人生の本義を知って只今を生きる
人間がそういう姿であればあるほど、人間がそういう行いをすればするほど、神様や仏様の意思に合う、心に合う、法則に合うから守護されるんです。
これを菅原道真公は、「心だに誠の道にかないなば祈らずとても神や守らん」と。「心だに誠の道にかないなば祈らずとても神や守らん」と。誠の道とは何かと。
そういう道ですね。神様がなさっているように、仏様がなさっているように、高級なご守護霊様がなさっているようにしていく。
これは、神霊界のありさまを知って只今を生きている人と、全然わかんなくってただ一生懸命生きているっていう生き方。全然そこの行動原理が違うわけですね。人生観が違うわけ。
人生の本義ということを知って生きている人と、「ただ一生懸命生きていけばいいんだ」と。「僕の人生はそれによって開かれるんだ」というふうな、どこかの青春ドラマにあるような人生観で生きている人と全然違います。全く違います。
これを認識していただきたいんです。そういうふうに、只今只今を生きている人。だから天国というものは上りやすいですね、そういうことがわかってたら。
非常に地獄というものは落ちにくいもんだと。普通、天国は上りにくいと思いますけどね。法則を知らないからなんです。それさえわかっていたら、落ちようと思ってもなかなか落ちないですよ、地獄なんて。ほんと。それを知っていた人はね。
で、死後、死んだ人は、死んだところのランクでそれで終わっていますけど、生きているからこそできるわけ。
だから、只今只今生きているということは、天国にも上がれるし、地獄にも落ちる。善悪正邪の分水嶺を、只今只今生きてるわけです。
そのために生まれてきてるんですよ。人間は。何のために生まれてるかっていいますと一つは、神様の御魂の、まあちょっと今日は四次元的に説いてますけども、もっと御魂のあれから、御魂を持ちまして生まれてきているんですけども。
聖書では「狭き門より入れ」と。「滅びに至る門は広く、そこに通じる道は大きい。そこから入る者多し。命への門は狭く、そこに通じる道は細い」と。
心を尽くして狭き門より入れっていうことが、バイブルにありますけども、命に至る道は細いと。
永遠の生命というのは細い、だから努力してやりなさいよということは、そういうふうに、永遠に栄えていくような道を、神様が与えられました長所、神様が与えられました才能、これを発揮して、みずからを向上していく。
今言ったように、刻々に徳を積みまして、一つは御魂の修業で生まれてきているわけ。
何で生まれてくるかと。刻々に善悪正邪の分水嶺の只今只今を生きまして、徳を積むか、悪を積むかによって決まるんですけども、今度はまたその徳、徳分という面から、もう一度人生とかそういうお話しするときがあると思うんですけど、今はこれに絞りますけども。そういう形でもらった才能を磨いていって、向上していくと。
向上はしていくんですけども、こういう気持ちで、内面的なものを持って向上していく。
死後の世界を通じて、また来世生まれ変わってくる。八十歳、九十歳で人生は終わるように見えるんだけど、ゼロから見たら終わりだけども、また霊界への出発だし、その来世への、準備でやっているんだと。
魂の財産になるものとは
ここで申し上げますけれども、来世に持っていけるもの、霊界に持っていけるもの、魂の財産として持っていけるものに何があるかと。
地位は持っていけません。名誉は持っていけませんね、尺度が違うから。お金は持っていけません。田地田畑持っていけません。駐車場も持っていけません。お金は持っていけません。
親も子供も、恋人も持っていけません。たった一人で行かなきゃならないのが霊界です。それぞれの内面性が全部違うわけですから。地位や名誉やお金や親兄弟、全然持っていけませんよ。何が持っていけるか。
神様は申されました。それは三つあるよと。植松先生にですけど。
まず持っていけますのは、信仰心です。生まれながらに、「この子は変わった子だね」。親が言ってたら、すぐに仏壇の前で南無阿弥陀仏と手を合わすと。(逆に)神棚見たら踏んづけたくなると。
神様のお話ししたら全然興味ないと。
ちょっとお話ししたら「私そういうの、何でか知らないけど好きなんで。小さいころから興味があって、いつもこうやって守護神様にお願いしてた」とか、「お参りしていた」とか、何かそういうのが好きだと。生まれながら信心深い人と、全然興味なくってお金がほしいとか、楽に遊びたいとかっていう人います。
これ信仰心というものは、内面性に深く残っているもんです。心とそのもっと内部に残っているもんです。
心の世界からもっと奥に入ってます。だから魂、御魂に残ってますから、死んだときでもそれは残ってますから、霊界に行きましても、それはやってるわけです。
同じく霊界でも、そういうエンゼルなんかが来まして、エンゼルたって、キリスト教的なもんだけじゃないですけども、立派な坊さんなんかが来て、仏教は仏教集団というところをつくってます。
T教の人は、あれどういうわけかT教って顔してますね。K教の人はK教って顔をしてますね。言いたくないんですけど、 S学会の人はS学会って顔してます。R会さん、R会って顔。同じような顔してます。
霊層界が似ているからです。死にましても、そういう意思想念の世界ですから、死んでからR会の中に行って、また聞いてるわけですね。
T教というグループが、幾つも幾つもグループが、同じような境地、同じようなランクの者だけですよ。T教でもピンからキリまでありますし、クリスチャンでもピンからキリまでありますから。
T教にいたら行くというものじゃありませんけれど、その中でも比較的近い想念の人は、T教団をつくってそこでやってるんです、同じようなことを。同じレベルの合った者同士で。
その信仰心というものは、死んで持っていける。霊界でも持っていけますし、生まれ変わってきても、素質として残っている。
信仰心というものは生まれながらに素質です、これは。前世に修業を積んだ人というものは、必ず今世もどっか、吉田松蔭先生が言うように「かくすればかくなるものと知りながら已むに已まれぬ大和魂」という歌がございますが、こうしたらこうなるということはわかっているんだけど、已むに已まれぬ気持ちがあると。
この已むに已まれぬ気持ちが大和魂なんだと。この已むに已まれぬものの中に、信仰心ってのはあります。
それから、もう一つは芸術です。生まれながらに絵の才能がある。ちょっちょっちょっと描いても、すごく色彩感覚がいい・・・・・・(逆に)幾らやっても描けない人。
音楽、ちょっと聞いたら、すぐにぱっぱっぱっとメロディーなんか浮かんで作曲できますけど、作曲できる人ってのは、よほど前世に芸術的天性、磨いてますね。よかったですね。七澤さんも、西谷さんも、皆さん。
というのは、幾らやってもこの子は、演奏もまあまああれだけど、作曲できない。そういう才能ないと。メロディーがひらひら出てくる人もいたり、いくらやっても出てこない人います。
ぱっと聞けば歌える、美空ひばり、何分間か練習したらすぐ歌える。何回レッスンしてもこの半音ずれると、高い。まあ、親の性質もあるけども音感がよくないと。ちょっと聞いたらすぐに歌える人いますね。
これは音楽的才能、美的才能というものは、生まれながらのものです、これは。前世に我々が磨いたもの。
これは、霊界にも持っていけます。画家は画家で絵を描いてるんですよ、霊界に行ったら、それなりに。女たらしの画家はだめですよ。そういうところに行けませんけども。地獄の絵なんか描いてますけどね。
とにかく、芸術的な天性というものは、死後持っていけますし、来世まで持ち越されて、永遠に魂の奥に入ってる。これは、生まれながらのその人の財産です。美的感覚、音感。これは絶対になくなりません。魂に入ってます、御魂に。
今度、学問です、三番目は。生まれながらに頭がいい子、生まれながらに記憶力がいい子。一を聞けば十を知る。何か知らないけど、本を読んだらすぐ覚えちゃう。(一方の子は)いくら言っても勉強しない。勉強しても頭に残んない。
自分から追求して・・・・・・これは形だけの学問じゃありません。学問は学びて問うですから、何かもっと工夫しよう、もっといい方法はないかと常に工夫を忘れない。
一生懸命努力して学んでいこうと。謙虚にみずからを振り返っていこう。
まあ、信仰心ともつながっていますけども、生まれながらに、学問的な素養があって、一生懸命、放っておいても勉強するけども、一方の人は)幾らやっても駄目だと。同じ兄弟で、同じように育てても、こういうふうな素質がある人とない人いますね。
学問というものは、やっぱり内面的なものを深く追求して、勉強していく、心の底からすばらしいものを学んでいこうという気持ちですから。勉強しようと。勉強したことがうれしいという心ですから、これ素質ですね。
これは、霊界行きましても本ばかり読んでる人います。朝から晩まで本ばかり読んでいます。吉行淳之介なんかわかりませんけどね。どういう、本の種類によりますけどね。何を勉強しているかと。本が学問とは限りません。
少なくとも、真理に目覚めて勉強していこうという、これは霊界にも来世にも持っていけます。この三つが、死んで持っていけるものだということを、神様が植松先生に教えて、明快に言われております。
ですから、八十年で終わりじゃないと。私の場合は二万年計画ですけども、霊界の入口でありますし、死へ近づけば近づくほど霊界の誕生に近いですから、それ済んだらまた、生まれてきますから。
生まれ変わり死に変わりしても、変わらないやつをまず磨いておかないと損ですね、損得勘定から言いまして。だから、どんな仕事をするのでも、学問的に磨くつもりの仕事があると。芸術的な素質を訓練しながらやる仕事がある。
信仰的な自分を磨くことによってこれができるんだと。学ばせてもらうんだと。真心を表現するのが仕事だと。
そういう職業感覚を持って信仰力を磨きながら、芸術的な天性を磨きながら、学問的な要素を磨きながらする仕事は、仕事によった富とか名誉とかなくなりましても、この素質は残っていますから、死後の世界でもそれはぴかぴか光ってる。
ただ、芸術でお金をもうけた。生活が安定した。奥さんとこうだった。土地が買えましたと。
そういう物質的な喜びでありますと、死後持っていけませんから暗い心で陰険な心で、われ良しの計算高くしたもので、財産つくった芸術家だと言いますけど、死にましたら、真っ暗なところ行っています。キャンバス描こうと思っても真っ暗で、明かり不足で絵もかけないと。そうですよ。
努力せずに死ぬとどうなるか
そう、先ほど申しましたこの心、只今の心、心で、こういう要素を磨いていきながら、八十歳でも九十歳でも死ぬ一日前、一秒前まで学び続けている人というのが、すばらしい人生を得たねということで、最高のいい霊界に行きます。
これをやらなかった人はどうなるかと。能力があるのに、全然やらなかった人は、霊界でこういうふうになります。
「怠けの罪」(板書)と。
先ほども申し上げましたように、生まれてきた本義は、魂を磨きながら立派に向上しながら、社会に貢献する、徳を積んでいく。徳を積むという功侯。
まああの、中級講座で土曜日に言いましたけれども、もっと平たく言いますと怠けの罪。磨かれて天性があったのに、磨かないで死んでしまいました。死ぬ一
歩前まで本来は努力することによって、こういうものを磨いていくのが本来の生き方だし、天命なんですけども、そうじゃなくってお金とか名誉のためにやるということは、とにかく地獄界、真っ暗な世界に行きます。
それから、それをやってたんだけど、もう隠居だからということで、何にもしないでぶらぶらぶらぶらしてますと、怠けの罪ということで、霊界で非常に苦しみます。
どういうことをされるかといいますと、怠けの罪に問われますと、本当はもっとすばらしくできたのに、怠けの罪で全然磨かなかったと。前世すばらしい修業をしたのに、今世冴えなかったと。
みずからの潜在意識も知っておりますし、神様もご存じですから、何するかといいますと、特に朝から晩まで職業もなく、ぶらぶらぶらぶらしていた人は朝から晩まで酒ばっかり飲んでね、嫁さんとけんかして何年もしてた人は怠けの罪ということで、霊界に入りますと、いろんなパターンがあるんです。
ひき臼の罪というんでね、朝から晩までこう臼をひいているんですよ、ゴロゴロゴロゴロ(笑)。何時間でもやってるんですよ。大体百年間でも二百年。霊界修業といいますと三百年ぐらい、朝から晩まで臼ひいてんですよ、こうやってガラガラガラガラガラガラ。
それから、一生懸命石を積み重ねて「おい、石積め」。これはあの、煉獄ということで、あの、キリスト教のあれにも書かれてますね、ダンテの『神曲』で。
ヨーロッパの。「石を積め」って形で石を積むんですよ。
一生懸命汗水たらして。「積んだか。よし」、がらがらがらんと落とされる。それで、「むなしい」という形でまた積むんですよ、一生懸命。
「積んだか。よし」、がらがらがら。あるいは坂の下から坂の上に、重いのをこうやって一生懸命に、ぐっぐっぐっぐっ汗水たらして、生前怠けの罪だったということで、一生懸命汗を流して坂上りましてね、こうやって一生懸命石を上げて「ようやくやったなあ」と。「ご苦労だった」、ガラガラガラガラと落とされていく。「頑張ろうな」という形で。
単純作業です。つらいですね。これとは逆に、芸術的なものをしてた人は、一生懸命努力した人は、さらに絵を描いたりして「ああ、いい絵ができた」なんて満足感ありますよ。
洋服もきれいなのもらいまして、ベレー帽なんかももらっちゃったりするんですけども、(地獄の人には)ないんですよ、裸で。裸で、また、岩の上こう乗っけてって。
これを一言でいいますと、霊界は現実界の、譬えて言うならば、牢屋です。刑務所。「お前は何々してたから、怠けの罪で、懲役三十年」といって、何するかっていうと、重労働。
それからこういうふうな裁縫をする。労働させられますね、刑務所で。どこも出られないで、「おい、食事」って形で、普段は暗ーいところでこうなってる。全くその通り、そのまんまです。
まあ、いろいろさまざま、もっと霊界には千変万化で、もっといろんな種類がありますけど。何種類も地獄がありまして、まあ、お話しすればきりがないんですけど、なるべくもう少しいい話したいんで。
