深見東州の土曜神業録20(Vol.2)

【第一章】心とは自分の中に出てくる言霊である(昭和60年6月1日)

言霊の剣をうまく使う

【深見先生】六月でございまして。まさに、えー六月一日で、本日は一日参りの、一日講義でございまして。言霊秘法について、今日はお話ししたいと思います。いろいろな意味で、今、お話ししたいと思いまして。

言霊はよく使えば、まさに神法、言霊の剣で宝物なんですがマイナスに使いますと、わが身を滅ぼしてしまうという剣です。

あるいは剣というのは意志を表します。あるいは剣でパッパッと、こう切れば、一つのものが二つ、二つのものが四つ。一枚が二枚、四枚が八枚、八枚が十六枚と、剣によりまして増えていく。

ですから、ユダヤの働きとか剣は、数、数霊を表します。

なんでも銭勘定で、数値、数値で数える人がいます。たとえば大企業なんかでは、人間が数字に影響されまして、人間性が没されてしまう。逆に、田中角栄のように、数値をうまく運用いたしますと国会の討論なんかでも、何パーセントから何パーセント、あの人は非常に数字をうまく使う人でございまして。

なんかもっともらしくって、信憑性があってすごいと。スラスラと、0コンマ何々パーセントだなんていうことで、まさにこれをプラスに使えば、剣でございます。

そういうふうに剣は意味されるんですが、もう一つの意味があります。それはまさに言霊ですね。

言葉、魂が入っている言霊というものは「天地も動かすばかり言の葉の誠の道を極めてしがな」という、明治陛下の歌がございますが、天地も動かすばかりの力。それは言霊の剣と申します。これは人を殺す剣ではなく、人を生かす剣です。

あるいは、これがマイナスのほうに出ますと人を切ってしまう、人を傷つけてしまう。

逆にこの言霊の剣をうまく動かせば、神々様も感激して動いていただけます。これだけの大きな含みがありまして言霊の剣というものをいかにうまく使っていくかということが、この現実界におきまして、あるいはご神業でも、一番、やはり大事な要素なわけです。

こういうふうに言霊が大事だということを、皆さんもご理解いただくと思うんですが、じゃあ具体的にそんな大事なもんだったら、どういうふうにして活用するべきか。

どういうふうにして運用していけば、一番、我々にとりましていいのか。具体的な運用方法が大事になってくるわけです。そのことについて、今からお話ししていきたいと思うわけです。

心とは自分の中に出てくる言霊である

活用はいろいろでございますが、本日のテーマでありまする言霊秘法につきましては、まず、この図を見ていただきまして。

人間は感性の部分といたしまして、魂があります。心の部分というのが、その周りに覆っております。その周りに、肉体が覆っております。

これは、同時平行でございまして、えー、六根清浄なんて申しますが、普通、五感ですね。

見たり聞いたり、香りをかいでみたり、味わってみたり、肌で感じる。

こういうふうに肉体のほうから、いろいろな情報が入ってきますと誰でも人間はこれに反応いたします。まあ、きれいな人を見たらきれいだなと。

「きれい」っていうふうに、目がこれを見ますと、心がきれいだなあと。きれいだなあと思うわけです。

それから、冬に寒いところに行きますと肌は寒い、寒いーと。寒い一っていう気がいたします。

それから、例えば不協和音ですね。とにかく高音部と低音部、和音が微妙にずれている。嫌な不愉快な音だなと。何という不協和音だと。

ドラムが大きすぎたり、ギターが音楽として聞いておりまして、非常に不愉快だなと。変な音だと思うわけです。だけれども、きれいというふうにパッと感じるところは、この心の部分をのけまして、サッと魂に感じます。きれいな音はパッと魂に感じます。

そういうふうに感覚というものは、すぐに魂に影響するんですが、ここに心が覆っております。ですから、見たり聞いたり、味わったり、おいしいなあと思ったりして、人間の五感を通しまして心というものは、ころころころころ揺れ動く。

ころころころころ変わっております。ですから、人間の肉体がある限りにおきましては、必ず、心の迷いとか葛藤が、揺れ動く雲のようにして出てくるわけです。

御魂は、その心の奥の中にある、自分はこう生きたいとか、ああしたいとかという、潜在的な意識でございます。心はしょっちゅう変わっております。

だけれども、この心によりまして、御魂を奮い起こしたり、肉体というものを動かしたりするんです。心次第でこれが両方に影響を与えるわけです。

心で決心しましたら、御魂と肉体の両方を動かすことができる。目は何時間つむっていようとか、嫌だけども辛抱して聞こうとか、心が決めるわけです。

で、この肉体をどういうふうに、人間は生活すればいいかは、儒教が説きまして、心の世界は仏教が説きまして、御魂の世界は惟神の道で、神様の信仰で説くわけでございますけれども。

よく考えてみますと、心というものはいったいどういうものか。ころころころころ変わるんですが。

考えましたら、やっぱり心というのは自分自身の内部で出てくる言霊なんです。言葉、あるいはせりふです。

ですから「あっ、あんなこと言っていいんだろうかな。本当はああなのにな、こうなのにな、あんなこと言って、本当にああなんだろうか。そうは言うけど、あれはあれかな」というふうなせりふが、心の中に出てくるわけです。

このせりふはどこに存在するかというと、だいたいこのあたり(お腹)にせりふが出てきまして。「ほら、あいつ、腹で何を思ってるかわかんない」、お腹の中で、こうせりふをつぶやいている。あるいは、後頭部からハーだなんて、せりふが出てきて.…。

以前に、とにかく不動の信念とは何かといえば、こういうものを打ち消してゆく、言葉数の量だと。

絶対量が多いと、絶対に勝つんだなんてことを言いましたけど。無口な人は心の迷いが起きやすい。

言葉数が多い方がいいというふうに言いましたけれど。よく考えてみますと人間の心と申しますと、実態はそういう内部の、ささやかな言葉なんです。

で、実際は人間の迷いというものは、これが肯定的なジャンルに入るせりふか、否定的なジャンルに入るせりふか、それから、不平不満に言うところのせりふか、それから、夢と希望と、愛に基づくせりふか。

例えば「人々が幸せでありますように」とか「人類が平和でありますように」なんていう言葉を、憎しみを持って言う人はあんまりいない。

本当にあなたのことを愛していますって言って、あなたを大好きです、大好きですっていうことを言いながら、お腹の中で思いながら憎んでるなんていうことはありません。

やっぱりこの感覚に合わせて、それに合うせりふが自然に出てきます。ですから、いろんなジャンルに分類できるところの、つぶやきと申しますか、言葉がこの中にいっぱい入っております。

これが交錯して出てくるのが、なんだか頭がガチャガチャでとか、気分が定まらなくてとか、いろいろ迷いがあってとか、ご相談申し上げたいことがあるんですがなんていう場合です。

ああだろうかな、いや、これも考えれるし、いや、やっぱりこうかも知れない。

そう言うけどもああかも知れないっていうふうな言葉が、交錯している状態。相談事とは何かといいますと、まさに、この言霊のスクランブルです。

「無」とは心のせりふをゼロにすること

それで、禅宗の教えと申しますと、こういう世界のものをなくしちゃう。

このせりふを全部、ノーワーズ(no words)にしようというのが、いわゆる無になる禅の教えです。あるいは、無念無想(板書)。なんにも念じることなく、思うこともない。無念無想とか、無になるなんて言います。

しかし実際は、人間も生物も、無になるなんてことは絶対無理です。天地は生成化育しておりまして、刻一刻ストップしておりません。常に動きまして、常に発展しまして、常に変化しております。ですから生成化育して生きている電子、原子核がありまして飛んでいる。

電子も何秒間隔の間に、ピッピッピッピッ飛んでるわけです。素粒子も飛んでるわけです。宇宙の真相の中で、無になっているのなんていうのはございません。

一見無に見えてるけども、そこから有が常にでてきます。理論上は無かも知れませんが、現実問題としまして無という状態はありません。

無になるとか、自分を無にしなさいとかっていうものは、いろいろと意味はございますけれども、ほとんどの場合、このせりふをゼロにしなさいという意味です。

このせりふをゼロにしなさいという言葉とイコールである場合が多いです。つまり無になれとは、見たり聞いたりして出てくるせりふをゼロにしなさいということなんです。

こうするために、禅宗は無とはいったいなんなのかと考える。つまり、何も考えないということはどういうことかを考える。

何も考えないっていう感じは、どういう感じかを考えているんです。ですから禅宗は、無の宗教なんて言いますけど、何も考えないとはどういうことかを考えているんです。

それから浄土真宗とか浄土宗は「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と言って、一つのせりふに、あるいは法華経も「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」と言いますと、これ「一字禅」(板書)というんですが、一つの言葉に専念します。

「南無妙法蓮華経」なり「南無阿弥陀仏」に専念しますと、それ以外、なんにも考えないから無になれます。ゼロでなくて、一つのことに集中することで他をなくしていこうという、無になる方法であります。

これは、「南無妙法蓮華経」も「南無阿弥陀仏」も同じであります。こういうふうに、いずれにいたしましても無になりまして、せりふがなくなりまして。

すると、この現実感覚の肉体部分と御魂の部分が直結するわけです。ですから見たら見たままを御魂がこう感じるし、思ったままがパッと表現できて、この間に介在しない。

瞬間のうちに表現できて、瞬間のうちに行動できる。そのために、皆、この修行をするわけです。自分自身の本来のものを出すために。ですから芸術家といいますのは、魂が感性がそのまま表現できます。

どうも、スポーツマンというのは悩みや葛藤があると体を動かしますから、このせりふがすぐになくなっちゃう。

だから、この心のひだが弱くなって、ちょっとしたことがありますと、ぐらぐらっとこっちへ来たり、ちょっとしたことがあるとやる気が出たりという形で、非常にむらっ気な人が多いです。

それから、御魂の世界を扱っている神道系の霊能者とかっていうのは、ああ、今日はあれが来たよね、今日はこっちが来たということで、すぐに御魂で感じるんですが、心のひだが弱いので、こっちが来たときにブーン、こっちが来たときにペッと行って、一定しない。

つまり、出てきたせりふに対して、どうやって処置していいかがわかんないわけです。