神がかり 成功経営(Vol.4)

第3章『開運マネジメント』ガイド

先陣を切る猿田彦の開運術

私は著書「神社で奇跡の開運」でご神霊による道開きについて書いたのだが、この章では、マネジメントの側面から見た道開きについて取り上げてみたい。

大きく分けて、道開きには三つある。

代表選手が猿田彦の神。猿田彦の神様というのは、まさに道開きの神様である。猿田彦の神には面白い話がある。伊勢の猿田彦神社に行くとわかるのだが、掛け軸にも絵にも松が出てこない。

以前、松の枝に鷲が乗りかかっている絵を奉納したいという人がいた。ところが、その絵を見た宮司さんが言ったそうである。

「この絵だけは困ります。当神社での伝統として、松が描かれているものは受け取れません。」

猿田彦の神は「まつ」が嫌い。待つのが嫌いなのだ。じっとしてないで、先頭を切ってパーッと行く神様である。つまり猿田彦の神の道開きというのは、「古事記」「日本書紀」「古語拾遺』の神典に見られるように、「こっちですよ」と先頭を切って人をガイドしていくものである。

ブルドーザーのような金刀比羅権現の道開き

これに対して、同じ道開きでも、金比羅権現さん、つまり金刀比羅の神様の道開きは、猿田彦の神とは大分違う。

「ことひら」とは事(こと)開くことである。英語で言うとアイスブレイク。氷が一面張りついているときに、張りついてる氷をパリンパリンと割って、そこを進んで行く。人が沈黙しているところをパーンと破って、それから事開きに行くことである。

江戸時代の中ごろに、尾張の「きの」というおばあさんが神がかって如来教が生まれたが、「きの」に神がかったのが金比羅権現である。

如来教というのは、その後の天理教、金光教、黒住教、大本教、さらには世界救世教、生長の家といった民衆宗教の根っこに位置する宗教である。新しい時代がやって来るんだという「お告げ」によって、大衆の中の女性シャーマンが教祖となる宗教の始まりが、この如来教であった。

長い暗闇の封建時代、金比羅権現が民衆の中に降りてきて、

「新しい時代がやってくる。人々が平和で暮らせる明るい時代がやって来る。今までのやり方は全部覆ってしまうんだ」と「お告げ」があった。確かにこの後、明治維新が起き、新しい時代がやって来た。金比羅さんがいると、長く硬直していて、どうしようもないというときに、その氷をばりばりと割って、何か新しい兆しを出してくれる。

国之常立大神の幸魂である。

先頭に立ってガイドするというよりも、氷を割って道をつける。膠着状態をうち破って道を開いていく。これが金比羅様の道の開き方である。

海路を開く知恵。住吉の神様

もうひとつ、住吉の神様も道を開いて下さる神様である。

もっとも、神社の神様で道を開かない神様というのはない。あるいは、せっかく開いた道を閉じる神様というのもない。どの神様も道を開くのだが、開き方に微妙な違いがあるのだ。

住吉の神様はどうかというと、海の神様である。

海路、海の道を開く神。すなわち、世の荒波を乗り越えていく知恵と言葉と息吹を人に与える、道を開いていく。どこを行けば安全かという微妙な状況判断をする道開きである。

「ここに風が吹いたらあっちが時化になる。早めに準備したほうがいいぞ」

「こっちのほうに雲が出たら風が吹く。早いうちに帆を変えて、何時までに島へ着かな「いと危ないよ」

と、微妙な風の変化だとか潮の変化を読み取って、安全に海を渡っていくという道開きなのだ。

また、住吉の神様は大阪の産土の神様である。大阪の人たちは、この住吉の大神様のご性格を受けているので、いい噂も悪い噂もさーっと広がる。関東人の三倍は電話もしているだろう。それが主婦ともなると、わーっと果てしなく言霊の台詞が出てくるわけだ。

私も関西の生まれ。もしも私が他の地方に生まれていたら、深見東州の膨大な講演会も著作もなかったのではないかと思う。なにしろ、どんなに頭が痛かろうが気分が悪かろうが、たとえ胆嚢か腎臓か肝臓が衰弱していても、口だけは動くのである。

私の最後の守り神は、住吉の大神様という感じがするほどである。

海路を開くといっても、「こっちに行け」と教えたり、「あっちから風が吹いて危ないぞ」と予知したり、波が荒ければ「みんな、頑張って早く漕げ、もっと早く漕がないと間に合わないぞ、満ち潮になったら危ないぞ、引き潮のうちに行け、早く漕げ、ぐずぐ「ずするな」という言霊の力でもある。

住吉の神様は、言霊の神様なのだが、ただ単なる言霊の神ではない。

船を操作するには団結力がいるし、タイミングもいる。状況判断をちょっと誤ると嵐に巻き込まれる。

嵐に巻き込まれたらどうすればいいか、言霊の力によってみんなを一致団結させ、その強力な推進力をもって、海を無事に渡るわけである。

そういう意味で、住吉さんは、世の荒波を乗り越えていく知恵だとか言葉、息吹を与えて下さる。

現実界の中で、ビジネスでも、宗教でも、政治でも、教育でも、芸術でも、強力な推進力をもって道を開いて下さるのである。

産土の神様はオールマイティ

これが、猿田彦の神様と金比羅権現様と住吉の神様の、道開きの違いである。

比べると、住吉の神様は幅は広く、人間生活により密着している……そんなことを言うと、猿田彦の神様が住吉の神様にもの申すかもしれない。

「すると、私は密着してないわけですか?」

「いやいや猿田彦さん、密着してますよ」

「私は氷が張ってなければ守護しないというふうに……」

「いやいや、金比羅権現さん、そんなことはない。立派な神様でございます」

住吉の神様ならそう言うだろう。

金刀比羅の神様も猿田彦様も、もちろん何の神様でもオールマイティーである。金比羅さんでなければ、氷を割ってくれないということもない。神様はみなさん、何でもできる。けれども、それぞれの神様のご性格を見比べると、とりわけそこに特色があるということなのだ。

銀行から借金するのが上手な「あの神様」

では、真剣勝負のビジネスシーンで、いったいどういうときに、住吉の神様は動いて下さるのだろうか。

なんと、住吉さんの、世の荒波を乗り越えていく知恵と言葉と息吹というのは、銀行からお金を借りるときに、大いに役に立つ。強力な味方をしてくれるのだ。

銀行からお金を借りるときに、猿田彦の神様が動かないということではない。金刀比羅の神様が動かないわけでもない。猿田彦さんや金比羅さんが地域の産土神様だったら、そこに祈れば聞いては下さるのだが、それでも足りない時、とくに銀行融資で困っているときに、住吉の神様にお願いするのだ。

つまり、神道的に言えば、「こと分けて申さく」。事柄を分けて、あるいは言葉を分けても、この事を何とかお願いいたします。

世の荒波ビジネス戦線、流通戦線の中で、中小企業の経営者は会社という小さい船の舵取りをしている。波の読み方を間違って、大きな波なのに救命道具も持たずに来てしまうことだってある。

乗り組んでいる船員は状況判断もできず、意志も弱く、海図も読めず、とにかく一生懸命漕ぐだけ。船長だって大差ないかもしれないが、根性だけは負けないと頑張っている。

中小企業のオーナーというのは、ディンギー・ヨットかポンポン船か伝馬船みたいな、小さな船の舵取りをしているのと同じである。

ちょっと油断したり、風の計算が甘かったりすると、横波を食らったり突風に吹かれたり、いつ沈んだっておかしくない。気がつけば船底に穴が空いていたりもする。

新しくても小さなボロ船である。やはり、流通経済、景気、これからの経済の動向、マーケット、顧客のニーズという波を読んでいかなくてはいけない。

風も吹く、潮も荒れる、満ち潮も引き潮も来る。いい漁場があって、たくさんの船が魚を捕っているからと入っていくと、嫌がらせにぶつけられたりもする。

調子よく波に乗ったら、「なかなか乗ってますね」と言われるだろうが、波から外れると冴えない。会社の業績を立て直すにも、どこをどうすればいいのかよくわからない。そういうときに必要なのが資金である。

人、物、金がなければ会社は存在できない。まず人。全員死んでしまったら、いくらお金があっても物があってもしようがない。

人、物、金の順序どおりに、まず人である。お金があっても買う物がなければ、経済は成り立たない。だから次は物だ。そしてお金である。三つは同じくらい大事だが、お金がないと事業はできない。

もちろん自己資金もあるだろうが、当然、そんなもので足りるわけはない。事業が進んで、つまり波に乗ってきたとき、横波を乗り越えるための「風」というのは資金である。だから銀行からお金を借りようとする。

しかし、銀行は預金だけ勧めて、なかなかお金は貸してくれない。「貸せません」なんて言うのではなく「信用保証協会というのがありまして」と信用保証協会を巧みにめて、貸しはしない。

銀行の融資係というのは断りのプロである。相手の感情を害さないように、かつ銀行が損しないように、上手に断る。

そういう練習をしているのだろう。そういう境遇に生きる銀行員も大変だなあとは思うには思うのだが……。

銀行は敵か味方か

私が経営に携わっていた会社のメインバンクはS銀行だったが、こんなことがあった。あるとき、窓口業務の終わった時間にS銀行にいたら、

「ピンポンピンポンピンポンピンポン」

と鳴って、拍手がぱちぱちぱち… 何だろうと思った。

「何なんですか、これ?」

「いや、計算が合ったわけです」

「合わなかったらどうなるんですか?」

「それは合うまで計算しますよ」

最近は知らないが、お金の計算がたとえ一円でも合わなければ、夜十時、十一時まででもやるということであった。

こんな話もある。私の友人がK銀行に勤めていた。大学時代に仲の良かったY君である。よく朝礼で、

「昨日は私のミスのために、みなさんを十一時半まで会社にひきとどめまして、申し訳ありませんでした。再びこういうことを行いませんので、お許し下さい」

とやったそうである。週に二、三回やると言っていたから、相当のうっかり者である。

そのせいか、K銀行にはお金を預ける気がしない。しかし、銀行とはそれだけ細かい事をチェックするところなのである。

ましてそれが融資係になると、個人的には「きっと貸して欲しいんだろうなあ」と思っても、業務だから、ともかく上手に断るのである。ところで、銀行の傘説とか芸者説というのをご存じだろうか。

銀行というのはお天気の日の傘と同じで、いらないときに「どうぞ、どうぞ」と言う。雨が降って本当に貸してほしいときには貸してくれない。ちょっと待て。雨が降ったときに傘はいるんだ。

芸者説。金のある客だと「いやー、いらっしゃーい、どうもー」と、三味線じゃんじゃんじゃん。金がなくなると、さーっといなくなってしまう。

預金だけはしてくれなんて、虫のいい話もないものである。本当に銀行というのはそういうところである。だから私の著作の中でも、言葉の端々に、銀行に対する言うに言われぬ思いというのが出てきてしまうのだ。

銀行マンの読者がいたら申し訳ないが、中小企業にとって銀行とは、共通の敵とまでは言えないものの、少なくとも味方なのか敵なのか、よくわからない存在である。

お金があるときは味方のように見えても、お金のないときは敵に見える。

しかしそれでも、銀行を味方に引き入れなければ、会社はやっていけない。

業績が上がっていけば、その分、変動費が増える。もちろん固定費も増えるのだが、主に変動費が増えていく。売上金の回収は後だから、どうしても短期借入金での資金繰が必要になってくるわけだ。

株式会社の基本的な資金調達方法は株の発行である。株を発行してキャピタルを増やすのが原則。だけれども、普通は「株の発行=他人資本=人様から借金」するよりも、銀行から借りる。

で、銀行から借りざるを得ない。借りざるを得ないのだが、借りた実績がないと銀行も貸してはくれない。

適度に借りて返すという「銀行とのおつき合い」、何が何でも支払をしているという「実績」を作って初めて金がないときもあるような顔をして)本当の意味での借金ができるのだ。

銀行から資金調達ができないと、売上が上がってきて、人を増やしたい、新しい店(工場・事務所)も借りたいというときに資金がショートする。銀行との「上手なおつき合い」というのができないと、なかなか、会社の経営はうまくいくものではない。

メモと涙は重要な武器である

中小企業のマネジメントをしていくうえで、銀行との「おつき合い」を避けることはできないわけだが、そのつき合い方にもポイントがある。

銀行に行って話をしていると、相手の担当者はメモをサーッと取る。このメモが曲者。

私が、絶えず細かいメモを取って、以前こちらが言ったことと矛盾がないかどうかをチェックしているのだ。ひとことでも違ったら、

「前に、こういうふうにおっしゃってますが」と突っ込んでくる。

よほど記憶力がよくないといけない。こちらも同じようにメモを取っておくといいだろう。

ニコニコしてはいるけれども、変なところに金を貸して回収できなかったら銀行も大変。もっとも、担保を多めに取って、銀行は損をしないようになっている。

それでも今は、担保に入れた物が換金できないような社会状勢だから、貸し倒れにならないよう、緊迫している。

それに、一円合わないと夜十時、十一時まで連帯責任。ストレスの溜まる仕事である。 S銀行の某支店長代理と話をしていたときのことである。

「我々も、従業員がああだこうだと言ってね。泣きたくなりますよ。ときには本当に死にたくなります……」などと話していたら、その支店長代理はハッとして、

「いやー、私もS銀行に勤めて十何年になりますが、週に一回は、目が覚めたときに、

このまま死んでたらいいなあと……何回思ったかしれません……」と涙を流すのだ。

「だけど家族がいるから。家族のために頑張って、今まできたんですよねー」

笑顔の中に、涙がツーッと出てくる。

それを聞いて隣の次長が、「何を言ってるんだ。僕なんか、毎日思ってるよ……」

次長もまた涙をポロポロと流すのだ。

ただただ、家族のためにと頑張ってきた。

それを見て、私の銀行に対する長年の憎しみは消えていった。

銀行も大変だ。世に坊主と学校の先生と銀行マンはスケベだと言う。飲み屋でハチャメチャに騒いでいるのを見たら、先生か銀行員か坊さんだと思えとも言う。

最近は神主もそうだという話もあるようだが、それは、普段ニコニコといい顔をしなくてはならない反動なのだ。世の中という荒波は真剣勝負の場なのである。

あのマルサに勝つ方法

いかに合理的で合法的で賢明な納税をするかということも、中小企業の場合は考えなくてはいけない。とくに売上が上がってくると税務署に目をつけられる。

私と国税局とのささやかな思い出でも、税務署が主役であった。

話は横道に逸れるが、私の親類に大阪国税局のトップを務めた人物がいる。もう年をとっていて、この度のチャンバラに出番はなかったが、昔、私が営業マンだった時分、東京で会ったときにアドバイスをもらった。

「君、営業をやっているんなら、ふたつのことをアドバイスしよう。ひとつはね、業界紙を読みたまえ。業界紙を読んで、業界の流れ、経済やマーケットや流通の先を常に勉強することだ。

その大きな波に合わせてやっていかないと、どんなに営業してもだめ。努力が生きない。もうひとつ。

営業というのは心理学だからね。学問というよりも、人間の心理とはどんなものか、絶えず研究すること。営業マンなら、このふたつを勉強しなきゃいかんよ」と。これは、いまだにきちんと実行している。

私たちも税務調査をされたが、私たちのグループはこれ以上ないほどキチンと税務署の指導通りの経理をしていた。だから、どこをどう調べても、税務署の結論は「シロ」だった。それこそ今度は「マルサに勝つ本」でも出そうかと思っているほどである。では「マルサが来たらこまるさ」という人に、マルサが来たらどうしたらいいか、税務署に勝つ究極の方法を教えよう。

何か税金を納めるということである。

「なんだ」と思った人は気をつけたほうがいい。私が言っているのは、ごまかさないということである。

これを簡単に説明すると、入りをごまかすと脱税、出費をどうするかというのは見解の相違であって、違法ではない。

税務署というのは超能力者である。あなたがどんなに上手にごまかそうとしても、あちらのほうが上なのだ。これは間違いない。中途半端に隠し事をしても、たちまち見破られる。まず目でわかる。

それならばと、「安全な目」というのを研究しても、今度は耳の動きでわかったりする。

ごまかそうとか、してやったりと思うと、その時のムードでもわかるらしい。いくら帳簿がきちんとできていても、電話帳だとかメモだとか印鑑だとか、原始資料というのがある。それを見ていくと、必ず矛盾が出てくる。税務署というのは超能力者、霊能者の集団なのである。

霊能者に勝つには何も思わないで出るのが一番だ。霊能者に会うときに、霊能者に勝つために何かしてやろうと思うと、その思いが霊能者のアンテナにピッとかかるものだ。何も思わなければ霊能者にもわからない。

すなわち税務署に勝つには、合理的な納め方はするけれども、ごまかそうなんて思わないことである。すると目が輝いて、相手も安心するのだ。

その年の決算がちゃんとできていたら、遡って調べたりはしない。

ごまかそうと思うから、何かあるぞと感じて調べに来る。何も出なくても、調べる以上、向こうも「お土産」がないと帰れないから強引にやられる。やはりきちんとした正攻法が一番強い。

我々も過去に、税務署には散々お世話になったが、その原則で貫いていたために、結局、何も立証もできずに引き上げた。

少しくらい見解の相違があっても、不正は一切ない。結局そのほうが勝つ。大きい声で自信を持って「こうだーっ」と言いきる。その迫力と目の輝きで、「もういいです」となるのだ。

それでも理不尽なことを言われたら国税不服審査ができる。どう考えてもきちんとしているのに税務署はおかしい。

あの税金の取り方はおかしいと思うのなら、泣き寝入りしないで国税不服審判所に不服申請をする。

不服申請まで行った人で勝つ人は以外と多い。だから、不正もなく、おかしいと思ったら大いにやるべきである。

そこまでいかなくとも、税務署は書類だけでなく、その人の内なる波動、叫び、あるいは目を見ているものである。

不正さえなければ恐くないはずだ。思いきって、大いに議論闘争すればいい。堂々とやるのが一番である。

税務調査に勝つ究極の方法

ところで、税務調査のときには、鹿島神宮(茨城県)に行くことをお勧めする。

鹿島の神様は武の神様。剣の神である。だから、自分よりも強く、賢く、知識も理論もあり、直感力と超能力の発達している税務署が来るときには、とにかく鹿島の神様に行くとよい。

税務署の通常の調査というのは、三日から五日前に予告がある。予告があったら、さっそく鹿島の神様に行って、お祈りする。

「税務署が来ますけれども、私はきちんとやってます。不正もありません。ただ、見解の違いがあるかも・・・・・・と思うところもほんの少しあります。

最小限度にしていただけますように……できれば何事もないようにして下さい。

しかし、神様の目から見て、これは良くないと思われたら、これは、私も経営者、覚悟はできてます・・・・・・ただまあ最小限度でお願いします」

そうしたら息吹を与えてくださる。後は勝負である。絶対に負けないぞという気迫が大切だ。武術と同じで、立ち会いの勝負で決まる。

だからこそ、税務署が来るときには、鹿島神宮が一番力強いのである。鹿島の神様でなければ、三宝荒神や三峯神社(埼玉県)もいい。

そうやってガードを固めれば、自分ではない何かすごい力で主張することができる。絶対に逃げず、引け目を感じないで、真正面からぶつかる。

税務申告があるごとに、技を磨けばいいのだ。税務署との戦いの場合、住吉の神様は向かない。

上手な事業計画書の作り方

ところで、銀行工作の時に、「勝負!」なんて深刻な顔で行ったら奇妙である。銀行に気合いと気迫は似合わない。やはり銀行は住吉さんである。住吉さんは荒々しい神様ではないのだ。

銀行は税務署とは違う。税務署というのは、税金を納めていない相手には隠してるんじゃないかと疑い、納め過ぎても、もっと隠してるんじゃないかと疑う。

性悪説で仕事をするところである。銀行というのはそこまではいかない。結局、一定の要件さえ満たせば、いいところには貸したいと思っている。

さて、その要件は何かと言うと、事業計画書である。

もちろん、計画書どおりにいく事業なんてない。しかしながら、少なくとも経営者のビジョンを出さなくては信用してくれない。

これくらいの資金、これくらいの規模でやれば初年度はこれくらいの上がりで、これくらいの利益が出るという事業計画書を出さないと、無計画に口で言うだけでは信用してもらえない。

そもそも、事業計画書さえ出せないような経営者に融資したら、回収に不安を感じてしまうだろう。だから事業計画書だけは、ピシッと書いたほうがいい。

ところが中小企業経営者というのは、ほとんどの場合、大学で経営の勉強をしたわけではない。

よしんば大学を出たとしても、大半は大学で遊んでいた人だろう。事業計画書なんてどう書いていいのかわからない。

だから銀行に提出するもっともらしい事業計画書を、すぐに作ってくれる事業計画書作成会社というのがあったら、繁盛するのではないかと思う。普通は、税理士に書類チェックを頼むのが一番よいだろう。

あるいは、元銀行マンの人に頼むのもよい。事業計画書の書き方を教えてもらう。そして、前に言ったことと矛盾しないように書く。

とくに数値に関しては矛盾してはいけない。ただ、あんまり事実どおりに書くのも考えものだったりする。

これから始めようする事業は実績がないのだから、実績はこれからですなんて言っては信用してくれない。要は豊臣秀吉の墨俣城である。プレハブの城。みなが、「あーっ、

城だーっ」と驚いたら、それからぼちぼち本当の城を作っていく。とりあえずは、すぐに城を作らないと相手にしてもらえない。

首尾よく借りられたら、ちゃんと返せばいい。初めの一歩が難しい。どんな会社にだって、初めの一歩というのはある。

初めから調子のいい会社なんて、まずない。だからどうやって金を借りるかという知恵が必要なのだ。

やはりオドオドしていては、銀行も不安になる。担保がなければ貸してくれないだろう。きちんとやれば、担保がなくても五百万円とか、支店長枠で信用があるなら一千万円とか貸してくれる。業績のいいところなら、無担保で一億円だとか六千万円貸すという場合もある。

その信用は、経営者の人物だなんてことを銀行は言うのだが、いったいどれだけその経営者と食事したり酒席をともにしているのか。そうそう人物なんてわかるものではない。

銀行が人物を判断する基準は、まず洋服がきちんとしているかどうか。次に、髪型がきちんとしているかどうか。時間を守るか、言葉に迫力があるか、勇気や自信を持っているかなのである。

迫力や生命力の息吹がないと、銀行も安心できない。

担保がなければ基本的には貸してくれないのだが、担保がなくても貸してくれることもある。

それはやはり、その人の言葉の真実性なのだ。前に言ったことと今の発言に変化がない、誠実で知恵があり、事業計画書がきちんとしていて、息吹を感じさせる人だったら、「あ、これだけ頑張ってたら大丈夫だろう」と融資係も信じるのだ。

銀行に提出する決算書というのは、限りなく大風呂敷に近い。粉飾と言っては言いすぎだが、装飾している会社は多い。

経営者の意思に沿った前向きな拡大解釈、そういうものだということは銀行も承知である。

一応資料にはするが、やはり経営者の人となりを見るのだ。最終的に貸し倒れにならないようにと、慎重に考えている。

銀行もやはり真剣勝負なのである。そこに息吹と知恵と言葉とが生きてくるのだ。そして、そういうものに、総合的な推進力を与えてくれるのが、住吉の神様なのである。

資金調達の本当の意味

事業計画をピシッと作って、融資係への説得が始まる。

「これだけの資金が必要で、返済計画は短期、一年。こういうふうにします」

「お貸しいたしましょう」

「一億貸してほしい」

「一億二千万、定期預金していただけますか」

これを歩積みと言う。歩積みはご法度である。しかし銀行としての本音と建て前は違う。歩積みの要求は(暗に)あり得るのだ。

「一億二千万の定期預金を担保に一億貸す.そんなの、誰だってできる…………」

ある銀行は、しばしばこのように言う。

「だったら今までの話し合い、審査はどうなるんだ」

ああでもない、こうでもないと、折り合うまで言霊の息吹の戦いをする。

そこで、住吉さんの柔軟な言葉によって、道は開いていくのだ。

資金調達というのは、金を前向きに事業を展開していくためのお金を用意することである。自分にとっての帆を上げて、そこに風を送ってもらったら船は進む。あるいは潮に乗ると、船はスーッと安全に航海できる。資金調達というのは風であり、潮である。

私も、最初に予備校経営に携わったときは本当に苦労した。なにしろ実績なんかない。大体、三年未満の会社というのは、世間様にまだ認めていただけない。

だから、三年目くらいから、きちんと黒字が出るようにしなくてはならない。三年未満の会社というのは、売上は上がり、利益も上がっていたとしても、やはり借り入れているものがあるので、帳簿上は赤字になっていることが多い。累積赤字というものである。

そういう部分の返済も全部終わり、さらに黒字があって、初めて本当の意味での黒字なのだが、最初の三年間がなかなかうまくいかない。

五年続けて赤字を出したら倒産している。この最初の三年間が辛抱どころだ。

そういう苦しいときには、銀行もなかなか貸してくれない。

A銀行がだめならS銀行があるさと行っても、S銀行もまたぐちゃぐちゃぐちゃ。

M銀行にも行った。で、「もういいや。担保を探し出そう」という気持ちになったとき、借りられる可能性が出てきたのだ。

銀行は競わせるべきである。 A銀行とS銀行と競わせて、神様に必死で祈り続けた結果、S銀行からお金を借りることができた。

そのときに、S銀行は関西の企業なので、担当者に聞いた。

「あなたはどちらの出身ですか」

「私の出身は住吉なんです」

「あの住吉大社の?」

「はい」

「神主さんですか?」

「いや、神主ではありませんけど、すぐ側に住んでおります」

その時の感動は忘れられない。住吉の神様が守っていて下さったのだ。

小さな船を漕いでいるときに、最初に受けた波。苦しんだ末に、最後に住吉の風に助けられた。

S銀行の担当者が「僕の判断で貸すことにしました」と言ってくれた。その人が住吉大社のすぐ側に住んでいる。それを聞いたとき、「金が出てくるものは住吉です」という天の声に聞こえた。

今、その予備校は十九年目を迎えて順調である。分校を出して成功し、三千人近く生徒がいる。

その一年前のことである。住吉大社に初めて植松先生(神様の道における私の師匠)と行ったとき、ものすごい雪が降った。

大阪では珍しい豪雪。住吉大神が白龍となって動くときには雪を降らすのだ。神様がご発動されたという証のひとつである。

この時の参拝では、神様が確かに祈りをお受け取り下さった感触があったが、どう受けてくれたのか、そのときには何もなかった。

それが一年経って、予備校を出すときに、最後の最後にパーッと資金の風が吹いてきて、担当者の出身が「住吉」である。

去年お参りして、お受け取り下さった住吉大神が、こういうところで船を出す風を与えて下さった。船出ができるようにご守護下さったのである。

私は大変感動したものだ。二十六歳の頃である。

それからは、野末珍平さんの書いた「頭のいい銀行利用法」だとか、「銀行様といかにおつき合いするか」といった類の本を、いくつもいくつも読みあさった。

もっとも内容は、自分で経験してきたことと、さほど変わりなかった。でも野末珍平さんの「頭のいい銀行利用法」というのは、なかなかいい本であった。経営者にはお勧めである。よく売れている本らしい。

最終的には住吉大神様である。それで大きな荒波をポーンと越えて、船出ができたわけだ。なんだかんだ言っても、まず銀行からお金を借りないことには何もできないのが現実の世の中である。

ダイレクトメールの真髄

私の場合は教育事業だったから、人々に知らしめるために、宣伝広告が重要となる。と言っても当初は資金がない。

だから葉書を出すことにした。

葉書が上手に作れたら、どどっと問い合わせがくるだろう。葉書が今イチなら、問い合わせはゼロに違いない。そこで、どういう葉書ならたくさん問い合わせがくるか、葉書一枚の文章を二~三日寝ないで研究した。

葉書代、印刷代に宛名書き。費用もかけるのだから、真剣勝負である。

そして、成功と失敗を繰り返した結論はこうである。

生徒、つまりお客様に来て欲しい、何としても来て欲しいと思って書くと、全然ダメだ。何か商売的な感じ、無理を感じて、胸に響かないのだ。

欲心、焦りがあると、文面が緊迫する。

「この葉書を見た人に喜んでいただいて、幸せになっていただいて、もし縁があるならば、責任を持って教育して、希望する学校にきちんと合格できるように頑張ります、神様」

神に誓いをたて、葉書を読む人を連想して、喜んでいただきますようにと真心に徹する。そういう気持ちになって書いた葉書というのは、やはり温かみがある。

その結果、「何か知らないけど、行ってみようかなー」ということになるのだ。

何ということはない、日頃の私の考え方を書き出しにしていろいろ書いたら、それがいいと、いい生徒ばかり来た。

いい生徒というのは、大したことを教えてなくても、どんどん成績がよくなっていき、最後に「ありがとうございました」と言う。

よくない生徒というのは、やってもやっても伸びない。そしてブーブー文句を言う。学校をやめるときにも、他の生徒に文句ばかり言って去っていく。

葉書を書くときに、来てくれなきゃ困るしなあ、来て欲しいなあなんて、欲心だとか、心配だとか、悪いとか、そういうものが頭や心の中にあるときに書いた葉書は、本当にだめだった。

文面がどろどろしていたり、もやもやしていたり、何かこう暗かったりするのだ。

温かい、優しい感じがする、そういうものはやはり人の胸を打つ。

後で本を書くようになったり、チラシを出したり、パンフレットを出したりするようになっても、そのときに勉強したことがやはり生きてきた。

「人が見てとにかく喜んでいただけますように、幸せになっていただけますように」と、ただそれだけを思って書いた文章、チラシ、葉書、案内というのは、温かみがある。優しい温かみがある。

そしてそれは胸を打つものであり、人の心が開いて、申し込んでくれるのだ。

これこそが、チラシやDM作りの本質である。

考えてもみてほしい。追い込まれて、「申し込んでくれなきゃ困る。これだけ費用かけたんだから、来てもらわなくちゃ赤字になるし、潰れてしまう」

なんて思ったら誰でも緊迫する。もちろん、無理もないのだ。それだけの広告費をかけてやるのだから、広告、チラシの投下費用に見合った分だけ客が来なければ赤字である。

しかし、「果たしてお客様が来るんだろうか、果たして生徒が来るんだろうか」

そういう思いで作ったチラシには、そういう思いが宿ってしまう。皆さんはそうは思わないだろうか?チラシを出す人、広告を出す人も、読者の中にはいるだろう。そこに充分に注意していただきたい。

人が見て、何か嫌な感じがする広告というのは、そうした思いが宿っているのである。

そういう惑いを越えて、とにかくお客様が喜んでくれたらいい、いい物を提供して喜んでくれたらいいという、真心とか思いやり、優しさ、そういう思いに満ち満ちて、パンフレットやチラシは作っていただきたい。

この予備校を最初に出した頃、本当に追いつめられたとき私は、「住吉の神様、この葉書一枚に、私は何百万円もかけます。葉書代、宛名書き、名簿代、印刷代、レイアウト代。それでだめだったら予備校が潰れます。広告費というのはこれだけしかありません。なにしろ始まりです。なにしろ中小です。どうぞ住吉の神様、あなたが言霊の神様、言葉の神様とおっしゃるのならば、人々が本当に感動して、ああ、この学校に行ってみたいなと思えるような葉書を、どうぞ、私に書かせて下さいませ」祈り続けた。

そして、いくつか失敗があって、パーンとわかった。そういう思いになって書いたときに、問い合わせがいっぱい来たのだ。

これは住吉の神様に祈りつつ、私が教えていただいた、パンフレット、チラシ、ダイレクトメールのやり方の極意である。

真心と愛と住吉大神

住吉の神様を思い浮かべて、祝詞を何回かあげて、「住吉の神様、真心で書かせたまえ」と、そこに神様がいらっしゃると思って、顧客に対する「真心と愛」に徹しきって書く。自分では書かずに業者に頼む場合も、業者が来る前にきちんとお祈りしておくことが大切である。

さらに、業者と話して、業者が帰った後には、「あの業者さん、ドジしませんように、ドジしそうになったら住吉の神様がおかかりになって、ドジヘマしませんように」と祈る。

祈ってもドジヘマはするものである。ただ、印刷屋をどうチェックし、注意したらいいかが、ふっとひらめいてくる。色使い、文字の配列、つまりレイアウトもひらめいてくる。

そういうものを、みんな住吉の神様が開いていく。

世の荒波を乗り越えていく知恵と言葉と息吹。その荒波を乗り越えて、ただ行くだけではない。世の荒波の中にいろんな魚がいる。その魚に来ていただかないと漁業が成り立たないように、私たちは魚を釣らなければならない。

どの風で漁場に行き、どんな餌をつけて、どんな仕掛けでやれば魚が釣れるか、その知恵を神様にいただく。

相手は神様だから、やはり、愛と真心で貫かないと守っては下さらない。

葉書、チラシ、ダイレクトメール、パンフレット、あるいは文字や活字で何かを表現するのは、言うなれば風であり、餌であり、仕掛けである。

住吉さんのおかげを頂き、言霊で客の胸を打ち、もし客がやって来たら、目一杯いいサービスをして、喜んでいただく。

来てくれた客に「また来てみたいなあ」と言ってもらえるような運営を考える。それが経営者の良心というものである。

断っておくが、ただ祈ればいいというものではない。努力はしなくてはならない。努力をする中でも知恵をいただく。

すると、言葉をどう選べばいいか、どういう業者にどう言えばいいか、どの言葉がキーワードなのかがわかってくる。何となく温かい、何となく行ってみようかなという気になる文字、レイアウト、チラシ、電話の声もわかってくる。

そういうもので、人は動くのだ。

人が動かなくては、売上も上がらない。

ビジネスにおけるあらゆる要件を満たすのが知恵と言葉と息吹関西の経済を司る住第吉の神様というのは、素晴らしい神様である。大阪にあるときは、産土様としてオールマイティ、しかも、貿易立国日本というのは、海路を開く住吉の神様がいらっしゃるがゆえに成り立っている。大きいところでは大きい守護をなさっているわけである。

全国区で、つまり関西以外から住吉の大神様に参拝に来てお願いをしても、そのスペシャリティーに合っていたらOKだ。

遠くのほうから神様を思い浮かべ祝詞を上げても、ぴたりと守って下さる。住吉の神様は自在に応用できるのである。

ところで私の葉書体験というのは、実はヒントがあった。それは住吉の神様の歴史からである。それも歌の歴史、短歌の歴史なのだ。

古来、勅撰和歌集に一首なりとも入れていただくというのが、歌詠み人にとっての水遠の名誉。死んでもいいくらいに嬉しいことであった。

『平家物語』にも、源平の合戦で戦に出立する前に、ある歌詠み人が「私の作ったこの歌を、どうか勅撰和歌集に入れていただけないだろうか」と持って行ったという話が書かれている。それほど、勅撰和歌集収録というのは、歌詠み人にとって名誉なことだったのだ。

「生涯に一首なりとも、勅撰和歌集に収録されるような歌を私に詠ませて下さい」

そういう祈りを込めて、歌詠み人が住吉大社に参拝した歴史がある。二十一日祈願をしたり、お百度を踏んだり、月々お参りに来たり、繰り返しお参りに来た歌詠み人というのが、平安時代以来、室町時代、鎌倉時代、もちろん江戸時代にも明治時代にもたくさんいた。

和歌というのは、意味さえ通ればいいというものではない。意味がわかって、次に歌の調べが良くなければ、芸術とは言えない。

歌の中の意味つまり芸術的な捉え方、そして詠んだときの調べ。そのふたつで芸術としての短歌の品格が分かるのだが、そういうものを作らせてくれと、歌詠み人が住吉の神様に祈ってきた。

歌詠み人にとっては、住吉さんは和歌の神様なのだ。

その歴史がヒントになった。

「勅撰和歌集に残るような歌を詠ましめたまえ」と祈って、歌詠み人がご守護いただいていたならば、「私の葉書を読んだ人が、ああ、この予備校に行ってみたいなあと思うような葉書を書かしめたまえ」という祈りも効くはずだ。私はそう考えた。

もちろん祈るだけではない。努力しなくてはだめである。どういう気持ちになったときに、そういう葉書を書くことができて、どういう言葉使いをしたらいいのかといった細かい注意項目は、自分の知恵に出てくるのだから、努力する方向性と、努力するプロセスの中で神様から知恵をいただく。

つまり、自分の「創意工夫の努力の方向」を導いていただく。「あ、こういうレイアウトしなきゃいけないんだ。こういうふうに宛名を書いたほうがいいな」といった知恵を授かる。

あなたが銀行の融資係だったら、融資申し込みを断るときに、

「住吉さん、相手が喜ばないまでも、どうぞ相手を傷つけないで、それなりにちゃんと事業もいきますように」というお願いをする。

私も昔、銀行の融資係には本当に腹が立った。恨むというのではないが、癪に触っていた。

しかしそれもS銀行の支店長代理と次長の話を聞いて恨みが解け、それからは銀行マンを愛しく思っている。でもまあ現実はそうはいかないから、また腹が立ったりもするのだが……………。だからお断りをするときにも、

「私の会社ではちょっと難しいけれども、どこかでできますように」

という気持ちを持って、相手を傷つけないで済むようにお祈りしておく。言葉がいるとき、文章がいるとき、電話をするとき、その前に、住吉さんにお願いする。本当に素晴らしい力を与えて下さるだろう。

住吉の神様のそういうご守護が、結局、世の荒波を乗り越えていく知恵と言葉と息吹を与えていくのだ。

すなわち海路の道開きであり、言霊の神である。事業に動かれる住吉の神様とは、銀行の金を借り出すだけではなく、そういうおつき合いをするのが一番いいと教えてくれているのではないかと思う。

船も同じである。どう船を操ればいいのか、潮の向きを考え、風向きを考え、荒波を乗り越える舵の取り方、帆の立て方、漁場を探す知恵、釣り方、仕掛、餌、みんな住吉の神様が教えて下さる。船の操船は世の中の荒波を越えていくこととにている。

会社の経営に関して、私はそういうふうに住吉の神様に導かれてきたのである。

住吉大社を参拝したときに、住吉の神様がこうおっしゃった。

「祈りさえすればいいというものではない。どうすれば神と人とがうまくつき合えるのかみなに教えてやれ」と。

それで私は、こうした著作を書いているのだ。

なお、ここにご紹介した住吉大社や鹿島神宮などの、もっと詳しい説明は、「神社で奇跡の開運」「全国の開運神社案内」(いずれも小社刊)を参考にしていただきたい。