JLPGAからのメンバー
迎え撃つ形の、JLPGAのメンバーを紹介しよう。
?阿玉プロは、76年LPGAに参戦し、ルーキー・オブ・ザ・イヤーに選ばれている。81年からJLPGAに正式入会、女性ゴルファーとしては類を見ない強烈なパンチショットを武器に、82年からの5年連続を含め7回の賞金王の座についている。JLPGAでの優勝回数は58回。生涯獲得賞金および平均ストローク第1位。
森口祐子プロは、75年プロテストに合格したが、このときは強風が吹きすさび、45人の受験生の中でただ1人合格した。JLPGAの優勝回数は41勝。主婦、育児、プロと三役を見事にこなしていることでも知られる。
吉川なよ子プロは、73年JLPGAに入会。優勝回数29勝は、永久シードまで、あと1勝に及ばず。生涯賞金獲得第4位。1998年にJLPGA功労賞を受賞。
今掘りつプロは、73年にJLPGAに入会、最多連続出場482試合という JLPGAの快記録を保持している「鉄の女」。ホールインワンを6回記録。高須愛子プロは、1974年JLPGAに入会。86年を皮切りに、18勝をあげた。ホールインワンを9回記録。
寺沢範美プロは、愛知商科大学を卒業 1987年JLPGAに入会。1990 年、東洋水産レディスで、初勝利、91年、フジサンケイレディースに勝ち、トッププロへの地歩を固め、以後コンスタントに賞金ランキングの上位を占めた。 96 小田美岐プロは、同志社大学ゴルフ部で鳴らしプロに入って6勝するなど大活躍したが、今は後進の指導と、テレビ解説などで忙しい。
稲葉真寿美プロは、既に述べたように日本ブラインドゴルフ振興協会の所属プ口。1979年JLPGAに入会、第2回エバーグリーンゴルフカップで優勝、東北クイーン3位、美津濃オープン3位などの成績を残している。
明日に向かって進む
第1回ワールドシニアゴルフレディースオープン選手権の大成功の後、女子シニアゴルフの世界に大きな動きが見え始めた。シニアトーナメントが、多くのファンに認知され、いくつかの企業が、シニアトーナメントのスポンサーとして名乗りを上げるようになったのである。
ワールドシニアゴルフレディースオープンから、2ヵ月後の6月15日16日に第1回JBGAシニアレディスカップが、静岡カントリー浜岡コースで開催された。トーナメント名でもわかるように、この大会は、非特定営利活動法人日本ブラインドゴルフ振興協会の主催である。この大会では、ワールドシニアと同様、大会前日にブラインドゴルファーを交えたプロアマ競技が行われた。プロの参加者は43人、吉川なよ子プロ、高須愛子プロ、生駒佳代子プロ、永田富佐子プロ、小田美岐プロなどのそうそうたるメンバーの中で、晴れの初代チャンピオンとなったのは、2日間1アンダーをマークした松尾恵プロであった。
JBGA名誉会長の私からクリスタルの優勝カップを手渡された松尾プロは、まぶしいくらいの笑顔を見せてくれた。 7月2日には、盲導犬チャリティLPG Aエバーグリーンゴルフカップが開催され、わがJBGA専属プロ・稲葉真寿美プロが優勝した。
レギュラーツアーでは、幾度か3位になりながら、優勝に一歩及ばなかった稲葉プロにとっては、うれしいビクトリーである。スコアは3アンダー69で、2 若浦みどりプロに2打差をつける快勝であった。
10月21日には、大宝シニアレディースカップが行われ、黄明プロが2日間トータル1アンダーで優勝。さらに、11月29日には、ふくやカップマダムオープンが開催され、吉川なよ子プロが、2日間2アンダーで優勝した。
それまで、活躍の場が少なかった女子シニアプロの大会が、一挙に5回も開催されたことは画期的なことである。
さらに、今年度(2006年)には、さらに革命的な企画が進行している。 4 月12、13日に、私が総裁を務める世界ブラインドゴルフ協会の、公式競技であるブラインドゴルフ世界選手権が静岡県裾野市のファイブハンドレッドクラブで行われ、アメリカ、イングランド、オーストラリア、カナダ、北アイルランド、スウェーデン、スコットランド、ドイツ、そして日本の9つの国と地域の代表選手が参加した。この大会は、視力に応じてB1、B2、B3のカテゴリーが設けられているが、総合優勝、B1優勝、B2優勝、B3優勝のプレーヤーには、4 月15日から開催される、第2回ワールドシニアゴルフレディースオープン選手権の前日に行われる、プロ・アマ・チャリティトーナメントで、自分が一緒にプレーしたいシニアと組むことができるという、素晴らしいプレゼントが用意されたのだ。
今回のワールドレディースオープンに出場する選手は次のメンバーだ。
ワールドチームのキャプテンは、キャシー・ウイットワースで、パット・ブラドリー、パティ・シーハン、ジョアン・カーナー、シンディ・ラリック、ジェーン・ブラロック、シンディ・ミラー、パティ・リゾ、ジェーン・ゲディス、コリーン・ウォーカー、デビー・マッシー、ローリー・ウエスト、バーブ・モクスネスバル・スキナー、シェリー・ハムリン、エレーン・クロスビーのアメリカ勢に、南アフリカのサリー・リトル、英国のキャシー・パントン・ルイス、台湾の蔡麗香の面々、日本からは、生涯賞金獲得額第1位の?阿玉、森口祐子、松尾恵、黄明、永田富佐子、吉川なよ子、稲葉真寿美、岡田美智子プロらが出場する。ワールドチームで、いささか残念なのは、ナンシー・ロペスと、ローラ・ボー、日本勢では、岡本綾子プロがスケジュールの調整がつかず、参加できなかったことだが、来年以降は、参加してくれるだろう。
さらに11月4、5日には、ハンダ・オーストラリア・カップというトーナメントが行われる。
この大会は、私がブラインドゴルフを知り、社会貢献のひとつの方法として、ブラインドゴルフの発展に力を注ごうと決意した、いわば聖地というべき、パースのネッドランドゴルフクラブで開催されるものだ。その試合方式は、まことに破天荒なもの。女子シニアと男子シニア、それにジュニア選手を交えて覇を競おうというものだ。つまり、ゴルフの社会貢献を考えて、レギュラーの男子と女子はぶき、ジュニアがシニアに学び、女子シニアの存在をアピールし、男女シニアが負けるものかとモチベーションを上げることが目的である。
また、12月14日からは、シーズンを締めくくるビッグイベント、ハンダ・カップ・USAがアメリカのセント・オーガスティンの、キング&ベア・カントリークラブで開催される。
セント・オーガスティンは、世界ゴルフ殿堂が鎮座する聖地であり、キング&ベア・カントリークラブは、ゴルフの王様アーノルド・パーマーと、ゴルフの帝王ジャック・ニクラウスのニックネーム、「ゴールデンベア」に因んで作られたゴルフコースである。
ハンダ・カップ・USAという大会は、男子プロのライダーカップを想起していただければよい。ハンダもライダーも人の名前であり、私は本当は恥ずかしいのであるが、あくまで組織で主催するので組織の名前にしてほしいと頼んだが、ライダーカップと対比したいので、絶対これにしてほしいと、アメリカシニアゴルフ協会から頼まれたのである。ところで、そのライダーカップは、当初、アメリカとイギリスのプロによる大西洋を挟んだ対抗戦であった。その後、イギリスの劣勢が明らかになったことから、現在は、アメリカ対ヨーロッパ連合の対抗戦になったが、ハンダ・カップは、太平洋を挟んだアメリカ女子シニア(在住外国選手を含む)対アメリカ以外の全世界の女子シニアの対抗戦である。
プロ野球の世界では、アメリカ大リーグと日本とのワールドシリーズの開催が主張されて久しい。それが、今年のWBCという形となり、王ジャパンの優勝という素晴らしい結果を生んだ。恐らく遠からぬうちに、ワールドシリーズは開催されると思うが、ハンダ・カップは、野球よりも先にワールドシリーズを実現した画期的な試合といえるだろう。
だが、こういったビッグイベントばかりに、私の思いがあるわけではない。ブラインドゴルフと、シニア女子プロのドッキングとともに、女子シニア界の底辺拡充も極めて大切なことと考えるからだ。女子シニアプロの現状については、既に触れたが、多くのシニアたちはトーナメントに恵まれず、レッスンプロとして、己の技術を発露させるしかない、まさに「脾肉の嘆」をかこつ日々だった。しかし、それでも、トーナメントプロとしての魂を捨てることができない人たちは、仲間と集まって、小さなトーナメントを開き、腕を競い合っている。例を挙げれば、岡田美智子プロらが行っている「パールの会」などがそれだが、残念ながらトーナメントという名に相応しいとはいえない。なぜなら、賞金は、各選手が供出し、その賞金を争うというものだからだ。アマチュアのゴルファーがプライベートコンペ、あるいは個々に行う「握り」を想像していただければよい。
そこで、私は、このミニ・トーナメントを月例のトーナメントとすることを提案し、若干ながら賞金を提供することにした。さらに、月例の成績をトータルし、各月の上位3名の選手たちだけで、マニュアル・グランドシニアチャンピオンシップを開き、総額100万円の賞金と、ほとんど新車の国産車を副賞として提供することにしたが、シニアプロのモチベーションが一気に高まったのはもちろんである。
一方、樋口久子プロが会長を務める女子プロゴルフ協会でも、シニアの活性化を図るために、クオリファイ・テスト(QT)を開催することになった。600 人の半数近くいるシニアをランク付けすることによって、主要大会への出場権が獲得できるために、122人がシニアプロに登録し、クオリファイ・テストを受けることになったのである。
さらにブラインドゴルフの初期から大いに協力してくれている青井プロは、 993年から独自の活動を始めていた。現在のプロテストは、かなり過酷な条件を課せられており、トーナメントプロではなく、レッスンプロにとっても、楽にクリアできる門戸ではないのだ。
まず、ゴルフ場や練習場で、しかるべきプロの元で、研鑽を積んでいることが条件で、さらにハードな実技のチェックばかりではなく、長時間の理論やルールの研修が義務付けられているが、何よりも、これらにかかる経費が、バカにならない。これでは志のあるレッスンプロ希望者が、レッスンプロとしての資格を維持できないし、生活もやっていけない。だから、その希望者も敬遠してしまうのではないかというのが、青井プロの考えであった。また、トップアマがアマチュアを教える資格を持ち、お茶やお花の看板のように、アマチュアを教える資格を与えれば、ゴルフ人口の裾野が広がるだろうという考えもあった。だから、テストして、その資格も与えているのである。
なにも、トーナメントプロだけがプロではない。レッスンプロやティーチングプロ、インストラクターがいてこそ、日本のゴルフ界全体の底上げも可能になるし、また、地域と社会の健康維持促進にも、大いに貢献する。青井プロはそのための地道な活動を行ってきたが、2005年に、日本インストラクタープロゴルフ協会として、特定非営利活動法人の認証を受けた。
現在100人を超えるゴルファーが、インストラクターの資格をこの協会によって維持している。また、レッスンプロを目指す人も増えているのである。このことは、ブラインドゴルファー、ひいては、多くの障害者がゴルフに関心を持つことにも繋がるはずである。
また、わがJBGAも、隆盛の一途をたどっている。
現在、稲葉プロが専属プロであるが、新たに岡田美智子プロが契約プロとして加わってくれた。岡田プロは樋口久子と同じく1期生プロで、レギュラーツアーで、過去10勝しているが、最後の勝利は何と50歳と11ヵ月のときであり、これは、アメリカのジョアン・カーナーの46歳、樋口プロの47歳を上回る、女子の最高齢レギュラーツアー優勝の世界記録として、ギネスブックに記載されている。現役生活も長く、57歳までレギュラーツアーに出場、出場試合数は8 13試合(第2位は吉川なよ子プロの767試合)で、これもギネスの認定待ちである。こういった経歴だけを見れば、まさに「鉄の女」というイメージであるが、実際お会いしてみると、極めて温和な人柄であり、まことに魅力的で、誰もが尊敬する女子プロの鏡のような女性なのである。彼女が、ブラインドゴルフと初めて出会ったのは、静岡カントリー浜岡コースで行われた、2005年JBG A女子シニアトーナメントレディスカップの際の、プロアマ競技のときであった。
ブラインドゴルファーのプレーを注視していた岡田プロは、「ゴルフというスポーツを心から楽しんでいること、ナイスショットを素直に喜んでいる姿が素晴らしい。きっと、心の目が優れているんでしょうね。私も皆さんの前向きな心を「学ばなくちゃ」と、語ってくれた。
以後、時折ゴルフ場で、ともにラウンドし、レッスンしてもらうことがあり、そのおかげで、私のゴルフも大いに進歩したのである。岡田プロは、私のことを「いつも子どものような純粋な心を持ってらっしゃるから」とおっしゃってくれるが、それは未熟なところも多いからだろうと、自らを戒めている。
これまでは、専属プロは稲葉プロだけだったが、新たに吉川なよ子プロが専属プロとして加わってくれた。通算29勝、永久シードまで、あと1勝というところで、足踏みしてしまったが、生涯賞金獲得額は第4位。
これは、最近の女子プロトーナメントの賞金が高くなったためであり、数年前までは、$6D82阿玉選手に次いで2位の座にあった。つまり日本人では最高位だったのである。(2005年現在のランキングは1位・不動裕理プロ、2位・?阿玉プロ、3位・具玉姫プロ)。
彼女は、ほとんど独学で師匠を持たない上、癌を克服するという波乱に飛んだ人生を体験されながら、なおもトッププレーヤーの位置を守り続けていたことは、驚嘆に値する。彼女は、昨年のワールドシニアゴルフレディースオープンのプロアマ競技で、ブラインドゴルファーに直に接触し、彼らのプレー振りはもちろん、その生き様に深い感銘を受け、その後、京都で月2回、ブラインドゴルファーたちへのレッスンをボランティアでしてくれている。すべての女子シニアプロの中で、彼女だけが、そう申し出て下さったのだ。こんなありがたいことはないと、深く感謝している。他にも心ある多くの女子、男子のシニア、また、レギュラー選手やレッスンプロもいるはずである。少しでも、この「ゴルフの社会貢献」やブラインドゴルフの楽しさや意義を知っていただき、彼女に続く人を待ち望む次第である。ところで、彼女のトーナメントでは、闘志をむき出しにする姿を覚えている方もおられるだろうが、そのレッスンぶりは極めて熱心で懇切丁寧、すべてのアマチュアやブラインドゴルファーに慕われている。だから、残った人生をその彼らに協力してくださるように、専属をお願い申し上げたのである。
ところで彼女の特技をひとつお教えすると、あらゆるゴルフプレーヤーの物真似の名人であることだ。思うに、先輩や後輩プロの良いところを手本にしながら、自らの技に磨きをかけてきたことが、今日の彼女を作り上げてきたということなのだろう。多くのアマチュアも、自分のゴルフに陶酔するだけでなく、優れたプレーヤーの姿を注視し、それを吸収することが上達の早道といえよう。
最後に、私事を述べれば、ブラインドゴルフ、そしてシニア女子プロに関わることによって、自分のゴルフが大いに変わってきたことを自覚している。かつて、オーストラリアで、ブラインドゴルフの先達であるロン・アンダーソンとプレーしたときは、ハーフ60以上を叩いたものだが、青井プロ、稲葉プロ、そして樋ロプロや吉川プロ、岡田プロのきびしい薫陶を得て、1ラウンド、84か85、時にはハーフをパープレーで上がることもある。
技術が向上すれば、ゴルフの楽しさも、深さもいっそう理解できるというものである。この楽しさ、喜びをより多くのブラインドの人たち、さらには、障害を持つ方々や、成人病で悩む中高年の方々に、楽しみ喜びながら健康になっていただきたいものである。そして、できれば障害者とともにゴルフを楽しみ、ボランティアにもなっていただきたい。ゴルフを通じて社会に貢献できるほど、喜びと充実と魂が満足する健康作りはないのではないだろうか。この思いが、私を明日に向けて推し進めてくれるエネルギーになっているのである。
最近、わが国は勝ち組と負け組とを分けるという、悪しき習慣ができあがっているように思える。だが、私が知る限り、ブラインドゴルファーは弱者ではない負け組でもない。勝ち組と称する人たちよりも、はるかに精神的に満たされているだろう。私は、ブラインドゴルファーたちとともに、ゴルフによる社会貢献の道をまっしぐらに歩み続けたいと思っている。
世界の超一流女子プロとのラウンド
このワールドシニアレディースオープン選手権の主催者が全米女子シニアゴルフ協会であるということは、米国女子シニアゴルフ協会のツアー(WSGT)としての1試合にカウントされることになる。したがって2005年は、WSGT はアメリカで3戦、日本の1戦の計4戦で、戦われることになった。
世界盲人ゴルフ協会と日本ブラインドゴルフ振興協会も、主催者として名を連ねているのは本戦の前日の8日に、プロ・アマ・ブラインドチャリティトーナメントが開催されるからである。このことが、世界盲人ゴルフ協会を通じ、世界の加盟各国各地域の盲人協会に伝えられると、協会会員たちの間に一種パニックに似た感動が走った。
世界の超一流女子プロと、日本で大活躍した女子プロと一緒に、しかも、同じ組でラウンドできるなど、思っても見なかったからである。
各協会の事務局は、てんてこ舞いの騒ぎになったという。会員から
「どうすれば、出場できるのか」
「費用は幾ら用意すればいいのか」という、問い合わせが殺到したのだ。
わが国も同様であった。チャリティトーナメントは24組、各組にブラインドゴルファーとガイド1組が参加できる。つまり、ブラインドゴルファーの参加は計24人ということになる。日本で開催するのだから日本人のブラインドゴルファーが主体になるのは当然ではあるが、できれば、海外の会員の参加者の数が確定してから、日本人の出場者を決めるのが妥当なところだろう。
やがて海外のブラインドゴルファーの出場者が次々と決定した。
その方々のプロフィールと、大会を前に届けられたメッセージを、簡単に紹介しておこう。
ジョアーナ・カマータ選手(カナダ)=世界盲人ゴルフ・視力B2部門の2004年度チャンピオン。3人の息子たちのコーチ、そして夫ロンの指導のもと、2000年からブラインドゴルフ大会に参加するようになった。
ブラインドゴルフを始めたことによって、多くの友人たちに恵まれたことが大きな喜びだという。来日は初めて。
「大会では、ブラインドゴルフに対する評価がたかまるようなプレーができれば幸い」と抱負を語った。「それに、日本の美と文化に触れることができると思うと胸が躍らずに入られません」
ニール・バクスター選手(イングランド代表)=1996年に退職するまでは、自然療法の専門医として勤務。80年代後半からゴルフを始め、95年には英国盲人ゴルフ協会のキャプテンを務めた。89年と2001年には英国ブラインド・マスターズに優勝。ガイド役は、本人と同じぐらいゴルフ好きの夫人が務める。現在は世界盲人ゴルフ協会と、イングランド盲人ゴルフ協会セクレタリー。ジム・ゲールス選手(スコットランド代表)=同じスコットランド出身のポール・シェファードがガイド。このコンビで、全米オープン、ビクトリアン(オーストラリア)オープンなど、数々のブラインドゴルフの国際大会に出場している。
スコットランドチームのキャプテンとして、英国とのライダーカップ形式でのトーナメントでは、98年、99年の2年にわたって圧勝した。
個人としては2001年全英オープンでの優勝が光る。スコットランド盲人ゴルフ協会のディレクター兼セクレタリーを8年間務め、2003年、ブラインドゴルフに貢献したことが認められ、女王陛下からMBE勲章を授与された。現在はスコットランドの東海岸、セントアンドリュース近郊のスプリングフィールドジャネット夫人と盲導犬とともに暮らしている。
ポールはセントアンドリュースにあるセント・マイケルズ・ゴルフ・クラブの元キャプテン。
ジャン・ディンズデール選手(北アイルランド代表)=視力を失い始めて2年後の1998年からゴルフを開始。それ以降、視力は、低下し続けているが、そと反比例する形で、ゴルフは上達している。
2004年日本で開催されたブラインドゴルフジャパンオープン女子部門3位入賞。2002年のカナディアンオープンで総合優勝。カナディアンオープンでは、女性ブラインド・ゴルファーとして史上初のホールインワンを達成。
ボブ・アンドリューズ選手(アメリカ代表)=1967年、ベトナム戦争従軍中に負傷、失明。失明する前には、建築工学の学位と、自家用飛行機操縦免許を取得している。米国盲人ゴルフ協会の会長を10年間務め、その間会報誌「ミッドナイト・ゴルファー」を創刊、また、協会のウェブサイトを立ち上げた。国際トーナメントでは、98年日本ブラインドゴルフオープンチャンピオンシップなど、数多くの優勝を果たしている。
「友人たちにコーチをしてもらっているが、僕が今あるのは、何といっても妻のティナのおかげ」
ヘレン・ウィーバー選手(スコットランド代表)=ブラインドゴルフ大会のために来日するのは今回で9度目。一昨年、日本ブラインドゴルフ振興協会の永久名誉会員に選ばれた。ゴルフを始めたのは14歳のときで、地元のゴルフクラブのジュニア会員から、クラブのキャプテンを務め、州の代表選手として、スコットランドの名門コースすべてで、プレーをした経験を持つ。生まれたときがもう少し後であれば、世界に名を轟かせる女子プロになっていたかもしれない。失明したとき、彼女は自分のゴルフ人生が終わったと思ったものだが、ブラインドゴルフを知ることによって、再び、フェアーウェーに復帰した。現在88歳、昨年、ちょっとしたことから手首を骨折したが、現在は完全に回復し、スコットランド育ちの素晴らしいテクニックを披露してくれるだろう。今回のガイドは、ゴルフとテニスが好きな孫娘のアニヤである。ヘレンの前では、誰も「私は年だから……」とはいえないだろう。
ゲルハート・スターク選手(ドイツ代表)=1944年4月15日生まれ。機械工学を専攻、70年に父親の会社に就職、現在、ドクター・スターク&Coグループの専務取締役を務めている。ゴルフ以外の趣味は、チェスと音楽。93年から太陽黒点の変性に関する研究を続けている。ドイツ盲人ゴルフ協会会長。
デニス・マコーロック選手(アメリカ代表)=1997年以来、ブラインドゴルフに熱中、2002年には、世界ブラインドゴルフ選手権と、同年の全米オープンで優勝を飾った。2004年の日本オープンB2部門でも、優勝を果たしている。今回はバーバラ夫人を伴っての再来日。
デビッド・ブライス選手(オーストラリア代表)=世界盲人連合の役員を16 年間、アジア・太平洋地域の会長を8年、世界盲人協会の会長を4年務めていたが、その頃、私の要請を受けて世界盲人ゴルフ協会の第2代会長に就任した。ゴルフ歴は16年、現在、オーストラリアとニューサウスウェールズブラインドゴルフオープンのチャンピオン。
スージー・ウェストウッド選手(オーストラリア代表)=15歳で、今回出場の中での最年少出場者。2002年設立されたオーストラリア西部ジュニア盲人ゴルフアカデミーの会員。2004年半田ジュニアクラシックでグロスチャンピオンとなった。彼女は、視力以外にも、腎臓移植手術を受けるなど、つらい経験をしているが、ピアノの演奏をしたり、2人乗り自転車で走り回るなど、明るく元気なティーンエージャーだ。
JBGAの出場選手
ホスト役を務める日本の出場選手は、次のような人々である。
志賀功選手=日本ブラインドゴルフ振興協会(JBGA)会長。1994年の第1回ブラインドゴルフ・ジャパンオープンで、総合優勝を遂げて以来、国内外のトーナメントで、好成績を収めている。静岡県在住。
森山勝治選手=JBGA副会長。交通事故で視力を失ったが、1995年からブラインドゴルフに打ち込む。健常者に、障害者への理解を深めてもらうために、講演活動も行っており、ブラインド仲間から厚い信頼感を得ている。ベストスコアは、117。千葉県在住。
本田省三選手=60歳まで盲学校の教師を務める。1997年からブラインドゴルフを始め、ベスト・スコアは100。広島県在住。
藤野博子選手もともと、器械体操をやっていたスポーツ・ウーマン。1998年からブラインドゴルフを開始。また、書の達人、社交ダンスにも挑戦。ベストスコアは101。福岡ブラインドゴルフ協会会長。福岡在住。
永田直行選手=2000年よりブラインドゴルフを始める。ベストスコアは89。マッサージ治療院経営。三重県在住。
後藤健治選手=1997年からブラインドゴルフを始めた。ベストスコアは101。マッサージ治療院経営。福島県在住。
布施雅夫選手=1999年よりブラインドゴルフを開始。 2005年ブラインドゴルフ・ジャパン・ツアー関東大会に優勝。ベストスコアは100。東京都在住。
吉井道代選手=1998年よりブラインドゴルフを始める。白い杖を持ち、ゴルフバッグをかついで電車に乗っているところを、声をかけてきた男性は、それがキッカケとなり、ガイドのボランティアを始めた。 1998年カナディアンオープン優勝、2003年ブラインドゴルフ・ジャパン・ツアー関西大会女子部門優勝。ベストスコアは107。東京都在住。
土屋豊治選手=1997年よりブラインドゴルフを始める。ベストスコアは103。マッサージ治療院経営。静岡県在住。
宇津木康栄選手=1998年よりブラインドゴルフを始める。ベストスコアは 109。千葉県在住。
高松操選手=1990年よりブラインドゴルフを始める。ベストスコアは96。治療院を経営。兵庫県在住。
川村光男選手=2003年よりブラインドゴルフを始める。ベストスコアは9 9。2004年ブラインドゴルフ・ジャパンオープンB3部門準優勝。三重県在住。
高橋隆一選手=2004年ブラインドゴルフ全英オープン3位。2005年ブラインドゴルフ・ジャパンオープンB2部門優勝。神奈川県在住。
増田輝夫選手=1998年よりブラインドゴルフを始める。ベストスコアは9 9。2002年ブラインドゴルフ・ジャパンオープン総合優勝。マッサージ師。静岡県在住。
第3章 ブラインドゴルフは健常者と同じルール
ブラインドゴルファーは上達が早い
日本人が世界で最も長命であるといわれて久しい。昔は、人生50年といったものが、今は80歳を越えるのが当たり前で、70代で亡くなれば「早死に」と同情される時代である。
しかし、長く生きていれば、体のあちこちに支障が出てくるのは、当然だ。
そもそも、長命の理由が、人間の肉体や体質が強化、向上した結果ではなく、衛生環境の整備と、医学の発達によるものであり、その結果、生きることを強いられることもある。
いうならば、不健康な長寿が、今の高齢化社会のひとつの断面であろう。
肉体や体質に関していうならば、現代人よりも、昔の人類のほうがはるかに強健、強固であったのではなかろうか。
今の若い人たちを見ていると「なんとまあ、脆弱な」と思わないでもない。その原因の多くは、文明の廃棄物による環境汚染と社会的ストレスに求められるが、過保護がさらに加わって、脆弱さに輪をかけている。幼時の頃から、ほとんど無菌状態で養育されているから、ウイルスや細菌などの外敵に遭遇すると、ほとん無抵抗状態だ。今は下火になっているように見える鳥インフルエンザ騒ぎなども、ウイルスの進化ばかりが強調されているが、相対的に人間の抵抗力が弱まっていることを指摘する向きは少ない。
しかし、時代を遡れば遡るほど、環境汚染もなく、社会的ストレスもなかったわけで、健康なままに、それぞれの天命を全うすることができたのかもしれない。神武天皇は、160歳の長寿を得られたといわれる。これは神話の世界の話だと、一笑に付す人もいるが、生物学的にいえば、人類は140歳までは生き得るといわれるのだから、あながち荒唐無稽な話と決め付けるわけにはいかないだろう。それはさておき、ともあれ現代人は長命である。その結果、人々の多くは、体に何らかの支障を抱えながら、人生を歩み続けることになる。しかし、あらゆる支障の中で、最も、苦痛を伴うのは、視覚障害であるといわれている。たとえば、手足の不自由さは、かなりの部分を何らかの方法で補うことができる。耳の障害、口の障害も、不自由さは想像に余るものがあるだろうが、それでも、手話や筆記で、意志の疎通を図ったりできるし、さまざまな形の自己実現も可能である。
ところが、視力を失った人はどうだろうか。簡単に闇の世界というが、闇の世界とは、いかなるものなのか。通常の人は、一切の光源がない、密封された穴蔵の中を想像するしかないが、果たしてそうなのだろうか。私には、黒という色す存在しない、無色の無限空間の世界だと推察するほかはない。
私がブラインドゴルフに関わりを持った根源には、このような世界に閉じ込められた視覚障害者が、ゴルフをもって心の糧としている姿に感動したからだ。そもそも、外界を認識できない人に、長い柄の付いたクラブで、小さなボールを打つことなど不可能ではないか。ところが、ブラインドゴルファーに聞くと、「そんなに難しいことではないですよ」と、いったのだ。
確かに、未経験な人にしてみれば、ゴルフは、止まったボールを打つのだから大して難しいことではないと思えるだろう。知人の1人にゴルフの話をしたところ、「あんなものは、いつでもできますよ」と、歯牙にもかけない。なにしろ、彼は若い頃から、野球、テニスに熱中していたから「止まったボールなんて」と、高を括っている風情。そこで、折を見て、練習場に連れて行って、ボールを打たせてみると……。
本人は、額どころか、全身汗まみれになって格闘するにもかかわらず、空振りの連続、たまに当たることがあっても、奇妙な打球音を残して、目の前の芝生に突き刺さるか、右手150、160度の角度で、転がっていくのみ。私は笑いをかみ殺すのに苦労したものだ。
ブラインドゴルファーが、初めてクラブを持ったときは、恐らくその比ではなかっただろう。まだしも、健常者は、自分がどこに立っているのか、ボールがどこにあるかを確認することができる。しかし、ブラインドゴルファーは、それすらも認識することができないのだ。
ところが、その技量の向上ぶりは、異常といえるほどに早い。なぜ彼らがそれほどに上手になれるのか。上井草ゴルフセンターの青井プロのレッスンぶりを観察していて、なるほどと、思うことがあった。ボールが確かに目の前に鎮座していることは、ブラインドゴルファーも、健常者も同じ条件である。ブラインドゴルファーは、ボールの位置を視認できないから、コーチなりガイドが、クラブのフェースを、ボールのまぢかに近づけて、ボールのありどころを教える。健常者のアドレスの状態である。
「いいですか。ボールは確かにそこにあります。クラブを振り上げ(テイクバックをして、元のところに、振り下ろしてくれば、ちゃんとボールに当たります」と、いわれても、いきなり、ボールに当たる確率は極めて少ない。
「なぜ当たらないのか。クラブが、アドレスの位置に戻ってこないからです。なぜ、戻ってこないか。体の軸が、動いてしまっているからなんですよ。腰を中心に、肩、膝をできるだけ軸からずれないように回転させてバックスイングし、ダウンスイングしてください」
青井プロが、ブラインドゴルファーが持つクラブのシャフトに手をかけ、幾度かバックスイングの動きをレッスンし、改めてスイングさせる。それを繰り返すという一見むなしい努力が続き、何度か、クラブが空を切る音が続くが、そのうち、突然鋭い金属音が響き渡る。
「ナイスショット!ほら、当たったでしょう。体の軸が動かなかったからですよ。そのことさえ、覚えれば、後は」簡単かどうか、ここからがブラインドゴルファーと健常者との分かれ道だ。健常者の多くは、当たったことで、己を過信し、いつの間にやら、コーチの教えな忘れ体の軸をずれさせてしまうことが多い。少々軸をずらせても、ボールは見えるし、体を動かせば、その分、パワーを出せると思ってしまうのだ。ナイスショットを放てば、我が球の行方に見惚れてしまう。
そうこうするうちに、基本の基本をすっかり忘れてしまい、元の木阿弥となってしまうのである。
しかし、ブラインドゴルファーは、違う。球の行方を追うことができないから、我が快打に見惚れることもない。ただ、手に残った快い感触と、耳に飛び込んできた金属音だけを忘れまいとする。
もう一度、その快感を味わうためには、基本を反復するしかない。丹念にアドレスをし、レッスンを忠実に守り体の軸を念入りに確認してから、一球一球に、集中力のすべてをこめて立ち向かう。上達が早いのは、当然である。
健常者より一枚も二枚も上手
ブラインドゴルファーの姿を見た人は、求道者の姿を重ね合わせるかもしれない。真摯に一道を求める、澄み切った心のありようを思い浮かべることもあるだろう。だが、ブラインドゴルファーの思いは違うところにある。
「だって、ゴルフって、楽しいじゃないですか。だからやるんですよ」
あっけないほど、彼らは、ゴルフの楽しさを語ってくれる。私は、長年オペラの練習に励んでいるが、その師匠筋の高名な歌手は、ひとかたならず、ゴルフに入れ込んでおられるし、実力シングルであることは間違いはない。ところが、ご家族に聞いてみると、「調子が悪かったときの不機嫌なこと」
ゴルフはいわば、自己責任のスポーツであるから、家族に当たったりすることはしないが、その夜も、翌日も、またその翌日も、一球のミスショットを悔やみ、ぶつぶつと独りごちしているのだそうだ。
「どうやらそれが楽しみだとわかったから、ほっとくんですけど」
完璧を求める芸術家の、ある種の癖であるのかもしれない。私も、ゴルファーの端くれである。
その一方で、芸術にも多大な関心を抱き、オペラをはじめ、書や絵画、能楽、京劇など、あらゆる分野での修業を積み、すべてのプロになっている。
では、ゴルフで、不機嫌になることがあるのか。無きにしも非ずである。「なんで、あんなショットが」
「何であのパットが」と、落ち込んだり向かっ腹を立てそうになる。私の歌の師匠が何日間もミスを悔やむ気持ちもわかるようになった。スコアが85~86平均になり、70台平均を目指す最近では、1球のミスで2~3打違うことも多いのだ。実のところ、それぐらい1球に対するこだわりが多いと、本当にうまくはならないのである。しかし、それが次のミスを誘発すると困るのだ。だから、プレー中は次の瞬間、心を変えてしまう。あのタイガー・ウッズの強さを「失敗を次のホールに引きず「らないところ」と喝破した人がいるが、まさにそれである。しかし、プレーが終わると、本当にミスの箇所が気になり、悔しくて悔しくてたまらなくなる。私も歌の師匠と同じになってきたのだ。このことは、能やオペラや京劇でも同じで、絵画はミスの修正ができるが、舞台芸術はみんな瞬間芸術であり、ミスの修正はできない。ゴルフとまったく同じなのである。だから、舞台での小さなミスを、いつまでも覚えているものなのだ。そして、そのミスから学んだ教訓を、必ず次の舞台で生かすのである。それが芸術家としての進化には欠かせないのだが、それは、ゴルフでも同じことがいえよう。ただし、100前後のスコアの間は、よかったショットだけ思い出し、常に心を前向きにしたほうがいいと思われる。
そして、その心の切り替えに関しては、ブラインドゴルファーたちは、私たちより、一枚も二枚も上手だ。もちろん、ミスショットはする。目との関係でいえば、グリーン上のパットが一番の問題である。
ガイドから、方向と距離と、グリーンのアンジュレーションの情報を得て、あるいは自らピンまで足を運び確認し、次いでパターのフェースの方向と、スイングの強さを教えてもらいながらも、短い距離を入れられずに、地団駄を踏む思いにとらわれるはずである。そのとき、彼らは何を考えるのか。
「広々としたゴルフ場で、ゴルフを楽しむことが目的ではなかったのか。ならば、心を乱し、腹を立てることはない」と、考えるのである。
ブラインドゴルファーとラウンドすると、面白い場面に遭遇する。ガイドの指示とプレーヤーとの息が合わなくなったりするのだ。ガイドを務めるのが、夫婦の一方であったりすると、ちょっとした夫婦喧嘩が巻き起こることもある。
だが、昔から「夫婦喧嘩は犬も食わない」という。
ミスショットをしても、3歩も歩けば、「お父さん、頑張って!」
「うん、わかってるよ」
ガイドが、クラブで手と手をつなぐ形でプレーヤーを引っ張ったり、プレーヤーがガイドの肩に手を添えながら歩いていると、たちまちのうちに歩調が合っていくのである。こんなシーンは、普通では見られるものではない。夫婦で、ゴルフをたしなむ知人がいった。
「一緒にゴルフ?滅多にやりませんよ。やれば、必ず喧嘩ですから」
あきらめて引き下がったら、何もできない
あるブラインドゴルフ大会での光景を振り返ってみる。
ブラインドゴルファーの森山勝治選手とガイドの夫人が、ラウンドをしている。
北海道・旭川のコース。梅雨がない北海道のさわやかな風が心地よい。
「気持ちいいですね。内地とはやっぱり違いますよ」
奥さんがガイドをされているが、「大変じゃないですかっていわれるけど、私、最初はゴルフを何も知らないで始めたものですから、だから皆さんがおっしゃるほど、大変とは思わなくて」「でも、しょっちゅう喧嘩してますよ」
「私のいうことを聞いてくれないこともあるんですよ。どこ打ってるのよ、なんて感じで」
「怒らんでもいいと思うんだけどなあ。でもまあ、楽しんでやってますよ。こうやって、景色なんか、女房に説明してもらって回っているんですけど。白樺林の中だといわれると、昔見た、上高地の情景を思い浮かべてね。あんな感じのところでラウンドしてるんだなと思うと、それだけで心が晴れますしねえ」
三苫信彦選手のそばに行ってみた。
「今日は、絶対、ピックアップなしで、やろうと思ったんですけど、1回だけしてしまいました。ちょっと、精神的に落ち込んで」
ガイドの高田さんが、すかさず、フォローを入れる。
「だけど、最終ホールはすごかったですよ。フェアーウェーのど真ん中、250ヤードは行ってましたもん」
「ありがとうございます。まぐれです」
「ロングショットがよく決まってました。もう最高でした」
「ゴルフの楽しいところはやっぱり、健常者と、同じルールでできるというところですね。こんなスポーツはゴルフ以外にはありませんから」
志賀功日本ブラインドゴルフ振興協会会長は、自らのことを含めてこう話してくれた。
「医師に、いずれ失明すると宣言されていましたが、いざ、その段になると、すっかり落ち込んでしまって、2、3年は自殺することばかり考えて、布団にこもりっきりで、家族にも迷惑をかけてしまいました。盲人という者は、往々にして、家の中でじっとしがちでね。動くのがいやで、それが習慣づいてしまうと、気がついたときには、心の病を背負ってしまっているということが多いんですよ。僕は、一念発起して、再びゴルフに取り組みましたが、そのとき、人間の復元力というのはすごいもんだなあと、我ながら思いましたよ。絶望は敵というより、絶望から、何も生まれませんからね。
私のプレーを見ていた人が、「不可能を可能にするのは練習だ」といってくれまして、うれしかったですね。
1人でも多くのブラインドの方が、コースに出て、ゴルフをやる喜びを味わっていただきたいというのが、私の願いです」
この、志賀さんを含めたブラインドゴルファーたちの生き様を追ってみよう。数々のブラインドゴルフ国際大会に出場している壁谷晴子さんが、光を失ったのは、18歳のときである。それからは、文字通り、手探りの生活が始まった。長い間住み慣れていて、自分の部屋の様子など完璧に覚えているはずなのに、家具にぶつかったり、床に躓いたり、ドアのノブを掴もうとして突き指をしたり。そのたびに「自分は目が見えないんだ」と、言い聞かせてみるのだが、ちょっとした油断から同じ失敗を繰り返す。
視覚障害者ならずとも、障害者は、失敗を犯したときには、ふたつの方向の反応を示すという。ひとつは、失敗を恐れ、極度に臆病になり、終日家に閉じこもるタイプ、もうひとつは、なんとか障害を克服しようと、積極的な生き方を展開しようというタイプだ。壁谷さんは恐らく後者のタイプだったのだろう。
彼女は、同じ視覚障害者で、東京・三鷹市で、鍼灸院を経営する哲次郎さんと結婚し、家庭生活に挑戦する。それでも、結婚当初は、積極さと臆病さとが、日替わりのように彼女の行動に現れたようだ。
「結婚当初は、自律神経失調症のような症状が現れたりしましてね。このままでは、死んでしまうんじゃないかと、心配したものです」と、哲次郎さんは語ったが、そんな彼女が、変化を見せたのはゴルフと出会ってからだ。日本盲人ゴルフ協会(当時)が、視覚障害者向けのゴルフレッスンをやっているという話を聞き込んだのだ。
住まいの三鷹から、上井草は遠くない。早速、青井プロのレッスンを受けることにした。
「ボックスに入って、初めてクラブの振り方を教わったときは、これは大変だと思いましたよ。でも、普通の人が1回やるところを10回やれば当たるんじゃないかと思って。見えないのだから、当たらなくて当たり前でしょう。何でもそうなんだけど、1、2回やってあきらめて引き下がったら、ブラインドの人は何も「できない」と、壁谷さんが語る。
壁谷さんが、ゴルフの次に好きなのは料理。食事の時間が近づくと、甲斐甲斐しく料理に取り掛かる。用意をする時間になると、主婦の顔に戻って、料理に取りかかる。まずは、炊飯器のタイマーのセット。
視覚障害者は、何事につけ、角度を基本に作業をする。タイマーのセッティングも、角度で覚えている。最近はプッシュボタン式のデジタル表示のタイマーが多いが、視覚障害者には扱いにくい。
タイマーのダイヤルを微妙に調節しながら、「これでよし」。
冷蔵庫から、手際よく必要なものを取り出し、まな板を用意し、包丁を器用に扱い、次々に材料を切ってゆく。
壁谷さんは、煮たり焼いたりの、処理もスムースにできるし、味付けも巧みだが、若干盛り付けに不安がないではない。しかし、食材の色とレイアウトをイメージしたり、昔の記憶を思い出し、後は、皿の上で、角度を考えながら配置していく。さすが、主婦歴ウン十年、見事なものであった。
1996年、日本で初めての視覚障害者ゴルフ世界選手権大会が行われた。壁谷さんも、代表選手の1人であった。
初日のラウンドを終えた壁谷さんを捉える。壁谷さんはあいにく風邪を引いたためもあって、45人中43位と、大不振。
「明日頑張りマース」と、翌日の好プレーを誓って、コースを後にした。
翌日、壁谷さんは見違えるようなプレーを展開したが、入賞には遠く及ばなかった。
優勝のスコアは、2日間36ホールで、なんと169。つまり、グロス84と 85。この本の読者で、何人の人がこのスコアを上回ることができるだろうか。
「右狙いよ」
表彰式で拍手を送り続けていた壁谷さんが、あふれんばかりの笑顔でいった。「視覚障害者の皆さん、みんな出てらっしゃい。こんな、素晴らしい人生があるんですよ!」
