【第四章】本当の信仰力とは何か(昭和61年9月6日)
叔父さんのお葬式で…
【深見先生】えー、オーストラリアで出てまいりましたご神業が、非常にいいご神業ができたんですけれども行った人は聞きましたけれども、行かなかった人は聞けなかったので、それを要約致しまして、いくつかの項目に分けてお話ししてみたいと思います。
一つが本当の信仰心とは何かと。これ厳密に言いますと本当の信仰力です。本当の信仰力とは何かというテーマでありまして。
えー、私がオーストラリアに行く前に、みなさんもご存知のように、私の本締め切りでぎりぎりでして、二日でやらなきゃいけないと。
一日もう頭が割れそうで、涙流しながら二十一時間ぶっ通しで書いた後、即、飛行機に乗って大阪でお通夜に出まして、それからほとんど寝ないでお葬式終えまして、とんぼ返りで帰って成田に着いたと。
それでオーストラリアに行ったわけなんですけれど。不思議なことに、まあ私も追い込まれておったわけですけれども、私の叔父さんが亡くなったわけですけれど。
父の弟で、五八歳ですか。亡くなったんですけど、もう8年間癌でして、それで静脈瘤が破裂いたしまして、だいたい静脈瘤が破裂した人は9割までが死ぬと。
そのうち、残った人の10%のうち、半分がもう既に癌であると。ですから、ほとんどは三年以内に95%ぐらいまで死ぬと。
それが八年間生きていたという、5%の中に入っていたというエリートの一人であります。
えー、その叔父さんは、肝臓の皮膜がかなり強かったので肝臓癌から転移しなかったわけです。要するに肝臓が悪くて、静脈瘤がほーんと破裂して出血しちゃったわけです。
そして8年前に手術をして、膵臓を取ってしまった。膵臓のない方が八年生きたわけなんですけど。
でも、そのお葬式で驚いたのは、その奥さんというのは八年間、もう死ぬかもう死ぬかというところで。見ましたらですね、もう死ぬかもう死ぬかというふうな思いで、看病して覚悟を決めてきて。
もう死にそうだということで何度危ない時があって、何日も寝ないで看病した。要するに看病していたわけですね。で、まあ、この人が八年の看病の末、とうとう亡くなったわけでありまして。
それでその奥さんを見た時に感動しましたのは顔がさっぱりしてて、顔がまん丸なんですけどオーラがこういうふうに光って、こういうふうにぱーっと光ってる。
「叔母ちゃんいい顔してたね」というのがゆきちゃん(深見先生の妹さん)と僕の共通の感想だったわけです。なんて素晴らしい、さっぱりとした、後光が差しているような顔。
「はあー」。それがとても印象に残ったんです。もう一人の叔母さんがいるんですけれども、この人よりも、この叔母さんの方がこんなに輝いていた。
はあー、っていうのがオーストラリアに行く時に一番印象に残ったことですね。
父の弟ですので受付をしたり、ちゃんとこう着て、親戚の家の人に挨拶しお葬式で、それらしくしていたわけです。
本当はフラフラだったんですけれども。だけれども、お話ししているうちに、この叔父さんは私に対する二つの功徳を残したことに気がつきました。
一つは、この叔父さんがいなかったら、僕は英語をやっていなかったということ。この叔父さんは、神戸高校から神戸大学の経営学部を出た人で。
それで、大学時代に神戸大学のESSのキャプテンをやってて、マッカーサー杯というカップでクラブのキャプテンでありながら、全国優勝をした人なんです。
聞いてみたら、米軍の基地でアルバイトをしていたらしい。米軍基地でバイトしてたから、すごくうまかった。
それから、神戸大学の経営出て優勝もしてるし語学が得意だというので、N社の営業部長までなったわけです。それからN社が合併されてS社。そこに合併吸収されて、資材、インテリア、家具、寝具の事業本部長でした。
もう少しで取締役という時に、もう病気で倒れたんでありますけど。
まあ、そういうので、この叔父さんというのは英語をやっておりまして、ある程度は出世したわけなんですけど、だから僕が同志社大学に入って。
「同志社から英語を抜くと何が残るか知ってるか」と三輪さん(深見先生のお父様のこと)に言われて。「ゼロだ」と。「皆無だ」と。学校へも行かせない」
「だから、英語をやらなければ、授業料も出さないし、部屋からも出さないし、学校へも行かせない」という、厳しいお達しがありまして、それで嫌々やったのが英語です。
「英語さえやったら好きなことせい」と言うので、能楽とかお茶を英語をやる傍らやっていた。こんちくしょう、こんちくしょうと思ってその当時もやけくそで、ほとんど僕の人生の指針は日々是やけくそ、が多いんですけど。
まあ、そのきっかけになって、同じやるならもうやけくそでももう逃げられないから。
好きで入った人はみんな三月か半年で辞めちゃって、五百人ぐらいいましても三年以上続ける人は五十人もいませんね。三十人ぐらいです。それほど厳しいからみんなやめちゃうわけです。
だけども僕はその中で一番うまくなって、やっぱりそこのトップを極めたわけですね。こんちくしょう、こんちくしょうと。これが神様のご神業だと。
あの叔父さんが、と思ったけども。でも、この叔父さんがそういうふうに言ったから、今日ご神業が、学生時代、英語ばっかりでしたから、英語ができないと能楽もお茶もできないから、能楽を英語でやる、お茶を英語でやる、それを言って外人に感動させて、ざまみろと。これが趣味だったわけです。
外人見たらもう、外人見たら行ってきて、理論闘争して、どうだ日本はすごいだろうと言って。これで恍惚として。これがどういうわけか今のご神業に生きているわけです。
嫌々だけども逃げないで、立ち向かっていった一つの成果です。考えたらこの叔父さんが、そういう一つの基礎を作ってくれた。
それから就職の時に、この叔父さんにぽろっかすに言われながら、自分が一番嫌だなというところに就職させてくれた。お陰で、東京に転勤できたので植松先生とご縁があったと。
この二つのご恩というのが、お話ししてて分かったわけです。「ああ、神様こういうご恩がありました」と言って。
そうしましたら、それまでゆきちゃんと見てたら、真っ黒だったんですよ、叔父さんが。もう中有霊界の下の下という。自分の人生はなんだったんだ、と言いながら死んだでしょう。下の下だった。真っ暗のウロウロ。
その時に、お経を上げておりますと、「ああ、そのことが分かったなあ」とお願いした途端に、棺桶の上にパッと顔が出たんです。それがピンク色の顔ですよ。
にこにこにこにこしている。ぱっと棺桶から、顔上げてむっくり上がって「ほお?」というかたちで微笑んだんです。
「どうしたの、どうしたの、何やってるんだろうなあ、みんな何やってるんだろうなあ・・・・・・」と叔父さんがお葬式の時に首傾げてるんです、本当。親戚のお葬式行っても、やっぱり霊界研究してます。
そういうことがあって、霊界の中幽霊界の下の下から、下の上に上がった。六十二段ぐらい上がりました。六十一段ぐらいかな。神様が上げてくださったわけです。
だから、就職も嫌々だけどもまあ、よかれという思いでしたことでしょう、叔父さんが。まあ不思議なここに伏線があったわけですよ、こういう。今日に至るまでの。伏線のまた伏線ですよ。
お話はちょっと横道に逸れましたけれども、まあ、そういう叔父さんであったわけなんですけども、この叔母さんが、ここで、なぜこのような顔が本当につやつやして、いい顔してたのかということですけど。
叔父さんはとても神経を使う人だったわけです。何でも最後まで語学も堪能だし、頭が最後まではっきりしてましたから。
口から血が出たら、今のは白赤か、色を聞くらしい。白よと言ったら、いや赤だと。便が出ても、黄色か赤か、赤だと。
ちゃんとそれで、自分の体力もどれぐらいか全部計算している人だった死ぬ前まで。だからものすごく神経使って使って、ハラハラドキドキして、八年看病した。
本当の信仰力とは
お話の最初に戻りますけど、これを私が見まして皆様に本日のテーマの本当の信仰力とは何かをお話しするわけなんですけど、えー、こういうお話がありまして。これだけでは分からないんで、もう一つのお話を致します。
これは、あるお坊さんが、Aという若者とBという若者に二人おりまして。お坊さんが、大きな、身長の何倍あるかという大きな石がありまして。
「お前たち、この二人の者。この石を1cm動かしたら、これだけの宝物をあげよう、お金を何百万円あげよう」というふうに、このAという人とBという人に、このお坊さんが言ったわけです。
そうすると、このお坊さんの言ったことを聞いて、Aという人は「そんな馬鹿なこと、こんなでっかい石が動きっこないじゃありませんか。時間の無駄、労力の無駄、そんな馬鹿なことは僕はいたしません、できません」もう見てすぐに判断して、Aという人はもうやめました。お友達同士だった。
Bという人は、「うーんまあ、そう言われてみて動かして、1cm動かしたら、そんなにもらえるんなら、やってみようかなあ」ということで、トライをしたわけです。押しても押しても一ミリも動かない。
全然動かない。それでBが、よーしということでトレーニングウエアに着替えまして、絶対これを動かすんだと思って、毎日毎日、毎日毎日ぐあーっと押して押して押して、押し続けたわけなんです。
だけれども一年経ちましても、あんまり動いたような形跡もないなあと思ったんですけども。
今、彼は一年間努力してこの石を押し続けて、何センチか何ミクロンか動いたか知らないけど、測定してみようと思って、この人が測定してみましたら、やっぱり1cmも1mmも石は動いていなかった。
それを見まして、このAは、と笑った。Bも「馬鹿だなぁ、だから言っただろう。最初見た時からこんなの動きっこないよ。時間のロス、体力の無駄、愚かなことだ」
「うーん、そうか。無駄だったのかなあ」と思ったんだけど、このお坊さんが言いました。
「まあ、二人とも見てみなさい。A君は、これをどうかと言ったけども、馬鹿らしいからと言って全然やらなかった。 B君は、やってみようかと思って努力してみた。しかし、1cmも1μも動かなかった。
一見みたところ、Bは本当に無駄な一年を過ごしたように思う。対象物は一ミクロンも動かなかったのだから。だけども、二人よく聞きなさい。
B君、君ちょっと服を脱いでごらんなさい。A君、君、服を脱いでごらん。裸になってごらんなさい」
ということで、AとBは着ている洋服を脱いだ。
そうするとAは、まっ白な、お腹がそれほどたるんでいるかどうかは分かりませんけれど、のっぺりとした体だったんです。Bは、筋骨隆々としているわけです。
それは毎日毎日、汗をかきながらガンガン太陽が照る中でも、石を毎日毎日押し続けてましたので、この腕の筋肉も足腰も腹筋も筋骨隆々として、日に焼けて強いわけです。
「見たまえ。一見みたところ、一年間何の成果もなかった。結果、石は動かなかったけども、AとBの違いを見てごらん。Aはこのまんまの体、Bは筋骨隆々とした、不動の体力と健康が手に入ったんじゃないか」と、このお坊さんは言ったわけです。
なるほどなあ。これ見ましたら、AとBとの違い、皆さんお分かりですか。
信仰力というものはこういうものです、本当の。オーストラリアでもお話ししたんですけど、本当の信仰心とか信仰力というものは、人が努力して、目標を立てて努力して一生懸命努力して開花する。こういうのは苦しみじゃない。本当の苦しみじゃない。苦しみは苦しみでも、自分で努力して解決できるものというのは、これは本当の苦しみではない。
ですから、スポーツマンの脆弱なところというのはこれで。スポーツマンとか武術家というのは、そこが弱いことが多いんです。トレーニングをして目標して頑張ったら勝利を得られるでしょう。
苦しいけれども、目標があって頑張って努力したものは必ず勝負は勝ったとか、あるいは目標が達成されましたというので、スポーツマンは何か強そうだけども、意外に自殺をしたりするんです。
ストレスが発散されるけども、心のばねがない。強そうでも、心が弱いんです。心の柔軟性がない。
人間が目標を立てて努力して一生懸命努力して、開花している時の苦しみというものは、本当の苦しみじゃない。
じゃあ本当の苦しみとはどういう苦しみなのかと言いますと、今言ったようなこれです。何の努力しても、真剣に汗水たらしてしても対象物が一ミリも動いてない。変化が無いわけです。
これを一年続けられましたというこの精神。結果、この人には不動の筋骨隆々の体力になったように、この叔母さんもそう。
本当の苦しみを通ったからこそ、これだけのオーラがピカピカとしてて、本当に輝くばかりの顔をしてる、明るくって。死んでよかったというんじゃなく、もうやるだけやった。苦しむだけ苦しんだ。
自分のやれることは精一杯やって、もう死ぬかもう死ぬかと思いながら、八年やり通したという満足と、御魂の修練ができているわけです。
どうすることもできないことを忍耐する
もっと別な言葉で言いますと、本当の信仰力とは何かといいますと、それはイコール御魂の修練である。この御魂の修練こそが、本当の信仰力というものなんです。御魂とは何かっていうと、感覚です。
感覚と全てのものを動かしている、心の奥にある、心もそうだし、全人格全てを司っている感覚のエネルギーの元と考えていいでしょう。
御魂の修練とは。目標を立てて一生懸命努力して成就するものだったらこれは御魂の修業じゃないわけです。御魂の修業の一種かもしれない。ですけれども、本当の信仰力を鍛えるものじゃない。
この叔母さんの如く、あるいはもっと別の言葉で言いますと自分が努力してもどうすることもできないことを、ただただ苦しんで忍耐してるというのが本当の御魂の修業なんです。
例えば、お母さんが子供を看病してますね。子供が病気です。はあ、この子はいくら看病しても……。代わってやりたい、この子の苦しみを私が代わってあげたいと思っても、子供の病気と苦しみというものは、その子の体力と、苦しんでいるのはその子だから、お母さんは看病するか何かはするけども、ただただ子供が苦しんでいるのをおろおろおろおろしながらかわいそうに、かわいそうにと、涙しながら、ただただ辛抱してる。
トンネルに入る修業
身体障害者の方は、おそらく本人も苦しいでしょう。どうすることもできないところだけども、努力して人生を切り開いていこうとするでしょうけど、父とか母とか、兄弟はどうか。
自分の努力をいくらしても、苦しんでいるのを見て、心を痛めているだけでしょう。
本当のトンネルに入るということを、マミー(植松先生のこと)がよくおっしゃいます。「トンネルの修業なのよ」とおっしゃいます。
トンネル修業とはいかなるものか。本当の御魂の修業。トンネルに入るってよく言います、我々も。
「トンネルに入る修業。一人の修業」(板書)。
植松先生も私と会うまでに、ただただ黙って待ってると。何がどうなるのか分からないんだけど、ご神示受けて、悶々と待ってるというだけで、ああでもないこうでもないというのが、ただ単に時間があったわけです。
もうこんなことしてても意味も無いから死んじゃおうかと思った時に、天の時来たれりというまで八年かかってるわけです。八年。ご神示を受けてから、八年目に私と会ってるわけで。
それまでは悶々とお家の中で主婦をしながら、誰も理解してくれない、誰も納得してくれないのを、悶々と練って練って練ってたわけです、八年。同じですね。
自分の努力じゃどうすることもできないで、ただただ見て、苦しんでるというのが本当の御魂の修業。
トンネル修業、一人の修業。こういう時っていうのは神様に対して拝んでいるとか、神様に対して祈ってるとかっていうんじゃなくって、本当の心の奥から、自分というものの存在の奥から、ひたすらもう心の拠り所と、ひたすら神様に対する叫びっていうのが起きてくるわけです。
こうすることによって、自分の内面的な神様との交流、内面的な世界における神霊との交流とか、神様との語らいっていうのがあるわけです。そういうものを経た人でなければ、絶対に神人一体とか、神人合一とかっていうことは難しいわけです。こういうことも無い人間っていうのは。
信仰力を磨く時期
だからこの叔母さんは練られた。対象物が何の動きも無い。変化があったら楽しみはありますよ。これだけ努力したから百万円もらったとか。それから、この石も動かなかった。
石は一センチも。お金も一銭ももらえなかったけど、本人が強くなったわけです。この石の話は。この叔母さんも、ただただ自分の主人が頑張っているのを見て、本人が努力して健康になったわけじゃない。
主人がそうするのを見てて、ともに悲しんで看病してて、だから御魂が修養されてる。同じでしょう。
信念がある人間というのは、目標とビジョンを持って一生懸命努力して、苦しみを乗り越えてやったあというような人、いますよね。これは信念の人です、理念の人です。
別に信仰力がなくっても、信仰心がなくっても、そういう人は世の中にたくさんいるわけです。
だけども、こういうものが辛抱できて、しかもこれが一年、半年とかではなく、一年でも二年でも三年でも五年、六年、八年、十年と耐えられるという人は、よほど、心のどこかに支えているものがいるわけです。
神様と自分というものを見つめて語らっているという、ただただ苦しんでる。こういうさなぎの時代というのがあるわけです。
ですから、人間も蝶々になって出て行くまで、さなぎの時期があって蝶々がいくように、さなぎの時代があるように蝉が七年も八年も地面の中にいて、二週間ミーンミーンミーンといって死んでいくように、沐浴時代が長い動物いますけど。
人間もそういう、さなぎから蝶に羽ばたく時っていうものは、本当の信仰力というものを磨かされる。
そういうのが一生涯のうちに何度かあります。植松先生もそうだったし、私もそうだったわけです。
まあ、僕の場合、五歳から十歳ぐらいまでそうでした。ただただおろおろして家で辛抱してただけで、大ママさん(深見先生のお母様)が頑張っていたんだけど、大ママさんがかわいそうだからやろうということで、まあ、あきひろさん(深見先生の弟さん)やゆきちゃん(深見先生の妹さん)や僕が頑張ってたわけで。
その五歳から十五までの基礎があって十五から神様の道に、一筋に二十五まで十年頑張った。
その二十年の積み重ねがあって植松先生のところへ来て三十五までの十年があって、考えたら三十年の仕組で、僕を神様はトレーニングしてる。
ただただ辛抱するという、自分の能力もないし、小っちゃかったし。
だから、僕はそういう時代、十年を迎えて、叔母さんは八年の時を経て。このBという人は一年の石の動かす時期だった。
植松先生も、八年間そういう時期があって、戦争中も経て、自分の努力じゃどうすることもできずに、悶々と苦しんでいるという。
たしか、萩原さんが除霊に目覚めた時も、娘さんが喘息で寝込んで、どうしてこんなに子供たちが死んでいくんだろうかという、世の無常を感じたわけです。無常というのは常ならざるもの。
元気な子が、たまたまこういうふうに苦しんで死んでいく子がいるんだなあという、無常を感じるがゆえに常なるものを求めるわけです。
何で悲しいんだろうと思うがゆえに、魂は幸せというものを求めるわけです。こういうのが、神様が私たちに用意している、信仰力を磨かせるという時期なんです。
神様を拝むということと宗教を持っているということと、信念を持って苦しみを越えて頑張っているということと信仰力を磨いている本当の苦しみ、御魂の修養、トンネル修業、一人の修業とはニュアンスが違うんだということを皆様に理解していただきたい。
こういうことを、叔父さんのオーストラリアに行く前のそういったことを思って、これに関連したことをオーストラリアでお話しいたしました。
ということで、本当の信仰力とは何かという講義を終わりたいと思います。
どうもありがとうございました(拍手)。
