【第二章】一日完結弥益主義(昭和60年7月13日)
藤山寛美に負けていたら駄目だ
【深見先生】じゃあパート2を。
一日完結主義、完結主義って言いましたけれども、ちょっと蜻蛉の、仏教的で「徒然草」の引用が、どうも暗かったということでですね、パート2は神道的な形で明るくいこうと思ってるんですけどね、持ち直して。
パート2は「一日完結弥益主義」です。えー、なぜ一日完結主義だけでなく、私が一日完結の後に「弥益」を入れましたかというのが、このパート2のみそなんでございます。
一日完結主義っていうのは非常にいいわけです。一日一日が充実しまして、終日乾々、夕べに惕若でいいんですけども、やはりですね、未来に対する素晴らしいビジョンという御魂の世界から、いまいちこう、燃え上がりというのが足りなくなってしまうという傾向があるわけです。
中和致すのには一日一日で、人生の本義に基づきました毎日をやっていこうという心遣いがまず大事なんですけれども、神道の基本的な立場といいますのは、生きて幸せ死んで幸せ、失敗すればするほどいいと。
典型的な例が藤山寛美さんでございます。藤山寛美ですね。
今言いましたように一日完結主義です。えー、ある時にですね、大きな借金を抱えまして、やくざが絡んだりしまして何億という借金を作ったんですよ、藤山寛美さん。
ところがですね、この藤山寛美さんというのは何億という借金を作りましたので、もうとにかく借金返しを自分でする。もう、一日何度も何度もステージをやるわけです。
そして、松本道弘先生が、前に言っておられましたけども、松本道弘先生も土曜日、日曜祭日なく、毎日が一生懸命な仕事というものを五年間続けたと。
もうだいたい二時、三時まで執筆です。それまでは朝六時に起きたら極東放送を聴いて、とにかく英語の本と日本語の本を両方見ましてですね、ですから、日商岩井から独立しまして、自分自身の英語で生きていこうと。
三ヶ月ほど山籠りを致しまして、外国に一度も行かなくって、英語日本一と。五十冊ほどの本を書いておられますけども、あのエネルギーたることや、すさまじいものがあります。
あの松本道弘先生も五年間、一日としてですね、一日として日曜祭日がなかったわけです。お正月なく、お正月も英語でやるかわかりませんが、五年間、日曜祭日なくやってきたということに、自負と誇りを持っていたんです。
それほど一日一日で、とにかく自らを胎蔵界的に金剛界的にやったわけでしょうけども、五年間。で、松本道弘先生が藤山寛美さんと会ったわけです。
この松本道弘先生が藤山寛美さんと会いまして「驚いた、負けた」と。「私はもう藤山寛美には負けました」と。
聞いてみたら、十五年間、日曜祭日、お盆に元旦、全く関係なく、元旦は元旦で、朝、午前中に一回、夕方に一回お芝居やるわけです。一日二本ですよ。二本ないし、乗った時には三回ぐらいやるらしいです。
日曜日もなく、祭日もなく、元旦もなく、元旦は元旦でやるわけです。正月興行です。
これを十五年間、一日も休まない。風邪を引いていようが、寝ていようが、今日は風邪を引いたという形で演技をやるわけです。十五年間、一日も休まず、日曜祭日なく藤山寛美、やりましたということを聞いて、松本先生が初めて負けたと。藤山寛美に負けましたと。
私は学生時代に四年間、もう毎日毎日勉強しまして、とにかく神の道に生きるんだと思っっておりました。前にも言いましたけども。スキーも行ったこともないし、アルバイトしましたけれども、旅行に行ったことはありません、旅行に行ったこともありませんし、友達とキャンプに行ったこともありません。
夏休みには八回合宿に行きました。もちろん能楽はやるし、英語もやるし、本も読んで。とにかく、一ヵ月の夏休みの間ですね、キャンプ三泊四日、五泊六日の合宿をですね、八回行ったんですよね。
大学二年の時は少なくて五回でした、大学四年生の時は六回でしたけども。しかし休みというのはなく、とにかく前向きに毎日、もうやってやってやりまくるという毎日です。
この大学の四年間は、神人合一の道というか、神様の御用に役立つとか、自分自身を磨くんだと。もう四年間大したこと出来ないから、せめて。若い時しか遊べない、これも真理。
若い時しか勉強できない、これも真理と。同じ生きるんだったら若い時しか勉強できないという一日をと、そう思いました。
だけども、やっぱり友達はスキーに行くし、女の子と楽しくやってるし、ハッピーライフをね。それもいいなあと。
もうせっかく大学卒業するのに、ここに至ったらと思ってですね、スキーに行こうかなと思った時に、ぐらぐらとした時に、PHP (の本)を読みまして、藤山寛美さんが出てきたんです。
その時はまだ十五年じゃない。十年か何年間か、朝に一回、夕に一回、日曜日も祭日も元旦もなく毎日、毎日やり続けていると。それで、ある人がインタビューで聞いたわけです。
「藤山寛美さん、どうなんですか」と。「どういう秘訣があるんですか。尋常な人では考えられませんね」と言った時に藤山寛美が、「いやー、それはお芝居するということが辛いと思わないことですなあ」と。
ねばならないという感覚ですと、これは出来ないですよ。
どんなに精神力が強いと言いましても、風邪を引こうが何しようと、十五年間。日曜もなく祭日もなく元旦もなく出来ないですよこれ、絶対。
一日二本も。当初はねばならないと思って、藤山寛美さん、やったんでしょうけども。
私は感動しましてですね、はあー、なるほどと思って、まだまだ僕なんかとんでもない、こんなことぐらいで妥協しちゃ駄目だと思って、最後まで、四年間、卒業式までやり通したんですけども。
藤山寛美さんのそのことは私も、 PHPで読んで感銘しまして、非常に大きな記憶に残っております。
ですからこういうふうな世界では、天皇のような方ですけれども、やっぱり一つの道の達人です。
ですから、お芝居でやってる人でもそれだけやってるのに、神様の道で生きていこうかという人間が、このような御用をしようかという人間がですね、藤山寛美さんより負けていたら駄目だと思いました。切に思いました。
神人一体の道と言うけど、この人のがよっぽどすごいと。負けたと。松本道弘さんほどでもないと。
もう全然駄目だと、自分は。少なくとも頑張り通す毎日というのが、どれだけ能力があるかは知らないけども、生きていく姿勢は、この人たちに負けないぐらいやらなければ駄目だと思いました。
同じく、前にも言いましたけども、君原選手がね、マラソンで。一度も棄権したことがないと。こうやって首振りながらでも。佐々木精一郎なんていましたが。
もう、棄権だー、お腹が痛いなんて棄権しました。佐々木ってのは非常にスピードがあるマラソンなんですけど、ここ一番っていう時に駄目でございまして、すぐに棄権してしまいます。
君原選手はビリになりましても、お腹を押さえながらでも、こうやって首を振りながら、一度も棄権したことがない。ある人がインタビューで聞いたんです。
そうしたら、「一度棄権すると癖になりますから」って。なるほどと。自分がぐらぐらとした時に一度棄権しちゃうと、癖になると。これ駄目だからいいやあと。
一度そういうことすると二度三度、罪悪感がなくなる、自分が怖いんだということでしょう。一度棄権すると癖になりますからということで、君原選手はどんなにお腹が痛くても、どんなにタイムが悪くっても、完走するんです。
歩きながらでも最後まで行くんです。そういうふうな自分を作ってたんでしょうね。
いろいろございますけれども。藤山寛美さんは当初は借金返しのためだったんでしょうが、もう借金はもうすでに完済しておりまして、いくらでも余るほどあるんでしょうけども、それで神人合一してたんでしょう。
当初は借金で、ねばならなかったんでしょうけど、それじゃやっていけないと。ねばならないではやっていけないと。だから同じやるんだったら前向きに、苦しいと思わないでやろうと。
彼の信仰力でしょう、これは。喜びとしてお芝居をやったわけでしょう。
昨日お芝居に来た人がまた今日も聞きにくるらしいです。そういう人たちは同じのだと飽きちゃうから、ネタを変えるらしいですよ、落ちを。
僕が観に行った時、例えば、「結婚していた人はすぐに離婚する。ああ大原麗子と森進一のようなもんだね」なんていう形でワーッと笑うんですよ。ホットな話題を絶えず入れてるらしいです。
昨日聞いた人も今日聞いたら、またワハハと面白いと。新しいネタが入ってると。
藤山寛美は毎日毎日観に来るお客様にも喜んでもらえるようにということで、絶えず工夫してるんです。同じタイトル、同じ台本でも違うんですよね。変化を持たせる。
それから、それだけやってても、深夜二時三時までですね、世界の政治とか経済とか、歴史とか芸能関係の本や雑誌を絶えず読んでいて、そこから新しいネタをお芝居の中に入れるらしいです。
日本の政治から国際政治、それから経済状況から芸能界のことも全部知っているらしいです。
毎日それだけ二時、三時まで勉強しているらしいですよ。それが十五年続いてるんです。
ということを考えたら、我々のやり方というものは、いかに生ぬるくてですね、少々頑張ったからと言っても、まだまだこうはいかないです。
わたくしも、神様の道に目指しまして二十年ですけれども、まあまあこういう毎日ができるのは、ここ何年でしょうか。
ここ十年、学生時代から数えて十何年でしょうか。でも寛美さんほどじゃないです。ああそれに比べてまだまだだなあと。
自分自身の一日の使い方ということに関しても隙が多いし、あれほどまだまだ徹してないと。神様の道とはいえ、ミロクの世を作るんだとかご神業だと思いましても、やっぱり、このお笑いのスターの、あのお芝居の藤山寛美さんに本当に負けていると。これじゃ情けないと思いますね。
まあそうは言っても、基準ですよ。誰を基準として自分を見るかです。
弥益々に栄えていく
こういうふうな藤山寛美さんのような生き方。今日一日、今日一日を辛いと思わないと。そして今日より明日、明日よりあさってと。もう絶えず躍進ですよ。
今日一日は素晴らしかったと。しかし、今日よりも明日がさらに素晴らしいと。あさっては明日よりもさらに素晴らしいと。今日のネタは同じのはやらない。
次はまた、よりいいものがでてくるんだと。絶えず研究を怠らない、努力を怠らないで、お芝居の一回一回を楽しんで喜びとして、お客様に今日も喜んでもらったと。
そういう毎日を、彼は一つの哲学というか、信仰力で持ってるわけです。
こういうふうな生き方が、神道の基本的な立場なんです。これを、弥益々に栄えていくと。弥益主義と。弥益々に栄えていく。栄えたが上にも、ますますに栄えていく。どこまでも生成化育進歩発展。
只今只今と、今日一日今日一日と、今日より明日、明日よりもあさって、あさってよりもしあさってという形で、ますますに大きく栄えていくというのが、これが惟神の道なんです。
一つや二つ失敗してもいいわけです。一つや二つ失敗したら、その次は、あつ、ああいう失敗があったからよかったんだというふうに、三つ四つ五つ六つ七つ八つ九つ十の成功に変わればいい。
これは松下幸之助さんが同じく神道の基本的な立場を持っている人で…この人は(名前の画数はあまりよくありませんが、えー、苦労の多い名前なんですけれども。松下幸之助さんは「私はいまだかつて失敗をしたことがない」と。生まれてこのかた私は失敗というものはしたことがないと言ってるわけです。
実際問題としましては労働争議で悩んだり、松下の不買運動があったり、販売店から吊し上げを食らったりですね、マネシタ電器なんて言われたり…。それからコンピューターなんかにも手を出して、途中でパッとやめたりしました。
ですから、客観的に見れば失敗のような状況は多かったんですけども、あれは失敗だったと言うことはなかったんです。松下幸之助は一見失敗に思えるようなことも、それをばねとして、ヒントにして、次の成功に変えているわけです。
失敗は成功の元なんて言いますけれども、そんなのではなくて、もっと積極的で失敗する以上に成功すると。これは失敗だあというふうに考えないわけです。「ちょっと困難な状況」というふうに考えるらしいです。「ちょつと困難な状況」というふうに考えるんです。
ですから魂が勝ってますね。だからますますに発展に次ぐ発展で、八十、九十になってもPHPやったり、松下政経塾を七十七歳で作ったりして。ですからもう失敗したことがないと。ちょっと困難と思える状況も、これは成功するためのステップなんだと。成功する前の、ちょっと困難な状況なんだと。
でも失敗ではないと。それだけの精神の粘りと、いい方へいい方へ変えていこうという前向きな精神が彼にあるからですね。
今日より明日はもっと素晴らしい
まさに、藤山寛美さん、松下幸之助さんの考え方というのは、神道の基本的な立場です。弥益々に栄えていく。
ちょっと罪穢れがありましても、ま、ちょっとお掃除して禊祓いをしたらきれいになるよと。ますますに栄えていくと。
生み生み生み出していく。結んでいく。発展していく。これが神道の立場です。一方、キリスト教的な立場というのは、罪、パニッシュメント(punishment)です。反省します。
それから、仏教関係の人も反省するんですよね。一つのことがあったら真剣に考えて、非常に反省をよくする。
反省(板書)。皆さん、よく見てください。「省みる」という漢字は分解しますと、前にも言ったかと思うんですけど「少ない目(省)」と書くんです。
しかし、仏教をやった人は非常に反省心が強くて、あっ、前世の因果があった、人々に罪を犯したとか言います。マイナスの方というか、因果といいますか、非常に内面的なものを大事にして、奥深く自分を省みている。
ですから、非常に反省心の強い人が多い。儒教も多いですよ。儒教も確かに素晴らしいですが、やはり反省する心は大きいです。我と慢心がないように。
省みるなんてことは、少なめでちょっと見たらいいんです。どこまでもどこまでも大目に見るのも駄目ですが、どこまでもどこまでも省みて自己を分析してる間があったら、もっと発展的ないいことしろと。
もっと前向きに努力しろと。もっと素晴らしいものを創造していけと。一つや二つ失敗があってもいいじゃないか。
ちょっと困難なんていうふうに考えて、三つ四つ五つ六つ七つ八つ九つ十、二十、二十一と連続にヒットが出たらいいじゃないか。それだけたくさん生産して、毎日毎日を生み増やしていくというやり方でなかったら、神道的な立場とは言えません。
非常に内省的な反省的な人で人格はいいのかもしれません。人格は立派だと言いますけども、社会に何ら大きなプラスの影響を残していくことができない。人間はいいかもしれないけども、役立たずという人が多いんです。
本当に日本の神柱というか、国の柱といいますか、国家の有為な人材というものが…。仏教的立場では、非常に悟りは多いけども、本人は罪は少ないかもしれないけど、あまり役に立たない。儒教的な人間は立派でしょう。
確かに複数の組織の中に立ったら儒教は必要ですけれども、あまり大した人物ではありません。
やっぱり、信じられないような大きな素晴らしい功を社会にも何かいいものを残していったと。この社会に対する貢献度合ということを考えますと、この神道主義でなければ、これがベースにあって我と慢心が出るところは少しで、少ない目に反省していく。
そして、仏教で心を少し練っていく。儒教で人倫の道も少しわきまえていく。
しかし、ベースがここ(神道主義)にこないと駄目ですね。世の中に有為な人間、社会にあるいは神業に対して、神様の仕組みに対して値打ちのある人間になろうと思えば、やっぱりこれ(神道主義)でないと駄目です。
一つや二つの失敗なんか関係ない。もっとそれ以上に立派なものを大きくすればいいんだという、発展、弥益主義(板書)。
こういう生き方でなかったら、本当じゃないです。
ま、そういうところで、一日完結主義のパート1に、この弥益という二字を付け加えまして、一日完結弥益主義と。藤山寛美さんの姿勢です。
今日一日、今日一日やって終わっていいと。
しかし今日は、明日のためのステップであって、昨日よりは今日は素晴らしかった、今日より明日はもっと素晴らしい、あさってはもっと素晴らしいぞというふうな、生成化育進歩発展、夢と希望と理想、ドラマとロマンに満ちて、今日を楽しみに辛いと思わない。辛いと思わない、考えない。
苦しいと思わないで、何年でも何十年でもやり続けるだけのこういう不動の信仰心、不動の信念。難しい言葉で言うのではなくて、こういう形で、一日の生活とかご神業とか、仕事とかというものを燃えていかないと駄目ですね。燃えて燃えて。
狎れが出たとか、ずれてるなんていうのは消極主義です。
ずれているとか狎れが出てるというのは、本来あるべき姿からずれてるわけでございまして、本来あるべきなんか乗り越えて、ますますもっともっと積極的に、プラスへ向かっていくのがこの神道主義です。
ずれるとか狎れるのは消極です。ずれない、狎れが出ないなんていうのは、マイナスをデフェンド(防御)する立場ですから。
それはパート1で言いましたけど、パート2は今度はもっと積極に出て、こういうふうな方たちのやり方を見習いまして弥益主義の方により大きな比重を置きまして、有意義な人生を送っていただきたいということが、この一日完結弥益主義というものの結論でございます。
どうもありがとうございました。(拍手)
