下手な英語の話し方(Vol.6)

≪6≫ 英語力のレベルを上げるには、まず、日本語を磨け!

日本語も単語が全部わからなくても読める

英単語が全てわからなくても、英語はだいたい読めると述べたが、その点は日本語にしても同じだ。

たとえば文学でも、三島由紀夫の著作や、夏目漱石や森鴎外など、今読んでも知らない単語が多いはずだ。

三島由紀夫などは凝古文調でむずかしい漢字も多いのだが、三島由紀夫の小説に出てくる漢字が全部はわからないからといって、三島由紀夫の小説が読めないということはない。

「潮騒」を読んでみて、知らない漢字や単語があっても、なんだかどこかで焚火して、女性の肌が水に濡れ……なんてところを見て興奮し、イメージで自分の好きなように連想して進んでいくものだ。

全部漢字が理解できて読める日本の小説などあるのだろうか?赤川次郎や花井愛子、筒井康隆ならあるな……。

ところで、先に述べたように国立大学の英文科の教授でも、一つのセンテンスで二文字しかわからなくても、二文字わかったら十分理解できるというのだから、これは読解力や類推力の問題だ。日本語の読解力、また文字とものごとの思考に対する咀嚼力ができていたら、英文読解、ヒアリング、会話の咀嚼や発表もできるのだ。

日本語の力が英語力の基礎

現代日本語は、人によってはとても理解するのがむずかしい。しかし、古文でも、漢文でも、英語長文でも、もちろん現代文でもそうなのだが、亀井勝一郎の本なんでも、じっくり読めば意外に易しいが、パッと見れば難しそうだ。

そんな時、わからないものはどんどん飛ばし、人間が書いたものだから最終的には読める、知らない単語、むずかしい漢字が出てきても、中味は絶対にわかるんだと思って読み進めることだ。

なんとなくむずかしい学術論文でさえも、イメージに置き換えていくと理解できる。これは加藤周一さんが「読書術』(光文社刊)の中で述べている。

また、私が十八歳でボナールの「友情論」を読んだときなどは、これがこう係って、こう係っていって・・・・・・と線を引かなければ読めなかった。

無論、ヘーゲルなどの哲学の本もそうだった。しかし、そうしていくうちに読めるようになってきた。

この作業は、こちらに書いてある文章がこうなってと、文字から文字へのイメージの連続性をつかもうとするわけで、そうするとどんな難解な本でも読める。これも加藤周一さんの「読書術」の指摘と同じだ。

それはもう、英文でも日本文でも学術論文でも全部共通する。こういう脳の使い方が、頭の回転を良くする使い方なのだ。

だから、学術論文も気軽にあっさりと読もう。学者ではないし、大づかみでだいたいが解ればいいのだから。

それから、できれば論述文で要約力もつけよう。そのためには、まず読みこなしの読解力からはじめることだ。この読解力の極意を以下に述べることにしよう。

難解な評論文を読んでおこう

私の時代の受験生は最低、亀井勝一郎の“青春三部作とか串田孫一の本など、難解な評論文を一冊くらいは読んでいた。特に評論文がおすすめだった。小説だとストーリーに酔いしれてしまうおそれがある。

だいたい、私の時代の高校生や中学生の愛読書はどんな本かといえば、エミリ・ブロンテの「嵐が丘」、シャーロット・ブロンテの「ジェーン・エア』、パール・バックの「大地」などである。

なぜかというと、ものすごく長いストーリーに感激して読んだ本が「愛読書」だと思っているからだ。ふつう、中、高生で愛読書としてひとつの本を七回も読んだなどという人はいない。

一回読んで感銘した本を愛読書と書く。八回くらい読んで愛読書と書いたことがある人はいないだろう。

それはともかくとして、読書してストーリーに感激するのではなく、文体に感動するようになってきたら一人前だ。

中学、高校の愛読書とは、とりあえず読んだ本のことを指す。それからストーリーに感動した本。それを決して悪いとは言わない。

しかし、脳みその訓練や、英会話で外人と話す時の論理性を養うもの、ということを考えるならば、評論文が最適だ。

「著者はそういうふうに評論を書いていたが、僕はこう思う。それをヒントにこのように明日から生きたい」というところまできて、本がその人の物を考える糧になるものだ。

ただ小説を読んだだけでは、あまり脳みその訓練にはならないから、必ず評論文を沢山読んでほしい。

今、大学入試に出る評論家のベスト5は、山崎正和、外山滋比古、中村雄二郎、養老孟司、大岡信である。この内の何人かは読んでいただきたいと思う。

大人になっても、普通レベルより上の、高校生の知力より落ちないために。また、たと英語は下手英語でも、会話に中味がある日本人になるために。

そして、論理性や説得力のある英語が話せる日本人になるために、である。

古文読解も同じ要領で

古文の読解も基本は同じだ。

私は、平田篤胤の本とか、「神皇正統記」なども原文で読んだが、浪人時代に「徒然草」を原文で全文読破したときは、最初から最後のページまで全部品詞分解して読解し、重要古語を全て覚えたのだ。

「枕草子」もそうした。「枕草子」、「更級日記」、「徒然草」、これらのうちのどれか一冊を、全部品詞分解して読んでみたらいい。

古文といっても英文と同じだ。一冊ちゃんとやると、文法構造や古語の重要語も全て頭に入るはずだ。

代表的な古語は、名詞と助動詞をいくつか覚えてしまえば、あとは、動詞などは重要語さえ覚えれば、どうでもいいのだ。

同じ人間、昔の日本人が書いたものだから、絶対にわからないことはないと思って、古文がわかるという信念の世界に入ることだ。

あとは、古語は知らなくても古文はわかる。イメージの連続性で理解できていく。つまり、英語と同じ発想で攻略できるわけだ。すると古文というものがスーッと見えてくるはずである。

文章はあくまで言語という媒介を使って、思いイメージするものを伝えたいがために書く。

だから、その原点に戻ったらわかるわけだ。古文もこう考えればわかる。

特に、古文の場合は助動詞が大切で、助動詞の表現をなぜそう表現するかというのはむずかしいのだが、自分なりにイメージで掌握して覚えておけば、日本人の書いたものだから、なんとかなる。

昔の日本人の考えそうなことといっても、私たちとあまりかわらない。好いた別れたとかで悩んでいたりして、あまりかわらない。

「何ごとも先達はあらまほしきものなり」というような、「徒然草」にある有名な言葉のように、「あらまほしき」は「あってほしいものだ」ということは、だいたい想像がつく。古文も漢文も同じだ。

人間の書いたものだから絶対にわからないことはない。漢文の場合、句形表現だけは暗誦する必要があるのだが、再読文字などの基礎をいくつか覚えてしまえば、あとは大丈夫だ。

必要なことがあったらルビで解説してあるし、再読文字の読み方と読みこなしの粘りの世界を二つクリアして、イメージの連続性の中で漢文を理解して、書き下し文の和訳を書けば、たとえば入試などでも、白文の和訳はほぼ満点がもらえる。

このように英語長文の読解は、古文の読解、漢文の読解にも通じるのだ。これが文脈を理解したということであって、単語はそれをやりやすくするために覚えるのだ。

単語は覚えなくていいというわけではない。

単語を一生懸命覚えるのだけれど、長文を読みこなすときに、知らない単語に出会って、それが怖くなることがまずいのだ。これはヒアリングにも同じことが言えるだろう。

特に入試では、一橋大学なんかの英語問題などには、昔の「朝日ジャーナル」のような内容が出るから、英文がわかっても、イディオムがわかっても、内容の意味がわからなかったりする。

だから逆に言うと、既に廃刊になったが「朝日ジャーナ「ル」のようなものを読んでおけば、なんとなくもっともらしい答えが書ける。

新聞の社説などの日本語をよく理解しておくとよい。一橋を受ける人はそれで勉強になるのだが、もちろん一般的にはそんなことは必要ない。よく教科書に出ているようもっともらしい内容のエッセイのようなものが多い。

だからいくつか、そういう大学入試の、あるいは過去の就職試験の範例を見るといい。通常の英会話では、そういう内容以上のレベルのものはないと言えるだろう。だから、どんな教養人と英会話をしても、内容的についてゆけるはずなのだ。

読解力が研ぎ澄まされると直覚力が鋭くなる

英文、古文の文法を覚えるのはいい。ナ行変格活用とは何だとか「け、け、ける、け、けよ」などと覚えるのはいいのだが、文章が出たときに「あ、これ知らないんじゃないか」と怖くなってしまってはいけない。

だから文法を学ぶより、もろに古文や英文を沢山見て、徐々に単語や文法知識を増やし、正確度を増していくという考え方のほうがいい。

無論、全くゼロから一つの言語を学ぶときは、最低限の基礎の文法学習は必要であるが。

ふつうは、この作業が抜けているのだ。これが抜けて枝葉末節的なことを覚えているという場合が多いので、試験なんかでは真ん中以上のいい点がとれないのだ。

ところで私は古語、漢文、英語を見たときに、だいたいこうじゃないかなあと思うと、パッと意味がひらめく。

書いたものに著者の息吹が宿っているからだ。だいたい、こういう意味じゃないかなあと思って読んでいって、和訳を見たらほとんど合っている。

その文字の世界の中に感性を広げてから、内容を理解するというやり方だ。これは、イメージが連続していて、著者の文章に意味を教えていただくという感じだ。

自分が読解するなどと思わず、その奥の世界にある、文字に宿っている著者の息吹や気概に触れる気で読むのだ。

すると、文体の調べに著者の内なる心の波動が伝わってくる。これは感性が知っているから、パッとわかる。

パッと理解できたというところで、感性の理解という世界が出てくるのだ。短歌や俳句や詩文の読解は、まったく、この感性の理解と言えるだろう。

こういう勉強をしていると、芸術的感性や直覚力が研ぎ澄まされてくる。

読解力というのは、直覚力のひとつなのだ。研ぎ澄ませばパッとわかるものなのだ。脳の中に直感的感性が入っているから、こういう脳の使い方をすると直観が働く。

こんなふうにイメージして勉強すると、読解力から直感力、直感力から類推力や予知力というものが出てくる。

これを英語でやることを「英語の腕力」をつけると言う人もいる。知らない文章でもなんとか読みこなして書いたら、答えがだいたい合っていたりする。

これをあまりやりすぎると、英語行者になる。

さらに、もっとやりすぎるとエゴイストになってしまう。でも、それぐらい勉強すると、パッと文を見ただけで意味が全部わかるようになる。これはもう、超能力の一種のようなものだろう。

【実践編】重要ポイント⑥

●日本語の力が英語力の基礎である
●読解力をつけるためには、難解な評論文を読め
●読解力が研ぎ澄まされると、直覚力が鋭くなる

≪7≫ さらに、入門レベルから上をめざすには ── 私の大学時代の勉強法

400人のクラブの部長をつとめる

第1章のはじめに書いたように、私は英語の専門家ではない。まだまだ勉強中、正確に言うと二十何年か前に一度勉強していたのを、最近勉強し直しはじめたところだ。

しかし、英会話については大学時代から関心を持って勉強してきたし、自分なりにオリジナルなメソッドを確立してきたつもりだ。この本は、そういう私の体験を基にして書かれている。その中身をいっそう理解していただくために、私の大学時代の英語体験をここで紹介しよう。

私は、二十五歳のときに準備をスタートし、二十六歳から予備校を始め、たくさんの受験生を教えてきた。大学のころにはESSで四百人のクラブの部長をしていた。大学に入ってゼロから英会話の勉強をして、クラブの大学生に英語を教えてきた。そのころの部員は、英語をゼロから始める人ばかりだった。

それでいろいろ研究したものだ。英語の入門書というのはいろいろあって、プロを目指して勉強した人が書いた本は非常にすぐれた本ではあるが、私のこの本の場合のように、アマを目指して勉強する人のために書かれた本はなかなか見当たらなかった。

また、中味のある、論理性のある、説得力のある英語は、そしてその中味はどうすれば修得できるのか。そういうものを解説する本は皆無であった。だから、クラブで体験して修得するより他なかった。

そうして、いろいろと試行錯誤や葛藤を続ける四年間で、いつの間にか英語が当時の誰よりもうまくなり、誰よりもその教え方がわかり易く、リーダーシップもある程度あったので、四百人の部長として選挙で選ばれた。部長は、当時は共産党のように「委員長」と呼ばれていた。英語では「プレジデント」で、日産の車のようだった。

その後突然、英語とは全然関係のない建築のセールスの世界に入ったわけだが、そんなわけで、今のようにいろいろなことを同時平行で学んだり、実行したりする道がスタートしたのである。

大学一年生のときにしたこと

私は大学一年生の夏休みのときに、國弘正雄さんとアルビン・トフラーさん、それからガルプレイスさんやハーバート・パッシン先生の話す中級の英会話のテープをずっと聞いていた。

それは、東陽子さんという、美人で上品でスタイルが良くて面倒見の良い一年上の先輩が居て、クッキーの大きなブリキの缶に、五十本ぐらいそのテレビの収録テープを下さった。たまたま家も近くで徒歩十分の所にあったので、老松町という、坂道の上にある高級住宅街の家に招待された。お母さんから紅茶をご馳走になりながら、東先輩曰く、

「半田君、しっかりこのテープを聞いて勉強するのよ。何回も聞いていると、きっとヒアリングもできるようになるからね。英語は反復しかないのよ。わかる!」

それで私は発奮し、毎日、毎日、一日十八時間くらいだろうか、夜中ずっと聞いていて、

「まだ夜か。夜が明けないのか」と思ったら、実は次の日の夜だった。

「午前中みたいだなあ、まだ夜はこないなぁ」と思っていたら、次の日の朝だったりした。

合宿へ行かない時は、トイレへ行く以外は食事もせずずっと聞いていた。中級会話を何回も何回も聞いて、秋になって学校が始まり、ランチタイムのときにみんなで英会話をやったら、英語がスラスラぽろぽろっと口から出てきた。先輩達は驚いて「お前、いつの間にそんなにスピーキングが上手になったのだ」と口々に聞いた。

「うんこと同じで、一杯お腹に食べ物が入ると、あとはどんどん出るしかないのと同じです。夏休み中、毎日英語を聞いていたから、自然に気持よく、うんこのように英語がつながって出てくるのだと思います」

先輩「わかり易いたとえだが、きたないな」

こうして、大学一年の秋から、英語がとぎれなく話せるようになり、ヒアリングでずっとわからなかったのが、あるとき全部が一度につながった。聞いているうちに、リエゾンとリダクションの仕方のパターンがだんだんわかってきたのだ。

だから、「わからない、わからない、できない、できない、なんでかな、なんでかな」と思いながらずっとやっていくといいのだ。「むずかしい、むずかしい」と思わないで、「そのうちわかるようになるんだ、そのうちつながるんだ」

と思って、ただ意味もなく連想力を働かせて聞いている。そうすると必ず意味がつながって、自分でも話せるようになる。

それにしても、その東陽子先輩は社長令嬢でもあり、素敵な方だったが今はワシントンに住み、オランダ人と結婚して子供が五人居るらしい。

それでも、プロの同時通訳として活躍していると聞く。あの時の東陽子さんが、あんなに美人ではなく、素敵な人でもなかったら、私の人生も違ったものになっていたかも知れない。

ランチタイムに会話を磨いたESS時代

私が大学のころは、ESSに「ランチタイム」というプログラムがあった。毎日昼休みに英語で話をするのだ。

だから、昼食を早めか遅めにとって、十二時十分か一時までの五十分間は、ランチタイムミーティングの部屋で、必ずテーマを決め英語で話をする。

先輩がいて、だれかがチェアマンになって、とにかく毎日英語で話す。

そのとき、「お前、そんな言い方はおかしいぞ」とか、「こう言うんだ」と先輩に教えてもらうわけだ。先輩・後輩が、いろいろなその時の時事問題のテーマについて話すのだ。

ESSというのは中学にも高校にもあるのだが、それは中身が中学生、高校生としてのEnglish Speaking Societyだ。

大学のESSでは、大学生としての中身のあるEnglish Speaking Societyだから、話の中身は教育問題、政治問題、税制問題、軍事問題といった内容になってくる。

そのころは、私がいた同志社大学やほとんどの大学にはESSがあり、万博や東京オリンピックの頃程ではないにせよ、まだ活動は盛んだった。しかし早稲田大学などでは、ESSでは生きた英語は学べないという批判に基づき、ESA (English Speaking Association)というのが作られていた。

そこでは皆、生きた英語を学ぶために、ネイティブについて会話表現をいろいろと勉強していた。しか生きた英語でジャーナリズムなどについて外人と話す時、またたとえば、教育問題についてどう思うんだと聞かれたときに、大学生としては、

I don’t know much about Japanese education problems.

「私は、日本の教育問題については、はっきりわかりません」では情けない。日本の政治はと聞かれて、

I don’t know much about Japanese political problems.

「私は、日本の政治問題については、はっきりわかりません」

これだけでは、大学生はすまされない。具体的な自分の意見を述べなければならない。

What is your impression of Japan?

「日本の印象はどうですか?」とか、

What is your favorite food?

「どんな食べ物が好きですか」などの質問なら、すぐにでもできる。たとえ、中学生であっても、高校生であっても、それならば容易にできることである。また、外人の方も中学生や高校生に、そんな難しい社会や文化の問題を聞くこともない。しかし、大学生に対しては、最初は簡単な日常会話をしていても、一日一時間か二時間話していると、三日もすればそのうちそれ以上話すことがなくなってくる。

そうなると次には、「ところで日本の経済は、不況はどうなんだ」となる。または、「日本の文化について聞きたいのだが、能ってどういうものなんだ」とくる。

「お茶を見に行きたいんだけど、お茶ってどういう歴史があるんだ」

「茶道って何なんだ」

「どうしてああいうふうにするんだ」というようなことを聞かれる。

まず「~とは何だ」とくる。次に、その歴史を聞いてくる。

「どんなヒストリーがあるんだ?」

次は「どういう意義があるんだ?」

「何でみんながやるんだ」となってくるから、答がたとえば、I don’t know much about the tea ceremony.

「私はお茶についてはよく知らないのです」という答え方ばかりになってしまう。

ESAで生きた英語を学んでも、相手が大学生なら、三日以上続けると必ず外人は日本の教育問題、政治問題、文化問題、宗教問題についてどう思うんだと聞いてくる。

だから、ディスカッションをしていくときの必要なある程度の専門知識や形式、理論、クエスチョンの仕方、アンサーの仕方、ロジックの組み立て方を勉強していかないと、そういう質問には明快に答えられないし、議論に花が咲くということもあり得ない。つまり、大学生として立派に外人が納得し、喜ぶようなコミュニィケーションができていないということになる。

だから、ESSの英語は生きていない英語かも知れないが、大学生としてスタンダードで内容があり、良く通じ、良くコミュニィケートできる英語なのである。

ESSのランチタイムや午後六時以後のイベントのプレパレーション(準備)で、私は部員にそういったことを教えて、みんなで勉強していたのである。

パブリックスピーチ、ディベートの効用

ところで、英会話力のレベルには、計り知れない段階がある。それを今、大きく三つに分けてみよう。一段階目というのは日常会話で、

How are you? Fine, thank you.
「ご機嫌はいかがですか」「はい、元気です」

What is your impression of Japan?
「日本の印象はどうですか」

What is your favorite food in Japan?
Oh, I like Sukiyaki.

「日本の食べものでは、何が好きですか」「スキヤキが好きです」といったレベルだ。

その上のレベルは内容のある、専門知識に裏づけられた、論理的な説得力のある話である。その上のレベルは、テーマを決めたディスカッションやパブリックスピーチ(演説)というものだが、人前できちんとした話ができなくてはいけない。

たとえば、外資系の会社のビジネスマンやマネージャーの場合は、必ず大勢の前でプレゼンテーションをするために、まとまった説得力のある話をする必要に迫られる。そのとき、

It’s very difficult for me to make a speech in the presence of a large audience.
「私は、大勢の聴衆の前で話をするのはとても苦手です」とか、

I feel shy.
「私は内気です」とか言っていたのでは、全然仕事は進まないし、永遠に出世もできない。

最終的に突っ込んだ話になってきて、たとえば「そのプロジェクトの採算性が、どの程度あるのかを証明してみろ」と聞かれたときに、自分の意見を重要な論点(major contention)から三つか四つ論証し、さらに証明するために具体的な証拠( evidence)や資料を提示しなければならない。

そして、論旨明快に解り易く、具体的でよくまとまっていて、さらに説得力がなければならない。これがディベートであり、その間の数々の質問に対しても、短い制限時間内でスパーンと答える訓練も要求される。そのディベートでは、魅力的な表現に加え、ロジックの中に簡潔に言いたいことをまとめていく力がないと、実りあるコミュニィケーションにはならない。

英語はやはりコミュニィケーションの手段なのだから、英語がペラペラペラペラ話せても、論旨が通じるコミュニケーションができないとだめなのだ。だから、ディベートが英語のコミュニィケーション技術の最高峰だとも言える。

ところで英語を母国語として話す人の背景には、英語文化というものがある。英語文化と同時に英語を話す人たちに固有の論理性もある。

即ち、固有の頭脳や発想の構造的な特長だ。だから英語は、コミュニィケーションの手段ではあるが、英語を母国語として話す人たちの論理性とか、ロジックの展開パターンとか、それがわかってはじめて深くコミュニィケートができることになるのである。

そもそもコミュニケーションの手段としての英語なのに、日常会話程度の英語では、結局大学生としては不十分であり、コミュニィケーションにもなっていないことを痛感したから、ESAでもディスカッションや、パブリックスピーチ、オラトリカルコンテスト(弁論大会)をやり、ディベートをやるようになった。

結局ESSが辿った歴史を繰り返し、同じことをやるようになったのである。

今、早稲田大学にはESSとESAがあって、ディベートの大会もあるわけだが、ESSよりESAのほうがよりディベートは盛んで強い。

大学のころ、私はそういった勉強を四年間死ぬ程やったのである。英語のスピーチも何百回もしたし、委員長のときはグリーティング(挨拶)、クロージング(閉会の辞)、ブリーフコメント(寸評)、オープニングアドレス(開会の辞)など、必ず人前に出て、面白くアピールして話さなくてはならないものばかりだった。

論理的な考え方に基づいてコミュニィケーションをしているから、Q&Aになってきたときには、大学の先生よりも、私のほうが断然英語に冴えが出てくる。

そのときの自分の知識や知的興奮による論理の冴えは、今でも鮮やかによみがえってくるのだ。

パブリックスピーチの話し方

たくさんの人の前で話をするパブリックスピーチ、つまり演説のコツは、日本でいうと起承転結論文でいうと序論、本論、結論だ。

ところで日本人の演説は、概して最初から結論をふりかざす演繹的なものが多い。これに対して欧米人の演説は、身の回りの卑近なことから話す帰納法的な演説が多い。

即ち、英語でいうと、まずspecification (特定化)、次にmotivation (動機)、次に、 analysis of the status quo (現状分析)、次にplan (計画、アイデア)、最後にsummary (要約)がくる。

これを翻訳すると、まず何が言いたいか。なぜ私がこういった話をするのか。その動機は何か。

次にこれは私だけではなく、みんなに当てはまるのだということで、現状分析が出てくる。 analysis of the status quoというのは、

「現状分析するとこうなんですよ」

「私の言ったことがすべて当てはまるんですよ」ということ。

そして、だからこうなんだという自分なりのプランやアイデアを話す。そして、最後にもう一回、まとめをする。

それから、その最後に気の利いたせりふを入れる。これが理想の英語のパブリックスピーチのパターンだ。

それが五分間スピーチ、三分間スピーチ、十分間スピーチのロジックになっていくのである。いろいろ話をするにしても、このロジックの組み立て方を曲がりなりにも練習しておくと、稚拙な英語でも意味が明快にスパッと通じるようになる。

私が副会長を務めている神道国際学会でも、ニューヨークにおける会議の出席者の中には、アルゼンチン大使もNGOで活躍しているアメリカ人のリーダーもいたし、大学の教授もいたのだが、私の話がいちばん明快で興味深く、わかりやすいと言われた。

ロジックが明快だし、英語もあまりむずかしいものを使わないからだ。サッチャさんの英語も、ほんとうにやさしくて、チわかりやすい。サッチャーさんはいつもそのように心がけていると聞く。

国連で話されている英語を聞いてみたら、もうむちゃくちゃな英語だ。

文法的に正しくちゃんとしたものを話してはいるけれども、発音はぐっちゃぐちゃだ。もう、それぞれに訛りがある。やはり日本人はあまり気にしすぎなのだ。

アメリカ人やイギリス人や、訛りはあるがオーストラリア人とニュージーランド人、カナダ人はネイティブである。ネイティブから学べるのはいい、などと某英会話学校は言うのだが、ネイティブの英語を聞くと、とうていこんなふうには話せないと思ったりするものだ。

英会話というものはむずかしいもので、マスターするには程遠いもので、自分にはできないんだと思ってしまう。これがいちばんの問題なのだ。

だから、英語を第二外国語にしている人間から習えば、

「あ、こんなおじさんよりはましだ」とか、

「こんなおばさんでもできるのなら、私にだってやれるわい」と思う。

それでいいわけだ。私も大学時代ESSで、ヨーロッパ人の話す英語を聞いてふっ切れて、とりあえずこれでいいんだと思った。あとは少しずつ、英字新聞などを読んで、単語力を増やしていったのだ。

他大学と対抗してコンテスト

私は同志社大学時代に、二人制と五人制のディベートに一回ずつと、対外ディスカッションに二十九回出た。

オラトリカルコンテストでは四位になった。同志社女子高校のESSのコーチをしていたときに教えた子も、一位、三位、五位になった。これが私の英語のコンテストに関するプロフィールだ。

レシィテイションコンテストというのは、ケネディやチャーチルがしたスピーチそのまんまそっくりに演説するのである。それを、先輩にぼろくそに言われなが発音チェックをされるのだ。辞書で発音記号を引いてきて、それを発音する時、お前の英語は最低だとか、顔の表情が死んでいるとか言われながら。

他の大学でも、それぞれのやり方があり、カラーがあって興味深かった。たとえば、同志社大学では、みんな発音がきれいで、そのレシィテイションコンテストを同志社の伝統として一生懸命やらせていた。

早稲田大学は、発音はきれいではないが、ロジックと知識はしっかりしていた。

明治大学もそうだが、それにアグレッシブな根性が加味されていた。慶応大学は、うまい人と下手な人が極端に分かれていた。うまい人は、ものすごくうまい。下手な人はどうしようもなく下手。校舎が日吉と三田に分かれているからかもしれない。発音もきれいでバランスもとれているのが明治学院大学だった。

関西学院大学もチームワークがガッチリしていてバランスがとれている。立命館大学はひたむきでまじめな英語。同志社大学は発音がきれいで、立ってしゃべっている時間は一番だった。私が対外コンテストでやってきた経験からみて、大学にはそれぞれの校風があっておもしろい。

ちなみに、一番歓迎してくれて、大切にしてくれたのは日本女子大学であった。

エンターテイメントで勝った!

今でも、大学一年生の最初に出た対外ディスカッションのことをよく覚えている。

物価問題や日米外交や安保問題などのテーマで、八時間ぐらい連続で英語ディスカッションをするのである。

他の大学もそれぞれ実力のあるESSだから、私も勝つ方法を工夫した。私の場合は、発音と意表をつくロジック、そして立ってしゃべり続ける時間、それから試合が終わった後のエンターテイメントで勝つことを考えた。そういうところは、今も変わっていない。

「ウルトラマンシリーズ」、「国づくしシリーズ」、「店屋シリーズ」、「大学ギャグシリーズ」、「天皇陛下の物まね」、「アクロバットギャグ」、「種なし手品」、「連続声帯模写」、「世界の英語物まねシリーズ」などで、私の創作した多くのギャグやエンターテイメントが、全国の大学で話題になり、ブームになった。そのエンターテイメントを見たいためだけに、同志社大学に対外試合を申し込んできた大学もあった。

ところで、先に述べたレシィティションコンテストであるが、どうするかというと、歴史上の有名なスピーチだったら、今でも全部覚えているが、.government of the people,by the people, for the people shall not perish from the earth. 「人民の人民による人民のための・・・・・・」というリンカーンのゲチスバーグ演説、それからケネディの就任スピーチのask not what your country can do for you–ask what you can do for your country. 「国家が何を君たちにしてくれるかということよりも、君たちが何を国家にできるかということを考えてほしい」という有名な名言の入っている就任演説を使う。

それを短くして、序論、本論、結論、それぞれ全部辞書を引いて、完璧な発音で、本当の演説のようにして話したのだ。

先輩たちにぼろかすに言われながらも、コンテストなどで人前で話すスピーチの練習としては最高だった。こういうコンテストをとおして、私の英語の発音は、最初に比べて飛躍的に上手くなっていったのだ。

【実践編】重要ポイント⑦

●ディスカッションでは、ロジックを学んで自分の意見が言えるようにする
●ロジックの中に言いたいことを簡潔にまとめられるようになれば、ディベートができる
●パブリックスピーチ(演説)は、起承転結などのロジックがあるのが基本だ

【深見東州英語寸言集②】

I have had the pleasure of knowing a number of Australians. As they have been good enough to share their experiences with me, it almost seems like I’ve lived in Perth for years.

Through my interactions with them, I have come to a much deeper understanding of Western culture and as a result I’ve been able to manage successful business, cultural, and philanthropic endeavors outside of Japan.

幸運なことに、私にはオーストラリア人の知り合いがたくさんいる。彼らが私に、自分たちの経験したことを丁寧に教えてくれるため、まるで私は何年もの間パースに住んでいたかのように思えるのである。彼らとの交流を通じて、西洋文化をより深く理解できるようになり、その結果、海外で成功するビジネスの経営、文化的活動及び慈善活動を行うことができているのである。

第3章 深見流「英語の話し方」道具編 ── 上手に利用して最大限の効果を得る!

≪1≫ 教材や新聞の上手な利用法

教材の種類は最初はひとつに絞る

集中力や記憶の定着効率を考えれば、最初のうちは、教材をあれこれやるよりもひとつにした方がいい。

たとえば、テレビの英会話ならテレビの英会話だけに絞って、しばらくはほかを見ない。

一年間その番組を全部見て、それ用の教材をすみずみまで読んで勉強し、その例文を全部暗誦して口からスラスラ出るまでやったら、英会話能力は飛躍的に伸びるだろう。

しかし、あれこれと手を出していると、どうしても記憶条項が分散してしまうから、記憶の深い部分にまでは定着しない。記憶に定着しないものは、会話で即座には使えないのだ。だから、それでは英会話の勉強をしたことにはならない。

教材は三回おさらいせよ

そういう教え方、覚え方は、私が創業し、経営していた予備校でも実際にやって、抜群の成果をあげている。

英語を覚えるために暗記テストをしているのだが、まず一とおり一冊を全部やる。とうてい一年では覚えられないと思うくらいの量であるが、

「とにかく、全部やったら二回目から頭に入ってくる。信じられなくても、言われたとおりやってごらん」

と言って、励まし励ましやらせるのである。

試験に頼出する英単語をずらーっと配列してテストをすると、だれでも最初は全く覚えられない。未知の横文字に、頭がなじまないのだろう。それでも暗記用の本を一冊やり遂げていく。ところが、二回目になると頭にさーっ、さーつ、さーっ、さ 1つ、さーっと入って、記憶がばちんと定着するのだ。

能でもそうだし、オペラでもそうだ。譜面を見てわからない、わからない、わからないと思ったまま何回もやっていると、同じように、あるときばーっと頭に入っ記憶に定着する。

もともとなじみがないものを、なじんで入って定着したということは、それを真に習得したことに他ならない。

そして、それが三回目になったら、巌(いわお)のごとくぐーんと脳の奥に定着する。それは、私の予備校の暗記テストで実証ずみである。

予備校界の老舗として有名な駿台予備校では、「基本英文700選」というのをやっている。700の文章を全部まる暗記させるのだ。

そうすると、英作文、空欄補充、下線部訳がだいたいできるようになる。

だが、これも前述した森一郎の「試験に出る英単語」のように、最近の入試の易しくなった傾向からすれば、やや時代遅れの感があり、例文が難しくて内容も実情に合わなくなっていると言われているが、反復して暗記させることの重要さは、昔も今も変わらないのである。

疑問は持たず、信じて進め

英語ができない人に限って、教材のせいにしたがる傾向がある。

「こんな教材をやっていて英会話ができるようになるのかなあ」

と疑問が出てくるが、その疑問を粉砕して、ばかみたいに、「これでうまくなる「んだ」とこれに言って聞かせ、とにかく最後まで、その教材を信じてやり抜くことである。

「より合理的な教材はどれか」などと絶対に考えてはいけない。極論すれば、教材は不合理でもいい。「自分は今何をやってるんだろうか」と思いながらでも、とにかくやり続けていると、「こんなに簡単なことだったんだ」とわかったとき、大きな感動が得られる。そういう、合理的ではない教材をずっとやり続けていた人間は、簡単なことでもやり続けられるものだ。そのメンタリティこそが大事なのだ。

英会話学校に行くときでも、全てはそう考えて行くべきだ。「合理的で理想的な教材」などというのはあり得ない。

教材に疑問が出てきたり、先生に疑問が出てきたら、その一語一句を覚えようとする気迫や、真剣に修得する気力が欠けるものだ。

反対に、最高の先生で最高の教材だと信じてやったら、何を聞いても面白いように覚えられる。世の中に理想の教材などは存在しない。本人が納得して、集中して覚えられるのが最上のものなのである。だから、出会ったのが理想と信じ、出会った先生が最高と信じてやることだ。それが何でもいちばんうまくなる道だ。

そしてたとえば仮に、本当に本当に英会話をやる人や受験生にとって理想の教材があったとしよう。

教材としての出来は九十八点とする。その九十八点の出来の教材を一回やるのと、あまり教材としては出来のよくない七十点くらいの教材を三回やるのとでは、どちらがうまくなるだろうか。

当然のことながら、九十八点の教材を一回やるよりは、七十点の教材を三回やるほうが断然うまくなる。

だから教材の出来不出来を問題にして、七十点のものから九十八点のものに変えても、本来二十八点分の差しかないのに、変えたはいいが、途中止まりで全部やりきらなかったというのでは、記憶の定着率が低く、結果的にはマイナスが多いのである。

移り気な人間というのは、九十八点の教材をもらっても全部やらず、半分くらいで止まってしまう。だが、やり通す人間は七十点の教材を三通りやる。五通りでもやる。だから本当にうまくなれるのだ。

このように、教材の浮気は百害あって一利なしである。疑問すら良くない。同じのを十回くらい全部やって、何ページに何が書いてあるか解るぐらいやったら、反復蓄積効果で抜群によく身につく。ばらばらばらと見て、あっちつつき、こっちつつきでやっていてはだめなのだ。記憶の定着率が低く、使いこなせるほど身につかない。

だから、高い学習効果を思うなら、まず教材を設定して、同じ教材を何度も反復して使うことだ。それから学校も、この学校と決めたら欠席せず、最後まで絶対に行くことだ。

ずっと授業がわからないままであっても、聞いているうちになじんできて、どんどん吸収できるようになる。

ところが、こちらの今の理解力を主として考えていると、わからなくなったら、だんだん遠のいていってしまう。それが、人間の学習における心理や習性というものである。

教材は、絶対に挫折してはならない

英会話学校でも、教材に疑問を持たず、問答無用で無理やり全部口誦暗記して全ページ終わらせる。

そして、授業で出たものは全部覚える。何度も口に出して、自動的に口から英文が出るまで覚えるのである。

それは、そのまま英会話の実力となるのだ。どんな教材でも、一冊全部やると決め、何度も反復して覚え込んだらそれが実力の中味そのものである。

そして、通学もこちらの都合に合わせず、学校の都合に自分を合わせて皆勤をめざす。

精勤でも、欠席は一回以内を目標にするのである。それは、二回以上連続して休むと、休むことに対する罪悪感がなくなるからだ。それでは、結局休みがちになって続かなくなる。

また教材に関して言えば、何カ月間でやるという、期間を設定するのもいいだろう。期間の設定をして、絶対にこの教材を最初から最後のページまで読み、わからない単語がゼロになるまで辞書を引き、単語、熟語、センテンスを完璧にマスターするのだ。

しかし、それがもし分厚い本ならば、きっと挫折をするだろう。そういう場合の教材とは、薄ければ薄い程良い。最適の教材とは、最も薄い教材だと思っていい。

薄いけれど、一冊やり通した達成感があるので、またもう一冊やりたくなる。

今の大学受験も、高校受験も、薄型テキスト、薄型問題集の時代である。そうでないものは売れない。その理由は、今述べたことを実感している受験生や、教育関係者が多いからであろう。

英字新聞を読む効果月にひとつの記事を読む

英字新聞を講読するのも、英語に慣れ親しめ、時事英語や教養あるスタンダードな英語を覚えるのに効果がある。

ただし、新聞には記事が多いのである。入門者のレベルでは、すぐめげて逆効果になることもある。

そこで、いくつかの注意をしたうえで、みなさんに是非お勧めしたい。まず、とにかく英字新聞を音読することだ。

やさしそうな記事が必ずあるから、それを声に出して読むのだ。入門の入門なら、「スチューデントタイムズ」や「毎日ウィークリー」でもいい。

新聞だから毎日配達されるので、それを全部音読しろと言われても、絶対長続きしない。そんなことは、入門者でなくても絶対に無理なことなのだ。

前にも述べたように、「月に二千六百円も払って英語様を読ませていただきます、ナンマイダブナンマイダブ」などと、あがめ奉ってはだめ。

そのうえ毎日読まなくてはいけないと思うと、心の負担になる。それよりも一月に一回、英字新聞の記事をひとつ、とにかく「義理で読んでやるんだ」「私が英語を読んでやるんだ。感謝せえー」というつもりで読むのだ。

「私が英語を勉強したら、世界中の人がいい話を聞けるんだから、ありがたく思え」と、荒唐無稽な強がりを言いながら、実は二千六百円が惜しいから、最低でも一個の記事を料金支払いの前に読むのである。

二千六百円出しているのだから、毎日読まなくてはというのも、ケチな根性で、結局は続かなくなる。

英字新聞が毎日届くのに、毎日読めない自分にがっかりして、結局駄目になった人がたくさんいる。

そうではないのだ。一ヵ月のうちにたったひとつの記事を読むだけでも、一年間で十二個読める。最低一月のうちでひとつの記事だけを全部音読して読む。

辞書も引いてみる。そうしたら一年間で十二の記事を正確に読むことになる。

それを十年間やったら、百二十の記事を読むわけだから、相当な数の単語や英文が頭に残るのだ。

それをもし二十年やったら、二百四十の記事を精読したことになる。それは大変な量である。だから英字新聞は意味もなく無駄に、横文字の新聞紙を積み上げるためにとるつもりでいよう。

また、せっかく配達してきた人がかわいそうだから、仕方なく、一ヵ月に一回、一面でも二面でもいいから、記事の一個か二個だけは読んでやってもいい、いや読んでやらねばなるまい、という気持ちいで購読するのだ。

そうして、パラパラと何となく見たらいい。

ゆめゆめ毎日読めないから無駄だと思い、英字新聞やをやめてはいけない。

それでは英字新聞に根性で負けたことになる。負けないで、月に最低一つの記事を音読し、精読していくのだ。

読む記事はなんでもいい。参議院選挙や国会の記事でなくてもいい。巨人ファンだったら、巨人が大勝した日の記事を読めばいい。

阪神ファンなら、めったにない阪神が勝った記事を読めばいいのだ。

そういう読み方をすると、翌日巨人や阪神が勝てば、また新しい記事を読む気がするし、負けたら悔しいから、勝ったときのを何度でも復習の意味で読める。それで月々、たった二千六百円なら安いものだ。居酒屋に一回行くのをこらえたらいい金額である。

英字新聞との正しいつきあい方

ところで、少し英語から離れたら、私も英字新聞を一回読んだだけでは意味は半分ぐらいしかわからない。もう一回精読して読むと六割ぐらいわかってきて、さらにもう一回読むと、九十九パーセントぐらいまでわかるようになる。

英語の語感が戻ってきて、読解が深くなり、未知の単語も類推できてほぼ百パーセントになるのである。同じ文章をじっくりと精読、音読して、三回か四回は読んでいると、全体像がわかるから単語や熟語の意味も類推できる。それで辞書を引けば、記憶に残る割合もうんと高くなる。

しかし、それ以上してはいけない。明日にはまた新しい新聞が来るのだから。最低月に一回のレベルから、もっとしばし勉強する人であっても、英字新聞というのは一生懸命読んではだめなのだ、翌日もまた来るから。また一生懸命やって、するとその次もまた来る。「やめろー」と言っても毎日来るから、腹が立ってくる。

だから、勉強したいところだけちょっとやるのでいい。また明日も来るからということで、絶えずホット話題のところだけやったら、それで英字新聞とのおつきあいは十分なのだ。

「タイム」誌や「ニューズウィーク」誌など、英文週刊誌を使って上級に行く人ももちろんいるのだが、まず初級は新聞がいちばんやさしくて、記事も短くていい。「毎日デイリーニューズ」がいちばんやさしい。他には、「デイリー読売」の一面もやさしい。

中学英語、高校英語でだいたい全部わかる記事も多い。「ジャパンタイムズ」や「朝日イブニングニュース」は少しむずかしくなる。会社でとる場合は、二、三ヶ月に一回、経理担当者が「まだとるんですか」と言うだろうが、一年で三万円だ。

三万円出して一年間で最低十二の記事を和訳したら、とても身が入って価値がある。十年やったら百二十だから、会社も国際的になった雰囲気がする。

やきいもをその新聞でくるめば、かっこいい女子社員への差し入れとなる。

【道具編】重要ポイント①

●教材は一つに絞る
●教材は三回おさらいせよ
●英字新聞は、最低月に一つの記事を読むペースで
●ホットな話題の記事を読むだけでも十分


≪2≫ 英会話学校で話す力は本当に身につくのか?

英会話学校に行くのはいいけれど・・・・・・

英語が本当にうまくなって、セミプロからプロに近づくのは長い道のりだ。七合目から八合目に行く間の一合が、ふもとから七合目に行くまでと同じくらいの苦労が要る。

また八合目から九合目までの一合の違いが、ふもとから八合目まで行くのと同じだけの努力がいる。

上のほうに行くと、違いはわずかに見えるが、できる人同志の違いだから、その差は懸命な努力を積み重ねて、ほんの少しずつ埋まって行くものである。

それに比べると、外国人と楽しく日常会話ができるレベルは、山にたとえると三合目程度で、そこまではすぐに行ける。

とりあえず、三ヶ月で三合目までは行ける。音声教材を鬼のように聞いて、例文を全部暗誦したらいいだけだ。

ところが、語学が不得意な人というのは、そういう愚直な努力ができない人なのである。繰り返し繰り返し述べていることだが、頭がいい人、何でも理解しようとする人間は、たいてい英語が不得意なものだ。

語学の勉強は、基本的には問答無用の単細胞でないとできない。けれど、必要に迫られ勉強する場合は、アメリカ人のようでなく、またイギリス人のようでなくても、ヨーロッパ人のような英語を話せればいいのであるから、追いつめられればバカ暗記ができる。

そのうちスラングがだんだんとわかるようになってきたら、それはもう五合目以上だ。とりあえず三合目まで登れば、日常会話には不自由しない。外国に買い物に行っても、どこかのパーティーに出てもまったく不自由しない。だからまず、三合目まで行くことだ。

わずかそれだけのことができないために、英会話ができないなどと言いながら、英会話学校に通うことになる。英会話学校では、だいたい、初級コースで終わる人が九〇パーセント以上である。

九〇パーセントの人が初級の後までは続かない。英会話ってどこまでやっていいかわからないし、なかなか大変だと思ってやめてしまうのである。

さらに中級まで行く人は、最初の受講者の一〇パーセントもいない。それで、初級でやめてしまう人のおかげで英会話学校は儲かると聞く。みんな一年も続かないで終わるのだ。多くの人はそのパターンにはまってしまっている。

英会話学校に行ったはいいが、先生について勉強しても、あまりうまくならない人が多い。それは、繰り返しになるが、ある一定以上の文型の丸暗記に徹することができないからだ。

そして、丸暗記に徹して覚え、どんどんしゃべって場数を踏んでいくことが大切だ。その場数を踏むときに、ネイティブの人がいたらいいだけで、ネイティブのレッスンや講義に行って聞くだけでは、何年通ったとしても、絶対にうまくはならないだろう。

ピアノのレッスンや歌のレッスンと同じだ。ピアノがうまくなるのは、レッスンが終わった後に自分で一生懸命、ああかなこうかなと孤独で一人練習をする時である。

踊りもそうだ。先生のところヘレッスンに行っても、それだけではあまりうまくはならない。自分でああかな、こうかといろいろ工夫して踊る孤独な練習のときに、身体の奥に沁み込むように入ってうまくなるのだ。

こんな具合で、レッスンや学校というものは、そもそも刺激を与えたり、チェックをしてもらうところでしかない。うまくなるのは、自分で三〇〇くらいのセンテンスを口に出して丸暗記しているときだ。また、単語を何度も発音しながら覚えている時でもある。そのときに実力が伸びるわけだ。それから、徹底したヒアリング。

何も考えずに、ひたすらイメージを走らせて聴いている、そのときにうまくなる。先生のところには、うまくなっている度合いを確認するために行く。いつも行く前に、こんどはあのセンテンスやイディオムを使うぞとか、これを英語でどう言うのかを聞いてみようとか、そういう刺激をもらったり、チェックをしてもらうために授業料を払って教師のもとへ行くわけである。

決して英会話そのものを教えてもらうためではない。英会話そのものを教えてもらおうと思って行くから、断片的な会話やテキストの文の意味を教えてもらっても、それらをどのように修得すればいいのかを、生活指導、学ぶ心の指導、学ぶ習慣の指導などをふまえ、母の如く父の如く全人格指導を為さない限り、決して英会話そのものを教えたことにはならない。

その基本ができていないので、自分なりにやってもやってもうまくならないので、ガッカリして自信をなくすのである。

スイミングスクール方式と海軍方式

ところで、英語の学習は大きく分けると二種類ある。スイミングスクールふうの英語の学習と海軍教育ふうの英語の学習だ。

スイミングスクール方式は、ステップ・バイ・ステップで覚えていく。

最初は水に慣れる所から始まり、次に息次ぎの仕方を覚えてから、徐々に水上でなめらかにブレスするのに慣れていく。クロールの手のさばき方、足の動かし方も、はじめは地上で手をバタバタ、足をバタバタさせて練習して、ある程度それをマスターしてから水に入る。

平泳ぎも、呼吸の仕方や、筋肉の動かし方、またそれらのリズムのコツを教えてもらい、ステップ・バイ・ステップで泳げるようになっていく。

ところが同じ水泳を覚えるのでも、海軍のやり方というのは、練習生を船に乗せて沖へ連れて行き、それから身体にひもをつけ、船の上からバーンと突き落とすものである。落とされた人は必死で泳ごうとする。ごぼごぼごぼっと沈みかけたら、ひもをぐっと引っ張るわけだ。ともかく必死で泳がせる。

この二つのやり方があるわけだが、商社などに勤めている人の英語の覚え方は、全く海軍方式だ。

バタバタと行く海外留学もそうである。とにかく、いきなり海外の現場に飛び込んで、それから必死の思いで英語でコミュニケーションしなければならないのだから自分で勝手に勉強して行けと言われて、必死の思いで商売して、先輩や上司の後ろについていきながら、

「英語が早くしゃべれるようにならなきゃいけない。どうしたらいいのかなあ」

と必死に苦戦する。いきなりだから、当然ヒアリングはできないわけで、とことん相手の言うことをわからないまま聞かなくてはいけない。

スピーキングにしても同じだ。手段を選ばず、とにかくうまくならなくてはいけない。通じなければ仕事も生活もやってゆけないのだ。だから、とにかく通じる英語を短時間で覚えるには、この海軍方式が一番だと思う。

しかし、英会話学校の教材は、ステップバイステップのスイミング教室方式だ。

私が大学生だった頃のESSは、ステップ・バイ・ステップ式よりも海軍式が多かった。

私の場合は、英会話学校に行ったことはないし個人教授についたこともない。最近になってあるアメリカ人の先生に少し習ったことはあるが、それも別に個人レッスンほどのものではない。

討論のやり合いのデッドヒート勉強会のようなものだった。私はいつもぶっつけ本番で、いきなりやらされたから、やはり海軍方式で育った人間である。

しかし語学は、こういうやり方でなければだめだ、ということはない。英語圏の子供は、生まれたときから親が英語を話し、優しかったり厳しかったりしてだんだんなじんでいくし、商社マンは海軍方式でいきなり行ってやらされる。どちらがいいかは人それぞれの環境や性質によるが、前にも述べたように、英会話の学校に行くのなら、あまり自分を甘やかさない学校にしたほうがいいだろう。

強制力がある英会話学校に行く

基本的に、英会話学校の中でも、フレックスタイム制でいつでも生徒の時間に合わせてくれる学校で、先生がいつもニコニコして優しく教えてくれる学校では、絶対に生徒の力は伸びない。

人間はだんだんとなまくらになっていくからだ。自由な学校は、強制力がない。

だから力がつかない。英語を勉強するのに、強い主体性や目前に迫ったねばならない環境がある時は、それでもなんとか続くだろう。

しかし、普通は、常にやる気と意欲を与えた上で、無理やり来させる、無理やり覚えさせるのがいい学校だ。励ましながら、やる気まんまんにさせた上で、覚えなかったらぽろかすに言われる、そういう学校だと、恥ずかしくて汗水たらたら流して、くそーっと前向きに思うからうまくなるのだ。

それがいい先生というもので、優しくて都合に合わせてくれるだけの学校では、生徒の足はだんだん遠のいていく。

だから、うまくなるためには、やる意欲と刺激の補給が定期的に必要なのである。しかし、そんな先生や学校があればいいのだが、なければ自分で作るしかない。

そのためには、例えば今度はいついつにアメリカでスピーチをやるとか、商談をやると決めて、それに対する締め切り効果をねらう。

これは心理学の言葉だが、具体的な日時や場所や内容を決めてしまうと、そのときまでになんとかしなくちゃいけないと思うから、一生懸命な気持ちが続くのだ。次はいついつまでにやります、と決めるから集中してやれるわけで、歌でも書道でも絵でも、物事の習得の原則は同じであろう。

だから、私も書や絵の先生のところに一生懸命通って、展覧会や書画集を次々に出す目的で制作を続けている。

オペラをやります、能を舞います、と具体的に日時を設定して、目標を持ってやるから一生懸命練習するわけで、そうでなければ、たらたら練習していてうまくなるはずがない。

例えば書画集を出すと決めているから、こんなのじゃいけない、あんなのじゃいけない。

ちゃんとしたものを出さなければならない、と思って真剣にやるわけだ。これが、早くうまくなるための秘訣であり、基本的な心構えだと言えよう。

だから、何をするにもはじめは入門の入門であっても、志は常に高く持ち、なるべくレベルの高い教室へ行って、英検一級の試験を受けるとか、外国に行くプランを立てたりしたらいい。

外国で有名人と会って、あの話をして、この話をして、日本のことを教えてあげなきゃなどと思うと、当然「英語をちゃんと話さねばならない!」と思うようになる。

学校というのは独学でやれない人が行く所である。

だがもし、独学の姿勢ができていて、なおかつ優秀で厳しい目の学校に行くならば、その人は、必ずや英語のトップエリートになるに違いない。

【道具編】重要ポイント②

●英会話学校に行こうとする前に、まずは中学レベルの典型例文を自分で覚える努力をせよ
●英会話学校は、自分を甘やかさないところにする。フレックスタイム制で、いつもこちらに合わせてくれる学校では、だんだんなまくらになってしまい、英語力が伸びない

【深見東州 英語寸言集③】

For a long time, I sought to answer the question of what truth is. Finally, I found that truth lies in universality.

For religious thinkers, universality manifests itself as religious truths.

For artists, uiversality manifests itself as the portrayal of beauty and deep emotion.

For entrepreneurs, universality manifests itself through the skilled managing of companies.

And I am convinced that the more we pursue truth in different realms of our lives by thinking, acting and expressing, the more our spirits approach the eternal God who created the earth and the universe.

This is what I call the real growth of the spirit.

私は長年にわたり、“真理とは何か”という問いに対する答えを探求してきた。そして遂に、“真理は普遍性の中にある”ということを悟った。

普遍性というのは、宗教的思想家には宗教的真理として顕現し、芸術家には、美と奥深い感情の表現を通して顕現する。そして企業家には、会社の(巧みな)運営という行為を通して顕現される。

さらに私は、我々が人生の様々な領域における真理を探求しようと考え、行動し、そして表現しようとすればするその魂は、地球と宇宙を創造した永遠なる神に近づいて行くと確信したのである。

これが、私が「魂の真の成長」と呼んでいるものである。