絶対成功する経営(Vol.6)

  1. 第四章 経営を軌道に乗せる「波の三段活用」
      1. 縁がすべてのはじまり
      2. 南泉和尚に見る禅的機働き
      3. 「波の三段活用」
      4. 現実的な努力が運を開く ところで、人生の運、不運というものを論じる時には、どうしても前世のだとか徳分、あるいは家代々の刧だとか徳分といったことを避けて通ることはできない。 だが、そういうことを論じてしまうと、どんなに前向きな方策があったとしても結局、虚しくなってしまう。そこでここでは、そういう話はちょっと置いておき、あくまで現実的な方策に的を絞って説明したいと思う。 たしかに、前世の刧や家代々の刧があると機を呼びにくいし、波にも乗りにくい。逆に、徳分があると機を呼びやすいし、波にも乗りやすい。そういうことはたしかにある。 しかし、たとえ刧があっても、それを見事に乗り越えてチャンスをつかみ、しっかりと波に乗って成功している人もいっぱいいる。 反対に、徳分があっても機を呼ぶことができずに不遇をかこっている人も少なくない。一族すべて幸運なのに、その中で一人だけいつもチャンスを逃している人は、いつの時代にもいるものである。 だから、家の徳分や前世の徳分がありさえすれば、すべてがうまく運んでいくというわけでは決してない。 逆に、家の刧があると絶対に運が開けないというものでもない。やはり、運を開いていくには現実的な努力が要るわけだ。 前世と家の刧、前世と家の徳分。これはあくまでも前提条件にすぎない。波が強いか弱いか、乗りやすいか乗りにくいか。 それを多少左右することはあるが、もう済んでしまった過去のこと。だから、そんなことをあれこれ考えるよりも、もっと前向きにいい波を呼び起こす努力をしていくしかないし、そのほうがはるかに現実的であるはずだ。 「波の三段活用」①わが想いで縁を結び、機を呼び波に乗る
      5. 素晴らしいイメージを常に保て
      6. 明るく前向きな心に、いい縁がやってくる
      7. 暗い話、悪い話には耳を貸さない
      8. 明るい想念だけは絶対に壊してはならない
      9. 「波の三段活用」②他力で縁を結び、機を呼び波に乗る
      10. 「至誠天に通ずる祈り」をせよ
      11. 「波の三段活用」③他人の援助で縁を結び、機を呼び波に乗る

第四章 経営を軌道に乗せる「波の三段活用」

縁がすべてのはじまり

事業にしても何にしても、人生には波がある。いい波、悪い波、いろいろな波がある。この波をいかに的確にとらえ、うまく乗っていくか。ここにも成功、失敗の分かれ道がある。

もちろん、悪い波が押し寄せてきた時には、これを避けるかじっと辛抱するしかないが、いい波がやってきた時には、素早くこれに乗る。そうすると、思いもよらない大成功を収めることも夢ではなくなる。そこで、どうしたらいい波を起こし、これに乗ることができるのか、その方法を紹介する。

まず最初は、そもそも波とは何なのか、ということだ。波とは一言でいえば緑、チャンスであって、事業にしても結婚にしても人生のすべてのはじまりはここにある。

この縁、チャンスのことを禅宗では禅機と呼んでいることは前にも述べた。その禅機とは具体的にはどういうものかというと、たとえば一休禅師にまつわるこういう話がある。

一休禅師といえば、機知に富む大徳寺派の禅僧として知られているが、その一休禅師の下に村田珠光という人物が入門してきた。村田珠光、知る人ぞ知る、日本の茶道の創始者である。

ところが、この村田珠光、一休禅師の弟子になったものの、いつも居眠りばかりして一向に修業が進まない。それで、どうしたら座禅中に居眠りをしないようになるか医者に相談したところ、その医者曰く、

「中国伝来の抹茶を飲んだら、眠気は消えるであろう」

「ああ、そうですか」

そしてお茶を飲んだら本当に眠らなくなった。そんなことから村田珠光はお茶を飲み始めたのだが、ある時、一休禅師が珠光の庵を訪れた。お茶に招かれてやってきたわけである。

庵の中に通すとさっそく、珠光は一休禅師にお茶をすすめた。「どうぞ、ご一服」と、茶碗を差し出す。一休禅師、お茶をすすめられながら、「何のためにお茶を飲むんだ?」と聞いた。これに対して珠光が、

「眠気覚ましに……」と答えようとしたその刹那、珠光の掌の上の茶碗をパーンと払った。コロコロと床の上を転がる茶碗。お茶で汚れた床。それを珠光が黙々と拭いている。一休禅師も黙って見守っている。

もうそろそろこいつは見性成仏するな、悟りが開けるなということが一休禅師にはわかっている。頭でないところでパッとわかっているから、パーンと茶碗を払った。つまり、禅機が動いたわけである。

そして、世話になったなと一体が庵を去る時、珠光は出口まで見送りに出たのだが、その時もう一度一休が振り返って尋ねた。

「ところで、何のためにお茶を飲むのかな?」

珠光、咄嗟に答えて曰く、「花は紅、柳は緑」

頭で考えて答えたわけではない。何のためにお茶を飲むんだ、と尋ねられた瞬間にパと蘇東坡の漢詩の一節が口をついて出たのである。

「花は紅、柳は緑」。考えてみれば当たり前のことである。

花が紅いのは当たり前、柳が緑なのも当たり前。蘇東坡ももちろん禅を極めていたから「花は紅、柳は緑」と詠んだのだが、珠光はその言葉に自分の悟りの境地を瞬間的に託したわけだ。

理屈とか分別を越えて、自然のありのままが素晴しき御仏の顕現であり、天地自然の真なるものを実感しておりますという悟りの境地。その悟りの境地というのは言葉で説明するものではないし説明できるものでもない。

だから、「花は紅、柳は緑」に託したのだ。

その珠光の境地はもちろん一休にもわかる。そこで、

「よくぞ通った。お前は今、見性して悟った」といって、珠光に印可を与えた。

それ以降のことである。村田珠光のお茶が変わったのは。それまでは眠気覚ましに飲んでいたのだが、そうじゃない、お茶は飲まんがために飲む。飲むその時の境地こそが揺れ動かざる禅定であるし、お茶そのものが内的な魂の禅定を表すものなんだ、と。

ここから茶禅一味が始まったのである。この村田珠光から武野紹鴎へ受け継がれ、千利体にいたって茶道が確立したことは周知のとおりである。

ちょっと横道にそれたが、お茶を飲んでいる時に、「何のためにお茶を飲むのか」と。

こういうようなのを禅的な機働きというわけである。これは理屈ではないところで感じるもの。何だかんだと頭では考えない。目に見えない何かがパッと動くわけだ。

南泉和尚に見る禅的機働き

禅にはまだ面白い話がいっぱいあって、例えば、ある時、いろいろな人がお寺に来るたびに、どんな境地なのかと問答をしかける和尚さんがいた。

それを弟子が見ていると、お師匠さんは何を聞かれてもパッと人指し指を一本立てて「一だ!」とやるだけ。「仏法の真髄についてそもさんか」

と聞かれると、お師匠さんはパッと一本、人指し指を立てる。この一本の人指し指、要するに「仏法の真髄は太極なんだ」ということなのだが、その一本指を立てている魂の奥に、開いて悟っているものがあるわけだ。

太極というのは無私、無欲、分別の知恵を乗り越えた本性に帰るということなのだろうが、その和尚さんは理屈じゃないところで悟っているのである。

誰が来ても「そもさんか、仏法の真髄は」と問答をしかけては、パッと一本、指を立てて「一だ!」と。それだけで向こうは「はーっ」と言って帰っていく。

それを弟子の坊さんが見ていて、「ははーん、ああやるのか」と思って、修業者が寺にやってくるたびに真似をした。来る人来る人に、「仏法の真髄は」と問答をしかけてはパッと人指し指を立てるのである。

そのことを知ったお師匠さん、ある時、その現場を押さえて、

「お前は何もわかっていないのに、なんていうことをするんだ!」

と、その場で弟子の人指し指をスパッと包丁で切り落としてしまったのである。

指を切られた弟子はたまらない。

「うわーっ、何と無慈悲な!」と、その場で泣き叫んでいる。そして、怨みに満ちた目でお師匠さんを見上げた瞬間、お師匠さんは何をしたかというと、パッと人指し指を立てた。

「お前の言っていることは本当じゃないんだよ」ということで、瞬間に指を切り落とした。弟子の手は血だらけになっている。

「うわーっ、なんてことを!」と怨みの目で見上げた瞬間、お師匠さんが立てた一本の指。その指を見て、パーンと弟子は魂の奥で悟ったのである。形ある指一本を失って瞬間に、形のない本当の悟りを得た。

結局、その師匠はそれだけの大悲に徹していたのである。弟子の人指し指を切り落とすなんて残酷な話ではあるが、禅的機働きがあった時には頭であれやこれや考えないで、瞬間にパーンとやるわけである。切ったら痛いだろうなとか考えていたら禅機なんてとてもとらえられないし、切った瞬間に「はあ?」なんて言われたら、見性を遂げるどころの話ではなくなってしまう。

お師匠さんはそのタイミングを見計らってやっているわけだ。頭ではないところでパッとわかっている。そういうことは、禅の世界とか霊格を持っている人の世界ではよくあることだが、これを禅的機働きという。

乱暴ではあるが、実際にあった話で禅語録に残っている。

珠光の場合は、「何のためにお茶を飲むんだ?」と一休に聞かれて「眠気覚ましに」と答えた瞬間にパーンとお茶碗を払われたのだからまだいいが、指一本切られたんだから、その弟子としてはたまらない。それだけ修行というものは命がけのものなんだということである。

それからもう一つ、南泉和尚にまつわる話でこんなのがある。南泉和尚はある時、一匹の猫の首をつかまえて、弟子たちに、「一言いえ、一言いえ。お前たちのうち誰かが一言いえばこの猫は助かるが、何もいわなければこの猫を斬るぞ」と問答をしかけた。すると何人かが答えたのだが、それではダメだということで南泉和尚、その場で本当にその猫を斬り殺してしまった。

その晩、禅宗の歴史上有名な趙州禅師が南泉和尚のところに帰ってきた。そこで南泉和尚は若い趙州禅師に向かって、「かつて、こういうことがあってな。お前ならその時、どう答える?」と尋ねた。

するとその瞬間、趙州禅師は履いていた草履を頭のてっぺんに乗せて、キョトンとした顔で部屋から出ていった。

それを見た南泉和尚曰く、「お前がいたら猫の命は助かったろうに」

何の話かわけがわからない。なぜ、草履を頭のてっぺんに乗せると猫の命が助かるのか。

これもやはり、咄嗟に出てくる禅的機働きなのである。草履とはこれこれこういう意味で、頭とはこれこれこういう意味でと考えてやったことではない。

頭でないところか瞬間にパッと出てくる行動であり、趙州禅師の仏性から出てくる行動なのである。

なぜ、南泉和尚は本当に猫を斬り殺したのか。それは、弟子たちの言葉が本人の仏性、神性からパッと出た言葉ではなかったからだ。

だから、「ダメだ!」といって本当に猫を斬り殺してしまった。残酷な話ではあるが、このように禅の師匠というのは生活の中で禅的な機というものを瞬間、瞬間にとらえているわけである。

「波の三段活用」

少しばかり禅の話が長くなったが、では、この機というのはどのようにして出てくるのかといえば、機の前には縁がある。

前の章で「機の先をキャッチせよ」といったが、機の先には縁があるのだ。その縁が目に見えない無形の世界で働いて、やがて縁が熟して機が出てくるのである。

その出てくる機をパッと本能で感じる。これを禅の世界では禅的機働きということはすでにお話ししたとおりだが、別の言葉でいえば運命の転機である。

「ああ、あの時点から転機が始まっていたんですね」

なんてことをよくいうが、転機とはすなわち、無形の世界の縁が熟して機が出てくること。

そうやって機が出てくると、いよいよ波が始まる。機から波が起こるわけだ。これをパッとつかんだら幸運の波に乗れる。

波、いい換えればチャンスである。このチャンスをパッとつかんだら幸運の波に乗れる。つかみそこねたら波から外れる。

このように波は始まるのである。だから、よき縁を持っている人はよき機が巡ってくる。

そして、よき波に乗るチャンスに恵まれるわけだ。

目に見えない無形のよき縁をいくつも持っている人はいくらでもいい機に恵まれる。だから、幸運の波がいくつもいくつも出てくる。

反対に、悪い縁を持っている人は悪い機が出てくるから、悪いことばかり波打ってくる。

うん、そういこれが目に見えない機であり、機働きである。これがあって初めてパッと幸運のチャンスをキャッチできる。チャンスをものにできるわけである。

だから、幸運の波に乗ろうとするならば、チャンスをつかむつかまないということより、何よりもまず、いい機が出てくるようにしなければならない。いい機が出てくるためにはいい縁を呼ばなければならない。まずこれをしなければ、波には乗れないわけである。

縁が熟して機が出てくる。機が出てきて波が起き、チャンスが巡ってきて機動きにつながっていく。これを運びという。つながっているものの運びが運。

「運がいいですね」「運が悪かったですね」「いい機運ですね」「機運がこっちのほうに向いてきたね」「いよいよ天機が巡ってきましたね」などという場合の運である。

天機、機運が巡ってきたということは、すなわち波が起きたということである。

いい機運、悪い運、いろいろな機運が巡ってきて波が起きる。この機をどんどん生み出していけば、いい波に乗れる。

こういうことがわかっていると、事業運とか結婚運とか神霊界から来る機をつかんで波に乗ることができるのである。

では、波を起こすにはどうしたらいいのか、波に乗りそこねた場合どうするか。これについて説明しようと思うが、この波の活用法を私は波の三段活用”と呼んでいる。その波の三段活用〟とは、結論から先にいえば次のようになる。

一、わが想いで縁を結び、機を呼び波に乗る

二、他力(神、仏、霊)で縁を結び、機を呼び波に乗る

三、他人の援助で縁を結び、機を呼び波に乗る

この三段階である。

まず最初は、わが想い、つまりよき想念を保つことによってよき縁を結び、機を呼び波に乗る。

次は他力、すなわち神様や仏様、あるいは守護霊に縁を結んでもらって、機を呼び波に乗る。

最後は、他人の援助で縁を結び、機を呼び波に乗る。

大きく分けて、波はこの三つの方法で起きてくる。幸運の波がやってくるわけだ。また、これをマイナスの方向に向けていくと悪運の波がくることは言うまでもない。

現実的な努力が運を開く ところで、人生の運、不運というものを論じる時には、どうしても前世のだとか徳分、あるいは家代々の刧だとか徳分といったことを避けて通ることはできない。 だが、そういうことを論じてしまうと、どんなに前向きな方策があったとしても結局、虚しくなってしまう。そこでここでは、そういう話はちょっと置いておき、あくまで現実的な方策に的を絞って説明したいと思う。 たしかに、前世の刧や家代々の刧があると機を呼びにくいし、波にも乗りにくい。逆に、徳分があると機を呼びやすいし、波にも乗りやすい。そういうことはたしかにある。 しかし、たとえ刧があっても、それを見事に乗り越えてチャンスをつかみ、しっかりと波に乗って成功している人もいっぱいいる。 反対に、徳分があっても機を呼ぶことができずに不遇をかこっている人も少なくない。一族すべて幸運なのに、その中で一人だけいつもチャンスを逃している人は、いつの時代にもいるものである。 だから、家の徳分や前世の徳分がありさえすれば、すべてがうまく運んでいくというわけでは決してない。 逆に、家の刧があると絶対に運が開けないというものでもない。やはり、運を開いていくには現実的な努力が要るわけだ。 前世と家の刧、前世と家の徳分。これはあくまでも前提条件にすぎない。波が強いか弱いか、乗りやすいか乗りにくいか。 それを多少左右することはあるが、もう済んでしまった過去のこと。だから、そんなことをあれこれ考えるよりも、もっと前向きにいい波を呼び起こす努力をしていくしかないし、そのほうがはるかに現実的であるはずだ。 「波の三段活用」①わが想いで縁を結び、機を呼び波に乗る

ということで、いかに前向きな努力をしていくかという話になるが、まずは、わが想いで縁を結び、機を呼び波に乗る。これが第一である。

これはいってみれば、自力による努力である。自力といってもいろいろ動き回って努力するというものではなく、想いの世界での自力による努力。つまり、いかにいい想念を保っていくか、ということである。

では、どういう想いがいい縁を結ぶのかというと、前向きで明るくて、未来はバラ色だという想い、イメージである。前向きで明るく、発展的かつ積極的なイメージの力はいい縁を結ぶし、機を呼び覚まし呼び込む。

だから、絶えずそういうイメージを大事にしている人は、本当に幸運に恵まれる。

だいたい、運のいい人というのは明るい性格をしているはずだ。そして前向きで積極的。そういう人はみんな運がいい。

たとえば、四回か五回お見合いをしたけれど、全部ダメだったとする。そうしたら誰でも、「私って、魅力がないのかしら」と思う。しかし、これでは前向きで明るいイメージとはいえない。

相手が魅力的でなかったのである。自分に魅力がありすぎて、まばゆいから成就しなかったのだ。事実はどうであろうと、そう思い込むべきである。

そうして、何回ダメでも、次こそ素晴らしい人との出会いがあるんだとキラキラ輝いていると、そのうち運勢のほうが根負けして、そんな女性でもいいという男性が現れてくるのである。

それから、仕事がうまくいかない、イマイチだなあ、という時がある。そういう時は要するに、悪い波が来ているわけである。

その悪い波はなぜやってくるのか。波がくるもっと前の段階で、悪いイメージ、悪い想念(具体的には後ろ向きで暗くて、消極的で頽廃的なイメージ)をいつも持っているから悪い波がやってくるのだ。そういう霊界を自分でつくっているのだ。だから悪い波がやってくる。

自分でつくる霊界のことを自己霊界という。自分がいつも描いているイメージと想念。それは即、その人の霊界を形成する。

だから、それに合った霊がやってきて、それに合った縁が結ばれ、機が出てきて、波がやってくる。

一言でいえば、波長が合うわけだ。波長が合うから似たような霊界を持った者が集まってくる。似た者夫婦、似た者同志。類は友を呼ぶし、霊は霊を呼ぶわけである。

だから、いい運といい波、いい機運を得ようと思うのなら、いいことしか思わない。悪い想いは自分の努力で払拭し、いつも明るく積極的な想念、イメージを抱くよう努める。これが大事である。

未来はバラ色だ、来年は素晴らしいぞ、事業もお金も必ずどこかから運ばれてくるに違いない。

四柱推命で鑑てもらっても手相を鑑てもらっても、事業運、金運はないといわれたとしても、自分自身はあると思っていたらいいのである。イメージには税金がかからないのだから、どんなイメージを抱こうと、それは本人の自由である。

素晴らしいイメージを常に保て

四柱推命という不思議な占いがあって、それで運命鑑定をしてもらうと、「あなたはもともと金運や事業運がない星の下に生まれている」などといわれることがある。あるいは、あなた自身、そういわれた体験があるかもしれない。

しかし、そんなことでがっかりしたり希望を失う必要は全然ない。

「そりゃあ、たしかに是川銀三と比べたら金運がないかもしれない。けれど、隣のおじさんと比べたら金運がある、友達の誰々君と比べたら金運がある」

と思えばいいのだ。一口に金運がないといっても、誰と比較してないのか、なのである。

オナシスと比べたら、そりゃあないだろう。西武の堤さんと比べたら、そりゃあないだろう。でも、隣のおじさんと比べたらある。要するに、比較基準の問題なのだ。運命鑑定家はよく、

「人相や星で鑑るかぎり、あなたの運は最悪だ」

「人相で鑑ると、この人は主になるよりも補佐役に適している」

というようなことをいう。しかし、これほどいい加減な話はない。

たとえば昔、保利茂という自民党の官房長官を務めた政治家がいた。あの人は典型的な補佐役の人相をしていると常に言われ続けたのだ。

それでも衆議院議員で、地元の佐賀ではトップである。それに、大臣にもなっている。大臣になって内閣の中では補佐役を務めていた。

補佐役といっても、衆議院議員になり大臣になったレベルでの補佐役である。内閣という政治の最高レベルの世界では補佐役にやや向いているかもしれないが、地元ではトップなのである。

それから、吉田茂という名宰相、戦後日本の復興をリードした偉大な政治家がいた。しかし、吉田茂という名前の人はあの人だけではない。

世の中にはいっぱい吉田茂さんがいるわけだ。総理大臣になった吉田茂もいれば、クリーニング屋さんの吉田茂もいるし、葬儀屋さんの吉田茂もいるし、学校の先生をやっている吉田茂もいる。

だから、運命は名前だけで決まるものではないのだ。四柱推命を勉強している人は、星が影響しているんだというが、問題はどのレベルの話か、である。

事業運もそうである。金運もそうである。すべて比較基準の問題なのだ。だから、何といわれようが、いいほうに解釈して、絶対に悪いイメージ、暗いイメージは持たないように努める。どんなことをいわれようが、イメージの世界だけは自分の自由である。何を思おうが、カラスの勝手である。だから、悪いイメージだけは絶対に持たない。これが肝心である。

世の中は今、円高がこれ以上進行すると日本の経済は壊滅するんじゃないかなどといわれている。

だが、そんなことは全然気にしないで、自分のイメージだけはいつも明るく発展的に保っていく。そういう姿勢が特に経営者には大事なのである。

明るく前向きな心に、いい縁がやってくる

とにかく、いつも前向きで、明るく発展的かつ積極的なイメージを抱き続ける努力をしなければならない。

どんなことがあっても、来年は素晴らしい年になる、来年は必ず事業が発展する、売上も上がる、利益率も上がる、自分の収入も増える、そのための方法も必ず見つかるに違いないと思い込んでいる。現実はどうであれ、イメージだけは絶対に壊さない。それが非常に大切なのである。

「私は金運、事業運がないといわれている。たしかにオナシスよりはないだろう。事業運にしても松下幸之助よりはないだろう。しかし、ライバルの彼よりはある」

こういうようにいつも思っていると、本当に物事の運びがそちらに向かっていくのである。そして、そのための具体的な方法も見つかるものなのである。

だから、金運があるとかないとか、事業運があるとかないとか、易者さんのいうことをいちいちまともに受けてはいけないのだ。それから、刧というものもまともに受けてはいけない。お父さんをはじめ、先祖代々の生きざまを見て、

「先祖を見ても刧が深そうだし、お父さんを見ても深そうだし、自分のこれまでの人生もそうだし、所詮、いい運勢なんてほくには縁がないんだ」

というふうには絶対に考えてはいけない。

「お父さんとぼくは血がつながっている。けれども、守護霊は違う。だから、お父さんとは運勢が違うんだ。いい運勢を持っているんだ。これから素晴らしい人生が開けていくんだ」

と考えるように努める。と同時に、親戚縁者の中で金運のありそうな人を探す。そして、

「ぼくはあの人の血を引いている。だから、ぼくにも金運がある」

と思い込む。そうすると霊界が感応して、その人の守護霊が応援に来るのだ。

「お父さんとお母さんは最低だけれど、ひいおじいさんが大層立派だった、そのひいおじいさんの血を引いている」

こう思うのは自由である。それで霊界が感応して、そのレベルに上がっていくのだ。ウソだと思うかもしれないが、本当に上がるのだ。

だから、現実はどうあろうとも、そんなことは一切関係ない。いついかなる時でもわが想いを明るく前向きで積極的に保っている。イメージだけはいつもいい方向に描く。そうすると、必ずいい縁が芽生えてくる。いい縁が芽生えてくるといい機運が出てきて、巡りがよくなる。

巡りがよくなったらどうするかというと、「あっ、幸運が巡ってきたな」と素直に神仏に感謝して、失敗を恐れずにチャレンジする。

チャレンジするとチャンスをつかむ。ああなるんじゃないだろうか、こうなるんじゃないだろうかと恐れていたらダメ。迷っていたら、運を逃すのだ。たとえ失敗してもいい。失敗してもいいからチャレンジする。そこから波がはじまるのである。

たとえば、飛び込み営業でいろいろ回っても断られる。すると誰でも嫌な気持ちになる。嫌な気持ちになるあまり、もう二度と飛び込みは御免だと思うようになる人も少なくない。

しかし、それではダメなのである。

嫌な思いをしても構わない、絶対にいいお客様に出会えるんだと思って突き進んでいくと、何回か断られてもやがて成就する時が来る。

それに、断られてもくじけずにチャレンジし続けていくと、極意が体得できるのだ。

「あっ、年配の人にはこういう話をすると喜ばれるんだな」

「あっ、小さい事務所にはこういう物を持っていくといいんだな」

失敗を何度も重ねることによって、その道の極意が体得できる。銀行からの借入でも、売掛金の回収でも、何でも極意が体得できる。

極意というものは、失敗の積み重ねによってしか体得できないのである。たいした苦労もせず、何でもスイスイやっていける人に極意を尋ねても、答えなんか返ってくるはずがない。

「あなたはよく売ってきますねえ。どうしてそんなに実績を上げられるんですか。何か極意でもあるんですか。あったら教えてください」と尋ねても、何も返ってこないはず。

せいぜい、「いやあ、運がいいんですよ。行くところ行くところ、どういうわけかみんな買ってくれるんですよ」と返事が返ってくるのが関の山である。

とにかく、失敗にくじけないでチャレンジしていくと、必ず何か得られるものがある。そしたら、次にジャンプできる。越えられるのである。

だから、幸運が巡ってきたと思ったら、恐れず素直に突き進む。そうしたら経験するものがある。学ぶものがある。体得するものがある。だから次に必ず成功する。

恐れたら、せっかく機が出てもチャンスを逃してしまうのである。

暗い話、悪い話には耳を貸さない

これは理屈でわかっていても、実践となるとなかなか難しい。突然、取引先から取引停止を申し渡されたり、不渡りを食らったり、従業員にお金を持ち逃げされたりといったみじめな思いをすると、とかくマイナス思考に走りやすい。

もうダメなんじゃないか、努力しても報われないんじゃないか、所詮自分の経営能力はこんなものなんじゃないか、運勢もたいしたことないんじゃないか。こんなふうに考えやすい。

特に、証券会社とか銀行と仲がいい経営者は、不況の時は大変だ。銀行とか証券会社は、データをいっぱい持っている。今現在、いかに不況か、数値で全部把握しているわけだ。そして、そのデータに基づいて、どれだけ日本経済が大変かを教えてくれようとするわけだが、それを耳にすると、どうしても想念が暗くなってしまう。教えるほうは、いろいろデータを示しながら客観的にいっているつもりなのだろうが、聞いている

ほうは、どうしてもイメージを曇らせてしまう。その結果、本人の運まで悪くなってしまう。

だから、そういう情報通の人のいうことは、話半分として受け止めることが肝心で、決して自分のイメージまで曇らせることのないようにしたい。

世間はたしかに不況かもしれない。しかし、不況は不況でまた考えたらいいわけで、銀行のいうことは一応聞くけれども、イメージは絶対に壊されないようにしなければいけない。

不況不況というけれど、考えてみれば、今回の不況はもともと銀行が招いた不況ではないか。銀行が招いたバブル経済だったではないか。証券会社も同罪ではないか。銀行、証券会社が来たら、そんな皮肉の一つでもいってやりたいところだ。

それはともかく、イメージにマイナスになるようなことはなるべく聞かないように努めることである。

マイナスになるようなことはなるべく聞かず、プラスになるような情報を収集する。そうしなければ、気持ちまで暗くなってしまう。だから、情報通の人の話には、あまりのめりこみすぎないようにしたい。

いずれにしても、銀行とか証券会社とか、情報通の人とよくお話をする人には注意が必要だ。

いろんな情報を聞くと、かえってわからなくなってしまい、イメージを壊されてしまうのだ。イメージが壊されると、せっかく巡ってきた運まで逃してしまう。大事な縁まで摘んでしまう。気を曇らせてしまう。機運が停滞する。だから、あまり聞かないほうがいいのである。

情報も、前向きな情報ならいい。そういう情報を提供してくれる人と縁を結ぶと、自分のイメージが明るくなるし、前向きになるし、積極的になる。そして、運がますますよくなる。

これは理屈でわかっていても、いざ実践となるとなかなか難しい。ちょっとしたことでも、すぐにイメージが壊されてしまうのだ。

そして、このイメージ力の強い人のことを“バネのある人”というのである。たとえ悪い波が来ても、悪い情報を耳にしても、自分のイメージだけは絶対に壊さないという人がパネのある人”で、そういう人になるべきだ。

これに対して、ちょっとしたことですぐに後ろ向きになってしまう人もいる。暗くて消極的かつ頽廃的で、イメージが弱くなってしまう人。

世間ではそういう人のほうが多いかもしれない。

そういうイメージをすぐに壊してしまう人は結局、どんなに縁があってもダメになってしまうのである。

縁があって波が来ても、それを逃してしまう。せっかくいい波が来ているのに、ポキーンと折れてしまう。波に乗りそこねてしまう。それは、イメージを壊してしまうからだ。

ところで、調子よく波に乗っていても、何か問題が生じた時にはグラグラと揺れが来る。こんなことではダメなんじゃないかとか、これから大きな問題が起きるんじゃないかとか、一体どうなっていくんだろうかとか、不安になる。

その想いの世界というのは、決して前向きで明るく積極的ではない。

だから、いいイメージが壊れて、そう思った瞬間から波が狂い始める。波から乗り遅れてしまうわけである。

せっかくの波をちょっとした想念の狂いで逃してしまう。誠にもったいない話だが、そういう人は少なくない。そんな波を逃してしまう人のことを並の人物という。並以下の人間は潜水艦である。波の下を行く潜水艦である。そうならないよう、くれぐれも注意したいものである。

明るい想念だけは絶対に壊してはならない

このように、何か嫌なことがあったり、マイナスの情報を聞いたりしても、絶対に悪いほうへは考えないようにしたい。

「あっ、こんなこと、考えてはいかん。こういうふうに思ったら波に乗りそこねてしまう」

と、いいほうへいいほうへ自分のイメージをふくらませていく。周囲がどんなに困窮していようと、自分の想いの霊界だけは素晴らしくしなければいけないと思ってやっていくほかない。周囲の人を見ると、泣いたり悲しんだりしている。不況で会社が危ないとか、給料が出ないとか、世間が悄然としている時でも、自分だけは、

「将来はバラ色だ、明日はバラ色だ、自分にはバラ色の人生が待っている」と、前向きに明るく考えたらいいのである。

そうはいっても、まあ、お葬式の時だけはよしたほうがいいだろう。みんなが悲しんでいる時に、

「未来は明るい、希望に満ちている!」

なんていったら、「お前は人の死を喜んでいるのか!」といわれるに決まっている。

まあ、葬儀の時、お通夜の時だけは口に出すのはやめておこう。しかし、この人ならいい霊界に行くぞ、第一天国か第二天国だぞ、と心の中で思っていたら、葬式の時でも想念を明るく保てるはずだ。

葬儀やお通夜以外は、周囲がどんな状況でも、自分の心のイメージだけは大事に大事にしていく。未来は明るいし素晴らしい。希望に満ちたバラ色の将来がまっているんだと思って、自分のイメージを壊さない。

ところが、修羅場をくぐっていない人とか、試練を実際に体験していない人は、ちょっと何かあったら「もうダメだ」と、すぐにイメージを壊してしまう。

そこから波から外れていって、ガタガタと坂道を転がり落ちるような運になっていく。そういう人は決して少なくない。せっかくの運勢を壊していく人を見ていると、だいたいこのパターンである。

病気になったり会社が倒産したりすると自信がなくなってしまって、イメージの世界がガタガタと崩れてしまう。

そこからスパッと元に戻る蘇生力のある人、すなわち良いイメージを大切にする人には、外れかかった波もまた返ってくる。

これが実践できている人は、やはり社会でも成功している。功なり名を遂げた人というのは、みんなこういう人なのである。

会社の経営者や政治家、あるいはまた芸術家でも、成功している人はみんなバネがある。イメージを大切にして、たとえ壊れそうになることがあっても、そこから見事に蘇生しているのだ。

いい環境に生まれ、素晴らしい人たちに囲まれ、いつもいい言霊に接していれば、誰だっていいイメージを抱き続けることができる。

しかし、事業家でも政治家でも芸術家でも、成功している人すべてがそういう素晴らしい環境に恵まれているわけではない。みんな、イメージが壊れそうになりながらも必死に乗り越えて、波に乗ってきたわけである。

たとえば、オペラ歌手の世界でもそうらしい。オペラ歌手同士、激しいけなし合いをするんだそうだ。

お互い、けなし合って、ガーンとショッキングなことをいわれる。

オーケストラでも、「ヘタくそ。お前なんか早く退団しろ」なんて書いたメモが置いてあるんだという。それでシュンとした人は続かずに、本当に退団してしまうそうだ。

芸能界も同じ。足の引っ張り合いだとかけなし合いの中で、シュンとする人間は波か外れていく。

「何をいっていやがるんだ!」というと性格が悪くなるが、たとえ少々性格を悪くしてでもイメージは壊さない。波は逃さない。物事すべて、何かを大切にしようと思えば、何かを犠牲にしなければならないわけである。

ま、そういうことで、やはり生き残って運をつかんでいる人は、芸能人でもオペラ歌手でも政治家でも事業家でも、逆境を乗り越えてきて、イメージを壊さなかった。そういう人は、それだけ強い精神力の持ち主であり、波に上手に乗る人なのである。

このイメージ、想念さえちゃんとしておけば、自分が進んできた道を狂わせることはない。いわゆる試練というのは、そこが試されるわけである。それを乗り越えたら、いい方向、いい方向へと導かれていく。

以上が、第一番目の波に乗る方法である。

「波の三段活用」②他力で縁を結び、機を呼び波に乗る

第二番目の波に乗る方法は、他力の活用だ。

一番目のイメージ、想念というのはどちらかというと自力的だ。想念術だとか瞑想法だとかイメージトレーニングなんていうのもこれに近いが、どちらかというと自力の活用である。

それに対して二番目の他力の活用は、神様や仏様や守護霊などの他力が動いて、縁を結んでくれる。霊界で縁を結んでくれるわけだ。そして、その縁が結ばれることによっ機が熟してくる。縁が凝結して機が熟す。機が熟してきて、思いが凝結する。これが他力の活用である。

その他力であるところの神様だとか仏様だとか守護霊さんだとかが縁を結んでくれる。あるいはお互いが同じ産土の神だということで縁が結ばれる。

同じ御先祖様から出ている人だということで守護霊さんが縁を結んでくれる。あるいはまた、神仏によってひらめきが突発的に湧いてきたとか、いろいろなことがあるが、他力の神様や仏様や霊が縁を結び、機が熟して、チャンスが巡ってくる。そうして、ラッキーなことが起きてくるわけである。

たとえば、われわれ日本人はよく伊勢神宮に行くが、「伊勢の大神様!」と祈ればだいたい半年から一年で大きな導きがある。

これが産土様だったらお祈りした翌日から、三宝荒神だったらお祈りしてから五分で結果が現れるのに、伊勢の大神様はなぜ半年ないし一年もかかるのか。それは、伊勢の大神様は大神霊だから動くまでに時間がかかるわけである。だから、伊勢でお祈りした六カ月から一年後に変化がある。その分、大きく働いてくださるのである。

次の章でも詳しく説明するが、たとえばそれまで小売業だったのが問屋に転業したい、あるいは問屋だったのがメーカーに転業したいといった場合、伊勢の大神様にお願いすると、六カ月から一年かけて準備してくださる。

伊勢の大神様がそういう縁を結び、機運を運んで、新しい波を起こしてくれるわけだ。この他力の運用による波に乗っていけば、道は大きく開けてくる。

いずれにしても、他力の運用といった場合、神霊界から来る波を受けるのがポイントである。祈っていた内容に関するチャンスが巡ってきたなら、これはもう神様がおつくりくださったに違いないと感謝して積極的に乗っていく。

「神様、ありがとうございました。何卒、これがまた成就いたしますように」と祈りながらずーっとやっていくと、来た波をパッとつかみ取ることができる。

一番目の自分の想いで縁を結ぶ場合には、勇気を持って恐れないでやっていけばいいわけだが、他力によって来た波の場合には神様に祈りながらやっていく。

もちろん勇気を持って恐れないでやっていくことに変わりはないものの、神様にお願いしたことが返ってきたな、と実感した時には、祈りながらやっていったらうまくいく。要するに、他力がつくってくれた縁であり波であるから、他力と共に結実したらいいわけである。

「至誠天に通ずる祈り」をせよ

では、どうしたらこの他力が動くのかというと、「至誠天に通ずる祈り」、これがポイントである。これについては、あらゆる私の著書の中で一貫していっていることであって、神仏を動かすには誠しかない。

誠を貫けば、神仏がいつも加護してくれて、功徳もいっぱいくださるのだ。しかし、一口に誠といっても少しばかり抽象的である。頭の中で「誠だ、誠だ、誠が大事なんだ」と考えていても、それだけでは本当の誠とはいえない。また、「誠だ、誠だ、誠が「大事なんだ」とつぶやいていても、これまた本当の誠ではない。あるいは誠の旗印を立てって誠ではない。新撰組じゃないのだ。

では、天が受け取ってくれる誠とは何かというと、誠の実践である。心の中で「誠が「大事なんだ」と思っているだけでなく、誠を実践する、これしかない。

とにもかくにも、誠を実践することが他力を動かす一番のポイントなのだが、「実践実践誠を実践することが大事なんだ」と思っているだけでは、何か漠然としていてなかなか実践に移せないに違いない。

そこで、誠を実践する時の極意をお教えしよう。その極意とは「誠の五段活用」というものである。

この「誠の五段活用」について解説すると、

【誠の五段活用】
一、わざわざ
二、さっそく
三、何度も
四、手みやげ持参で
五、礼儀正しい言葉で

ということになる。

相手に何かおめでたいことや不幸なことがあったら、遠くからでもわざわざ行く。さっそく行く。何度も行く。そして手みやげ(菓子折り)持参で行く。それから麗しい丁寧な言葉で挨拶する。これが「誠の五段活用」である。

天に通ずる祈りとはどんな祈りかというと、単に念力が強いだけではダメ。念力だけでは天に通じないのだ。天に通ずる祈りには行ない、行動が伴わなければならないのである。

だから、わざわざ伊勢神宮まで行く。わざわざ熊野まで行く。これ、「誠の五段活用」の一番目である。

次に、さっそく行く。これが二番目である。

そして、何度も何度もお参りする。これは三番目。

それから、手みやげ持参で行く。これが四番目。

五番目は、恭しき真心のこもった言葉でご挨拶を申し上げる。

これだけの誠を尽くして初めて、「至誠天に通ずる祈り」になるのである。伊勢神宮までわざわざ行って、住吉大社までわざわざ行って、何度も何度も参拝する。そういう誠は神様がバーンと受けてくださって、そして縁を結び、機運をつくってくださるのである。

こうして他力による波が起きてきて、感謝の祈りで進めていくと、縁をものにすることができる。

「ありがとうございました。お伊勢さんにお願いしたこと、すべて聞いていただきました。本当にありがとうございました」と、祈りながら祈りながらその事柄を進めていくとものにできる。波を結実させることができるのである。

ところが、増長魔になったら波がなかなか得られない。他力が結んでくれた縁であるにもかかわらず、全部自分がやったんだと増長して神仏に感謝する心を忘れたら、波か外れてしまうのである。だから、いつも感謝の心を忘れない。すると、いつもいつも波を呼び込むことができるようになる。

これが他力の運用である。他力で縁を結び、機を呼び波に乗るということを具体的に説明すると、こういうことになるわけだが、最初にお話しした自力とこの他力の両方を活用したら、これは非常に強い。

前向き積極的な想念と謙虚な心。攻撃と防御。これをうまくやっていくと波が長続きする。しかし、増長魔になったら波が止まる。この点には十二分に注意したいものである。

「波の三段活用」③他人の援助で縁を結び、機を呼び波に乗る

以上、波の三段活用の第一、第二段階について説明したが、ここまでは結構知っている人も多くて、実際に活用している人も少なくないようだ。

ところが、これから説明する波の三段活用の三番目、すなわち「他人の援助で縁を結び、機を呼び波に乗る」となると、忘れている人が多い。特に、想念術とかイメージトレーニングなどをやっている人はこれを忘れやすい。

想念術をやっている人、あるいはまたナポレン・ヒルの成功術などを実践している人、こういう人はどうしても傲慢になりやすい。

想念術などをやればたしかに縁も来るのだが、傲慢になってくるから、人に敬遠されて結局、運を逃してしまうのである。

「そんなに自分の想念によってものごとが成就するというのなら、一人でやればいいじゃないか」

「そんなにわが想いが実現するというのだったら、勝手にやったらいいだろう」「そんなに一人でできるというのなら、どうぞご自由に」

そんな傲慢な人物には、誰だって協力しようという気持ちにならない。鼻持ちならないから、嫌らしいから、勝手にしろという気持ちになってしまう。

それは守護霊だって同じだ。

「そんなに自分一人の念で成就したというのなら、わしは守護するのはやめた」産土の神様も、

「あんたみたいに傲慢な人間は守ってやらん。インドの蛇か、どこかの稲荷にでも守ってもらえ。わしら日本の神社の神様は、素朴で素直な子が好きなんだ」

というはずだ。人間にしても神仏にしても、自力ばかりの人間、傲慢な人間を嫌うのが普通である。

だから、想念術をやっている人とかイメージトレーニングをしている人というのはみんな、ある一定のレベルでストップしてしまうのだ。傲慢で鼻持ちならなくて嫌な感じがするから、神仏や他人様の援助が得られない。

それで、あるところまでは開いていくものの、一定のレベルまで達したら、それ以上は頭打ちになってしまう。波が消えてしまって、二度と大きな波が来ないのである。

それから、一番目の自力と二番目の他力で止まってしまって、三番目を忘れている人

にはこういうタイプもいる。周囲の人たちに協力してもらって何かやり遂げることができたのに、

「ああ、神様ありがとう。神様のおかげでやり遂げることができました」と、神仏に感謝するばかり、協力してくれた人たちへの感謝をすっかり忘れてしまっている。こういう人も珍しくない。

そういう人は、お金を人から借りても、「ああ、神様ありがとう。神様のおかげです」と、神仏ばかりに心が向いていて、貸してくれた人へは感謝の一言もない。

「あのう、そのお金、ぼくが貸したんですけど・・・・・・」

「あっ、そうでしたっけ」

銀行がせっかく安い利子でお金を貸してくれても、

「ああ、三宝荒神様ありがとう。やっぱり三宝荒神様の力は偉大だなあ」

と、一人悦に入っている。まあ、銀行には血も涙もないといえば確かにそうかもしれないが、それでも銀行にも惻隠の情というものがある。そういう銀行さんの惻隠の情に対する感謝の心を忘れて、何でも神様のおかげだと思っている。たしかに神仏も働いてくれたろう。しかし、周囲の人たちも動いてくれたのである。

その人たちの真心に対する感謝の心、素直にありがとうといえる心、別な言葉でいえば礼節。

これを忘れてしまうと、自力と他力を信じてやっていたとしても、社会では大きく開かない。たいして伸びない。イメージ力といってもたいしたことないし、他力の援助といってもたいしたことないのである。

ところが、他人の援助で縁を結び、機を呼び波に乗るという三番目がわかっている人は、大きく開いていく。何かあったらちゃんと礼節を忘れずに挨拶に行くし、迷惑をかけた時にはすぐに「すみませんでした」と謝罪することができる。

だから、目上の人も大事にしてくれるし、友達も大事にしてくれる。

社会で大きく道が開いていくわけだ。この三番目だけでそれなりに成功を収めている人も、決して少なくない。それだけ人間社会における礼節というものは、人の運勢に大きく関わっているということなのである。