、わしらにできないことはない。バカヤロー、今に見ておれ!」という、根性と度胸の決定力がなかったから、得点ができなかったのだと思う。
今後日本がやらねばならないことは、国際舞台の場数を踏んで、まず選手達のそんな意識のカベをやぶることである。
日本の唯一の得点は、ゴール前、呂比須のヘッドでのセンタリングに、中山が体ごと当たって倒れ込むようにして押し込んだ一点だ。
それは、華麗とは言いがたい得点で、ハッキリ言って武骨で粗野だったものだ。しか燃えたぎる根性と決死の度胸が得点を呼んだ。「バカヤロー」と叫びながら、意識のカベを破ったのである。
ドイツ、オランダ、イングランド、フランス、ナイジェリアなど、強い国のチームは、組織的に進退して芸術的に得点する。それは鮮やかで美しい。
一人一人の選手が外人コンプレックスや国際舞台のコンプレックスがないので、普段の試合通りにやれるからだ。
日本のサッカーは、組織的進退だけなら美しいが、サッカーは点取りゲームだ。点を取れなければ負けとなる。
英語ができない入門者のあなたは、かたちとしての英語が身についていないと思っているのではないだろうか。
しかし、英語は、今述べたように中味を伝えるための手段だ。サッカーと同じように点が取れれば勝ちなのだ。
得点とは通じることであり、高得点とは一杯通じて相手方が納得し、感動してくれることだろう。 He speaks very fluently, but he doesn’t communicate.では、日本のサッカーと同じだ。
中山選手は体ごとボールを押し込んで、一点取った(しかも、そのプレーで骨折した)。サッカーと英会話を比べると、フォーメーションは英語の知識や自分の言いたい中身に当たる。
ボールがゴールに入ることは、こちらの中身が相手に伝わることだ。ラフでもいい。会話の場数を重ねて、まず相手に自分の意見を伝える喜びを知ってほしい。
それには一点一点、中山選手方式で得点し、バカヤローと常に心の中で叫びながら、身ぶり手ぶり、顔ぶり、強念力で外人にぶつかり、意識のカベを破ることから始めるのである。
外人千人づりで英語力を鍛える
大学のころ、場所が京都だったから弁慶にあやかって、私は「外人千人斬り」をやった。別に刀で斬るわけではない。外人を見つけたらともかく話しかけるのだ。だから「千人づり」とも言った。
英会話を身につけるには場数を踏むしかない。だからどんなところでも、外人がいるところ、英語を話せるところに行って、とにかくずうずうしく話しかけたのだ。
場数を踏んでいくと、どんどんうまくなっていく。だいたい聴きたい内容を、あらかじめ決めて話しかけてゆき、体でコミュニケーションを覚えていくのだから、これは英語の勉強も仕事と同じで、体で覚えたものこそが、実際の現場で真に役立つのである。
「ねばならない」思考で自分を追い込む
英語がうまくなるには、「ねばならない」という環境をつくることだ。
夏休みの宿題でもそうだ。夏休みの終わりの一週間か十日ぐらい前に、「宿題だ、宿題だ」とやりはじめる。中には三日前から、時には前日からやる人もいる。
最初にやれば後は楽なのに。それはわかっているのだが、また今年も、夏休みの終わりの一週間前か十日前、せっぱつまって三日前ぐらいにやる。
だいたいそんなもので、ねばならないというときにやる。英語も、単語を覚えること自体が喜びではないし、苦しみを伴うから、同じことが言える。
だから、誰でも必ず英単語が覚えられるこういう物語が成り立つのである。
【西部の単語マン(ウーマン)物語】
主人公のあなたは、なぜか米国西部の牢屋にほうりこまれている。そこにいかにも悪そうな人相の男が来てあなたを脅すのだ。
「明日のお昼までにこの単語を三百覚えろ。全部覚えたら命は助けてやる。一個でも間違えたら射殺だ!」
そして、こめかみにピストルを突きつけられる。「これで明日、ズドーンだからな」
頬にピッピッピ、こめかみにピッピッピと、実弾入りのピストルを押しつけて、
「わかったな、明日の昼の三時までだぞ。も全部言えたら、命だけは助けてやろう。一個間違えればズドンだぞ」
ここで「はい」と言えたら、だいたい覚えられるだろう。命がかかっているし、牢屋に入ってる。逃げることもできず、他にすることもないから、必死で単語を覚えるのである。
「いいか、よくやったら少し譲歩して、一個間違えたら左手に一発、二個間違えたら右手にもう一発、三個間違えば右足に一発だ。それから四個間違えれば左足。五発目は土手っ腹、六発目はこめかみ、七発目は眉間じゃ」
そんなに撃たれても、まだ単語を答えられるかどうかわからないが、そこまで追い込まれたら、だいたい三百ぐらいは覚える。
必死になって一日で。人間の記憶力とはそういうものだ。今月中にこれを覚えたらいいとなると、夏休みの宿題と同じで、結局月の終わりの二、三日間で必死に覚えることになる。だから、この物語のような心理状態になるように、自分でねばならない環境作りをすることが大切なのだ。
海外出張前の追い込みで覚える
ねばならない環境が英語をうまくするのだから、「三ヵ月後に海外勤務を命ずる」と言われたら、三ヶ月でなんとか英語を必死で覚えようとするだろう。実際、英会話学校にせっせと通う人には、そういう人も多いのだ。
三ヶ月後に出張だと決まったら、まず教材を買ってきて、教材はこれだけだからと思って必死でやって、暗記につぐ暗記で三カ月である程度は話せるようになるわけだ。
ねばならないことは、だれでも必死でやる。三ヶ月後に海外出張、英語を使わなければならないということが迫ってるわけだから、どんな教材でもこなせるのだ。だから、ねばならない環境をいかに自分でつくるかが、上達のポイントになるわけだ。
私はオペラでも、能でも、絵でも、書でも、全部同じで、ねばならないという環境をまずつくる。そのためには、発表会がいちばんいい。
コンクールや発表会や試験に自分でチャレンジすると、ねばならないモードに入って必死で勉強するようになる。必死で勉強する自分をつくるためには、ねばならない環境を自分であえてつくることが大切なのである。留学するのも、そのための計画として、具体的な目標を定めて行くことは大変いいと言える。
目標を設定して自分を追い込め
外国に三ヵ月後に行くとか、半年後に赴任するとか、海外勤務を命じられたとか、そういうとりあえず英語を使わなくてはならないという、絶対的な「ねばならない」という環境がない人は、「英会話に興味がある」とか、「英語が話せたらいいなあ」などという動機だけでは、すぐに根気が尽きて続かなくなる。
だからまず、勉強する前に目標を設定しなくてはいけない。設定がないと人間もパソコンも動かない。だから、例えば外国に行く予定をまず決めることだ。それに合わせて、こんなところに行ってみよう、その場面にぴったりの話をしよう、相手に会ったらこれを言ってやろう、あれも言ってやろうなどと考えて、それをイメージしながらセンテンスをただただ丸暗記する。
相手に会って伝えるための典型会話文例を覚えるのだ。言いたいことがあるから話すのではなく、覚えたイディオムとセンテンスを使って話すために、無理やり会話をするのである。
相手に「何々をどう思う?」とか、こちら側からどんどんしかけたらいいのだ。それが通じれば、本当にうれしいではないか。
コンクールに応募せよ
私の場合、短期間でいろいろ上達したいから、オペラの場合なら先生に頼んで先に無理やりレッスンを入れてしまう。
そうして、まず自分を追い込む。そうすると行かざるを得ない。行ったら音楽をやらざるを得ない。
やってしまえば当然うまくなるわけだ。忙しいのだから、どうしても行かなくてはならない状況に、まず自分のスケジュールを設定する。問題はその次だ。
次は、例えばコンクールに出願するのだ。私は、以前も三つの声楽コンクールに出たし、音大受験もした。
そして一年浪人してマスターコースに合格した。私が45 才の時である。今年もまた受験する。すると先生も、こんな年になっても受験するからと一生懸命になってくれる。
先生は生徒が受験するとなると、一生懸命になって教えてくれるのだ。あとは度胸。たとえ結果はどうであれ、必ず出場して緊張と多くの審査員に裁かれる修羅場に立ち向かうのである。そうすれば必ずうまくなる。
ここまで極端でなくてもいいのだろうが、各人の設定をどうするか、まず決めよう。英語をやる人にとってのコンクールとは、英検やトフルやトイック、また通訳ガイド試験や英語で発表する会議、講演、そしてスピーチコンテストなどであろう。
興味があるというぐらいで勉強しても、なかなかうまくはならない。
人間は忙しいし、浮気性だし、飽きっぽいし、それからなるべく楽をしたいと思うもの。そして、めんどうだと思いがちであり、恥はかきたくないと思うものである。
また、何かがわからないなあと思ったとき、それが決して楽しいとは思わない。やはり根本的に物をわかって学びたいから、新しい未知なるものがわからない、できないというのは、耐えられないはずである。
それで勉強から遠のいてしまうのだ。興味はあっても、物を習得する時の人間の心理や習性や慣性を知らないと、結局できないから遠のいていく。
そこを自分で見破ったら、語学だけでなく何でもマスターできるようになる。つまり、それを語学に絞って言えば、常に自分が一生懸命になるように、環境や設定を作り、使える英語にするために記憶の定着を計ることである。
また、英語は頭でなく体で学ぶものであり、わからないまま反復して場数を踏んでいると、その内すっかりわかって身につくものであることを知り、中途半端な実力でも、上達を信じ実践を続けるものなのである。
【理論編】重要ポイント②
● 英語を勉強させていただく、という意識を捨てよ
●「ひっかけ材料」があると、いくらでも覚えられる●場数を増やせ
●「ねばならない」という環境をつくれ
【深見東州 英語寸言集①】
My ultimate goal in life is the attainment of real happiness.
Ironically, because of the stress caused by trying to reach that goal, I sometimes lose sight of what real happiness is.
私の人生の究極の目標は、本当の幸せを求めることである。皮肉にも、その目標を達成しようとする過程でストレスがたまると、時々、本当の幸せとは何かがわからなくなることがある。
