死に花を咲かすというのは、
いつでもどこでも、
ただ今こそ死ぬときなりとして、
愛の尽くし花を咲かせて生きることなり。
人間心というのは、良し悪しを論ずる心なり。
尽くしたらそのあとを追憶する人多し。
報われぬことをなげく人さらに多し。
それは、自分を捨てて
愛そのものになりきっていないからである。
そもそも神界人というのは、
全ての易に超越し、
人相骨格にもとらわれず、
自在なるものなり。
その場その場で一番必要なことを、
一番理想的ですばらしいものになるよう
断固おのれをぶつけてゆく。
それより他にとびらを開けるすべはない。
とびら開けねば
神も力を添えることはできない。
時々刻々、
生きて生きて生きの限りに生かしてゆく。
それこそが、神人合一の道を
どこまでも高く尊く進展させてゆくすべなり。
それより他に、
神力を勝ち得て世を救う方法はない。
神は無限である故、その受け器である人が
自分を小さくしてしまうことを恐れる。
何故なれば、神様はその器の枠を越えて
お力をお出しすることができないからである。
これは天界の規則であるから、如何ともしがたい。
神は平等である。
こちらが向かって出す愛の器の大きさに比例して、
お蔭の度合、神力の出し加減を調整される。
想念というのは高くとうとくて
夢というのはつつまず放ちて
心というのは晴れつづけて
思いというのはなくするのみで
声というのは玉のうてなであり
目というのはすずの音であらば
すぐさま神界人となるなり
これが日々の目標でありたい
萬創主
すすみては止まり、すすみては止まり、
ひとつひとつの心のたねを育てては収穫し、
育んではつぎの種をまく。
これが信仰のサイクルである。
つかさ
妻帯者は
そのすばらしいところを真に悟らなければ、
自分のレベルを越えた
それは、
すばらしい家庭を築くことはできない。
自分をささえるものはわが妻であり夫であると、
日々互いに感謝することからはじまり、
相手に神を見出すことで
完成するのである。
すさのおのおおかみ
どれ程励んでも励みすぎることはない。外主
励むとは、ありったけのまごころを
今あることにぶつけてゆくことだ。
それが、人の世に神を行ずることなのである。
萬創主
すすまねばしかられ、
すすまば行き過ぎると言われる。
それで人は、
神人合一の極意を体得するなり。
真明
用心せよ。
気のゆるみとは、安心の中にあり。
安心せねば人は幸福の境地、
充実の精神を得られるものではない。
しかし、その安心と充実の中に
気のゆるみがあって、
人を誤らせるものなり。
これを安心多過不生立命というなり。
ニニギ
