第四章 大弾圧と聖師の昇天
昭和十年十二月八日
早暁の四時、綾部と亀岡の大本本部は武装した四百三十余人の警察官の包囲をうける。第二次大本事件、近代史上に類例をみない大規模な宗教弾圧の幕があいたのである。
亀岡の天恩郷へ向かった警官は「決死的覚悟をもってのぞむように」と申しわたされた。彼らは腕に白布を巻き、白たすきをななめにかけ、音をたてないため、草履にはきかえる。
大本には剣やピストルがあるという虚報を信じ、訓練された青年が決死の覚悟で反撃するだろうと、憶測していたからである。警官隊は救護班まで用意していた。
苑内にいた出口日出麿や役職員は、つぎつぎと検挙され京都へ護送された。ほかに百人余りが亀岡署に拘置されたが、もちろん全員無抵抗である。
一方、綾部に向かった別の警官隊は午前四時半を期して襲う。そして亀岡と同じように幹部宅の天井裏から床下まで捜索し、つづいて六日間にわたって大本関係の物件をことごとく押収した。
聖師の逗留していた松江の島根別院も午前四時に、やはり二百八十人のものものしいいでたちの警官によって包囲され、聖師の寝所が襲われた。その時、聖師はゆっくりと衣服をあらため、傍らの二代教主が火をつけてさしだした煙草をくゆらす。
昭和なる十年師走八日朝
醜の黒犬わが館襲へり
寝込みをば叩き起されしとやかに
我は煙草をくゆらしにけり
あわてるな騒ぐな天下の王仁さんと
犬を待たせて煙草くゆらす
と、聖師はのちに当時を回顧して詠んでいる。
自動車でまず松江署に送られ、小憩ののち、午前五時すぎ山陰線の人となる。亀岡を通過する時、車中から見る天恩郷の建物や銀杏の大樹は印象ぶかかったことであったろう。
午後一時二十五分、二条駅に着き、そのまま中立売署に送られ、独房に留置。以後、六年八ヵ月、とらわれの身となる。この時、聖師は六十四歳であった。
全国の新聞はいっせいに妖教だの怪教だのと書きたて、「王仁三郎は死刑もしくは無期懲役になるだろう」とはやくも憶測をばらまいた。
それは当局の意図を反映したもので、新聞はうまく利用されていたのである。
警察はさらに卑劣な方法を講じ、女性問題をデッチあげて噂を飛ばした。聖師の居室に卑猥な展示をほどこし、新聞記者らを招いて写真を撮らせたりもした。こうして、情け容赦のないペンの暴力によって、大本は社会から完全に孤立してしまう。
この度の弾圧は、十五年前の第一次とは規模といい深さといい比較にならぬすさまじさであった。幹部は根こそぎ拘引され、信徒数千人が取り調べをうけた。
本部のいとなみはすべて停止し、教団組織はすべて解体された。
当局は、警察でも検事局でも予審でも、自白を強要した。自白といっても、
予審判事五人が心を合せつつ作成したる調書の空しさ(聖師詠)
とあるように、すべて前もって準備していた結論に強制的に導こうとするもので、ことに特高警察の取り調べは残虐としか言いようのないものであった。
中立売署から五条署に移された聖師は、長髪をもってひきずり回され、なぐるけるの暴力を加えられた。さらに、日出麿に対する拷問は一層峻烈であった。聖師の独房にまでそれが聞こえる。
拷問にかけられ我が子のヒイヒイと
苦しむ声を聞くは悲しき
日出麿は竹刀で打たれ断末魔の
悲鳴あげ居るを聞く辛さかな
頑強に否認しつづける者は、拷問で失神させ、調書に指をつかせた。
昭和十一年三月十三日、聖師は起訴され、五条署から中京刑務支所の未決監に移されたが、その日綾部で検挙された二代教主すみは、翌十四日京都の五条署に護送された。
当時の警保局長唐沢俊樹は「大本教は地上から抹殺する方針である」と声明したが、声明の通権力はその狂暴性をムキ出しにして大本の根絶をはかった。
起訴と同時に組織の解散、建造物の強制破却を決定した当局は、まず、綾部聖地にある家具、備品、機械類を強制的に売却させた。
手あたりしだい古道具屋にたたき売られ、または持ち去られ、あるいは焼却された。その燃えのこりのくすぶりは一ヵ月もつづいた。
天王平の開祖の奥都城は掘りおこされ、玉垣はくずされ樹木がひきぬかれ、一帯は荒地と化した。そして柩は共同墓地の片隅に移され、ささやかな木柱の墓標が立てられた。
死してほ猶安からぬ祖母ふたたびも逆賊の名に墓あばかれつ
吾が心臓石の如くに脈うたずあばかれんとすも祖母の墳墓は
と、直日はその限りない悲痛を詠じた。さらに官憲は出家の墓碑や信者の納骨堂を破壊し、信者の墓碑に刻まれた大本特有の称号をすべて削りおとした。
綾部、亀岡両聖地の破壊にはダイナマイト数千発が使用され、こまかいところはハンマーでくだき、ガスで鉄骨が焼き切られた。
その爆発音は遠くはなれた人家の戸や障子を振動させた。殿堂はみな、根こそぎ破壊されて土けむりを上げた。
樹木は切りたおされ、石段さえも削りつぶされ、やがて一帯は見るかげもない荒野と化してしまった。
もちろん、大正三年に掘られた例の金竜海もすっかり埋めたてられてしまう。すべて判決を待たずにおこなわれた暴挙であった。しかも、その破壊の費用は聖師と二代すみに負担せしめた。それは弁護費用を乏しくするための意味もあった。
当時、京都に住んでいた作家の坂口安吾が、天恩郷の破壊の跡を訪れ、次のような紀行文を書いた。
「……………城跡は丘に髪をめぐらし、上から下まで、空壕の中も、一面に、爆破した瓦が累々と崩れ重なっている。
茫々たる廃墟で一木一草をとどめず、さまよう犬の影すらもない。四周に板囲いをして、おまけに鉄条網のようなも石のを張りめぐらし、離れた所に見張所もあったが、ただこのために丹波路はるばる(でもないが)汽車に揺られて来たのだから、あに目的を達せずんばあるべからずと、鉄条網を乗り越えて、王仁三郎の夢の跡へ踏みこんだ。頂上に立つと、亀岡の町と、丹波の山々にかこまれた小さな平野が一望に見える。
雪が激しくなり廃墟の瓦につもりはじめていた。めぼしいものは爆破の前に没収されて影をとどめず、ただ、頂上の瓦にはなるほど金線の模様のはいった瓦があったり、酒樽ぐらいの石像の首が石段の上にころがっていたり…(中略)…いくつかの石像が潰されていた。
とにかく、こくめいの上にもこくめいに叩き潰されている」
このあと、坂口安吾と同行の一人が近くの茶屋で飲んでいると二人は「特に密命を帯びて出張「した刑事」とまちがわれる。
そこで、「僕たちは刑事になりすまして、大本教の潜伏信者の様子などたずねてみたが、一人の馬方は泥酔しながらもにわかに顔色蒼然となり、たちまち言葉も吃りはじめて、多少は知らないこともないけれども、悪事を働いた覚えのない自分だから、それを訊くのだけは何分にも勘弁していただきたい、と取調室にいるように三拝九拝していた」(『日本文化私観』より)
官憲は綾部、亀岡のみならず、聖師の生誕地である穴太の神域を破壊し、並行して地方の施設の破壊をつづけた。
由緒ある別院分院は痕跡をとどめないまでの徹底した破壊ぶり。また各地の聖師の歌碑は、文字をノミでけずりとられたり、ダイナマイトでくだかれたり、礎石まで掘りおこされた。
日本海にうかぶ沓島や瀬戸内の神島にあった大本の神祠も破壊され、残骸は海中に投げこまれた。
王仁三郎の手にかかったものはすべて、もとの姿のままではおかぬというのが当局の方針で、天恩郷の衝立の巨石も真っ二つに割られた。
その石は今も瑞祥館の入口に立っていて、その愚かないとなみを語り伝えている。
両聖地の土地は、坪二十銭というただ同然の価格で、綾部・亀岡両市へ強制的に売却させられた。
聖師は、五月十一日に中京刑務支所から山科にある京都刑務所の未決監に移送される。
この前後から数分間の面会がゆるされるようになり、はがきも隔日に一通は出せるようになる。聖師は家族の一人一人に、また信徒の誰彼にも書き送った。そして先方からの便りもとどく。
愛とし子や知るべの人の送る我よみがへる心地するなり
(聖師詠)
起訴された者はすべて独房に入れられ、看守に監視されながら、一坪(三・三平方メートル)あまりのせまい部屋で寝起きする。
一定の時間に起きて寝て、昼間は医者の診断がなければ横になれない。監房の冬はとても寒いが、もちろん火の気はない。
夏は暑くるしく蚊はとびかう。身体は蒸されるようで部屋はくさい。入浴は週一回で、それもわずか五分間ですまさねばならず、
垢けづるひまさへもなき五分間の
役所の風呂のなさけなきかな
湯上りのかへりに友と会ひながら
笠におもてを包めるはかなさ
(聖師詠)
といった具合であった。一日一回のつかの間の運動も、高いレンガ塀にかこまれたせまい庭で、監視されながらのものであった。
太陽をあびることもできず、大地を踏むこともできず、人と語ることもゆるされない。こういう生活を何年もつづけて、これで健康を害さなければその方がおかしい。
しとしとと降る春雨の一日を
長く思へり星座の吾は
独居の部屋に帰れば只一つ
コウロギの居て吾を迎える
聴きなれしすずめの声も天人の
言葉と慰むひとり居のわれ
教の友の一日も早く出よかしと
祈り続くる星座の我かな
注=星座とはオリオン星座のことで、四角な箱に人が囲まれている形(囚)から聖師は獄屋意味させた。
そんな独房のなかで聖師は開祖をおもう。
わが膝に抱かれ天に昇りたる
教御祖を偲びては泣く
風吹けば教祖を思ひ雨降れば
教へ子思ふ星座の吾かな
しかし、聖師はこうした重圧のなかにあっても心は広く天地を馳け、四季折々の山野に遊び、風光を楽しんだ。
そして頭の中で楽焼茶器をひねり、様々な色を塗って天国の姿を描き出そうとした。
次から次へ独創的な美しい茶が生まれる。こうして想念の茶怨は無数に頭のなかでつくられ、後の怨顕現”につながってゆくのである。
二代教主出口すみも、ただ一人の女性被告として、ながい未決生活を強いられたが、その間ただの一度も人に暗い顔を見せたことがなかった。
たまに信徒が面会にゆくと、「今までいろいろの修行をさしてもらったが、牢の修行は今度が初めて、けっこうやで」といかにもうれしげに話し、慰めに行った者が、反対に慰められて帰るのが常であった。
膝にはいよるボッカブリ(ゴキブリ)と仲よしになった話はあまりに有名である。ボッカブリの夫婦がすみのもとへ毎日やって来るので、弁当を少し残しておいてやる。
それを食べて膝の上をはいまわっては帰るボッカプリ。ところが或る日、一匹だけが来ていかにもさびしそうだった。
次の日も、また次の日も一匹だけがきた。すみは心配して看守にたずねた。
「私のところへ毎日遊びに来るボッカブリが一匹見えませんが、何かお心当たりはありませんか」すると、
「あ、それやったら二、三日前廊下で一匹踏み殺されていた」と答えが返ってきた。
残った一匹はどうやら雄らしい。すみはその雄に話しかけてやった。
「嫁さん亡くしたんか、かわいそうやのう。早う次のをもらいなよ」
それから幾日かして二匹が来た。後方にしたがう一匹は恥ずかしそうにしている。
「お、お前嫁さんになってくれたんか。こっちへ来い、こっちへ来い」
するとだんだん近よって雄と一緒に食べものを食べ、それからまた毎日二匹が来て膝で遊んだ。
ところが、のちにすみは控訴審のため大阪の刑務所に移された。ある日京都に残して来たボッカブりが、しきりに思い出されるのか、こう呼びかけている。
四年を馴れなじんだるぽっかぶり妻はまめなか子らは増えたか
昭和の二十五年頃、同志社総長湯浅八郎がアメリカのシーベリー博士と一緒にすみを訪ねた。
そのボッカブリの話をシーベリー女史は興味ぶかく聴き、湯浅は感動し切っていた。昆虫学を専攻した湯浅には特別の思いがあったらしい。後に湯浅は「あの時こそ、ここに人ありと思いました」とその感動を語った。
窓の外の雀と話したり、幼い頃の思い出を童謡のような歌に綴ったり、すみの未決生活がその美しい詩であった。出獄後、婦人看守がすみを慕って度々天恩郷を訪れた。
裁判
すさまじい当局の大弾圧のなかで、法廷闘争の準備がはじめられた。直日は、権力の非道にたいするはげしい怒りをもって事件解決にのぞもうとした。
厳として微動だになき祖母の一生の信念われにあらしと、開祖をおもい神に祈りつつ、毅然たる態度ではっきりと証を立てる決意をする。
大検挙以来の当局による人権蹂躙は限度を知らず、あるいは獄中で毒殺されることさえあり得るだろう。そのような無法を阻止するためにも、急いで有力な弁護士をたてねばならぬ、と考え伊藤栄蔵は、上京して信徒の冨沢弁護士と相談、信徒外の弁護士を依頼する手配をした。
信徒弁護士は、いつ検挙されるか知れぬ情勢だったからである。伊藤はまた茅ヶ崎で療養していた内田良平をいく度かたずねて、無謀な両聖地破壊計画などを取り止めさせる工作をしたが、内田らの努力も手の届かぬところまで事態は進んでいた。
そして伊藤もやがて検挙されてしまう。しかし、弁護活動の準備は直日を中心につづけられ、清瀬一郎、林逸郎ら十八人の大本側弁護団が構成された。
かくて、非公開であるが準備公判にまでこぎつける。ここにやっと被告人たちは真実を自由に陳述する機会が与えられ、拷問による調書を是正すべくうったえた。
長い間、抑圧されつづけてきた被告人の心に、はじめて前途への光明が見出されたのである。
一方、信徒は、百五回におよんだ公判のたびに裁判所の廊下につめかけ、出廷する聖師に面会した。
大検挙以来、四年三ヵ月の歳月の流れた昭和十五年(1 九四〇)二月二十九日、京都地方裁判所の陪審大法廷で、判決言い渡しがおこなわれた。
出口王仁三郎、無期懲役、ほかの被告人も十五年から二年の懲役。罪状は治安維持法、不敬罪、出版法、新聞紙法が適用された。公判での被告人の弁明や証人の証言は採用されず、ほとんど予審訊問調書をとりあげた判決で、権力による大本抹殺の既定方針がそのまま裁判に反映した。
大本側はただちに控訴した。かくて舞台は大阪控訴院に移った。その年の四月十八日に聖師、すみは護送専用の大型自動車にのせられ、京阪国道を経て大阪北区刑務支所に移動する。
世間では、戦争政策が日ましに強化され、国体思想が極度に高揚された。そういう時に、判決によって〝国賊””非国民”などの烙印がおされたので、大本信徒への風当たりはつよくなる一方だった。それでも信徒はくじけず、不屈の信念をつらぬいた。
聖地は、形の上では廃墟となり、鉄条網がはりめぐらされ、しずまりかえっていた。信徒たちは、そんな聖地をひそかにおとずれては、ふかい祈りをささげた。開祖のささやかな墓標の前にぬかずいて、もったいなさとくやしさに熱い涙をあふれさせた。
第二審の公判は、昭和十五年十月十六日を皮切りとして、百二十回におよんだ。その間の弁護費用はかなりの額に上ったが、信徒たちは、戦時下の苦しい生活費をきりつめ、自発的に献金をつづけた。
それは、長期間の裁判をたたかいぬく原動力となった。中にはそのために警察に長く留置され、そこで自殺した人もあった。
きびしい圧迫下にあってのこの血のにじむような努力は、大本信仰の根づよさと聖師、二代教主をおもう熱誠の証であった。
公判のひらかれるたびに、汽車にのって遠くからやってきた信徒たちは、大阪控訴院の周囲にむらがり、さらに公判廷の広い廊下に列をつくってならんだ。やがて深編笠で顔を蔽われた聖師が、看守に手錠のひもをとられながら歩いてくる。
聖師は信徒たちの列をみとめた。一瞬、片方の肩先で編笠の裾をしゃくりあげ、ぶるぶると頭をはげしく振って笠をうしろへはね飛ばす。顔がまる見えとなる。湯上がりの時のような紅潮した顔。
聖師は、はるばる会いにきた信徒たちにその顔を見せたかったのである。そしてそんな信徒たちの顔を自分もよく見たかったのである。
そのまま聖師は信徒ひとりひとりにゆっくりゆっくりと頭を下げて通った。
それでも気持ちがおさまらないのか、わざとよろけるふりをして、信徒の身体に触れた。
信徒としてはなによりのよろこびであり、感激であった。こうした一連の聖師の行動を看守は咎めもせず、飛ばされた編笠を拾いあげて手に持ち、神妙につき従うのであった。
二代教主すみも通った。手錠のないすみは編笠をあげてニッコリと信徒たちに笑いかけた。それは、何年間もせまい牢に閉じ込められている人の笑顔とはとても思えなかった。
公判の日は他の被告人にとっても、きびしい審判の日であるにかかわらず、聖師夫妻に会えるということで、よろこびの日となり公判廷はなごやかなふんいきさえただよった。
昭和十二年七月、予審訊問が本格化しはじめたころに日中戦争がおこり、戦争は日本の予想に反して泥沼におちこみ、軍事費は雪だるま式にふえ、民衆は大きな犠牲を強いられた。
生活の窮乏化とともに国体思想が高揚され〝挙国一致〟”堅忍持久” “ぜいたくは敵だ”などの戦争標語を掲げ、米、木炭、マッチ、砂糖などの家庭用品は配給制となった。
聖師は昭和十五年一月、米内内閣が成立すると、「米内内閣や」とシャレたが、そのとおりとなった。
昭和十六年十二月八日、太平洋戦争が勃発した。伊藤栄蔵はその朝、大本事件の記念日だからと、大阪市内に住んでいた二人の友人を誘って、梅田新道の神社に集まった。
聖師はじめ被告一同の健康を祈って、そこから程近い大阪刑務所の北塀に沿って歩いた。この中に聖師が居られると思い、なつかしさのあまり塀に手を当てた。
冷たいはずのコンクリートの塀に初恋の人の手をさわったような感触があった。三人で話しながら刑務所を過ぎて、朝日新聞社の前に来ると、大きなニュースが掲示されていた。
そこには「わが軍は今暁米英と戦闘状態に入れり」との文字がおどっていた。
大本事件の日が日米開戦の日になったのである。
「大本は型の出るところ」との筆先があるが、あまりにもそっくりの型が出た。両聖地の破壊の姿が、昭和二十年には日本全土に現れた。聖師らの未決勾留期間が六年八ヵ月、米軍による日本占領が六年八ヵ月。
大本事件解決は二十年九月八日(大審院判決)、太平洋戦争の解決は二十六年九月八日(サンフランシスコ条約の調印)。それは暗合というには、あまりにも鮮やかな符合であった。
さて十七年二月十二日、大阪控訴院で弁護人の弁論が開始され、四月十六日、四十四日間の弁論が終わった。高山義三(後の京都市長)は、彼の二日にわたる八時間の最終弁論の終わりに、一段と声を張りあげた。
「裁判長、どうか最後に一度被告全員の顔つきをよく見ていただきたい。大罪を犯した人間の顔つきでしょうか。
彼らは七年にわたる拘禁生活にもかかわらず、どこに暗さがありますか。生き生きとした、希望に満ちた彼らの顔こそ、無言の無罪の立証であることを私は信じてやみません」
こうして弁論を結んだ高山義三に、被告席前列に坐っていた聖師は、弁護士席をふりむき、「どうもありがとうございます」と言って会釈した。
高山はその時の聖師の顔を一生忘れることができない、とのちに語っている。
七月三十一日、第二審の判決があった。裁判長は二時間半にわたる判決文を読み、結局、第一審の判決は覆り、もっとも重い治安維持法違反はすべて無罪、不敬罪ならびに出版法違反、新聞紙法違反だけが残された。そこには高野綱雄裁判長の、権力に屈せぬ非常な勇気があった。とともに、宗教に対する深い理解が役立ったのである。
法廷正面に坐った裁判長の顔は、仏画に見る阿弥陀像とそっくりであった。後で彼が熱心な浄土真宗の信仰者であることが判明して如何にもと納得させた。
第一審では、大本を宗教の仮面をかぶった政治的陰謀団体と見たが、高野裁判長は大本を高度の宗教と認め得た。
それは自ら宗教を行じていたからである。宗教の言句をそのまま政治的に解釈すれば、とんでもないことになることは明らかである。当時大本につづいて神道系、仏教系、キリスト教系の諸団体が政府の弾圧を受けたが、多くは天皇絶対の政治理念に反するという浅い見方をしたためであった。
宗教と政治は次元が違う。その無理解が、騒動を起こした原因でもあった。
「お前は天皇陛下と王仁三郎とどちらが偉いと思うか!!」警察で一番最初に信徒に叩きつける質間はこれであった。
第二審判決に対し、不敬罪等については大本から、治安維持法の無罪については検事側からそれぞれ上告された。
検挙をあくどく、かつはでに報道した新聞も、第二審の判決の報道態度はつめたく、大本邪教観をぬぐいる効果は全くなかった。当時は連日、戦争の記事でうずめられ、判決の記事は片隅にしか扱われなかった。
保釈
二審の判決からまもない八月七日。被告のなかでもっとも長く入獄していた聖師、すみ、出口宇知麿の三名は、やっと保釈出所がゆるされた。それまで頭山満などを介して保釈願が出されたが、すべて却下されていた。
しかし、高野裁判長の勇断によって検事の圧力にかかわらず、保釈がみとめられたのである。
聖師は、昭和十年十二月八日に検挙されてから満六年八ヵ月ぶりに出所した。その直後、刑務所の弁当屋の二階で記者団と会ったが、それまでに出迎えの一人に「天佑神助はしばらく休みや」とささやいた。
その日はガダルカナル島に連合軍が上陸した日であった。聖師一行は大阪駅から汽車に乗って午後六時四十分に亀岡に着く。丹波米となる稲穂は青々と伸びそろい、空には白く夏雲が浮かんでいた。
丹波の山々も緑濃い盛装で聖師の帰りを迎えた。聖師は天恩郷の廃墟を一顧だにせず、自動車で中矢田農園の出口直日宅におちつく。
八年ぶりに家にかへれば庭木々は見まがふばかりのび栄え居り
わが居間にて音頭をとれば孫たちは集ひ来りつ舞ひ狂ふなり
聖師七十一歳、すみ夫人、五十九歳の夏は、まっ盛りであった。
この日、信徒のよろこびは爆発した。もう事件は解決したも同然であった。聖師も「あとは事後処理だけや」と言っていた。
こうした歓喜の爆発のなかにあって、八月の十日から十五日にかけて、聖師は出口宇知麿と出ロ貞四郎を弁護士や拘置所長、看守、三ヵ所の差し入れ弁当屋などに遣わして謝意をあらわした。
また事件によって他界した多くの人々を、自宅となった農園の神床に祀った。
道のため天に昇りしわが友の御名をしるして永遠にたたむ
(聖師詠)
事件中、起訴された六十一名のうち十六名が死去した。そのほとんどは過酷な拷問が原因であった。
聖師は中矢田農園で孫たちにかこまれて水浴びしたり、すみ夫人といっしょに愛犬シロを連れて散策をたのしんだ。
家庭的生活のなかでの悠々自適の日々であった。警察の監視がなおきびしく、大戦下のきびしい世相のもとではあったが、聖師夫妻にとってはかつてない楽しい時であった。
各地の信徒は交通事情の悪い中を、統制で手に入りにくくなった物資を携えてつぎつぎと農園をおとずれた。
聖師は訪れてくる信徒にも未信徒にも、快く会った。訪問者は聖師の傍らにしばらくいるだけで、血液のなかまで愛情の流れ入る思いにひたるのであった。
聖師は面会者の一人一人の氏名を詠み込んだ和歌を作っては記録させていたが、十七年の保釈以来、その数は七千五百首以上にのぼった。
他に短冊や色紙に歌、句、詩、画等を染筆したものは数え切れないが、それらをみな信徒に与えた。また、傍の者のハラハラする中で、時局や戦争の見通しについて、聖師ははっきりとものを言った。
「上陸とか占領とか景気のよいことばかり言っているが逆になっている」
聖師保釈二ヵ月前の十七年六月五日、日本海軍連合艦隊は全力をあげてアメリカ太平洋艦隊の根拠地ミッドウェーを攻撃したが、主力空母四隻をうしなう大敗をきった。
ところがこの敗北日本軍の勝利のように報道されていた。つづいて八月のソロモン海戦にも敗れたが、これも勝利のように新聞は書きたてていた。
保釈の八月七日には連合軍は日本軍の前線基地ガダルカナル島に上陸した。日本は戦争の主導権をうしなう。
「日本は敗ける」「千島列島がなくなる」「台湾も失う」と、面会の信徒たちに、聖師はちゃんと伝えていた。
九月二十三日、聖師はすみ夫人とともに綾部をおとずれ、天王平の開祖の墓前に詣でた。
これは聖師にとって保釈後はじめての他出であった。破壊された神苑の跡には、一歩も足をふみ入れず、真っすぐに天王平へ向かったが、変わり果てた開祖の墓前にぬかずいて、どんなにか感慨深いことであったろう。
昭和十八年、十九年と戦局は益々悪化し、中、西部太平洋の主要な拠点はすべてうしなわれる。
しかし、相次ぐ敗北も国民には目かくしされた。聖師は「連戦連勝と報道しているが、一万トン級の軍艦は全滅にひとしい。今にはっきり分かる」と見抜いていた。
かくて、開戦いらいの国の戦争指導はついに大変更をよぎなくされ、本土死守の体制をとることとなった。すでに徴用がでて、多数の国民は軍需工場におくられていたがそれでも足りず、学生や婦女が工場や炭鉱へ動員された。
十九年にはいると、中学生小学生にまでおよんだ。「玉砕」による兵力の不足も目立ち、三十代、四十代の父親たちが徴用された。
こうした状況は、すでに大正期に示された聖師の『瑞能神歌』の通りであった。その予言の一節一節は、驚くべき正確さで事態をのべていた。その一部を引用してみよう。
おちこちの寺の仏、金道具、釣鐘までもして、御国を守る海陸の、軍の備えにつる世は、今眼のあたり迫りきて…(中略)…下国民の持物も、金気の物は金火鉢、西洋釘の折れまでも、御国を守る物の具と、造りかえても足らぬまで、迫りくるこそてけれ。
くに挙り上は五十路の老人より、下は三五(十五)の若者が、男女の別ちなく、坊主も耶蘇も囚人も、戦争の庭に立つ時の、巡りくるまの遠からず。
敗北の色は日ましに顕著となり、国民の耐乏生活もすでに限度を越え、軍部への不満も高まりだした。
こうして東条内閣は十九年の七月十六日総辞職し、かわって小磯、米内協力内閣となった。聖師はその折、また冗談めかして予言した。
「ソロモン戦からソロソロ負けて、小磯づたいに米内にはいる。小磯米内、国昭わたす」(注=小磯の名は国昭)
その小磯米内内閣もなすところなく、翌二十年四月五日に総辞職し、鈴木貫太郎が内閣を組織した。すると聖師はすかさず、
「日本は鈴木野になる」「日本はなごうは鈴木貫太郎」としゃれた。
日本全土に米空軍の長距離爆撃機B2による無差別大空襲がはじまり、やがて空襲は日課となった。空襲についても早くから、
「東京は空襲されるから疎開するように」「大阪も焼野が原になる」、また「九州は空襲」などダジャレまじりで警告し、反対に「京都は安全」「金沢は空襲をうけない」と断言した。
広島の信徒には、「広島は最後にいちばんひどい目にあう。それで戦争は終わりだ。
帰ったらすぐ奥地へ疎開せよ」と告げ、別の人には「……広島は火の海となる.そのあと水で洗われ、きれいにしてもらえるんや」と。事実、広島は八月に原爆をうけ大水害にみまわれた。
終戦とそのあとの推移についても一年前から知らしていた。
「来年のわしの誕生日のあとさきになると政治上、軍事上、経済上、日本に重大なことがある」「日本は敗れても世界のかがみとなる」「いったんは日本は米国の支配下におかれるが、それもしばらくの間や」「あとは米ソ二大陣営の対立」など枚挙にいとまがない。
「弾圧を受けたので戦争に協力しないですんだのや。平和のための発言権を確保するために、神さんが牢屋という安全場所にかくまってくれたのや」などとも話した。
十九年の暮から後期の楽焼作りが始まる。楽焼はすでに昭和の初めから手がけていたが、こんどは前期のものとは趣が違った。獄中の無聊を慰めるため、雄大な自然の美を思い浮かべては、楽焼茶器にイメージさせていた。
その何十何百の、頭の中の茶器が、わきあがる雲のように、流れる水のように、形となって生まれ出たのである。
京都の窯元、佐々木松楽が折よく亀岡に移住して窯を築いていた。聖師は幕の二十八日松楽窯を訪ねて土をひねり、正月早々には見事な作品六十点が焼き上がった。
そこにはかつての楽焼には見ることのなかった、雄大で華麗な美があった。
聖師の情熱は日ましに高まり、楽焼に明け楽焼に暮れる日々がつづいた。作品はいよいよ美しく、いよいよ新鮮で、独特の輝きを放った。
健康を案じて、すみは、しばしば無理せぬようにと注意したが、耳にはいらなかった。そっとすみにかくれて松楽窯へ通う。材料の土や絵の具や釉薬は松楽が整え、石川県の信徒たちは苦心して絵の具を運んだ。
後に「耀怨」と称えられて天下を驚かした作品を、聖師は惜しげもなく訪れてくる信徒に与えた。
しかし、多くの信徒たちには「きれいなお茶器」というだけで、芸術的価値は、一向にわからなかった。
筆者が最初に拝領したのは、えんじ色の茶器であった。
「この色には金粉を使ってあるから後で金色が現れる。そのうち一個一万円になるぞ」
一ヵ月百円で生活したころである。一万円はかなりの高額であった。
「また聖師さまは大きなことを、おっしゃって」と腹の中でつぶやいた自分を、いま恥ずかしく思う。
二十一年の三月、三十六回目の窯出しで楽焼は終わった。作品総数は三千点といわれ、茶怨の外に茶入れ、水指蓋置などの茶器も混じっている。
「茶は天国の遊び」と聖師は言ったが、その天国の姿を、もっとも如実に表わしたのがこの器である。わずか一年あまりで手ひねりの智を三千点もつくる。量、質において古今独歩、破天荒としか言いようがない。
終戰ー事件解決ー聖師昇天
昭和二十年(一九四五)八月六日、広島に世界最初の原子爆弾が投下された。九日には長崎にも落とされ、同日、ソ連が対日宣戦を布告した。
八月十五日、日本はポツダム宣言を受諾して二十二日、アメリカ政府は対日占領方針を発表し、日本の民主化、非武装化、軍国主義の根絶基本的人権の確立を明示した。歴史は急転回した。
では大本についての話題がにぎやかになった。「やっぱり大本さんの言うた通りになりましたな」「火の雨が降ると言うたが、火の雨も降りましたな」
ある日、筆者は聖師を訪ねて、そんなの声を報告した。いささか得意げに。ところが、聖師は憮然としてつぶやかれた。
「ワシは、神さんの予言が中らぬようらぬようと努めて来たのやが………」
その時の悲しそうな顔が今も眼底にやき付いている。
九月八日、大審院の判決があり、双方からの上告は却下されて第二審の判決どおり確定する。
そして十月四日、GHQ (連合国軍総司令部)は日本政府にたいし「政治、信教ならびに民権の自由にたいする制限の除去」を指令し、明治、大正、昭和の三代にわたって民衆の自由を抑圧してきたすべての法令や制度が撤廃された。
八月に出された方針の具体化である。まず、政治警察が廃止され、内務大臣以下警保局長、警視総監、さらに各府県の警察部長、さらに特高の全員がひ免された。
十七日、政府は大赦令を公布施行し「国事犯」「政治犯」のことごとくを「赦免」する措置をとった。
これによって第二次大本事件の不敬罪なども消滅し、完全に晴天白日となった。
事件が完全に解決したので、弁護士たちが亀岡の聖師らの住居にあつまり、国家にたいする損害賠償請求訴訟のうちあわせをおこなった。
神殿および個人の住宅まで取り壊し、長年月の不法監禁であるから、その賠償は、当時のお金でも数億円は計上されるはずであった。ところが、たまたまちあわせの席に顔を出した聖師は、
「賠償請求は止めてください。わしは何にも損をしていない。それに過ぎたことは帰って来るものではない。国家からもらうといっても、その金は苦しい国民から取り立てた税金であるから、そんなものを受け取るわけにはいかない」
この一言で請求訴訟は取り止めとなった。このことを知った人々は「本当の宗教家というものがはじめて分かった」と感嘆した。
事件勃発から満十年目の、昭和二十年十二月八日、綾部で「大本事件解決奉告祭」がとりおこなわれた。十年の長きにわたって「国賊」の一味として、当局の圧迫と社会の白眼にさらされながら、それゆえに、むしろ一層強く信仰の火を内に燃しつづけてきた全国の信徒は、交通事情の困難な中を、綾部へ綾部へと参集した。
遠く北海道、九州、四国などからその数千五百人。昔日の面影をまったくとどめていない聖場であったが、信徒たちは、ふたたびめぐってきた春、あまりに遅かった春のよろこびにわきたった。
そこかしこで肩をたたきあってよろこぶ人々。そして聖師夫妻の綾部の住居山水荘へ走る。
聖師はそれらの信徒に染筆した短冊を与えた。あまりの多人数に追っつかなくなると、名刺型の厚紙に拇印を捺してわたした。その一つ一つが家宝となった。
その日の祭典に、参拝した信徒は、久しぶりに、だれはばかることなく、周りを気にすることなく声高らかに祝詞をあげた。
祭典後の挨拶で出口宇知麿から、来春早々「愛善苑」の名で新発足することが告げられる。
十二月八日という日は、まことにいまわしい思い出の日であったが、この奉告祭によってその日は大本新生の記念の日となったのである。
奉告祭がすんで二、三日後、聖師夫妻は鳥取の吉岡温泉へ行って逗留した。その間に朝日新聞の記者のインタビュー記事が、三十日付けの紙面にのった。いわゆる「吉岡発言」として、新し日本の進路を示す重要な内容が注目された。吉岡の高田貞治宅に、それを刻んだ平和碑が立っている。一部を引用する。
日本民族は断じて亡びない。今日本は軍備はすっかりなくなったが、これは世界平和の先駆者として尊い使命が含まれている。本当の世界平和は、全世界の軍備が撤廃したときにはじめて実現され、いまその時代が近づきつつある。
敗戦でうちのめされ、前途暗たんたる思いの国民に、この言葉がどんなに大きな光となったことであろう。
昭和二十一年五月八日、聖師夫妻は綾部を発って再び山陰の旅にでた。今度は松江の島根別院逗留したが、ここは十一年前に検挙された所である。また、新聞記者が多勢つめかけたが、信徒の面会者は、その数二千人をこえた。すみ夫人はここで感懐の歌を詠む。
かへりみれば十一年の夢ぞかし花咲く春にあひにけるかな
七月十六日、二人は中矢田農園を出発して紀州の巡教の旅にのぼる。聖師は高血圧気味で旅立ちは無理であろうと周りは気づかったが、「紀州に行かねばご用のすまぬことがある」と出発した。勝浦の山荘では、面会や染筆に忙しかったが、その時二双の二枚屏風に、綾部と鉢伏山の風景画を揮毫した。
それは、後に聖師の大傑作として、日本はもとより世界各地の展覧会で感嘆の的となる。
出雲と紀州はともに素盞鳴尊と深い因縁の土地である。この両地への巡教が、聖師の最後の巡教となった。
両聖地の再建が始まると、信徒たちは胸おどらせて馳せ参じた。破壊のために散らばった巨石や瓦は膨大な量にのぼり、その取りかたづけは多くの日数を要すると思われたが、全国から切符制限の交通難にもめげず、食糧持参であつまった信徒たちのひたむきな働きによって、作業は急ビッチにはかどってゆく。
聖師は毎日のように中矢田農園から天恩郷にでかけ、新構想による神苑築造を指図した。自らも作業した。直日はこの折のことをこうのべている。
「父は立派な体格でした。丈夫な人は自分の健康に頼りすぎ、つい無理をしがちです。父も血圧が高いのに、暑い盛りを、弾圧にこわされた家の復旧作業に終日出て、若い人がおいまくられるくらい働いたのが無理でした。キット仕事がまどろこしかったのでしょう」
さすがの聖師もおいおい疲労の色がみえ、
意外にも訪問客の多くしてやすらう間さえなきぞくるしき
と、面会も苦痛になる。かくて紀州路から帰って間もない八月の末に床に臥し、医師は脳出血と診断し、安静を命じた。
昭和二十二年にはいっても聖師の病状は一進一退で、はかばかしくなかった。しかし性来の楽天主義によって、病を忘れたように楽しそうによるまい、病室はつねにあかるいふんいきに包まれていた。そして肉体は床にあっても、精霊で世界のあちこちへ行って来た話などを付き添いの者によく話していた。
その年の夏、聖師は喜寿の誕生日を迎え、盛大な祭典が執り行われた。
祭典後、四千人におよぶ参拝者は二列になって聖師の居る瑞祥館の庭をへだてた道をすすむ。その縁側の安楽椅子にもたれている聖師に、面会できるようとのはからいである。聖師の白髪はとみに増えていた。
やがて秋の終わりから初冬にかけて、側近のものに「お世話になった」としみじみとした挨拶をし、主治医にたいしても、ことのほか丁重な感謝を述べた。
あけて昭和二十三年の正月、二代教主すみは、「お月さまが聖師さまのお部屋からあがられ、月の輪台(のち聖師の聖霊の祀られる天恩郷内の聖場)にすっとおはいりになった」という初夢をみた。すみはその時から聖師の昇天を覚悟する。一月十八日の朝八時ごろ、聖師は昏睡の状態となる。
十九日、あたり一面薄雪にいろどられ、きびしい寒気は大地を凍らせていた。午前七時五十五分。出口王仁三郎聖師は水のひくごとく、しずかに息をひきとった。
すみ夫人、直日、出口家の人々、側近者たちに見守られながらの大往生であった。ここに七十六歳と六ヵ月の肉体の生涯を終え、大いなる聖師の聖霊は昇天したのである。
すみ夫人は枕頭に両手をついてあいさつした。
「先生、まことに永い間ご苦労さまでした。お礼を申し上げます。これからわたしはあなたのあとを継いで、立派にやらしていただきます。どうぞご安心下さいませ」
ついで隣室の神前の部屋に幹部を招き、先達をしてみなと一緒に祝詞を奏上した。終わってみなには、
「聖師さまは、みろくの世のお膳立てを、みなが箸と茶碗を持って食べさえすればよいまでに、すっかり整えられてから昇天されたのですから、ご昇天はめでたいのです。泣いてはいけません。
一層元気を出してみ教えのために励んで下さい」と力強くさとした。
その日、十時から瑞祥館で信徒たちと聖師の最後の面会がおこなわれた。生けるがごとき聖師の慈顔に接した信徒は、こみあげる涙を抑えかねつつ、合掌したままうごかなかった。
この日の前夜、獄中でうけた拷問の痛手をいやすため兵庫県の竹田で静養していた日出麿は、庭におり立ち月を仰ぎながらいつまでもいつまでもじっと立ちつくしていた。
聖師昇天の報に、全国の信徒は深刻な衝撃をうけた。十九日から二十八日までの十日間、瑞祥館で毎夜、お通夜がおこなわれたが、霊柩の蓋は覆うことなく、信徒は自由におわかれすることができた。
聖師の面貌はまことにうつくしく、幾日経ってもかわらず、むしろ日が経つほどいっ生きるがごとく、いよいよ神々しくなっていった。
十日目の二十八日、霊柩の綾部移動を前 2 天恩郷での告別式がおこなわれた。斎場となった瑞祥館の内外は参列の人でうずまった。こな雪の舞うなか参列者は庭外にあふれた。
霊柩は、信徒の大工数人によってつくっ王特別の車にのせ、それを曳いて綾部まで運ばれることとなった。
そのなかに聖師愛用の品々が、すみ夫人の手によっておさめられ、霊柩は車にうつされた。三十日の午前一時であった。
これから丹波高原を寒中に徒歩で、綾部までの六十キロの道のりを踏破しようというのである。
霊柩車を曳くのは主に青年であったが、老人も婦人も、われもわれもとお供を申しこんだ。道中が容易でないと説いても頑として聞き入れず、「途中で死んでも悔いはない」という人たちであった。
上天の月が雲間から白い光をなげる三十日の深夜、霊柩車はしずかに天恩郷を出発した。各新聞社のフラッシュは間断なく、この空前の行列をとらえつづける。亀岡市内はことに音をたず進行したが、町の人々は深夜にかかわらずほとんど門戸をひらき、弔意を表わしていた。
隊列は八木で五分間休憩した。そこは五十年前に福島ひさが茶店をひらいていて、開祖と聖師出会うきっかけとなったゆかりの地である。
八木、園部の沿道では信徒がかがり火をたき、みそ汁、湯茶などを用意して一行をねぎらう。園部の先は峠にかかるので、足弱の人にはぜひ列を離れるよう強く申し渡され、人々はそれに従ったが大方はお供をつづけた。
雪の山道を泥まみれになっての強行軍であったが、誰一人落伍する者はない。何人かが宣伝歌を合唱し始めると、や全体の大合唱となり、ますます歩調が速くなる。
神幽現の大聖師
太白星の東天に
きらめく如く現われぬ
一切万事救世の
誠の智恵を胎蔵し
宣伝歌はいつまでもつづいた。
予想外に早く、午後五時には、綾部の彰徳殿に霊柩車は到着した。沿道では迎えの人々がぎっしりと並び、合掌しながら粛然として迎えた。
聖師の奥都城は、天王平の開祖の、もとの奥都城跡のすぐ左側につくられた。すでに聖師昇天の翌日の一月二十日から築造が着手され、雪と氷雨のなか、夜を日についでつづけられ、月末にはつつましい墳墓が出来上がっていた。
二月二日に埋葬祭が行われた。全国からの会葬者三千名は、長い葬列を作って天王平にお供し、霊柩は奥都城に納められた。
それ以後、幾十人の信徒は実に二週間にわたって墓前通夜を行なった。雪の日も、雨の日も寒風にさらされながら、凍てつく大地にむしろを敷いて、敬虔な祈ささげた。
大聖師は昇天した。ここでその人物像をまとめたいところであるが、それにはわれわれの拙い文章よりも、第三者的立場で、しかも長い交遊の中で聖師を観察した、達識の士の評を借りるのがわしいであろう。前に中外日報社主、真渓涙骨の聖師評を紹介したが、今一人、元同志社総長牧野虎次の言葉を引用して補完しよう。
「こと新らしく言うまでもないが、翁の人物は、輪廓があまりにも大きく、尋常の規矩では、到底測り知ることが能わない。天真爛漫、ものに拘泥せぬ点から云えば、大きい子供さながらであった。
宗教的天分豊かに、人心の機微に触るる処を見れば、学ばざる学者、捉われざる宗教家であった。趣味博く、行くとしてならざるはなき側からは、荒削りの芸術家でもあった。
経綸縦横、島国を狭しとして、大陸に渡り、天馬空を駛る概を示すかと思えば、思慮綿密でも洩らさぬ用意で、エスペラント語を奨励したり、世界卍字会と提携したりした。若い老人と云わんか、平凡な英雄と称せんか、将た又の聖者とも評せんか、容易に端倪すべからざる一大存在であった。
一言にして云えば、翁は偉大なる未成品であった。心秘めた天地大本の教義も、事に会うては、恰も忘れたるものの如く、十年忍苦の大試錬も、顧みて呵々一笑に附し去って了った。禅家の所謂「竹密にして流水の通ずるを妨げず、山高くして豊に砕げん白雲の飛ぶを」。行雲流水、成るがままにまかせ、平然として省みず。
一面からは、無神経かと疑わるる計り、無頓着であるが、他面からは、時の趨勢を察して愛善苑を創め、国際宗教運動を奨める等、斯界先覚者の面目躍如たるを見遁すことが能わないのである。
翁のごときはまことに宗教を行ぜるものと称すべし」
