絶対成功する経営(Vol.5)

第三章 時代の先を読む予知力の研究

信仰を持たない一流の経営者はいない!

これまで、企業努力の方向性とそのやり方とか、飽きる心の克服のしかたとか、会社を発展させる方法についていくつか述べてきた。

だが考えてみれば、ここまでは当たり前のことである。一章で語った同業他社の徹底研究など、改めていわれるまでもなく実践している経営者もいるに違いない。少なくとも成功を収めている経営者なら、それくらいの努力はしているはずだ。

では、そのレベルを越えて会社を発展させていく上で一番重要なこと、経営者が一番知りたいことは何なのかというと、それは「運」。この一言に尽きる。

もちろん、最初から運まかせというようでは経営者として失格だ。一章でも書いたように、運不運を論じるのはあくまでも最大限の精進努力をした上での話。経営者としての努力をロクにしないで運だ不運だというのは論外である。

その努力をした上で、社運をいかに向上させるか。いかに運をつかんで会社を発展させるか。経営者が本当に知らなければならないのは、そこなのである。

だからこそ、一流の経営者になればなるほど、みな一様に人間を超越した世界、つまり目に見えない神仏の世界に心を開くようになるのだ。

ここらあたりから、私の独自な経営論、世界に二つとない経営論に入っていく。

人間は決して万能ではない。どんなに優秀な人でも自ずから限界というものがある。それに気づいて、人間を超えた存在、つまり神や仏の世界に心を寄せる。平たくいえば信仰心、これを、トップクラスの経営者は持つようになるのである。

それは当然であろう。経営者は何百何千、いや何万何十万という従業員およびその家族に対する責任を一身に負っているのだ。その重責を真に感じ、人の能力の限界を謙虚に見つめたならば、神仏に帰依しないほうがおかしい。そう断言しても決してオーバーではないだろう。

それが証拠に、一流の経営者はみんな何かしらの信仰を持っている。

たとえば堤康次郎氏。西武鉄道の創設者であり、戦後は衆議院議長まで務めた彼が熱心な箱根神社の信者だったことは有名である。

当時、東急グループの創設者の五島慶太さんとともに時代の寵児ともてはやされ、”強盗慶太にピストル康次郎”と世間から揶揄されるほどの辣腕ぶりを発揮したが、その一方で、箱根神社の神様に対する深い信仰心を持っていたのである。

それから、キャノンが観音をもじった社名であることはあまりにも有名だ。キャノンの御手洗さん、今は息子さんが跡を継いでいるが、彼もやはり熱心な仏教徒で、現在、盲人福祉関係で大きな貢献をされている。

さらには松下幸之助さんは弁天宗、京セラの稲盛さんは生長の家といった具合だ。また、ワコールの塚本さんも倉田地久という人に師事していた。この人はもうお亡くなりになったが、大本教系の霊能者である。

キリがないのでこのへんで終わりにしておくが、一流の経営者になればなるほど、み何らかの信仰心を持っている。信仰を持っていない経営者なんていないんじゃないかと思うほどである。

音楽家でも信仰を持っている人が多い。たとえば、私のラジオ番組で対談した宇崎竜童さん。奥さんの阿木燿子さんのお母さんが教祖さんだから、彼自身、宗教には入ってないけれど、対談していても審神だとか邪霊なんて言葉が自然に出てくる。

大きな責任を背負った人はみな孤独である。

何か大きな決定をする時、これでいいんだろうかと悩んで悩んで夜も眠れなくなる。

右に進むべきか左に進むべきか、その判断を一つ間違えただけで何千、何万という従業員が路頭に迷うことにもなりかねない。それくらいの重圧をいつも感じているのだ。だから、自然と神仏に心が向くようになるのである。

特定の宗教団体に入らなくても、普遍的な信仰心を持っていない経営者はまずいない。まあ、ゲンをかつぐぐらいの気持ちの人もいるだろうが、無神論者で事業に成功し続けている人っているんだろうかと私は思う。

やはり、それだけ成功している経営者は、企業の舵取りをしていく中で、運不運、出会い、縁という体験を通して、人間の努力以上に大きな何かを感じているに違いない。

予知力があれば戦いに勝てる

「あの会社は本当に運がいいよ。出す商品、出す商品がどういうわけかみんなヒットするんだから」

「あの会社はツキがあるね。健康食品に進出したとたんに健康ブームが訪れるんだから。ホント、ツキほど恐ろしいものはないね」

「あの会社は何をやっても、すべてうまくいかない。かわいそうなくらいにツキから見放されているね」

世の中には、運のいい会社というのはたしかにある。反対に、運の悪い会社というのもある。その運のよし悪しの原因は一体どこにあるのだろうか。

一般に運というと、わけのわからない摩訶不思議なもの、というとらえ方をされているが、実はそうではない。運のよし悪しにもちゃんとした法則性があるのだ。運のいい会社はよくなるべくして運がよくなっているし、運の悪い会社は悪くなるべくして悪くなっているのである。理由もなく運がよくなったり悪くなったりするのではない。

では、運のいい会社、運の悪い会社があるのはなぜかというと、その要因はいくつかあるが、その中でも特に重要なのが予知力である。経営者が未来を的確に予知できるかできないか、その能力の違いが運のよし悪しになって現れるのである。経営者が予知力や直感、もっとハッキリいえば霊能力を持っているか、いないか。これが運のよし悪しの大きな要因となっているのである。

「どういうわけか、あそこはブームに乗るのがうまい」という会社があれば、それは、経営者が未来を読む能力を持っているからであるし、「どういうわけか、あそこはやることなすこと、すべて流行からずれている」

という会社があれば、それは、経営者が未来を読む能力を持っていないからである。

もちろんそんなことを、経営者自身は自覚していないかもしれない。しかし、ブームを先取りできる経営者は、頭ではないどこかでブームの兆しを読んでいるのである。だから、いつもブームに乗ることができるわけだ。

あるいは、決算書を見てどこがどう足りないのか、なぜ数値が伸びないのか。取引先にしても、あそこはちょっと危ないんじゃないか、不渡りを食らうんじゃないか、売掛金を回収できないんじゃないか。

従業員の問題にしても、あいつはちょっとおかしいんじゃないか。銀行はお金を貸してくれないんじゃないか。これからはこういう物がヒットするんじゃないかと、未来のことを事前にぴーんとキャッチするから、経営が盤石なものとなっていくのである。

この予知力、直感力。これが経営者にとって最も大事なものであって、事前に何かをピーンと感じることによって、未来の災いから免れたり、人事の問題点やトラブルを見抜いたり、販売先とのトラブルから逃れたりすることができるわけである。

だから、この予知力、直感力があるかないかで、最終的に経営者の資質が定まるといっても決して過言ではない。

未来のことは、どんなにマネジメントの本や日経新聞を読んで勉強しても、あるいはコンサルタントや税理士、会計士から聞いてもわからない。

業界の動向であるとか、日本経済の現状といったものはそれなりにわかるだろうが、自分の会社の指針といったものになると、やはり最終的には経営者自身の直感力に頼るしかない。こんなことは、経営に携わっている人なら誰でも先刻承知のことで、改めてくどくどと説明するまでもあるまい。

かの項羽も「先んずれば人を制す」といっているが、予知力、直感力を磨いて機先を制することができれば、ライバルとの競争にも勝ち抜くことができる。それほど、経営者にとって予知力、直感力は必要なものなのである。

ということで、どうしたら予知力や直感力を磨き、経営に生かすことができるのか。その方法について、深いところから説き起こしていこう。

「幾を知るは其れ神乎」

「易経」の中に、(機)を知るは其れ神平」という言葉がある。まずはこの言葉の説明から入っていこう。

地上に春がやってくるのはだいたい三月か四月ごろ。南と北とでは多少異なるが、三月か四月になればどこでも春がやってくる。

しかし、目に見えない世界では前年の一二月二二日の冬至の時にはすでに春がはじまっているのである。

冬至というのは、易でいえば乾も坤もすべてが陰。すなわち陰の極まりの時なのだが、その陰の極まりの中にパッと一つ、陽が出てくる。

一つの陽がパッと帰ってくるというので、これを一陽来復という。無形の世界では一陽来復でもう春がはじまっているのだが、まだ形には現れない。これが冬至の意味である。

この逆が六月二二、二三日の夏至。夏至は陽の極まりで、季節的にはこれからいよい夏の盛りを迎えるという時期だが、夏至の時にはすでに秋がはじまってる。しかし、形にはまだ現れていない。これが夏至の意味である。

このことについては、拙著「大天運」で詳しく書いているので参照していただきたいが、とにかく冬至の時にはすでに春がはじまっている。十二月、一月は季節感覚では冬の真っ最中ではあるものの、目に見えない世界、無形の世界ではすでに春が訪れているのである。

この陰の極まりの中にパッと一つ、陽が戻ってくる一陽来復。この春の機、春の兆しが出てくるとやがて地上に春がやってくる。

「幾を知るは其れ神乎」の幾とは機であり、兆しのことである。そして、その機を知ること、つまり、兆しをパッとつかむのは、神なる素晴らしいものなんだ、と「易経」ではいっているのだ。

機を知ることができれば、悪い兆しがあった場合、それをパッとキャッチして素晴らしい方向に改善できる。いい兆しがあれば、パッとキャッチして運をつかむ。これを事業にあてはめると、商機。商いの兆しである。商機をいち早くつかめば、ライバルに勝ち抜くことができるわけだ。

禅宗でいうと、禅機がこれだ。その人が持っている内面性、その人の中に眠っている潜在意識が今まさに内側から割って出ようとする兆しを見て、お師匠さんがズバッと一言いう。

その一言で「あっ、そうか!」と大悟する。これが禅機である。それらの兆しを頭ではないところ、観念ではないところでパッと知るのが神なる働きなんですよ、と「易経」はいっているのである。

ところが、その機、つまり兆しがあってもキャッチできないものだから、災いが起きるまで気がつかない。

それで、会社が倒産した、不渡りを食らったということになるわけだ。会社が危なくなる前には何らかの兆しがある。取引先に問題があれば何らかの兆しがある。その兆しをキャッチできれば、事前に対策を講じることができるのだが、兆しをキャッチできないために、最悪のケースを招くことになってしまう。

兆しを読めるようになるには

その兆しをパッと正確につかむ方法は何かというと、無私無欲に徹することである。ああじゃないかこうじゃないかという妄想、あるいは自分の都合のいいほうに都合のいいほうに考えようとする我欲。こういう執着心とか焦り、我欲があると、兆しを見てもわからない。

明鏡止水心が鏡のように澄みきった状態なら、パッと兆しをキャッチできるのである。状況判断が的確な人というのは、だいたいそういう人である。

だから、「幾を知るは其れ神乎」というようになるには、自分を無にするしかないわけだ。しかし、無になるといっても、ただボケッとしていればいいという意味ではない。やはり従業員の幸せ、取引先の幸せを願う心、その一点で澄みきった心。それが無私である。

無私というのはまた、こういうふうにもいえる。無私とは「私」が無いこと。「私」というものを無くすことである。が、「私」を無くすとは瞑想にひたったりすることではない。瞑想にひたってもそれなりに無私の境地に達することができるかもしれないが、会社と従業員を抱えている経営者にそんなことをやっている時間的余裕はない。

では、どうすごしたら日常生活の中で無私の境地に達することができるかというと、何かに没入することである。仕事に没入する、勉強に没入する、趣味に没入する。その没入している時には、ただ、そのことだけに全神経を集中していて、私というものがない。そういう時もまた無私の状態といえる。

だから、無私の境地に達しようと思えば、仕事に没入すればいいわけである。仕事に没する、経営に没入する。その瞬間、瞬間は「私」がないから、兆しを正確にキャッチできる。ところがそうではなく、仕事に没入せずに、やれ女だ、やれ博打だ、やれ財テクだなんてやっているから、重要な兆しがあっても見逃してしまうのである。

また、無私とは、禅宗でいえば禅定ということになる。禅定とは何か。「外相にとらわれず、内定まりたる様」、これが禅定である。周囲がどうであろうと、外の相にはまったくとらわれない。

外がどうであろうと微動だにしない。人の言葉だとか姿だとか景色だとか、そういうものにまったくとらわれないで、いつも中身がビシッと定まっている状態。それが禅定の定義である。

その禅定に到るために剣道をやる。柔道を通して禅定に到る。書道を通して禅定に到る。経営を通して禅定に到る。何を通してでも構わないが、この禅定がなければ「幾を「知るは其れ神乎」というレベルには到達しない。おのれが揺らいでいたら、兆しをキャッチできない。

そういう兆しを見て正しく判断できる時というのはどういう時かというと、禅定の状態の時であり、心が澄みきって無私無欲の時。焦りもなく気負いもなく、怠りもなく、仕事に没入している状態。

そういう時に下した判断、決定はいつも正しい。反対に、焦ったり気負ったり、あるいは欲望に満ちている時にはどうしても狂いやすい。事業でも株でも何でも、おのれが揺れ動いている時には判断が狂いやすい。

経営者にあてはめれば、従業員の幸せ、取引先の幸せ。この一点で心が澄みきって、仕事に集中している時の判断、決定は正しい場合が多い。

ところが、それがなかなかできないわけだ。だからこそ、それができるのは神なる働きだ、というのである。

そこまでのレベルに到達するだけでも、相当のものと評価できるだろう。

だが、それが最高というわけではない。まあ、そういう状態であれば正確に機を判断しているといえるが、実はもう一つの上のレベルがある。

そのレベルとは、未来に起こ悪い兆しをもパッと先取りして対応する、未来の明るい兆しをもパッと先取りして一〇倍、一〇〇倍の吉に変えるというようなレベルである。これが、もっと積極的な「機を知る」ということであり、最高レベルの予知力なのである。

それから比べたら、禅定の状態にあって正しく判断、決定するというのはまだまだこの世のレベル。世間一般のレベルから見たらまあまあ立派だな、という程度である。そのレベルでも、たしかに兆しをキャッチできるだろう。

しかし、兆しが出てくる前にあらかじめ兆しが読めること。別の言葉でいえば「機先を制す」。機の先をキャッチする。これが最高のレベルの子知力なのだ。

このレベルに達すれば、事業でも人間関係でももはや失敗はない。そのレベルに立つには機先を制す。これしかないのである。

「機先を制す」

その「機先を制す」ということを具体的に説明すると、こういうことになる。たとえば、仕事中に急にお茶を飲みたくなったとする。

そして、部下の女性に、「あのう、ちょっとお茶を飲みたいんだけれど・・・・・・」と頼んだら、すぐさま、「はい、只今準備しております。少々お待ちください」という返事。

「へえ、気が利くねえ」

この場合の気とは本来、機と書くのが正しいのではないかと私は考えているが、それはともかく、こちらが「お茶を飲みたい」と思ったその時に、その部下の女性はこちらの機をキャッチしたわけだ。これが「機を知る」ということである。

しかし、これではまだ「機先を制す」というレベルではない。「機先を制す」とは何かというと、こちらが「お茶を飲みたい」と思った時には、すでに目の前にお茶が出ている。これが「機先を制す」ということなのである。

「あのう、お茶を・・・・・・」といったら、その時にはもう、「はい、どうぞ」と、すでにお盆にお茶を載せて目の前に立っている。

「おっ、ものすごく気が利くね。霊能者さんみたいだね」

こういうのが本当の意味での気が利くということであり、機の先をキャッチするということであり、「機先を制す」ということなのである。

では、いつ、「お茶が飲みたい」というこちらの機をキャッチしたのか。お茶を出すには準備時間が必要だから、「お茶が飲みたいな」と思った瞬間に目の前に持ってきたということは当然、その前に何かをキャッチしているわけである。

何だかわからないけれど、「お茶を入れようかな」と思ってお茶を入れて上司のところに持っていったら、「あのう、お茶を……」といわれた。それで、「はい、どうぞ」と。

これ、すなわち、機の先をキャッチしているからにほかならない。「お茶が飲みたい」という機の先をキャッチしているから、事前に準備し、「あのう、お茶を……」と言葉になって現れた時にはすでにお茶を持ってきている、というわけである。

事業でも戦でも、あるいは男女関係でも夫婦関係でも、機先を制すことは非常に重要である。形に現れた時ではもう遅い。

形に出た時に対応したのではライバルに勝てない。対応するための準備期間が必要なのだから、ライバルに勝とうと思ったら、機の先をキャッチして、形に出た時にはすでに準備が終わっている。それくらいの機のキャッチカがなければならない。

流行産業の場合、こういうのが流行っているな、ブームだなと、いち早くキャッチし商品開発を始めたのではダメだ。

準備期間が必要だから、売るべきものがそろった時には一歩遅れをとる。流行の先端を行こうと思ったら、流行の先の先をとらえて準備を 33 する。そして商品が完成し、流通しようという正にその時に大変なブームになっていた、というのが機先を制したということだ。

流行業界であれサービス業界であれ、どんな業界であれ、流行の先端を行くには機の先をキャッチするしかない。これがビジネスの理想である。

これができれば、絶対に失敗はない。「孫子」の言葉をもじっていえば、「彼を知りおのれを知り、機先を知らば、百戦危うからず」である。

「機先を制す」極意とは

では、どうしたら「機先を制す」ことができるのかといえば、とにかく神様に祈りと願いを投げかけるしかない。

神様が聞いてくださるように熱意熱誠をもって、うわーっと祈りを投げる。投げたら、答えが兆しとなって返ってくる。兆しがなければ、いくら禅定だといってもキャッチしようがない。投げて投げて投げ抜いたら、投げた分だけ返ってくるのである。

そして、この祈りの中身となるものを禅宗では疑団とか大疑団という。

「神様。なぜ私はこんな顔で生まれてきたんでしょうか。もっと美しく生まれてきたかったのに、どうしてこんな顔なんですか」(

「神様、なぜ私はこんなに美しくて、いつもいつもプロポーズばかりされるのでしょう

異性からモテない人生って、どんな人生なんでしょうか」

というのは冗談として、会社の経営者なら、

「うちの営業方針は正しいんでしょうか。間違っていたら教えてください」

「なぜ、うちの従業員は揃いも揃って無能なやつばかりなんだ。神様、どうぞ教えてください」

と大疑団を投げかけるのだ。

そのように、いつもいつも神様に投げている人には、いつもいつも答えが返ってくる。

ある時は人の口を通して、またある時は自分自身の直感で、「あっ、これが答えだ」とわかるわけだ。とにかく神様に投げていれば必ず答えが返ってくるのである。テレビを見ていてもハッとするし、本を見ていてもハッとする。人とおしゃべりをしていてもハッとする。帽子をかぶろうとしてもハットする。

だから、「なぜなんだ!」と、常に大疑団を投げることが非常に大切なのである。大疑団を持たないと、人間としての進歩がない。ポケーッと神仏を拝んでいるだけで満足している人には進歩向上がない。何かにつけては、

「ご先祖様のおかげです。感謝します」

「御仏のお導きです。ありがとうございます」

「神様のおかげです。ありがとうございます」と感謝するだけ。それでもまあ、神仏に感謝する心は非常に大切だから、ご先祖様も守護霊さんも神様仏様も喜んではいるだろうし、守護もしてくれるだろう。

しかし、それだけでは、それ以上の進歩がない。それなりに、先祖も兆しを与えてくれるかもしれないが、魂の向上という面では何一つ進歩がない。

やはり、テーマを持たなければいけない。テーマ、大疑団を持って神様、仏様に投げて投げて投げ抜く。どれだけ神様に投げたのか。

その投げた量が多ければ多いほど、多く返ってくる。兆しで返ってくる。その兆しを正しく受けるには、さっきいったように、執着心や我欲があってはダメ。そういうものをなくし、自分の内面性を虚心坦懐にしていたら、すぐにキャッチできる。

これが、禅定とか「易経」にある「幾を知るは其れ神乎」というレベルを一歩も二歩も越えた機のとらえ方でなのである。いわば「幾の先を知るは、其れ、神乎」という世界である。

朝夕の祈りでアンテナを張れ

以上、予知能力、直感というものがどういうものであるか。その本来の意味をお話ししたが、これだけではいささか具体性に欠ける。

そこで次に、いかにしたら予知能力、直感力を養い、これを経営に生かすことができるのか、その具体的方法をお話ししたいと思う。

「あっ、こういう商品をつくったらヒットするな」
「あっ、この会社はちょっと危ないな」
「あっ、この従業員、ちょっと問題があるな」

こういう予知能力があったらどんなにいいだろう、でも、自分にはそんな予知能力なんてあるはずがない、とハナからあきらめている人が多いのではないだろうか。だが、あきらめるのはまだ早い。誰でも、心がけ次第で予知能力、直観力を養うことができるのだ。

その予知力、直観力はどうしたら磨かれるのかといえば、前にも述べたように、絶えず投げなければならない。神仏に投げて投げて投げ抜けば、必ず兆しとなって返ってくるのである。

その神仏に投げることをアンテナを張るという。

では、アンテナはどう張るのか。どうやったら張れるのか。これについて突っ込んだ話をしたいと思うが、その前に、みなさんの会社には神棚をお祀りしているかどうかお尋ねしたい。

もしお祀りしてなければ、今すぐにでも置いていただきたい。それから、三宝荒神をお祀りしているだろうか。

これも、お祀りしていなければ今すぐにでも置いていただきたい。会社、事業所には必ず神棚と三宝荒神をお祀りすること、これを忘れないでいただきたい。

というのも、アンテナを張るには神仏への祈りが欠かせないからである。逆にいえば、神仏への祈りを欠かさず毎日やっていれば、どんなに鈍い人でも感性を磨き、予知力を高めることができるのである。

ということで、神棚および三宝荒神に祈って予知力を養う方法をこれからお話しするわけだが、今現在、会社に神棚のない人の場合は、家の神棚、三宝荒神でいいだろう。

また、家にもない人の場合は、産土の神の方向に遙拝してもいいだろう。

さて、あなたの会社に神棚があるものとして、具体的な祈り方になる。朝、会社に出勤したら何よりもまず、神棚に向かって祈る。

天津祝詞を知っている人はそれを三回奏上し、「いつもお守りくださいまして、ありがとうございます」と感謝の祈りから入っていって、「本日もよろしくお願いいたします」と祈る。これが、予知力や直感力を高めるための基本である。

「本日も得るところ大なるものがありますように。学ぶところ大なるものがありますように。経営上のヒント、そして自分の研鑽、宇宙の真理、道におけるあらゆることが学べますように」

こういうふうに祈るのだ。ちなみに、これは仏教でいうところの胎蔵界の祈りである。道を極めていく、真理を探求していく、そういう進歩向上の祈り。これが胎蔵界の祈りである。次に、

「すべての従業員が今日も幸せでありますように。今日も喜んで仕事に打ち込めますように。そして、すべての取引先が喜び感激し納得して、ますます繁栄するようなやり方ができますように。

それから、すべての仕入れ先も心から納得して喜び、弥栄えていきますように」と祈る。経営者にとって大事な人は従業員、販売先、取引先の三つに他ならない。

だから、その人たちの幸せを心から祈るのだ。これは金剛界、つまり、世のため人のためという慈悲の祈りである。

この時、できるなら言葉に出して祈りたいものだ。もちろん、心の中で念じているだけでも神仏に通じなくはないが、やはり、言葉に出して祈るのと心の中で念じるのとでは霊力が違ってくるのは自明の理である。

そういうふうに胎蔵界と金剛界の二つの方向でビシッと祈っていると、本当に神仏に導かれて、その日得られるものも大なるものになり、徳も積める。

もちろんそれだけではない。アンテナが立つのである。そしてアンテナが立つと、仕入れ先と話をしている時に、「あっ、このままだと在庫過剰になるな」というようなことがピーンと来る。従業員の幸せを祈っていると、従業員の問題点がピーンと来る。

販売先のことを祈っていると、販売先の問題点がピーンと来る。「あっ、彼は今、こういうことで悩んでいるんだな」「この会社には、こういう商品を持っていったら喜んでくれるな」「ここは資金が逼迫していて、ヘタをすると不渡りを食らうことになるな」と

いったことがわけもなくピーンとわかるようになるのである。

決算期には三宝荒神に祈れ

それから、決算期が近づいてきたら、三宝荒神にお祈りすることも大切だ。三宝荒神にもまず感謝の祈りから入っていく。

「いつもいつも会社の台所をお守りくださいまして、ありがとうございます」と感謝の祈りをしてから、神棚に祈るのと同じく胎蔵界の祈り、金剛界の祈りを捧げる。そのあと、

「どうぞ、三宝荒神様、多すぎる在庫がありましたら教えてください。余計な在庫がありましたら教えてください。

そして、回転在庫で必要なものがありましたら教えてください。どうぞ、足りないところがあるならば知らしめたまえ。よりよい改善策があるならば知らしめたまえ」

このような台詞を祈りの中に含ませて奏上すると、在庫管理の帳簿をみたり、あるいは在庫をチェックしたりする時、何か問題があると「あっ!ここが問題だ」というふうにピーンと来るのである。

在庫の現物を見ても、決算書、帳簿を見ても、「あっ、こんなところにデッドストックがあったじゃないか」

「この在庫、こういうふうにしたら、うまくさばけるんじゃないか」と、ピーンと来るわけである。

在庫をさばく一番いい方法は、改めていうまでもなく売ることである。あるいは納入業者に返品するというのもいいだろう。返品できなければ差し替えてもらう。

しからずんば決算前に処分する。デッドストックの場合は、原価を割ってでもいいから現金化するように努める。最悪の場合は、燃やすなどして在庫を処分し、その処分しているところを写真に撮って税務署に見せる。

そのように在庫処分のやり方はいろいろあるわけだが、三宝荒神に向かって、「足りないところがありましたら教えてください」「よりよい方法がありましたら教えてください」と、言葉に出して祈りを奏上すると、その事柄についてのアンテナが立つ。アンテナが立つから、ちょっとしたことからでもピーンと感じるようになるのである。

意識と関心を向けなければ直観は来ない

このアンテナを毎日毎日立てていたら、情報が確実にキャッチできるようになる。その事柄に意識と関心を向けるから、何を見ても何を聞いてもピーンと感じるようになるわけだ。

いわゆるインスピレーションとは、こういう時に受けるものであって、意識と関心を向けなければ何も感じない。何一つピーンと来るものはない。

少し余談になるが、だいぶ前、こんな女性がいた。その人は五十歳前後の女性で、私にとってはちょっと面識があるという程度の人だったが、ある日、私のところに訪ねて来て、しばらく雑談して帰っていった。

すると数日後、その女性の知り合いがこんな話を聞かせてくれた。

「先生、あの方の相談に乗ってあげたんですか」

「いや別に。ただちょっと世間話をしただけですよ」

「ああ、そうなんですか。あの方、「深見先生は霊能者だって聞いていたけれど、霊能者なんかじゃないわ。私の悩み、何一つわかってくれなかったもの」とおっしゃってましたよ」

おそらくその女性は、霊能者なら何も言わなくても、目の前に座っただけで自分の思いや悩みをすべてわかってくれるんだろう、くらいに考えていたのだと思う。その女性にかぎらず、霊能力とかインスピレーションというものをそう捉えている人は、思いのほかたくさんいるらしい。

しかし、そうではない。霊能力とかインスピレーションといっても、意識と関心を向けなければ湧いてこないのだ。ちょっと世間話をしただけで、関心を向けていない相手の心中までわかるはずがない。

何より私は、むやみに人の心中を覗くような真似はしない。そんなことは、ちょっと考えればすぐにわかりそうなものだが、何もしなくても何でもわかるのが霊能力だと考えている人が多いので困ってしまう。

もちろん、相手に対する愛念の密度をグーンと高めれば、何でもわかる。その人の前世から守護霊、そしてその人の先祖たち、さらにはその人がどんな人生を送ってきたのか、そういったことが手に取るようにわかるのだが、それはあくまでも相手に強い意識と関心を向けた時のこと。意識と関心を向けなければ、霊能者といえどもわからない。

これが正神界の霊能力というものの実際である。

まあ、少し横道にそれたが、とにかく、霊能力とかインスピレーション、直感を磨くには意識と関心を向ける以外にない。

では、意識と関心はどう向けるのかというと、朝の祈りの時に台詞に入れて、関心というアンテナを立てるのである。

これを怠りなく実践していくと、霊感と直感が研ぎ澄まされて、ちょっとしたことでもすぐにピーンと感じるようになる。

「桐一葉、落ちて天下の秋を知る」という言葉がある。

暑い夏の盛りに桐の葉が一枚ハラリと落ちるのを見て秋の近いの知る、ということから転じて、わずかな兆しを見てその後の衰微を予知するという意味に使われる言葉であるが、それが可能になるのも、世の形勢に常に意識と関心を向けているからである。

そうでなければ、桐の葉が一枚落ちたからといって何も感じるはずがない。「あっ、桐の葉っぱが散っているなあ」と思うのがせいぜいで、落ちるのさえ気がつかない時のほうが多いに決まっている。つまり、

「心にあらざれば、見れども見えず、聞けども聞こえず」という状態になってしまうわけだ。

だから、毎朝毎朝、神棚に向かって祈る時に、従業員のこと、販売先のこと、在庫のことなど、会社経営に欠かせない事柄について祈りの台詞の中に入れていくことが非常に大切なのである。