深見東州の土曜神業録15(Vol.3)

霊界を知らないで死ぬと損をする

えー、四次元のことを、いろいろありますけれども、特に、四次元界のこともう少しこれ、お話ししなければならないと思うんですけども。皆さんが一番知りたいとこだと思うんですけどね。

それで何で、人間は、こう生まれてきたのかと。えー、只今只今の生活、もちろんあるんですけど、とにかく一生懸命生きるしかないと。一生懸命生きるしかないということは、どなた様も考えますし、パスカルもそういうふうに言っておりますし、只今をいかに精いっぱい生きていくかと。

西洋哲学でもそういうふうに、現実、今しかないんだと、時間、空間ね。現在しか生きている時間は、存在はないんだというようなことを言うんですけれども。

そういう哲学的なもので、「とにかく一生懸命生きていこう。精いっぱい生きていこう。あんまり過去のこと思っても発展性がない。将来のことを思ってもあれだから、生きていこう」という、只今に生きるのとですよ、「人間はどうして生まれてきたんだ」と。

死んでからどういうふうになるのかという死後の生活、死後の設計、こういうことが十二分にわかりまして、何のために自分は生まれてきたんだろうかと天命を知って、そうして只今を一生懸命生きていこうと。

同じ、只今を一生懸命生きていこう、今日を精いっぱい生きていこうというふうなものでもですね、意味が違うんですね、内容が。

例えばゼロ歳から見まして、「僕の前に道はない僕の後ろに道は出来る」なんていう、高村光太郎のね、「道程どうてい」という。とにかく彼のような人生。私の前にはない未知の空間をずうっと行くんだと。その後に道ができるんだという。

そういう面ももちろんございますけれども、先はわかんないけれども、とにかく今日を生きていこうという生き方は不安です。

例えば、死後の世界というものが、なかった場合。なかった場合はいいんですよ。なかった場合はもう、それで終わりですから。何も思わないし苦しくない。もし死後の世界を信じないで、あった場合は困るんですね。

「死後の世界はあると信じたほうが得か、ないと信じたほうが得か」ということを私も考えてみました(笑)。もしなかったら、別にいいじゃないかと。

全然、自分自身の存在はないんだから、心配することも苦しむこともないわけです、これね。あった場合が困りますね。それはどういう世界なのか、どういうふうに生きていけばいいのか、全然わからないまま行くでしょう。そのとき迷いますよ。

どうしていいのかわかんないですよ。日本国憲法に基づいて、日本人としての国民、基本的な生活、納税の義務とかそういうのは、別に教育、学校ないですから。

どんな人も、いいことをする人も悪い人も、断末魔の人もね、踏切でこういうふうになった人も、一応いらっしゃいっていう形で、霊界幼稚園なんていう形で、死後の世界の憲法についてなんて教えてくれればいいですけどね、ないんですよ。怖いですよ。

そういう人いるんです、霊界で。「もう死後の世界はないんだ、ないんだ」と思って信じて、「もう絶対なくなるんだ」と。「もうこれで俺も終わりで、なくなるんだ」と思って、死ぬんですよね。

ずっと暗いところで寝てるんですよ。もう死んだんだと思ってるんですよ。二年か三年ぐらいわかんない人もいるんですよね。しかし三年ぐらいたったら「死んでんだ。おれは死んだんだ、死んだんだ」と思うんだけど、「しかし生きてるな」と。

「死んだはずなのに……。いや、死後の世界はないんだ。だからおれはなくなっているはずなんだ」と思いながらね、いるんです。だから死んで一年ぐらい、死後の世界というのがわかんない人もいるんです。

ところが三年ぐらいしたら、どういうふうにしていいかわかんないから、真っ暗なところで悩んでるんですよね。そういう人は子孫に憑いて、どうやったらいいんだということで憑く。これが「先祖の戒告」。

あるいは、霊界というのは法則がぴっちりしていますから、今言った仏壇のことでも、三十年以上たって苦しかったら、何とか子孫に知らせよう、知らせようとして、これを「先祖の戒告」と言うんですよ。植松先生が時々「先祖の「戒告、戒告」とおっしゃいますけどね。

ご先祖さんが戒めて告げている。大体ぜんそくなんてのは、先祖の戒告多いです。先祖の戒告で夫婦がよくないとか。

家々がもめているとか。ご先祖さんが、仏壇が正しくないとか、あるいは祭られてないとか、断末魔でこうなっちゃったままだとか、あるいは死後の世界はないと信じて行ったのに、実はあったと。

どうしたらいいんだという形で、一生懸命わらをもすがるおつもりで、人に取り憑くんです。そういうのが先祖の戒告。ご先祖さんが子孫に知らせているわけです。

だからどこの病院に行っても治んないとか、どこの病院に行ってもわかんないとか、治療はしてるんだけども今いちさえないと。

骨は入れて、しばらくはよかったんだけども、またどっか違うところが悪くなるとか。いますよね。その箇所は治るんだけど、ほかがまた悪くなったと。

「体質改善しかありませんね」って言うんですけども、ビタミン飲んでもミネラル飲んでも、しばらくはいいんだけどまた別のところへ、今度事故するとか。そういうものが続いていきますので、大体先祖の戒告。病気を聞けばすぐわかりますけど。

そのように霊界は、霊界のことがわかんないで死にますと、非常に損なわけです。

霊界は意思想の世界

霊界といいますのは、例えば死にますね。霊界は、生きていたときのありさまですと、死んだら死んだときの境地、意思想念の世界ですから、心の世界ですから。

例えば、四次元は、時間空間を超越してます。一次元は線、二次元は面、三次元はこの世界ですけど、四次元は時間、空間を超越しているっていいます。

どういう意味かといいますと、例えば、四次元というのは心の世界だと先ほど申し上げました。

例えば目をつぶる。「十年前に行ったアメリカ、よかったなあ、自由の女神は……」自由の女神が、思い出しますね、心の中で。そうすると、十年前というときは超越してますね、心の世界、イメージの中で。アメリカと日本という国土の距離的ギャップは超えてます。

例えば、「ああ、十年前の昔懐かしいあの田舎よ」と。西谷さんはそれで「あのころへ帰りたい」という歌をつくったんですけど。その西谷さんの作曲するイメージの世界、心の世界には、子供のころの自分がいます。

時間が超越しています。鳥取の田舎のことを、時間、空間、超越。同じです。アメリカもヨーロッパも、鳥取も東京もありません。ゆえに時間、空間を超越しているっていうことが言えるわけです。例えばそういう世界です。

夢の世界っていうのは四次元の入口ですから。顕在意識が薄くなってそういう世界に入っていく。ですから、交信するのに、非常にまあ、接点として交信しやすいわけですよ。四次元というのは意思想念の世界ですから、時間、空間を超越しているというのはそういう意味なんです。

植松先生が、大分前に、あの、霊界修業を十年以上なさったときに出てきた霊はですね、平家の。

これもよくお話に出ると思うんですけど、落ち武者でして。こちらの方からあちらの方へ、源氏が追いかけてくるからっていうんで、一生懸命「あ、蛍みたいにぴかぴかやってくるな」というんで、平家は逃げるわけですよ、カニみたいな顔してこうやって。

そして、負傷しながら、負傷しながら川を渡っていこうとするんですけど、途中で息を絶えまして死んじゃったんだけども、途中で死んだということがわかんないんで、七百年間泳ぎ続けてるんですよ。時間、空間超越いたしまして。念ですから。そのときの心のまま、七百年間、一生懸命。

霊が出てきまして「あなた」って言うと「何ですか。私はあっちへ泳がなきゃいけない」って、七百年間やってるんですよ。死んだということがわかんなくって、その思いだけがその後残ってるんですね。そういうもんなんです。

その、四次元の話してますと、T・Nさんですか、あの本を見たらぞっとしますけどね。四次元のことばかり、書いたり見たりしますから、想念が四次元の世界。後で神様の話に戻ると、ここの雰囲気がぱっと明るくなりますから。まあ、見ててください。

霊界と現実界は表裏の関係

とにかくそういうことで、えー、そういうふうに霊界というもの、死後の世界というものがないと思っている人は、後ほんとうに苦しみます。

ですから、生きている間だったら、そのことが自覚できますから「あっ、そうだ。死後の世界はこうだったからこうしなきゃ」と自覚できますから、自分でちゃんと生きる。死んでしまいますと、悟った境地で、そのまんまでストップしてるんです。

生きているということはどういうことかっていいますと、真心を尽くしまして、明るい心で生きておりましたら、意思想念の世界ですから、明るい心といいますと、何でもいいほうへ考える。

それから、世のため人のためにやっている。温かみを感じる。「あの人は温かいなあ」という人、いるでしょう。温かい世界にいるんですよね、心が。そして感謝してたら、「何かあの人は輝いて、いつもほのぼのとしている」と。ほのぼのとしているということは、温かい感じがするということは、やはり温かいところなんですよ。

そういう人は、死にましたら温かい世界へ行くんです。

自分のことしか考えない人、「何かあの人冷たいわ」と。「何か暗い、根暗だわ」と。「何かものすごく、この、氷のような冷たい人ですわ」。

利己主義、エゴイズムですね。自分のことしか考えない人、それから物事、陰険な人。陰険で自分のことしか考えない、暗い、不平ばっかり言っている人。これ、暗いですよね。暗い世界に行くんですよ、地獄です。

例えば、だから憑いている霊なんかに、私はよく救霊で、歌で、言霊でさっきもやってましたけれど、温かい空気、空気と同じですよ。温かい空気は、上へ行きます。

冷たい空気は下へ行くでしょう。どちらかというと、冷たいところは暗いですね。あんまり、明るいところで冷たいというところは、あんまりありません。

クーラーのきいたサンシャインシティは別ですけれども(笑)。ほとんどが、暗いところというのは、冷たくって寒いですよね。地獄界というものは、生きているときのそういう心が、心ですから四次元は。人が行くんです、基本は。

もともと、地獄界とか天国界ってのはなかったんです。神様の世界と心の波動そのものだったんですけど、仏教が入ってまいりまして。

あるいは人間の知恵とか念、念というものが、素直な心じゃなくて、いろいろこう念、ああでもないこうでもない、知識が出てきまして、念の世界が発達してきますと、こうなんです。

心が温かく、温かい心は感謝を忘れない。温かみのある、愛情と真心がある。これがもう鉄則です。温かいでしょう。何か思いやりがあって温かい、ほのぼのとしている。

そういう人は、死後、そういう世界へ行くんです。自分主体で、氷のような冷たい人、クールな人。

そういう人は死んでから地獄に行きます。自ら作ってるんです。天国、地獄というものは、あって落とされるとか、上るんじゃないんですよね。自分で落ちるか、自分で行くかなんですよ、自然に。これが一つの法則です。

で、生きているときは、ですから只今只今一歩を踏み出す真心で行けば神のほうへ行きますし、天国のほうへ行きますけど、一歩踏み出す足が、われ良しで、自己中心的で、不平不満が多くって陰険だったら、一歩一歩と地獄のほうへ行っているという。

生きているってことは、只今只今はあるんですけども、哲学的に只今だけじゃなくって、今申し上げたように、そういうことがわかって生きる只今只今。

死後の準備ができているから、只今の生き方というものがすばらしいわけです。死んでよかったと。死んでから「ああ、あの時、死後の生活設計ができてよかった」と。

私なんかは再生転生考えまして、人生二万年計画というのを立てております(笑)。生き変わり死に変わりしていったら、少しは立派な人間になるんじゃないかと。

レオナルド・ダ・ヴィンチみたいな人間になるのには、まあ百年や二百年、百回二百回じゃない、二万年ぐらいかかって再生転生すると、こうできるんじゃないかと。ゆえに、人生二万年計画って私は言うんですけども。

それ、死んで終わりじゃありませんから。もう、だから七十歳で、「もうそろそろ歳だからね。もう隠居しよう」、そんなことありませんよ。ゼロから出発すれば七十八十は終局点ですけれども、霊界に・・・・・・。

ですから、あの「生前」と言うでしょう、「生前、西谷さんは」なんて言います、言うでしょう。生前というのは生まれる前と書きますよね。死んでいるのになぜ生前と言うかと。整然としない(笑)。

これは、その死後の世界へ誕生ということですからこうなっているわけですよ。「生前彼は」というのは、どこへ……。おかしいでしょう。

ほんとうは死前というふうにね「死前、彼は」って(笑)。「死ぬ前彼は」って言えばいいんですけれども、「生前の、故人の功徳を祈りたたえまして、只今から弔辞を読ませていただきます」なんて言うでしょう。生まれるんですよね、霊界に。

そして、大体その皆さんあの、守護霊さんお出しした人いますけど、守護霊さんは、大体そういう形で徳の高い、暖かい空気のような感謝と心を持って、ある程度、三十年たちましたら、言いましたように決まった霊界に行きまして、そこでも人間生活と同じ生活してるんです。

肉体がないですから、神経というものがぴりぴりしています。暖かさったっって何百倍も暖かく感じます。喜びったって何百倍の喜びです。

そのかわり地獄行きましたら、冷たさ寒さは、肉体の防御がありませんから、強烈に冷たく、強烈に寒く、焦熱地獄っていうと強烈に暑くって、針なんかでぶすっと刺されたら、強烈に痛いですよね。

肉体の防御がありませんから。神経がびりびりきますから、ものすごい苦しみです。地獄の苦しみというのは、生きている間じゃわかんないぐらいの苦しみです。

しかしこの、四次元というものはすべて、今申し上げましたように、アメリカにしましても、島根県にしましても、現実界というものに基づきました心です。

心というものは五感です。見たり聞いたり嗅いだり食べたり、五感です。人間の五感に基づきまして、この心というものは出てきますから、必ず四次元というものは、三次元の現実界の表裏なんです。裏なんですね。人間の心ってのは肉体に基づきまして出てきます。

神様の世界は五次元です。全く違った世界があるわけです。それは神様の世界です。一たん人と生まれてきた以上、三次元の基づきました心、想念の世界と。

ですから、ゆえに三次元、四次元というものは、三次元に基づきました表裏なんですよということです。これ、皆さんよくご理解いただきたいんですよ。

守護霊様は何を喜びとしているのか

まあそうして、生前、そういう形で、温かい心で、現実界に生きていたときに徳を積みまして、逝ったご先祖さんが三十年以上たちまして、霊界で修業をしまして、大体七百年ぐらい普通、徳を磨きまして、自由に子孫に憑いていいと。

普通、人間に憑きますと、一日憑いたら十年ぐらい罰せられまして、霊界修業が長くなるんです。それを知らない霊が憑いてます。言って、言いますと途端に驚いて逃げちゃいますけども。

そういう形で、そういう人が守護霊さんというお役をいただきまして、その人に生まれながらついてる。まあ、その守護霊さんを命じておりますのは、産土の神様と、それから守護神様です。神様がその人を守りまして、守護霊様が、ご先祖の代表でその人につく。

守護霊様のお役割は、その人の幸せだけを祈ってる。寝てるときも、ご飯食べてるときも、お風呂入ってるときもずーっと守って、その人の幸せだけを祈ってる。

ですから先ほど申しましたように、温かい心のもう頂点です。自分のことよりももう、その子孫のことだけ守るために、朝から晩まで、時間給いくらとかボーナスがいくらだとか、年金がどうのこうのなんて言いません。

神様が「よしよし。お前よくやったな」と。「よく守ったな」という神様からいただく名誉と、まあ、名誉というよりも栄誉です。守護霊様の喜びというのはそれなんですよ。神様からいただく栄誉、神様からいただく愛と歓喜なんです。

守護霊さんにとって何のメリットがあるのかと、守護してて。それは神様からいただく愛と歓喜なんです。「おお、よしよし」と神様から愛されるんです。神様の心と同じきことをして、「守護霊としてよく守りましたね」と。だから守護霊さんも神様から愛されるから、恩頼の御魂を受けるんです、このとき。

さっきも言いましたように、恩頼。神様から恩頼の御魂を受けて、御魂がぴかぴかーっと光りまして、また向上するんですね、霊格が。今度は「よし」という形で、神様から愛を受けますから、喜びが起きてくる、歓喜が。これがご褒美なんです。守護霊さんの。

これを説いてるところってあんまりないです。守護霊がいるとかっていうことで本に出てますけど、守護霊さん何の喜びでやってるのかと。何を生きがいにやってるのかと。親切して、「いやあ、いいですよ」と。相手が喜んでくれればいいと。無償ですよ。

これはあたかも天照大御神様がそうです。太陽、太陽はそうですよ。譬えていうならばこういうお話あります。

富士山の上から下まで、富士山の高さだけ積み上げたバイブルが、バイブルを富士山の高さまで積み上げて、人類に貢献する功徳と、太陽の一分間のエネルギーと、どちらが人類に貢献しているかと。こういう話があります。

問題なく、太陽が貢献しております。しかし太陽は、一分間照ったから、あの「エネルギー代出せ」と。「毎日毎日、お前たち照らしてて、植物も作ってるからね、ソーラー電卓だなんて電卓やってるその、太陽電池代だけ払え」と、太陽言いませんよ。

「太陽、ありがとうございます」と感謝しても、「このくそ暑い太陽め」と、「お前さえいなければ今日は涼しくいけるんだけど、蒸し暑い。またこの家にナショナルのクーラーを買わないと過ごせない。

この夏の暑い、この夏の太陽がなければ、どんなにか電気代が助かるのに」と思って、太陽のことを恨んでても、太陽は「恨むんだったらお前になんか照らないぞ」なんて言うことはありません。さんさんと照ってます。与えるのみです。

太陽にいらっしゃる天照大御神様は、愛そのものなんです。そういうものなんですよ。

だから、守護霊さんも向上していくということは、先ほど申し上げましたように、只今生きているとき、真心があって温かくて、感謝して生きている。自分のことなんか全然考えないで、人に功徳を与える人というものは、高い霊界に行きます。

そういうものが極まった人が、守護霊さんというお役をいただくわけです。

そして、ずっと子孫を守っている。守護霊さんを感謝してもしなくっても、守護霊は守ってるんですよ。これが高級なんです。高級な霊だから守護霊、そういうことができるわけです。

「感謝しなかったらおれはやんないぞ」と。そういう親切は本当じゃありません。「感謝すればするけど、しなかったらやってやんない」っていうのは、自分の満足ですね。

ほんとうの親切とか愛情というものは、無償のものです。相手からそういう答えがなくってもするのが親切なんです。

目に見えない霊界におきましては、全くこの法則が貫き通されまして、その極まったのが守護霊さんとか、高級神霊、神々様というのは全部そうです。

仏様もそうです。不動明王さんであろうと文殊菩薩であろうと、少なくとも仏様になりましたら、みんなそういう行動原理のもとに動いてるわけです。