深見東州の土曜神業録16(Vol.2)

【第一章】人として一番大事なものとは(昭和60年4月6日)

人間も神様も一霊四魂

【深見先生】えー、人間には、一霊四魂というのがありまして。ということは、お聞き及びのことと存じますが。えー、一霊四魂(板書)というのがあります。

これは神様にも、例えば天照大御神の幸魂とか、天照大御神の和魂とか荒魂っていう形で、伊勢にもございます。伊勢の、伊勢神宮に行った方はご存じだと思うんですが、伊勢の荒祭宮というのがありまして。

これは伊勢、天照大御神様の荒魂様がお祭りされている。あるいは、あー、伊勢神宮の荒魂というのが兵庫県西宮市の広田神社というところで。これも天照大御神様の荒魂ですが、お祭りされています。

それから、三輪大社ですね。思い出深い三輪神社。ご縁のある方も多いですが。三輪神社というのはどういう方かといいますと、大国主の和魂、幸魂という形で歴史に残っております。

あのとき、えー、海上、海のところから、何か神様がいらっしゃって。我こそは大国主の和魂だとおっしゃって、大物主の神様。ですから大国主命様で、このように名前が変わると。例えば大国主命様なんですが、これが大物主の神様となっていると。

それから、琴平別ことひらわけ、琴平別の神様は、金比羅権現ですね。権現となって現れるときは金比羅権現ですが、えー、あそこの金比羅神社のご祭神も大物主の神様なんです。すべて大物主というのは、ですから大物の主になると。

あるいは、あの、「もののけ」という…。「もの」というのは霊とか精霊のこととか、「もののけ」と言いますよね、霊のことを。あるいは人間様の、そういう大物主という、統率していくとか、あるいは、その邪気を払っていくとか、そういうものを統率するという意味もあるみたいです。

それで、金比羅権現様も、金比羅神社様も、大物主の神様。そのように大物主という形で、大国主命様が、なぜ大物主なのかといいますと、名前が違うということは、一言で言えば働きが違うんですね。

大国主命様が八重事代主やえことしろぬしの神様となるときは、そのように、えー、八つの重なったことを物事を、こう代表して、それを統率していくとか、あるいは八千矛やちほこの神様という風に七変化なさいますけれども、八千矛の戦の神様となって現れてくる。

あるいは、大己貴命様という名前で出ていらっしゃるときには、大己貴の働きで出ていらっですから、一つの御魂なんですけれども、この一霊四魂、大きくは四種類の働きに表れるんですが。

この幸魂の中でも、いろんな変化が現れる。ですか大国主命様の愛情の部分が出てくるとか、大国主命様が真の部分が和魂となって現れて、名前が変わるということはそういう働きとなって出てくる。

ですからご神名が八百万の神様って、えー、坂本さんが今、最初におっしゃられましたけれども、八百万の神様は色々なお名前があるんですけれども。

大体は、その、出雲系と伊勢系の二つの系統に分かれまして。天界の神様の直の部分のとこと、地上に物事をこう産み増やしていく、言わば天津系と国津系。日本神、惟神系とユダヤ系と。

言わばそういう二つの、大別しまして陰と陽があるんですけれど。それがまた、八百万に働きまして、これに出てくるわけですね。そういう風に、神様となりますと、この、幸魂、和魂、荒魂で、別々に名前がありまして。顔も変わるんですね、顔も。全部、幸魂の顔、こうなっていきます。

これはどういうことかっていいますと、例えばろうそくが一本、こう、火が動いていますね。ということは、地上に、この、にぎにぎしくっていう働きの場合、クルクルこういう風に回転しますと。

うん、見ますと、この輪のように、こういう輪の炎のように見えますし。これが愛情のようになりますと、こうやってビーッと縦に揺れますと、こう縦長に見えてくる、一つのろうそくがこういう形で。

へのへのもへじってなりますと、へのへのもへじ大神様となって。例えばこういう感じですね。

もっと別な言い方をしますと、例えば、あー、西谷泰人という一人の霊がおりまして。

えー、例えば、鳥取に帰りますと「泰人、よく帰ってきたな」と。よき長男でありながら末っ子で、お父さん、お母さんから、えー、泰人、泰人と言われている息子。西谷家の息子という役割がありまして。そこでは、もう、にぎにぎしくこうやって。

それで、皆さま、よろしくっていう形でみますと、手相家、西谷泰人と。若手のよく当たる手相家がいますよというお話がありましたけど(笑)。若手のよく当たる西谷で、みな、よかれ、よかれと。

今度は愛の部分を出しまして、たくさんの。ですから、手相家、西谷泰人という名前が付くわけで。ここ(和魂)はもう息子っていう形で、にぎにぎしくという面で。

「さ、人生、観ましょう」なんて親にはあんまり言わないで、もう、にぎにぎにぎにぎしまして、そういう形で働く。手相家、西谷泰人。

これはですね、奇魂は、ご神業に打ち込む、この、神業に打ち込む、西谷泰人。ご神業に打ち込むという、西谷泰人という形では、霊的な閃きとか、こういう皆様というよりも、神様に向かいまして真剣ですね。

ですから、ご神業にうち向かう。とにかく、そういう神業に打ち込む西谷泰人。ご神業のメンバーと、こういう風な姿で奇魂っていうのは知恵の部分ですから、そうなって。

今度は荒魂というのは、一人の人間がどこまでやり通したか。あるいは、その荒魂は、現れ出ずるという形でして。肉体でいえば、これは、あー、筋肉(板書)ですね。和魂は内臓です。これ、幸魂は心の部分ですね。

奇魂は閃き、閃きや霊感の部分ですね。一霊四魂をこういう風に分けます。

ですからこれ(荒魂)は一人の人間として、どこまで人生の道をやり通したのか、どれほど勇敢に、これをやり通すことができたのか。

平田篤胤は、その人の御魂がいいか悪いかは、どこで見るかと。その御魂の善し悪し、素晴らしいかどうかというのは、一霊四魂はあるけれども、その人の荒魂、一つの物事をどれだけ貫き通したか。

一つの物事をどれだけやり通して、最後までめげないでやり通したかという。

この荒魂は勇気ですけれども、これを裏返しますと忍耐(板書)になるわけです。この忍耐力と辛抱するという力がなければ、一つのことは成就できないですから。

これは非常に辛抱したり、いざ、ここ一番というときには、勇敢に物事に立ち向かっていく。日本の武士というのは益荒男で、その勇気がいかなる…。勇猛心ですね。その勇猛心が荒魂。

ですから一つの人生で、どれだけ物事をやり通したのか。

神様なら神様、仕事なら仕事、特にここでは神様の道っていうのを志したら、どんなことがあってもやり通したのかっていう、この、荒魂の善し悪しで決定される。そういう風に、どこまでやり通したのかというところの役割、働きなわけですね。

一霊四魂をバランスよく磨く

そういう風に、この西谷泰人という人が一人なんですけれども、実家に帰ったときの名前です、役割。手相家としての役割、あるいは神様に向かっているときのやり方。

一人の人間として、どこまで物事を成就できたのかと。あらゆる、やっぱり、その役割があるわけですね。および、これをメインにいたしまして、例えば東京都民の西谷泰人、それから、あの、鳥取県人会の西谷泰人。

色々な働き、役割、違うわけですね。もしこれ、あの、奥様がいますと、夫、西谷泰人。子供ができますと、父親としての西谷泰人という風に、役割が出てくる。それぞれ名前に変わるわけですね。

お父さんと言われたり、あなたと言われたりしますから。

そういう風にして、その神様はご一体でありましても、働きによりまして名前が変わるというのは、今申し上げたように、えー、働きが変わる。ですから顔も変わります。

例えば衣裳も変わります。これ、たとえていうならば、実家に帰ったときは、やっぱり実家っていう形、ラフな格好しまして。

手相を観るときには、やっぱり手相家という。西谷さん、全部同じですけどね(笑)。彼は例外ですが…。

家に、実家に帰ったときはラフな格好で、仕事をするときは仕事の、ピッと服着ます。ご神業に行くとき、例えば神社の前に行きますと、やっぱりそれなりの衣裳をする。

やっぱり、その働きによりまして、衣裳を変えますよね、洋服も。それなりの役割を演じますので、やっぱりその姿、衣裳、洋服も変えます。

同じように神様も衣裳を変えまして、お化粧も変えまして、何となく、でも、大国主系統の顔は、このふっくらした顔が多うございまして。えー、顔も変えます、神様というのは。

そういう風に役割と場所が変わりますと、それにTPOに合った洋服と、ものの言い方っていうことで。

あんまり仰々しく、実家に帰ると「なにを水臭い。泰人、最近お前変わったんじゃないか?」「いやぁ、同じだよ」なんて言って。(逆に)実家にいるような言い方でやりますと、ずいぶん、これ、なれなれしい手相家だと言われます。

それなりに、あんまりしゃちほこばっても駄目。神業のときには真剣に神様に向かう。そんな風にして、やっぱり顔も姿も、ものの言い方も変えますよね。

神様もそういう形で現れ出てくるときは違う。これはお顔も変わる、姿も変わる。働きが変われば、そういう風に変わる。名前だけじゃなくて姿も変わるということだと考えていたら結構です。

ま、これが一つの一霊四魂という形の中で、えー、神様の世界にもございまして。同じく人間にもあるわけですね。

それが、その人間の、だいたいはその、二つ持っている人が多いですね。例えば愛情が深くって、人様には仲良く仲良くするけども、あんまり頭はよくないと。霊的にもあんまり閃きがないし、忍耐力がないと。

あるいは非常に忍耐力はあって、非常に愛情もあるんだけども、どうも、こう人付き合いがよくないと。人間関係でちょっと問題点が多いと。あんまり閃きもよくない。

非常に閃きがビンビンに冴えて、どんなことでもやるし、友達付き合いも多いけども、あんまり愛情深くはないと。どちらかといえばマイペースで、人に愛情があるようでないと。

一般的には、その二つありまして、二つが弱いというのが一般なんですが。稀には三つぐらいあって、一個だけ足りないという人がいます。それぞれ一霊四魂は、全部誰でもあるんですけれども。一般的に、その強弱がありまして、二つ強くって弱いと。ないということはありませんけども。

ですから一つの、その御魂の修業ということを考えますと、色々とこの四つをバランスよく修業していくということが、御魂の修業と。えー、御魂の修業、修業という風に言いますけれども、もう少し別な角度から見てみますと、この一霊四魂というものを磨いていく。

一霊四魂というものをトレーニングしていくというのが、御魂の修業と言えるのではないかということなんですね。

ですから、その、除霊をするなんていうのは、まさにこの愛情の、和魂、幸魂がなきゃなかなか駄目です。

除霊の講義を聞いた人はわかると思うんですが、もう、ただただ愛念でなければ駄目でございまして。(和魂、幸魂にとって)非常にいいですね。

それから、そのボランティア活動なんかもいいんですけどね。これはもう、色々な、この人間関係の中での組織組織とか、たくさんの友達付き合いの中で、にぎにぎしくいくために、この、仲良くいこうじゃないかと。人様に、自分自身の殻を破らなきゃ駄目です。

奇魂っていうのは、これはもう、いろんな角度で勉強するし、霊感とか閃きですので。この、奇魂っていうのは天性のものが多いんですけども、神業に向かえば向かうほど研ぎ澄まされていきます。

これも除霊では訓練できますね。しばらく除霊したあと、「あ、これかこれじゃないか」っていうことで、閃きがビンビンに冴えてくるでしょう、そうしたら。これ、非常に。

荒魂の修業が一番大事

それで、今日の講義なんですけども、この荒魂というのが、本日の講義のテーマなんですけども。

真剣な本当のご神業というのは、一体どうなのかという風に言いますと、一言で言えば、荒魂の修業なんです。この荒魂の修業が、本当のご神業です。

もちろん全部、それぞれありますよ。もちろん全部ありますけれども、本当の御魂の修業というのは、この荒魂の修業ということが言える。

つまり、表に立っては勇気ですね。本当の勇気というものを奮い立たせて、荒魂を発動させようと思えば、これはまさに捨てなきゃ駄目です。自分自身が、お金とか地位とか名誉とか、色々な要素がありますと、この勇気がなかなか発揮できなくてですね。

ちょっと人に言われたことが気になって、なかなか、これ、どうしようかなと思ってみると、ちょっとお金がなくなりますとハラハラドキドキしまして、大丈夫なのかなあと。ちょっと行き詰まりますと、できないんじゃないかという、怖じ気づくと。

ですからパッと、本当の勇猛心、勇気を持って、これを進んでいく場合には、まさにこの、自分を捨てる修業ができていなければ、勇猛心というものを発揮できないわけです。

執着心がありますと、どうしてもびびっちゃう、へっぴり腰になりまして。使命を自覚しましても、奇魂で、これをパッとやり通すことができない。

それから、奇魂があまりに発達する人は、ちょっと神経過敏でイライラしますので。荒魂の忍耐力がありますと、バランスよく神経過敏にならないで、和魂とか幸魂のほうへ持っていくことができるわけでございます。

本当は神道で言いますと、奇魂というのが統率の力がありまして。統率力がありますので、この奇魂がすべての一霊四魂を統率しているんですけれども。

で、奇魂、奇魂といっても、なかなか駄目でございまして。やっぱり、この統率、荒魂が全てを支えているような気がいたします。

そして、その荒魂が裏返しますと、忍耐と辛抱。この愛情をなさんがために忍耐する。忍耐というものを持ちまして人々と仲良くできる。忍耐を持ちましてどこまでも知恵を磨いていくというのがなければ、これ神業は成就できないわけです。

これを典型的に言っておりますのは、あのエドガー・ケイシー。エドガー・ケイシーが、そのリーディングの中で言っておりますのは、神の目から見て、もっとも徳が高いのは、それは何かっていうと、ペイシェンス(板書: patience)。つまり、忍耐し辛抱することが、神様から見て最も尊いことだと言っているんです。

それから、あの白隠禅師のところで講義いたしましたように、人間は最後は、とにかく、この勇猛心(板書)だと。講義で話しました。

八十四歳まで命ある限り、白隠禅師は、「かーつ!」と。喝を唱えまして、そのまま死んでいったと。「な、何だ、今の声は?って聞いたら、「あ、白隠禅師、ご臨終でございました」と。

八十一歳のころにですか、白隠は風邪を引きまして。

もう、お師匠さんも、もう老齢のことですし、もう、お風邪ですのでお休みくださいませと言われて、そうだなあと。もう歳を取ったし、風邪を引いているから、大事な命でございますからと言われて。それで彼は辛抱しておりました。

ところが夢を見まして。えー、そこでですね、自分のお師匠さんだった人、歴代の祖師ですね、禅宗で亡くなった、もう有名な、その禅師たちがズラッと並んでいるところに白隠がいまして。

白隠が「お前たちのとこには、まだまだ行かないぞ、わしは。お前たちの所になんか行くもんか、バカ者」なんて言ってて。

そうしたら、自分たちの祖先、禅宗のお師匠さんに当たる方がジーッと見て、「ほぉ、なるほど」ってニコニコ笑ってる。

「お前に一つ大事なことを教えてやろうと思うんだけど」「何だ?」「人間でもっとも尊いものは何か知ってるか?」

夢ですよ、夢の中で会う。自分の歴代の大先輩に当たるお師匠さんと言われる方が、それは「勇猛」の二字だと。「勇猛だよ、それが大事なことなんだ」と言われて、白隠はフッと、こう目が覚めて。

「おっ、こりゃいい夢見たなぁ。そうか、勇猛か。最終的に大事なのは勇猛だ。うん、勇猛心だ、わかった」ということで、風邪引いて寝てたんですけれども、こんなの構うもんかと。

命ある限りやるんだという形で白隠はガバッと起きまして、「それ、こっち来い!」という形で、強烈な問答をまた始めまして。

全国津々浦々、その執筆活動と、とにかく講義。それから座禅のですね、問答で、バチバチ、追い込んで。

八十四歳、死ぬまでやり通したわけです。長寿を全うし、しかも臨終のときが、「かーつ!」と、強烈な勇猛の、その喝を唱えまして。何か強烈なでっかい声がして「白隠禅師、お休みになっているのにどうしたんだ」と見たら、そのままご臨終だったと。

ですから、そのまま臨終の言葉がですね、喝ですからね。こういう死に方って立派ですよね。最期の最期まで、死ぬ一秒前まで、この勇猛心で締めくくったということが一つと。

もう一つは、さっき申しましたように、平田篤胤公が、その御魂の善し悪しを見る場合に、その荒魂、荒魂がどうだったのかということを見ることによって、本来のその御魂というのは、荒魂で出てくる。

これが途中でフラフラフラフラしてたり、一つのことも全然やり通すことができない人間は、それは立派御魂じゃない。奇魂、幸魂、和魂がいくら優れてても、この荒魂というのができていなかったら、その御魂は値打ちないと言っております。

それから、植松先生から私が聞いたことでは、その人の御魂が良かったか悪かったか、いいか悪いかをどこで見るかと。

審神をする一つのヒントとして、その人が過去歩んできた足跡を見ればいいと。その人が今日まで来た、どういう風な人生を歩んできたのか、それを見ればわかるんだと。

常に裏切られっぱなしだったのか、裏切ってきたのか、フラフラフラフラしてきたのか、いや、何事によらず一生懸命努力してやってきたのか。いざ、これはと思ったら、もう、どこまでも集中してやってきたのか。

その人が歩んできた人生の足跡を見てみたら、その人がわかる、御魂がわかるんだよと。

だから、いくらいい想念を持ってても、いくらいい理想を持ってても、やることがコロコロコロコロ変わってみたり……。一つの一貫性を持ってて、そして、その形は変わってきたのはわかりますよ。一貫性も持たないし、それから形もコロコロ変わっているという人は、あまり立派な御魂とは言えない。

ですから、その人の歩んできた人生の足跡を見てみたら、御魂が良かったか悪かったかがわかる。

ですから自分の御魂がどうだったかという風に見てみた場合に、自分が今日まで生きてきた人生の足跡を見たら、自分の御魂のどこが問題点があったのかがわかるわけですよ。

形は変わってても、例えば地位や名誉のために生きるんじゃなかった。お金とかそんなことのために生きるよりも、もっと、失敗するかも知れないけども、やってみようと思って…。

やっぱり、七澤さんなんかもね、卑下しなくていいんですよ。お金とか地位に生きるサラリーマンよりも、やってみようということで、大学卒業したときから弾き語りを始めてきて。

「ああ、駄目だったか」と。一つの終着点がアメリカから帰って、そこで帰ってきたときですね。だけども、そのご褒美に、ちゃんとヒット曲が出たわけです。

発するところが、やっぱりその気持ちで、紆余曲折はありましたけど…。

どういう気持ちで生きてきたのか。曲がっていたとこがあったら、そこを反省しなきゃ駄目ですね。

そういう風に、荒魂の修業はなぜ大事なのかということを、エドガー・ケイシーと、それから、えー、白隠禅師、平田篤胤、それから、植松先生もおっしやっております。

特に勇猛の心と裏返しの忍耐力、これがやはり、すべての中で、人として生まれてきた以上、一番大事なもの、修業だということが言えると思います。

忍の架け橋を越える

だから、エドガー・ケイシーも言いますように、色々な修業はありますけれども、奇魂とか幸魂とか、これ、全部大事ですけれども、この荒魂の本当の修業というのが、まさに前に言いました、前回の講義で申しました、とにかく我執我見をふり捨てて、神様にお任せしてポーンと飛び越す。

この一つの関門をポーンと飛び越せない人は、何やっても駄目です。

お金がないかどうかとか、今後のことはどうのこうのとか、一つの人生をこうやってですね…。要するに気がちっちゃいというか、捨て身がないというか。この捨て身がないから、パーンと飛べないわけですよね。

まぁ「羯諦羯諦ぎゃていぎゃてい 波羅羯諦はらぎゃてい 波羅僧羯諦はらそうぎゃてい 菩提薩婆訶ほじそわか。此岸から彼岸へ、ポーンと飛びなさいって言っても、なかなか飛べないと。人生の関門があったときに、グズグズグズグズして。どうしようかな、こうだったらどうしようか、ああだったらどうしようかと。

常にそれが先に立ってですね、物事がポーンと飛び越せないっていう人は、何やっても駄目です。いくらいい才能があっても開花しないまま終わってしまいます。

ですから捨て身になりまして、ポーンと飛び越して、神様にお任せすると。駄目だったら、そのまま死んでいってもいいんだと。それだけの勇の修業がいります。

そして今度は、そうと志して決心したら、どんなことがあっても忍耐していく。忍耐して、忍耐して、駄目だったらそのまま死んでいくんだと。

悲壮的な言い方かもしれませんが、そのまま死んでいけばいいじゃないかと。霊界というのがある、あるらしいから、そう死んでいけばいいと。

どんなことがあってもやり通していくんだというその忍耐力というのがありますと、これはもう形よりも、荒魂の修業ができているわけですね。

ですから、これができないと、本当の御魂の完成というか、神業の完成は難しいように思います。

ここで、一つの基礎的なお話をしたんですけども、言わば真剣なご神業っていうのは、これですね。勇気と忍耐力が試されているわけです。勇気と忍耐力。常にそうです。

例えば除霊一つにしましても、もう、十何時間座りっぱなしで、祈りっぱなしで。ハー、また水子かと、ハー、またこれかと。体力的にも霊的にも非常に苦痛で。

しかし、苦痛を乗り越えて、やるぞーと思ったときに、神様がパッと守護してくださる。

もうやめ、もうこれ嫌じゃ、嫌じゃと思っていても、いや、しかし、やるんだと決心してから、幸魂、和魂、奇魂、ビビビと開くんですね。

こう、ここを乗り越えまして。そうしたらご褒美で「あ、ああいうときは、こういう風に除霊したらいいんだよ」ということを、パッと教えてくれるんです。

初めから教えてくれればいいのにっていうんじゃなくって、この荒魂が勇と忍を持ってワーッと進みましたときに、ご褒美でパッと、この叡智とやっていく御魂の恩頼を頂けるんですよ。

だから、もう、その忍の架け橋を一個通り越して、初めてご褒美でパッとくる。一歩通り越すと、またご褒美。そういう形で、一歩、また一歩と階段を昇っていくというのが修業のプロセスですから。

まず、荒魂のそのことを通して、忍耐力と勇気を持っていっていただくと。除霊でもそうです。