深見東州の土曜神業録18(Vol.2)

【第一章】一日完結主義(昭和60年7月13日)

人生の本義を忘れてしまう

【深見先生】昭和六十年七月十三日、本日のパート1はですね、一日完結主義というテーマで講義したいと思います。

えー、世間様の常識でいいますと、だいたい、予定表にはですね、アポイントの時間が書いてありまして、一週間先ぐらいまでだいたい埋まっていると。

非常にお忙しい人というものは、一月ないし二月先までもアポイントが決まっていると。

忙しければ忙しいほど、寝る間がなくってですね、ばたばたとしながら、ばたっと寝て、また朝起きて、さあ、何時から仕事だと。こういうふうに目まぐるしく、仕事から仕事へと移ってる人というのは…。

あんまり、能力のない人というものは、こういうふうになりません。追い立てられて追い立てられて。追い立てられる方が多くてですね。

要するに能力があればあるほど、次から次とこれもお願いします、あれもお願いしますと言われて。なければないほどあまりお願いされなくて、仕事が少ない。

仕事が何にもない人と、次から次と人から頼まれるという人、比べますと、どちらがハッピーかと言いますと、いくら仕事が忙しくっても次から次といろんな事を頼まれる方が幸せでございまして、人生を有意義に過ごすわけなんですけれども。

ところがですね、フィーリング、感覚の世界になりますと…。仕事から仕事へ、仕事から仕事へっていう形で、毎日毎日が目まぐるしく過ぎてまいりますと、とにかく仕事だけやってる。

例えば会社だったら会社、職場だったら職場、学校だったら学校で、その組織の歯車とか役割の一つを担いまして、ただただ目まぐるしく動いている。

人間ではありますけれども、ロボットとか歯車といいますか、才能は認められてはいるんでしょうが、暇よりは忙しい方がいいんでしょうが、そういうふうな人生になっちゃうわけです。

知らない間に、こんなのでいいのかなと思いながら、過ぎてゆく。まあ、世間一般の人はこういう場合が多いわけです。

こういうこと考えますと、何のために生まれてきたのかと。

人は、仕事仕事=という形で忙しく、アポイントとスケジュールを埋めまして、次から次と出てくる、ねばならない仕事をどんどこどんどこやりますと、それだけに生まれてきたのかと。

何のために生まれてきたんだという人生の本義というものから考えますと、まあ頭の中じゃわかっているんでしょうけども、わからない人も多いかもしれません。

ただただやってるというだけで、本質的なものが全然わからない。

ここでですね、ご神業に来た人とか、ここで講義を聞いてる人とかいうのは…。

最初は、ただ単にこう生きてきたけれども、一体何のために生まれてきたんだと、自分の天命は何なんだと、生きるとはどういうことなんだと、死ぬということはどういうことなんだと、死後の世界はどうなっちゃってるんだというようなことを考え直すわけです。

なるほど、人間はそういうふうな、私はそういう天命で生まれてきたのかと。潜在意識とか守護神さんとか守護霊さんとか、人生の本義を聞きますと、わかってきたと。

ところが、いつまでも本質がわかったからって、これが本質だ本質だといっても駄目でございまして、本質がわかりましたら活動しなきゃいけないということで、今度「中」から「和」へいくわけなんですけども…。

「中は天下の大本にして、和は天下の達道なり。中和を致して天地位し、物育す」という中国の言葉があります。中和致して、万物育す。前にもお話ししましたけど、「中庸」に、有名な言葉がございます。

「中」から、人生の本質がわかったと、そして「和」の道へという形でいくんですが、理屈ではわかったと。

しかし、仕事が忙しくなりまして、明日あさってのスケジュールが埋まりまして、再来週のスケジュールも埋まりまして、この仕事をやったらこの仕事が残っている、この仕事をやったらあの仕事やらなきゃいけない。

ねばならない、ねばならない、ねばならないという仕事が出てきますと感覚の中では、やはり仕事から仕事、その次からその次、アポイントからアポイントへといって、想念というものはこういうふうに、お仕事、形あるお仕事の方へ流れていく。けものへんな

犭偏(けものへん)の狎れが出る

私が一度、T教の外郭団体の会社があるんですけど、毛皮をやってみたり人参茶を売ってみたりですね。そこの常務のSさんという人に会って、こちらの商品を売り込みに行ったことがあるんです。

やぁねえ、一応摂理だとかなんだとかと言うけどね、毎日こう仕事やってたら摂理なんかもうどうでもいいやと。まして、売上と利益があって、摂理なんもうわかんなくなっちゃったと。

まぁ頭じゃわかってるけども、もうどうでもいいやっていう気持ちになっちゃうもんだねえなんて言いながら、今も大分そうだなんて言ってましたけど。

あれほどの堅固な信仰力と組織をこう持って、おそらく幹部だったんでしょうけどね。もう、仕事仕事で毛皮とかアクセサリーやってますけども、ああいうふうな中へ入っちゃったら、あれほど鉄壁な信仰心の激しいT教の人であっても、そういうふうになっちゃうわけです。

ああ、なるほど、そういうもんなんだなと。以前に思ったことがあります。

ですから、ここで勉強しましても「中」から「和」の働きに、さあ活動だというふうになりますと我々の想念の世界は仕事から仕事、これが済んだらあれ、あれやったらこれっていう形で、こういうふうな世界にどうしても流れてしまう。

まさに、「和」から「中」へ入り「中和致す」と。本質からこれ、本質からこれへっていう形であって初めて、意味ある一日であり、意味ある人生であり、意味ある仕事なんです。

しかし、仕事から仕事へと移りまして、本質をもう忘れちゃう。

こういうふうになっていく時が、ご神業では、今日あの人ずれているとか、ああちょっと神様、忘れておりましたとか、あるいは、ちょっと、怠りがあったとかですね、偏の狎れが出たとか言います。

偏の狎れというのはこういう字です。あっ、あれはずれてきたと。ちょっとあの人ずれてる、最近。

ずれているとか、偏の狎れが出ているだなんて言いますけれど、どういうことかって言いますと、こういうふうなわけですね。

それを分析しますと、はじめは神様にという気持ちで本質がわかってこうかと言うんですが、ついついずれちゃった。もう、ワープロ打つのが精一杯とか伝票整理するのでもう頭の中一杯とか。頭の中がもうそれで一杯。

ああ、ずれてきました、狎れが出ましたということは、中和致さない。

これは、いくら私たちが冬のご神業でやっておりましても一週間に一回はこういう形で講義しますけれども、毎日毎日の中で忙しくなればなるほど、つまり我々の真価というのか、値打ちが人様に認められまして、あるいはいろんな方たちが来れば来るほど、また、これが出てくるわけです。

中和致さない。組織が組織を、人が人を、仕事が仕事を生んでくるというふうになりますと、ずれる。狎れる、ずれる。どっか、方向がおかしくなる。仕事感覚の中に入ってしまうのではないでしょうか。

いかがですか、皆さん。

そういうことを、冬のご神業およびこのご神業が始まってから、何度も何度もあって、反省してみたり注意されたり、そうだなと思ってみたり、改めて講義の中で、はっとしたりしたんじゃないでしょうか。

何とかぴょこぴょこうなずいてる人は、よくこれを注意されたんじゃないかと思います。

そこでじゃあ理屈はそうだけど、常に中和致す方法はないものかと。どんなに忙しくなっても元を忘れない。どんなに忙しくなっても偏の狎れが出ない。

どんなに忙しくなってもずれない。アポイントからアポイントへという世界の中に行かない。

そういう方法はないのかと。日常生活の中で、我々の生きていく生活の中で中和致す。そういう方法はないものか。

どうですか。聞いてみたいですか。最近これ癖になりまして。

聞きたいという目がきらきらと光ると、じゃ言おうというふうになりましてですね、一方通行の講義をなるべく避けていこうというか、もったいぶってるといいますか、夜毎講義をする、発見できた喜びをもろに表してるといいますか、どうですかね。

聞いてみたいと思いますか(笑)。狎れが出ない、ずれない。仕事から仕事へと、頭じゃなくって感覚の中で追われないと。そうするとますます霊的な進歩が起きるわけです。

人生は一日で終わる

これがですね、簡単に申しますと、本日のパート1の講義はここでございまして方法はあるよと。方法はあると。それが表題に書きました、一日完結主義。一日完結主義があれば、大丈夫だと。必ず中和致します。

ま、結論を言いますと、これが答えだということが言えます。

えー、よく、わかったようなわかんないようなことで具体的にもっと説明したいと思うんですが、これはどういうことかと申しますと、仕事から仕事、今週から今週、来週から来週のアポイントというのはですね、基本的に人生というものは長続きすると。

寿命は二十年、三十年あると、人生というものは長いと。少なくともアポイントのある先々というのは、寿命があると命があるという前提におきまして、人々はアポイントを取るわけです。

あるいはあの、よく死期を悟る人いますね。俺の寿命もあと何カ月だから二月先のコンサートの予約なんかしても、聞きがいないんだなんて言う、おじいさんっていますね。

いついつ死ぬんだ、だから、みんな、お世話になりました、お世話になりましたなんて言いながら、花見に行って、いやー、いい花見だったなあとお風呂から上がったら、ちょっと疲れたよと言ったまま、ご臨終ですと。

比較的いい死に方で、こういうのあります。

このアポイントからアポイントという人はですね、寿命が二月先、最低一年以上は続くだろうと思ってる人が、やっぱりこういうふうにするわけでございます。そうでしょうね。

こういう前提があるんじゃないかと、私は思います。

それでですね、「徒然草」で有名なところがございまして、私も浪人時代に読みまして非常に感銘を受けたところがあります(板書「蜻蛉かげろう」)。

これ皆様、何と読むかと言いますとですね、何と読むと思いますか。「蜻蛉」です。これ、蜻蛉と読みまして、徒然草でございます。

蜻蛉というのは、朝に命を得て、タベに死する蜻蛉の如し。

蜻蛉っていうのはこう、ひらひらひらひらと飛んでべたっと、葉っぱに止まりまして、ひらひらひらっと力なく、根性なく、バイタリティーなく、ひらひらひらっと飛んで、もうまた、夕方には死んでるわけです。

この蜻蛉さんというものは、一日ですよ、寿命が。これ寿命一日しかないんです。朝に生まれて夕方死んでいくんです。

兼好法師はこの蜻蛉を見ておりまして、はあ、朝に生まれてタベに死んでいく、蜻蛉のごとき人生もあるんだ、命もあるんだと。

人間というものはいった何年生きていくんだ。平家だ、源氏だと言いまして功なり名を遂げましても、どれだけ伽藍が残っているのかと。

跡を見てみても、石の礎石が少し残ってるだけで、柱さえ、お屋根さえ残っていないじゃないかと。あのように栄華というものをいくら極めても、何十年、何百年続くのかと。

人間の一生涯は長いとか、一門の繁栄が長かったと言いましても、蜻蛉の一生涯とどれほど違いがあろうものか、兼好法師は「徒然草」で言っております。

静かに人生を達観した、兼好法師の目っていうのは、なかなか素晴らしいです。私も非常に感銘致しました。そうだなあと。蜻蛉さんは人間のことなど知りません。

「いいなあ人間って。長いなあ。僕なんか、朝ね、力なくひらひら、こっちでひらひらやって、もう夕方には死んでゆく。人間いいな、八十年も生きて」なんて、蜻蛉は思っちゃいませんよ。

本人はもう、朝生まれて夕方死んで行く。一日もう充実したと。

皆さん、蝉を見てください。蝉ちゃん。あれ、なんであんなにジージージージー、宇佐八幡に行きましても鳴いてるかといいますと約七年から八年間、だいたい八年ぐらい地面の中でこんな真っ白な虫がモゴモゴモゴモゴしてるわけですよ、こうやって。

掘ったら、白いのいますよね。まさに、蝉の一生は八年間が本当に下積みでございます。

そしてようやくひらひらっと、蝉が出てきまして。羽を一枚取ったら、あ、セミヌードだなんて言いましてですね、羽を半分だけちぎって見せたりなんかしてね。

この蝉はですね、二週間ぐらいで死ぬんです。二週間ぐらいですね。八年間下積みでですよ、ようやくお空へ飛んだと。ミーンミーンミーンミーンミーンって、自分自身のこと反省してるんでしょうか。

ミーンミーンミーンミーンと。本当に僧侶のように自分は早く死んでいくから、本当につくづくおれは坊さんのようだということで、ツクツク法師、ツクツク法師と鳴くのでしょうか。わかりませんが(笑)。

そういうふうに、蝉はわずか二週間の命ですから、必死の思いで鳴いてるんです。

「あ、また蝉がうるさいな、油蝉が」なんて我々は思います。私たちが宇佐八幡に行きました時に、蝉がものすごい勢いでわーっと鳴きましたけど、あの蝉の一生を見ましても、わずか二週間。下積みが八年間ですよ。

蝉は必死の思いで鳴くから、それを取ってあげるってかわいそうですね、考えたら。蝉もそのようなはかない一生でございます。人間も霊界が長いんですけども。

そういうふうに、蜻蛉さんは一日、わずか一日。蝉も二週間。人間の八十年は長いと思いますが、やはり、これと比べてみて大して変わらない。

宇宙の生成化育からみて変わりない。いつまでもいつまでも続くつもりで、ぽっくり死んでしまったり、病気になって入院したりするわけです。

ですから、こういうふうなことを考えますと、我々はこの中和を致そうと思えばですね、やはり兼好法師のように、えー、蜻蛉さんのように人生というものが、朝生まれて夜死んでいくという、人生は一日で終わるというふうに、自然界の法則を見習いまして、生きていこうと。

これが人生一日完結主義。

朝起きました、さあ今日も頑張るぞと。そして夕方、一日終わったと。もう、人生これで死んだと。

もう、先々のこともあまり思わない。昨日のことももう忘れようと。充実した一日で、夜、ばたっとお布団に入って、このまま死んで行くんだという気持ちで、あまり陽気な言い方じゃありませんけど、まあ、

そういう気持ちでいけばですね、一日一日完結させていく。

その一日しかない、人生が一日で完結していくという気持ちでおりますと、我々はどういうふうに考えるかといいますと、何のために生まれてきたんだと。

人間は何のために生まれてきたのか

ここからテンポ速く言いますけど、何のために生まれてきたんだと言いますと、やはり、人生は御魂の修業に生まれて参りました。

まあ、蜻蛉は修業をしたのかどうかわかりませんが、人間は御魂の修業のために生まれてきているわけです。

何のために生まれてきたのか。御魂を修業するんだと(板書「御魂を修業する」)。御魂を修業するために生まれてきたんだと、あるいは御魂を向上させるために生まれてきたんだと(板書「御魂を向上させる」)。

御魂を向上させるために生まれてきたんだと。

ですから、手相を観る一刻一刻も、演奏する一刻一刻も、電話にお答えして、あるいは授業で教えたり、あるいは洗い物をする一刻一刻も、この人生の本義から言いますと、御魂を修業するための刻一刻でないといけない。

御魂を向上させるための一刻一刻でなければ、やっぱり中和じゃないわけです。これが人間が生まれてきた本質でございます。

では、その御魂の修業とか御魂の向上というのはどのようにしてなされていくのか。抽象的なものをもっと具体的に突っ込んでいいますと、御魂の修業と申しますのは、もう二つしかないわけです。

御魂を向上させる方法とはもう二つしかございません。

一つは、前に言いました。陰陽で分けますと、何度も何度も説明しておりますが、この胎蔵界の仏様のように真実を求め続けていくと。真を求めて、どこまでも善なるものを信じて、真理を追究して向上していく。

一言でいえば、道を、道を極めていく。道を極めていく。そうして御魂を向上させていくわけです。胎蔵界の仏様は上を向きまして、絶えず向上へ向かっております。

もう一つは陽の働きでございまして、これは善徳を積んでいく。善なる功徳を積んでいく。善徳を積んで、功を立てる。真を求めて、善徳を積んで、功を立てていく。もうこの二つしかないわけです。

胎蔵界の仏様は絶えず上を向いておりまして、緑色のカラーで、変わらない緑色です。胎蔵界というのは。

ですから信念を持ってどこまでも真理を探求して、自らを向上してどこまでも求道心を持って進んでいこうと。

金剛界の仏様はどちらかというと金色、オレンジ色でございまして、衆生を見ておられます。

大衆を見ており、どうしたら人を救うことができるか、どうしたらいいんだろうかと言いまして、絶えず衆生を見ておられます。ですから善徳を施して、少しでも衆生を助けていこうということで、世に益することをしていこうと。

御魂を向上するのには、この二種類しかございません。

信念を持って、どこまでも真を極めて向上していく。善徳を積んで、功を立てることによって向上していく。

善徳を積むということは、一生懸命努力したら功績を認められまして、お役所でございますと階級が上がるとか、よく頑張ったねという形で会社ですとボーナスをもらうとか。

人事考課の査定が良くって、お手柄だねーという形で特別賞与が出るようなものです。そしてランクが上がっていきます。社会的、会社での地位が。こういう形で善徳を積むし、彼はなかなか優秀だねーと。

なかなか優秀で頭もいいし、物事を深く見てるから抜擢しようという形で、それほどの働きがなくても優秀だからっていう形で、上に上がる場合もあります。

人間の御魂を向上するというのは、この二つの方法。陰と陽、道と慈、これで向上するわけです。

付加的に言いますと、前に言いましたように、これをもう少し分けますと、「願わくば上乗に至らんことを」と言いますね。自分が向上できますように。

もう一つは、「願わくば真諦を得せしめたまえ」と。物事の真諦を悟らしめたまえ」。こちら(慈)の方では、「願わくば功候を積ましめたまえ」と(板書)。

「願わくば功候を修めさせたまえ」。こんなふうに言います。もう一つ、「願わくば衆生済度ならしめたまえ」。衆生済度ということは、手柄を立てる。済度するということは善徳の方でございます。

上乗、真諦というのは道の方でございます。この四つしかございません。二つに分けますとこうなるわけです。

こういうふうにですね、人間はこちら(道)の方を極めていきますと、ああ、神様仏様というものは衆生をどうしたら救うか、人々を少しでもよかれという気持ちでいたんだなあということが、ますますに深くわかりますから、陰極まりて陽、やっぱり善徳を尽くそうというふうにしてこっち(慈)へ帰ってくるわけです。

それから、善徳を一生懸命、慈悲心のある人は尽くすんだけれども、大して知識もないし、いいと思ってしたことがもっとよく考えたらあまり良くなかったと。

もっと頭が良くってもっと霊的に優れてたら、人々に対してもっと大きな影響力とプラスのことができるのになあと思って、陽極まりて陰です。

もっと真理を勉強して、神様の道というものに徹底しなければ、人々に対して本当の布施行ができないなあと、こちらを極めればこっちへいくわけでございます。

ですから、こっち(道)とこっち(慈)というものは、不即不離の関係でございます。陰極まりて陽、陽極まりて陰でございまして、このように陰陽二つが結ばれているわけです。

難しく言いますとこういうことでございます。もっと簡単に言いますと、御魂の向上は善の徳を積むのと、真を極めて求道していくという二種類というふうに言えますね。

神様に疑問をバンバン投げかける

このようにですね、これが本質だということがわかりますと、一日完結主義でですね、朝生まれまして、夕方死んでいくと。蜻蛉さんのような人生を例えば送るとしても、それで悔いはない、良かったと。

中和からいきますと、朝起きて具体的にどうするかといいますと、今日も一日、神様に功を積ませていただきますようにお願いいたします。発願をするわけです。それが人生の本質的な生き方です。

今日も少しでも人々のために役に立って、人々の救済ができますように。まず、こちらの方の発願をいたします。愛念を向けて人々のために祈りつつ、朝起きてやろうと。

もう一つはですね、それだけでは駄目でございまして。例えば仕事だったら仕事で、昨日わからなかったことが今日は必ずやわかりますようにと。「朝に道を聞けば、夕べに死すとも可なり」という言葉が「論語」にございますけれども、そのように一生懸命真実を求める。

例えばお料理でしたら、どうやったら味付けが、塩味が悪いんだったら、このお料理に対しては塩味は一体どうなんだろうかと。自分が今一番知りたいと思っていることの、塩味のつけ方。

それから例えば、仕事でしたら行き詰まりのところ、なんとかこれとこれとこれとこれとこれを願わくば神様、これをどうぞ教えてください。この真諦を教えてください。

神様のこういうことについてわからないことがあるんでと、いろいろと疑問をバンバン投げかけます。

そうすると、夕方かそのころには必ず返ってきます。とにかく疑問点というか、日本のためにだけじゃございません。自分がわからないところ、行き詰まりのところというものをどんどん質問致しまして、そうして真実を極めて、向上していく。

一日一日が向上の日でなきゃいけないわけです。今日一日が善徳を積む日じゃなきゃいけないわけです。

もっと具体的にいいますと、今のような形で、どんどんどんどん疑問を発していなければ駄目でございます。

ですから修業していて、五年たっても十年たっても、あるいは、一ヶ月たっても二ヶ月たっても、講義は聞きに来るけれども、ちっとも霊的進歩がないと。

本人なりに一生懸命やっているけども、ちっとも悟れない、ちっとも霊的に進歩しない、ちっとも頭良くならない、ちっとも内面性が深くならないという人は、なぜかと言いますと、クエスチョンが少ないわけです。

とにかく。神様に対する質問が少ない。

講義を聞けば聞くほどわかんないことが出てきて、一つのことがわかったらまたこれもどうなんだろうと。

やればやるほどわからないことが出るから、このクエスチョンがですね、たくさんたくさん、神様に対してこれとこれがわからないから知りたい知りたいと、真理を探求していかなきゃ駄目でございます。

十個か二十個か百個か二百個か、質問をバンバン神様に投げつけて、これがわからないとか、わからない、何とか知らしめたまえと。

今日死ぬかもしれないから、何とか死ぬまでに、今言いました二十五項目だけは知りたいと。二十五項目、多ければ多いほどいいんですよ。

二十個でも三十個でもいいから、とにかく「これだけは是非知りたい、神様」っていう形でいっぱい、除霊のことに関しましても、手相のことに関しましても、お料理のことに関しましても、仕事のことに関しましても、霊的な進歩に関しましても、婚期を早めることに関しましても、授業の進み方に関しましても、それぞれの修業なり仕事なりのことで、とにかく何でもいいから自分がわからないところをバンバン追求して、バンバン求道して、バンバン探求して神様にぶつけた人は、半分しか返ってこないにしましても、かなりたくさん悟れるわけです。

これがないから、これが少ないから、何年修業しても何カ月求道しても、ちっとも進歩しない。一生懸命、真面目に努力はしてるでしょう。功は積んではいるけど、こっち(道)は弱いわけですね。

この二つ揃わなきゃ駄目でございます。

ですから、皆さん、このクエスチョンをたくさんたくさん出した人は、たくさんの答えや悟りが出てくるはずでございます。これがないからです。はっきり言いまして。

こういうふうにですね、この二つの、難しく言いますと道慈とか二種類なんですけれど、もっとこれを簡単に日常生活にみますとクエスチョンの量が多いのと、少しでもみんなのために良かれという気持ちの善徳の心がない人は、功が積めないで、御魂が向上できないわけです。