【第二章】神様から見た善と悪(昭和60年11月23日)
日本人の善悪の判断
【深見先生】何が善で、何が悪なのか。パート2をお送りしたいと思います。
パート1は、少し六箴の方の話に入ったわけなんですけども。何が善で何が悪なのか。結論としては、絶対の善も絶対の悪も無い、全て相対的なんだと言いました。
相対的とは如何なるものなのか。絶対の善は無い、絶対の悪は無いと申しますと個々に、このことは善であって、このことは悪であってと、事柄別にしていくのは非常に難しい。
状況によりまして、ある時は善、ある時は悪となってしまうので、なかなか定義するのが難しい。しかし、それではどうやって善をしていいかわかりません。
ですから、善悪の定義というものをいろんな角度から見ていきまして、結論をつけたいと思うわけです。
例えば、今こういう重要な講義をしているときに、お湯を沸かしまして、ジャンジャンと音を立てるというのは本人は善なる気持ちでしているんですけれども、相対的に言いますと、気の乗りが悪くなるので、悪であります。
普段、コーヒーを出すということはいいことなんですけど状況によりましては悪になる場合もある。
これは、あくまで状況によるわけです。ですけども、善をしながら、前進していくということが大事であります。
で、神道からいきましょうか。神道ですね、善悪の事を見てみたらなかなか面白い。えー、神道のですね「日本書紀」にしましても「古事記」にしましても、日本武尊様というのは英雄です。
『日本書紀』とか『古事記』の中では善なる人間と言われているわけですけれども、なかなか、その定義は面白いですよ。
日本武尊様は、天皇様から「順わないところを征伐しなさい」と言われました。熊襲の征服ですね。
そういうことで、非常に、悲劇の要素を持ちながら「行きます」と言う形で、艱難辛苦を乗り越えて行くわけなんです。
それで、よくその物語を見ていますと、女の姿に変装して敵を殺すとか、どうぞどうぞ、毒を入れてるとかね。非常に権謀術数と申しますか、人をペテンにかけて勝っているんです。とにかく、悪をペテンにかけて、女に化けて油断したところをぶすっと刺す。
手段を選ばない。だけども、天皇様のために頑張って勝った。
それを悪く考えますと権謀術数して、ペテンにかけて勝って、とにかく勝てばいい。それが善だと思うかもしれない。しかし、そうじゃなくって、か弱い人間で天皇様の大義名分を持っていきながら何とかしなきゃいけないというところの叡智です。
日本武尊様は叡智で悪を懲らしめて頑張ったんです。それから、だいたい日本人の傾向としましては死者にむちを打っちゃいけない。
死者にむち打つなかれなんて言います。相手がごめんなさいと言っていたら、それ以上責めません。韓国の人とかヨーロッパの人はそういう倫理観念じゃないから、どこまでも殴ったり蹴ったりなんかしたりして、相手がごめんなさいと言っても全然許さない。
外国の場合は、ごめんで済んだら警察はいらないという形でペナルティーを必ずもらいますね。罪は罪、善は善だと。まあ、はっきりしています。
日本の場合は、お妾さんを作るなんていうは倫理的に許されないけども、
例えば政治家の三木武吉さんなんかは、ある時に対立候補に言われました。「三木武吉さんは妾さんが四人もいて、国政を預かるものがそんなことでいいのか。非常に人間としてのふしだらな面があるから、よくない、悪だ」と。
ところが、三木武吉が出てきた時に、皆はどういうふうに答えるんだと思って来たら、堂々と演説の場で「えー、いまご紹介いただきました三木武吉です。私に妾が四人もいるという話を今いただいたわけなんですけど、実際は妾は五人おります」と。
一瞬皆、唖然と驚いたわけです。
「みんないい妾でありまして、いい奴なんですよね、みんな」と言って。堂々と妾が五人いるということを明鏡止水のような境地で言うわけです。
「みんな私のことを慕ってくれている。生活の糧がなくて私に頼ってきている。だから私としても、それを見過ごしてしまうと女性を不幸にしてしまう。私も情が深いのか、おうちを建ててあげて五人みんな仲良く人生をエンジョイしているんですよ」って言いながら、堂々と言うわけです。
そうすると「三木武吉は偉い」と。「堂々としていて、野党から言われても、全然、明鏡止水のごとく動揺しないで実際は妾が五人いるということをはっきり言って、偉い」と。
その三木武吉の答えが素晴らしかったので、人々は「よほど、彼が魅力があって、おおらかなんだ」と。その彼のおおらかさ、寛容さ、堂々としているという無着さで圧倒的な投票をもらって当選したんです。
ですから、妾を五人も置いているというのも、状況によりまして善になったり悪になったりする。日本人の精神はそうですね。判官びいきと言いまして、お兄さんに背いているんだけれども、みんな義経を味方しますね。
人間の義とか忠というのが大事で、状況によって変化する。ある時は善、ある時は悪になる。かわいそうだからと言って無法者に対しても同情が集まります。
黙って見逃してやっている「遠山の金さん」なんかがいいなあ、杓子定規に委ねられないというのはいいなあと思いますね。そういう体質があるわけです。
神様の力徳が行き渡っているところが善
簡単に言うと、善悪というものは絶対の善も絶対の悪もなく、相対的なものだというのは、それは神様の力徳が行き渡っているところ、これが善であります。
神徳なり、力徳が行き渡っているところが善であって、それがまだ至らない面、力徳が行ってない面が悪です。これが結論ですね。『生命の実相』のさんもこういうふうに言ってます。
これを言いだしたのは出口王仁三郎さんなんです。大本教の出口王仁三郎さん。善というもの、悪というものはどういうふうなものかと言いますと神の力徳が行き渡っているのが善である。
行き渡らないところが悪だと。
そういうふうに考えますと法律というよりも、人間の愛情とか、その本人の人間性の素晴らしいものが行き渡っているところは善であって、そうじゃないところがよくない。そのような人徳というか心映えというか、精神性というものが、行き渡っているのが善なんです。
神の力徳が行き渡っているのが善であって、行き渡ってないところが悪である。「生命の実相」なんかでもこういうふうに言っています。これはオリジナルは出口王仁三郎さんが言ったことなんですけれども。
私はさらに発展して、じゃあ日本武尊様の場合は、なぜあれが善なのか。ペテンにかけたり変装したり、刺し殺したり毒殺したり。むちゃくちゃなやり方をして、悪もかわいそうです。
だけどもそれは日本武尊さんは我よしの精神でやったわけでなくて、天皇様と神様の御稜威を行き渡らせるためにやったんです。
神様の御稜威が行き渡っているから善なんです。
叡智を使って、神様の守護によって艱難辛苦、ピンチを何とか脱却して悪を懲らしめた。神様の御稜威を行き渡らせるということにおいて善なのです。
神様の御稜威というのは、神様の誉れと神様の神徳が行き渡ることです。神様の神徳と威厳と正義ですかね。神様の義というものが行き渡っている。御稜威が行き渡るというふうに言います。
三木武吉さんの場合には、彼の内面の善なる神性、仏性。妾を作るとか作らないとかという倫理観念、道徳観念よりも、三木武吉の人間としての内面性、その人の中の御本仏、神性。
三木武吉に内在する神様の性質、善悪を乗り越えたところの、妾たちをいとおしんで大切にして、幸せにしてあげているという寛容性。
三木武吉の内面的な神性、仏性が行き渡ってるから、人々は「立派だ、善だ」と。単に色欲魔道に陥って、自らの煩悩と色情の欲望だけでやっているというのではない。そういうものを感じるからでしょう。
それから、禅宗を見ても同じことが言えます。禅宗では「悟る前の善悪はすべて悪、悟った後の善悪はすべて善」という言葉があります。悟る前は人間の観念とか分別知がありますので、内面的な仏性がまだ開花していない。
曇っています。だから、やることは全部つほからずれている。逆に仏性が開き、神性が発動している中でしたことは頭を殴ろうとけり飛ばそうと、善なんです。
前にも講演会で言いました。黄檗禅師が臨済禅師の悟りを開かせるために問答した答えは、一切答えという言葉がなくて殴る蹴る、蹴り飛ばす。
とにかく暴力のあらん限りをやったわけですけれどもそれは憎しみではなく、本人=の仏性、神性、本人の中にある
神の力徳が行き渡ってる。そういう状態での殴る蹴るですから、全部善なんです。
殴る言葉の中に神が宿り、仏が宿りしているわけですから、これは善である。力徳が行き渡っている。悟る前の善悪はすべて悪、悟った後の善悪はすべて善だという禅宗の含蓄のある言葉は、そういう意味に解説できるんじゃないかと思います。
日本武尊さんの場合、三木武吉の場合、禅宗のこの言葉の場合、考えていただければわかりますね。
こういうふうに神道的に考えますと善悪というものの一つの大きな基準が出てきます。
自分の神性を磨き、神様と一体となってするということは倫理的、道徳的な善悪というものを乗り越えて、比較的絶対の善に近づいているということが言えるのではないでしょうか。
どうですか。善悪の一つの新しい基準でしょう。こういう善悪の考え方ってないと思います、世界的には。何が善で何が悪なのかということ。
自分以外の人に益する働きをすることが善
その次に、もちろんこの基礎に立脚しているわけなんですけども仏教的な善というのは一体どういうことなのか。想念と行いが一致して、自分以外の人に益する働きをすること、これが善である。一つこういう角度がありますね。
これはどういうことかといいますと、善行をするとか、善を行うことによっって善根功徳を施すという言葉があります。善根功徳を施す。善の根の功徳。
善を作ることによって功を積む。さっき言いました。
一功は三日三晩徹夜で寝たきり老人を介抱して、食べ物や着るものをあげるというのが一功でありました。功の徳。その奥には、善を行っているという根がありまして、善になるんです。
その善根功徳を施す方法としまして、体施、物施、法施があります。体で施しをして善根を施す。法を人々に説いて、あるいは教育をして善根功徳を施す。
それから物、田地田畑とか金銀財宝を人々のために使って、善根功徳を施す。こういう体施、物施、法施でしたね。
それから、四番目に僕が新しく付け加えた言霊施。いい言霊をばんばん、素晴らしい言霊を出して霊界でプラスの想念の霊界を作ってしまう。そうするとその後で、そこにはいいことが起きます。法施の延長線上にある言霊施ですね。
最近は、星施というものがあります。いい星につけ替える、星のいい影響を与えることによって、人々に幸福をもたらすというものです。
しかし皆様、その体施、物施、法施も、もうちょっと集約していきますと想念が伴わなければだめでございます。前にお話ししましたように、A教の人は一生懸命お掃除はするし、田地田畑も寄付する、労働奉仕もする、人さまに布教もします。
要するに体施、物施、法施をやってるわけです。しかし、何のために体施、物施、法施をやっているかが問題であります。
A教というのは概して、ご奉仕ごっこ。ご奉仕の自慢のしあいをやるんです。
「私はこの間、日比谷公園をお掃除したんです」「そうですか、私はこの間ね、善福寺公園をお掃除しましたよ」「そうですか、私は田地田畑を寄付しましたよ」「そうですか、私はこの間五人お導きして、神の道をちゃんと説いたんですけどね」。
負けるもんかと思って今度は「親戚縁者の田地田畑を全部寄付しましたからね」「そうですか、私は十年間、毎朝人さまのおうちのお掃除をしましたよ」といって、善根功徳を自慢しあってる。
こういう競争があるわけですが、どういう境地で発しているかが問題なんです。A教では、ご奉仕をして体施、物施をしたら天国に行ける、地獄に落ちないで幸せになれると言われています。
しかし、体施、物施、法施をする想念が「自分が幸せになりたい、天国に「行きたい」という我よし心、エゴイズム、利己主義の、「自分が幸せになりたい」という想念が発露となりまして、体の施し、物の施し、法の施しをしている。だから見たところは体施、物施、法施で善根功徳をしてるんだけど、想念は自分が幸せになりたいというエゴイズムの想念ですから、愛念がないんです。
だから、死んでから、まぶたが閉じてしまう人がいまして「こんなはずじゃない、こんなはずじゃない」ってその霊が言っているんです。
あれだけしたから極楽浄土に行ってるんだと思って、意気揚々と死んだんだけれども、真っ暗な霊界にいた。こんなはずじゃない。しかしそれは、生きていた時のご奉仕をする想念。体施、物施、法施をする想念が愛と誠でなかったからです。
だから、いくら善を施しましても想念と行いが一致しなかったら、絶対に体施、物施、法施、善根功徳とはならないわけです。
つまり、仏教的に言いますと、体施、法施、善根功徳は想念と行いが一致して、自分以外の人に益する働きをすることが善なのです。
これが、善という一つの大きな定義だと思います。
雲谷禅師が袁了凡さんに、善とは何か悪とは何かという『陰鷲録』を見てみたらわかるんですけど、善とは世に益することだという素晴らしい定義があるんです。人にプラスになる、益すること。
だから、益することということを考えた場合に、人を殴る方が幸せな場合には益することができる。お金を与えなくて、ちょっと苦しいのをじーっと辛抱させて、あまり救いの手を出さないということが益する場合もあります。
益するということは、その時々に変わりますが、とにかく益すること、プラスになること大所高所から見たり、短期的な目で見てもそうなんですけど、とにかく、益することをしている。
要するに体施、物施、法施ですね。
とにかく、体施、物施、法施して益すること、しかも自分以外のため。これを利他愛とも言います。他に利する愛。この逆が自己愛です。自分自身を愛することですね。
ところが、世のため人のために生きようという人間、世のため人のために生きたいという想念の下におきましては、どうすれば世のため人のために生きることができるんだというと、まず自分を立派にして自分を幸せにしなきゃいけない。
社会に対して、世のため人のためにという人は、まず、本人の心掛け次第で、最低「世のため」の「世」の一人は自分です。
世を良くしようと思ったら、まず自分を良くして自分が幸せになる。とにかく取りあえず、世の中の一人は助かったことになる。それから家族です。
自分自身は想念の持ち方で自由になります。人さまを幸せにするのは割と難しいですけど、自分を幸せにするのは割と簡単です。
幸せだと思えばいいわけだから。もちろん自分自身を幸せにするのも、厳密に言えば難しいことは難しいんですけど、幸せだと思っちゃえばそれで幸せですから。
まず、自分自身も幸せにできない人間が人を幸せにすることはできません。世のため人のためにということは、まず自分を幸せにすることです。そして、自己愛というものも真に極めていけば、利他愛を包含したものになる。
自分が幸せで、人も幸せ。世のため人のために役立って本当の自己愛が完成するわけです。本当に自分を愛するのだったら、人も幸せにするのが本当だということです。
理屈っぽく、詳しく言えばそうなんですけど、ここではもっと簡単に考えまして、自分以外の人に益するようなことをしよう。
想念でも行いでもできてるということが善である。仏教で出てくるニュアンスというものはこういうものです。
おそらく老祖様が言ってた善を積むということはもっと深いことですけど、聖徳太子さんの言ってる善というのはこういうことでしょう。
善をしなさいということは、世のために役立ち、人々の自分以外のために益することをしなさい。これが聖徳太子さんの言っている善の定義だと思います。
