去愚の箴
その次が、去愚の箴。愚かを去れと。要するに賢くなれということです。神様のことをいくらやっても誠であればいいか、守実であればいいかというと、そうじゃありません。
やはり、聖賢の教えとか、仏教、キリスト教、いろいろな宗教があります。神様の教えというものをよく勉強して、絶えず学んでいく。
愚かの逆は明ですね。聡明になっていく。
自分の智恵というものが磨かれれば磨かれるほど、愚かを去るということです。愚かな状態を去って智恵も出てくるし、悟りを得なさいということです。
絶えず進歩向上して、研鑽を積みなさい。より賢いものを勉強して愚かを少しでもなくしていって、より賢く、より賢く。
愚かな状態をなくしていくと明々白々となりますので、誠も生きてくるし、守実の実も深くなる。誠悪の箴と言いましても、善悪の基準というのは広くなりますので、善が生きてくる。
守寂の寂も奥深い境地の中の寂となる。ただ静かという意味ではありませんから。
寂と言いましても非常にそれぞれ深い、お釈迦様のいう寂の一言、和敬静寂の寂の一文字でも非常に深い、寂一文字で何ページにもわたるたくさんの教えがあるぐらい意味が深い。
特に境地でこの寂を得ようと思えば、ますます愚かを去って行くべく、刻々に研鑽し努力しなければいけません。
より聡明、叡智ある人間になるように努力せよということが、去愚の箴の意味です。
だから、坂本さんとか根岸さんとか皆さんにも、暇があったら『論語』を読んで、「論語」を読んだら全く相反するような『老子』を読んで「老子」を読んだら『荘子』を読んで、儒教と老荘と全く逆のものを順番に読んでいくと偏りがない。どちらの方にも偏らないで愚かを去っていくわけです。
本だけじゃありません。日常生活の中でも仕事の面でも、あらゆる意味で勉強していこう、学んでいこうということです。
「学びて思わざれば則ちし、思いて学ばざれば則ち殆うし」と言いますけど、去愚の箴とはその両方です。
いろいろ広く勉強はするけれども、学びて思わざれば、思索して考えて悟ろうと努力しなければ、すなわち罔し。
罔しというのは、愚と近いですね。愚鈍、暗愚といいますね。「あいつは暗愚だ」と。アングラなんていいますけど、まさにアングラというのは霊的に暗くて愚かな人たちという感じです。
「罔し」ということは、もっと聡明な要素がないから勉強して知識は増えてるけれども、ちっとも悟らない、境地が奥深くないということです。
あるいは「思いて学ばざれば則ち殆うし」。いろいろよく考えて、ひらめき、発想もいいし、彼なりの思索はあるんだけれども人の意見を聞いてるようで聞いてない。
「なるほど、そういうものもあるものか」と。「自分はこうだ」と決め込まないで、謙虚に人の意見、考え方を学んでいこう。
そうじゃない人間はどうなるかというと、独断に陥ります。
その人なりの考えはわかるんだけれども、もっと素晴らしい考え方、もっと素晴らしい見解から学ばないから結局は独善の危険に陥る恐れがあります。
「思いて学ばざれば則ち殆うし」の「殆うし」ということは、独善の危険性。
独りよがり、我と慢心、我が強い。それは独善の傾向に陥るので物事の中心とかベターな方向が、目が見えなくなっちゃう。実行したときに非常に危うい。
去愚というのは文章を通し、人の意見を通して、愚かを去っていく努力をするということです。こういう講義なんかも、愚かさを去っていくためのものです。
警思の箴
そして最後が、警思の箴。警思の箴ということは、思いを警戒する。想念です。
除霊編で想念術、心の技術と言いましたけれども、想念。ぱっと出したその想念が「女が」とか「お金が」とか「だめじゃないか」という想念で一歩踏み出す足と「必ず良くなる」「神様にも等しき素晴らしい人間になるんだ」というプラスの想念。
一念によって素晴らしい聖人のようにもなるし、神人のようにもなる。人間というのは地獄に落ちることもできれば、天国に行って、神様と等しき人間にもなることができる。
イエス様やお釈迦様のようにもなれるし、人霊狸、人霊狐、タランチュラの蜘蛛みたいになることもできるわけです。
どこが違うかというと、発するその一念にあります。法華経を見ても、地獄というのはどこにあるかというと「皆、人々の妄念、妄想、これ地獄なり」ということが法華経にも書いてあります。
地獄とはどこにあるか。妄念、妄想の中にある。妄念。妄りに思い、妄りに念ずる妄念。
「妄り」とは何かというと「亡き女」です。女が亡くなって、「ああだった、こうだった」と。妄りに思うというのは、亡き女を恋しいと思ったり、思い続けることでしょうね。
妄念、妄想。これが地獄を作るんです。老祖様は天国地獄の説が世の中をだめにしたと言っています。北極真経に出てます。
天国地獄の説が本質を見逃してしまったと。各々の心君に全てがあるんだと。老祖様の次元から言いますと、心の君、各々の心君によって全部、天国地獄なんていうのは決まるものだから、この心君をとらえている、もっと別の世界を見なきゃいけないと。
御魂があって心があって、三次元の肉体があるわけです。心は肉体次元と御魂の次元の中間に入っている世界です。
御魂は第六神界、三次元は肉体でしょう。肉体が影響すると心も変わるし、御魂が発動すると心も変わります。心というのは問屋業に似てます。
メーカーによって販売先も変わるし、逆に小売店のお店によりまして仕入れを変えていくという。心というものは本当にどっち付かずでありまして四次元なんです。
ですから、除霊なんていうのは四次元の世界ですから心君でどのようにもなるわけです。
心の使い方、技術ですね。霊力というのはそういうものです。
一方、御魂の世界というのは感覚です。しかし、心のバネがないと感覚がよくても御魂が傷ついてしまう。つまり御魂はそれだけ心から影響を受けるんです。
それから肉体も心の影響を受けます。しかし、その逆もありますね。体が悪かったら、内臓機能が悪かったら想念もよくないですね。
「気分いいですね」なんて言いません。やはり、痛い、苦しいというのが地獄的想念を引き出します。刀でぶすぶす刺されながら「これからの日本は明るくて、今日は爽「快だ」と言っている人はいません。「うわー、この世はこれで・・・・・・」という感じですね。やはり肉体と心というのは大きく影響しています。
一念によって、御魂も影響するし肉体も影響する。それだけ心が大切です。
地獄に落ちるのも天国の神様の世界に行くのも心が大切であって、これを警思の箴と言う。念をつまびらかにしなさい。念を警戒しなさい。思いを警戒しなさい。
植松先生も「心掛けが大事」とおっしゃいます。常に気に掛ける。心に掛けて努力していくことによって魂が向上します。
心君の置きどころによって地獄にも神にもなるわけです。ぱっと出した想念、念の一念、これがすべての勝負なんです。
念の出ずることを恐れずに、その覚ることの遅きを恐る
ここから関連して、前に言いました。「念の出ずることを恐れずに、その覚ることの遅きを恐る」と。
例えば性的欲求がたまってきますと、男性の場合はやっぱりちらちら念が影響される。女性の方もちらちら念が影響される。
見たり聞いたりしたもの。裸の女性を見たら、やはりそれなりに想念が発展します。
お金の札束を見て、あなたの方にもいく分あげてもいいんだけどなんていう形で札束が来たら、やはり心が動きますね。
目で見えるものを見て、心が誘発されるわけです。
肉体があるうちは、いろいろな想念が出てきます。悪い想念も出てきます。
だから念の出ることを恐れない。「ああ、またこんなことを思ってしまった。こんなことを思っちゃいけないのにどうしてこんなことばかり思うのだろう」なんて思わなくていい。
念は出てくるのが当然なんです。
「念の出ずることを恐れずに」、恐れちゃいけない。その覚ることの遅きを恐れなさい。いつまでもこんなことを思っちゃだめだ。
もっとこういうふうに思おうと。こういうふうに想念を見ていくのが警思の箴です。
思いというものを常に警戒して自分を見る。思いの中に入ってしまうと、その思いに全部奪われてしまうから、それからそれへと悪くなって脱却できなくなっちゃって、その想念に埋没しちゃうわけです。
心なんてころころ変わりますから、いちいち心にとらわれない。こういうことが大事です。
特に霊障がきた時が問題です。全く何もないときはいいんですけども霊障を受けると、わーっと苦しくなってバタンキューとくるでしょう。
霊障で苦しいとか辛いとかありますね。そういうときに辛い、苦しいということで何の霊、何の霊だと。
痛いとか辛いとか苦しいというところに心が行きますと完全にやられちゃうわけです。
これから脱却する方法。霊障を受けない人間になるにはどうすればいいか。背中とか頭はがんがんしてるわけです。痛いわけです。頭も痛くて体も辛い。寝不足でどきどきしておかしい。それはそのまま置いておくわけです。
痛みは痛みとして。霊障ががんがん来ればがんがん来る、胸がむかむかするのは胸がむかむかするで、十二分に胸はむかむかさせてあげるわけです。
それで心は全然違う方に向けて「さあ、今日はこの仕事をするんだ」と。
痛みは痛みで持ったままで、するべきことをして、神様に向かって「これからはよくなるぞ。みんな幸せになるぞ。お客さんもどんどん来て、今日はすごいことがあるぞ」という夢と希望、神様に対する真心を向けるわけです。
そうすると、神霊世界と感応する。神様と感応し、守護霊さんと感応する。神様の光が来るから、その光が霊をババッと払ってくれて元気になるわけです。
ところが「やられた、またやられた、大変だ。痛い、辛い、苦しい」と言うと、自分の心が痛みの世界の中に入ってしまう。
大阪人だったら、伊丹空港の周りをうろうろしてしまう。痛みの周りをすることになるわけです(笑)。
だからそういうところに心を置かない。思いをそういうところに乗せない。そうしたら早く脱却できて神気を受けることができるわけです。
痛みは痛みで置いたまま、するべきことはしている。
霊障がよほど強い場合は、いっときはバタンとやられてみるのもいいでしょう。自分の気力、体力が弱っている場合は受けやすくなってるから。
しばらくして回復すると、前向きな方へ向けて、さあやるぞと思ったら、ばちんと外れます。
ですから私も、十分ぐらい休憩します。
これは体がくたびれてるからだということで。布団をかぶっているときに、突如として、がばっと起き上がるでしょう、いつも。びっくりするぐらいに起き上がるでしょう。
あれは痛みは痛みとして置いておきながら、違う世界へ前向きな努力をしてるわけです。
だから霊障なんかに負けない。体はやられても、心までは病まない。だから元気になるんです。
そういうことで警思の箴。ちょっと発展しましたけども、想念の出し方で念の出ずることを恐れずに、たとえ辛くても苦しくても、いろいろな変な念が出ても、またこんなことを思ってなんて思わなくていい。
覚るのを早く、ぱっぱっと切り替えが早く、うまく想念を切り替えることができたら人間の御魂というのは向上するわけです。
それを別名、想念転換とも言うわけです。
植松先生が「想念転換、想念転換」と言うでしょう。
思いというものを警戒して、いい方に神様の世界に近づくような想念を持ちなさいということです。
このように老祖様の教えはこの六つです。
守実の箴、誠悪の箴、守寂の箴、居誠の箴、去愚の箴、そして警思の箴。完璧ですね。
北極真経を見ていて、見るほどに感動します。
細大漏らさず、私たちの修業の眼目が出てます。
お釈迦様は守実の箴とか誠悪の箴、やはりいい線をいってますね。
誠という面がちょっと足りなかったですね。儒教では、誠の面はよく言ってますけど。
えー、まあちょっとお話が発展しましたが、老祖様の六つの修業の眼目の中で、第二番目に悪を戒めるということが出ているということです。
その悪を戒めるということについて、聖徳太子さんの言っている善悪というものはそういう意味でしたけど、老祖様の言っている悪は一体どういうことなのか。
そして、絶対の善はなく、絶対の悪もないというのだったら老祖様はなぜ悪というふうに定義しているのか。
この辺りの定義の矛盾を感じると思うんですけども、これをパート2で明らかにしたいと思います。
一応、パート1は基礎講座ということで、ここで一区切りしたいと思います。
どうもありがとうございました。(拍手)
