大本 出口なお・出口王仁三郎の生涯(Vol.3)

貧苦の連続

倒幕、王政復古をかかげる新政権は、はげしい内戦をへて日本全土のあらたな支配者となり”一新”となった。

当初は丹波全体にその影響はなかったが、それでも廃藩置県が断行され、綾部藩はやがて京都府何鹿郡に編入される。

また職業の自由がみとめられるにつれ、変革の波が村のすみずみまであらいだしたようである。

その波は近代化と資本主義化のための諸政策、徴兵制、義務教育制の採用などによってあきらかとなっていった。

こうした時期に大和盆地から天理教が勃興し、大阪方面へ進出をはじめていた。天理教は現世利益を中心として、圧迫をうける人たちの救済を志向していた。

この天理教が丹波の山間部に入りかけたのは明治二十年にはいってからである。

また、山陽ですでに成立していた金光教も同じころに丹波に顔をみせている。もう一つ、黒住教の方はすでに幕末に教線を綾部にむけていた。

さて、明治維新のこの変革は、綾部の城下町のはずれに住む政五郎、なお夫婦にどういう影響を与えたのであろうか。それは表面的にはなんの変化ももたらさず、ただきびしいなおの辛苦がつづくだけといってよかった。

明治元年(一八六八)七月二十三日、なおは三十二歳で三女ひさを生んだ。そして三十六歳となった明治五年の六月三十日に次男の清吉を生む。

この年になお夫婦は生活にゆきづまり、住みなれた坪の内の二階家を売り払わねばならなくなり、土蔵の二階に住むことになった。

それを機に、十六歳の長女のよねを北西町の忠兵衛方へ、十歳の次女ことを岡の段の桐村清兵衛のところへ子守奉公にだした。

清兵衛はなおのただ一人の兄である。清兵衛は紺屋町の実家から岡の段にうつり、桐村家を相続して漆屋を業としていた。

政五郎は、生来の気ままに加え、年とともに体力もおとろえていった。そんな夫をなおは必死に支え、世話にあけくれた。

時には普請現場へでかけ、壁下地作りや土あげ、瓦はこびなどの手伝いにも励んだ。こうしたなおのがんばりにもかかわらず、土蔵の二階住まいも半年で人手にわたさなくてはならなくなり、上町三十番地の借家に移転する。

なおはここで飲食の商いをはじめる。豆腐や、少女のころの奉公先で覚えた饅頭類をつくっては売った。柏の葉の出る季節には柏餅などもこしらえた。

一方、政五郎は大切な道具箱もなくし、わずかの道具を手ぬぐいに包んで、ぶら下げてでかけた。

時には褌の先に小石を包んでぶら下げて歩くので、子供らが面白がってそのまわりによってきた。彼は貧乏やなおの気苦労などどこ吹く風と、あいかわらず遊びあるく。

なおの苦難は夫の遊蕩と生活のひっぱくだけにとどまらず、身内の不始末という精神的苦痛も重なった。

明治八年(一八七五)十九歳になった長女のふかを、同じ綾部の農家に嫁がせたが、半年もたたぬ時、横恋慕した大槻鹿造というばくち打ちによねは略奪され、結局よねも鹿造になびいてしまった。

鹿造は北西町に住む顔役でこわがられる存在であった。なおはもちろん、政五郎もさすがにおだやかではなく、二人の結びつきを許すはずはなかった。

こうしたごたごたのなかで、なおの飲食業も期待したほどに売りあげがのびず、開店いらい四年ほどできりあげている。

ここで、結婚まもなく住んでいた新宮坪の内の、かろうじて売りのこしていた七、八坪の土地に小さな住まいを建てた。

明治九年(一八七六)のことであった。なおはここでも自作の饅頭をならべて売った。そしてこの小さな家で、のちに艮の金神の神霊がなおの肉体に降るのである。

なおが幼少のころから信仰心のあつい性質であることはすでにのべた。成人しても、そしてどこにあっても自分の住まいに神床を設けた。

なおは”天照皇大神、八幡大菩薩、春日大明神〟と併記した軸をかかげ、

「天照皇大神さま、日天さま、月天さま、天道さま、うれし権現さま、七社大明神さま、日本国中の神々さま、御眷族さま」と唱えて合掌していたという。

さらに仏や祖霊もまつり、それらに茶湯を献じた。そののこりは「餓鬼に進ぜましょう」といいながら溝にそそぎ無縁仏に供えたという。

やすらかにあの世へゆけない零落したみたまたちのことも、なおはすでに意識していたのであろう。

なおの四十一歳になった明治十年(一八七七)に三男の伝吉が出生した。十二年にはいると、十一歳のひさを政五郎の生家にあずけた。その翌年、なおの四十四歳の時に四女のかおらが生まれる。

同年、大槻造は二歳になったばかりの伝吉を「子供がないので養子にくれ」といってつれて帰り、そのまま大槻家に入籍した。

鹿造とよねの関係はもう公然のものとなっており、なおや政五郎が許すも許さないもすでに手のとどかないものになっていたようである。

鹿造は商いの才覚もあったようで、当時では珍しい牛肉屋をはじめて繁昌させている。

妻とおさまっているよねも髪結となり、これもあたった。かくて、皮肉なことに大槻家は経済状態がどんどん上昇し、出口家の暮らしは下を向いてころげ落ちていった。

次女のことは明治十四年に十九歳となり、亀岡在村の王子で旅館をいとなんでいた栗山儀助と結婚した。

長男の竹造は十五年(一八八二)、十八歳となり、政五郎の弟子であった吉蔵のもとへ大工の弟子入りした。

翌明治十六年(一八八三)二月三日。綿雪の飽くことなくふり積む日、四十七歳になったなおは末子のすみを生んだ。のちに二代教主と神定される人である。そのすみが生まれた日も政五郎は前日から興行中の野芝居見物にでかけて不在であった。

出口なおは計十一人の子を生み、そのうち三人は早く亡くしているので三男五女を苦しい生活のなかで育てたことになる。

そしてこの時点で家に残っていたのは、十歳の清吉とりょうとすみだけであった。

なおは、夫にたいし弁当をつくったり、あれこれの世話はするが、経済面であてにはしていなかった。

自分が稼いで子供たちを育てれば、とことあるごとに覚悟した。なおは赤児のすみを抱き、四歳のりょうを背にしながら、毎晩おそくまで約四升の米を粉にひいて饅頭をつくった。

それはあみがさ餅といった。後年、末子のすみは次のようにのべている。

「母のまわされる石臼のたえまなく動く音をどんなに心地よく聞いたことでしょう。不思議にもその時の記憶がかすかに虹のように美しくのこっています」

なおのつくったこのあみがさ餅を清吉が一個三厘ぐらいの値段で売り歩いた。その売りあげで米を買い、雑炊を煮、残りは饅頭の原料として粉にひくのである。

また、なおは下駄の鼻緒つくりにも励んで生計の足しにした。

さらに、生活費を得るために、夏になると、三人の子供をおい北桑田郡亀岡の方へ足をのばし、糸ひきの出稼ぎにもでている。糸ひきとは繭から糸を紡いだり、より合わせた麻糸や綿糸を糸車に巻きとる作業をいう。

この糸ひきには夏がくるたびにあちらこちらと若いころからでかけていた。なおは糸ひきが好きでもあり、非常に上手で良い糸をひいたといわれている。

しかし子供たちを家にのこして二十日、一ヵ月と長期にわたって出稼ぎにゆかねばならないなおの心中はいかばかりであっただろう。

ある時、繭を煮たてた鍋を、なおが珍しく取りそこねたことがあった。糸ひき仲間の一人がおもわず、

「おなおさん、どうしちゃったん」とおどろく。

「はい、子供のことを考えていると、気になって……..。わけのわからんようなことになって……」と謝ったという。

また、二ヵ月糸ひきしてもらった賃金をすっかり盗まれてしまったこともあった。なおはその時、留守家族のことを思うと、とても手ぶらでは帰られず、ある農家に頼みこんで田の草取りをしてわずかの労質を得、やっと帰ったという。

明治十八年(一八八五)。十三歳になった清吉は、紙漉業をしていた寅という人のもとで見習職人となった。

その年のある朝のことである。政五郎が大工道具をもって仕事にでかけようとするところをなおが声をかけた。

「今日はなんじゃ知らんが胸騒ぎしてかなわんさかい、かくべつ気をつけなされや」

そのなおの胸騒ぎが現実となり、政五郎は仕事先で高いから落ちて坐骨をうった。

その負傷は長年の飲酒の影響もあって中風を誘発し、床にふさねばならなくなった。なおの身に夫の看病というあらたな仕事がふえたわけである。

なおは手がまわらなくなったので、六年前に政五郎の生家にあずけてあったかさを呼びよせた。ひさは十七歳になっていた。

なおの身の上にさらに不幸が重なる。大工見習いにいっていた長男の竹造が、大工はいやだといって、ノミでのどを突いて自殺をくわだてたのである。その知らせを聞いて、なおはすぐかけつけた。竹造の一命はとりとめることができ、戸板にのせて連れ帰った。

重傷の竹造は、父とまくらをならべて床にふせる。しかし竹造の傷は案外早く治り、なんとか動けるようになると、さっさと京都方面に出奔、そのまま行方不明となった。

そんな不幸つづきのなかにあっても政五郎は、「身体の不自由はかなわんけど、ちっとも心は病めんので、わしは歌でもうたいたいような気分「や」といって得意の狂歌や冗談を連発していた。

なおは、足腰のたたない病気の夫と幼い子供たちを抱え、一家の生活を支えねばならなかった。長い間つづけてきた饅頭売りも政五郎の治療代をまかない切れず、やめてしまう。

それは今まで売り歩いてくれていた清吉が紙漉の見習いにいってしまったことも大きくひびいたであろう。

糸ひきの仕事は夏場しかなかった。もう若くはないなおに、他に適当なはたらき口はない。ことに時代は不況のまっただなかで、当時の綾部近辺でよい仕事のあるはずはなかった。

いよいよ困りはてたなおは紙屑買いをはじめる。それは資金のいらぬわりに利のいい仕事であったが、大へんな重労働であった。

なおは紙屑買いに、綾部の近村からふるさとの福知山、そして遠く宮津あたりまでも足を運んだ。なおは朝早くから起きて、まず天照皇大神を念じ、ひさやかおやすみに対しては、

「家のまわりに草を生やさぬようそうじをしておいて下されよ。他人(ひと)さまの物はワラ一本でも手をかけてはなりませぬぞ」と毎日同じことを繰り返し、やさしい笑顔をみせてでかけた。

三里、五里とはなれたところまで商いにでかけることは珍しくなく、家へもどるのは大抵夜の八時をすぎていた。

すみとりょうは父親の看病をしたり、また友達と遊んだりしていたが、夕方になると友達もいなくなる。母はなかなか帰ってこない。他の家は戸を閉めてしまい、あたりは暗くなる。毎日心細くただ母の帰るのを待ちわびるのであった。

「あのころの淋しさはいまだに忘れません」と、すみはのちに語る。いまか、いまかと母を待ち、たまりかねて外へでてじっと遠くをみる。

自然と足は一歩二歩と前へすすむ。そうするうちかすかにわらじ履きの足音がシトシトと近づいてくる。りょうとすみはその方向へとんでゆき、「お母さん帰って来なはった」と言う。なおはやさしい声で、

「はい」と応え、笑みをうかべる。そして二人の手をきつく握っていっしょに帰った。

「早帰ってやろうと思うても、おもうように足が運ばぬのでな」と、家までの途中言いわけをすることもあった。

家に着くと、紙屑は紙屑、古つぎは古つぎ、毛屑は毛屑と、それぞれに選りわけて問屋へ運びお金にかえる。

明日の元手を残し、あまったお金でわずかな米を買って帰る。その米でやっと晩の草がゆが炊けることもしばしばであった。

その草がゆさえもなおは腹一杯食べたことはなかった。昼の弁当にと作ったおむすびも、朝の出がけには、「これ食べなよ」と、りょうやすみのために置いてゆくことが多かった。

遠い宮津まで紙屑買いに行った帰りに、大江山の普甲峠で、大雪のため命も危うい目に会ったことがあった。重い荷物を背負って足は前に進まず、空腹と疲労と寒さがつのって気を失いそうになったが、降り積む雪のなかで、家に待つ病身の夫と幼い子供を思い、気をとりもどして命からがら峠を越えて家路についた。幸いにも通りかかった親切な人たちの助けがあったからであった。

すみたちは、「母さんは、どうしちゃったんやろう」と、夜更けの床の中で互いに抱き合い、寒さも忘れて足音を待っている。

そこへ疲れ切ったなおがやっと帰ってくる。ぐったりして無意識に髪の上や肩の雪を払い戸口に立つ母をみて、ふせていたすみたちはガバッとはねおき、我さきにとなおの胸にとびこんでいった。

夫・政五郎の死

政五郎は床についたはじめのころは、酒を買えとか梨をむけとか、あいかわらずわがままにふるまっていた。そんな夫にたいし、なおは従順にしたがった。

その上、「欲しいもんがあったら、なんでも言うて下されや」と言って、けんめいに看病につとめた。

政五郎はさすがに数年ものながい間、なおのはたらきぶりや苦闘のきびしさをいや応なしにみせつけられ、しだいにおとなしくなっていった。そしてすこしずつ反省のこころもわく。やがてなおの愛情が身にしみてきた。ついに、

「わしは今まで気随気ままばかりしておったのに……。お前のような親切な女房はもったいないのう」と涙するようになった。

政五郎は、なおの紙屑買いにでかける時、中風で思うようにうごかぬ手をふるわせながら、床のなかからその後ろ姿に手を合わせた。

こんなこともあった。政五郎の看病のために八木から帰っていたひさが母の苦労をみかねてつぶやいた。

「父さんも、いつまでもあんな風に寝ているよりは、いっそ死んじゃった方が良かろうに」それを聞きとがめたなおは、

「なにを言うてや。あんたらのお父さんと呼べる人は、天にも地にも、金のわらじで探しても、このお父さんの外にはないのじゃ。病気は看護が第一、看護が悪となおる病もなおりませぬ。あんたはお世話にあいたか知らんが、わたしはまだまだお世話がし足りないと思っています。後で悔やむことのないように、一生懸命お世話をさせてもらいましょ」と、いつになくきびしい口調でさとした。

明治二十年(一八八七)の二月末に、政五郎の病状は悪化した。彼は自分で死期をさとったのか、「おなおや、永世話してくれたが、もう死のうやもしれんで……。この世のなごりにもう一杯お酒が飲みたいがなあ」と、力ない声で言った。

その日は、あいにくなおの手もとに一文もなかった。金になりそうな品物といえばただ一つ、商売道具のしかなかった。

なおは秤をもって質屋に行き、三銭貸してほしい、とたのんだが、質屋はこんなもの質草にならない、とつっかえした。

しかたなくその秤を手にして思案にくれながらとぼとぼと家にむかう。

その途中、紙屑買い仲間の梅原おきの家に寄って事情を話し、秤をかたに酒代を貸してもらえまいかと頭を下げた。おきは秤はうけとらず、二銭だけ貸してくれた。この銭で酒を買って家にもどった。

夫はよろこんだ。なおの注いだ酒を身をもたげて飲みほし、フーッと息をついた。

「ああ、うまい。これで思いのこすことはない」と、ふたたび身をふせた。

それから幾日もたたない三月一日(旧二月七日)に政五郎は死んだ。六十歳であった。

葬式は近所の組内から費用をだしてもらってすませたが、なんとも淋しい葬式であったという。このあまりにわびしい葬式の模様をのちのちまですみは語った。

政五郎の死によってなおの三十二年間の夫婦生活はおわる。なお五十一歳であった。

ここで政五郎についていささか述べておきたい。それは、なおの忍苦と貧乏の原因者として、なおを引き立てるためにか、これまでの開祖伝でも、終始悪役に仕立てられる。本書においても、自然にこれまでの叙述はそうなった。しかし、別の見方もできる。

彼は大工として名人であった。大工仲間も羨み、嫉妬するほどの立派な普請を三百軒も建てている。だいたい一技一芸に秀でた天才は、世俗的な問題にうといのが通例である。

彼は普請の請負をしても大抵は損をした。弟子をおいたら年季を了えたあと、一年くらいは礼奉公をさせるのがそのころの習わしであったが、彼は年季がすむと直ぐに解放した。

そういうやり方では貧乏するのは当然であるが、それは、しかし、立派なことである。カネと名声にしか生きる価値をしらない現代社会のなかで、無欲恬淡にして飄々たる名工政五郎の生きざまは、一つの清涼剤である。

彼は酒は好きであったが、ふるまい酒は逃げるようにした。棟上げ祝いにでる酒も、銚子一本よばれたら、あとは行きつけの虎の屋へ行って自分の勘定で飲んだ。

先にちょっとふれたが、彼は狂歌や駄じゃれが得意であった。

紅殻の稲荷のような家建てて鈴はなけれど内はがらがら

酒呑めばいつも心が春めきて借金とりも鶯の声

隣には餅つく音の聞こゆれど吾は青息つくばかりなり

これを読んで青息も吐息も聞こえて来ない。このように徹底した楽天主義は、末子のすみ(二代教主)の血の中に受けつがれたようである。

第二次大本事件で六年七ヵ月未決監で過ごしたすみは、いつも「ありがたい、結構」といい、ただの一度も暗い顔を見せなかった。

窓の外の雀と話したり、膝に上がってくるボッカブリ(ゴキブリ)と遊んだり、そしてその間に童謡のような美しい歌や詩をいくつも作った。これは政五郎ゆずりの魂ではなかろうか。

欠点と思われていることが、角度を変えると長所であることが往々にしてある。政五郎の性格は、もっと積極的に評価されてもよいであろう。

政五郎の亡くなった明治二十年、父の看護のため一度もどっていた三女のひさが、八木の方面へ奉公にでた。

なおは、あい変わらず紙屑買いをつづけねばならない。朝早くおきて髪をぐるぐる巻に結い、冬第でも縞の単衣を着て紙巻草履をはき、二十文とふろしきを手にし、りょうとすみを家においてでかけた。十文が一銭であるから二十文は二銭。米一升四銭のころだから、二銭の元手でどれほどの利益になるものか想像がつく。そんな生活がなん年もつづいた。

すみは今でいえば小学校にあがる年齢になっていた。夕食のころになるといつも母を迎えるため外へでた。初夏の螢のとぶころには、

螢来いぶんぶくしょう
柳のすあいでぶんぶくしょう

と、うたいながら小川の土手に登る。

川の面にとんでいる螢をみつけると、すみは川の中まではいり、夢中になって螢を追った。

バチャバチャと川の中を歩き回っていても、なおの帰ってくる足音は聞きのがさない。

母の足音を聞くと螢のことも忘れて川の中からとびだし、なおの姿をもとめて走ってゆく。後年、大本事件による六年余の独房のなかでも、その時の夕暮れの螢のとび交ううつくしい光景と母の足音を、なんども思い浮かべてなつかしんだ。そしてこんな詩をつくっている。

故里なつかし幼な時
母はその日の生計に
朝まは早く夜はおそく
姉と二人が家の番
昼はたわむれ遊べども
晩げになればさむしなる
母を迎いに二人づれ
川糸の細道した川の
螢来い、ぶんぶくしょう
岸根にとまる螢虫
お尻まくって螢とる
しとしと聞ゆる足の音
母と見るより跳び上がる
母はにっこと笑みたまい
わが手を引いて帰らるる
うちに帰ればくらがりの
カチカチカチと火打石
とぼす行燈もほそぼそと
神にささぐる油なし
メイタに火を点けて献げられた

メイタとはつけ木のことで、スギやヒノキの薄板の一端に硫黄を塗りつけ、その火を他のものにうつす木片である。なおは火のついたメイタを手に高くかかげ、毎晩、神に火をささげていたという。

くらし向きはいっこうに好転しなかったが、それでもなおは、心の余裕を決して失うことはなかった。貧乏くずれといったものはいっさいみせず、木綿の粗末な着物でもつねに折り目正しく清潔であった。髪などもいつみてもキチンと結われていた。そのようななおを見て、

「おなおさんが糊つけを着ているのは、他の人が絹物を着ているより立派に見える」と町の内儀さんたちが話しあっていたという。

「そのことは、私の童心にはっきりおぼえておりまして、それを私はひそかな誇りとして、母を慕ってきたのであります」と二代すみはのちに語っている。

大本の開教

政五郎の死後もおさない子供を抱えながらの窮乏はつづく。しかし、なおはくじけなかった。驚くべき強じんな精神力と体力であった。

しかもその生活ぶりはひそやかで信仰的であった。道端で落穂を見つけると、なおは必ず拾って帰った。天地のおめぐみで実ったものを踏みつけてしまってはもったいない、お水のご恩はお返しすることができない、せめて大晦日には何なりと夜なべをしてお水のご恩報じをしたいと、縫い物の手を休めないなおであった。

このような清純な信仰心は、生まれながらに備わったものであるが、それがますます磨かれてゆく。

そして、明治二十五年、旧正月をむかえるのである。

綾部の本宮新宮坪の内の家で、なおは毎晩つづけて神夢をみた。日ならずして節分の日に帰神〟があり、大本開教となる。この間の事情はこの章の冒頭でのべているのでここでは重複を避ける。

さて、大本開祖、出口なおは夜となく昼となく、大きな太い声で、神の言葉を叫びつづける。

めいじなる二十五年のはつ春に神のうぶ声いまもわすれじ

と、すみは後年に詠んだ。

さらに、「ご開祖の神がかりをみられたことのない人には想像できませんが、ふだんはやさしいものしずかな教祖さまが、神がかりの時には腹の底から凛とした、誰しも聞けば身の緊まるような、輝くような力強いお声がほとばしりでたのであります」とも語っている。

なおのこうしたはげしい神がかりは、たちまちせまい村の評判となった。

近隣の人々が、「おなおさんもとうとう気がおかしくなったか」と心配した。もともと慎みぶかい人柄であっただけに、そのようにうわさされることを、なおは苦痛におもう。

しかし止めようとしても口をついてでる声をおしとどめるすべがなかった。

その声は、「世界の人民、はやく改心いたされよ。足もとから鳥がたつぞよ」「日本と唐との戦があるぞよ」と、ぶっそうなこともいいだす。

二月に法華の僧侶がやってきて、なおに憑霊退散の祈祷をほどこした。ところが逆に「もちっと修行してこい」とどなられ、なおに突き倒されたという。

なおは帰神から解放されると、こんなことではいけない、と恥ずかしく思う。

ある日、何鹿郡吉美村にそろばん占いがいるのを思いだして訪ねてみた。自分にどういう神がかかっているのか知りたかったのである。そのそろばん師は、

「おなおさん、エライこっちゃで。まあ、どえらい神さんじゃ」と鑑定した。そして「わしが封じてやろう」と力を入れたが、いっこう封じることができなかった。

三月十日には、じゅず占いを訪ねた。山家村の本経寺の僧侶で、つきもの封じで有名であった。ところが、ここでも神がかりがあり「コラ、坊主。修行の仕直しをいたせ」とよせつけなかった。

なお、こうした体験をへながら、しだいに腹をくくるようになった。夜昼なく神と問答をくり返すうち、自分にかかってきた神を信用するようになり、やがてその艮の金神に仕えよう、その神とともに生きようとの決意が固まる。

そう決意してからは帰神がおだやかになった。昼間は行商も可能の状態となってきた。そこで、次男の清吉が見習いをしていた紙漉き場に紙屑を運び、代わりに漉き直された紙をもらい、それを持って紙屑買いをつづけた。

ところが明治二十五年の十二月に清吉は近衛兵に選ばれ、東京の近衛師団に入隊することとなる。

そのため、なおの生活はますます苦しくなる。なおは、四女のりょうを近所の四方源之助の家へ奉公にださざるを得なくなった。

そしてすみにも、「おすみや、いまお母さんは神さまのご用があるので、苦労をかけてかわいそうなけど、いっと八木のお姉さんのところへ行っていておくれいな」とやさしい声で言った。

八木の姉とはひさのことである。八木に奉公にでていたひさは二十二年に同地の律義な人力車章夫、福島寅之助と結ばれ、八木に住んでいたのである。

さて、すみは「はい」とこたえたが、胸第のうちは母と離れてくらす悲しみでいっぱいであった。

すみの旅立つ前の晩、なおは乏しいたくわえのなかから、いくらかの小豆を買い、小豆ご飯を炊いた。そしていわしの干物を焼いて膳の上にのせ「尾頭つきやでな」と笑いかけたという。

翌朝、すみは案内役の豊助というお爺さんに手をひかれ、芝居の阿波の巡礼のお鶴のように杖をついて家をでた。

すみののこした手記によると、秋から冬にうつるころであったらしい。九歳の時であった。

「私が後をふりかえると、教祖さまはいつまでも、じっと私を見ていて下さいました。そうして町はずれのところまでくるともう私が見えなくなるので、着物のたもとを顔にあてて泣いておられたようでした。

後をふり向きふり向き私は教祖さまの泣かれているお姿を見ながら、爺さんの手にひかれてゆくのでした」

なおは一人暮らしとなり、身軽といえば身軽となった。しかしかかってくる神はなおにさまざまなことを命じ、じっとしているわけにはゆかなかった。なおの苦業は、帰神前のそれとはちがった意味で、これからはじまろうとしていた。

神命の一つに深夜の水行があった。どんな寒中であろうとなおは神のいうとおりに凍るような井戸水をあびた。

なおは率先してその行をするようになった。神のいうように七杯の水をあび、八杯目をこころみようとした時、「もうよい」と神の言葉がある。

そんな時はそのままツルベの水を頭からかけても水はみなはね散り、身体には一滴もかからない。

ある目撃者によると、開祖の水行の折、水をかけられるたびに、神前では大へんな勢いで、火がパッパッと燃え上がったという。開祖なおはその現象を、

「あれは神界で松明を焚いて、私の水行しているのを、ご守護して下さっているのや。それで水行といってもすこしも寒くありません」と説明したということである。筆先を書く前、なおはかならず水行をした。

水行のようにひんぱんではないが、神は、「なおよ舞いを舞ってくれ」ともうながしている。

少女のころ神社の能舞台で演じられた能楽に心ひかれて観賞していたが、稽古のできる境遇でなかったなおは、

「私のような稽古ひとつしたことのない者に、どうして舞いなど舞えましょう。それに昼日中から舞っているのを人に見られたら、気が狂ったといわれます」とことわった。

しかし神は、「それでは私が舞って見せるから、私について舞うがよい」と言う。

なおは座敷の障子を閉め、幻のように浮かぶ神の舞い姿を追い、やっと一さし舞い納めた。なおはそのあと「なぜこのようなことを」と問うと、

「ここ(大本)では、先になると、このように仕舞や能楽が盛んになる時期がくる。それで今、そなたにその型をしてもらったのだ」と、神は答えたという。

大本と仕舞はこの時すでに神縁があったのである。現在、大本の神殿のいくつかに能舞台が設けられ、笛、大鼓、太鼓、小鼓のひびきが絶えないのも故あることといえる。

あけて明治二十六年(一八九三)にはいる。

その一月から綾部ではたびたび原因不明の火事があった。なに者かの放火らしいという。四月十九日の夜も千田町の材木商の森という家が火事にみまわれた。

この日の前後にもなおは帰神し、「よき目ざましもあるぞよ。また悪しき目ざましもあるから、世界のことをみて改心いたされよ。いまのうちに改心いたさねば、どこにとび火いたそうも知れんぞよ」と大声で叫んでいた。

これを耳にした近所の人が「火事はおなおさんの放火ではなかろうか」と警察へ密告した。

翌々二十一日、なおは刑事と巡査に連行され、留置場に入れられた。その留置場はできたばかりで真新しく、

「これは結構や」と、なおはかえってごきげんであったという。しかし夜中になると帰神がおこり荒立った。神はひそかに酒をのんでいる監視の巡査を見通し、

「人民の番人が茶碗酒のみくろうていて番人の役が勤まると思うか。… 税金がおくれたというて罰金を取り立て、それで酒を飲んでうまいのか。この世は上に立つ者ほど乱れておるぞよ」と、耳のいたい言葉をあびせた。

ところが翌日の夕方、放火犯が判明して、なおは放免された。監視の巡査もほっとしたことであろう。

しかし、よねの夫の大槻鹿造は、なおさんは気が狂っているんだからもっと入れておいてくれ、とつよく願った。警察としてはそうもいかない。

それではと警察は組内に命じ、村内に別の座敷牢をつくらせた。

そしてその座敷牢に、なおはむりやり押しこめられてしまう。いやだというなおに、鹿造は四、五日でいいから入ってくれ、とやっと納得させたのである。

食事は、鹿造とよね夫婦の養子となった三男の伝吉が、日に一回だけ運んできたが、その量はほんのわずかで中味は実にわびしかった。あまりの空腹にさすがのなおもたえかねていたとき、神は「にぎりこぶしを口に当てよ、力が出る」と教えた。なおはそのとおりにすると、ふしぎに、また耐えることができた。

四方源之助のところで奉公していた四女のりょうがこっそりと母をおとずれ、握り飯やいり豆をとどけたこともあった。

それはなおにとって空腹をしのぐに足るものでなかったが、なにより子供たちの心づかいがうれしく、心あたたまるひとときであった。

しかし、鹿造は約束の五日がきても、十日間がすぎても牢から出してくれない。その辛さは、肉体的のみならず、精神的にも重くのしかかっていった。

少女のころからなおは廉恥心がつよかった。気がくるったとして座敷牢に入れられるなど、これ以上ないはずかしめである。

なおの全身を今まで味わったことのないさびしさ悲しさが覆った。

そして、こんなことでは出口家の名を汚し、先祖に申しわけがないという気持ちが湧いてき第た。死んでおわびをしようと自害を決意したのである。そのとき、いつもの威厳のある声がなおの口を通じてでてきた。

「罪障のあるだけのことは、あってしまわれば、死んでも同じこと、霊魂はなおさら苦しむぞよ。いまでは地獄の釜のこげおこし、耐らんと良い花さかぬ梅の花、この経綸成就いたしたら、夫の名も出る、先祖の名も出る・・・・・・」

神の説得はなおの決心をくつがえした。なおは命を絶つのを思いとどまる。それではと、神に談判した。大声で叫ばれてこういう目にあったのだからこれからはやめてほしい、とうったえたのである。すると、

「それでは筆を持て」と神は命じた。

なおが「文字を書くことなどしらない……」とためらうや、

「そなたが書くのではない。神が書かすのであるから、うたがわずに筆をとれ」と神の声が重なった。

筆など牢のなかにあるはずはなく、手近にあった古釘をふと手にした。すると、その手が勝手に動いて、牢の柱に文字のようなものが刻まれていった。こうして神の言葉がお筆先として文字で記されるようになる。なおはこの時、切実に牢から出たいと思った。

そんな折、わずかな食事を運んできた鹿造は彼女にこうもちかけた。

「家を売るのを承知するなら牢から出してやろう」

なおは不承不承ながらうなずいた。なんとしてもそこから早くでたかったのである。

入してから四十日が経っていた。なおは五月三十日(旧四月十五日)に青空を仰いだ。

しかしなおにはすでに身をおく家がなかった。鹿造は、家ばかりではなく、彼女の鍋釜まできれいさっぱりと売り払ってしまっていた。

残ったのはなおが毎晩、四升の米の粉をひいた石臼と三つ重ねの盃だけであった。この石臼ものちに起こる大本事件で失われてしまう。

無一物になったなおは八木にむかった。末っ子のすみが半年前に子守り奉公にいった福島寅之助、ひさ夫婦をたよるためであった。

福島家に近い川で、なおは足を洗っているすみを見た。なおとすみはぶつかって抱き合う。すみの手記によればこの時「かしこかった、かしこかった」とすみの手をきゅっと胸のところで抱しめたそうである。

なおは福島家で、衰弱した体力の回復をはかりながら、すみとともにすごした。人力車夫である福島の家は、表の車置場が帳場となっていて、奥は八畳、六畳の二間がつづいていた。

明治二十六年の旧正月に入ると、また帰神状態となって、「来年の春から唐と日本の戦いがあるぞよ」と日清戦争などの予言をした。

三ヶ月あまり八木に滞在した間に、故障している時計をうごかしたり、頼まれて天気予報的な予言を時々おこなった。もちろんすべて的中するが、そういう類のふしぎはなおの幼少のころからのもので、なにも珍しいことではなかった。

体力が元にもどったなおは、ちょうど時期であった糸ひきの仕事をし、その収入で衣類をととのえ、すみを連れて綾部へ帰った。九月十三日のことである。

綾部では大槻廃造の家に泊まった。なおは鹿造をきらったが、他に行くあてがなかった。そして十歳になったすみを亀岡の王子へふたたび奉公にださればならない。次女のごとの婚家先である。

なおはすみとの別れ際にやさしい声で、こう言った。

「おすみや、お前に行をしてもらわんならんでな。つらいやろうが辛抱しておくれ」

すみは王子にあって苦業の連続であったが、そのたびになおのこの言葉が心にきこえてきた。

すみはそのたびに同じく心のなかで「ハイ」と返事し、つらい仕打ちに耐えたという。

一方、なおもふたたび紙屑買いをはじめねばならなかった。