大本 出口なお・出口王仁三郎の生涯(Vol.6)

再会

喜三郎は、園部に腰をおちつけ”霊学会”の名をかかげて布教活動を展開した。亀岡より、むしろ園部の方がやりやすい面もあった。

霊斎によって、不思議な現象が起こる。瀕死の病人が沢山癒る。難問題が解決する。

彼はまた近隣の雑多なインチキ霊がかりを、片っぱしから見やぶって歩いた。それは、当たるを幸いといった勢いであった。

かくて、喜三郎の”霊学会”は、急速な発展をみせ、園部町の有力者で彼に力をかそうとする者も次々と現われる。

こうしたなかにあって、彼は綾部の動向を気にしていた。というより、霊眼で逐一察知していた。

そして、自分はあの出口なおと共に救世の神業を遂行すべき運命にあることも心の奥ふかく覚悟しはじめていた。

あけて明治三十二年(一八九九)二月十日。喜三郎は、園部の西田宅から、なおあてに、はじめて手紙をおくった。

その文面には神の国を建設する時期の迫ったこと、もはや罪に汚れた人々の言葉にためらわずに決起してほしいこと、自分と二人が力を合わせて事をなすべきであることなどが、したためられていた。

そのころ綾部では、開祖なおと足立ら金光教側との対立が、いよいよつよまっていた。また、開祖の人柄と神徳にひきつけられてきた人たちも”筆先”が理解できず、開祖自身も、それを解明する力がまだないだけに焦燥が重なっている時でもあった。

信者たちは、艮の金神と金光教の神を同時に拝むといった変則的な形態をとっていた。そこには、開祖の神がいうように大本独自の道を主張しようにも無許可の集会を禁止するとの達しが警察からあるなどで、なにかとままならないものがあった。

さて、さきほどの喜三郎の手紙にたいして開祖は、こんな筆先を彼におくっている。

「艮の金神の筆先であるぞよ。出口なおにかかすぞよ。明治三十二年の四月十二日の筆先であるぞよ。

世界には、おいおいと大もうがはじまるぞよ。この大もうあるゆえに出口なおに明治二十五年から言わしてあるぞよ。

この大もうがあるのに、まだ金光殿の取り次ぎがいまに長の金神を敵対うておりては世がひらけぬから人民の知らぬことであるよって、なおが苦しみておるから、よろしくたのむぞよ」

旧五月にはいると「一日も早くこの神を表へ出せ」との筆先がまたもでる。開祖は足立正信を呼び「昨年まいりた上田という人と心をあわせて(神を)表へ出して下され」と相談したが、足立は耳をかさない。

そこで、開祖は四方平蔵に筆先を見せて、上田を迎えに行くよう依頼した。

田の植え付けも終わり一段落ついた四方平蔵は、七月一日、園部へ向かう。

八里を歩いて、やっと園部にたどりついた平蔵は、園部川で魚とりをしていた喜三郎をみつけ、声をかけた。

あとで宿屋で会うことを約しておいて、喜三郎は、魚とりの手を休めない。サと木の中へ手を入れて泳いでいるのをつかみ上げる。喜三郎の特技の一つである。

さて、宿屋で平蔵からなおの依頼を伝えられ、喜三郎は腹を決めた。いよいよ綾部へ行くとなれば祖母や母にも告げておかねばならぬ。

その夜の中に往復九里近くの道を穴太へ行って帰ったが、平蔵は知らなかった。

穴太で産土小幡神社に参拝すると、神の声が聞こえた。

「綾部へ行って、今後十年の間はことに苦労が多い。蜂の室屋で、針の定に座らされるようなものである。かわいそうであるが、神界のため、ぜひ勤め上げてくれよ」

喜三郎は、平蔵とともにその夕刻に園部をたって、夜は檜山の旅館で一泊。翌三日の朝、綾部へ出発の前に喜三郎は、平蔵に突如こんなことを言った。

「あんたの家の裏に、きれいな水が湧いている溜池がありますなあ。その池の辺りは枝振りのおもしろい小さな松の木があって、すこし右前の方の街道に沿って小屋のようなものが見える。

そこは、駄菓子の店があって六十ぐらいのお婆さんが店番しているようじゃ」

それは、他ならぬ綾部鷹栖村の四方平蔵の家の様子であった。平蔵がおどろいて、「あなたはやはり、稲荷さんを使われるんじゃありませんか。開祖さまは、稲荷さんは大嫌いでありますから……・・」と心配する。喜三郎はそこで、「これは決して稲荷ではない、あんたにも見せてあげよう」と言って、平蔵を正座させて両手を組ませ目をとじさせた。

そこで「それ見なさい」と言うと、ふしぎや平蔵の目にはっきり映じてくる。一軒の古い藁屋があって、すぐ近くにさらに小さい家ときれいな湧き水のある池が見える。

かやの木や椋の木があって、かなり大きい。道のそばには細いきれいな小川が流れている ……。と平蔵は見えた通り告げた。喜三郎は、

「今のは穴太の私の家です」と答え、これは稲荷使いなどではなく、天眼通という霊学の一部だと説明した。

平蔵は感心してしまう。喜三郎は、自ら天眼通を発揮するだけでなく、この場合のように他人にもその力を入電できるのである。

さて、すっかり感心した平蔵は、よろこび勇んで綾部へ向かう。綾部についたのは、午後の三時をまわっていた。

そして開祖と喜三郎は、約九ヶ月ぶりに再会する。明治三十二年(一八九九)七月三日、時に開祖六十二歳、上田喜三郎は、二十七歳であった。

開祖はこの時、彼の眼をじっとみて、「分かっているでしょう」と言う。喜三郎は「分かっています」と答えた。

そして、この日が聖師の大本入りの日とされる。

さっそく、喜三郎にたいしての筆先がでる。

「…………そなたが綾部へまいりたのは、神の仕組みがいたしてあること……………」

また、開祖にたいしては、「なおのまことの力になるお方であるぞよ。なおよ、安心いたされよ」

さらに四方平蔵にも神のお誉めの言葉が下る。

「大もうなお世話して下されまことに結構でありたぞよ。万古末代名ののこるおん世話であるぞよ。このこと成就したらおん礼申すぞよ… 平蔵どのおんてがら」

上田喜三郎は組織づくりに着手した。まず、教会の名称は良の金神の”金”と日の大神と月の大神の日月に因んだ”明”を合わせ”金明会”とした。そして、なおを教主とし、上田を会長と呼ぶことになった。

本宮東四辻の金光教会側は、開祖が裏町へ移って以来、徐々にさびれていった。そこへ上田の登場があり、ますます衰退してゆく。

なおは、そんな足立正信にたいし、小遣銭や米を送っていた。上田も足立の境遇をおもい彼を金明会の幹部に迎えた。その人事に反対する役員がほとんどであったが、

「それでは、私は足立に対し、すまない」と上田は述べ、さらに、それがだめならここを去る、とまで言い張った。

役員は、そこまでい上田会長の気持ちをくんで、足立を金明会の副会長として迎え入れる。足立は、開祖や会長の温情を感謝し、よろこんで本宮東四辻の金光教会をひきはらって転向する。

七月五日、金明会は裏町の二階からすぐ近くの中村竹蔵の家を借りて移る。その七月九日には次のような神示がでた。

「上田殿、ごくろうであれど、金明会のはじまりであるから、力を入れて下されよ。上田殿に申してあること違わぬぞよ。 …… 金明会が開けるぞよ。綾部を元といたして三千世界を一つにいたして、神国にいたすのであるから、上田殿チト骨がおれるが心配いたさいでもよいぞよ。神が力をつけてやるからぬしがでに開けるぞよ」

また、二十三日の筆先では「稲荷でもかまわぬぞよ」と示された。この稲荷とは稲荷講社のことで、開祖自身はその下になることを好まなかったのであるが、神は、大もうがあるのに小さいことをいっては物ごとが遅くなる、それに神は一つであると、その理由を説く。

こうして、上田会長の存在がいよいよ重みを加え、園部で開いていた霊学会も、無視できないので、金明会はほどなく”金明霊学会”と名をかえた。そして八月一日に稲荷講社の許可をえて、金明霊学会は公認結社たる稲荷講社の分会という形をとり、宗教活動の合法化をはかった。静岡の稲荷講社からは、会長の手紙に対し、すでに「堂々開設あれ」との返事がきていたのである。

組織づくりが終わり、各地に支部、会合所を設置して、すでに府下に二百人あまりの信徒ができていた。合法化のため、信者もあつまりやすくなった。

教会では、日を決めての祭典、日々の参拝、お筆先の勉強、上田会長の指導による教義の学習が行われたが、特に幽斎修行に熱心な者が増え、そのために少し離れた上谷の信者の家を会場にして、幽斎行場を開いた。

そこでは様々な神がかりの現象が起こり、霊魂の存在が明らかに実証されたが、ややもすると興味本位になったり、悪霊のおもちゃにされることもあって、あまり霊学にこってはならぬとの戒めが筆先に出、次第に鎮静した。

さて、綾部の周辺では「本宮の神さんは、よく効く」との評判がたった。

というのは、駕籠で運ばれてきた足の立たぬ十五、六歳の少年が上田会長の一言で、その場で歩きだしたり、十数年も胃腸の不調を訴える人に会長が祈願し「悪神去れ」というや、その胃腸の痛みがぬぐうように治ってしまうというような奇跡が日常的であったからである。

こうして入信をした人々は、やが筆先の拝読や謹写を通じ、また、会長の教えを聴くことによっておいおいまともな信仰へと高められてゆく。

かくて、明治二十五年以来七年間、様々な曲折を経、苦労を重ねていた開祖であっただけに、金明霊学会の名のもとに、天下晴れて艮の金神の教えが拡まってゆくのをよろこんだ。

ながい間の望みであった、艮の金神を世に出す、ということが緒についたからである。

経糸・緯糸

やがて、筆先が出て上田会長となおの末子すみとの結婚が神示される。

「およつぎは末子のおすみ殿であるぞよ。因縁ありて上田喜三郎はたいもうなご用いたすぞよ。このおん方をなおの力にいたさすぞよ」

つづいて、「これから出口なおと上田喜三郎と二人で世のあらためをいたさすぞよ……」とも示された。

幼い頃から十年間も、あちこちで辛い奉公をしていたすみは、その頃家に帰っていた。

明治三十三年(一九〇〇)旧一月一日、上田喜三郎と出口すみは、四方平蔵の媒酌で式をあげた時に喜三郎二十八歳。

すみは十六歳。ここに大本の基礎が成り立ち開祖が経糸、会長が糸、すみが要の役をつとめ、救世神業の錦の機織られることとなる。

ところが、結婚直後に大槻鹿造が錆びた刀を手にして喜三郎のところへ乗り込んで来た。「こら、貴様はどこの牛の骨か馬の骨か知らないが、おれが出口の長女の婿だ。いったい全体、貴様は嫁をもらったのか婿に来たのか、どちらだ」と、どなり立てる。

鹿造は札付きのヤクザであることはすでに述べた。喜三郎は、

「そんなことはどちらか知らぬわい。だがお前は喧嘩を売りに来たのかい、それなら相手になろう」と両肌ぬいで坐りなおした。

鹿造はあっけなく「ウン、申し分が気に入った。若造に似合わぬいい度胸だ。わしは帰る」と、そのまま帰ってしまうという一幕もあった。

開祖の手によって、引きつづき厳しい予言警告の筆先が出されたが、その中に「出修」についての神示が度々あった。出修とはあちこちの霊地に出かけて、神命による修行をし、神事を遂行することである。

たとえば、明治三十三年旧六月には、「冠島へ参りてくだされよ」とでるし、一月のちには、「今度は沓島を開いて下されよ」とでる。

この二つの島は、日本海の舞鶴沖に並んでうかぶ小さ無人島で、綾部からちょうど良(東北)に当たっている。

冠島、沓島はそれぞれ竜宮島、鬼門島とも呼ばれ、神話の海幸山幸や浦島太郎に関する伝説がのこっており、昔から一度は詣れ二度と詣るなと畏れられ、ことに女性の訪問は禁じられていた。

開祖、会長、すみ、お伴の四方、木下の一行五人は、旧六月八日夕、綾部を発って舞鶴まで歩き、舟を雇った。

天候がにわかに険悪になったので、船頭はためらったが、開祖は「神命であるから」と、断じて後へ引かず、夜になって雨風の中を小舟を漕ぎいだした。

湾口から日本海へ出る頃には、開祖の言葉の通り、さしもの風雨も止んで、暁方には無事冠島に着き、天火明命・日子郎女命を祀る老人神社に参拝して「治国安民」の熱祷を捧げた。

一ヵ月後の旧七月八日、開祖、会長の一行九人は、冠島よりさらに難所とされる沓島参拝のため綾部を出立、同じ小舟を雇って日本海に漕ぎ出した。

荒海の怒濤は沓島の断崖に打ちつけ、近づき難かったが、ようやくにして上陸し、持参の神祠を組み立てて、艮の金神をはじめ神々を奉斎して、天下の安泰を祈願した。

この島こそ、大本神話に沓よる艮の金神の隠退の地なのである。

丹後の元伊勢に参拝せよとの筆先が出たのは、翌明治三十四年旧二月六日であった。元伊勢は京都府の加佐郡(現・大江町)にあって、綾部から三里西北に位置し〝天照皇大神を祀る社があった。

十代崇神天皇のころ、大和国笠縫からここに遷幸し、その後に伊勢にうつられた旧蹟なので元伊勢といわれている。

その社の近くに巨大な天然の岩穴があり、つねに清水をたたえていた。昔から汲みとることは禁止され、もし禁を犯すと天災がおこると言い伝えられていた。

ところが翌日の筆先には、その水晶の水によって世界の泥をすすぎ、身魂の洗濯をして元の神世に返すとあり、旧三月八日、開祖、会長すみはじめ一行三十六名が元伊勢に向かう。

無事に水晶のお水は汲まれ、持ち帰って神前に供えられたあと、開祖のいいつけで神苑内の井戸に注がれた。

このころは、戦死したという清吉の一時賜金、二百五十円をもとにして、本宮村の大島景僕の家を買い入れ、そこを布教所にしていた。

そこの井戸に元伊勢の水が注がれ、以来この井戸水は金明水と呼ばれる。また、すぐ隣のなおたちの住んでいた出口家の井戸にも水が注が、そこは銀明水といわれる。

それぞれ昭和十年の第二次大本事件で埋められてしまうが、現在はまた元に復して清らかな水をたたえている。

旧三月七日には、出雲出修の神示が出た。元伊勢の水にたいし、出雲大社の火をもらう神事である。

七月一日(旧五月十六日)に一行十五名は出雲大社へ向かう。いでたちはござと笠さらしの脚絆と紙まき草履で、その時はとくに浅黄のかみしもを全員着用した。

開祖はすでに六十五歳の高齢であったが、五十里の道のりを往復ともつねに一行の先頭にあった。開祖は、

「年寄りが、若い人の先に立って歩くのはあつかましいのでゆっくり歩こうとおもうが、後から神さまが押されるのでつい早く歩くのや」と、のべた。同行のすみも、

「ご開祖は背後の神さまにもたれるようなお姿で達者に歩かれた」と後年語っている。その光景が眼にうかぶようである。

さて、さすがに出雲までは遠く、一日から十一日まで途中投宿しながら歩きつづける。もっとも鳥取の賀露の浜からは舟で出雲へ渡るが、この賀露の宿で上田会長は、すみのお腹に太陽のはいる霊夢をみた。

それは、長女直日(現教主)が懐妊したしらせであった。

一行は十二日に大社に参拝し、大社からは消えずの神火を授かり、檜皮製の三本の火なわに点じてもち帰る。

天穂日命の神代から引き継がれて代々消えずの火として保たれて来たものである。

元伊勢の清水は「世界の泥を澄まし」「世界の人民の身魂の洗濯」のためであるが、出雲の聖火もまた、世界の汚れを焼き浄めるためであろう。

また、これは天津神系である元伊勢と国津神系の代表といえる出雲大社が融合することの「型」とも見ることができよう。

不協和音

出雲から帰ってから、開祖と会長との間に不協和が強まり、それがかなり長くつづいた。筆先にも会長をたしなめる言葉が出るし、ことに二人が帰神状態になると、双方から激しい勢いの争いとなった。

ふだんはしごく仲の良い親子であるのに、双方神がかりになった時、おそろしく様子が一変したのである。

その対立の直接の原因は稲荷講社の下に大本金明霊学会があるということであった。はじめ神は「稲荷でもかまわぬぞよ」とか「駿河の支部でよい」という立場をとっていたのであるが、出雲大社から帰ってからは、

「……………稲荷講社でやろうとはえらい間違いできた……………」「艮の金神は稲荷講社の下にはなれんから、この方で一派をたてる」と会長と講社をはげしく非難しだす。

さらに艮の金神は、会長の日常生活にたいする批判におよぶ。自由奔放な会長の行動は神に仕えるにふさわしくないと中傷されだしたのである。

開祖の方は、極寒といえども神のご用となれ火鉢を用いず、座布団さえ敷かない。寒中であろうと水行もいとわず、その水行を役員はきそってまねた。

役員は改心だといって極端な水行を重んじ、また開祖をまねて極度の粗食をすすんでおこなった。

一方、会長は身体を深めるのなら暖かい風呂でもよいではないかと言い、改心は心の問題であると説いた。

しかし当時の役員は開祖に加勢した。筆先に、洋服を着るな、靴をはくな、肉食をするな、という意味のことがあって、一般信徒はその通りに実践した。

そして布教にさいして、洋服、靴姿の会長は悪人の鏡とうつったのである。

会長によれば、筆先は近代社会に対する批判を素朴にしたもので、それを文字通り受け取り実行するのは迷信と頑愚以外のなにものでもないということになる。

しかし、一般の信徒は筆先の字句をうのみにし、西欧的な文化はもとより、学問をも否定した。

彼らにとって学問は悪でしかなかった。会長は社会的な進出のため、論理的に説得力をもつ教義体系をぜひ持つべきであると考えたが、信徒はそんなもの必要ないという態度をとった。

開祖と会長の対立はつづいていた。双方、神がかりになるとたがいに雄叫びしては、はげしい様相となった。前にのべたような事柄についての言い争いがはじまるのである。

開祖は天照皇大神、上田会長には素盞嗚命の帰神があった。

「素盞嗚命が高天原をとりにきた」「素盞嗚命も小松林命も肉体をおいて帰れ」「小松林命が世を乱す、改心せい」と開祖は大きな声で言い、ドスンドスンと四股を踏んだ。

その時の声は身ぶるいするほどの豪放な声であったという。

一方、会長もそれに応じる。素盞嗚尊の神がかりになると、会長には自分の腕が直径五、六寸にも見えたという。

そして見物する人たちが豆のように小さくみえるらしい。そうして互いにいろいろ荒立ちながら議論におよんだ。

しかし、こうした神がかりがおさまると、いつもの親しい親子の状態にもどった。

「先生(会長)えらいことでございましたな」

「神さまはえらい勢いでしたなあ」

「これは型どすげなで」

「へい、そうですか。あっ、開祖さま、お茶がはいりました」というありさまであった。

近所の人にも評判になって「さあ、今日も金神さんの喧嘩聞いてこうかい」と大勢やってきて、家の周囲を取り巻き、柿の木には十人ほど登ってみていたそうである。

もっとも食傷してくると、「どうも金神さんの喧嘩は声やうごきのわりには内容がうけませんなあ」「ふん、そうですなあ。外国がどうの、日本がどうのと、一向おもしろみがございませんなあ」「さあ帰のう、船のう」とぞろぞろと帰っていったという。

ある時、開祖が、「これではかないません」と神に不満を言うと、「なおよ、三千世界の因縁ごとであるからもうしばらく辛抱してくだされよ」と神の方がたのんだ。

明治三十六年にはいると、はげしかった開祖と会長の「たたかい」もしだいにしずまった。その和合の原因は上田会長とすみの間にできた長女にある。

筆先はすでに、木の花咲耶姫の神霊の宿る女の子が生まれることを予告し、

「こんどは木の花咲耶姫どのが、世に出ておいでる神さんと、世に落ちておりた神さんとの和合させる御役を神界から仰せつけがありたぞよ」と示されている。

明治三十五年三月七日誕生、時に会長三十歳、すみ十八歳。”直日”と名づけるよう、神命があり、上田喜三郎も出口王仁三郎”と改名する。

少し後のことであるが、次のような筆先も出ている。

「出口直の後の二代の御用つとめさすのは末子のお澄が定めてあるなり、三代の御用いたすのが、出口澄の総領の直日に移る仕組に定まりてあるぞよ。

この三代の直日が世の元の水晶の胤であるぞよ。綾部の大本の御世継は末代肉体が婦女であるぞよ」

王仁三郎が悩まされたことは、社会の妨害にもまして、内輪の旧役員信者の頑迷と狂信にあった。彼らは筆先の表面の字句に捉われ、その広大な真精神を悟り得ず、なにかと会長のすることに逆らった。

数年にわたって心血をそそいで書いた教義書も、漢字は外国のものでけがらわしいといって、会長の留守の間に山のごとくあつめて火を放ち焼却してしまった。彼らは「これで立替えの御用1 をさせていただいたから誠に結構」などと言ってはばからなかった。

焼却を免れたものとして『玉の礎』『筆の雫』『道の珠』『道の大本』『本教創世記』などがあり、それらはのちに出版されたが、堂々たる教説であり、今日においても燦然たる光を放っている。

明治三十七年執筆の『道の栞』からすこし引用しよう。

一、世界万物を造りたる神はただ独神、天之御中主大神とたたえ奉る。

一、天之御中主の神様をつづめて天帝という。また真神という。

一、天帝はその尊き御身を伊都の千別に千別きて万物を造り、御力と御霊とを与えさせたも

一、天帝の御力徳の活動、これを巻いてみれば、ただひとりの神様なれど、その御力徳の活動によって一々御名をとなえる時は、天津神八百万、国津神八百万となる。

一、ひとりの神よりほかに神はないといって、片意地はる教えがあれど、それは神の御事をかたより見たるものの意見である。

一、世界中、兵あるがために、慾もおこり戦もあるのである。世界の戦は運不運をきらいたもう天帝の大御心にかなわぬことである。

一、軍備なり戦は、みな地主と資本主とのためにこそあるべけれ。貧しきものには、かぎりな苦しみの基となるものなり。

一、世の中に戦争くらい悪しきものはなく、軍備くらいつまらぬものはなし。

一、天帝が人種を世界に下したもうや、黄色い人種もあり、白き人種もあり、黒き人種もあり、赤銅色の人種もあれども、天帝のいつくしみを垂れたもうことにおいては、分けへだてみな同じ神の子であるから、どの人種は可愛い、どの人種は憎いとの差別をなしたも道理なし。

一、しかるに、その天帝のみ心をもわきまえずに、うぬぼれ心をおこして、日本人のみ神の直系の尊いものなどいうは、主神に対し奉りて仇となるのであるから、神の道にあるものは、もっとも慎まねばならぬ。

一、速素盞鳴尊は瑞の霊、厄よけの天使にしてこの世の救い主なり。この神の御身代りにより天津罪、国津罪、ここたくの罪をゆるさるるなり。人はこの神のおかげによりて、きびしき天のいましめを逃れきたるものなり。

これらの教説が、日露戦争の起こる明治三十七年、世を挙げて戦争熱にうかされている時に書かれたということ。また筆先に「外国の悪神」などとあるのを浅く取って、偏狭な排外主義に陥っている旧役員たちを目覚めさせるために書かれたであろうということに注目したい。

なお、日本の神話では猛悪な荒神とされている素盞嗚尊を救世神であるとしていることは、同じく悪神として押し込められていた艮の金神の再現説と共に、大本における特異な神観として、日本神道史家の注目するところである。

当時の役員は、筆先にみられる西欧文明や資本主義的文化にたいする批判をそのまま受け取り、物質文明や学問、芸術、文化すべてを否定し、立て替えによって洋服も靴も、科学も漢字もすべてなくなるとおもいこんでいた。

今の世のなかは真っ暗がりであると筆先に出ると、真昼に提灯をつけて大道を歩いた。

外国かぶれや学問かぶれの会長は、開祖の神業の妨害者だときめつけ、ついに王仁三郎を暗殺しようとする一団もあらわれた。

ある日、王仁三郎は、宣教の帰りに谷にさしかかる。その時、前方に暗殺隊十人が待ち伏せしているのを霊視機先を制して「お前たちは何してるのか」と大喝した。

不意をつかれ、うろたえた面々は、あちらこちらの草群から出て来て、「先生をお迎えに来ていました」という。

「馬鹿を言え、こんな怪しからぬお迎えがどこにあるか」「わしはうしろには目がないから、お前たちが先にたて」と命じ、彼は一行の一番あとからついてゆく。綾部に帰った彼らは、開祖からきつくし

かられるが、互いに罪をなすりつけあうばかりであった。しかし、王仁三郎は、そんな彼らをやはり許している。

「王仁はつねに此等の役員信者の罪をゆるされんことを日夜神に祈りつつ、あまたの人の罪に代りて、千座のおきどをおひてたゑしのびたりき」と、今にのこる当時の手記のなかで述べている。

綾部をぬけだし、大阪で布教したこともある。大阪では、大病を即座に治したり、憑霊を見破って改心させたりして「丹波より生き神さまの来阪」とうわさがひろがり、また、方々で講演をして、知識層の共鳴者も得るが、ここでも、綾部の役員のしつような妨害を受ける。

その念のいった困らせ方に、王仁三郎はほとほと困って、綾部に移ってしばらく活動を中止し、子守りをしたり、すみと一緒に柴刈りなどしていた。

すみは、のちにこの時の想い出を語る。

「………今から思い返してみますと、私たちの一代で、夫婦としていちばん楽しい思い出となっていますのは質山で先生と柴刈りをして働いたことであります」

役員らの妨害のおかげで、思わぬ奥さん孝行が出来たわけである。

その頃、王仁三郎は、近くのキリスト教会の門をくぐって研究した。教会の牧師は、彼の図抜けた頭の良さと霊力を知っているだけに、ある時こんなことを言って彼を誘った。

「別におすみさんが、あんたの一生をかけるほどの美人でもなく、おなおさんにもこれというほどの財産もないのだから、何も好きこのんで、親子喧嘩や役員の悪さのなかにいることはないではないか、うちへ来てあとを継いでくれてはどうかね」

しかし、王仁三郎はもちろんそういう誘いにのるはずはなく、キリスト教の奥義をつかむと、足を遠ざけている。

明治三十九年の九月、彼は京都の皇典講究分所の国史・国文科に入学した。ここは京都国学院の前身で、京都市一条通り烏丸入ルにあった。すみは、その折のことをこう述べる。

「(王仁三郎は)皇典講究所に入って、一時神主にでもなって、時節を待つとおっしゃって、わずか五銭の金を持って京都に上られました。

そのとき、私は、須知山峠まで、直日ともう一人の子を連れて見送りましたが、五銭のなかから二銭で子供にお菓子を買うてやり、たった三銭だけ持ってたれました」

講究所を半年で卒業し、翌四十年の四月八日から三日間にわたる京都府庁の神職尋常試験を受けて合格。

五月三日には、京都府より別格官幣社、建勲神社の主典に補せられ、同時に二級待遇、年手当金三十円給与の通知がくる。その建勲神社を同年十二月に辞任すると、伏見稲荷山御教西部教庁の主事として迎えられた。

こうした間にもあちこちを布教してまわり、頼まれれば病人を助けもした。

そして、一部の信徒とは、たえず手紙で連絡をつづけた。念頭にはつねに綾部のことがあったのはいうまでもない。

明治四十一年三月十日には、大阪大教会長に任じられ、大阪生玉の御嶽教大教会詰となった。

また、大成教とも関係ができ、六月には綾部に大成教直轄の直霊教会本院を設置しその管長になる。

このように、あちこちの教団と関係をつけたのは、主として教団運営の実体を知ることと警察の干渉をかわすためであったと思われる。当時、政府は新たに宗教の公認をしない方針であり、非公認の団体には非常に圧迫が強かったのである。

王仁三郎は、明治二十二年に発布された憲法による信仰の自由を楯に活動をつづけていたが、府の認可を得ていないと集会、布教はゆるされず、さきの神の争いの結果、稲荷講社と手をきった彼らにはつねに監視と干渉、取締まりがまつわりついた。王仁三郎には、身内の役員からの攻撃と並行して、そういう苦悩もつきまとっていたのである。

明治四十一年(一九〇八)八月一日、王仁三郎はこれまでの金明霊学会を”大日本修斎会”とあらため、暮れの十二月には綾部に帰り、新たな出発をはかる。

七十五条におよぶ、堂々たる会則で、これで教団体制が整う。教義の外、祭式祝詞なども定められ、九月一日には、はじめての機関誌が発行されるが、その中には今日大本教団で用いられている「感謝祈願詞」がすでに発表されている。

ただ、表向きは「大成教直轄・直霊教会」との看板をかかげねばならない。そこに彼の苦心と配慮があった。

王仁三郎が、綾部と離れて転々としていた数年の間、大本はめっきりさびれてしまい、財政も窮迫して開祖の筆先のための墨代や紙代にもことかくほどであった。

ところが、お筆先にはその二年前から、「(王仁三郎が)この大本を出たらあとは火の消えたように、一人も立ち寄る人民はなくなるぞよ。そうして見せんと、このなかは思うようにゆかんぞよ」とあり、筆先通り、王仁三郎の不在によって彼の必要性が役員らにも実感されだしたのである。

ところで、その当時の大本を支えていたのは、開祖はもちろん、役員たちの働きであるが、家計のきりもりにもっとも苦心したのは他ならぬすみであった。

すみは後年この頃を回想して、心労のため血尿が出たと語っている。そして、この明治三十年代後半の苦悩は、やがて迎える大発展への生みの悩みともいえるものであった。

さて、帰した王仁三郎の精力的なはたらきによって大本はとみに活発となり、信徒はふえた。出版した機関誌も、当時の社会で珍しい活版印刷で、丹波の片田舎に起こった「立替え立直し」の叫びも王仁三郎の論説とともにひろく全国に伝播せられ、にわかに社会の耳目をつよく引いた。

明治四十二年からは、いよいよ造営が開始され、十一月二十二日には布教所の隣にささやかながら神殿が立つ。その落成式の時はじめて王仁三郎の命によって八雲琴が採用された。

八雲琴とは愛媛県の中山琴主が、文政三年(一八二〇)に出雲大社の裏山にこもるうち、霊感を得て出した二弦琴である。

大本で八雲の奏楽に当たったのは、信徒の田中緒琴で、田中は三代家元として奏楽から楽器の製作にも工夫をこらし、のちに無形文化財として認定された。

大本の祭典の清雅な麺は、八雲の調べによって醸し出されているところが大きいであろう。八雲の今日の隆盛は、現三代教主の指導によるものである。

明治四十三年八月に、国鉄山陰線の京都間が開通したが、これが大本のに大きく寄与している。京阪神や東京からの参拝が非常に便利になったからである。

信者の増加の原因は、開祖および王仁三郎の柄によるところが大きいことはいくども述べた。医者がみはなした病気も、

「開祖さまが、お風呂にいっしょに入れて下さったから治った」とか、それに類似した事例が数知れず多い。また王仁三郎についても、園部の奥村某はその思い出をこう語る。

「あの方の言う世界統一たらいうホラのようなことは、手前どもは阿呆らして聞いておれませんが、しかしあの霊術だけは確かなものでございます」

王仁三郎の霊術は早くから知れわたっていたのである。

かくて、教線が伸びるとともに、ますます建物の必要が生ずる。神苑は拡張され、絶え間なく槌音がひびき、しだいに聖域らしい形をととのえてゆく。

さて、王仁三郎は家を建てるのに、予算を立て、金の工面をしてから始めるというようなやり方はしない。

手許の五十銭で酒を買って大工を集め、さあこんな建物を造ってくれと注文する。金や資材や人手は、仕事が進むに従って寄ってくる。大抵そんなやり方で、年中槌音が絶えなかったのである。