深見東州の土曜神業録18(Vol.3)

今日一日がすべて

この二つの要素を頭に入れて、朝起きたら、この二つの要素で分類しまして、バーッと出すわけです、発願して。これを「易経」では、難しく言いますと、「終日乾乾しゅうじつけんけん>、夕べに惕若てきじゃく/rt>」と。

「易経」にございます。易の乾の卦なんですけど。こういうふうにですね、終日乾々、朝、ぱっと起きたら乾々、乾を見、天を見るわけです。

健やかにさあやるぞーと。意欲に燃えて、朝は頑張るわけです。夕べにということは、夕方に惕若。ああ、自分はあれはああすべきだったと。ここは足りなかったと。

一日深く反省するわけです。あそこは足りなかった、あのへんはもう少しこうするべきじゃなかったんだろうかと。一日を反省するわけです。そしてまた、朝起きたら終日乾々と。

昨日のように今日が続いていって、今日のように明日が続いていって、明日のようにあさってが続いていくのではございません。

一日完結主義と私は言いましたけれども「易経」には「終日乾々、夕べに惕若」と。「終日乾々、タベに惕若」という有名な文句がございまして、易の真髄を伝えてるわけです。

「終日乾々、夕べに惕若」。そういうふうな人生観がいいようだと。

こういうふうにですね、朝起きた時に発願をして、本質的な人生でない一日はないんだという形で、毎日毎日に人生を区切っていくわけで、もう明日はないと。今日一日なんだと。

どれだけ真を求めたんだと、どれだけ善を志してやったんだと、惕若するんです。

形の上ではアポイントはあるでしょうけれども、心はもう絶対に先々のアポイントじゃなくって、今日一日、今日一日に試みる。

今日一日、今日一日がすべてだと。今日がなければ明日がないんだと。今日やったら、昨日、おとといのマイナス点というか、不幸というものが全部生きるんだと。

パスカルの「パンセ」を見ましても、人間というものが自由に支配できるのは今日しかない、ただ今しかない。明日というもの、昨日というものも、今を過ぎますと、過去も未来も人間の自由にはならない時なんだよと。

パスカルが「パンセ」の中で言っております。只今というものが、人間の自由に支配できる唯一のものなんだ。そのようにですね、人生というものは一日なんだと。

人生は一日で終わる。一日始まって一日終わると。そういうところに心を向けるわけです。

もうアポイントの仕事が仕事がという形では向けない。絶えず、中に戻ろうと思ったら、その本質に戻って、今日も一日、その本質的人生を歩んでいって、もう一日一日、朝起きたら発願です。

この終日乾々ということは。こういうふうな人生を送らない人は、今日のごとく明日、明日のごとくあさって、あさってのごとくその次へ生きて、年は取るでしょうし、いろいろやりますけども、結局、偏の狎れが出てきて、全然進歩がない。

「男子三日会わざれば刮目かつもくして見るべきなり」という言葉がございますけれども、おととい会った西谷さんと三日前会ったSさんと、五日前にあったあの人と、今日も同じような人だなと。

三日前に会ったTさんと、今日会ったら全然違うじゃないかと。男子三日会わされば刮目して見るべきなりと言います。昔から言います。

一日、その主義でやって、あっそうかと悟った瞬間、ガラッと人間は変わるはずなんですよ。これが今日も一日ガラッと変わって、二日目がまたガラッと変わって、三日目からガラッと変わってと、毎日毎日ガラガラ変わって、悪くは変わりませんよ、

いい方へ変わっていくと。毎日毎日が一歩ごと一歩と、神人合一の道の階段を上がっているわけなんですけれど、中和致して万物を育んでるんですね。

だけども、何日か前とあんまり変わらないという人は、スケジュールと生活だけが、だらだらだらだらと、忙しくなればなるほど、目まぐるしくなればなるほど、本質を忘れて、毎日毎日の生活に追われている。

一生懸命はやっているけども、ここが、中がない。一日の発願がない。十年一日のごとく進歩がない。御魂を向上していない。何のために神業してたんだというようなことになります。

一日二十四時間、一年三百六十五日、客観的な時間ですね、平均寿命は八十歳ですか、七十何歳で変わりません、皆さん。

ここで偉人と凡人がなぜ違うのかと(板書「偉人と凡人はなぜ違うのか」)。偉人と凡人はなぜ違うのかと。時間の使い方か集中かと言いますけれど。

もちろん時間の使い方、集中もあるでしょうけども、冷静に考えたらやっぱり一日の使い方です。一日の計は朝にありで、一年の計は元旦にあり。一生の計は何にあるんでしょうか。

やっぱり、今日一日、今日一日ですよ。こういうふうに、一日二十四時間、一年三百六十五日ありまして平均寿命は決まっているんですが、人に優劣の差ができるのは、つまり御魂の向上のレベルに違いがあるのは、もちろん前世からきた先天のものも違うんでしょうが、それをプラスに生かすのも十二分に生かせないのも、前世に修業が足りなければ足りないほど、さらにやらなきゃ駄目ですね。

どう考えましても、ずれない、偏の狎れが出ないっていうことは一日完結主義。絶えずこういうふうな、中和の道というものを一日一日サイクルで、今申し上げたような形で送る以外にもう絶対にないと思います。

今日と明日は違うんだと。明日とあさってはもう全く違うんだと。そういうふうな気持ちで毎日毎日を生きている人が、まさにこの初心忘るべからず。

そういう人は進歩発展するんです。霊的にもこういうふうな生き方の人が毎日、新しい悟りと、新しい向上が出てきます。

私なんかもう完璧に、もう今日死んで終りと。明くる日もまた、ああ、今日生きてて良かったと。だからあんまり先々のことを考えませんけども、その代わり一日一つ、必ず新しいことを体得すると。

それはもうガンガンに求めていますから。ガンガンに善徳を積もうと思ってこの二つの要素。これを毎日毎日に置くしかないと思っております。

ずれてると絶えず叩かれまして、絶えず、元を忘れてると戒められますと、どうしたら元を忘れなくなって、どうしたら言われなくなるかっていうと、もうこれしかないと。

長年の私も屈辱と敗退と叱責の中でですね、えー、もうなるべく言われなくって、なるべく言われなくって、しかも進歩向上していくのはこれしかないと。

一日を制する者は一生を制す

えー、ということでございまして、まあこれパート2に分けてお話ししたいと思います。

最後にこれだけ言っておきましょう。こういうふうなことを踏まえまして、私が修業しておりますときに、今でもそうなんですけれども、役行者さんがこういうふうに教えてくれました。

一生懸命頑張らなきゃならない、先々のこともどうなるかわからないと。

前のことも失敗したし、進むことも不安だし、帰ることも出来ないしと。ねばならないしと。どうやってやったらいいんだと悩んだけれども、役行者さんに私はこのヒントを教えてもらったんです。これ。

「一日を制する者は一生を制す。今日一日、今日一日と思いて、事々に全身全霊を傾注すべし」(板書)と。

いつのころか忘れました、(昭和)五十何年か、仕事仕事と思っている時に、「もおー、あなたはもう仕事仕事って言って、神様から受けてるのにちっともキャッチしないで」と植松先生に言われて、神様のことをしたら「お前仕事はどうなってるんだ、仕事は」って父親に言われまして、仕事だーと思ってやったらまた神様のことを忘れて、叱られまして、そうだなあと。

それで神業だっと思って来たら、仕事はどうなんだ、仕事はって言って、あっちからもこっちからもね。仕事に専念したら神業が駄目になったって言われて、神業に専念したら仕事が疎かになってるって言われるから、どんなふうにすればいいんだと。もう非常に苦しんだ時ありますね。

だけども、この時に役行者さんがこういうふうに言いました。とにかく一日を、一日というものを制する者は一生を制すことができるんだと。

一生涯というものを、自分の思った通りに素晴らしい一生を思うならば、一日だと。今日一日、今日一日と思って、どんなことでもいいから、事々に全身全霊を傾注すべしと。全身全霊を傾けて注げと言われました。

こういうふうにご神示を、ご神示といいますか霊示ですね。言われまして、そうだなあと。

そう言われれば、役行者さんが大峰山を開いた時とか、あの苦修練業の日々に比べたら大したことないと。飲むものも飲まず、食べ物も食べず、前人未到のことですよね。

人がやった後を行くのはまだ楽なんですけど、初めてやるもんですから、前人未到の境地を開いた人というのは、そうだろうなあと。だからこういう気持ちで過ごしたんでしょう、大峰山を開いたのも。

こういう境地だったんでしょう。まさに、そうだなあと。こういう言い方をしました。

だけども、この言葉の奥には、今言ったように中和を致すと。今日頑張るしかないんだよということを、それではちょっと意味が浅いので、今日一日を制すとはどういうことかって言いますと、意志の力で頑張れっていうことじゃありません。

中和を致すという深い意味でございまして、まあ、蜻蛉のように一日、朝、命を得てタベに死んでいくという一生涯もあるわけでございます。

我々は八十年と言いますけどもいつ死ぬかわからないし、こういうふうな気持ちで生きていて初めて、本来生まれて参りました御魂の向上、御魂の修業、ご神業というものが、日を経るに従いまして進歩していくわけです。

ですから日常生活の仕事も家庭生活も、煙草を吸う一時一時もですね、みんなこの本質から出た一日で初めて一日を生きているわけでございますから、こういうふうな一日を過ごそうと、こういうふうな一日を過ごせるという哲学を持って人生を歩む人でなかったら、絶対にご神業しましても大成することはできないと思いますし、御魂を向上、完成することは出来ないという気が致します。

ということで、一日完結主義。パート1は、これで一応締めくくりたいと思います。どうもありがとうございました。(拍手)

【パート1の後の談話】

【深見先生】もうとにかく少しでも神様の道を聞きたいと思って、夢中で求道燃えてここに来ないと駄目です。土曜日の集会に来て今日は何なのかなと思って来てますね、皆さん。

僕は毎回毎回皆さんに、毎回新しい内容で毎回感動して、来て良かったと思うように、一週間仕事する中でも必ず、何項目かの講義の内容をですね、どんなに忙しい時でも考えてるんですよ。で、これが十年でも二十年でも続かなきゃ本当じゃないと思っているんです。

少なくとも土曜日というものは、一週間の反省と同時に、吸収しようと思って来てもらわないと駄目です。僕は非常に燃えています。非常に燃えて土曜日来てるわけですよ、毎回。

しかし、皆さんが燃えていない。まあ、蜻蛉の人生というものがちょっと湿っぽかったのかもわかりませんけども。

神業を聞きたいと、どうしても素晴らしいものを聞きたい、会得したいという気持ちで何人来たかなということです。 はっきり言ってまあ、夏がだらっと暑いから気候がこうですからね。これは夏疲れかもしれませんけれども、だれてますね、気分が入ってくる瞬間のみんなの気持ちが…。