【第四章】無形の神業こそが全ての源泉(昭和61年7月5日)
発するところがあって行えば、全てがご神業になる
【深見先生】パート2はですね、神業を四つの段階に分けてみたいと思います。
まず神業とは何なのか。いろんな意味があるかと思いますけれども、わかりやすいのは、ただ抽象的で漠然として、これということは一々説明できないけども、感覚でとらえている神業というものです。
「やりたい!」と、神様に切に願いまして出てくるもの、それが全て神業です。今日、ここに来る時に「オレたちひょうきん族(註:テレビのバラエティ番組)」をちらっと見てきました。
懺悔をやっておりまして、こんなおじさんのイエス様がおりまして(笑)。
そのイエス様の前でひざまずいて、くくくっとお願いしたら、はらはらと紙吹雪が来たり、許されないNGだったら、水がばしゃっと来るわけです。
皆さん、あの懺悔って、ご存じですね。知ってる?土曜日は神業に来てるはずなんですけどね(笑)。うん?
それで、この懺悔がご神業だと。生きてるイエス様、生き神様に向かって、一生懸命、お許し下さいだとか何だとか言って、許された時には、ひらひらひらと紙吹雪が来ます。
許されない時には水がばしゃっと来る。この両方の結果が、ご神業であります。あの「ひょうきん族」の懺悔のシーンが全部、ご神業なんです。
つまり、素晴らしき良きものを求めて、素晴らしき良き結果が出て、わあ、感動するようないいご神業だあ。逆に、何か素晴らしい神様を求めて、こっぴどくボロカスに、けちょんけちょんに言われて、髪の毛もまた抜けました、
はぁ~。それもご神業です。「神業だ」と求めて出てきた結果が、やはり、神を行じている、神を動かしてるわけですね。
ですから、どういうふうに動きましても、ひらひらでも、水ばっしゃんでもいいわけです。ですから、「ひょうきん族」の懺悔のシーンが、ああ、これがご神業なんだ。こういうふうにお考え頂ければいいんじゃないか。
しかし、何にも思わないで、ただただ一生懸命やってるというのは、仕事をやってるだけで、ご神業にはなりません。
やはり、何らかのものを切に神様に求めて、何だかわからないけども神様って思いを向けますと、何かが出てくる。君はまずこれからしなきゃいけないと注意されたら、あ、ありがとうございました。
ああ、答えが出た。これがご神業ですね。わからないなら、わからないというものを、とにかく神様に対して向けて、何かを実践して、神様が動いた。これがご神業です。これが、「神を行ずる」ということです。
ところが、求めるものがない人は、普通に肉体を動かして活動しているだけです。そんなのは日本全国誰でも、世界中誰でもやってます。
Hさんなんて、一生懸命お掃除してます。
これは単なるお掃除です。こんなに汚かったら植松先生が来て叱られるし、深見先生に何だと言われるから、早くやらなきゃと思ってやるのは、ただの仕事をしてるわけです。
叱られるからやる。お客様がいらっしゃるから、みっともないからやるだけで、お掃除をする動機は、みっともないからする、叱られるからやる、やらなきゃならないからやる。
それは、ご神業ではありません。
ご神業というのは、あ、ここはご神業で神様がいらっしゃる所だから、とにかくきれいにして、気持ちよくさせて頂こう。真心と愛を込めまして、ここは神様が降りてらっしゃる大事なところだから、きれいにさせて頂こうと思って、お掃除をさせて頂く。
そういう気持ちで、便所掃除なり、拭きものなりしますと、それはご神業であります。
形は同じお掃除だけれども、発するところが全然違う。
神様をお呼びする所、ご神霊の集まる所、人様が気持ちよく、いいご神業ができますようにと思ってお掃除したら、これはもう全部、素晴らしいご神業です。
そういう時は、お掃除する人の親指、人差し指、あるいは掃除機のコンセントの裏側ぐらいから、神気が満ち満ちてます。ブオオオンという掃除機の音も言霊になります。電気掃除機の音も気持ちいいわけです。
ところが、朝からグシャグシャして、気分悪いままお掃除したら、その掃除機の音を聞くだけで、腹が立ちます。「音させるな」と言いたくなります。
「ご神業だ」という境地でお掃除した場合、「掃除機っていい音だね」って、掃除機の音に酔いしれている。それは掃除をする人の境地が、ご神業でしてるからです。
ご神業というのは抽象的に神様というものを求めて、したいという気持ちでしてる行いは、全てがご神業になります。お掃除一つもご神業でしょう。
ところが、神様事をやってるようだけれども出席しなかったら叱られるしな、また電話がかかってくるから、とりあえず来なきゃ。そう思って来てるのは、ご神業じゃありません。
まあ、気を受けてよかったと。ワンちゃんがドッグフードを食べに来るような感じで、神気を受けてるようなものですね。
ですから、あっち行ったりこっち行ったりで、道でおしっこを電信柱にかけて、おうちに帰ってこなかったりなんかして。
帰ってきたとしてみても、何か、八つ当たりしたりして…。
しかし「ご神業させてもらおう」「素晴らしくご神業しよう」、そういう気持ちを向けてきたら、もう全部が神様の言葉だと思えるんです。
例えば、植松先生が頭をかいておられる。それを見て「あ、あれは、「観念的」だという「忠告に違いない」と。植松先生は別に意味もなく頭をかいてても、ぱっと守護霊が懸かりまして、そういう風に感じるわけです。つまり、全てのことが、悟りの源泉になるわけです。
これが皆さん、ご神業の原点です。新しく来た人は、そういう風に来なかったら、何のために来てるのか。
そういうものがなく、皆、形だけがどんどん先行して動いていって、原点が忘れられるわけです。
ですから、今度、掃除機がブスッとしたら僕が徹底的に追求します。
電話の声も聞いてて不愉快だったら追求します。一生懸命、仕事の世界に入っている。心の中に、神様がいない神業というものは、何のためにしてるのか。
その行動の原点。発するところですね。植松先生は、「発するところが大事だ」とおっしゃいます。
そういう神業の原点。抽象的ではあるけれども、させて頂こうという、発するところがあって行えば、全てがご神業になるんです。これが大事なんであります。
無形の神業から有形の神業が生まれる
ところが、神業というのは、それだけじゃありません。私は大きく四つの段階に分けてみました。
それは一言でいいますと、無形の神業と有形の神業。もちろん、さっき言いました気持ちですれば、全部ご神業なんですけど、もう少し厳密に見てみますと、二極に分かれる。
すなわち、無形のご神業と有形のご神業です。
そして、無形の中にも、無形の中の無形のご神業と、無形の中の有形なご神業があります。
有形のご神業の中にも、無形なものがあって、有形なものが出てきます。
前にも申し上げましたけれど、無形のものが変化して有形なものになるのを「化する働き」と申します。
逆に、有形なものの形が変化しまして、消えていった。
例えば、人間が死んで焼き場に行った。
固形燃料が燃えてなくなりました。これを「変」と言います。
無形から有形のものが「化する」でありまして、有形から無形に変わるのが「変」です。これは、「北極真経」にも出ております。
では、無形の中の無形とは、いったい何なのか。
これは、現実界に全く関係なく、常識に全く関係ない。無目的の目的と言いますか、何のためにということもなく、ただただメルヘンの、子供の世界の中でやっているご神業であります。これが植松先生がおっしゃる、いわゆるご神業で、スーパーメルヘンのご神業ですね。
それは例えば、ただ寄り集まりまして、ああだね、こうだね。神様がああなのよ、こうなのよ。ほおー、へえー。明日の生活がどうとか、人間の生きる目的はとか、そんなこと関係なく、ただただ神様の世界を語り合って喜んでる。
巣箱の中の、子供たちのお話のような世界であります。これが、本当の無形の中の無形のご神業です。
目的はないわけです。ただただ神様の気というのを受けて、いや、受けるなんてこともないです。無目的ですから。ただただ、そういう神様の世界を語り合って、楽しんでいる。
何の目的もないわけであります。次はですね、皆が寄り集まりまして、ある程度、目的を持っている。磐梯へ行こうとか、磐梯で気を受けようとか。あるいは、土曜日に来て講義を受けよう。
講義とか旅行などの神業活動に入ってきます。だけれども、講義したからと言って、旅行に行ったからと言いまして、人類が救済されることはありません。
教えを蓄えてはいけます。
いろんな教えを通して認識は高まっていきますけど、ただそれだけです。それで世の中の人々が動くかとか、人類が救済されるとか、そんなことはありません。
ただただ自分たちが吸収して、すくすくと成長するだけであります。これもやはり、大きく分けまして、無形の神業の中に入ります。
もっと具体的にわかりやすく言いますと、昭和五十九年にNさんが何人かの人を連れてきまして、ただただ、土曜日講義をやっていたわけです。
もっとその前の原点は、まさにこの無形の中の無形の神業です。
何の目的も職業もなく全部捨てまして、植松先生のお宅に皆が来ました。
そして、神様ってああでこうでっていう話を聞きました。うわあーとか、何とかの神様かしらなんて言って。
神様の世界を理論的に要約するとか、本にするとか、そういう目的もなく、ただただ神気のまにまに、巣箱の中でのメルヘンのご神業してたわけですね、一年間。
そうしたところ、栂村先生とか何人かの人が来て、磐梯に行きましょうとか、いろいろ活動してたわけです。
活動はしても、世間様では形がありません。そうして一年間済んだら、「何か今年から実践みたいよ」ということで、「へえ?どうなるんでしょうね」なんて言ったのが、突然、予備校を出したわけです。
こういうふうに、最初は無形にしていたものが、無形が固まりますと、やがて無形化する働きで、有形となって出てくる。
陰極まりて陽になっていくわけです。無形が極まって、化する働きで、やがて有形な何かが出てくるわけです。
いろいろ神様のお話を聞いても、布教するわけではない。ただ単に探求して、はあ、そうかと興味深いことを聞いて、そういうこともあるもんかなと聞いて。
その前の段階では、ただただ会って、何だか知らないけど会ってるうちにいろんな話が出てきて、盛り上がりましたね。別にそれをするからどうという、先々の目的も何にもありません。ただただ切なる気持ちで来たから、一生懸命神業しようということで。
それで、昭和五十九年、私たちは、毎週、毎週土曜日に講義を聞きまして一年間やってました。何にも組織も作ってません。ただただ集まって、何とか会ということもなく、ただただ荻窪に来てる。そんな人がいるというだけでした。
ところが、やがて、五十九年が終わる頃になりますと、除霊をする人が出てきました。皆も自然に除霊をやろうかということになりまして、組織を作ることになりました。
今後どういうふうに変化していくか、楽しみなんですけども。
このように、目に見えない形のものが、六十年から自然に人が集まってきて、形ができてきて、有形のご神業という形になりました。形が整ってきたわけです。
一生懸命、無形のスーパーメルヘンの神業と、講義だ、秘法だなんていう無形の神業を一年間積み重ねて来ましたものが、自然に溢れまして、有形の功徳となって出てきたわけです。
つまり、五十九年、六十年、頑張って努力してきたものが、有形なワールドメイトの形、月刊誌とか講演会、星ツアーなんかの有形なご神業という形に現れてるわけです。
有形の中の無形のご神業、有形のご神業
それでは、有形に現れますと、どうなのか。神様に聞きました。
神様、いったい、絶対に滅びない組織、絶対に滅びない会社、それはどういう会社ですか。神様に聞きました。
組織の形が大きくなってくると、どうなるんだろうかと不安で、神様に一生懸命聞くわけです。
ばっとひらめいたのが、これです。「絶えず研究、開発、工夫、努力する(板書)」。
絶えず研究し、開発し、工夫し、努力するところは、滅びないんだと、神様が教えて下さった。
例えば、一ついいものがありましても、新しい研究、開発、工夫がないと、やがてニーズが合わなくなったり、ライバルが出てきたり、文句が出たり、売れなくなってしまう。
あるいは遅れてしまう。消えてしまう。
ですから、一つのものが消える以上に新しい素晴らしいことを絶えず研究し、絶えず開発し、絶えず工夫する努力を、永続的に続けている組織、会社は、絶対に滅びないんです。
一つ二つ失敗があっても、必ずそれをバネにいたしまして、次の開発、次の研究、次の工夫の糧にします。どんなに周囲が変わり、どんなに軋轢がありましても、それをバネにして、新しいものをまた作っていく。
新しいもの、素晴らしきものを開発していく。そうすると、絶対に滅びないんだと。おまえがこれをやり続けている限り、組織は絶対大丈夫だ。
会社は絶対大丈夫なんだ。なるほど、そうでしょう。普通はお金ができたりしますと、遊興にふけってみたり、女遊びをしたり、海外ツアーに行ったりします。
星ツアーならいいんですけども…。
ともかく、研究、開発、工夫し、努力するよりも、楽しもうという世界に行き過ぎますと、油断が出たり、遅れたり、判断が鈍くなったりするわけです。だけど、絶えず研究、開発、工夫、努力する創造意欲、創造の力があれば、絶対に大丈夫なんだ。なるほどなあと。
例えば、本田技研がそうですね。有名なお話があります。
本田技研の開発工場。普通は企業秘密にして見せないんですけど、どうぞ見てくれと。誰が来ましても、ホンダは堂々と工場を見せますし、開発してる所も見せるわけです。
それを真似しようと思って皆がやるころには、ホンダは次に新しいものを既に開発してます。自分たちは技術屋なので、どんなに真似しても、さらに新しいものを作ってるから、開発力では世界一なんだ。
だからどうぞ、見たい人は見てくださいよと。これだけの自信を持ってるわけです。それだけの研究、開発、工夫して、本田技研はあそこまでのし上がっていったわけです。
もちろん、製品だけではなくて、サービスの向上、流動資金の運用の仕方、それから社員の生活態度、商品開発、新しい打ち出し方、宣伝広告のやり方、ありとあらゆる所ですね。
ありとあらゆる所を絶えず研究し、絶えず工夫し、絶えず努力する所は、紆余曲折を経ましても、必ず素晴らしく発展して、他をリードをするわけです。これが、有形の中の無形のご神業です。
だから、植松先生が「絶えず努力しなさいよ」とおっしゃいます。絶えず工夫しなさいよ。叡智を使わなきゃいけない、智恵を使わなきゃいけないっておっしゃいますね。
これは、有形の中の無形のご神業です。
絶えず工夫し、絶えず智恵を使う。気を回す。もっといい方法はないか、もっといいやり方はないかと生活の智恵を出す。
そういう訓練が要るわけであります。叡智を出す訓練です。
叡智とは何か。いっとき、氷川大社の神様、白髭の神様が出て、植松先生におっしゃいました。
「叡智とは、一生懸命考えて考えた時にひらめく、ええ智恵じゃ。叡智とはええ智恵なんじゃ」と。
氷川様が言ってたとおっしゃってましたね。だから、いい方法はないか、ああでもない、こうでもないかとやってるときに出てくる、ええ智恵が、叡智なんです。
ですから、私は暇があったら次から次と絵を描いてます。大した画家じゃありませんけども、上手下手は全く関係なく、挑戦することが大事です。観音像を描くのも、ああでもない、こうでもないと思って工夫して凝るわけです。
講義も全く同じです。新しいイベントも成功失敗というよりも、絶えず工夫している時に、神様の加護があるわけです。
惟神の神道というのは、生産活動です。絶えず休むことなく、生成化育発展して、進歩している。それが神霊界の真実です。ですから、私たちの活動場所、生活でも、これができないと駄目なんです。
そして、まさにこれが、有形の中の無形のご神業です。だけれども、これは形には出ません。一生懸命いろいろ工夫したり、開発しても、外からは見えない。見えない世界でしょう。だから、有形の中の無形の神業なんです。
そして最後が、有形の中の有形のご神業です。
それは、十日会(註:当時行われていた講演会)とか、星ツアーとか、今度のセミナー。あるいは、人に本をお薦めするとか、除霊をするとか、人様に対して出していくもの。
これはまさに、有形の中の有形のご神業です。「ああ、お蔭様で先生、いいことが起きました」「恋人が出来ました。ありがとうございました」なんていうのは、有形の中の有形のご神業です。
「先生の本を読んで感激いたしました」「まあ、そうですか、ありがとうございます」なんていうのはわりと心地いいムード、一番花形の、いい感動を受ける所です。
逆に、経理の人は、しこしこしこしこ、社会保険のことをしたり、税務署に書類を出さなきゃいけません。
そういう地味なことをしておりまして、素晴らしいとか、感動のシーンとか関係ありません。
難しそうなおじさんから「また忘れてますね」なんて言われて「どうもすいません」。パチパチ電卓打ってやってます。
ところが「ああ、先生、除霊をして運が開きました」とか、「講演会で感動「しました」なんて、毎日がそういうふうに続きますと、有形の有形のご神業であるにもかかわらず、これこそがご神業ではないかと錯覚するわけです。
それでは知性と教養、読解力と咀嚼力、御魂のランクが高いとは言えません。ああ、これは形が出て、さらに人様に出した発表の結果として、表に出ているわけなんだ。有形の有形のご神業の一コマに過ぎないわけです。
つまり形に出た後の、ワールドメイトなり、会社なり、組織なりで行ってることは、全部、有形のご神業です。
陽です。こういうふうに申し上げることがこのように、ご神業は四つの段階に分かれているんでありまして、それを皆様、頭の中でよく整理して、理解して頂きたいと思います。
無形の神業こそが全ての源泉
ここで、一歩突っ込んで考えなくてはいけないのは、この有形のご神業、陽のご神業というものは、応用と実践であるということです。
応用的な技術、応用的な方法が出てくる。絶えず創意工夫しておりますので、素晴らしくなっていくし、受付の感じも良くなるし、除霊の取り方も鮮やかになってくる。
音楽の技術も、服装のセンスも良くなる。あるいは、髪の毛も薄い人も、かつらを買ってきて増えたりなんかして…。
これは、あくまで応用発展する能力でありまして、応用力がどんどん、どんどんついてくる。ご神業と言いましても、有形のご神業は、応用力と実践力です。
このように、応用力と実践力は陽のご神業をすることによってできるわけなんです。これに対して、陰のご神業は全部、基礎力です。基礎力。塾みたいですね。これは根底能力です。根底力。
例えば、びっくりするような、画期的なもの。
例えば、星ツアーなんていうのは、いくら製品開発をしておりましても、いくら講義しておりましても、いくら除霊しておりましても、ああいう星ツアーなんていうのは思いつかない。
世界中で誰が思いつくでしょうか。
星ツアーとか、木星の願立て神社がホールにやってくるとか、こんなのは、どこを見ましても、出てくる発想じゃありません。
あるいは、磐梯山に仕組が降りてるなんていうのは、何を研究しても出てこない。突然、無からポッと出てくるものです。こういう画期的な、基本的な部分での素晴らしい飛躍、新しい磁場の展開というのは、すでにある有形のものをいくら開発しても駄目なんです。
それは原点の原点に私たちが努力する時に初めて出てくる。
すなわち、無形の世界というものをたくさん蓄えますと、有形なものが外に出てきます。ポッと、世界に類を見ない、素晴らしいものが出てくるわけです。無が極まって化する働きで有形になるんです。
その有形のものをいじるのは応用です。
この無形の世界を蓄えていくことを、儒教では、「君子は本を務む(板書)」。本を務めて初めて、末の末節が繁栄していくんだ。
君子は絶えず本を務むという言葉が「論語」にもあります。
では、「君子は本を務む」の、その本は何なのか。考えますと、この無形のご神業が本であります。
無形のご神業の、さらに無形のスーパーメルヘン。
赤ちゃんが集まって、お母さんのそばで、へえー、そうなのというような気の盛り上がりです。何のためにとか、お金がどうのこうのとか、有意義な話なんて全く関係ない。
ただただ無目的のスーパーメルヘンの世界なんであります。
こういう無形のものこそが、素晴らしい画期的なものを出していける、根源なんです。ですから、絶えずここの本を務めている。これが全ての源泉。
全ての源泉は無形の神業にあります。全ての源泉は無形の神業にあるんです。無形、有形と言いましたけど、「陰陽」と言いますね。「陽陰」とは言いません。
「陽陰」のバランスが悪いですねって言いませんね(笑)。普通「陰陽」のバランスと言います。
陰から陽が出てくるんです。女性から男性が出てきます。お父さんから突然ポンと女の子が生まれてくるなんていう、器用な構造の人はおりません。
陰から陽が出てくる。無形から有形が出てくる。これはもう天地の法則であります。しなければならないと言うよりも、法則ですから、これを深く認識しなければいけない。
僕たちは、この無形の神業の世界の大切さというものを、まだよくわかってなかった。
ですから、四段階に分けてお話ししたわけです。この無形の神業を一生懸命努力してやると、全てが発展していく。全てが実り、永続的に素晴らしい神業が続きます。
ですから、陰の無形の無形のものを心の第一の置き所として、私たちがやりますと最初に申し上げた、宗教団体のごく自然な成り行きの発展プロセスで出てくる問題点とか、ミュージシャンのように主客が入れ替わることはありません。
ただただ、無目的の目的の世界にあるわけです。これが神業の原点です。ここが大事なんだ。そのために、僕たちは来てるんだ。ここに心を置いて、その重要性を見出さなければ駄目なんです。
もちろん、無形のものだけを大切にすればいいという訳ではありません。
有形の無形、有形の有形も大事です。電話の応対が適当でいいのか。企画や人様にする接客はどうでもいいのか。そんなことはありません。
だけども、それはもう、四段階の最終段階のことです。原点は無形の世界ですから、ここに心をまず置いて、それから、有形の世界に心を向けていかなければいけない。
ですから、それだけ、気を回さなければ駄目です。
「これをしなきゃいけません」「はいー、わかりました」「研究開発もやらないと」「あ、そうだ、研究開発だ」「神業はどうするの?」「あ、そうだ、神業だ」「メルヘンは?」「あ、そうだ、メルヘンだ」。
こんな風に、言われた時にその都度、注意されたことだけ、「あ、そうだ」と言ってやるのでは駄目です。四つの局面が、同時に要るんです。無形の無形の世界に集中してから、全部こういう風に出てくるんだということを、頭の中にびしっとインプットして頂きたい。
まあ、こういう風に四つの段階に分けて整理をして、道を間違えないように。
先週の土曜日のようなことがないように、これからも、ますます素晴らしい良きものをワールドメイトが生み出していく。
世界最高レベルのご神業を十年でも、二十年でも、三十年でも、五十年でもやり続ける場所でなければならないと思っております。それが、世界にどこにもない、スの神様がここにいらっっしゃる、本当のご神業ができてるという証になるわけであります。
一つそこをよく認識して頂きたいと思います。
ということで、パート2の講義を終わりたいと思います。
どうもありがとうございました。(拍手)
各ページ
深見東州の土曜神業録24(VOL.8)
