つくしていれば良い。
なんでも実際にやってみなければ、
成果を上げるこつはつかめぬ。
人は常に同じからず、心は常に変わりつづけ、
天津御空の如し。
人間の行動を推し量ることは不可能であり、
また気持を一定させることも不可能である。
これを知ってはじめて日々の修業の意味がわかる。
とどろくいかずち天より下る。
邪神邪霊も何のその。
なにがなんでもやり抜く力。
そは、手力男の神と言う。
つくづく自分がいやになったとき、
「さあ、死んだ。自分はもう死んだ。」
と思い込ませればいいのである。
新しい自分を生み、また育ててゆけばそれでいい。
最もすばらしい時間に
最もすばらしい物を少なく行う。
これが極上の品である。
人の上に立つには、
はやく間違いの道を元にもどす勇気がいる。
創作とは必ずしも新しいことをするのではなく、
古き良き無形の指針を、
日に月に具体的に表すことでもある。
月並みなことではだめだ。
事細かく行き届かなければ
達人とは言えぬ。
どんなに行きづまっても必ず解決されるものであり、
それが成功への足がかりとなるのである。
そういう時にこそ、名案が出てくる。
いつも一番大切にすべきは、
身も心も清らかにし、魂の置き所を
まごころにして遇することである。
心がさもしいと、身なりに表われ、言葉に表われ、
ふるまいに表われる。
心が美しいと、会う人にすばらしい雰囲気を与える。
すずをふると妙なる音が出るように、
日々の言葉を真剣に注意するようになると、
もう修業も堂に入ったと言える。
朝から晩まで働いて何を得るのであろうか。
尊い志を保ちつつ、為すこと全てを、
人生を美しく仕上げて
すばらしく盛り付けしようとするプロセスなんだ、
という心掛けを持たなければならない。
それでなければ、娑婆即浄土、寂念無憂の
諦を得るものにはあらず。
優雅な職業はめったにあるものではない、
と思うからだめなのである。
いかにすればそれが優雅であり、
いかにすれば時を見出して優雅のひと時を持ち、
お休みが単なるからだの休憩だけに終わらぬか。
その工夫と心がけが芸術の心と言える。
美の創作、奥深い味わい。
はてしない心と想像のひろがり。
芸術の胎臓せる徳にあらずや。
