昭和五十三年 神戸神業 (六)

つかまえるということは、取り組むことであり、
はなすというのは、あきらめることである。

つかまえるこつは、ただ先のことは考えず、
やってやってやりまくることであり、

はなすこつは、全部神様におまかせして、
あとのせめを一人で受ける覚悟を決めることである。

「こういうふうにして、こうなったのである」を、
自慢げに言うと天狗が出てくる。

「こうくるところを、このようにしたのです」 を、
自分の智略で成功したかのように言うと、きつねが出てくる。

「このような心でいるのを、自分はこう見たのです」と、
相手の腹をいかにも自分の腹で見抜いたかのように言うと、たぬきが出てくる。

神様のお仕組に、
自分が使っていただいているのが本当であり、
自分のしていることを、神様が守護するのではない。

しおりする人と、普通の人生を歩む人は、
おのずから神命が異なり、
皇命すめらみことは自分の全ての望みも願いもなく、
ただ神の心を心として、祈りのまなかに日々を過ごし、
明るく世を照らす神人合一の人であらねばならぬ。

わが命わがものでなく、
わが言葉、わがものでなし。
世を憂い、
神と親しみ、
よく愛に生きる。
これが人の生き方の最上である。

まごころはかみよりきたるものなれば
いかにあくある人でもなつく

にくらしき、いやらしき人であろうと、神の子なり。
全てを生かし、愛の心でみるようにせよ。
神徳はその時下るなり。

人を生かし、物を活用し、
うまく調和するように働くものが神力である。
自分の行く道を照らし、
自ら成そうとする所を助け給えと祈って出ずるものは、
霊力であり、守護霊の働きである。

神力と霊力とは次元が異なり、
自我と言ってもさまざまである。

世のため人のためと思って慈善事業に志す者多し。
神のため神界の経綸のため、
神心のままに世のあかりとならんとする、
神人合一の人のいとも少なし。