深見東州の土曜神業録25(VOL.5)

パート3 「霊能力」と「神通力」、その違い

正の霊力、邪の霊力

【深見先生】 それではパート3のお話に入りたいと思います。このパート3では、「霊力と神力の違い」についてお話しいたします。

だいたい、霊能力などと言いますが、霊力のある人は実際、まぁまぁいるんです。けれども、神力と霊力ということの違いについては、あまり考えない人が多いのではないかと思います。

超能力なんてことを世間でもよく言いますけれども、この超能力というのは能力を超えているという意味です。

「神通力」というのは、これは神に通じている。

六大神通力といって、天耳通力、天眼通力、他心通力、運命通力、宿命通力、漏尽通力があります。運命通力の代わりに、神足通力というのを入れたりもしますが、とにかく「六大神通力」というふうに、お釈迦様は言っております。

超能力、神通力、霊感、霊力・・・・・・、さらに最近は神霊能力なんて言いまして、このようにいろいろな言葉が言われておりますね。ともかく、「神通力」とい うことには、六大がありますよ、ということです。

超能力というのは、例えば物品を引き寄せてみたり、玉をグルグルと回したり、いろいろありますね。

何もないところからパッと何かを出すとか、あるい はテレパシーがあるとか、この超能力ということに関しては色々と今、世界中で研究されております。ソ連とか日本とか、中国でもそうです。

だけれども、この講義では、この霊力というものと、神力というものの違いにつきまして、皆さんに、明確に理解していただきたいと思うわけです。

例えば今言ったような、「見える」「聞こえる」とか、「僕も見えるようになりたい」とか、「ああいうふうに霊とか神様が見えたらいいなぁ」とか、いわゆるそういう能力というのは、これは霊力のことなのです。

霊力というものは、もう少し細かく言いますと、四次元に精通した能力ということになります。そう言い換えられるのではないでしょうか。つまり、霊力とは何かというと、四 次元に精通した力であると。

それは、どういうことかと言いますと、はっきり申しまして、守護霊の力なのです。この守護霊の力がほとんどです。

稀には、自分自身の御魂の力でバッと見えたりします。でも普通は、御本霊が霊的に修行を積みまして、 要するに守護霊様が来て守ってくれる。

「あの人は霊的に敏感だ」などと言いますけれども、そういうのは、ほとんどの場合は守護霊様が見せてくださっているというのが実態です。例えば、お地蔵さんがあります。お不動さんの像があります。

それで、しょっちゅう、しょっちゅう、お不動さんにお願いしたり、お地蔵さんにお願いしたりしていますと、何か見えたり聞こえたりするようになった、ということがある。

そういう場合、本当にお不動さんが見せているか、本当にお地蔵さんが見せているかといいますと、甚だこれは疑問ですね。ほとんどは、お地蔵さんやお不動さんの陰にいて、お不動さんやお地蔵さんの像にペチャッと憑いている、坊主の霊だったりします。

行者さんとか坊さんの霊です。そういう人霊が見せている場合が多いのです。本人は、「あっ、お不動さんだ」と思っております。

お地蔵さんだと思って、お地蔵さんを拝んでいます。また、薬師如来さんだとか思っているわけですが、ほとんどの場合は、そこへ憑いている人霊が見せているのです。

行者の霊とか 坊さんのとか、そういう四次元の力の場合が多いです。あとは、稲荷、キツネとかです。ヘビもいます。そういうものが憑いて見せている場合もあります。

ですから、その霊力にも正と邪があるわけですね。そういう意味で、マイナス的な行者さんの霊も多いのです。私たちが滝に打たれていると朦朧としてきます。 御本霊の力が非常に弱くなっていきます。

あるいは断食をします。すると栄養もないし、睡眠不足になるし、体力的にもかなり衰えていく。その意識が朦朧とした時にパッと見えるようになった。

すると、「あっ、滝に打たれて断食修行したから見えるようになった」と喜ぶのですけれど、実際は、本守護霊とか守護霊の力が弱くなっていて、「どうぞ邪霊さん、来てください。どうぞ行者さんのような、フラフラしている人霊さん来てください。 どうぞ龍や天狗さん、私に乗り移ってください」という状態になっているわけです。

そのように、お山でパッと憑いたり、行場でパッと憑いたりして、霊力が出る場合が非常に多いのです。これはもうほとんど、邪の場合です。

ですから断食修行とか、あるいは滝行とか、お山でハードな修行をしたという人は、ほとんど御本霊が弱くなりまして、こういう邪の霊が入ってしまって、そして「霊力が出た」と喜ぶという事例が多いのです。

では正のほうの霊力とはどういうものかと言いますと、正しい修業をして非常に位の高い守護霊様とか、あるいは、「日本の仏教界のために立ち上がるんだ」「日本の社会や人々のために生きるんだ」というような高い志に合致した 守護霊様によるものです。

パート1とパート2でも言いましたように、そういう志の情熱を燃やしながら死んでいった、例えば昔でしたら天皇陛下のために命を捧げた人とか、南北 朝時代の忠臣とか、明治維新の志士とか……。 あるいは聖徳太子様の頃もそう ですし、壬申の乱の時などもそうですね。

天皇様や皇室や日本の国の未来のために――なんていう気持ちで生きていた人は、 これは国家の忠魂、忠霊です。 忠臣などと申しますのは、やはり日本の国のために、皇室のためにと思っていた霊ですから、死んでからもそう思っているわけです。

皇室には皇霊殿というのがございますね。宮中には宮中三殿というのがありますが、お鏡とかいろいろお祀りしております皇霊殿の中で、代々の天皇家のご先祖様をお祀りしていることがあります。

そういう、何々のご先祖様とか、 天皇様の忠臣とか、こういう人が御皇室の中心にいるわけです。日本の国のために、天皇様のためにと、そういうふうに生きてきた人は、同じき波長を出しています。

明治維新の志士や、 南北朝に生きた忠臣など、「日本の国、皇室のために!」と言って死んだ霊は、やはり同じき志です。

でも霊には肉体がないので、同じく志ある人間に乗り移りまして、ふたたび 国家のために、皇室のためにお働きをしようとするわけです。

そういうとき、異常なぐらいの能力が出たり、パワーが付いたりして、ドンドン、ドンドン守護するわけです。

それは、同じき志の人間だからこそ、背後霊になって霊力を与えてくださるわけです。そういう正しい場合もあるわけです。これは正の霊力ともいうべきものです。

キリスト教ですと、「キリスト教のために」 と思って死んだ受難の人も多いでしょう。あるいは仏教ですと、「何としても弥勒の世を樹立するんだ」なんて頑張った人もいる。

兜率天にいる人は、「仏教の既得権益を何とか守るために」なんて狭い考えじゃないです。

もっと大きな宇宙の神様とか大御心に殉じまして、人類のため、世の人々すべてのために ―という気持ちでいる人たちです。そういう人が兜率天に行きます。

この兜率天の人の守護を受けようと思ったら、私たちもそういう志でやっていかねばならない。そういう志でやっていると、知らない間に、ドンドンと応援が来るわけです。同じ心だから守護し、霊力を与えてくれるわけです。

このような、正しい霊力というものは、日常生活におけるごく普通な生活をしておりましても出ます。もし大いなる志を持っていれば、その霊がどういうランクなのかなんて知らなくても、志の方向性に合った形で、守ってくれます。

ですから、こういうことが言えると思います。それはつまり、私たちはごく普通に、何事もなければ家族のことを思いますから、するとご先祖様が憑くわけです。

ご先祖様が守護霊となって、それなりの霊力というものを与えてくださる。これも「正」なのですね。

しかしもし、「霊力だけが欲しい、霊力が欲しい、霊力をつけて知名度を上げたいという気持ちで断食したり、山に籠ったりしますと、やはり「霊力が欲しい!」と思って山中で死んだ行者霊などが憑いてしまうわけです。

それでも確かに霊力は出ますが、そういうのは「邪」の霊力なのです。

どっちにしろ、少なくとも霊力というものは、そういう人霊が、こういう形で見せている場合が多い、というわけです。

明治大帝の歌に至誠からくる「神力」を垣間見る

さて、これに対しまして、「神力」とは何か。 「神力」というものは、どういうものなのか。

明治天皇様の御製の中に、「天地もうごかすばかり言の葉の・・・・・・」という歌があります。

「天地もうごかすばかり言の葉の」 と。

「…まことの道をきはめてしがな」。「天地もうごかすばかり言の葉のまことの道をきはめてしがな」。「言の葉のまことの道」と申しますのは、言霊ということも言えますし、言の葉ですから和歌のことであるとも言えましょう。

このお歌によれば、天地を動かすほどの言の葉、その言葉の一言一言が、あるいは祝詞が、神様に言上申し上げるその言葉が、天地をも動かす、というのです。

それほどの言葉が発せられるような誠の道を自分は歩まなければ駄目である、というわけです。

やはり、天地を動かし得るだけの神様の道に叶わなければ駄目でございます。

そういう意味で、天地も動かすばかりの、そういう言霊を発することができるように、誠の道を歩もう、というわけですね。神様から見て、この誠の道の一筋とは、中庸の道のエッセンスでございます。

だいたい聖徳太子様でも、どの高徳の方でも、日本の歴史を見ましても、中国の歴史を見ましても、宋の時代までは、例えば漢の時代などでも、「易経」 が儒教の中で、あるいは四書五経の中で、最高だと言われておりました。

みんなこの「易経」を勉強しておったのです。

隋の時代でも、漢の時代でも、中国の官吏登用試験である科挙などを見ると分かるのですが、この『易経』が最後の関門でございました。 宋の時代からは、ほとんど「中庸」がエッセンスになりました。

この「中庸」と「易経」というものは非常に関連性がある。

竹内義雄博士という人が「易経」と「中庸」の有名な研究者で、老荘思想の研究が高く評価されております。

その竹内博士によると、「中庸」のエッセンスは、何といっても「至誠」だそうです。 この誠だけが鬼神も動かし、神も動かし、すべてのものを動かすのだよ、というのです。

明治天皇もこのお歌の中に見られるように、「中庸」を勉強なさったのでしょうね。

また、聖徳太子さんの行ったことを見ていますと、やはり「中庸」に 書いてある事をそのままやっています。「中庸」を読んでおりますと、「ああ、 聖徳太子さんもこの通りに実践したんだなぁ」と、すぐ分かります。

こうすれば、きっと日本の国は良くなる、と思ったのでしょう。「国家の経綸」というべきことを書いていますのは儒教しかありません。

仏教でさえ、国家の経綸なんてことは、あまり出ていませんよね。

王様が読むべきお経で、何とか王経なんていうのはありますけれども、儒教は仏教とは違った立場を主張しております。「こうすれば国家は良くなるんだ」ということを、儒教はしっかり教えております。

ですから、日蓮上人が法華経を信じて神通力を出したように、聖徳太子様は この「中庸」に書いてあることを素直にそのまま信じて、テキストとして勉強して、「日本の国よ、良かれ」と思ったのだと思います。

「中庸」を見ておりますと、聖徳太子の生き方、 その性格、それに十七条憲法の精神・・・・・・など、全部この「中庸」にある精神です。

神仏を礼拝する、神を礼拝するという事もこの「中庸」に書いてありますけれど、究極的に言うと、そこに滲み出ているテーマは、もうほとんど全部、「誠」だといっていい。

誠の道を極めるしかないんだよ、というのです。

そういう意味でこの「誠」の一字には、じつに深い意味があるのです。「天もうごかすばかり言の葉の」。そういう言霊を出す私は、神力ですね。「まことの道をきはめてしがな」。 誠の道を極めたいものだ、という。「がな」というのは願望を表しています。

「ああ、天地を動かすばかりの言霊がでるような、 そういう力を神様からいただけるような私になるために、誠の道というものを 極めたいものだなぁ」というわけです。

これこそが、いにしえの君子の道であるし、人の上に立つ元帥の道であるし、 上に立つものとしての、なさねばならない最高の眼目なのではないでしょうか。

明治天皇陛下のこの歌の奥には、それだけの咀嚼力があったに違いないと、私は思っているわけです。

このように、「神力」というものは天地も動かすことができる。まさに明治天皇が生きておられた時代には、日清戦争にも勝ちましたし、日露戦争にも勝ちましたし、バルチック艦隊もやっつけることができました。

明治時代というのは、日本は国威を発揚し、富国強兵策でいった時代でございましたので、そういう風潮だったとも言えます。

しかし私は、これはあまり表立っては言われておりませんけれど、明治天皇の、この「至誠」を神々様がお受け取りになったからこそ、国全体が急ピッチで近代化へと進んでいったと説明できるのではないかと思っているのです。

当時はたしかに、西郷南洲ほか多くの明治維新に参画した志士たち、そういう人たちも政治の場にいました。

けれど、そういうものの中心や中核にいらっしゃったという点では、やはり「天地もうごかすばかり言の葉のまことの道をきはめてしがな」と歌った明治天皇陛下を思い起こさねばいけないと思いますね。

今上陛下(昭和天皇)も、日常をどういうふうに生きておられるかと言いますと、こういう時には明治大帝だったらどういうふうになさっただろうか、明治大帝だったらこういう場合はどうなさっただろうか、と、常に行動規範と申しますか、心の支えと申しますか、「明治天皇だったらどう考えたか」「どうしたか」「どう言ったか」と考えておられるのではないかと推察申し上げるのです。

今上天皇にとって明治天皇という存在は、その御製を解し、その一生涯を見て、心から崇敬する方であるらしいです。

そういうふうに、明治天皇陛下の、このような精神が「神力」となり、天津神、国津神、八百万の神々を動かしめて、日本の国を近代国家に成長させた。

明治天皇というただ一人の至誠によりまして、 忠臣忠君も出てきて、国家というものが良くなっていった。別に霊が見えたとか、そういうことではないと思いますが、でも、明治天皇の場合は言霊を勉強しておられました。

ですから、 十万首でしたでしょうか、ぱっぱっぱっぱっと、いくらでも歌が詠めたらしいですね。

明治天皇のお歌、御製は十万首もあるそうです。 そして、その歌が御神示です。陛下は天皇様という位でございますので、人民を思うという歌が多いのですが、素直で全然飾り気がなくって、しかしその言葉には短いけれどもジンとくるような、言霊と魂の入った歌が多いですね。

技巧に走らず、知的なアレンジメントなんかに走らないで、素直に、ありのままの境地を詠んでおられる。

それは、生きて見る人の心を、御魂を、感動せしめる歌です。

まさに和歌は、 明治天皇陛下の歌が最高に素晴らしいと思いますが、これこそ、「神力」の何たるかを如実に私たちに教えているのではないでしょうか。

「神力」は神々を動かし、国や社会を良くする

「神力」は神々を動かし、国や社会を良くする「神通力」などと言いますと、「霊能力」 と差がないような感じになりかねませんが、この「神力」というものは、「神様を動かす力」なのです。

神様に動いていただく力です。それを得るためには、まさに明治天皇のこの歌にありますように、誠の道というもの、至誠の道というものを極めるという、これしかありません。

ですから我々は、日常生活におきましても、日常の生業と職業におきましても、この誠の道というものは如何なるものなのかということを考究し続けねばなりません。

誠の大道を勉強して、神様の目から見て「ああ、なかなか素晴らしいな」と見ていただける道を進まねばなりません。

このことを私は以前に「先天の修業だ」と言いました。人為ではなく、もちろん、力を得たいとか、そういうのでもなく、自らを捨てて、捨てきって、無欲になりまして、やがて無欲からも乗り越えて、積極的な誠の道を貫いていこうというわけです。

そういう姿勢が大事です。 菅原道真公の歌にも「心だに誠の道にかないなば 祈らずとても神や守らん」というのがあります。

この歌もいいですが、明治陛下の歌はもっと素晴らしい。「天地もうごかすばかりの言の葉」だ、というのです。天地を動かすことだって出来るわけです。

まさに時代は、日清戦争、そして日露戦争の時代でした。日露戦争は、あのまま続けておりますと、ロシアが本気になったら日本もやられていたと思うのですが、明治天皇陛下は「四方(よも)の海みな同胞(はらから)と思う世に など波風の立ち騒ぐらむ」と詠んだ。

この歌を、日本におりましたアメリカの 特派員記者が、アメリカの新聞に英文で訳して載せました。「これが明治の元帥の、His Majesty: the Emperor in Japanの、明治陛下の、元帥の歌だ」というわけです。

その記事を見て、当時のアメリカ大統領が感動しまして、「そうなのか」と感じ入った。

それなりにアメリカの計算もあったのでしょうが、 とにかく、その歌が直接の動機になりまして、アメリカ大統領は日露戦争を止めさせるために、両国の調停に入ったのだと言われております。

まさに明治天皇の和歌一首が戦争をストップさせた。

「仲介に入らねば」と、アメリカ大統領の心、御魂を動かしたわけです。そういうふうに明治天皇は、 やはり結果を信じていたのでしょう。「そうありたい」という志があったのでですから、人を動かし、人を幸せにし、日本の国を良くし、社会を良くし、人類を良くするためには、そして本当に神々様の喜ぶようにするためには、この「神力」しかないわけなのです。

神力によって初めて、人を幸せにすることができる。「神力」によって初めて、社会を良くすることができる。その「神力」は、「霊力」ではないのです。

「霊力」はあくまで、霊的な媒介であり、四次元に精通することでございまして、だから国を動かし、人を動かし得るほどのものではありません。

人をして、「へーっ」なんていうかたちで、 驚きには駆り立てるでしょうけれど、人々の善なる心を動かしめ、天津神・国津神・八百万の神々、そして宇宙を統率する神を動かすほどのものではありません。

ここに「神力」と「霊力」の大きな違いがあります。

我々はもちろん、霊力も磨きますけれども、「神力を我が物とするような人間たらん」 と思わなければ、「神人合一の道」を歩んでいるとは言えません。

単なる霊人合一になってしまいます。 「神人合一の道」にあっては、この「神力」を動かしうる人にならなければ駄目なのです。

このあたりのことを、よく肝に銘じたうえで、情熱を燃やし続けることです。

ここは皆さん、大事なことですよ。

神通力とは信じて通じる力であり、ある意味で「信通力」だと申したことがあります。 この霊力と神力ということの違いについて言えば、 神力は最終的には「まことの道をきはめてしがな」である。

その誠の道を極めたい、人として、神様の目から見て本当の誠の人であるという道を極めたい。そういう志に立脚しなければいけないということです。

以上がパート3のお話でした。これで今日の講義を締めくくりにしたいと思います。どうもありがとうございました。

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