ブラインドの皆さん、外へ出てゴルフをしよう!(Vol.2)

第1章 ブラインドゴルフとの出会い

世界の女王が腕を競う

まさに春爛漫であった。静岡県・伊豆半島の中央部に位置する伊豆大仁カントリークラブには、日本の春を象徴する梅、桃、桜が、ともに咲き乱れ、ほぼ同じ時期に開催されていたマスターズトーナメントのコース、オーガスタ・ナショナルCCと同じく、アゼリアの花も、ほころびつつあった。

2005年4月8日、朝、8時。インコースのスタートホールである10番ホールのティーに偉大な女子プロが立った。

LPGA(全米女子プロゴルフ協会)ツアー27勝、現在WSGA(全米女子シニアゴルフ協会)会長を務めるジェーン・ブラロックである。

1969年、デビューし、ルーキー・オブ・ザ・イヤーに選ばれ、引退までの12年間、連続299試合予選通過というとてつもないLPGA記録を持っている。

彼女の脇に2人の男が、近づいた。1人は、デビット・ブライスという恰幅のいいオーストラリア人、もう1人は、この私である。

なぜ、私がここにいたかはひとまずおこう。

私は、スタッフの1人から、紙袋を受け取って、中のものをブラロックに示した。ブラロックは、瞬間のけぞり、笑い崩れた。場内にアナウンスが流れた。

「ジェーン・ブラロック会長は、今から20年ほど前、この伊豆大仁カントリークラブで行われたいすゞレディースカップで優勝した時は、金髪のお下げがチャーミングな選手でした」

私が袋から取り出したものは、お下げに結った金髪のかつらである。

私は彼女にお願いした。

「是非、そのかつらで始球式をしてください」

「OK、OK。トライしてみるわ」

競技委員の始球式の開始を告げる合図とともに、ティーの3人が同時にドライバーを一閃させる。

金属音とともに、3個の白球は見事な弧を描き、フェアーウェーに向かっていく。ギャラリーから拍手が巻き起こり、私は、ほっと小さなため息をついた。

ご存知の人もあろうが、伊豆大仁カントリーのアウト1番、そして、インのスターティング・ホールは、ユニークといえばユニーク、ハードといえばハードな設計で、ティーの前には、大きな谷が口を開けており、キャリーで、160ヤードほど飛ばなければ、ボールは、谷に吸い込まれてしまうのだ。

歴戦のブラロックにとっては谷など眼中にないだろうが、プロならぬ私にしてみれば、谷をクリアするには、それなりのプレッシャーを感じざるを得なかった。

ブライス氏はどうだったか。彼は、分厚い胸をなでおろし、晴れ晴れとした笑顔を浮かべた。

ブライス氏はIBGA (世界盲人ゴルフ協会)会長を務める人物で、彼自身も視覚障害者、つまり、ボールもクラブもまったく見ることができないB 1グレードで全盲なのである。

しかし、性格は極めて明るい、全明というべき人物である。

私は、JBGA(NPO法人日本ブラインドゴルフ振興協会)の名誉会長、そしてIBGA総裁を兼務、これから開催される「プロ・アマ・ブラインドゴルフアー・チャリティトーナメント」と、翌日から開催される2005年「ワールドシニアゴルフレディースオープン選手権」の主催者側代表として、ティーに立ったのだ。

始球式を終えた私の近くに樋口久子JLPGA(日本女子プロゴルフ協会)会長と、キャシー・ウィットワースがいた。

樋口久子プロは、JLPGAツアー7 2勝という未曾有の記録を残し、また全米女子プロというメジャーのタイトルを持つ。

まさに、男女を通じて日本人唯一のプロであり、また日本人では青木功プロや2005年に決定した岡本綾子プロに先がけ、日本人で最初にゴルフ世界殿堂入りを果たしている。

キャシーは、LPGAツアーで、88勝をマークしているが、これは、男性の USPGA(全米プロゴルフ協会)含めて、世界最高の記録である。

もちろん、世界殿堂入りをしている偉大なプロである。樋口久子プロも$6D82阿玉プロも、自分がいちばん尊敬している人だ」と言ってはばからない。

さらにアマチュアの志賀功選手が加わり、いよいよ2005年・ワールドシニアゴルフレディースオープン選手権の開幕に花を添える、プロ・アマ競技が開始された。

インの10番、先ほど始球式を行ったティーに、まずアマチュアの志賀選手が、ガイド(キャディー役)の志賀夫人を携えて立った。

晴美夫人が、ティーアップしたボールの後ろに立ち、志賀選手のスタンスの方向を見定め、小声で何事かをささやく。さらに、夫人はドライバーのヘッドを、ボールすれすれに合わせ、再びささやく。

東南アジアのゴルフコースでは、キャディーが至れり尽くせりのサービスをするところもあるが、しかし、ここまでするのはやりすぎだろうと、初めてこのシーンを目にした人は思うに違いない。

この至れり尽くせりに見えるガイドのことについては、まもなく事情がわかると思うが、軽くうなずいた志賀選手は、確信に満ちた表情でバックスイングに入る。鋭い打球音を残し、ボールは谷をクリアしていった。

ついで、私のティーショット。極力、ゆったりとしたスイングからドライバーを振り下ろす。会心の一撃であった。

ウィットワースの打球は、さすがに百戦錬磨のプロらしい球筋で、青空を引き裂き、樋口プロは、全盛期とまったく変わらぬ、優雅ともいうべき特徴的なスウェー打法から、これまた溜め息の出るような見事なショット。

ギャラリーからの惜しみない声援に送られ、第1組、そして後続のパーティーが次々にスタートを切っていった。

漆黒の闇と闘う

ここで志賀功選手について触れておこう。志賀選手は、金属素材を取り扱う企業のオーナーである。当初、サラリーマンとして勤務していたが、あるとき、医師に重大な宣告を受け、独立の意志を固めた。やがて静岡県富士市で志賀ステンレス株式会社を設立、昼に夜を継いで社業に励む。

そんな彼の、唯一の趣味はゴルフであった。

社業の合間を見つけると、彼はドライバーと紐の付いたボールを手に、工場の空き地へ向かい、練習にいそしむ。

まだ、ゴルフが高価な遊びと思われた頃のことであり、独立してまもなくの彼にとって、頻繁にコースに出ることは経済的に負担が大きかったこともある。

だが、それだけではない。彼は自分の人生設計に取り組んでいたのである。

深夜、彼は、自らの練習場に立つ。あたりは漆黒の闇である。

わずかにぼんやりと確認できるひも付きの練習ボールを打っては、その打球音に耳を澄ませ、その方向を見据える。

いや、見据えるといっても、球は闇に吸い込まれて見ることはできない。だが、それでよいのだ。彼は、心の目にボールの行方を刻み付けるのが目的なのだ。

ついに、その日がきた。医師の宣告通り、志賀さんは、光を失ってしまったのである。病名は網膜色素変性症。

その日を予期していた志賀さんだが、神ならぬ身である。平静を装おうとしても、それは無理というものだ。

頭から布団をかぶったまま、部屋に閉じこもるという日々が続いた。彼が立ち直ったのは、2年ほど経った頃である。

「このままでは、俺は単なる「駄目な男」で終わってしまうではないか」

「仕事のことをすべて頭の中に記憶したのは、いったい何のためだったのか。そして、光のない深夜にゴルフの猛特訓をしたのは、いったい何のためだったのか」

「家族が何もいわずに、唯、悲しい目をして俺をみているではないか」

ある夜、志賀さんは紐付きのゴルフボールと、クラブを手にして夫人に声をかけた。「母さん、付き合ってくれ。飯は後だ」

会社や自宅のありようはすべて記憶してあるから、手探りするまでもなく、立ち居振る舞いができる。

社業での応対や折衝も、それまでと変わるところはない。初めての場に臨むときには、多少の戸惑いを感じざるを得ないが、そんなときは、夫人がたくみにリードする。

事情を知らない人から見れば、志賀さんが失明しているなどとは、思いもしないことだろう。

そして、ゴルフ。失明のときまで、努力精進してきたことは無駄ではなかった。ところが、残念なことに、ゴルフ場そのものが、視覚障害者のゴルフを受け入れることを拒んでいた。

それはそうであろう。目の見えない人が直径4267ミリメートルの小さなボールを、1メートルほどの長さがあるクラブで打つことが、果たしてできるのだろうか。

百歩譲って、ベテランのコーチやキャディーが付けば、何回かスイングするうちに当てることができるかもしれないが、その先はどうなるのか。

ゴルフ場にはアップダウンがある。平らな室内や歩道を歩くのとは違うのである。さらには、池やバンカーなど、さまざまな障害物(ハザード)などが設けられているのが、ゴルフ場なのだ。

グリーンの上では、どうか。直径わずか108ミリのホール・カップにボールを入れなければならないのである。そんなことができるはずはないと、多くのゴルフ場は、志賀さんのプレーをしたいという申し出に応えようとしなかった。だが、志賀さんはあきらめなかった。

「論より証拠、一度、プレー振りを見てほしい」

ゴルフ場の支配人の立会いの下、練習グリーンでのパターの腕前を披露した。グリーン上には、夫人が同伴し、志賀さんとともにカップまでの距離を歩測する。

さらにパターのフェースの方向を合わせ、ストロークの大きさを指示する。志賀さんのパターから乾いた音がして、ボールはするするとカップに近づき、コロンと音を立てたではないか。

なるほど……………。だが、ドライバーは?第2打以降は?

支配人たちを従えて、志賀さんは、ティーに立ち、ドライバーを振る。鋭い音とともに、低く飛び出したボールは、高く舞い上がっていく。

セカンドショット。

「あ、ちょっとダブったか」と、舌打ちするが、球はグリーン方向へ。アプローチで、グリーンにのせると、

確実に2パットのボギーで上がって見せたのである。

アップダウンのあるフェアーウェーにも問題はなかった。夫人の肩に手を乗せ「少し坂よ」「わかった」と、言葉を交わしながら、確かな足取りで歩むのである。

これにはゴルフ場の支配人も、文句をつけるどころではない。

「どうぞ、いつでもプレーをしてください」

今、志賀さんはNPO法人日本ブラインドゴルフ振興協会(JBGA)の会長を務めておられる。

オーストラリアで、真の福祉活動に触れる

私が、ジェーン・ブラロック、デビット・ブライス会長とともに始球式を行ったとき、さまざまな思いが去来した。ゴルフに関していえば、もちろん、偉大なプロに互する腕の持ち主ではない。

ゴルフ歴も、ハンディキャップもごく普通の、平均的なアマチュアプレーヤーである。

平均的でないとするなら、ビジネスで海外を駆け回りながら、時おり地元のゴルフ場でビジネス仲間とプレーをすることだろうか。

その私が、今から20年ほど前に運命的な出会いをした。オーストラリアの西部、西オーストラリアの州都・パースで、友人からロン・アンダーソンという人物を紹介されたのである。

ロン・アンダーソンとにこやかに会話を交わしていたが、彼が中座したとき、友人はこう言った。

「半田さん、彼が視覚障害者であることがわかりましたか」

私は絶句した。握手したとき、彼はしっかりと私の目を見つめていたし、中座するときも、椅子やテーブルの間をすいすいとすり抜けていったではないか。

彼の視力は、明暗がかすかにわかる程度で、健常者の視野の0.5%以下なのだという。

席に戻ってきた彼に私は率直な言葉をぶつけた。

「目がお悪いそうですが……」

「いえいえ、大したことではないんですよ」

聞けば、サーフィンをやり、水泳選手権にも出場し、ロッククライミングが大好きで、自転車レースにも出場し、そしてゴルフも。

彼は私に、1本のビデオテープを見せてくれた。そこには、健常者とともにあらゆるスポーツにチャレンジし、なおかつ心から楽しんでいるロンの姿が収められていた。

私は、ビデオを見ながら、流れる涙をとめることができなかった。

何事にも、可能性を見出し、挑戦することが、人間の人間たる所以であることを、目の当たりにしたのである。

うわべだけ明るく振舞うというのではなく、心のそこから楽しみ笑う、人間の本当の姿をそこに見出したのである。

翌日、私はロンと、ゴルフを楽しんだ。

ロンには、1人、専用のガイドが付いた。方向やグリーンでの指示をするためである。

ティーショット。あらゆるスポーツで体を鍛えたロンのドライバーショットは、まさに破壊的な快音を残して、フェアーウェーに飛び去った。

グリーンでは、ガイドが、ピン(旗竿)を金属棒で叩き、方向と距離を伝える。ロンのボールが、ピンの方向に吸い寄せられていく。

当時ゴルフを始めてまもなくの私は、ロンのペースに随いていくのに、汗だくの体であった。

ハーフを終えて、ロンのスコアは60そこそこ。私はそれよりはるかにスコアが悪かったことを覚えている。

ロンはいった。

「ミスター半田は、目が悪いのではないか」

「いや、私は耳が遠いのだ。したがってピンを叩く音が聞こえないのだ」

丁々発止のジョークが飛び出す、愉快な一日であった。

オーストラリアに滞在中、私は頻繁にロンと会いオーストラリアの福祉文化のあり方について教えを乞うた。

この5番目の大陸に英国人が住み着いたのは近世のことであり、しかも当初は流刑地とされており、また、原住民のアボリジニーを排斥したという暗い歴史を持つが、現代のオーストラリアは、恵まれた自然にはぐくまれたスポーツ王国であり、また、素晴らしい国民性を誇る国でもある。

彼らは、障害者であっても、健常者と変わりなく扱い、また障害者も自ら健常者の中に溶け込んでいける人的な環境を育て上げてきている。

一方、わが国はどうなのだろうか。

かつてに比べれば、障害者に対する認識はかなり変化しており、障害者の社会参加の機会も大幅に増えてきてはいるが、それでも、世話をする者とされる者とが向き合う関係であることが多く、同レベルでの付き合い方や、参加の仕方に慣れていないという傾向が強い。

また、己の可能性にチャレンジするという意欲を抱く障害者は決して多くない。最初から、自分は社会の厄介者であると自ら思いこんでしまうか、さもなくば、自分の面倒は社会が見るものと決め込んでいる人が少なくないのだ。

もちろん、障害者による自主活動グループも数多くあるが、指導者や行政の力が不足しているのか、活動にはなにかと制限があるし、彼らが心から喜びを共有しているかどうかとなると、疑問符を付けざるを得ない。

あるとき、そういったグループの人に「楽しくやっていますか」と、声をかけたことがあるが「ええ、楽しいですよ」という答えが、いかにも、自らの本心を隠した外交辞令的なような言葉に聞こえてしまったものだ。

おそらく、これは障害を持つことが、社会的にマイナスの存在であると感じてしまう意識のためだと、思われる。

海外の先進諸国では、障害は、その人の特性であって、なんら人格にかかわらないという意識が徹底している。

私が、社会福祉に強い関心を抱いたのは、かれこれ20年前に遡る。

本当の社会福祉とは何なのか、自分にできる福祉とは何なのか、という問いを持ち続けていた私の目を開いてくれたのは、日本社会福祉学会会長を4期務められた一番ケ瀬康子女史(長崎純心大学教授、日本女子大名誉教授)であった。

女史は私にこういった。

「民間で行う福祉は人的にも財政的にも限度があるから、政府がやらないユニークなものから手がけるべきでしょうね。

小規模でいいから、社会福祉文化に貢献できることをね。地道に成果を挙げていけば、政府も一般の人も注目し、より大きな結果を得ることができるのだから」

この言葉を常に胸に抱きながら、しばしば、オーストラリアを訪れ、ロンが役員をしている西オーストラリア州立盲人協会の人たちと交流を深めた私は、思い立った。

障害にもさまざまあるが、その中でも辛いのが、視覚障害者だといわれる。その視覚障害者が求めてやまないものは何か。

健常者と同じように、身体を動かすこと、すなわちスポーツに打ち興じることである。目を除けば、健常者と変わるところがない人であれば、いっそうその思いは募る。

トリノにおける冬季パラリンピックで日本選手は、大活躍を見せてくれたが、スケートやスキーといったウインタースポーツには、視覚障害者は参加しにくい。

テニスや卓球という相手とやり取りするスポーツも格闘技も難しい。だが、ゴルフならどうだろうか。わが国にも、視覚障害者のためのゴルフ組織を設立しようと心に決めたのである。

プロが脱帽した一瞬

実は、視覚障害者のためのゴルフ組織には長い歴史がある。

記録に残る範囲でいえば、世界で初めてブラインドゴルフを始めた人物は、アメリカ・ミネソタ州に住むクリント・ラッセルなる人物である。事故で視力を失った彼が1924年、クラブを担いでゴルフコースに姿を現したとき、人々がどんな反応をしたかは、想像に難くない。多くの人には、彼の挙動が正気の沙汰と思えなかっただろう。

だが、彼は臆することなく、白球に、そしてゴルフコースに挑んでいった。最初は冷笑を浮かべてみていた人々も、彼の不屈のチャレンジングスピリットに感動し、「方向はこっちだぞ」

「目の前に池があるから気をつけろ」と、アドバイスを送り、正確なショットをするために、近寄ってボールの位置を教えたりしたに違いない。

悪戦苦闘しながらも、チャレンジにチャレンジを重ねた彼は、やがて平均的なアマチュアプレーヤーを凌駕し始め、1930年にはなんと1ラウンド(18ホール)84という驚異的なスコアをマークしたのである。

この記録は1932年に刊行された「Believe It Or Not」という本にしっかりと記録されている。

一方、イギリスにも、ビーチ・オクセンハム博士なる勇気あるチャレンジャーが現れ、ブラインドゴルファーの存在が、人々の耳目をかきたてることになった。

その結果、1938年にUSBGA(全米ブラインドゴルフ協会)が設立され、その年の8月20日、ミネソタ州リッジビュー・カントリークラブで、世界初のブラインドゴルフトーナメントとなるUSブラインドゴルフチャンピオンシップが開催された。この試合では、ラッセル選手が、オクセンハム選手を打ち破り、初代チャンピオンの座に着いた。

ブラインドゴルフが隆盛に向かったのは第2次世界大戦後である。

皮肉なことに、戦傷によって視力を失った人たちの存在が、この隆盛を招いた。戦争は、技術の革命的進化をもたらすという冷徹な事実があるが、また、人間に生きるための新たな意欲を掻き立てさせるのも、皮肉な真実ではある。

終戦とともに、ブラインドゴルフ大会がアメリカ各地で開催されるようになり、選手たちの技量も飛躍的に向上した。その代表ともいうべき人物は、前USBG A(全米ブラインドゴルフ協会)会長のパット・ブラウン弁護士であろう。

彼は過去14回の大会で優勝しているが、ベストスコアはなんと74である。

この偉業は、世界の一流スポーツマンをクローズアップする「スポーツイラストレイテッド」誌にも紹介され、ブラインドゴルフの存在が大々的に喧伝されたのである。

1999年、USブラインドゴルフチャンピオンシップは、40回をかぞえることになり、ひとつの興味ある試みが行われた。

18人のブラインドゴルファーに混じって、目隠しをした男が出場したのである。ハンチングをかぶり、ニッカボッカをはいた男、そう、当時アメリカで最も敬愛されたプロゴルファー、ペイン・スチュワートである。

彼は、パット・ブラウンたちと9ホールのマッチを戦った後、ハンチングを脱ぎ、敗北を認めた。

彼のスコアが、62であったのに対し、パット・ブラウンは、涼しい顔で42をマークしたのだ。

ブラインドゴルフ倶楽部

私が視覚障害者のための「日本盲人ゴルフ協会(当初はブラインドゴルフ倶楽部という名称)」を設立したのは、後述する松井新二郎氏の協力があってのことである。

ゴルフは紳士のスポーツといわれる。そこで、松井新二郎氏に相談し、まず、知性と教養と礼儀をわきまえた視覚障害者を紹介していただき、そこから試行錯誤して、よりよき運営を研究しようということになった。

そして、松井先生が3人の視覚障害者を選び、ブラインドゴルフのことを説得してくださって、最初の3人のブラインドゴルファーが誕生したのである。

それが壁谷晴子さん、笹田三郎さん、山口和彦さんであった。その後すぐに、伊藤道夫さんらが加わったのである。

もちろん、後続組の中には、志賀さんや、志賀さんよりも早くから、コースに出ていた黒羽根唯さんもおられた。

それまで、日本では、志賀さんのように、個人でゴルフを楽しもうという人が、何人かおられたが、この人たちは、お互いに横の連絡を取りようもなく、また、健常者の時代にゴルフに熱中していたが、視力を失ってしまい、鬱々として腕をこまねいていた人も少なくなかったのだ。

それからさらに、これまでゴルフの経験のなかった人たちが、入会できるかどうかと問い合わせてくるようになった。

そこで、数年間を試行錯誤しながら細々と運営してきたが、組織の本格的な構築を急いだのである。

つまり、視覚障害者の志賀さんが会長になり、ブラインドゴルファーたちが自己実現の一環として、運営もやるようになったのである。

これで、組織も本格化し、だんだん軌道にのるようになったのである。つまり、こうして、欧米のブラインドゴルフ協会と同じレベルになるまで、ブラインドゴルフという福祉文化が、日本で一人歩きするようになったのである。

そこで、私は名誉会長に退き、志賀さんを中心に、NHK、朝日新聞など、積極的にマスコミに紹介するようになった。そうすると、どんどん入会の希望者が増えてきたのである。

驚いたことに、希望者の中には、ゴルフの経験のないのに、失明をきっかけにゴルフをやってみたいという人もいたのである。

これには正直私は驚いたが、同時に、青空の下で、薫風を受けながら白球を打ってみたいというこの人たちの願いが、いかに切実なものなのかを感じざるを得なかった。

私は、彼らの願いをかなえるためには、優れたスタッフ陣を構築せねばならないと考えた。

テリー・ゲールとの出会い

ゴルフ好きな人なら、ニック・ファルド、ペイン・スチュワート、テリー・ゲールといったプロの名をご存知だろう。

ニック・ファルドは、ゴルフの祭典・マスターズ、世界で最も古い伝統を持つ全英オープンのチャンピオンであり、ペイン・スチュワートは、世界で最も強いゴルファーという称号が与えられる全米オープンを2度も制した天才プロである。テリー・ゲールは、日本のトーナメントでしばしば優勝したオーストラリア・ゴルフ界の重鎮である。

彼らに共通するのは、単に世界的名プレーヤーであるということだけではない。極めて熱心な慈善活動家であり、ニックはイングランドブラインドゴルフ協会をバックアップしているし、テリー・ゲールは、オーストラリアブラインドゴルフ協会を応援している。

そして、ペイン・スチュワートは全米ブラインドゴルフ協会をバックアップしていた。

「していた」と、過去形で表現しなければならないのは、1999年、 2度目の全米オープンを制した同じ年、彼は全米プロに出場するために自家用ジェット機で移動していたが、自家用機が墜落するという悲運に襲われこの世を去ったためである。

彼の死の直後に開催された全米プロでは、出場選手すべてが喪章を付けてプレーをした。いかにペインが選手たちからも敬愛されていたかが分かる、悲しいエピソードである。

私は、オーストラリアを公益活動やビジネス活動などのひとつの拠点としているために、頻繁に行き来をしていることは既に述べたが、ロン・アンダーソンらの協力で、テリー・ゲールの知遇を得ることができた。

私は彼に「日本におけるブラインドゴルフ発展のために、知恵を授かりたい」と、お願いした。私の話を静かに聞いていた彼は「OK。僕にできることは、何でもやりましょう」と、全面的にバックアップすることを約束してくれた。

まもなく、日本盲人ゴルフ協会(現特定非営利活動法人日本ブラインドゴルフ振興協会)が設立され、日本でもブラインドゴルフ大会が定期的に開催されるようになったとき、はるか南半球から駆けつけてくれたテリーの姿が必ず見られた。

テリーは、ひとつのホールに陣取り、ブラインドゴルファーのパーティーが、そのホールにさしかかると、1人ひとりに手取り足取り、レッスンをしてくれたのである。

ブラインドゴルファーたちは、テリーに出会ったことに驚愕し、じかにコーチを受けることの喜びを味わった。

テリーは、体型的に日本人と差はない。世界のゴルフ界は、今、鉄のように鍛えられた肉体から繰り出す強烈なパワーによるアスリートゴルフ全盛の時代にあるが、アマチュアにとって、アスリートゴルフ、パワーゴルフは憧憬の的であっても、実践の手本とはなりにくい。

しかし、テリーのように平均的な体型の名プレーヤーが教えるシンプルでわかりやすいスイング理論を学ぶことは、さほど難しいことではない。

とはいえテリーに、日本のブラインドゴルフのために常駐してもらうことはできない。

彼には、本国のプロゴルフ協会や盲人ゴルフ協会で果たさなければならない責務が山とあるからである。なんとか国内での優秀な技術的指導者を発掘することが焦眉の急であった。

無理を承知でレッスンを申し込む

私の日本での活動の本拠地は、静岡県伊豆大仁と東京・杉並区にある。私がゴルフを始めた頃、しばしば通った練習場は、近くの練馬区にある上井草ゴルフセンターであった。

ここに小金井カントリークラブ出身の青井利雄というプロがいる。とっつきは悪いが、教え方は懇切で理解しやすい。

私は、彼に「目の見えない人にレッスンしてもらえないだろうか」と、声をかけてみた。

「えっ、目の見えない人ですか。それは・・・・・・」

最初の反応は、虚をつかれた感じであった。それはそうだろう。常日頃、「ボールをしっかり見て」

「ヘッドアップ!目が天井向いているじゃないですか」と、私に厳しい声を投げかけていたのだ。

その肝心の目が見えないというのでは、青井プロならずとも、目が宙に舞ってしまうだろう。

私は、自分がオーストラリアで見聞きしたブラインドゴルファーについて語ったが、まだ半信半疑であった。そこで「百聞は一見にしかず」と青井プロをオーストラリアに引っ張り出した。

コースでプレーするブラインドゴルファーの姿や、コーチが教えているところを見た青井プロの目がテンになった。

「どうですか」という私の問いに、「やってみましょう」と青井プロは答えた。

当時のことを青井プロは、「本当は自信なんかまるでなかったんですよ」という。

しかし、いざ始めてみると、不安は杞憂でしかなかったことがわかった。

一般のゴルファーは、レッスン・プロに教えを受けても、必ずしもそれを忠実に守ろうとはしない。

なにしろ情報が氾濫している時代であり、テレビをつければ、タイガー・ウッズだのビジェイ・シンだのフィル・ミケルソン、あるいは丸ちゃんこと丸山茂樹プロの映像が目に飛び込んでくる。

書店に行けば、レッスン書が百花繚乱というより、まさに百家争鳴、さまざまな著者がさまざまな教えを説いている。

そんな環境の中で、ひとつの教えのみを信じるという人は少ないだろう。だが、ブラインドゴルファーの場合は、少なくとも目からの情報は入ってこない。テレビや技術書から学ぶことはできないのだ。

頼りは、耳と体感である。健常者に比べれば、はるかに少ないアンテナを駆使するしかないのだ。

しかしそのことが、いわば、砂漠に水を撒くに近い恐るべき吸収力を生むことにもなるのである。

そして、なによりも、心の問題が大きい。人がかつて抱いた、自由に空を飛びたいという願いと同じく、自然の中で、体を動かしたいという思いが、健常者の何十倍、何百倍も強いのである。

青井プロは、いざ、レッスンを始めてみて驚いた。

実に素直にそして真剣に教えを吸収しようとするのだ。知ったかぶりをする人もいなければ、小理屈を並べようとする人もいない。ただひたすら一心に学び、体感し、ナイスショットをすれば、満面に笑みを浮かべ、体中から喜びを発散するのだ。

私は練習場に出かけ、折に触れ青井プロに様子を聞いてみると「教え甲斐があります」と答える。

確かに五体満足、スポーツ万能タイプの人ほどに、技術が進歩するわけではない。しかし、その真剣さは、ひしひしと教える側にも伝わってくる。これこそ、レッスンする側の醍醐味といえるだろう。

二人三脚のパートナーを育成する

だが、問題が残っていた。ブラインドゴルファーには、サポートするキャディ役としてのガイドが必要である。このガイドは、ある種の特殊な能力を必要とする。

まず、プレーヤーの目にならなければならない。通常のキャディーも、もちろん、プレーヤーの目の役を果たすが、ボールのまぢかに、クラブヘッドを近づけてボールの位置を確認させるといったことはやる必要がない。

ところがガイドは、ショットごとにかがみこみ、クラブヘッドのフェースとボールとを限りなく近づけてやるという作業をしなければならない。

ワンラウンド合計100回のショットやパットを打つとすれば、最低100回は、必ず屈んでアドバイスしなければならないのだ。スクワット100回!

方向指示器の役割もある。グリーンや旗竿の位置や、風向きへの対応は、普通のキャディーの任務だが、ガイドは、ティーを降りる第一歩から、左右、あるいは高低差に注意を払わなければならない。そして牽引車にもならなくてはならない。

プレーヤーの手を肩に触れさせたり、比較的平らなところでは、クラブで手と手をつなぐ形で正確な位置に誘導していかなければ、プレーは進行しない。

ガイドの役割はまだまだあるが、それについては後述しよう。

その前に何より肝心なのは、ゴルフに関しての知識、技術を十分に知っていなければならないのだ。

キャディーに関して、こんなギャグめいたエピソードがあるのをご存知だろうか。

あるプレーヤーが、グリーンまでの距離を聞いた。

「どのくらいあるの」

「150ヤードなら6番アイアンかな」などとプレーヤーは思惑をめぐらせながら、キャディーの返事を待っていた。

キャディーは、しばらく考えた末に答えた。「そうさなあ、あんたの足なら3分ぐらいかかるかな」

誰も足の速さなど聞いてはいない。

ティーショット。

「何番で打ったらいいかな」

「私なら、パターで打つわね。どっちみち球が上がんないからねえ、私の場合」

誰も未熟なあなたの技量など尋ねてはいない。

こういったキャディーは論外だが、ガイドは、一定の知識や技術を習得した上で、さらにプレーヤーがどうすればよいかに、適切なアドバイスをしなければならないのだ。

自分ならどうするかではなく、プレーヤーにとって最も望ましい方法はなにかを判断しなければならないのである。

これは、一般の優秀なキャディーにも求められることではあるが、ガイドは、自分の能力の範囲で考えることは慎まなければならないのだ。目が見えない人なら、どうすることがベストなのか、常に推察力と想像力を駆使しなければならないのである。

2005年のマスターズトーナメントを見られた方は、最終日、16番のショートホールでの、タイガー・ウッズのプレーを思い浮かべていただきたい。

グリーンをオーバーしての第2打。タイガーの位置からは、グリーンはピンに向かって下り、さらに厄介なことに大きく右に傾いている。

タイガーは、ピンか左、5、6メートルのところに視線を送ってじっと見つめた。打ち出されたボールは彼の視線の方向にふんわりと飛び出し、グリーンに落ちるとほぼ直角にピンに向かってゆっくりと転がっていく。

誰の目からも、ナイス・アプローチであった。

これならパーをセーブできるだろうと、すべてのギャラリー、いや、キャディーすらそう思ったはずだ。

ところが、タイガーの頭の中には、まったく次元の違う思いがあったのではなかろうか。

「そのまま、転がれ、あと1センチ!」

ボールは、5ミリ、4ミリとミリ刻みにカップに近づき、カップの縁でいったん停止した後、ゆっくりとカップに吸い込まれていったのだ。

タイガーが、果たしてカップインすることをイメージしていたかどうかは、わからない。

だが、天才のいだくイメージを常人が想像するのは至難である。

ブラインドゴルファーとガイドとの間には、タイガーとギャラリーとの間に存在するほどの想像力の違いがあることを認識しなければならないのである。

青井プロは、このガイドの育成にも努めなければならなかった。

ガイドは、ボランティアや、ブラインドゴルファーの身内や関係者が多かったが、あるときは一心同体、あるときは、別世界の壁と格闘しながら、それでも嬉々として練習に励んでいた。

私は、このペアたちの姿ほど美しいものはないと思っている。ボランティア活動にもいろいろあるが、どちらかがリードするのではなく、お互いが対等の立場で、目標に向かうという形は極めて珍しいのではないだろうか。

ボランティアの数が増える一方、新たな強い味方が、参加してくれた。1人は、トーナメント・プロとして活躍している稲葉真寿美プロである。

青山学院大学を卒業した才媛プロとして知られる彼女は、母親の死の痛手から立ち直ろうと、書店で私の本を手に取ったところ、そこにブラインドゴルフのことが書いてあることを知った。

関心を持った彼女は、私の元を訪れ、ブラインドゴルファーとの交流が始まったのである。

以後、視覚障害者がゴルフをすることで、社会復帰を果たすことを目指してほしいと願い、レッスンだけでなく彼らの体力面や精神面についてのケアに力を注いでくれている。

彼女がトーナメントに出場したときには、彼女のファッションにも注目してほしいものだ。ウェアには、必ずJBGA(日本ブラインドゴルフ振興協会)のロゴが入っている。

つまり、彼女は、JBGAの所属プロ第1号なのである。

まだまだ、力強い味方がいる。インストラクターと事務局スタッフを兼務している川原恵美子さんだ。専修大学ゴルフ部で鳴らした彼女は、1994年に桜ヶ丘カントリークラブのブラインドゴルフ大会に参加して強い感銘を受け、95年から、レッスンと煩雑な事務処理の両方を担ってくれている。

「ブラインドゴルフほど、メンタル面と肉体面、双方のリハビリテーションに向いている福祉スポーツはないと思います」と、彼女は語る。

「それまで自分自身が持っていたゴルフに関する固定観念が打ち砕かれました」彼女らにとってのゴルフは、スコアあるいは、ライバルとの勝敗にこだわるものであったのだろう。

球の行方ばかりに気をとられ、ゴルフ場の美しい光景など、目に入らないというゴルファーであったのかもしれない。

「人と人とのコミュニケーションの輪を広げ、なおかつゴルフを楽しんでいる、ブラインドの人たちに教えられることが山ほどありました」

より多くのプレーヤー、そしてガイドがJBGAに参加し、ゴルフの真の楽しさを見出してくれることを、川原さんをはじめとするスタッフは待ち望んでいる。

かくて、陣容を整えた日本ブラインドゴルフ振興協会発足時は、ブラインドゴルフ倶楽部)は、いよいよ大海に向けて船出をした。1988年のことである。