深見東州の土曜神業録22(VOL.6)

イエスが一番言いたかった本質とは

イエスの教えの根幹は、ユダヤ教に対する反動からきています。ユダヤ教というのがあまりにも法律、法律、律法でそれを規定したものだから、あれをしちゃいけないこれをしちゃいけないと。

旧約聖書を見たらわかります。食べちゃいけないものが決められてます。

ひづめのある動物はいい。蹄が分かれていて、反芻動物は食べていいけれども、ウサギはよくない。

爪は割れてるけども反芻しないから、ウサギを食べちゃいけないんです、ユダヤ人は。

これを守らなければいけないということが旧約聖書にありまして、食べ物から何から全部限定されています。羽が生えていて、四つ足で行く動物は食べてはいけない。ただし、イナゴ、コオロギ、バッタは食べていい。

そういうことまで全部限定しています。それ以外のものを食べたら汚れるんだと。

そういうたくさんの律法、戒律があるわけです。安息日は何もしちゃいけないとか、何でも戒律があるわけです。

だからイエスは愛念を持って、律法よりも愛でいけば、本当の神の御心は天にまします神の心は愛なんだと。神は愛なんだ。愛といっても、普遍的な愛ではわからないから、神の愛とはどういうものなんだ。それは私たちの中に内在する情感としての愛念。

除霊の話でもしましたけど、情感としての愛念が神様の愛に相当するものです。だから、隣人愛、隣人を愛しなさいと。

隣人を愛するという身近なものから愛を出していく愛念の訓練です。愛念を出していって、それを普遍的に広く広くしていくことによって、神の愛というのはその上にあるんだよ。

だから情感としての愛情というものがなかったらだめだと。それによって普遍の愛を説いたわけです。愛念を出しておけば、霊界はいいところへ行けますから。

神様の御胸から見て罪人だ、罪人だというのは神様の目から見たら、やはり絶対の善はないということの謙虚さ、ここが大切なわけです。

こういうふうに考えないといけない。

それが、プロテスタントみたいに信じるだけで救われるというのだったら、「死ぬ前日に信じます」となりますね。そういうことを言ってるのではない。

そういう想念を持って愛することが大切なのであって、それを実行しなければイエスを信じたことになりません。イエスの存在は信じても、イエスが一番言いたかったこと、イエスの魂を受け継いでいるわけじゃない。

信じるだけで救われるというのは、神の存在を信じさせる布教の一つのテクニックであってキリスト教の本質ではありません。

そういう意味で、イエスを信じた者は何事も情感の愛で接していって、愛をもって帰一するというところが本当のクリスチャンであります。

イエスを信じてなくてもヨハネを信じていても、マリアを信じていても、法律とか法則よりも愛で帰一するというところがあれば、まさにクリスチャンなんです。

イエスの一番言いたかった精神の中心はそこです。これはまさに真実です。

これはイエスの素晴らしいところです。プロテスタントでも、そういう本質を見ていくプロテスタントも多いです。カトリックでもその辺りをとらえている人は、死後いい霊界に行くし、神様の御胸に合っていると言えます。

絶対的な善はないと知って善を行う

ちょっと横道にそれましたけれども、神直日かむなおび大直日おおなおびに見直し聞き直し、身の過ちは宣り直しという神様の目から見て、人間というものの位置を見て、少しでも善なる方向へ行こうと思うと、まあまあ仕方ないだろうと許されている。

これが人のあるべき姿です。何が善で何が悪かのテーマですが、絶対の善も絶対の悪もないけども、こういうふうにして見直し聞き直し、身の過ちは宣り直しという態度で生きていくのが人としての善なんです。

絶対的な愛はない、絶対的な善はないと知りながら、そうして生きていく相対的な善を行っているのが絶対的な善なんです。

ちょっと理屈っぽいですが。人として絶対善の姿勢というのはそういうことです。

そういう謙虚さを持って自分なりにいいと思うことを思いきってやっていく。世に益することをしていくと。こういうふうに持って行かなければならない。

キリスト教の場合にはこれは善、これは悪というかたちです。

ユダヤ教の場合には厳密に規定していますけども、それは神様というものは聖なる存在だから、ユダヤ人は聖なる存在となるために汚れたものを食べてたりしてはいけないということがテーマであって、その本質は聖なる人間だから、やはり愛念を持って神に近い存在でなきゃいけないということがユダヤ教を読んでいく読解力なんですけども、字句から見てみたらそう書いてありますからそう信じちゃうわけです。

人の幸せのために律法を作ったのに、律法のための人間になってしまった。そこで、律法を守らんがために、精神的に葛藤して苦しんでいるのは本当じゃないというのがイエスの突いたところです。それはまさにそうです。

人間のために神様が律法を作った。律法のための人間じゃない。法則のための法則じゃない。

その辺りのイエスの説いたところは神道とも似ています。神道というのは人の幸せ、人間のための法則、倫理なのであって、倫理のための倫理じゃないというところです。

神道はその辺りが明確に魂で理解できている。ここが素晴らしいところだと思います。

それに対して、お釈迦様は方便で大慈大悲の御心で三十三相化身して戦をしたりするという、倫理、観念を抜けて、大慈大悲の目から、観自在、観音経に書かれている神の様相を呈してます。

ある程度のランクまで達しますと、善悪に対して相対的な見方をしている。

神の力徳の行き渡らない面、状況によって全部違うんだという、そういう目で見ているのが共通していると思うわけです。

愛をもって帰一していく。その法則に則って、何が愛なのか何が善なのかというのは神様の目でなければわからないので、そこを預けてしまうというのがいいんじゃないでしょうか。

これが、人としてあるべき絶対の善、至誠ではないかと思います。

善を生かすために悪がある

これをですね、今、神道の目とキリスト教の目と仏教の目で見てましたけど、儒教の目でちょっと見てみたいと思うんです。

『易経」あるいは「大学」「中庸」の中で、何が善で何が悪かと言いますと、陰と陽でこれを見ております。

例えば、前に言いましたね。お花が大きくなっていくというのは「神」(板書)の働きという定義です。それが枯れていってぐちゃぐちゃになって、腐った状態になりますと、これは「鬼」(板書)という状態です。鬼だと。

要するに、これ(神)が陽の状態でこれ(鬼)が陰の状態です。人間が生まれてくる、幸せになっていくというのが「神」の働きで死んでいく、墓場の中に入っていくというのが「鬼」ということを定義しております。

その「鬼」というものを見たら「中庸」に出てるんです。四書五経の「中庸」の説の中で、鬼神というものの中国人の解釈というのは、陰と陽の解釈。

人間が生まれて幸せそうな状態というのは、神という状態であって、死んでいくとか悲しいというのは、鬼という状態。両方とも神様なんです。それを鬼神の働きというわけです。

鬼神という意味じゃなくて、鬼の状態、神の状態。陰と陽というのが森羅万象の姿だということを言い表しているわけで、非常に賢いですね。

両方の状態があるんです。これは「中庸」に出てます。しかし、そういうふうな状態に対しては、誠が正しい。

誠の気持ちで接していかなければいけない。誠心で鬼神に仕えていくと、鬼神の恵みによってみんなも繁栄していくというようなことが「中庸」には書かれております。

ですから、善と悪というものに対して、どう考えてるかと言いますと中国の思想は陰と陽であると。

あるいは鬼であり神であり、鬼神の働きであると。じゃあ、どうしたらいいのかといいますと陰と陽がある太極がありまして、太極の中におりますと陰と陽が出てくる。

どちらかといえば陽が善で陰が悪です。先程は神道の考え方を言いましたけれど、力徳が行き渡る、行き渡らないというのがありましたけど、その基本的な思想のベースになってるのはこれではないかと思うわけです。

太極というものがございまして、これが中国でいうと「一」です。

それで陰と陽、プラスとマイナスが出てくる。

陽が善であって陰が悪。物事は陰と陽でできている。だから、善と悪でうまくいっている。神様の目から見たら善を生かすために悪があるんです。

もっと別な角度で善悪を見てみますと、例えばお芝居で言いますと、悪人がないお芝居はちっとも面白くないですね。悪人がいて、まいないをどうでこうでというところで水戸黄門が出てきて裁いて良かったねなんていうわけです。

『水戸黄門』にしましても「遠山の金さん」にしましても、善が素晴らしく光るために九分九厘まで悪が頑張る。

「おしん」なんかもそうです。姑は徹底的にいじめるので「おしん、かわいそうに」というかたちで、その苦しいものから乗り越して頑張って生きている健気な姿。

あの健気さに対して善が光る。善が光らんがために悪がうまく演じている。そういう善玉と悪玉のお芝居の中で、善が最後に勝つ。

本当は神界は九分九厘まで悪魔というのはいるわけです。善悪というものは陰と陽です。

神様の善を生かすために悪役があって、本当の鬼神の目というのは、この太極の目でお芝居を書いているということです。

菊理姫様ってそうでしょうね。一厘の神様の目から見たら善玉と悪玉を使っていって、最終的に善を素晴らしく完成するためのものなんです。善から見たら悪はそう考えなきゃいけない。

これに対しましてバリ島はどうかといいますと、バリ島はそうじゃないんですね。バリ島の神様は善玉と悪玉が絶えずけんかしている。今日も争って勝負がつかない。

善が勝ったかと思ったら悪が盛り返してきて、悪が勝ったかと思ったら今度は善が盛り返してきて、善がいいかと今度はまた悪が盛り返して、絶えず今も善と悪が争った状態で、結論がつかない。

ですからバリ島の人間というのは、善が勝つとは限らない。悪が勝つとも限らないということで、精神状態というものは絶対的な善というのはなりきれませんね、あの神話からいいますと。

だから、バリ島には悪魔が多いんです(笑)。

そういう霊界を人々の心の中に作ってしまっているんです。善が勝つんだという気持ちですと想念の世界が明るいですね。

「正義は勝つんだ」なんてよくお芝居でも言いますよ、テレビでも。

しかし、バリ島では正義は勝つとは限らない。今も正義と不正義が戦いつつある、こういう世界です。やっぱりそれは、神様が最終的に出された姿ではありません。

魑魅魍魎がやっぱりいるわけですね。バリ島は、まさにいやすいでしょう。本当にバリ島に対して罵詈雑言を言っておりますけども(笑)。

本当の神様は全知全能。悪は、悪魔は九分九厘までの力を持っている。

しかし、この九分九厘がなければ善玉が怠けてしまうので、見事なるお芝居をするために善と悪とが入り交じっている。

どんなお芝居でも悪玉がいます。悪玉のないお芝居はちっとも面白くないですよ、本当。

ハラハラドキドキしなくて、感動がないです。すべてが陰と陽なんです。こういう考え方です。

心の中は老荘精神、実行する時は儒教で

これを老子はどういうふうに言っているか。長があるから短があるんだ。美があるから醜があるんだと。美しいものがあるから、これが汚いというのがあるんだ。

長いというのがあるから、短いということがあるんだ。これが善だというのがあるから、逆にこれが悪だというものが起きるんだ。老子はそういうふうに言っています。

だから、短いものをなくし、醜いものをなくし、悪をなくそうと思えばどうすればいいかというと、善をなくし、長いのをなくし、美しいものをなくしちゃえばいいわけです。

すべて相対的なものなんです。まさに逆説を突いてますね。長いものがあるから短いものがあるんで嫌なものをなくそうと思ったらいいものをなくせばいい。

いいものがあるとか、悪いものがあるとかという、そういう世界に入らなかったらいい。ただ、人が定義しているだけです。美しいと人が定義しているだけ、汚いと人が思っているだけだと言うんです。

長いとか短いとか関係ない、そういう状態がただあるだけだと。人間が定義するから起きるんでありますよと。

強いものがあるから弱いものがいるんだ。弱いものをなくそうと思えば強いものをなくせばいい。

高いところがあるから低いところがある。全部そうです。

だから高いとか低いとか、美しいとか醜いとかという、人間が定義したものじゃない世界、太極の世界から見たら、そういうものじゃないものを総覧して見ることができます。

これは、人間社会から少し離れた目ですね。実際問題としての社会活動、人間生活の中のドラマの中においては、やっぱりきれいなものはきれいだと思うし、汚いものは汚いと思う。

だけども、の神様というものは、前にも言いましたように、お花の上の美しい花があれば、下に根があって汚いものがあります。

両方あるわけです。誰がお花がきれいと決めた、誰が根っこが汚いと決めたんだ。根は根じゃないか、花は花じゃないか。

ただ、こういう植物があるというのは事実ですから。

神様はそういう美醜の面、両方をお作りになっているのが神です。自然というものです。

だから私たちも、善の中にも悪というものがあって善人になりきっちゃうと悪人があれですので、善悪を乗り越えた世界で悪は悪なりによく知って認識する。

悪そうに見えるだけであって、マイナス因子と考えて悪に対しては悪なりに対処して、よりいい方へ持っていく。それは善悪を乗り越えた境地です。

そういう両方の面を見ていかなければ、神の正しい理解はできません。の神様はそういう世界を両方作っているんです。

老子はその辺りを言ってるわけでしょう。きれいも汚いも全部自然のうちの一つじゃないかと。

儒教の人は「はー、あんな汚らしいものがどうして…」という境地に陥ります。善を積もう、仁を積もう、仁義礼智信を積もう。

そうじゃないのは一体自然の中で何になるんだ。天の作った仁じゃない世界は一体どうなるんだと思う傾向があります。

しかし老子はもっと大きな愛を見てるわけです。もっと大きな神の様相というものを老子は説こうとしているわけです。儒教というものは、善に偏りがちになる。

美しいものに偏りがちになって、そうじゃない面を見たら許せないという、心の狭量さを作ってしまうわけです。

ですから、前に言いましたように、心の中は老子で、実際面は儒教の要素がいるというのが、山鹿素行の考え方でしたね。精神状態は老荘精神のように、きれいはきれいでいいと鑑賞する。

汚いものが来たら、これも自然の一つだと。特に悪を毛嫌いしすぎるということもなく、それをじっくりと前向きにとらえていくという奥深さが要ります。

しかし、実行するときは「まあ、悪もいいんじゃないか」と言うとだめなので、儒教の精神で正しい方向に行くようにする。

だから、内面的には老荘精神で、実際面の行動は儒教の精神がいい。物事にとらわれない境地が老荘精神で、一歩一歩と社会人としての場所を踏まえていくのが儒教精神。

山鹿素行の老荘精神と儒教精神の使い分け方法、うまく言ってますね。これは私たちも参考にすべきだと思うんです。そういう意味で、善悪というものに対してあまり拘泥しすぎないでじっくり見ていく。日本神道というのも、こういう考え方に根差している面があると思います。

キリスト教的な善悪観念から言うと、日本人の感覚は絶対に理解できないと思いますけれども、この老荘精神の中から見てみたら、日本人の感覚がよくわかります。

老荘精神の美醜という感覚を見ていくと、もっと善悪というものを大らかに太極の上に立って見ることができる。プラスマイナス、イエスノーの前に立って総覧していけるんです。

これが中であるし、妙であるし、神の一という道です。この、善悪の前の太極の一にいるというのが日本神道の場所ということは中野サンプラザで講義いたしました。

中野サンプラザで講義いたしましたように、善悪もそうです。善悪正邪を乗り越えたここにいなきゃいけない。善悪は使い分けができて、初めて善も悪も生かすことができるんです。

そういう意味で、何が善で何が悪なのかということは、中国的に見ますと、

陽が善で陰が悪です。どうしたらいいのか。陰と陽が出てくる太極にいて、善は善悪は悪として生かせばいい。
善は善で広めるけれども、もっとそうじゃない境涯の上に立たないと、偏狭な善人になってしまって本当のものではないよということです。

天地自然の真相というものは善ばかりではありません。陽ばかりではありません。

陰と陽と両方のバランスを持っているんですよという結論です。これは老荘思想から見た善悪に対する境涯、境地、受け取り方をどうすればいいのかという一つのヒントです。

受け取り方はできても、じゃあ、どう実行したらいいんだということは、最初に言いました。実行面で言いますと、この神道の直日に見直し聞き直し、身の過ちは宣り直しという信仰姿勢、神様に対する姿勢。

その方が人として素直でありますので儒教的要素、老荘思想、仏教の概念、キリスト教の愛念に基づきまして、神道のこの姿勢、生かし方、臨み方ということで締めくくりをしていく。

神道というのは理論がありませんから、そういうふうな考え方を全部踏まえて、いいところだけを取って精神的に救われた状態で前向きな努力をしていくことができるんです。

これが、何が善で何が悪かという結論として、考えていただきたいと思います。

ということで、少し長くなりましたけれども老祖様の言っている悪というのも、そういうことも包含した深い意味で悪を退けて、善へ向かっていく努力をしなさいということであると思います。

どうもありがとうございました。