深見東州の土曜神業録15(Vol.2)

【第一章】人生の本義を知って只今を生きる(昭和59年8月8日)

相乗の気とご神業

【深見先生】えー、昭和五十九年、八月の八日。水曜日の基礎講座、始まります。(拍手)

えー、基礎講座でございますが、テープが入る前に申し上げましたように、基礎的なことを、その場に合わせた皆さんの形でお話をしていくと。

まあ何度聞いても、それはそれなりに味わいが深いっていうふうに、生きた講義にしたいと思いますので、皆さんも「なるほどそうかな」と。

潜在する守護神さんとか守護霊さんとか、御魂様とかにお話ししますので、「ああ、そうかなあ」と、私がお話しするのに気分に乗っていただきたい。そういうのを「相乗の気」というんですけど(板書)。

またこれも後ほど説明しますけど、相乗の気、相乗り。「こうですよ」といったら、「うん?何?」というんじゃなく、「そうです」「ああ、そうかなあ。そういうこともあるもんかなあ」と。

「こうじゃないでしょうか」「そうですね」と。そういう気持ちを、こう盛り上げていきますと、講義に乗りましてこう、神々様がいらっしゃいますし、ご守護神さん、ご守護霊さんなんかも、ご発動なさる。そういうのを、御魂の恩頼」と。「恩頼の御魂」といいます。(板書)

これは、恩頼と読みます。「恩頼の御魂」とか、あるいは「御魂の恩頼」とかと申します。これからよく、恩頼、恩頼と出てきますけど、漢字ではこういうふうに書きまして、いわば神様の光とか、神様の徳、功徳。

例えばあの、どこかの神社にお参りしまして、それで「ああ、すがすがしい気持ちだ」と。真心込めてお玉串をしよう、お玉串に乗せまして真心を乗せると。

そうすると、御神霊が受け取られて「よろしい」と。真心受け取りまして御神霊が神気を与えてくださる。「ああ、きょうも気分よかったなあ。神様の、御魂の恩頼を受けたなあ」。こういうふうに使うんですね。

だから守護神、守護霊さんとか魂が、大きな御神霊、神様によってエネルギーをいただく、霊的エネルギーをいただく。これを、恩頼の御魂を授かる、御魂の恩頼を授かると、こういうふうにいうんです、神道で。

ですから、何度も出てくると思いますので、これをよくご記憶いただきたいですね。

それからあの、基礎的なことといたしまして、えー、最初に、神社に行きますね。神社に行きまして、玉串というのをいたします。

これは、いろんな意味が、神道ではあるんですけれども、えー、自分の串をこう捧げまして……。

岩戸開き「古事記」で申しますと天の岩戸開きのときに、天照大御神様が岩戸の中にお隠れになった。

そのときに何とか、世の中が真っ暗になっちゃったから、天照さん出てこないかなということで、思金神様という議長みたいな神様がいらっしゃって、

みんなで衆議して、「玉串をつくろう」と。「あなたは鏡をつくりなさい」、「あなたは、しで/rt>をつくりなさい」、「あなたは踊りなさい」。踊りを踊ったのは、天宇受売命あめのうずめのみことですね。

(岩戸の中の天照大御神様は、)「何で、こんなに楽しそうにしているんだろうか」と。祝詞を奏上して「何を言っているんだろう。楽しそうにしているな」。

(すき間から外をちらっと見ましたときに、持っていた何とかという、天児屋命やねのみことですか、ぱっと鏡を出すわけ。ぴかっと光って「あ、すごい光だ」と。

自分自身がはね返っているんですけど。「いやあほんとに、天照さんよりもすごい神様がいらっしゃって明るいなあ、この世の中は」と言うんで、どんな神様かのぞいてみようと思ったときに、手力男神たぢからおのかみ様がぐいっと引っ張り出したと。

これを天の岩戸開きの神事ということで出ているんですけど、そのときにこれは、玉串というのは起こったんですね、起こりは。で、神社で玉串と。皆さんがいらっしゃったときでも玉串っていうお話でするわけです。

顕幽一致した祭りとは

【深見先生】えー、お祭りの仕方、祭っていうのは斎祭いつきまつることですね。斎女なんていうのがいますけど、斎藤さんなんていうのは、大体斎祭る、そういう

ふうな家柄から来たんだと思うんですけど。幽斎ゆうさい顕斎けんさいというものがお祭りにはあると。

これはどういうことかといいますと、幽というのは目に見えないかすかという意味ですね、幽玄の境地とか。顕というのはあらわれる、顕現する、顕著なという意味です。ですから、幽斎というのはかすかなところで斎祭る。つまり、例えばプロテスタントが、こういうふうに目を深くこう、つぶりまして、「天にまします我らが父よ願わくば御名が尊ばれんことを」とか、おなかの中で、胸の中で深くお祈りする。これが幽斎です。

顕斎はっていいますと、例えばあの、仏教にしましても、カソリックにしましても、ろうそくを幾つも出しまして、こういうのをつけまして、何か、ぶどう酒を捧げましたり。

いろいろとその、形をたくさんに並べましてやるお祭りです。形で出ているお祭りです。これ、幽斎と顕斎っていう形でありまして、非常に儀式ばった、宗門宗派でやる儀式ですね。こういうのが顕斎。

日本神道は、どういうことなのかといいますと、顕幽一致せる斎祭り。あるいは祭り。

どういうことかといいますと、顕と幽と両方にこれを一致したものだよと。

ですから、玉串というものをたとえてお話ししているんですけれども、「ああ、そんなの別に神様なんてどうでもいい」と。「心が通じればいいんだ」と。

ご先祖さんなんかもね、「別に仏壇を祭るとか、そういうことがなくても、気持ちだと。気持ちが通じればいいんだよ」と。これ幽斎ですね。

だから「形よりも内面性だよ」という人がいるんですけども、それはある、もちろんそうなんですけれども、本当はその形に表れる。本当にそういう気持ちがあるんだったら、形に出てこなきゃうそだと。

形はしてる。「やあこれは、ありがとうございました」とか、もう「町内会でこれがあるから寄付しとこうか。

大体皆さんもやっているようだから、これぐらいしとこうか」と。「本当は別にありがたいとは思わないけども、お義理でね。檀家総代だんかそうだいになっているから、お寺の代表だから、お坊さんにはこれだけしとかなきゃ」と。

気持ちが入らないで、形だけはやっているんだけれども、内面性が全然伴わない。いずれもこれは間違いなんです。

本当の玉串とかっていう形はどうするかっていうと、自分自身の御魂にこういう形で貫き通している。御魂からこういうふうなものへ、まあ口から口というんでしょうか、そういうものをこう捧げるということは、形に託して真心を乗せていくと。

本当に心があるんだったら形に表れる。形に託して、何も見えないものより、物に表すことによって心を託すと。これが本当の玉串なんです。

ですから日本神道の場合に、祝詞では、「海川山野みかわやまの種々物くさぐさものを横山のごとくに置きたらわして・・・・・・」と。

海川、海のもの、まあ昆布でもいいですし、川魚、山ですと自然薯のお芋とか。野原ですと、大根。こういうふうな海川山野のいろんな種々のものを、「横山のごとくに置きたらわして大神に供え奉る……」なんていいまして、玉串をこう捧げまして、お祈りするんです。

例えば、貧しい人だったらどうかと。あんまりお金がない人だったらどうかといいますと、あのー、おジャコ一匹。川エビ一匹。

お大根、お山のクリ一個、お大根の葉っぱだけと。それでも、本当に神様を、貧しいは貧しいなりにあるんだったら、気持ちというものがあるんでしたら、そういう形に表れるんですよ。

本当に貧しくてお金はありません、これだけしかありませんけども、どう海川山野の種々もの、少ないですけれども、横山のごとく。山を横山のごとくこう積み上げると。そういう気持ちでするということなんですよ。

日本の、お祭りのときの祝詞ごとに、これ出ているんですね。そういうふうに、日本神道の場合には、心と形、形と心というものを不即不離としまして、一致したあり方というものを言ってるわけです。

ですから、そういうものを神様は受け取るんだと。

例えばそういう気持ちでやりますと、例えば、あのおジャコ一匹、お昆布が一切れ、お大根も葉っぱだけっていう形で、神様にさせて頂こうという気持ちは、まさに神霊界に行きますと、こんなに横山のごとく映って、神様は受け取られるんですよ。

これが、神社に行きましても、ご先祖様に供養するときでも、お坊さんにするときでも、目に見えない世界の人たちと相対する場合の一つの基本、鉄則なんです。

私なんかでも、あの、玉串を皆さんお出しになって、神様にそれを捧げまして、「今日はこうこうこれでございました」と。

ちゃんと形に則って、祝詞を言上申し上げて、「このように、百万倍も多くその分だけの真心を受け取りまして、皆さんに返っていって、返っていきますように」と。

「幸せでありますように」と言上するんですよ。そのときに、玉串がぱっと光ってる玉串と、真っ暗になってる玉串があるわけです。

「まあ、幾らできょう来た」という人。何人何人とこう、アット・ランダムに分けてみて、ぱあーっとその気持ちがそれに乗っているんですね、真心が、気が。

ぴかぴか光っているのと見てみましたら、金額の大小にかかわらず、それぞれの生活レベルに合わせまして精いっぱいやっているか、「まあここに来てみた」と。

「ふーん、なるほど」という形で、心が乗っていない玉串と、見たらすぐわかります。

私みたいな者でもわかるぐらいですから、神様はもっとお見通しです。同じやるんだったら、形に対してそういう気持ちでやらなければいけない。

多過ぎても少な過ぎてもよくないと。その人なりの形、形を表すということが、これの一つの鉄則なわけなんです。そうして受け取りましたら、神様はそれを受け取りました真心に合わせて、何十倍も何百倍も返してくださるというのが神様で。

やんないときには罰を与えるというのは、これは動物霊。稲荷とかタヌキとか、お祭りごとをするときにはいいんだけども、お祭りしなくなっちゃったら急にバチ当てて。まあS学会の人がいたらあれですけども、入ってるときにはどんどんよくなるのに、やめると必ず交通事故が起きるとか、バチを当てるわけですね。

神社の神様は当てませんよ。「来たら来たで恵んであげよう」と。来なかったら来なかったで、「どうぞそれでも幸せでありますように」と。決してバチなんか当てない。高級神霊というものはそうなんです。苦しいときに来るだけでもいいと。

そうじゃなくって、毎月毎月一日参りとかして、ああ産土さんのおかげ、神様のおかげで自分はできてるんだと、そういう感謝の気持ちで日々生きている人というのは、徳の積み重ねがありますから。

いつも「どうしてるか、どうしてるか」と神様は見てますから、天運、運というものがすごく強くなる。

さっきの「恩頼の御魂」、この「御魂の恩頼」が常に備わるんで、何か知らないけれども明るくって、仕事をしてても家庭生活、少々因縁が深くても、そういう気持ちの輝きによりまして、幸せになると。これが神参りというものの鉄則なんです。

お参りしないからバチを当てるっていうのは正しくありません。その組織を抜けると、後でこういうふうな災いがあるっていうのは、動物霊とか邪気が、まあ動物の、動物界にいるもののやることですね。

念はそのまま残る

まあこれが、この玉串というものは、そういうものなわけです。目に見えない世界だからこそ、形と、形に乗っける心。

ですから祈りというのは…、祈り祈りってのは、この念と祈りは違うんです。念写するとか、念力のパワーだとかね。いろいろ言いますけれども、「念」というのはこれ、「今」の「心」です。分解しますと。

今、今の心ですから、例えばその、断末魔、「うわっ、くそーっ」なんていう形で死んだ霊というのは、その、今のその念が残っている、断末魔。

「残念だ」というのは念が残っているんですね。ですから、例えばそういいますと、先祖代々「くそー、あいつに、土地をとられてしゃくに触る。くそーっ」と思って死んでいったら、その念だけが残ってる。念は念としてそういうふうなものを持ってるわけです。

例えばその、木にいたしましても、三百年から四百年ぐらいたった木は木霊ってのが宿ります。

一度、頭がもう悪くって手術した人を見ましたら、ご神木を切りまして、それからアキレス腱を切ったり手術したり、家々の人たちがみんなおかしくなっちゃって。行ってみたら木霊。

こういう、よくありますね。白雪姫が森の、森へ行ったときにね、殺されると。そういうときに狩人が殺しに行ったけども「あなた、女王陛下はああいうふうに言ってるけど逃げなさい」と。そういうときに、森の木たちは、ヘッヘッヘッヘッと笑ってたってありますね。

手がこうなったり足がこうなったりして。顔が出てますよね。ああいう感じですよ。杉の木とか、あるいはそのときの、いらしたときはガジュマルっていう木でしたけど、樫の次ぐらいにかたい木なんですよ。

二百年、三百年たちますと、木にも木霊というのが宿るんです。そういうふうに、自然界のものが、時を経ましてやると、命が宿るんですね。ですからタヌキでもヘビでも、長い間年をとったのは、持っているんです、生命力を。

まあそういうふうに、例えば念をぐーっと持った人間の念力というものはもっと、もっとはっきりしてますから。

今の心、長い間宿ってますと霊が宿りますが、人間にはもう、元々、もっと高級なのが宿っていますから、例えばそれが死にますと、それがずっと残ってる。その自らの心で縛してる、これを自縛霊っていうんですね。自ら縛す。自縛するんですね。

例えば自縛霊でも何種類もあります。土地因縁の地縛霊。屋敷因縁の地縛霊。例えばその家でぶわー、殺人、殺された人いましたけど、アメリカ人でここに来た人が。そこで殺人事件が何度もあって、そこへ来ただけで、連続その椅子にすわった人は三人、三名連続殺されて、死んでるんですね、交通事故か何かで。

その椅子にすわった人が。そこで殺されて「うーっ」、断末魔の「残念だ、うー怖い!」というまま死んじゃってますから。霊界というのは、その念の世界だからつながっている。それで、そういう家でなったのが屋敷因縁という。

例えばその、踏切がありますね、魔の踏切。あそこへ行くとどうもよくその踏切にやられると。死んだ人は、もうこれで身投げしようと、「おかしいな、死んだはずなのに、何で僕はここにいるんだろうな」と。

「何でいるんだろう」、肉体がなくなっても霊体があるから「おかしい、電車に飛び込んだはずなのに、何で僕はここにいるんだろう。あっ、そうだ。借金が苦しくて僕は死ななきゃいけなかった。自殺しに来たんだ。もう一回死のう」と思って、何度も何度もやるんですよ、それ。何百年もやるんですよ。

ですから何かこうね「ああ寂しいなあ。なかなか骨も入らなかったし、もっといい接骨医いないかなあ」(笑)って形で来た人が、電車を見てて「ああ、死のう。死のう。そうだ。死ななきゃならないんだ」って言って、ぱっと死んじゃうんですよ、魔の踏切。魔の踏切というのは、そういう形で、死んだ人というのが何度も何度も繰り返しているんです。

T、身投げの名所ですね。高い所から自殺。「ああ、彼に振られたから私はもう死んだって……。命をかけても惜しくないと思った彼に振られたんだから、死んでいいんだ」と。

「彼もきっと、涙のしずく流してくれればそれでいいんだわ」なんて言いながら、飛び降り自殺します。

「死んだはずなのに、何でここにいるんだろうな。そうだ。私は、自殺しなきゃいけない」と、何度も何度もやってんですよ、これ。

たまたま屋上に来て、夫婦げんかした人が、「もう仕方ないなあ。風でもあたろうかなあ」と思って見てたら「死のう。死ななきゃいけないんだ」と思って、はっと死んじゃうと。何回でも飛び降りして。こういうのを土地因縁の地縛霊。その土地についている地縛霊なんですね。

こういうふうな形で、念というものはそのまま残りますので、皆さんがあの ……とにかく念というものが続いている。土地因縁の地縛霊、屋敷因縁の地縛霊。そこに行きますとそういうふうになっちゃうわけですね。

念と祈りの違いとは

通常は、人は死にまして五十日間というものは、そこにうろうろうろうろしてるんですよ。「不思議だなあ。泣いてる」と。

「なぜ泣いているんだろう。おかしいな。あ、自分の肉体がそこにある。僕はいるのに。ちょっと。全然答えてくれない。ここにいるじゃないか、何やって……。

あれ、違うなあ。死んだのかな、おれは」なんて思いながら、五十日間はそこでうろうろうろうろしてる。棺桶を、皆持っていきますね。「あれ、僕ここにいるのに。もう一度生まれ、死んだんだったら生まれなきゃ」と思って、棺桶の中に入ってくるんですよ。

「さあ、起きるぞ」と起きてみても分離している。最後まで、その焼き場の中に行く人多いですよね。「うーん、死んじゃったのかあ。それからどうすればいいんだろう」なんて思いながら。

約五十日間はいるんですけど、五十日過ぎまして、そうしてくると幽界のほうへ行く。

約三十年間というものは、あの、一年祭とか三年祭、五年祭という形で例祭をするんですけども、三十年以上たちましたら、もう霊界のほうへ行く。

自分が来た、魂が霊魂が来たところへ行きまして、天国界なら天国界、地獄界だったら地獄界というところに決まっちゃうんです。

ですから三十年以上たったご先祖さんは、あんまりこういうお位牌を置いてちゃだめなんですよ。執念、執着、三十年間だけ……。

あのー、仏壇というものはそこに霊がかかることを、神様が許されているんです。だからそこへかかってもいいわけなんですよ。だからそのお位牌がないと、先祖が来ても苦しいから、何とかお位牌をっていう形で来るわけです。

お位牌というものは、霊界はそういう形で出張が許されている場所でして、お墓は別荘ですから、仏壇のほうが大事なんですよ。

三十年以上たちましたら、先祖代々の霊位という中に入りますので、それは、いつまでたっても、三十年以上たっても、あの、お位牌を置いてちゃだめなんです。三十年たったら、お寺さんに行ってお焚き上げしていただくか、燃やさないと、苦しいわけ。

こういう人がいまして、寿命が八十年ぐらいあったんですけども、六十歳ぐらいで亡くなりまして、それで、霊界に行きまして「おれはもう二十年あったのに、ちょっと、不養生で早死にしちゃって。二十年何とかプラスしなきゃ」というんで、その孫、お孫さんぐらいのところに生まれてきまして。

「何か、そのおじいさんとよく似た子が生まれたなあ」なんていう形の子がいるんですけど、そういうのは再生御魂っていうんですけども。二十歳ぐらいになりましたらもう「死ぬんだ」なんていう形で、病気で安らかに死んでいこうとする。

ところがお母さんは、「うちの一人息子が」、あるいはその「長男が死にかけている。何とか生きてほしい。生きてほしい」と。

「命があってほしい」と、いつもいつもお母さんが念じ続けて「ああ、この子だけは死なせたくない」。本人はもう寿命がきてるんですね、二十年で。だからもう、「ああ、お迎えが来た。お父さん、お母さん、いい、そこは楽しい世界だ」なんて、エジソンが死ぬときそうだったらしいんですけど。

行こうかなと思っても、重りがあって、泣いているんです、夜ね。「僕の足の裏に、足にこの鎖がかかっちゃってる」と。

「鉄条網みたいな鎖がかかっちゃってるから、行くに行けないんだ」って泣いてる。「はあー」なんて言いながら、この、朦朧とした中で。

「鎖が、足に鎖が」なんて言ってる。お母さんは「ああ、何とかこの人を……。とにかく長生きしてほしい」と、こういう感じですよ。お母さんの思いという念がね、鎖になっちゃってるんですよ。

「お母さん、もうこの人は寿命ですから。自分でもう行こうとしているからね、それ以上思っちゃいけませんよ」ということで、そのお母さんが「ああ、そうか。もう、じゃあこの子は寿命なんだな。もう忘れよう」と。

「かえってお母さんの思いが鎖になっていてこうですよ」と言いますと、お母さんが「じゃあ、あきらめよう」と思った瞬間に、ぱちんととれるんですよね。それで「あ、軽くなった。うん、お迎えが来たし、皆さんお世話になりました」って言いながら、すーっと死んでいく。そういうふうに寿命が来たら死んでいくもんなんですよね。

そういう形で、三十年間という思いが、人の念力というものがあれなんで、あんまり死んだ人のことをいつまでもいつまでも思い続けて、五十年でも六十年でも七十年でも祈り続けているというのは死んだ人がかわいそうなんですよ。いかに現実界の地位や名誉やお金や、そういうふうなもののことを忘れるかと。

忘れなければ霊界の人生というのはないわけなんです。そういうのが、四次元でさまよってまして、土地因縁とか屋敷因縁とか、地縛霊になっているわけなんですよ。四次元というのは全部念の世界。今の心が残っちゃってる。御魂の世界というのはもっとすばらしい世界ですけれど、今、皆さんには卑近な例でね、こういうふうにお話ししているんですけど。

まあそういう意味で、その念、念じるという、神様を念じるという形の念力というものは、その四次元的なものでございまして、もう少し魂の底から、本当に心の奥から「神様」と心の奥から祈るというものは、これを神道の言霊で言いますと、「意を乗せる」。

祈りというのは、自分の意を乗せる。「本当にありがたく存じます」という感謝の意か、「ほんとうに、あの、お願いいたします」と、慎んでお願いする意か。

その意を乗せるのが祈りなんですよね。だから祈りと念は違う。念の世界っていうのは、心の刻々の、もちろん心なんですけど、もっと奥深いところですね、祈りというのは。

ですから、この幽斎と顕斎のお話からちょっと余計なほうへ、ちょっと派生しましたけど、玉串ということによりまして神様に対する意を乗せていく。祝詞とか、言霊というもので乗せていく。

玉串に乗せていく。それを受け取られるわけです。ですから念の世界だけでやってたってこれ、神の世界には通じません。

形に乗っけまして、慎んだ真心というもので乗っけてなければ、御神霊にはだめなんで、「念じてるからいいんだ」っていうもんじゃないんですよね。

「本当に心の底からありがとうございました」という気持ち、「お願いいたします」と、「慎んでお願いいたします」という、威儀を正してやるという。そういうふうに表れなければ、本当の祭りとかあれにはならないわけです。