第五章 現代に生きる大本
主の神は宇宙一切の事物を済度すべく、天地間を昇降あそばしてその御魂を分け、あるいは釈迦と現われ、あるいはキリストとなりマホメットと作り、その他種々雑多に神身を変じたまいて、天地神人の救済につくさせたもう。
≪『霊界物語』第四十七巻≫
地の上に数多の国はありながら信ずる神は一つなりけり
神と言ひ仏といへど根本はみな愛善の別名なるべし
隔てなき日光のもとに住みながら別けへだてする世人ごころよ
(聖師詠)
天地がもとで、みな元は一つざぞよ。神は一はらであるぞよ。しまいには皆一つになるぞよ。
≪『大本神諭』明治三十一年旧七月三日筆≫
神は一株であれども、取次が小さいことを申しておるが、そんな小さいことを申しておると、いつになりても神の思わく立たんぞよ。
≪『大本神諭』明治三十二年旧正月十八日筆≫
三千世界を丸めて、人民を安心させ、松の世、みろくの世、神世といたして、天地へお目にかける時節が近うなりたぞよ。
≪『大本神論』大正六年旧二月九日筆≫
耀盌顕現
聖師は「芸術は宗教の母なり、芸術は宗教を生む」と主張した。
「洪大無辺の大宇宙を創造したる神は大芸術者でなければならぬ。天地創造の原動力、これ大芸術の萌芽である」とものべる。また、この芸術とは現代人のいう芸術ではなく、日月を師とする造化の芸術である、と説いた。さらに、
「芸術と宗教とは兄弟姉妹のごとく、親子のごとく、夫婦のごときもので、二つながら、人心の至情に根を固め・・・・・・地獄的苦悶の生活より、天国浄土の生活に旅立たしむる嚮導者である……」という。このように大本の教義と、そして信仰生活のなかで”芸術の尊重”は大きな特徴をなしている。
聖師自ら、自然を愛し芸術に親しんだ。書画等については特別の師について習ったものではないが、そこにはすでに生まれながらに本質的な資質が備わっていて、その作品は神技と感嘆された。
聖師の全身からさまざまなジャンルの偉大な芸術が奔流となって噴き出し、大本の多彩な芸術活動の祖型は聖師によってかたちづくられたのである。
その幾多ある聖師の作品のなかで、もっともつよく人々を驚かせたのは、晩年に全精力を注い手造りの楽茶器であった。
楽焼は、早くから天恩郷に窯を築き、絵付けや手ひねりもしていたが、この晩年のものは前期の作品とは大いに趣が違う。
それは、未決勾留中に頭のなかに描いては崩したおびただしい天国の姿を、現実の形にあらわしたものである。
折よく、京都清水の窯元、佐々木松楽が亀岡の下矢田に転居してきた。聖師は昭和十九年もおし迫った十二月二十八日に松楽の家を訪ね土をひねる。
あけて昭和二十年の元旦、焼きあがった茶器に鳥の一筆画を染筆し、一月三日に釉薬をぬり、六十個の楽茶怨をつくった。
以後、聖師の全身全霊の集中した麗怨は奔流となってつぎつぎと生まれ出る。その早さは、土の方が勝手にうごき、絵の具の方からとびこんできたといった方がふさわしかった。
あっという間に形がつくられ、絵の具が塗られた。塗るというより、たたきつけるような勢いであった。
しかし、その一つ一つに「かむながらたまちはへませ」と祈りをこめていた。茶器の色調は潤沢、明朗、滋味、鮮麗な冴えをみせ、見る者を驚嘆させずにはおかなかった。
聖師の当時の日常は楽焼に明け、楽焼に暮れた。しかもその作業は深夜の十二時、一時にもおよぶことも珍しくなかった。
精魂をかたむけただけに窯出しの日は楽茶怨をみて聖師は大へんなごきげんであった。窯から取り出される一智一怨をみる聖師の顔には、愛児の誕生をみるような大きな歓びと満足の表情がうかんでいた。
しかしそのうち「腕がうごかん」と言って、手造り中にも休息することが多くなった。
日がな一日おのが生命を入魂する真剣さではさすがの超人的な体力もつづくものではない。しかも七十代半ばでの話である。
こうしてできあがった貴重な宝玉にもかかわらず、聖師はたまたまそこに来あわせた者におしげもなく与えた。
玉器の製作の間に日本全土は米軍の爆撃機の爆撃をうけ主要都市は焦土と化し、やがて敗戦のショックが全国をおおった。
その間に永遠の平和を祈念されながら天国の茶怨が丹波亀岡の片すみで創りだされていたのである。
聖師は、空襲でまっ赤に染まる大阪の空を見ながら「外国人も日本人もみな仲良うせなならん。手を結んで仲良くしなければならんからな」と側近の者に言った。そしてその願いが楽焼にこめられたのである。
作業は昭和二十一年三月、三十六回目の窯出しをもって終わりを告げる。聖師の肉体にも限界があったのである。ここまでつくりあげられた玉怨は三千個ともいわれる数に達していた。大へんな数である。
天国のさまをゑがきて楽焼をのこして去りし君ぞ尊き
昭和二十三年一月に聖師が昇天したあと、二代教主すみはこう詠んで聖師と楽焼を称えた。
昭和二十四年、茶陶研究の権威、加藤義一郎は、備前焼の人間国宝、金重陶陽の家で、聖師の後期楽焼茶盤をはじめてみる。
そして驚喜した。その年、『日本美術工芸』に、加藤はその感激をこう伝えた。
「……私は一見してびっくりした。ゆっくり見てゆくうちに、その驚きは歓喜となった。こんな近代フランスの油絵のような茶わんがあるなどとは。
いささか茶わんには自信に似たものを持つ私にも、夢にも思われないことであった。それは楽焼という常識からも、天と地くらい隔離したくやき”だった。
百花ケンラン、フランスの美の感覚にも負けようとは思えない色彩が、光りかがやき、しかもつつましく形造られて、異議なくお茶を飲ませる。超理想的な、このような茶わんがあったのである。よくぞ生れていたものである。
……………何というしあわせ者だろう、と心に銘じた歓喜は、いまもなお、血を湧かしうるのである」
加藤はその紹介文の見出しを「怨顕現」とつけた。輝くばかりの茶怨という意味である。以後、「耀怨」は聖師の後期楽焼の固有名詞となった。聖師の手造りの楽焼類は信徒の間にあっては信仰的な立場から聖なるものと仰がれていたが、その芸術的価値が、その道の専門家から最高級の讃辞とともに世のなかに紹介されたのはこれがはじめてであった。
同二十四年の八月二十三日から二十八日まで阪急百貨店で〝〟の鑑賞展がひらかれ、耀怨五十点や書画などが展示されて絶識の声がよせられた。
美術評論家の外山卯三郎は怨をみて、「これは大天才の仕事だ。茶道の革命のみならず芸術界の革命である」と称えた。
岩井尊文は聖師の作品を鑑賞し、「実に驚嘆した。一貫して精神そのもののゆとり、高潔、崇高な品性がにじみでています。あの大本事件もこの作品を示せばたちまち解決したでしょう」と語る。
聖師の作品をみて入信する人もでた。詩人の和泉丈吉(獏仙)は耀怨のかがやきに魅せられ、
「これは天地創造の原理です。太陽の光そのものであり、海の青そのものの生命を感じます」と感嘆し、これを機会に入信する。
また、歌人の吉井勇はその感激を歌にする。
今の世にありがたき美を見するゆへおもしろきかな茶わん天国この碗を手にしてわれは遊ばし茶道の外の大き世界に
国立民族学博物館館長の梅棹忠夫博士は”怨”をはじめてみた時の感想を次のようにのべた。
「……わたしはそれをみて『ああ、この人はやっぱりほんとうの天才だったのだ』とおもった。これは、ただの人間のつくりだせるものではない。ほかのことはともかくとして、茶わんつくりに関するかぎり、王仁三郎師は天才であったのではないかと、わたしはかんがえている。
耀怨は、それほど常人ばなれしているように、わたしにはおもえるのである。これはなにか、少々うすきみのわるい超人間的な力がはたらいて、できたもののようにわたしにはおもえるのである。
耀の影響は、これからでてくるのかもしれないが、わたしには、これは時代と関係のないその意味で超時代的なもののような気がするのである。
こういうものは、今後あらわれることがないのではないか。これは歴史のなかで一回かぎり、突如として出現しきえてゆく、きわめて特異な性質の作品なのではないか……..。」
卓越した耀怨論というべきであろう。これは講談社刊の豪華本『耀怨』のなかの一節であるが、その同じ本のなかに、三代教主出口直日も耀怨にたいする感慨をのべているのでここに写しておきたい。
「………父は、大本事件解決後も無罪になったのだから賠償をとれと人から勧められても相手にしないという人で、おそらく生涯を通じて、恨みっぽいことを一言もいったことがなく、それで不自由きわまる獄中の生活にあっても、松の梢をわたる松籟の響きを想い、春日の日の照り陰りや、月や雲の輝きや、海の潮のうねりや、移りゆく花々と、ともかく父が観照してきたこ天地のかぎりない美しさを想いおこしたのでしょう。
それを時には具象的に、時には抽象的に、さまざまな姿で父の脳裏に迫るままに空想の茶怨を造りあげていたようです。このことはまことに偉大なことではないかと私には思われるのです。そしてこのことは父にとって、獄中の日々を倖せにしてくれていたことだろうと思います……………。」
かくのべる出口直日のもつ美的感覚はつとに有名で、茶道に書道に陶芸に能楽に短歌に絵画に草木染に八雲琴に手機にと各方面に精励精進をつづけ、それによって大本の芸術はますますみがきがかけられたのである。
世界にはばたく大本
耀怨に対する讃美の高まりの中で、昭和四十七年に突如として海外での大きな展開が起こった。パリ市立セルヌスキー美術館を手はじめに、欧米六ヵ国、十三都市において、三年三ヵ月にわたり、大展覧会が開催されたのである。
それは『王仁三郎とその一門の芸術展』と名づけられ、聖師の耀怨、書画のほか、二代、三代教主や教主補日出麿の作品も合わせて展示された。
初めに心をひかれたセルヌスキー美術館のエリセェフ館長は、わざわざ亀岡まできて、怨を眼のあたりに見た。
聞きしにまさる日本の美に感動し、美術館の創立百周年記念事業として展覧会開催の決意を固めたのである。その時、エリセェフ館長は次のように述べた。
「たくさんの耀盤を拝見して実に感動した。
同時に亀岡における出口家を中心にした、みなさんの芸術生活に心を打たれた。出来ることならば、この生活を天恩郷の風とともにそのまま持って行って展示したい。
全人類、ことに欧米人は、今後進むべき方向を真剣に模索しているが、こんどの展覧会はその大きな目標を示すものとなりましょう」
果たせるかな、パリでの展覧会は爆発的な反響を呼んだ。美術については特別の誇りを持つフランス人が驚嘆した。
『ル・モンド』紙も最大級の讃辞を惜しまなかった。フランスの権威ある芸術評論誌として知られる『セーブル』も耀怨の特集号をだした。
パリ展がすむとあっちからもこっちからも引っ張りダコとなり、ブザンソン、マルセイユ、ニースなどの美術館を巡回した。海を渡り、ロンドンのビクトリア・アンド・アルバート王立博物館でも開催された。
開館の初日には、ロンドン子たちが、先を争って混雑し見苦しい場面もあったという。翌日の新聞がその事態に対して反省の記事を載せたことからも当日の混雑が想像できるであろう。
どの会場でも、怨はもとより、聖師の書画や教主の静かな絵の前に、じっと立ちどまって動かない多くの人たちがいた。芸術には国境がないことの証といえよう。また国境や人種、言語の違いをのりこえようと世界平和に努めている各国のエスペランチストも、この展覧会に共鳴して大いに協力した。
日本文化の粋をみたと各国で旋風をまき起こしたこの芸術展は、アメリカに渡って、さらに新しい世界を切り拓くこととなる。
ニューヨークでは、全米第一の教会といわれる聖公会の聖ヨハネ大聖堂が、展覧会場として提供された。そのことがすでに異例であるが、開会に当たって、大本祭式による開催奉告祭が、大聖堂の最奥祭壇において執行されたのである。
一つの宗教が他の宗教の祭事を、その至聖所において許す。それは、これまでの常識ではとうてい考えられないことであった。
それが、『王仁三郎とその一門の芸術展』を契機として遂に実現したのである。つづいてサンフランシスコでも、同じく聖公会の聖堂において展覧会と奉告祭が行われ、このことが縁となって、聖公会と大本との合同礼拝式の交換がつづくこととなる。文化交流から宗教交流へと発展したのである。
もともと聖公会は、カトリックとプロテスタントとの中間に位置し、両者の橋渡しをすることに使命感をもっているようである。
そのために両聖堂長が、万教同根を唱える大本に対して共感を抱いたのであろうが、それにしても、これは容易ならぬことで、両聖堂長の勇気が称えられなければならない。
しかし、この奇蹟を実現せしめたのは、やはり耀怨のもつ神秘力と言うほかはあるまい。
昭和五十二年二月三日、開教八十五年を記念する大本節分大祭の当日、綾部のみろく殿の最奥祭壇に十字架が安置され、その前に三方十五台の神饌が供えられた。
やがて聖ヨハネ大聖堂長、ジェームスパークス・モートン司教の司式により、キス・オブ・ピース(平和と一致)と呼ばれる、古式の礼拝式が行われ、参列の大本信徒全員が唱和して平和を祈った。
日本の宗教界からも代表的な人々が参列したが、その一人湯浅八郎博士は、その日のキリスト教礼拝式を「宗際化のはじまり、聖なる冒険」と讃嘆した。
各新聞もこの異常な出来ごとを大きく報道した。同年秋の大祭の翌日、こんどは亀岡の万祥殿で、サンフランシスコのグレース大聖堂長、スタンレー・フォーレスト・ロジャース司祭による「平和と一致」の礼拝式が行われた。
五十三年五月には再びニューヨークの大聖堂で、大本の多数の祭員による「みろく顕現祭」が行われ、つづいて「大本歌まつり」が厳修された。
その後二年ごとに同所で同様の行事が行われ、合わせて長期逗留の文化交流も行われるなど、大本聖公会との緊密感は年を追うて深められた。五十五年にはニューヨーク・ヨハネ大聖堂を経て、聖公会の総本山というべきイギリスのカンタベリー大聖堂で、教主の三女聖子ほか大本の役員信徒が能「羽衣」を奉納し、これまた大きな反響を呼んだ。
そして、五十八年十一月五日、天恩郷において、今度はずっと幅を広げて、諸宗教の代表者による合同礼拝式が行われた。
国内の仏教、神道、新旧キリスト教、イスラム教の聖職者のほか、アジアの諸国からヒンズー教、シーク教、バジラヤン仏教、上座部仏教、ラマ教、イスラム教の聖職者、そしてニューヨークから聖ヨハネ大聖堂長モートン師を迎えたのである。
色とりどりな祭服、法衣に威儀を正した二十九人の代表は、八雲琴の奏楽のなか、拝殿に昇り、献燈の儀、修祓行事の後、各教それぞれの祈りの詞を捧げた。
さらに殿内能舞台に設けられた歌まつりの祭壇前に移動し、順次歌垣の前に進んで祈りの歌詩を捧げ、次に関本肇日本聖公会司祭の司会によって、代表者たちと参列者全員が握手しあって平和のあいさつを交わす。聖歌隊の合唱が流れ、この度の礼拝式の主題たる「平和と創造」がその祈りの中で実証された。
きびしい世界情勢を背景に、異教徒どうしがはるばる相集い、教えと伝統、礼式の異なりを越えて、一つ心に世界平和を熱したのである。
戦争は人の心の中に始まる。人の心を和め世に平和をもたらすために、宗教の果たす役割は大きい。
しかし、歴史的にみて宗教が常に平和の力たりえたかどうか。平和の妨げをなしたのもほかならぬ宗教であった。宗教宗派がもつ宗我の心わが仏尊し、他はすべて異端とする排他性が、ときに宗教をして戦争を起こさしめたことさえあった。
その深い反省に立って、いまこそ人類連帯の新しい世界観を生み出し、みずからを再創造し、永遠の平和の礎たろうと神仏に誓ったのである。
その宗教の垣根、垣根の中のもっともやっかいな垣根が、この礼拝式で見事に乗り越えられた。この聖なる冒険、聖なる雛型が、やがて聖なる翼をつけて世界中を飛びかい、人と人、民と民を隔てる障壁を突き崩していくことであろう。
かくて、両教祖、二代教主たちが、血涙をしぼって叫び、招きつづけた神約のみろくの世恒久平和の世界は、実現への鼓動を大きくした。今見る地上の暗黒と混乱は、やがて暁となり、人々が幸せをうたう世界となるであろう。
心耳を澄まして聞こう。みろくの世の足音がもうそこまで近づいているのだ。
大本の主張する万教同根の思想を、絵にかいたように具象化したのが合同礼拝なのであるが、その礼拝式のきっかけとなったのは、教義上からの接近ではなく、芸術作品であった事実は、ひじょうに注目すべきことなのではなかろうか。
それは「芸術は宗教の母なり」とする聖師の哲理と、それを実証する”耀盌”をはじめとする大本の指導者の作品のうつくしさ清らかさによってかれたもので、芸術はあたらしい世界を生みだそうとしているといってよいのではないか。
芸術を基本として道を説くわが大本は晴やかなりけり
芸術を母ととなくて宗教を世界にひらく伊都能売の神
(聖師詠)
みろくの世
開祖・出口なおは「この暗がりの世を立替え立直してみろくの世にいたすぞよ」と宣言した。それが大本出現の意義であった。
一方、出口王仁三郎聖師は、人生の真目的は地の上に無窮の天国たつるにありけりと詠んでいるが、同じ意味と考えてよい。みろくの世、無窮の天国をうちたてるのが神の意志であり、また人生の窮極の目的なのである。それでは、私たちはどうすればいいのだろう。
そのまえに、”みろくの世〟、地上天国とはどのような世の中なのか考えてみたい。
大本神諭によれば、「今はけものの世、強いもの勝ちの、悪魔ばかりの世、悪神に化かされて未だ眼が覚めん暗がりの世であるから、大洗濯大掃除をして、天下太平に治めて、永遠につづく神国の世にする」というのである。
その神国の世とは、「天災地変はなく、病災もなく、戦乱は跡を絶ち、人は生活に苦しまなくてすむ、不公平のない世の中」だという。
『霊界物語』の内容もつまるところ”利己主義”と”強いもの勝ち”の今の世を、まことひとつの世に立て直す神業の脚本であり、邪神、邪霊を神心にたちかえらせ、憎しみや争い、偽りはかげをひそめ、盗み、殺しなどのない世の中を実現するための神書なのである。
そして、各民族の特性をみとめ、世界の人民はひとしく神の子であり、ひとつの神のもとに兄弟同胞だという人類愛善主義の思想が強調されている。
みろくの世〟における人々の生活ぶりをさらに具体的にのべてみよう。聖師の話を総合すれば、まず貧富の差がほとんどなくなり、現代のような民族的主権国家の闘争がなくなる。
また、戦争がなくなり、世界は一軒の家のように結ばれ、共通の通貨ができる。
世界のどこへでも簡単に行くことができ、小さな駅で世界行きの切符が買えるうえ、数時間で世界の各地に到達しうる。
言葉は、方言(各民族語)と共通語(エスペラント)になる。
教育も今のようなつめ込み主義ではなく、大地と接触したものとなり、また各自の才能を伸ばす指針となる。
各宗教は特性を発揮して連帯し、農業が重んぜられ、土地は公有となり、神からの借りものであるという意識に立つ。
都市は人口が十万前後となり、家族構成は一夫一婦制で、世界の総人口は五十六億七千万人になる。
公害のないエネルギーが無尽蔵に供給され、人々の仕事は適材適所となり、労働時間は一日に一時間ないし三時間でよくなる。休日も今より多くなり、芸術と生活が一体化した日常となる、というのである。
この地上天国が完成するまでの道のりはまだまだ遠いだろう。しかも、それまでに人類が天災や戦争で破滅”の関門を通らないとも限らないのである。
核軍縮は超大国の”われよし””強いものがち”の心にはばまれ、南北問題も貧富の差も是正されず、多くの発展途上国は人口爆発と貧困におそわれている。
先進国も経済活力にかげりをみせ、失業とインフレに重くのしかかられている。解決策のみいだせそうにないこれらの問題、一触即発の世のさまもまた、明治二十五年いらい二十七年間にわたって書きつづけられた”お筆先=大本神論”の警告の通りである。
この人類を破滅から救う道は、実質的な国境の撤廃と民族や人間同士の敵愾心の撤廃、”われよし”の排除が根本的要件といえる。それは、同時に、〝みろくの世へのパスポートなのである。
真の神を信仰する時、はじめてすべての民族はこの宇宙生命から芽ばえた同胞であることの自覚に達する。そして世界の各宗教宗派の大同団結によって人種、民族、宗教の障壁をとりのぞき、愛と誠の花ひらく世界一家の理想実現を図る。
この世のいっさいは、すべて神さまからのあずかりものである。このあずかりものを、より良く、より美しく、よりゆたかにさしていただこうとするのが、人間のつとめである。
このことに万人が気づけば、”われよし”、”強いもの勝ち”の気持ちを改めることができ、はじめて、人々が楽しく安らかに暮らすことのできる世のなかとなるのではなかろうか。
昭和二十一年に聖師を天恩郷におとずれた朝日新聞の記者は、こんなことも尋ねていた。
「日本が、こんな無茶苦茶な状態になった根本原因はどこにあるのでしょうか」
その時、聖師は即座に「それは皆”われよし”だからだ」と回答するのを傍らで聞いた。
別の日にある人が、「日本はなぜこんなつまらない戦争をおこしたのですか」と問うと、「日本のえらい人たちは”われよし”で自分たちがいちばん正しく、えらいとおもっている。それで戦争がおきるのだ」、さらに「日本ばかりでなく、アメリカもソ連も他の国の人々もこの”われよし”を改めないかぎり戦争はあとを絶たない」と答える。
もちろん聖師は、言うだけではなく、生涯を通じて実践した。聖師は、かつて「皇道経済」を唱えて世にうちだしていた。
ある座談会で有識者がその皇道経済とは具体的にいえばどういうものかと尋ねると、
「富士は富士のまま、太平洋は太平洋のまま、その特性を真に生かし、日本も外国もよくなるのが皇道経済です」と答え、さらに「金持ちは貧乏人に金をわけてやれとか、やらねばならないとか言うのじゃありません。
しかし同じ日本人じゃないですか。そして同じ人間じゃないですか、金持ちは貧乏人を黙ってみておっちゃいかんというておるだけです」と、のべている。
経済問題に限らず、政治、教育すべてが自然発生的な愛善精神に根ざさなくてはならないと説くわけである。
それは、私たちがこの世のものはすべて、天地の神のものであると気づくことによってはじめて芽生える心情なのである。
筆先には、しきりと「改心」による身魂の立替え立直しが要求されている。また三代教主直日はつねに「まず、”われよし”をあらため、自分の心のなかに平和をつくり出さなくてどうして平和を語れるのでしょう」と教える。
大本にあってもこれまで、理想社会の到来を願うあまり、時として信仰者としてはどうかと思われる行動のあったことも事実である。
おのおのの改心なくしてなにを世のなかに求めるのか、天国をおのが霊魂中にうちたてずしてなにを語るのか。
そこで、この身魂みがき、精神の向上、そして心の平安をはかるために、生活の根底に真の宗教と芸術をおき、信仰即芸術即生活の生き方がのぞまれるのである。
個人のみならずあらゆる分野にその思想の透が待たれる。
芸術の趣味を悟らぬ人々は地上天国夢にも来らず
と聖師は詠んでいる。
開祖出口なおの生活とその立居ふるまいのしずけさや美しさは、即宗教であり即茶の世界にはいっていたという。
開祖は茶道や能を一度として学んだことはないが、芸術を意識することなく芸術的生活をおこない、日常にあって茶道の目指す和敬清寂をただよわせ、能楽の雅を無意識のうちに体現されていた。
そこに限りない尊さがあり、それだけで人類にたいする偉大なる教示なのではないかとおもうのである。
現在、大本の教主として信徒の心の支えになっている出口直日は、明治三十五年三月、聖師と二代教主すみの間に生まれ、幼少の多くを、祖母にあたる大本開祖の膝下ですごす。
そして天来の水晶身魂の上に、はやくから芸術の道に精進し、事件中、事件後もたゆみなくつづけた。
昭和二十七年の三月三十一日、二代教主すみの昇天と同時に、直日は三代教主に就任し、開祖、聖師の両教祖と二代教主の神業を継承した。
教主になってもその生活は前とかわりなく、無言のうちに教えを説き、かつ行い、宗教と芸術の生活化という特色ある教風をつくりあげてゆく。直日は独善的、観念的になりやすい信仰生活の誤りをいましめ、つねに「脚下照顧」の気持ちを持つことを諭し、自身がその師表となったのである。
「教み祖や、み教えの偉大さを誇るだけでなく、そこに示されたみ旨を身をもって懸命に行わしていただくことにより、神さまがお与え下さる光を人々に伝えさしていただくことができると思います。
かく念じますにつきましても、大切なことは、来る日々を好日として、一日一日の最善をつくさしていただく外はありません。
それは、一日一日、うす紙を一枚一枚重ねてゆくように、地味に、平凡に、少しずつでも、み心をふみ行わしていただくことであると思います」
このように平易に、しかしもっともきびしい精進の道を示すのである。
教主補の出口日出麿は、第二次大本事件中の取調官の拷問をきっかけに、神仙の世界に入り、偉大な霊的活動に専念している。
事件中に加えられた暴力によって、そう長くない生命であるとの医師のみたてにかかわらず、日出麿は今も健在である。端座のままの生活であるが、その周辺に不思議が満ち、遠くにありながら師に霊的体的に救っていただいたという信徒のお礼参りは絶えない。
このお二人によって、開祖の根本精神と聖師のみ教えが新しい近代精神に活かされ融合されて、大本はいま、生き生きとしたリズムが脈打っている。
大本の最大の特色は、二人の教祖をもつということとともに、歴代教主がそれぞれ傑出した神人であり、生ける神さながらの神秘をたたえ、神の意志のままに、権威ある教えを垂れ、人類の永く待望した新しい世界の創造にむかって、日夜救いの神業を推進していることである。
いずれ、この本に紹介した出口なお、出口王仁三郎だけでなく、出口すみ、出口直日、出口日出麿をふくめた五人の生いたちと、くりひろげられたドラマを世に紹介する必要があるとのおもいをのこしてペンを擱きたい。
あとがき
今ペンを擱くに当たってしみじみ思うことは、あまりにも未熟な記述ぶりで、申しわけなさで一杯であるということである。
ことに敬称敬語抜きの文体は、信徒の一人としてまことに書きづらかった。
両教祖をはじめ、登場のすべての方々に対し、その無礼を、深くお詫び申し上げる。
苦労したことは、材料が多過ぎて、何を削るかの選択であった。大本は、戦後も歴代教主の意を体して多彩な活動を展開してきたが、スペースの都合で割愛せざるをえなかったので、そのあらましを、ここに紹介してみたいとおもう。
農は天下の大本
聖師の昇天後二代教主は、聖師がのりうつったかと思われる勢いで、教団の先頭に立ち、万般の指導をした。そのため、聖師昇天による衝撃は速く癒され、教勢は盛り上がった。その中で特に力の入ったのは食糧増産の運動である。
外団体として社団法人「愛善みずほ会」を設立し、増産技術の指導と農家経済の向上をめざし、教団を母体として全国的な活動が展開された。この「みずほ会運動」は、日本農村への大きな光となり、ひいては日本の立ち直りに貢献した。
これは一寸のお土も大切にせねばならぬという、開祖以来の大本信仰の原点に立つもので、今もみずほ会は出口直三代教主を総裁として食糧自給を目標に着実な歩みをつづけている。
みずほ会について今一つ特記すべきことは、「島本酵素」を使っての有機農法を奨励していることである。農薬と化学肥料の弊害から救う道はこれである。開発者の島本覚也も聖師にただ一度会っただけで入信し、生涯堅い信仰を貫いた。
今日、食糧は表面上あり余っているようにみえるが、自給率三〇パーセントというような危険な状態について、国民は真剣な反省をしなければならない。
工業も大事ではあるが、土を侮った文化は、所詮一時の徒花に過ぎない。かつて開祖は、三女ひさに、土産としてかまぼこ板に土をのせて与えたことがあるが、それはお土の大切さを訓えた表象的なエピソードであった。聖師は「農は天下の大本である」と喝破している。
社会福祉活動
「誰一人つつぼに落とされぬ世」それが開祖の訓えたみろくの世の姿である。「つつぼ」とは「土穂」のなまりで、踏みつけられて役立たなくなった稲穂のこと。そのような状態のない世の中を神はつくられようとしているのである。
人々のまごころによって、ハンディを持つ人々へ愛の手が差しのべられることは美しい。それは、古くからある程度行われていた。しかし社会そのものが自らの責任としてそれを行うべきだとする考えは比較的新しい。
大本の外廓団体として社会福祉法人「愛善信光会」が設立され、身体障害者に対する諸種の福祉活動が精力的に行われて来た。
同和推進運動については、大正十二年、出口聖師が、当時、全国水平社中央執行委員長だった南梅吉を京都の自宅に訪ね、水平社の運動を激励し、自分の写真を贈っていたことが、最近、社団法人部落問題研究所顧問木村京太郎から感動をこめて発表された。
大本信徒は、その信仰の上からも、いわれなき差別があってはならぬことをわきまえ、生活の中で実践してきた。
しかし、教団としての取り組み方の不十分であったことが反省され、最近教団に同和推進部を設けて積極的活動を始めている。社会全体から、一人一人の心の中から、われよしと差別を払拭することに努めたい。
世界連邦運動
世界連邦運動に参加推進することになったのは、これまた二代教主の英断による。
「七王も八王も世界に王があっては口舌が絶えぬから、一つの王で治める仕組」との開祖の筆先は、世界連邦運動の主旨と同じである。ここにある「王」というのは「主権」と考えるべきであろう。
原水爆のような怖ろしい兵器ができた以上、国々が絶対主権を振りかざし、軍拡競争をしていては、人類は破滅への道をたどる外はない。世界各国を連邦化し、国と国との間の紛争は世界法により世界裁判所で解決し、戦争はしないでよいように、またできないようにする。
当然各国の軍備は全廃し、ただ治安のための若干の警察力のみを世界連邦政府が持つ。軍備に金や人を使わないですむようになれば、人類全体がどんなに幸せになることだろう。
世界連邦を唱えた先覚の一人にアインシュタイン博士があり、一緒に相談したのが湯川秀樹博士である。やがて尾崎行雄、賀川豊彦、東久邇稔彦、片山哲、下中弥三郎等々、熱烈な同志が現れ、運動は日本国内にも急速にひろがる。
大本ではこの運動を推進することを契機として、「人類愛善会」を復活させ、全国の信徒、会員は火のように燃えた。
昭和二十五年の十月十三日には、綾部市議会の議決により、「世界連邦都市宣言」を行った。それは全市民の意思により、世界連邦に賛同することを宣言したもので、これが日本における宣言第一号である。
第二号は昭和二十七年の亀岡市で、その後、広島、松江、岡山、金沢、京都をはじめ大小三百の都市が同主旨の宣言を行い、さらに岡山県、石川県、京都府、東京都、大阪府等二十八の都府県が、それぞれ議会の議決によって宣言した。
それを実現せしめるためには、全国各地の大本信徒の奔走が役立ったことは自他共に認めるところである。
大本の二大聖地の所在地、綾部、亀岡の両市が、宣言の一号二号である事実がそのことを物語っているし、われわれは、この運動が重要な意味を持つことを深く自覚している。
エスペラント
昭和二十一年の再建後、エスペラント活動もいち早く復活し、海外との文通、人の往来、機関話の再刊など、エスペラントによる宣教活動が目覚ましくなると共に、普及活動のための「エス「ペラント普及会」も再発足した。
昭和三十四年夏ワルシャワで開かれた、ザメンホフ博士生誕百年記念の第四十四回世界エスペラント大会には、伊藤が大本および日本の代表として派遣された。
参加者四十五ヵ国四千人の中日本人はただ一人であったが、それはドル事情などが極度に悪かったためである。
伊藤は各国同志の招きにより、大会後一年間にわたり二十二ヵ国、百五十の都市を訪ね、百八十回の講演をした。もっとも多く用いた講題は「一つの神、一つの世界、一つの言葉」。
その後、聖師の直孫出口京太郎が梅田善美と一緒に数ヶ月にわたり欧州を回ったが、その興味あふれる旅行記が『エスペラント国周遊記』として朝日新聞社から出版されベストセラーとなった。
昭和四十年、東京で開かれた第五十四回世界大会に際しては、亀岡で二日間にわたり「大本国際友好祭」を催し、三十ヵ国百五十人の参加者が、日本の伝統文化にたんのうした。
昭和四十八年と五十八年には、亀岡で日本エスペラント大会を開き、それぞれ千人近い参加者があった。
民族間の意思疎通のためにはどうしてもこの中立で学びやすく美しい国際語を普及せねばならない。それが世界平和の基礎である。言語的帝国主義ともいうべき、英語のはんらんには問題があり、日本の若者を英語学習の重圧から解放するためにも、エスペラントの普及につとめたいと思う。
人類愛善会
「人類愛善会」は世界連邦運動と共に、ビキニの水爆実験直後、原水爆反対の署名運動に立ち上がり、たちまち二百万の署名を集め、原水禁運動の推進力となった。
その後曲折を経て、出口直日総裁の発議によって四十六年再発足、人類愛善の大精神による人間の立直しと新しい人類文化の創造を旗印に、幅広い活動を展開する。
総裁はかねてから、日本の自然破壊の惨状に強く心を痛めていたので、その意を受けて愛善会は、ことに自然を守る運動に情熱を傾けた。そのために東大の字井純、農林省の西丸震哉、慈光会の梁瀬義亮らとの交流を深め、水俣の告発にも力を尽くした。
最近とくに注目すべきは、インド、ネパール、スリランカ、アフリカ等における動きである。それは現地の会員による分会の設置と、愛善施療所の開設である。
インドではバンガロール、マドラス、デリー、マイソール、トリッチ。ネパールではカトマンズに数年前から八つの分会や愛善センターが出来ている。昨五十八年にはバンガロールで愛善会の国際集会が開かれ、各国から多数の代表が参加した。
スリランカではプリヤンクラム計画という壮大な事業が進められている。
二十五ニーカーの農地に有機農法の模範農場を建設し大本神を中心に、ヒンズー、イスラム、キリスト、仏教、大本の五教の神殿と共同礼拝所をつくろうというのである。
分会長アメラシンゲ博士は『アイゼン・ワールド』という季刊誌を発刊し、世界四十ヵ国に配っている。アフリカのナイジェリアにも分会が出来る運びになっている。
このようにアジアやアフリカに愛善運動が伸びて来たことに、大きな神のはからいを感ずるものである。日本の同胞に対しても、今後欧米にまして、アジア、アフリカへいっそう眼を向けることを望みたい。
型をだす大本
大本の信仰に生きる信徒の立場からいって、大本におこることはすべて神の仕組みによる経綸であり、その具体的な証として、大本は世界のかがみであり、「世の型」をだすところという認識がある。
大本神論に「世界へ善と悪のかがみを出す大本であるぞよ」(明治三十年旧一月十九日)
「大本には世界のことが写るから大本の中の様子を見ておりたら、世界のことの見当が、あきらかに分かりて来るぞよ」(大正六年旧二月九日)
「大本にありたことは世界にあるから」(大正元年旧七月四日)などとあるが、まさにそのような解明しがたい現象がたくさん存在する。
その事例をいくつかあげよう。これは本文にものべたが、昭和十年十二月八日未明、当局の奇襲的大検挙により第二次大本事件がはじまり、それから満六年後の昭和十六年十二月八日の未明、真珠湾奇襲攻撃によって太平洋戦争がはじまった。ここでは、月も日も時刻も状況も同じであった。
次いで綾部、亀岡の両聖地が当局の手で強制売却されたのが昭和十一年四月十八日であったが、六年後の十七年四月十八日、日本の東京は初空襲をうけている。
また、第二次大本事件は、九年九ヵ月後の昭和二十年九月八日、大審院の判決によって解決したが、太平洋戦争も九年九ヵ月後の昭和二十六年九月八日のサンフランシスコ講和会議で終結。聖師の未決勾留は満六年八ヵ月であったが、日本が連合軍の占領下におかれて、国際的に自由拘束されていたのが同じく満六年八ヵ月であった。
かくて、第二次大本事件という不祥事の型は、日本や世界にかがみに写されるごとくあらわれ戦争という形をとり、大本教団は事件によって徹底的に破壊されたが、日本もまた戦禍をうけて破壊された。
このように大本事件の経過がことごとく大戦の経過と合致する事実を、たんに偶然の一致と言うことはできないであろう。
こうした符節の一致をふり返ってみると、ただただ神の摂理というか、一切が大いなる力のなせるわざと身にしみて感じるのである。
聖師の、大本事件の損害賠償権放棄に対応するように、連合国が日本にたいする賠償権を放棄した事実もまた見逃しがたい。
右に掲げた戦後の大本の諸活動も、良い意味で日本や世界に型としてでているのではないかと考えるのである。
そして、とくに本文でのべた宗教交流合同礼拝などは、一日も早く全世界にその精神が具体的に波及してもらいたいと願う。
終わりにあたって
今、振り返ってみると冗長、重複の半面に大切なことの欠落もあり、整理と推敲を尽くし得なかったことを遺憾に思う。
しかし、わたしとしては、この仕事を与えられたことに最高の喜びを持ち、一期一会の思いで祈りに祈り、ゆるす限りの努力を捧げたつもりである。
執筆について、同信の友、藤代和成、三ッ野真三郎らの大きな協力を得たことを感謝する。
縁あって本書をお読み下さった方々には、そのことを感謝すると共に、ぜひ一度亀岡か綾部に来られて、教祖たちの遺した香りに直接触れていただきたいと思う。
昭和五十八年十二月二十八日
伊藤栄蔵
